鎌倉街道山ノ道 そのⅣ:妻坂峠を越えて秩父路に

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名栗の谷から秩父路に

高尾から秩父へと辿る鎌倉街道山ノ道の散歩も最終回。名栗から妻坂峠を越えて秩父の横瀬に入る。妻坂峠は鎌倉武士の鑑、畠山重忠が秩父から鎌倉に向かう時,愛妻と別れを惜しんだ峠。畠山氏は坂東八平氏のひとつである秩父氏の一族。父親も秩父庄司というから、荘園の管理者といったところ。重忠の時代には館は秩父にはなかったと思うのだが、秩父に大いに縁のある武人である。源平合戦での大活躍、そして北条氏の謀略による二俣川での憤死。悲劇の主人公として秩父・奥武蔵の人々に語り継がれてきたのだろう、か。重忠の峠越えの真偽はともかくも、多くの人が秩父との往還に使った峠道が、如何なる風景が広がるのかちょっと楽しみ。



本日のルート:西武線飯能駅>名郷>山中林道>入間川起点>横倉林道分岐>妻坂峠>二子林道>武甲山の表林道>生川の延命水>西武線横瀬駅

西武線飯能駅
家を出て、西武線飯能駅で下車。名郷・湯の沢行きのバスに乗る。湯の沢は山伏峠の手前。秩父道の妻坂峠越えは名郷バス停で降りることになる。飯能を離れ県道70号線を進む。途中、下赤工、原市場、赤沢の町を見やりながら名栗の谷筋を進む。名栗渓谷を越え、下名栗のあたりになると道は小沢峠方面より北上してきた県道53号線に合流。その先は県道53号線として山伏峠を越えて秩父に通じる。
いつだったか、名栗湖から飯能に向かって歩いたことがある。いくら歩いても名栗の谷筋から抜け出せず、10キロほど歩いて結局日没時間切れ。その場所が原市場のあたりであった。子の権現詣でが華やかなりしその昔、飯能を出発した人々は、この名栗川の原市場まで進み、そこからは中藤川沿いに子の権現に上った、という。そのうちに、このルートで子の権現へと歩いてみようと思う。

名郷
小沢、市場、浅海道、名栗湖へのバス停である河又名栗入口を越え名郷で下車。飯能から1時間ほどかかった。バス停近くにつつましやかな弁財天の祠。バス停横には材木屋さん。さすが、西川材として栄えた地域である。
名郷はこの地域の商業の中心地であった。山伏峠方面の湯の沢集落、妻坂峠方面の山中集落、鳥首峠方面の白石集落の人達は、毎日薪を背負ってこの名郷に下り、そこで必要な日用品と交換し、再び集落に戻るのを日課とした、と(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。現在はただ静かな集落となっている。
ところで、西川材って、名栗の材木のこと。名栗川を流し、西から江戸に運ばれたために、西川材と呼ばれた。材木問屋のある千住まで10日ほとかかった、と言う。名栗はその材木故に、天領であった。年貢などはなく、幕府の要請に応じて木材を提供すればよかった、とか。ために名栗は豊かであった。名栗がばくち、賭博が盛んであったことは、豊かな村であった証でもあろう、か。
ところで、名栗の由来が気になる。いまひとつ、これだという由来がわからない。木工技術に名栗という技法がある。木材(主に栗)の輪郭面を六角形や四角形などに加工するこの技法は数寄屋建築に欠かせない技法、とか。歴史は古く、縄文・弥生の頃から使われている、と言う。
この名栗の技法は、もともとは山から伐採した木を出すとき、腐りやすい白太の部分をはつり取ったのが始まり、とも言われる。この名栗の地は西川材と呼ばれるように木材で名高い地域でもあるので、名栗の由来はひょっとすれば、この木材加工の言葉にあるの、かも。素人解釈であり、真偽の程定かならず。
名郷でバスを降りず、そのまま先に進めばバスの終点である湯の沢に進む。そしてその先は山伏峠を越えて松枝、初花を経て国道299号線・正丸トンネルの秩父側に至る。湯の沢の名前が気になる。温泉が湧くという話も聞かない。子の権現近くに湯ノ花というところがあるが、それは猪の鼻から転化したものという(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。湯の沢も、猪沢からの転化であろう、か。山伏峠の名前の由来は、「ヤマフセ」という山の形から、との説がある。山伏(修験者)にまつわるあれこれの話もあるが、釜伏峠などもあるわけで、どうも地形に由来する説のほうが納得感が高い。
ついでに名郷の由来。これも名栗同様、よくわからない。あれこれチェックすると、長尾峠のことを名郷峠と呼ぶところもある。ながお>なごう、と転化したのであろう、か。これまた素人の田舎解釈であり、真偽の程、定かならず。

山中林道

名郷バス停で県道53号線と別れ、県道73号線を進む。渓流に沿って歩いていくと大鳩園キャンプ場。川傍にバンガローが点在するキャンプ場を越えると道は分岐。県道73号線は白岩集落から鳥首峠に向かって進む。秩父道は県道73号線から別れ妻坂峠に向かう山中林道(山中入)に入る。川筋もふたつの道筋に沿って続く,と言うか、道筋はふたつの川筋・沢に沿って開かれた、というべき、か。
鳥首峠は昔の浦山村に進む峠道。秩父観音霊場巡の橋立堂に向かう時、ちょっとかすった浦山ダムのあたりに出てくるのだろう。ちなみに、鳥首山の由来は、峠付近の山稜線の姿が鳥の形に似ており、その峠のたるみが首にあたる、との地形から(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。語感からは少々、オドロオドロしいが、実際は山容から来た名前であった、よう。

「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





入間川起点
山中林道(山中入)を進む。この夏に熊が出たらしく、注意書きなどもあり、少々緊張。舗装された道を1.2キロ程進むと焼岩林道が分岐。沢に沿って進み、道が大きくカーブするあたりに「1級河川入間川起点」の石碑。とはいうものの、すぐ上には砂防ダムだろうか、コンクリートの堰もあるし、なりより、まだまだ川筋は先に続いている。
それまで知らなかったのだが、起点と源流はどうも違うようだ。源流は言葉そのもので、水の源。起点は管理起点とも呼ばれるように、行政管理上の河川の始まりのよう。そういえば、川って幾多の沢筋の水を集めて出来る訳で、源流などは考えようによってはいくつもあるわけだろうから、ある程度の源流地域で、えいや、と起点を造る必要がある、ということだろう。

横倉林道分岐
先に進むと横倉林道が分岐。大持山登山口とかウノタワ登山口に続く。山中林道入口から1.9キロほどのところである。ウノタワは鳥首峠と大持山の中間点にある。ここの窪地はかつて沼があった、とか。その沼には神の化身の鵜が棲んでいた。が、猟師がその鵜を矢で撃ち殺してしまう。沼は鵜もろとも消えてしまった、と。ウノタは鵜の田、から
急勾配の峠道
横倉林道の分岐を越え、渓流を見やりながら進む。勾配もきつくなり、沢の手前で林道や終点。舗装もなくなり、ここからは山道の峠越えとなる。小さな赤い橋を通って沢を渡り、杉林の中に入る。結構な急勾配。沢に沿って進む。古い石垣らしきものもあり、少々の古道の雰囲気を感じる。とはいうものの、石が転がり足元はよくない。
沢から道が離れるあたりから、上りは結構厳しくなる。峠手前のジグザグ道では勾配が40度もあろう、か。峠道を結構歩いたが、息のあがり具合というか、汗の出具合というか、顔の上気加減というか、雨上がりの湿気が多い日とは言いながら、尋常ではなかった。


妻坂峠
峠でしばし休憩。お地蔵様が鎮座する。延享4年というから1747年からこの峠に住まいする。峠からは名栗方面の見晴らしはよくない。秩父方面は展望がよく、晴れた日は武甲山や横瀬の町が一望のもと、ということだが、今回は雨上がりの靄の中。
1572年には上杉謙信がこの峠を越えたという。畠山重忠もこの峠を越えた、と。峠の名前も重忠に由来する。重忠が秩父から鎌倉に出仕すろとき、この峠で別れを惜しんだから、と言う。とはいうものの、重忠の館は男衾郡畠山郷(深谷市畠山)であったり、菅谷館(武蔵嵐山)である、と言う。秩父に館があったというわけでもないのだが、秩父一族の代表的武人・文人としての重忠に登場してもらわなければ洒落にならない、ということだろう。事実、
奥武蔵や秩父には重忠の伝説が多い。山伏峠には重忠が桐割ったという切石の話が残る。有馬の奥、棒の折山もその名前の由来は、重忠が持つ杖が折れたから、とも。散歩をはじめて、武蔵の各地に残る幾多の伝説から、重忠の人気のほどが改めて実感できる。
妻坂って語感は心地よい。重忠の話もいかにも心地よい。が、もともとは「都麻坂」と表記されていた、とも言う。「都麻」って、「辺境の地」といった意味があると、どこかで見たことがある。味気はないが、このあたりが地名の由来としては納得感が強い。


二子林道
峠を下る。急な斜面。丸木橋などもあり、足元が危うい。下るにつれて道筋が少々わかりにくくなる。道なのか沢なのか区別のつかない道筋をとりあえず下ってゆく。この沢は生川(うぶかわ)の源流といったところだろう。沢に沿って下り二子林道に出る。登山道は林道を突き切って進む。
生川も畠山重忠に由来する。文字通り、産湯につかった川であった、とか。
武甲山の表参道
二度ほど林道と交差し石仏のあるところに出るとそこは武甲山の表参道。御嶽神社一の鳥居の裏手には車が駐車している。武甲山にのぼっていったのだろう。峠からは2キロ弱か。30分程で下りる。ここからは歩きやすい舗装道となる。
武甲山を最初に秩父で見たときは、結構インパクトがあった。甲冑そのものの、堂々とした山容であった。また、石灰を採るために削り取られた白い山肌も、これまたインパクトがあった。武甲山の名前の由来は例に寄ってあれこれ。日本武尊が甲冑を祀った、との説。このあたりを領する武人が武光氏であり、「たけみつ」を音読みで「ぶこう」としたとの説。「向う山(むこう)」が転化して「ぶこう」となったとの説。この中では「向う山(むこう)」が納得感が高い。神戸の「六甲(ろっこう)山」も、もともとは「向う山」から来ており、昔は武甲山とも表記されていたと言う(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。

生川の延命水
舗装道路を進むと道ばたに湧き水。生川の延命水と呼ばれる。小さな祠を挟んで2カ所から導管から注ぎ出る。涌き口は斜面の上なのだろう。ペットボトルに補充し生川沿いの林道を進む。
湧水は心地よい言葉である。散歩では湧水というキーワードだけで、無条件でそこに足が向かう。秩父でも寄居からの秩父往還を歩いて釜伏峠を越えるとき、「日本(やまと)水」という湧水の案内が登場。尾根道を下り水場に到着。渇きを癒し、さて下山。が、尾根道下りで道に迷い、転びつつ・まろびつつ、不安と戦いながらブッシュ道と格闘したことがある。この延命水は道端にあったことを大いに感謝。

西武秩父線横瀬駅
いくつかの石灰工場を見ながらひたすら歩き、横瀬の駅を目指す。谷筋が切れるあたりから、ぼちぼち民家が現れる。横瀬の町である。表参道から5キロほど歩いたように思う。単調な道筋を結構な距離歩いた。
横瀬の町は昔、根古屋と呼ばれた。根古屋って、山城の下にある城下町、というか家臣の館のあるところの意味で使われることが多い。はてさて、このあたりのど 
こにお城があったのか、チェックする。秩父観音霊場8番札所西善寺の近くの御嶽神社に「城谷沢の井」といった井戸があるが、いかにもこのあたりといった地名。どのあたりかはっきりは知らないけれど、この根古屋集落裏の尾根筋に城があった、よう。二子山には物見台があったと言うし、正丸峠筋からの敵襲に備えていたのだろう、か。

いつだったか、秩父観音霊場巡りで、西善寺にも訪れた。コミネカエデの古木が見事であった。御岳神社も訪れた。ここは武甲山頂にある御岳神社の里宮。山に上ることのできないひとの信心の場であった。城谷沢の井は、その豊富な水量と水質の良さを活用し、絹の染色に使いはじめ、秩父絹発祥の地とされる。
はてさて、寄り道が過ぎた。見慣れた三菱マテリアルの工場などを見ながら西武線に沿って西に向かい、横瀬の駅に到着し、本日の予定を終了する。また、高尾からはじめ、4回に分けて辿った鎌倉街道山ノ道、秩父道散歩もこれで予定終了とする。

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