相模 八菅修験の行者道散歩 そのⅠ:八菅神社から八菅修験の行者道を塩川の谷へ

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先日、大山三峰の尾根道に上り、ほんの一部ではあるが大山修験、日向修験、そして八菅修験の行者道を辿った。大山修験は大山寺、日向修験は日向薬師、八菅修験は八菅山光勝寺を拠点として山岳修行を行った修験集団のこと。このうち、大山寺と日向薬師には散歩に出かけたことがあるのだが、八菅修験の拠点、往昔の八菅山光勝寺、明治の神仏分離令以降は八菅神社となった八菅修験の拠点には行きそびれていた。
八菅山はその昔、役行者(役の小角)が山岳修行を行い、薬師・地蔵・不動の像を彫り、その像を投げたところ、薬師は日向薬師に、地蔵は蓑毛の大日堂、不動が大山寺に落ちたといった縁起が残る。修験道といえば役の小角、といった「修験縁起の定石」が定着したのは、鎌倉から室町の頃と言うから、この縁起は縁起として思うべしと、八菅山のことは気になりながらも、それほどの「お山」とも思っていなかった。
が、先回の散歩のメモをする段になって、八菅山ってはじまりは相模国分寺の僧侶の山岳修験の拠点でもあったようで、勢威盛んな頃は、50余の院・坊を擁する結構な規模の「お山」であることがわかった。
ということで、大山三峰の行者道散歩から日もおかず八菅山を訪れることに。ルートは八菅山にある八菅神社からはじめ、八菅修験の道を中津川に沿って辿り5番目の行所である塩川の谷までとした。塩川の谷はこの行所での瀧行で身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳へと峰入りを行った行所と言う。
塩川の谷には塩川の瀧の他、胎蔵界の瀧、金剛界の瀧といった曼荼羅の世界を想起させる瀧があるとのことである。瀧の詳しい場所ははっきりしないが、とりあえず谷に入り彷徨ってみればなんとかなるかと、いつも通りの事前準備無しの行き当たりばったりの散歩に出かけることにした。




本日のルート;小田急線・本厚木駅>一本松バス停>中津大橋>八菅橋>八菅神社の鳥居>梵鐘>おみ坂>左眼橋>護摩堂>右眼池>八菅神社覆殿>八菅山経塚群>白山堂跡>梵天塚>教城坊塚>展望台>登尾入口の道標>幡の坂>旧光勝寺の総門跡>海老名季貞墓

小田急線・本厚木駅
八菅神社への最寄りのバス停に向かうべく、小田急線・本厚木駅に。バスセンターより「愛川町役場行き」か「上三増行き」に乗り一本松バス停に向かう。

毛利の庄
古代、この厚木の辺りは相模国愛甲郡と呼ばれた。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も「森の庄」と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し、毛利の冠者を称したことにより「毛利の庄」と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に参陣。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子

中津大橋
「八菅神社」の大きな看板を目安に西に向かう車道を中津川へと向かう。先に進むにつれ、中津川の対岸に聳える丘陵が見えてくる。
中津小学校を越えた辺りから真っ直ぐ進んで来た道は、川に向かって大きくカーブしながら下ってゆく。急な段丘崖を下るこの道は「中津大橋」と呼ばれる。橋とは言いながら、川を渡るわけではなく、急勾配の崖に架けられた「桟道」の大規模版、といったもの。崖面を土木技術の力技で下る道と言うか橋である。 下り口の誠に急なカーブの先は、崖面に沿って下っていくわけだが、それでも2車線の道の制限速度20キロ、橋の勾配が17%ということであるから,段丘崖が如何に急峻であるのかが自ずと知られる。

八菅橋
崖面に沿って下るにつれ、中津川の流れと川向うの山並みが見えてくる。下り切ったところに中津川に架かる八菅橋がある。八菅橋を渡れば目指す八菅山は目の前なのだが、橋を渡りながら、その昔、八菅山に向かう人たちはどこを渡河したのだろうと、ちょっと気になった。今は上流に宮ヶ瀬湖(宮ケ瀬ダムは2000年完成)ができ水量はそれほど多くはないが、その昔中津川は丹沢山塊の豊かな木材を流すなどを含め船運が盛んであった、ということであるから、それなりに豊かな流れではあったのだろう。

丹沢の御林
木材の供給地と言えば、丹沢山塊は江戸の頃は幕府の直轄地として林奉行がおかれ、藤熊川流域の札掛あたりを中心に御林(幕府の御用林)があったと言うし、それより昔、元亨三年(1323年)には北条得宗家の大規模な仏事に伴って行う堂舎建築事業に使用する木材の供給地としていた記録が残る。中世の早い段階から、丹沢山地が木材の供給源であったということであろう。

才戸の渡し
渡河地点をチェックすると、中津川の渡しは、この地の南3キロ弱のところ、現在の才戸橋の辺りに、「才戸の渡し」があった、とのこと。「才戸の渡し」は北は武蔵国八王子から南は大住郡矢名村(現秦野市)を つなぐ矢名街道で, この道には, 相模川を渡る「上依知の渡し」とここの二ヶ所に 渡しがあり, 江戸時代には,大山参詣道 として大変なにぎわいをみせたとのことである。 「才戸」の由来が気になる。はっきりとはしないのだが、「サイト」は「サイトバライ」に拠る、との説もある。サイトは、「斎灯」と書く。「サイトバライ」こと、左義長(とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼)は、小正月に行われる火祭りの行事のことを意味する、とか。どんと焼き、さいと焼が行われていた場所であったのだろう、か。

中津川
渡河地点とともに、台地を深く開析した中津川が気になる。中津川は丹沢山地のヤビツ峠(標高761m)付近を源流とし、藤熊川として4キロほど北上、そこから3キロほど北に向けて下り本谷川と合流する辺りまでは布川と呼ばれ、南からの唐沢川と合流する辺りから中津川と呼ばれ、北からの早戸川を合わせ宮ヶ瀬湖を経て山中を蛇行しながら方向を南に変えてこの地に下る。

中津川の河川争奪
話は少しそれるが、中津川といえば河川争奪のことを思いだす。いつだったか、津久井湖辺りを散歩していたとき、津久井湖の南を流れる串川の発達した河岸段丘が、串川のささやかな流れに比べて、あまりにアンバランスであるので気になりチェックすると、かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながり、水量も豊富であった、とのこと。発達した河岸段丘はその時のものであった。
その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまった、とのことであった。


八菅神社
八菅橋を渡り緩やかな山道を少し上ると八菅神社の鳥居が現れる。大鳥居をくぐり八菅神社の境内に。境内入口に八菅神社の案内。「八菅山 標高225m 八菅山は古名を蛇形山といった。むかし、日本武尊が坂本(現在の中津坂本地区)からこの山を眺められ、山容が竜に似ていることから名づけられた。そしてこの山中には蛇形の各部分にあたる池の名が今も残る。
大宝3年、修験道の開祖、役の小角(役の行者)が日本武尊の神跡をたづね国常立尊(くにのとこたちのかみ)ほか六神を祀り修法を行った。そのとき八丈八手の玉幡が山中に降臨し、神座の菅の菰から八本の根が生えだしたという。そこで山の名を八菅山と呼ぶようになった。これが八菅神社の始まりであると伝えられている。
この八菅山を前にした丹沢山塊一帯は山岳信仰の霊地として修験者(山伏)たちの修行道場として盛んであった。この連なる山々には幣山、法華峯、経ヶ岳、華厳山、法論堂、など今も残る名は巡峯の要所であったことを教えてくれる」とある。

「八菅山修験場跡要図」
鳥居脇に「八菅山修験場跡要図」がある。口池跡、鼻池、左眼池といった、八菅神社の案内にあった蛇形の各部分にあたる池の名が描かれている。「八菅山修験場跡要図」は現在の堂宇や塚を描いているようで、院坊五十余をもふくめた修験の一大霊場の案内ではないが、それでも山上に白山堂跡とか梵天塚、教城坊塚といった堂や塚の案内があり、往昔の規模の大きさの一端が垣間見える。

八菅神社の梵鐘
鳥居のところにあった説明だけでは、八菅修験の拠点として全国にその名を知られた八菅修験の概要はわからないのだが、境内を少し進むと梵鐘があり、そこにある説明で八菅神社と八菅修験の関係が説明されていた。

「八菅神社は、もと八菅山七社権現といい、別当寺光勝寺のほか院坊五十余をもふくめた修験の一大霊場として古くから続いていました。明治の初め、神仏分離の際、光勝寺は廃され、院坊の修験は帰農し、権現は八菅神社となりました。
この梵鐘は元和4年(1618)徳川二代将軍秀忠の武運長久を祈願して光勝寺に献じられたもののようです。銘文によると、古い地名である「上毛利庄」のほか、鋳工者に下荻野の「木村太郎左衛門重次」上川入の「小嶋元重」の名もみえます。地元における梵鐘のうち最古の故もあって、太平洋戦争のときにとも共出をまぬかれ、現在北相に残った数少ない貴重な梵鐘となっています」と。

八菅修験
今までの案内を補足し、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』をもとに、八菅神社と八菅修験のことをまとめておく。八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地であり、山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。

上でメモしたように、修験道の縁起に役行者が登場する「修験道の定石」が登場するのは、鎌倉から室町にかけて、修験者の行法が次第に体系化され、教団組織が成立して以降のことであるので、縁起は縁起として想うべし、ということではあろうが、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』では、この八菅山光勝寺は相模国分寺の僧侶が山岳修行の拠点とした大山寺への丹沢山塊東端の前線基地として設けられたと延べる。
同書で説くように、大山寺の寺伝によれば、初代住職は華厳宗の創始者であり東大寺の初代別当である良弁、三代目の住職である真言宗の開祖空海は東大寺の別当を務めている。東大寺は、聖武天皇の命により全国に設けられた国分寺の元締め、といったものであり、この説の納得感は高い。
何故に丹沢東端に山岳修行のメッカが誕生したのか疑問であったのだが、この説であれ筋は通っているように思える。和銅2年(709)には東大寺勧進僧の僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたとの話も伝わる。

おみ坂
梵鐘に神仏習合の名残を見やりながら先に進むと「おみ坂」。急な階段が一直線に上っている。向かって左手に緩やかな「女坂」があるので、「男坂」といった位置づけではろうが、「おみ」って「御神」と表記することころがある。この地の「おみ坂」は如何なる所以か不詳であるが、御神坂とは、「神」の坂であり、古代において祭祀が執り行われたところを示すとの説もあるようだ。 おみ坂の途中の左手に小祠がありちょっと窪みになっている。「鼻池」ではあるが、水はない。

八菅神社の社叢林
石段を上りながら周囲を見やる。境内の緑は深い。境内入口にあった「八菅神社の社叢林」の案内によると、「神奈川県指定天然記念物(平成3年指定)八菅神社の社叢林;中津川に面した八菅山の集落に続く丘陵の海抜100~170mの南側斜面から東側斜面にかけて八菅神社の森と称されるスダジイ林が発達している。一部にスギやヒノキが植栽されているが、200段を超す階段の参道周囲は、樹高15m以上のスダジイ林が自然植生として生育する。
高木層は、台地上でアカシデ、ヤマモミジ、ハリギリを混え、スダジイが優占する森を形成している。亜高木層以下は、ヒサカキ、サカキ、アラカシ、ツルグミ、クロガネモチ、アオキ、ビナンカズラ、ベニシダ、イタチシ  ダ、などヤブツバキクラスの常緑の自然植生の構成種が多く生育する。
八菅山の森は、相模平野に沿って海岸から比較的内陸まで生育するスダジイ林(ヤブコウジースダジイ群集)が25000平方メートル以上もまとまって存在生育しており極めて貴重な樹林である。神奈川県教育委員会 愛川町教育委員会」とあった。

左眼池
おみ坂を上っていくと、山道が石段とクロスする。この道は現在八菅山全体を公園として整備された展望台へと続く道であるが、案内に「左眼池」とある。本殿にお参りする前に、ちょっと立ち寄り。道を右手に進むとささやかな池と祠があった。

護摩堂
元の石段に戻る。すぐ先は広場のようになっている。「八菅山修験場跡要図」によると、「拝殿跡・灌頂堂跡・祖師堂跡・御水屋」と案内されているあたりではあるが、現在は左手に護摩堂だけが目に入る。
護摩堂への道標には「不動へ」と言った案内がされていた。現在でも、八菅神社例大祭の日、この広場で山伏による火渡り護摩修法が行われるようであり、火渡り護摩修法の際、心を静めて集中し、身体から智慧の火を生じその火によって煩悩を焼き尽くすといった状態、「火生三昧(かしょうざんまい)」とは密教では不動明王とひとつになった状態のことであり、それをもって護摩堂への案内に「不動」とあるのだろう、か。

右眼池
石段を下り、展望台への道を左眼池と逆方向に少し下る。と、注連縄が飾られた窪みがあり、右眼池とあった。「八菅山修験場跡要図」には描かれていなかったが、これで両目が揃った。この左眼池あたりから女坂の表示。道なりに下ると、おみ坂の石段のところに出る。そういえば、おみ坂の左脇に「車道・女坂」の案内があった。

八菅神社覆殿
石段を上ると八菅神社覆殿。本殿は覆殿一棟の中に鎮座するようである。お参りをすませ案内を読む。案内によると;「八菅神社(八菅山七社権現)  祭神;国常立尊(くにとこたちのみこと)  金山毘古命(かなやまひこのみこと)  大己貴命(おおなむちのみこと)  日本武尊(やまとたけるのみこと) 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)。
八菅神社の祭神は、日本武尊と役の小角(役の行者)によって七神が祀られた。 これを総称して八菅七社権現といった。そして信仰の対象は日本固有の神と仏菩薩とは一体であるという思想にもとづいてまつられた社でこの八菅の霊地を護持する人たちを修験(法院)といい山内の院や坊に拠っていた。
源頼朝の大日堂寄進、足利尊氏による社頭の再建、足利持氏の再興で一山の伽藍が整ったが、永正2年本社、諸堂が兵火で失った。その後天文10年再建、天正19年には徳川家康より社額を給せられた。
やがて明治維新の神仏分離令により仏教関係すべてが禁じられ神のみを祀った八菅神社として発足、修験の人たちはみなこの地に帰農した」とある。

案内では祭神は明治の神仏分離令以降の影響か「神」がラインナップされているが、神仏混淆の頃七社権現が祀られていたわけで、それは上でもメモしたように、熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現(室町時代後期)。覆殿の中央の証誠殿(熊野権現)を中心に、左右に各三社、左方は玉函殿(箱根権現)、金峯殿(蔵王権現)、誉田殿(八幡大菩薩)、右方は妙高殿(山王権現)、妙理殿(白山権現)、走湯殿(伊豆権現)が配置されていたようだ。
で、案内にある祭神と権現さまを比定すると、国常立尊=証誠殿(熊野権現)=本地仏;阿弥陀如来、金山毘古命=金峰殿(蔵王権現) =弥勒菩薩、 大己貴命=妙高殿(山王権現)=薬師如来、日本武尊(天忍穂耳尊の説も)=走湯殿(伊豆権現=十一面観音、伊邪那岐命=玉函殿(箱根権現)=阿弥陀如来、 誉田別命=誉田殿(八幡大菩薩)=阿弥陀如来、伊邪那美命=妙理殿(白山権現)=十一面観音、となる。

長床衆
しかし、この覆殿だが横に異様に長い。一棟の中に七つの社殿が鎮座するわけだからそれはそれで説明できるのだが、一見したときはこれは熊野本宮にあった横長の礼殿を拠点にした熊野の中核的山伏集団である「長床衆」の影響かと思ってもみた。
気になってあれこれチェックすると、「長床」とは本来、山岳修行の人たちが滞在する拝殿や礼殿のことを指し、本殿前に立つ横長の棟のことであったようだ。熊野の中核的山伏集団を「長床衆」と称するようになったのは、礼殿に長期に滞在し修行を積むことにより、結果的に熊野修験の中核的存在となっていった、ということであろう。

八菅と熊野
覆殿の横長が「長床衆」と直接関係はなさそうではあるが、それでも八菅修験は、覆殿中央に熊野権現が鎮座することからもわかるように、熊野修験との関係が深い。
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、「江戸時代,八菅山は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた。山林に籠り修行する山林修行者を「山伏」,「修験者」と呼び始めたのは平安時代。彼らは霊山に参詣する信者を導く「先達」にもなった。
鎌倉から室町にかけて、修験者の行法は次第に体系化され、教団組織が成立。そのうちで最も有力な熊野修験を中央で統括する熊野三山検校職を受け継いだのが園城寺(三井寺)の流れをくむ聖護院であった。聖護院を棟梁として成立したのが本山派である。
八菅山と聖護院が結びついたのは戦国時代。江戸時代には、聖護院宮門跡の大峰・葛城入峰に際し、八菅の山伏が峰中(ぶちゅう)の大事な役を果たしていた」とのことである。

八菅山経塚群
覆殿の周囲を見るに、右手に八菅山経塚群の案内がある。「経塚とは経典を埋納したところで、10世紀末ごろ、末法思想を背景に作善業のひとつとして発生したといわれる。のち、経典の書写とも結びつき、やがて、死者の冥福を祈るという追善的な性格をもつようになった。
八菅山の経塚群は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけてのものと伝わる。昭和47年(1972)、神奈川県教育委員会による調査の際、京塚17基を確認したが、多くは盗掘されていた。なお、そのおり納経容器の壺15を出土、うち、和鏡を伴うもの6、そのひとつから木造合子型念持仏(愛染明王-鎌倉初期)が発見された(愛川町教育委員会)」とある。作善とは「善根をおこなうこと」である。

白山堂跡
経塚を見終え、「八菅山修験場跡要図」にあった白山堂跡を目指し、お山に登ることに。八菅修験は白山権現ではじまり大山の白山不動で終える、などと書いてあった記事を思い出し、八菅修験で重視される白山堂が如何なるものかとの好奇心からでの行動ではある。
覆殿左手に展望台へと向かう道があり、フィールドアスレチックの遊具が並ぶ広場を越えてしばらく進むと道脇に「白山堂跡」の案内があった。
案内は「ここから20メートルほど奥にあった祠の跡をいう。 白山権現は、八菅神社の祭神七柱のひとつであるが、 なにかのわけがあって、とくに、ここにも祀られていたのであろう(愛川町)」と。
修験の始めは白山権現で始まり、日向薬師の近く、12の行場・腰宿でも白山権現にて行を行い、大山の白山不動で終わるといった白山権現の位置づけってその程度ものも、といった素っ気ない説明である。

八菅と白山
よくわからないが、八菅と白山、と言うか、八菅=熊野と白山の関係をチェックしてみる。その前提として山岳信仰とか、山岳宗教とか、修験道とか、用語の使い方がややこしくなってきた。その整理をしながら八菅=熊野と白山の関係を妄想することにする。
古代神奈備山って用語が使われる。神が宿る美しい山ということである。往古、人々は美しい山そのものを信仰の対象とした。北陸地方の霊峰「白山」も、その雄大な姿故、古代より人々の信仰を集めた。「山岳信仰」の時期である。その時期は平安時代に至るまで続く。南都の仏教では、山で仏教修行をする習慣はなかった。山に籠もり修行をした役小角などは「異端者」であったわけだ。伊豆に流されたということは、こういった時代背景もあったのだろう。
「山岳信仰」ではなく、所謂、「山岳仏教」が始まったのは平安時代。天台宗と真言宗が山に籠もって仏教修行をすることを奨励しはじめてから。深山幽谷、山岳でこそ禅定の境地に入ることができる、密教故の呪術的秘法体得ができる、とした。「修験道」はこの天台宗や真言宗といった山岳仏教を核に、原初よりの山岳信仰、道教、そして陰陽道などを融合し独特の宗教体系として育っていく。

山岳信仰で始まった白山信仰も九世紀(平安中期)ごろになると、素朴な自然崇拝から修験者の山岳修行や神仏習合思想に彩られた霊場へと変質をとげるようになる。加賀・越前・美濃の三方から、山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に整えられていった。それらは天長9年(832)になって加賀馬場(現在白山比咩神社)、越前馬場(現在平泉寺白山神社)、美濃馬場(現在長滝寺白山神社)が開かれ、山麓における登山道筋の拠点と里宮=遥拝施設が整い始める。
久安3年(1147)、加賀の白山本宮(白山比咩神社)=白山寺は「山門別院」(延暦寺末寺)となる。以後加賀馬場は天台系寺社としての再編を図り、やや遅れて越前(平泉寺)、美濃(長滝寺)も延暦寺の末寺化をとげることになり、ここに、三方馬場の寺社勢力天台宗教団の一翼に組み込まれ「白山天台」が成立することになった。白山神社の発展には山岳宗教・修験道といったファクターが不可欠とアライアンスを組んだということだろう。
で、何故、八菅と白山、と言うか、八菅=熊野と白山、八菅山の白山権現からはじまり大山寺の白山不動で終わると言われるほど白山が重視されたか、ということだが、ここから以降は全くの妄想であり何の根拠もないのだが、南北朝時代の南朝の敗北と関係があるのではないだろう、か。北朝方の高師直が吉野山を攻め、南朝の勢威の衰えが決定的になったとき、吉野熊野への入峰が途絶え、その間に熊野修験に次ぐ勢力をもっていた白山修験が熊野修験に取って代わって日本全国にその影響力を拡げて行った、とのことである。こういった経緯が白山信仰が八菅において重視されたことであろうとひとり妄想。

梵天塚
白山堂跡から道を進む。て「みずとみどりの青空博物館」とか、 「やすらぎの広場」といった案内もあるが 今回は特に理由はないのだが「展望台の広場」を目指して進むと道脇に「八菅山修験場跡要図」に記載のあった「梵天塚」があった。
案内によると、「八菅山修験組織のひとつである覚養院に属する塚であった。 修験道で祈祷に用いる梵天(幣束)をたてたことにちなむ名であろう。 築造のころは不明である(愛川町)」と。



教城坊塚
展望台に向かって更に進むと展望台手前に「教城坊塚」。案内によると、「八菅山修験組織のひとつである教城坊(後に教城院となる)に属する塚であった。 築造のころは不明であるが、修験道特有の祭祀遺跡である(愛川町)」と。 「八菅山修験場跡要図」にあった白山堂跡、梵天塚、教城坊塚は成り行きで進ん幸運にも辿れたが、どれも説明が素っ気なく、ありきたりの案内ではあった。ちょっと残念。

展望台
教城坊塚の近くにある展望台に上り、相模原や厚木方面の眺望を楽しみ、ちょっと休憩。展望台で地元に方に、この辺りから里に下りる道があるかどうか尋ねると、道を少し進めば道標があるので、そこを目印に右に折れると里へと下る、とのこと。どこに下りるかはっきりしないが、「一筆書き」を散歩の信条(?)とする我が身としては、同じ道を引き返すのもウザったいので、教えて頂いた山道を下ることにする。


登尾入口の道標

道なりに進むと左手に中津川ゴルフ場、その向こうに丹沢の山塊が聳える。雪の大山も垣間見える。しばらく歩くと道の右側に「登尾入口 八菅山・尾山 里山を守る会」の道標。
尾根道を成り行きで下る。途中左右に分かれる分岐があり、根拠はないのだが、最初は右手に、2度目は左へと道を取ると、沢の北側に下りた。「八菅山修験場跡要図」にあった「北谷」の辺りであろうか。
下り口一帯は鹿なのか猿なのかを防ぐため電流が流れると、メモのある柵が続く。沢に下り切ったところには柵の出口があり、出口の留め具を開け外にでる。そこには「登尾の尾根」の道標があった。

幡の坂
「登尾の尾根」の道標のすぐ下には里の耕地も見えるのだが、道を逆に取り、八菅神社方向へと沢道を柵に沿って上る。上り切った竹林のあたりに「幡の坂」の道標があった。説明もなにもないが、これも「八菅山修験場跡要図」に「幡」と描かれているところかとチェックする。
八菅神社の案内のところで、八菅山の名前の縁起として、大宝3年(703)、役の小角(役の行者)が八菅山で修法を行ったとき、八丈八手の玉幡(高御座や御帳台の棟の下にかける装飾)が山中に降臨し、神座の菅の菰から八本の根が生えだしたとメモした。『新編相模風土記稿』八菅山の項には、「山中に堂庭幡、幡之坂、以上二所、往昔幡降臨の地と云」とある幡之坂がこの地ではあろう。 因みに玉幡降臨についてはいくつかのバリエーション縁起がある。『新編相模風土記稿』には、「その昔、中將姫が織り上げたという大きくて立派な幡が、津久井の方から飛んできて、八菅の北の坂(幡の坂)へ落ち、更に舞い上がってこの家(雲台院...字宮村の中央部。地名は、幡)の庭に落ちてきた。行者た ちが総出で祈りあげると、幡はまた天空へ舞い上がり、鶴巻の落幡に落ちた。土地の人々はあまりにも立派な幡なので、相談の結果、日向薬師へ寄進に及んだ」といった話が伝わる。
日向薬師、薬師堂の什宝(じゅうほう)の項の中に、「幡一流 縁起曰、神亀二年幡天よりして降る云々、」とあり、同じく曼荼羅の項には、「糸を以て、名號(めいごう)及梵寺(ぼんじ)を多く縫たり、中將姫自から縫ふ所と云」と書かれている、とのことである。

旧光勝寺の総門跡
道なりに進むと緩やかな下り坂となり、八菅橋脇まで続く。道脇に「旧光勝寺の総門跡」の案内。「ここは八菅山七所権現(現八菅神社)の別当寺・八菅山光勝寺の総門のあったところ。当時光勝寺は本山派修験に属し、京都聖護院の直末寺としてあった。寺の諸事は山内50余の院坊が司って七社権現を護持した。総門は八菅山絵図に拠ると、冠門木型式をとっていたようで、いま石造りの基礎及び柱の部分を残している(愛川町教育委員会)」とあった。



海老名季貞墓
総門まで戻り、「八菅山修験場跡要図」に記載されていた「見所」で見落としがないかチェック。八菅山光勝寺跡、海老名季貞墓などが目に入る。八菅山光勝寺跡を探すも、民家があるだけで特にそれらしき遺構は見つからなかった。次いで、「海老名季貞墓」を探す。ちょっとわかりにくいが、鳥居へと進む道の途中から細路が分岐しており、そこを少しくだると海老名季貞墓があった。 案内によると「海老名季貞の墓 新編相模国風土記稿の八菅村の中に「海老名源三季貞墓」とあるのがこの仏塔である。海老名源三季貞(または源八季定)は鎌倉初期の武将で、現、海老名市河原口に在した豪族海老名党の頭領であった。源氏旗揚げの(1180年)とき、季貞は平家の被官人として大庭影親の軍に加わり、石橋山の合戦で頼朝を攻めた。のち、頼朝再起のときは、源氏の家人となり忠誠をつくした。
一族の八管山に対する信仰は厚く、季貞は頼朝の命により、代官として社殿、末社の再建と大日堂の建立を行い、法灯を保護した 相川町教育委員会」とあった。

海老名氏
海老名一族は平安時代末から室町時代まで、海老名や厚木で活躍した一族。海老名季貞は海老名氏・荻野氏・本間氏・国府氏の祖となる人物であり、12世紀の相模川中流域~中津川流域における有力武将であった。開発した土地は一族の内紛で都での威勢を失い、関東に下向し源家に寄進され、源家との主従関係が結ばれていた。それが頼朝の旗揚げに際し平氏方に参陣したのは、平治の乱(1160)において関東での源氏の棟梁である源義朝の敗死したため、関東での勢を失った源氏にかわり平氏に仕えていたためであろう。
この海老名季貞は応永26年(1491)の『八菅山光勝寺再興勧進帳』の中で、大日尊像を安置した人物として登場する。八本の菅の縁起も神社の案内にあった役行者ではなく行基となっているが、それはそれとして、興味深いのはこの勧進帳そのこと自体。隆盛を誇った一山組織八菅山光勝寺が15世紀には崩壊の危機に瀕し、その再興のために勧進、平たく言えば、資金集めをしている。

聖護院門跡・道興と八菅
先回の大山三峰修験の道のメモでも触れたことだが、散歩の折々で出合い、東国廻国紀行文『廻国雑記』で知られる聖護院門跡・道興が東国の熊野系修験(熊野先達)の拠点を訪れたとき、江戸時、本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた八菅山光勝寺をパスしていることが気になっていた。
文明18年(1486)には丹沢山麓を訪れ、大山寺、日向霊山寺、熊野堂(厚木市旭町)は廻っているのだが八菅山はパスしているのである。その理由がよくわからなかったのだが、勧進帳を出さなければならない状況であったとすればパスしても、それほど違和感なく思える。それとも、本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られたのは江戸時代になってからであり、室町の頃はそれほど聖護院と密な関係ではなかったのだろうか。

海老名氏と経塚
ついでのことであるので海老名氏と八菅神社覆殿の右手にあった経塚との関係について、『丹沢の行者道を歩く(白山書房)』の著者である城川隆夫さんが説明している記事がWEBに掲載されていた。
簡単にメモすると、12世紀の頃、相模川中流域~中津川流域における有力武将であった海老名氏は、開発した土地を関東に下向した源家に寄進され、源家との主従関係が結ばれていたわけだが、「神奈川県内最大の八菅山経塚群が造立されていたのも、ちょうど同じ頃の12世紀頃です。海老名氏をはじめとするこのエリアの開発領主と源家の人々が中心になって八菅山に経塚造立を行っていたと考えられないでしょうか。その宗教行為を請け負っていた宗教者が八菅修験の原初的な姿ではないかということです。それは熊野の宗教者たちと熊野・大峰の経塚群の関係と似ています。八菅は毛利庄にとっての熊野本宮であったのでしょう。八菅山の七社権現社は「証誠殿」(熊野権現)を中心に構成されているのです(城川隆夫)」とする。

八菅神社から塩川の谷の行所までの散歩のメモのつもりが、八菅山であれこれと想いを巡らせ、イントロが長くなってしまった。行所散歩のメモは次回に渡すことにする。

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