東京下町散歩・台東(2); 山谷堀から吉原、そして入谷へ

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草の繁華街から山谷掘から吉原を巡り、入谷へ
浅草散歩の第二回、浅草の繁華街を歩きその後、山谷掘・日本堤から吉原に入り、入谷へと抜けるコースをとる。山谷掘は猪牙舟(ちょきぶね)に乗り、大川(隅田川)から吉原遊郭に繰り出すのが粋、ということだった、らしい。日本堤は山谷掘に沿って築かれた土手。大川の洪水から江戸を守るため諸大名に命じつくられた、もの。
この地区も江戸の頃までは湿地帯。隅田川に沿った微高地、つまりは待乳山とか浅草寺のあたりの砂利が堆積された地帯は除き、その東は一帯の池や湿地。鳥越神社の北には姫ケ池、その北は千束池、かろうじて吉原のあたりに砂洲がある、といった状態である。昔、頼朝が千葉から武蔵に攻め込むとき、石浜から三ノ輪(水の輪)を経由してはいったとのことだが、その際小船を数千集めて橋にして渡ったというくらいであるから、湿地のほどは推して知るべし、である。葦の茂る湿地をイメージしながら散歩に出かける。

本日のルート: 浅草駅 > 伝法院 > 浅草六区 > 花川戸の「姥が池跡碑」と「助六歌碑」 > 待乳山聖天 > 山谷堀跡と日本堤 > 吉原大門交差点・「見返り柳」 > 吉原地区 > 吉原神社 > 吉原弁財天 > 鷲神社 > 飛不動 > 朝日弁天 > 小野照崎神社 > 入谷鬼子母神 > 元三島神社 > JR 鶯谷駅>

伝法院

浅草には何度か来たことがある。が、浅草寺以外に足をのばしたことがない。浅草ロック、というか六区ってよく聞く。どんなところか、ちょいと眺めてみよう。ということで、地下鉄を降り、雷門をくぐり、仲見世を抜け、浅草寺手前を西に折れる。伝法院が。よく聞く名前。浅草寺の総本坊。中に入れず。住職が住まいするところであれば当然か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


浅草六区
浅草寺の西に繁華街というか歓楽街。通称「六区」。正確には「公園六区」というべきか。明治17年(1884年)浅草寺が「浅草公園」と指定されたとき、7つに分けられた区画のひとつ。
1区...浅草寺本堂周囲。浅草神社、二天門、仁王門、五重塔、淡島堂境内
2区...仲見世
3区...伝法院の敷地
4区...公園中の林泉地。大池、ひょうたん池のあった付近。
5区...奥山と呼ばれたところで公園の北部。花屋敷から本堂にかけてのあたり。
6区...見世物の中心地。旧ひょうたん池跡をのぞく現在の六区ブロードウェイ。
7区...公園の東南部。浅草馬道町
明治17年、田圃を掘り起こし人造の池をつくる。それが「ひょうたん池」。掘り起こした土で整地したところが6区の繁華街。1951年には今度は、「ひょうたん池」を埋め立てる。浅草寺観音本堂再建の資金調達のため。埋め立て跡地は総合娯楽センター「新世界」となった、という。今はない。

花川戸の「姥が池跡碑」と「助六歌碑」
六区をブラブラしながら、浅草寺というか浅草公園を通り抜け花川戸地区に。名前に惹かれる。由来ははっきりしない。が、旧町名由来案内、によれば、「川や海に臨む地に戸をつけることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など 桜と隅田川に結びついていたので、この名がついたのではなかろうか」と。結構納得。花川戸2丁目の花川戸公園に「姥が池跡碑」と「助六歌碑」。
姥ヶ池(うばがいけ)は、昔、隅田川に通じていた大池。明治24年に埋立てられた。姥ヶ池にまつわる「石枕伝説」が残る:昔、浅茅ヶ原(あさじがはら)の一軒家で、娘が連れてくる旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がいた。ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷きになって死ぬ。 それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てる。里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。(東京都教育委員会による碑文)、と。
「助六歌碑」は「歌舞伎十八番助六」の歌碑。市川団十郎の当たり芸。あらすじは;助六は花川戸の侠客。助六は実は曽我五郎である、と。曽我物の「おきまり」。源家の家宝「友切丸」を探すため、毎夜吉原で喧嘩三昧。相手に刀を抜かし「友切丸」かどうか調べる。吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、人気全盛の花魁。助六といい仲。髭の意休は権力と金を嵩にきて揚巻に言い寄る。が、相手にされない。意休は助六を罵倒。刀を抜く。この刀こそ「友切丸」。意休を討ち果たして刀を奪う。助六は揚巻の助力で吉原から逃れた。代々の団十郎は曽我五郎を荒事の典型とする。助六もそのひとつ。

助六の決まり文句:
「江戸八百八町に隠れのねえ 杏葉牡丹の紋付も
桜に匂う仲の町、花川戸の助六とも、
また揚巻の助六ともいう若いもの
間近くよって面像おがみ、カッカッ奉れえ」

山谷堀跡と日本堤
花川戸公園を離れ、山谷堀跡に進む。江戸通り(昔の奥州街道)を少し北に進み、先回散歩で訪れた待乳山聖天さま前に。道脇に今戸橋跡。隅田川との合流点・山谷堀水門跡地一帯は、現在は埋め立てられ公園になっている。山谷堀は、王子から流れる音無川の下流部。というよりも、明暦2年(1656年)浅草裏の田圃の中に生まれた新吉原に向かう川筋というか掘として知られる。猪牙舟という小さな舟を仕立て、浅草橋あたりから隅田川を上り、山谷堀を吉原に進むのが「カッコ良い」吉原通いであったよう。
北西方向に堀跡を進む。「山谷掘公園」として整備されている。紙洗い橋、地方橋と進む。勿論「跡」が残るだけ。山谷掘に沿って「土手通り」が通る。この土手通りは昔の「日本堤」の道筋。日本堤は元和6年(1620年)、二代将軍・家光の命により、下谷・浅草の地を隅田川の洪水から護るため築かれた。幅8m、高さ4m。今戸から三ノ輪まで続く。土は待乳山を切り崩した。日本堤の名前は、「日本全国」の諸大名が分担して工事にあたったから、とか、当時奥州街道も吉野橋から千住小塚原にかけて土手になっており、これって多分「砂尾堤」だったと思うが、ともあれ二つ目の堤=二本堤>日本堤、であったからとか、諸説あり。歌川広重の江戸名所百景『吉原日本堤』には茶屋が並び、吉原への遊客で賑わう堤が描かれている。昭和の初期に日本堤が取り崩されて道となった。

吉原大門交差点・「見返り柳」

山谷掘跡の遊歩道を進み、吉原大門交差点に。旧吉原名所のひとつ「見返り柳」とその碑がガソリンスタンド脇に。吉原帰りの客が、後ろ髪をひかれながら、このあたりで遊郭を振り返ったところから、この名前が。「後朝(きぬぎぬ)の別れに見返る柳かな」「もてたやつばかり見返る柳なり」「見かぎりの柳とわびる朝帰り」「見返れば意見か柳顔をうち」といった川柳も。昔は山谷掘脇の土手にあったのだが、道路や区画整備のためにここに移された。

吉原地区
吉原大門交差点を左折。吉原地区に向かう。いわゆる風俗街ってどのあたりにあるのか、千束4丁目あたりをぶらぶらする。このあたりは昔の吉原のメーンストリート・仲之町あたり。はてさて現在の吉原、新宿の歌舞伎町っぽい雰囲気を想像していたのだが、少々さびれた感じ。真昼間から客引きの黒服さんが手持ち無沙汰な感じ。規制があるためなのか、声をかけるような、そうでないような、微妙なスタンス。

吉原神社
千束3丁目に吉原神社。明治5年、吉原遊郭の四つの隅にあった神社など、近辺の稲荷社を合祀してできた。中でも、九朗助稲荷の創建は古く、和銅4年(711年)、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助さんの手で元吉原の地に勧請されたのがはじまり、と。元吉原って、日本橋葦町あたり。明暦3年、廓がこの地に移る。新吉原と呼ばれた所以。それにともない、神社も移ってきた。弁天さまをお祀りしている。






吉原弁財天
少し先に進むと吉原弁財天。境内の「新吉原花園池(弁天池)跡」によれば、吉原遊郭はこのあたり一帯の湿地帯、いくつもの池が点在湿地帯を埋め立てて造成したわけだが、造成に際して池の一部が残った。で、誰からともなく、いつからともなくその池、花園池というか弁天池のあたりに弁天様をおまつりする。それが吉原弁財天のはじまり、と。境内には「花吉原名残碑」や関東大震災の時に溺死した遊女のために作られた吉原観音がある。
「花吉原名残碑 (台東区千束三丁目二十二番 吉原神社)」:吉原遊郭は、江戸における唯一の幕府公許の遊里で、元和三年(1617) 葺屋町東隣 (現中央区日本橋人形町付近) に開設した。吉原の名称は、はじめ 葭原 と称したのを縁起の良い文字にあらためたことによるという。明暦三年(1657) の明暦の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転命令が実行され、同年八月、遊郭は浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び、移転前の遊郭を「元吉原」という。新吉原は江戸で有数の遊興地のとして繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが昭和三十三年売春防止法の成立によって廃止された。(中略)昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などの町名が残っていた」、と。

鷲神社

少し西に進み鷲神社(おおとり神社)に。下町を代表する神社。酉の市、お酉さまで知られる。祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸から現れるとき、鷲がどこからともなく飛び来る。八百万の神はその光景を瑞祥(いいしらせ)として、鷲の一字を入れて天日鷲命、と。開運・開拓の神として当地に鎮座。これが天日鷲命の縁起。東征の帰途、戦勝を記念してこの神社の松に熊手をかけて御礼。その後、日本武尊をしのんで、命日におまつり。その日が11月の酉の日。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。これが、日本武尊、そして酉の市の由来。
江戸時代には江戸っ子の篤い信仰を受けていた、と。江戸期は鷲大明神。鷲神社となったのは明治になってから。が、少々疑問が。お酉さまって、新宿花園神社にもあるし、渋谷にも。で、お酉様の本家本元は?武蔵野国南足立郡花又村(今は足立区花畑町)にある鷲神社のよう。祭神は日本武尊(ヤマトタケル)。東征の帰路に花又地に立ち寄り、戦勝を祝した。これが縁となり尊が伊勢の能褒野(ノボノ)で亡くなった後、神社を作りお祀りしたと伝えられる。中世になると新羅三郎義光が戦勝を祈願したことから武神として尊崇されるようになる。
江戸時代になると、11月の酉の日に、武家は綾瀬川を船で、町人は徒歩か馬を使ってこの地に詣でる。単なる地元の産土神が江戸の人々の心を捉えたのは動機は信心だけではなさそう。この日だけは解禁されていた賭博が目当てであった、とか。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。で、新たなマーケティングとして千住の赤門寺に「中トリ」、浅草竜泉寺(江戸初期の古刹。現在は不明)で「初トリ」が行われることに。結果、吉原を背景とする浅草の大鳥さま、大鷲神社、そしてと隣接する鷲在山長国寺が繁昌するようになった、と。
突然、何故、「大鷲」かってことが気になった。調べた。この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。
ついでに熊手。参道で売られた熊手ももとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。

飛不動
竜泉町1丁目に飛不動(とぶふどう)。下谷の不動と呼ばれ、江戸七不動のひとつ。由来は、お不動さんが奈良の大峰山から一夜にして江戸に戻ってきたから、とか。とはいいながら、飛不動ってここだけでなく、全国にはいくつかあるようだし、とは思いながらも、縁起は縁起以上でも以下でもないわけで、これいじょうのあれこれはやめて先にすすむ。ちなみに、七不動といっても、目黒不動、深川不動の他はどこだろう。

朝日弁財天
国際通りを横切り、西に進み竜泉1丁目。朝日弁財天。明治の中ごろまで、このあたり、は「水の原の谷」と呼ばれる原っぱ。2400坪もある大きな池がふたつもあったという。この地には備中松山藩主・水谷伊勢守の下屋敷があり、弁天さまの信仰篤かった伊勢守は池の中に弁天さまの祠をつくる。上野不忍池の弁天様を祀ったのも水谷伊勢守。西の不忍池の弁天様を夕日、東のこの地の弁天さまを朝日、ということが、朝日弁財天の由来。関東大震災の後、残土処理のため、それも主に浅草十二階の残土をもってして池を埋めたてた。池が埋め立てられたことを惜しんだ久保田万太郎は、「水の谷の池 埋め立てられつ 空に凧」という歌を残す。

小野照崎神社

昭和通りを南に下り、下谷2丁目を左折。法昌寺。入谷七福神の毘沙門天をまつる。すぐ隣に英信寺。入谷七福神の大黒天をまつる。すぐ近くに小野照崎神社。おちついた神社らしい神社。由緒ありげ。小野照崎神社の祭神は小野篁(たかむら)。平安初期の学者、詩人として有名。足利学校の創設者でもある篁は、上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の光景を愛でそこに居を構える。 で、篁の徳をたたえる人々により、小野照崎大明神をその地に祀る。その後、上野寛永寺建立のため、現在の地に移る。
小野篁も散歩の折に時に顔を出す。武蔵と縁の深い人物のようだ。多摩というか府中の小野神社は武蔵一ノ宮。国府のあったところは小野郷とも呼ばれ小野一族が居住した地、とか。小野篁の子孫という。町田の小野路町で小野神社にはじめてであったときは、どうして小野篁が、こんなところに、とは思ったのだが、今度は江戸の東で出会った。小野篁の最も有名な歌:「わたの原八十島かけて漕き出でぬと 人には告げよあまのつりぶね 」。遣唐副使の任を正使との喧嘩で放棄。天皇の逆鱗に触れ、隠岐に流罪となるときに歌ったもの。

入谷鬼子母神
金杉通りを下り、言問通りに。少し東に戻り、昭和通りとの交差点近くに「入谷鬼子母神」。古式ゆかしいお寺を想像していたのだが、鉄筋のビル。この台東区に限らず、下町のお寺は鉄筋が多い。関東大震災とか東京大空襲で壊滅的被害を受けた地帯であることを改めて実感。「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神」といった地口を通し、名前だけは知っていた。
鬼子母神って、印度の神様。子供をさらっては、食べていた、とか。それを戒めるべく、お釈迦様が鬼子母神の子供を隠し、子を失う悲しみをわからせたという。改心した鬼子母神は鬼の「角」のとれた「きしぼじん」となった。安産、子育て、水子など、子供を護ってくれる神様である。ちなみにさきの地口(ギャグ)は、「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様(杉並堀の内の妙法寺のこと)、うそを築地の御門跡」と続く狂歌の一節。「野暮天」の命名者でもある狂歌師・太田蜀山人の作とか。
それと、このお寺さん、朝顔市で知られる。入谷で朝顔が盛んになった理由は、このあたりは、入谷田圃(たんぼ)と呼ばれる低湿地であったが、上野の山からの落ち葉が水路などに堆積し、その土が朝顔の栽培に適していた。それと江戸の「都心」から近く、気安く来れた、といったことらしい。とはいいながら、有名になったのは明治になってから、とか。
入谷田圃で思い出した。入谷の地名の由来であるが、入会(いりあい)の田圃から来ている、とか。このあたりの田圃は境がはっきりしないため、どこの誰の所有と決めずに慣習上、入会地として共用されていた。で、入会の野>入野(いりや)>入谷となった、とか。ちなみに、下谷って地名は入谷田圃が明治に入って、東部が新谷町となったとき、西部を下谷とした、という。
入谷でもうひとつ思い出した。『観光都市 江戸の誕生;安藤優一郎(新潮新書)』に太郎稲荷のことがあった。筑後柳川藩立花家下屋敷の屋敷神であったが、流行病に霊験あらたか、ということで一大ブームを起こしたという。「いまだ暁より、門前に詰懸て門明(かどあけ)を待つ、参詣夥しなんどいう計りなし、往来は狭し、人は多し、左右の下水に押落され、泥に染る者、幾十百人という事を不知(知らず)」(享和雑記)、といった状態。現在の下谷2丁目あたり、とか。そのうちに行ってみよう。ちなみに、大名家の屋敷神が一般大公開と相成った例としては、有馬家の水天宮、讃岐丸亀藩京極家の金毘羅さん、三河西大平藩大岡家の豊川稲荷などがある。

元三島神社

言問通りを西に進み今日最後の目的地、元三島神社に。JR鶯谷の駅前、雑とした街の真ん中にある。言問通りに沿って鳥居というか、参道っぽいアプローチがある。由来は蒙古襲来弘安の役での勇将・河野通有の発願にはじまる。その後、一族が伊予の大山積神社を当地、金杉村上野山の河野館に勧請、この地方一帯の守護神とする。このあたりにはほかに下谷3丁目と浅草三島神社の三島神社があるが、縁起は皆同じ。JR鶯谷駅に戻り、本日の散歩終了。

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