秩父 秩父往還を辿る ; 粥新田峠越え

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粥新田峠を越え、秩父往還・川越道を秩父観音霊場一番札所に

秩父観音霊場34札所もすべて歩き終えた。最後の締め、というわけでもないのだが、秩父往還・川越道を歩き、一番札所に至る道筋を辿ろうと思った。江戸の人達が、どういう道筋、峠道を通り観音霊場を訪れるのか、実際に体験してみたい、と思ったわけだ。
 秩父往還には大きく分けて3つのルートがある。ひとつは吾野道。飯能から吾野、そして芦ヶ久保へと続く、現在の正丸峠を通る道。次いで、熊谷道。荒川が秩父盆地を離れ、武蔵の平野に入る辺りの寄居から、釜伏峠を経て秩父に入る道。
そして、今回歩いた川越道。小川町から山間の道を進み、粥新田峠を越えて秩父に入る。 川越道は江戸時代に最も多くの人が往還した道、と言う。また、この道がポピュラーになったため、川越道を下った栃谷の四萬部寺が一番札所となった、とか。それ以前は何番札所だったか忘れたが、江戸からはるばる歩いてきてくれたお客様に、どうせのことなら、一番札所から秩父観音霊場巡りを始めてもらおう、といった心配りであろう。江戸の人達と同じ風景を眺めながら、秩父観音霊場・一番札所へと歩を進めることにする。 
 



本日のルート;東武東上線小川町>橋場バス停>粥新田峠>秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場>榛名神社>秩父往還・釜伏道に合流>曽根坂一里塚の阿弥陀塔>秩父観音霊場1番札所・四萬部寺


東武東上線小川町
東武東上線小川町に。駅前から白石車庫行・イーグルバスに乗る。川越に本社をもつこのバス会社は、もともとは企業や学校の送迎とか観光バスを中心に事業をおこなっていたが、路線バス事業に乗り出した、ということらしい。1時間に1本のサービス。電車が到着したのは、発車10分程度前。乗り遅れたら大変、ということで、街を見物することもなくバスに飛び乗る。 小川町をバスは進む。古い家並みがところどころに見え隠れする。県道11号線を進む。この県道は熊谷市から小川町をへて、定峰峠方面へと登る。峠からは栃谷の四萬部寺近くに下り秩父市に至る、およそ48キロの道。

橋場バス停
バスは進む。下古寺というか腰越地区のあたりで槻川が接近。この川は武蔵嵐山で嵐山渓谷に流れ込んでいた川筋である。山間の道を北西に進み、東秩父村役場を越え、落合橋で大内沢川を渡ると県道は南に下る。落合橋から1キロ弱進むと橋場バス停。峠道に最短のバス停はここであろう、と当たりをつけて下車。






峠道を進み栗和田集落に

バス停から西に上る車道がある。これが峠へと続く道であろう。峠道を進む。もっとも、峠道とはいっても完全舗装。車の往来も多い。走り屋には有難い道の、よう。しばらく進むと道脇にハイキング道の案内。これが旧道。車道を離れ森の中を進む。 杉林の山道を上る。林を抜け景色が開ける。大霧山であろうか、奥秩父というか外秩父というのか、ともあれ秩父の山並みが眼前に開ける。山並みを楽しみながらブッシュを進むと車道に出る。このあたりは栗和田集落。ハイキング道はおよそ500m程度であった。ワインディングロードを避けた直登ルートといったものであろう、か。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


杉林の中を粥新田峠に
しばらく車道を進む。比較的農家が集まる栗和田地区のメーンストリートのあたり、左に入る道筋。「関東ふれあいの道」の案内。「粥新田峠」「皇鈴山CP」といった案内。CPって何だ?チェックポイントのことであった。 旧道を進む。農家が途切れるあたりから舗装もなくなる。杉林の中を進む。見晴らしはよろしくない。が、こういった道を昔の人々も歩いたのか、と思うだけで結構嬉しい。しばらく進むと舗装された林道に合流。粥新田峠に到着する。バス停からおよそ1時間で到着した。予想よりはやい展開であった。

粥新田峠
粥新田峠。「粥仁田峠」とも書かれる。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中、この地でお粥を食べたとか、日本武尊が粥を食べたとか、名前の由来はあれこれ。標高は540mほど。秩父困民党が東京の鎮台軍と戦い敗れたところでもある。 峠の「あずま屋」でちょっと休憩。あずま屋脇には、大霧山への登山道。標高767mの山頂まで1時間程度、とか。大霧山から定峰峠へと抜けるルートが定番のようだ。少々惹かれはするのだが、本日は巡礼道巡り。奥秩父の山登りは別の機会とすべしと、はやる心を静める。

尾根道散歩
休憩のあと、尾根道をちょっと歩こう、と思った。当初、粥新田峠からは秩父、また小川方面・外秩父の眺望が楽しめる、と思っていたのだが、まったくもって見晴らしが利かない。南へのルートは大霧山への登山ルートであり、尾根道散歩といった雰囲気ではない。地図をチェックすると、北に「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」のマーク。北に向かって展望のいいところまで進むことにした。 峠からもと来た道を少しくだり、「二本木峠」「皇鈴山CP」の案内方向に進む。舗装道。ドライブを楽しむ人もときに見かける。しばらくは見晴らしよくない。が、少し歩き、牧場が近づくあたりから眺望が開ける。西は秩父の山並み、東は外秩父の山並み。山が深い。豊かな眺めである。

秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場
牧場のあたりから、三沢方面に下る道がある。その道を越え、500mほど北に進むと「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」。売店もある。実のところ、喉がカラカラであった。駅で買い求めた水をどこかで落とした。なんとか水を補給したいと少々焦っていたので一安心。 売店で水を買い、新鮮な牛乳を飲み、さらに食堂で「うどん」を食べる。これが、結構「こし」があり美味であった。お勧めである。眺望を楽しむ。大霧山の山麓、だと思うのだが、山肌がゴルフ場のように下刈りされているのは、牧場敷地であろう、か。 秩父高原牧場の敷地は広い。山稜の西の秩父郡皆野町三沢地区、東の東秩父郡坂本および皆谷地区にまたがり、二本木峠の北にある愛宕山から粥新田峠の南の大霧山稜線上に位置する。標高は270mから767m、広さは270ヘクタール、というから西武ドームの270倍にもなりという。

峠道を下る

少し休憩し、粥新田峠に戻り峠道を下ることにする。峠から100mほどはちょっとした登り。その後は、牧場脇の道をグングン下る。結構膝にくる。牧場用に保存している牧草地が美しい。それにしても秩父は山が深い。秩父市街まで幾重にも尾根が見える。秩父市街の眺望を遮るのは、蓑山であろう。標高587m。先日黒谷の和銅遺跡を訪ねたとき途中まで登った山地である。ちょっとした丘陵地程度と思っていたのだが、蓑山は結構な山容であった。

榛名神社
坂を下ると次第に人家が見えてくる。広町の家並み、か。南にいかにも武甲山といった山容の山。霞みがかかって見づらいのではあるが、武甲に間違いないだろう。途中に榛名神社。案内;室町時代の昔からこの粥新田峠は、秩父と関東平野を結ぶ主要な峠であった。この榛名神社はその中腹に祀られ、上州(群馬)榛名神社の本家とも、または姉君の宮ともいわれている。

秩父往還・釜伏道に合流

峯地区をとおり里に下りる。広町。川越道と熊谷道が分岐するこの地は、宿場町として賑わったようだ。県道82号線に合流。長瀞玉淀自然公園線と呼ばれるこの道は、昔の秩父往還・釜伏道。長瀞から、蓑山と外秩父の山々の間の谷筋、三沢川の谷筋を進み、栃谷を越えると西に折れ、大野原で国道140号線に合流する。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)






曽根坂一里塚の阿弥陀塔
県道を南に進む。道の脇に「曽根坂一里塚の阿弥陀塔」。碑の中央に「南無阿弥陀仏」と刻んである。塔の左右に「みキハ大ミや」、「ひだり志まんぶ」と。右へ行くのが大宮(秩父市)道で、左が、四万部(札所一番)道、ということ。この阿弥陀塔は「道しるべ」でもありる。塔の建てられた年号は「元禄一五年」(1702)とある。江戸からの秩父巡礼の始まったのは、このころだった、とか。 道を進むと峠に差しかかる。蓑山からの稜線と外秩父の稜線が再接近するところ。湾曲した峠道を下ると秩父観音霊場1番札所・四萬部寺に到着。


秩父観音霊場1番札所・四萬部寺

山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。 本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。
 この四萬部寺、現在は一番札所である。が、昔は24番札所。札所番号が変わったのは時代状況の変化に即応した、というとことだろう。初期の札所1番は定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)といった秩父市街からはじまっている。
その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなものであったから、だろう。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたものであり、西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたから、であろう。
その後、江戸時代に、札所の番号は20番を除いてすべて変わってしまった。その理由は、秩父ローカルなものであった秩父観音霊場が、江戸の人をその主要な「お客様」に迎えることになったため、であろう。
豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。
秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
この栃谷の四萬部寺が1番となった理由を推論。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。
栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。 粥新田峠を越え、秩父往還・川越道を秩父観音霊場一番札所に歩き、江戸の人たちの巡礼と言うか、行楽気分をちょっとシェアし、本日の散歩を終える。

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