先回、大月の岩殿城跡散歩の折、猿橋から鳥沢まで旧甲州街道歩いた。その道筋は現在の国道20号線に沿ったもの。トラックの風圧に脅えながらの道行き。とてものこと、風情を楽しむ、といった趣はない。
国道から離れた旧街道の道筋でもあれば、相模から甲斐の国境をのんびり歩くのもいいか、とチェックする。裏高尾の小仏峠から相模湖に抜ける道、大月の先から笹子峠を越えて勝沼に抜ける道、そし上野原から鳥沢への道筋。このあたりが現在の国道から大きく離れ、山間を進む道筋となっている。であれば、この3箇所を歩こう、と。先回の散歩の続き、というわけでもないのだが、第一回は上野原から鳥沢に向かって歩くことにした。
現在の甲州街道・国道20号線は桂川(相模川)の川筋を進む。一方、旧甲州街道(甲州道中)は山間の道を進む。大雑把に言えば、中央高速に沿って山地を上り、談合坂サービスエリアの北を迂回した後、鳥沢に向かって一気に下っていくことになる。道路建設工事の技術が発達した現在では川筋に道が続くのは当たり前だが、昔はそうはいかない。雨がふれば土砂崩れなどで道がつぶれる。街道ともなれば、そんな不安定な川筋を通す訳にはいかない。ということで川筋を避け、山間を進む道となったのだろう、か。ともあれ、JR上野原に向かう。
鶴川宿
橋を渡ると鶴川宿の案内。甲州街道唯一の徒歩渡しがあった、とか。とはいうものの、冬には板橋が架けられた、という。尾根に向かって台地に上る。街並は落ち着いた雰囲気。町中に鶴川神社。長い石段を上り、牛頭天王にお参り。天王さま、ということで信仰されていたのだろうが、明治期に天王=天皇、それって畏れ多し、ということで、鶴川神社といった名前に改名したのだろう、か。これまた我流解釈。真偽のほど定かならず。
先に進むと三叉路。「鶴川野田尻線」という案内に従い左に折れ、上り坂を進む。台地の北には仲間川の低地。尾根道を歩いている事を実感する。四方の眺め、よし。本当にいい景色である。この数年いろんなところを歩いたが、大勢の仲間とハイキングするにはベストなコースのひとつ。広がり感が如何にも、いい。
野田尻宿
中央高速脇の側道を進み、高速に架かる新栗原橋を渡り、高速の北側を少し下り加減に進む。ほどなく野田尻の集落となる。江戸から20番目の宿場。ゆったりとした、いい雰囲気の街並である。本陣跡には明治天皇御小休所址が。明治13年の山梨巡行の折のこと。それに備えて街道の拡張・整備が行われた、ってどこかで読んだことがある。
犬目宿
県道をどんどん進むと犬目宿。落ち着いたいい雰囲気の町並み。標高は510m強。桂川筋が標高280m程度であるので、330mほども高い位置。安定した街道を通すには、険峻な谷筋、入り組んだ沢筋を避け、ここまで上らなければならなかったのであろう。
義民「犬目の兵助」の生家の案内。概要をメモ;天保四年(1833)の飢饉に引き続き、天保七年(1836)にも大飢饉。餓死者続出の悲惨な状況。代官所救済を願い出ても門前払い。万策窮し、犬目村の兵助などを頭取とした一団が、米穀商へ打ち壊し。世に言う、『甲州一揆』。
このとき兵助は四十歳。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されている。一揆後、兵助は逃亡の旅に出る。秩父に向かい、巡礼姿になって 長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢へと一年余りの逃避行。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没した、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
君恋温泉
集落の外れは枡形の道。城下町などに敵の侵入を防ぐ鍵形の道がここで必要なのかどかわからないが、ともあれ、道脇の寶勝寺、白馬不動尊などを見やりながら先
国道から離れた旧街道の道筋でもあれば、相模から甲斐の国境をのんびり歩くのもいいか、とチェックする。裏高尾の小仏峠から相模湖に抜ける道、大月の先から笹子峠を越えて勝沼に抜ける道、そし上野原から鳥沢への道筋。このあたりが現在の国道から大きく離れ、山間を進む道筋となっている。であれば、この3箇所を歩こう、と。先回の散歩の続き、というわけでもないのだが、第一回は上野原から鳥沢に向かって歩くことにした。
現在の甲州街道・国道20号線は桂川(相模川)の川筋を進む。一方、旧甲州街道(甲州道中)は山間の道を進む。大雑把に言えば、中央高速に沿って山地を上り、談合坂サービスエリアの北を迂回した後、鳥沢に向かって一気に下っていくことになる。道路建設工事の技術が発達した現在では川筋に道が続くのは当たり前だが、昔はそうはいかない。雨がふれば土砂崩れなどで道がつぶれる。街道ともなれば、そんな不安定な川筋を通す訳にはいかない。ということで川筋を避け、山間を進む道となったのだろう、か。ともあれ、JR上野原に向かう。
本日のルート;JR上野原駅>上野原宿>鶴川橋>鶴川宿>中央高速・鳶ヶ崎橋>大椚一里塚>吾妻神社>長峰の史跡>野田尻宿>荻野一里塚>矢坪>座頭転がし>犬目宿>気味恋温泉>恋塚の一里塚>中野>下鳥沢
JR上野原駅
上野原一帯は桂川によって形づくられた河岸段丘がひろがる。河岸段丘って川に沿って広がる階段状の地形のこと。上野原の駅も河岸段丘の中段面にある。ホームを隔て南口は一段下。北口は一段上といった案配。駅前もわずかなバス停のスペースだけを残し、崖に面している。街中は段丘面の上。石段を上り進むことになる。上野原の由来は段丘上の原っぱにあったから、って説も大いに納得。
それにしてもこの桂川、というか相模川水系の発達した河岸段丘には散歩の道々で驚かされる。先日、津久井湖のあたりを歩いたときも、一帯の段丘の広がりに感激した。城山を隔てて津久井湖の南に流れる串川一帯の発達した河岸段丘にも魅せられた。
河岸段丘の形成は、川が流れる平地(川原)が土地の隆起などにより浸食作用が活発になり、川筋が低くなる。で、低地に新たに川原ができ、以前の川原は階段状の平地として残る事に成る、ということ。このあたり富士山による造山活動が活発で、土地の隆起も激しく、いまに残る見事な河岸段丘が形成されたのであろう、か。
上野原宿
駅から上野原の街中に進む。階段を上り、道なりに北に。途中、中央高速を跨ぐ陸橋をわたり国道20号線・甲州街道に。上野原の駅は標高200m弱。国道20号線は標高250m強といったところ。
旧甲州街道(甲州道中)は鶴川への合流点の手前までは国道20号線とほぼ同じ。国道に沿って、雰囲気のある民家もちらほら。上野原宿跡であろう。三井屋などといった、いかにも歴史を感じるような看板も目につく。上野原宿は相模から甲斐にはいった最初の宿。絹の市でにぎわった、と。東京から74キロのところである。
鶴川橋
国道を西に進む。棡原(ゆずりはら)を経て小菅や檜原に向かう県道33号線を越えるあたりから国道は鶴川の川筋に向かって下ってゆく。坂の途中、国道20号線が南に大きくカーブするあたりに鶴川歩道橋。旧甲州街道はこの歩道橋で国道と分かれ、北に進むことになる。
国道から離れるとすぐに旧甲州街道の案内図。大ざっぱな道筋を頭に入れ、先に進む。道は鶴川に向かって下る。眼下の鶴川、南に続く中央高速など、誠に美しい眺めである。大きく湾曲する車道の途中からショートカットの歩道を下り鶴川橋に。四方八方、どちらを眺めても、誠にのどかな景色の中、鶴川が流れる。
鶴川は奥多摩の小菅村あたりに源を発し、上野原市の山間を下り、桂川(相模川)に合流する。鶴川橋の少し北で仲間川が、少し南で仲山川が鶴川に合流する。地図を見ると、旧甲州街道はこの二つの川の間の尾根道を野田尻まで進んでいる。甲州街道ができるまでは、上野原から大月方面・鳥沢に抜ける道は、仲間川と仲山川(八ツ沢)の沢道、そして桂川に沿った道といった三つのルートがあった、と言う。上にもメモしたが、川沿いの道は崖崩れなどといった不安定要素も多く、また、そもそもが峻険の崖道でもあったであろうから、公道には比較的安定した尾根筋を選んだのではなかろうか。我流の解釈。真偽のほど定かならず。 ちなみに、桂川の南側に慶長古道が残る、という。慶長古道、って幕府によって整備された五街道の影に埋もれてしまったそれ以前の道筋、である。
上野原一帯は桂川によって形づくられた河岸段丘がひろがる。河岸段丘って川に沿って広がる階段状の地形のこと。上野原の駅も河岸段丘の中段面にある。ホームを隔て南口は一段下。北口は一段上といった案配。駅前もわずかなバス停のスペースだけを残し、崖に面している。街中は段丘面の上。石段を上り進むことになる。上野原の由来は段丘上の原っぱにあったから、って説も大いに納得。
それにしてもこの桂川、というか相模川水系の発達した河岸段丘には散歩の道々で驚かされる。先日、津久井湖のあたりを歩いたときも、一帯の段丘の広がりに感激した。城山を隔てて津久井湖の南に流れる串川一帯の発達した河岸段丘にも魅せられた。
河岸段丘の形成は、川が流れる平地(川原)が土地の隆起などにより浸食作用が活発になり、川筋が低くなる。で、低地に新たに川原ができ、以前の川原は階段状の平地として残る事に成る、ということ。このあたり富士山による造山活動が活発で、土地の隆起も激しく、いまに残る見事な河岸段丘が形成されたのであろう、か。
上野原宿
駅から上野原の街中に進む。階段を上り、道なりに北に。途中、中央高速を跨ぐ陸橋をわたり国道20号線・甲州街道に。上野原の駅は標高200m弱。国道20号線は標高250m強といったところ。
旧甲州街道(甲州道中)は鶴川への合流点の手前までは国道20号線とほぼ同じ。国道に沿って、雰囲気のある民家もちらほら。上野原宿跡であろう。三井屋などといった、いかにも歴史を感じるような看板も目につく。上野原宿は相模から甲斐にはいった最初の宿。絹の市でにぎわった、と。東京から74キロのところである。
鶴川橋
国道を西に進む。棡原(ゆずりはら)を経て小菅や檜原に向かう県道33号線を越えるあたりから国道は鶴川の川筋に向かって下ってゆく。坂の途中、国道20号線が南に大きくカーブするあたりに鶴川歩道橋。旧甲州街道はこの歩道橋で国道と分かれ、北に進むことになる。
国道から離れるとすぐに旧甲州街道の案内図。大ざっぱな道筋を頭に入れ、先に進む。道は鶴川に向かって下る。眼下の鶴川、南に続く中央高速など、誠に美しい眺めである。大きく湾曲する車道の途中からショートカットの歩道を下り鶴川橋に。四方八方、どちらを眺めても、誠にのどかな景色の中、鶴川が流れる。
鶴川は奥多摩の小菅村あたりに源を発し、上野原市の山間を下り、桂川(相模川)に合流する。鶴川橋の少し北で仲間川が、少し南で仲山川が鶴川に合流する。地図を見ると、旧甲州街道はこの二つの川の間の尾根道を野田尻まで進んでいる。甲州街道ができるまでは、上野原から大月方面・鳥沢に抜ける道は、仲間川と仲山川(八ツ沢)の沢道、そして桂川に沿った道といった三つのルートがあった、と言う。上にもメモしたが、川沿いの道は崖崩れなどといった不安定要素も多く、また、そもそもが峻険の崖道でもあったであろうから、公道には比較的安定した尾根筋を選んだのではなかろうか。我流の解釈。真偽のほど定かならず。 ちなみに、桂川の南側に慶長古道が残る、という。慶長古道、って幕府によって整備された五街道の影に埋もれてしまったそれ以前の道筋、である。
鶴川宿
橋を渡ると鶴川宿の案内。甲州街道唯一の徒歩渡しがあった、とか。とはいうものの、冬には板橋が架けられた、という。尾根に向かって台地に上る。街並は落ち着いた雰囲気。町中に鶴川神社。長い石段を上り、牛頭天王にお参り。天王さま、ということで信仰されていたのだろうが、明治期に天王=天皇、それって畏れ多し、ということで、鶴川神社といった名前に改名したのだろう、か。これまた我流解釈。真偽のほど定かならず。
先に進むと三叉路。「鶴川野田尻線」という案内に従い左に折れ、上り坂を進む。台地の北には仲間川の低地。尾根道を歩いている事を実感する。四方の眺め、よし。本当にいい景色である。この数年いろんなところを歩いたが、大勢の仲間とハイキングするにはベストなコースのひとつ。広がり感が如何にも、いい。
中央高速・鳶ヶ崎橋
しばらく進むと中央高速に架かる鳶ヶ崎橋に。旧甲州街道はここから当分中央高速に沿って進む。というか、中央高速が旧甲州街道の道筋に沿ってつくられた、というべきだろう。道を通すにはいい条件の地形であった、ということ、か。
しばらく進むと中央高速に架かる鳶ヶ崎橋に。旧甲州街道はここから当分中央高速に沿って進む。というか、中央高速が旧甲州街道の道筋に沿ってつくられた、というべきだろう。道を通すにはいい条件の地形であった、ということ、か。
大椚(おおくぬぎ)一里塚
中央高速を越えちょっとした坂道を台地上に。広々とした台地上に大椚一里塚。塚はなく、江戸から19番目という案内板が残る、のみ。先に進むと大椚の集落。 歩きながら、南の地形が気になる。少し窪んだあたりが仲山川筋だろう、か。その向こうの高まりは御前山であろう、か。御前山の向こうには桂川がながれているはず、などと、あれこれ見えぬ地形を想像する。如何にも楽しい。
中央高速を越えちょっとした坂道を台地上に。広々とした台地上に大椚一里塚。塚はなく、江戸から19番目という案内板が残る、のみ。先に進むと大椚の集落。 歩きながら、南の地形が気になる。少し窪んだあたりが仲山川筋だろう、か。その向こうの高まりは御前山であろう、か。御前山の向こうには桂川がながれているはず、などと、あれこれ見えぬ地形を想像する。如何にも楽しい。
吾妻神社
ゆったりした集落を歩いてゆくと吾妻神社。境内脇に大椚観音堂がある。神も仏も皆同じ、神は仏の仮の姿、といった神仏習合の名残をとどめているのだろう。境内には大杉が屹立する。吾妻は「あずまはや(我が妻よ、もはやいないのか)」、から。日本武尊(やまとたける)が妻の弟橘姫を想い嘆いた言葉。先日足柄峠を歩いたときも日本武尊のあれこれが残されていた。足柄峠を越えて東国を平定に来た、ということらしい。
長峰の史跡
吾妻神社を越えると道は北に曲がり、中央高速に接する。しばらく中央高速に沿って進むと長峰の史跡。戦国時、このあたりに砦があった、よう。周囲を見渡せる尾根道。狼煙台としてはいいポジションである。道脇にあった説明文の概要をメモする;
長峰の史跡;長峰とは、もともとは鳶ケ崎(鶴川部落の上)から矢坪(談合坂上り線SA)に至る峰のことであった、が、戦国時代、上野原の加藤丹後守が出城といった砦をこの地に築いたため、いつしか、このあたりを長峰と呼ぶようになった。丹後守は武田信玄の家臣。甲斐の国の東口で北条に備えた。
当時、この地は交通の要衝。要害の地。また、水にも恵まれる。砦の北側は仲間川に面した崖である。南面には木の柵を立て守りを固めていた。柵の東側に「濁り池」。その西北部に「殿の井」と呼ばれる泉があった。濁り池は、100平方メートルの小池。いつも濁っていたのが名前の由来。殿の井は、枯れることのない湧水。殿が喉を潤したので、この名がついたのだろう、と。現在この史跡の真ん中を中央高速が走っている。
長峰の史跡
吾妻神社を越えると道は北に曲がり、中央高速に接する。しばらく中央高速に沿って進むと長峰の史跡。戦国時、このあたりに砦があった、よう。周囲を見渡せる尾根道。狼煙台としてはいいポジションである。道脇にあった説明文の概要をメモする;
長峰の史跡;長峰とは、もともとは鳶ケ崎(鶴川部落の上)から矢坪(談合坂上り線SA)に至る峰のことであった、が、戦国時代、上野原の加藤丹後守が出城といった砦をこの地に築いたため、いつしか、このあたりを長峰と呼ぶようになった。丹後守は武田信玄の家臣。甲斐の国の東口で北条に備えた。
当時、この地は交通の要衝。要害の地。また、水にも恵まれる。砦の北側は仲間川に面した崖である。南面には木の柵を立て守りを固めていた。柵の東側に「濁り池」。その西北部に「殿の井」と呼ばれる泉があった。濁り池は、100平方メートルの小池。いつも濁っていたのが名前の由来。殿の井は、枯れることのない湧水。殿が喉を潤したので、この名がついたのだろう、と。現在この史跡の真ん中を中央高速が走っている。
長峰砦の案内もあった。概要をメモ;長峰砦;やや小規模な中世の山城。この付近は戦国時代、甲斐と武蔵・相模が国境を接するところ。この砦は、当時、こういった国境地帯によく見られる「国境の城」と呼ばれるもの。周辺の城と連携をとり、国境警護の役割を担っていた。砦は、何時頃、誰によって築かれたか、といったことは不明。が、中央高速の拡張工事に際し調査した結果、郭、尾根を切断した堀切、斜面を横に走る横堀跡などが見つかった。
また、長峰と呼ばれていた尾根状地形のやや下がったあたりに、尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続敵に確認された。これは江戸期の「甲州街道(甲州道中)」に相当するものと見られる。
長峰砦跡は、歴史的全体像を把握するにはすでに多くの手がかりが失われている。が、この地には縄文時代以来の活動の跡も断片的ではあるが確認できる。ここが 古くからの交通の要衝であったということである。当然戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われうことになる。ために、交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれた、と。その後、江戸時代になると、砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備された、と。
長峰砦もそうだが、このあたりには南北に砦や狼煙台が連なる。北から、大倉砦、長峰砦、四方津御前山の狼煙台、牧野砦、鶴島御前山砦、栃穴御前山砦である。大倉砦は鶴川、仲間川筋からの敵に備える。この長峰砦は尾根道筋に備え、四方津御前山の狼煙台と牧野砦は仲山川(八ツ沢)筋の敵に備え、桂川南岸の島御前山砦、栃穴御前山砦は桂川筋に備える。そしてこれら砦・狼煙台群の前面にあって上野原城が北条に備えていた、と言うことだろう。丁度遠藤周作さんの『日本紀行;「埋もれた古城」(光文社)』を読んでいたのだが、そこに群馬の箕輪城の記事があった。この城も支城群があるそうな。主城だけでなく、支城・砦・狼煙台といった防御ネットワークを頭に入れた城巡りも面白そう。
長峰砦跡は、歴史的全体像を把握するにはすでに多くの手がかりが失われている。が、この地には縄文時代以来の活動の跡も断片的ではあるが確認できる。ここが 古くからの交通の要衝であったということである。当然戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われうことになる。ために、交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれた、と。その後、江戸時代になると、砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備された、と。
長峰砦もそうだが、このあたりには南北に砦や狼煙台が連なる。北から、大倉砦、長峰砦、四方津御前山の狼煙台、牧野砦、鶴島御前山砦、栃穴御前山砦である。大倉砦は鶴川、仲間川筋からの敵に備える。この長峰砦は尾根道筋に備え、四方津御前山の狼煙台と牧野砦は仲山川(八ツ沢)筋の敵に備え、桂川南岸の島御前山砦、栃穴御前山砦は桂川筋に備える。そしてこれら砦・狼煙台群の前面にあって上野原城が北条に備えていた、と言うことだろう。丁度遠藤周作さんの『日本紀行;「埋もれた古城」(光文社)』を読んでいたのだが、そこに群馬の箕輪城の記事があった。この城も支城群があるそうな。主城だけでなく、支城・砦・狼煙台といった防御ネットワークを頭に入れた城巡りも面白そう。
野田尻宿
中央高速脇の側道を進み、高速に架かる新栗原橋を渡り、高速の北側を少し下り加減に進む。ほどなく野田尻の集落となる。江戸から20番目の宿場。ゆったりとした、いい雰囲気の街並である。本陣跡には明治天皇御小休所址が。明治13年の山梨巡行の折のこと。それに備えて街道の拡張・整備が行われた、ってどこかで読んだことがある。
町中に大嶋神社。由来などよくわからないが、大嶋神社って、宗像三女神の次女でる湍津姫神が鎮座する宗像の大嶋からきているのだろうか。奥津島神社って書かれる神社も多い。集落の北には仲間川、南は中央高速が迫る。
荻野一里塚
集落のはずれに西光寺。9世紀はじめに開かれた歴史のあるお寺さま。あれこれとメッセージの書かれたボードが、あちこちに掛かっている。お寺の手前に「お玉ヶ井」の石碑。旅籠で働く美しい娘が恋の成就のお礼に野田尻の一角に湧水をプレゼント。この娘、実は長峰の池の竜神であった、とか。
西光寺の手前に南に進む道。すぐ先に高速の橋桁が見える。旧甲州街道はこの道ではなく、西光寺の北の三叉路から南に廻りこむように進む。直進すれば仲間川筋に出て、源流への道筋が続いているようだ。
西光寺の裏の坂道をのぼってゆく。中央高速を越えると杉林の道。これはいいや、とは思うまもなく舗装道路に。ゆるやかな上り。しばし進むと道の擁壁の上に荻野一里塚の説明。案内だけで一里塚は残っていない。
矢坪
中央道の遮音壁に沿って進み、矢坪橋で再び中央道を越えて北側に。中央高速はこのあたりで南西に大きく曲がる。直進すれば山塊に当たるわけで、山裾を縫うように下ってゆく。一方旧甲州街道は山へと直進する。なぜだろうと地形図をチェック。山の裾には多くの沢が見える。沢越えを避けるため、沢筋の影響のない山の道を進むのではなかろうか。
矢坪橋を渡るとすぐに右に上る小道が分かれる。この道は戦国期の古道とか。旧甲州街道は県道の道筋のようだが、どうせのことなら舗装道路より山辺の小道がよかろうと右に折れる。入り口に旧古戦場の案内;「長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔古戦場となったところ。享禄3年(1530)、北条氏縄(綱の間違い、かなあ?)の軍勢が矢坪坂に進軍、待ちかまえるは坂の上の小山田越中守軍。激しい戦いが行われたが多勢に無勢、小山田軍は敗退して富士吉田方面に逃げた」という。武田と北条のせめぎ合いが、こんなところまでに及んでいたか、と感慨新た。
荻野一里塚
集落のはずれに西光寺。9世紀はじめに開かれた歴史のあるお寺さま。あれこれとメッセージの書かれたボードが、あちこちに掛かっている。お寺の手前に「お玉ヶ井」の石碑。旅籠で働く美しい娘が恋の成就のお礼に野田尻の一角に湧水をプレゼント。この娘、実は長峰の池の竜神であった、とか。
西光寺の手前に南に進む道。すぐ先に高速の橋桁が見える。旧甲州街道はこの道ではなく、西光寺の北の三叉路から南に廻りこむように進む。直進すれば仲間川筋に出て、源流への道筋が続いているようだ。
西光寺の裏の坂道をのぼってゆく。中央高速を越えると杉林の道。これはいいや、とは思うまもなく舗装道路に。ゆるやかな上り。しばし進むと道の擁壁の上に荻野一里塚の説明。案内だけで一里塚は残っていない。
矢坪
中央道の遮音壁に沿って進み、矢坪橋で再び中央道を越えて北側に。中央高速はこのあたりで南西に大きく曲がる。直進すれば山塊に当たるわけで、山裾を縫うように下ってゆく。一方旧甲州街道は山へと直進する。なぜだろうと地形図をチェック。山の裾には多くの沢が見える。沢越えを避けるため、沢筋の影響のない山の道を進むのではなかろうか。
矢坪橋を渡るとすぐに右に上る小道が分かれる。この道は戦国期の古道とか。旧甲州街道は県道の道筋のようだが、どうせのことなら舗装道路より山辺の小道がよかろうと右に折れる。入り口に旧古戦場の案内;「長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔古戦場となったところ。享禄3年(1530)、北条氏縄(綱の間違い、かなあ?)の軍勢が矢坪坂に進軍、待ちかまえるは坂の上の小山田越中守軍。激しい戦いが行われたが多勢に無勢、小山田軍は敗退して富士吉田方面に逃げた」という。武田と北条のせめぎ合いが、こんなところまでに及んでいたか、と感慨新た。
座頭転がし
急な小道を上る。武甕槌(たけみかづち)神社入口の案内。少々石段が長そうなのでお参りはパス。なにせ家をでたのが少々遅く、日暮れが心配。先を急ぐと民家が。まことに大きな白犬に吠えられる。恐る恐る民家の庭先といった道を抜け、森を進む。ほどなく道が開ける。下に県道が見える。20mほどもありそう。柵があるからいいものの、なければ高所恐怖症のわが身には少々怖い、ほと。
柵が切れてフェンスになったところに「座頭転がし」。県道の工事で山肌を削りもとの地形より険しくはなっているのだろうが、それでも座頭が転んでもおかしくは、ない。先に進むとほどなく県道に合流。安達野のバス停。新田の集落に出る。
急な小道を上る。武甕槌(たけみかづち)神社入口の案内。少々石段が長そうなのでお参りはパス。なにせ家をでたのが少々遅く、日暮れが心配。先を急ぐと民家が。まことに大きな白犬に吠えられる。恐る恐る民家の庭先といった道を抜け、森を進む。ほどなく道が開ける。下に県道が見える。20mほどもありそう。柵があるからいいものの、なければ高所恐怖症のわが身には少々怖い、ほと。
柵が切れてフェンスになったところに「座頭転がし」。県道の工事で山肌を削りもとの地形より険しくはなっているのだろうが、それでも座頭が転んでもおかしくは、ない。先に進むとほどなく県道に合流。安達野のバス停。新田の集落に出る。
犬目宿
県道をどんどん進むと犬目宿。落ち着いたいい雰囲気の町並み。標高は510m強。桂川筋が標高280m程度であるので、330mほども高い位置。安定した街道を通すには、険峻な谷筋、入り組んだ沢筋を避け、ここまで上らなければならなかったのであろう。
義民「犬目の兵助」の生家の案内。概要をメモ;天保四年(1833)の飢饉に引き続き、天保七年(1836)にも大飢饉。餓死者続出の悲惨な状況。代官所救済を願い出ても門前払い。万策窮し、犬目村の兵助などを頭取とした一団が、米穀商へ打ち壊し。世に言う、『甲州一揆』。
このとき兵助は四十歳。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されている。一揆後、兵助は逃亡の旅に出る。秩父に向かい、巡礼姿になって 長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢へと一年余りの逃避行。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没した、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
君恋温泉
集落の外れは枡形の道。城下町などに敵の侵入を防ぐ鍵形の道がここで必要なのかどかわからないが、ともあれ、道脇の寶勝寺、白馬不動尊などを見やりながら先
に進む。道は心もち上りとなっている。いくつかのカーブを曲がり歩を進めると君恋温泉。いい名前。名前の由来は「君越(きみごう)」から。日本武尊(やまとたける)が妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を想いつつ、この地を進んだ、とか。日本武尊が「君越(きみごう)」から振り仰いだ山が裏にそびえる扇山(仰ぎ山)、ということだ。とはいうものの、仰ぎ見たと伝えられるところはあちこちにある。日本武尊、大人気である。このあたりが今回の標高最高点550m強あるようだ。近くには恋塚って地名もある。その恋塚に進む。
恋塚の一里塚
君恋温泉からはやっと下りとなる。少し進むと道脇にこんもりとした塚。恋塚の一里塚。日本橋から21里。一里塚って箱根八里越えのとき、はじめて見たのだが、道の両側に土を盛った塚をつくる。わかりやすいとは思うのだが、大きさ9m、高さ3mほどの塚。そこまでする必要があるのだろうか、少々疑問。とはいうものの、遠くから距離の目安がわかるのは有難い、か。
恋塚の一里塚
君恋温泉からはやっと下りとなる。少し進むと道脇にこんもりとした塚。恋塚の一里塚。日本橋から21里。一里塚って箱根八里越えのとき、はじめて見たのだが、道の両側に土を盛った塚をつくる。わかりやすいとは思うのだが、大きさ9m、高さ3mほどの塚。そこまでする必要があるのだろうか、少々疑問。とはいうものの、遠くから距離の目安がわかるのは有難い、か。
中野
道をどんどん下る。途中、馬宿地区には40mほどではあるが、石畳の道が残っていたそうだが、分岐の細路を見逃した。馬宿から山谷へと進むと開けたところから富士山が見えてくる。美しい。山谷の集落の大月CCへの入口を見やり、どんどん下る。日暮れとの勝負といった按配。10分強歩くと中野の集落。ここまで来れば一安心。
道をどんどん下る。途中、馬宿地区には40mほどではあるが、石畳の道が残っていたそうだが、分岐の細路を見逃した。馬宿から山谷へと進むと開けたところから富士山が見えてくる。美しい。山谷の集落の大月CCへの入口を見やり、どんどん下る。日暮れとの勝負といった按配。10分強歩くと中野の集落。ここまで来れば一安心。
ゆったりとした風景の中をさらに下ると中央高速の巨大な橋桁。深い沢を一跨ぎ。こんな芸当のできない旧甲州街道は、自然の地形に抗うことなく、沢を避け尾根を登り、再び沢を避け尾根を下っている。今と昔の道の違いがちょっとだけ実感できた。
下鳥沢
下鳥沢
中央高速の橋桁をくぐり、先に進むとほどなく現在の甲州街道・国道20号線に合流。久しぶりに車の騒音を聞きながら鳥沢駅に進み、本日の予定終了。上野原から17キロ程度の散歩。時間がなかったので3時間強で歩き終えた。
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