荻窪用水;箱根湯本から小田原へ

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先日、芦ノ湖の水を箱根の外輪山を穿って駿河国駿東郡深良、現在の静岡県裾野市に流す箱根・深良用水を歩いた。箱根周辺用水散歩の第二回は荻窪用水。芦ノ湖を源流点とする早川の水を、小田原の荻窪へと導く。箱根湯本で早川の水を取水し、山地を17もの隧道で穿ち、掘割溝をもって入生田、風祭、板橋の山地を潜りぬけ、水の尾地区の地下を通りぬける。荻窪地区に入ると用水は荻窪川に落ち、そこからは掘割の水路となって進む。途中には「そらし水門」と呼ばれる分水門があり、山崎、入生田、風祭、水の尾、板橋の田畑に落ちる。
この用水の完成により、水が乏しきゆえに貧村を余儀なくされていた荻窪に20町歩(地域全体では60町歩に及ぶ、と言う)の新田が生まれることになった、と。一町歩とは3000坪であるから、20町歩は6万坪。江戸時代は一町歩で平均40俵の米の収穫があった、と言うから、20町歩では800俵。現在一人が1年間に食べるコメは一俵強というから、おおよそ800名分の収穫をもたらした、と言うことだろう。
全行程7キロ以上にも及ぶ荻窪用水であるが、その工事の記録はほとんど残っていない。荻窪用水は川口広蔵という一介の農民が主導的役割を担ったようであり、これも先日歩いた深良用水と同様に、お武家さまとしては忸怩たる思いがあったのだろう、か。
荻窪用水のことを知ったのは、たまたま古本屋で見つけた『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』を読んでから。昭和53年発行のものであり、現在では地理など少々状況は変わっているとは思えども、ポケットならぬリュックに本を差し込み、用水フリークの会社の同僚とふたり、散歩に出かけることにする。
ちなみに、荻窪用水は元々、湯本堰とか手段堰などと呼ばれていた。荻窪用水(堰)となったのは、大正12年の関東大震災時以降。修理を機に、当時の足柄村の村長が、荻窪への用水であるとすれば荻窪との名称が妥当とした、と(『近世小田原ものがたり』より)。



本日のルート:箱根登山鉄道・箱根湯本駅>荻窪用水早川取入口>そらし水門よりの分水①>そらし水門②水神様>発電所分水点>箱根登山鉄道・入生田駅>招大寺>稲葉一族の墓>鉄牛和尚の寿塔>長興山のしだれ桜>荻窪用水散策路分岐>開渠>細い急な坂>(芳之田隧道)>(烏帽子岩隧道)>丸山隧道>開渠>急な上り坂>沢筋>沢筋に沿って細路を下る>滑沢隧道>開渠>萬松院>風祭の一里塚>萬松院>丸塚隧道=荻窪用水の案内図>開渠>丸塚隧道入口へ向かうが不明>戻る>開渠>山県水道水源地>開渠>桜田隧道>分岐多数>板橋用水>荻窪用水幹線>荻窪川>煙硝蔵堰取水口>厚木小田原道路>煙硝蔵堰>荻窪用水溜池跡>掘田堰>日透上人の墓>水車>市方神社=川口広蔵の碑>めだかの学校>小田急線・小田原駅

箱根登山鉄道・箱根湯本
下北沢駅から折よく到着した小田原行き急行に乗り、のんびりと小田原駅に。そこで箱根登山鉄道に乗り換え、といっても、同じホームの端っこにホームがあるのだが、ともあれ、ホームでしばしの待ち時間の後、箱根湯本に向かう。途中、入生田で多くの人が電車を下りる。頃は桜の季節でもあり、入生田駅の北にある長興山のしだれ桜を見に行く人たちではなかろうか。我々も後ほど訪れる予定。
山地と早川の間の崖線に沿って電車は走り、箱根登山鉄道・箱根湯本駅で下車。駅前の箱根町観光案内書に荻窪用水の資料か地図の有無を尋ねるが、残念ながら用水路は小田原市域、ということで入手できず。基本、成り行きで進むことに。

荻窪用水・早川取水口
箱根湯本駅から国道一号線を塔の沢方面に進む。土産物屋の立ち並ぶ箱根湯本の商店街を抜け、湯本橋を渡り、函嶺洞門への道の中程、国道に沿って取水口がある。取水口にはラバー・ゲート式堰があり、東京電力の表示があった。『近世小田原ものがたり』によれば、荻窪用水は、元々は灌漑用水路であったが、現在、といっても、本が発行された昭和53年のことではあるが、水量の60%は発電用、残りが灌漑用として使われている、と。発電所は箱根登山鉄道の山崎駅近くにあり、そこでつくられた電力は、畑宿発電所と三枚橋発電所とともに、主として箱根登山鉄道に使われている。

山崎
この地で取水された用水は向山の山地を穿った隧道に入っていくのだが、その導水路の一部は見えるにしても、残念ながら隧道入口は見ることができなかった。山地になんらかの用水路への手掛かりがないものかと、気を配りながら再び箱根湯本駅方面へと戻る。駅を越え三枚橋(先ほどの三枚橋発電所は須雲川・畑宿近くにあり、ここではない)の手前に山地から下るささやかな放水路があった。『近世小田原ものがたり』によれば、湯本近辺には旭町、開沢、天王沢といったそらし水門があったとのことである。そのどれかの名残なのか、単なる沢水なのか不明ではあるが、とりあえずチェックをすべく、道脇から山地へと上る小径を進む。
遮断機もない小田急線の踏切を越え、沢に沿って登ると山腹を縫う小径に出る。沢は更に先まで続いている。そらし水門でもあろうかと、ブッシュを掻き分け山に入るが、それらしき名残もなく、元の小径まで引き返す。
道下に小田急線、早川を眺めながら山腹の小径を進む。板を三枚合わせたが故とか、念仏三昧から、といった由来のある三枚橋を見やりながら東へと道なりに進む。山崎の辺りに道脇に水神さまの祠。脇に沢もあり、またも、そらし水門の名残を求め沢を上る。急な山道を結構上るが結局、分水点も見あたらず、またまた小径へと戻る。

山崎発電所分水堰
小径を再び東へ向かう。崖下は山崎のあたり。山崎って、幕末の戊辰戦争の時、幕府の遊撃隊と官軍との間で戦が行われたところ。遊撃隊の伊庭八郎、上総国請西藩主・林忠祟の活躍など、『遊撃隊始末;中村彰彦(文春文庫)』に詳しい。それにしても、幾多の徳川恩顧の大名がありながら、徳川幕府のために直接武器を取って戦ったのが、この若殿くらい、というも、なんだかなあ、という気もする。
道なりに進む。所々に民家があったり廃屋があったり。と、前方に水門ゲートが見えてきた。近づくとゲートの北には水源池。ゲートから下に水圧鉄管が一直線に下る。崖下、国道脇に山崎発電所があるので、水はそこに送られているのだろう。
鉄柵に沿って上ると隧道から勢いよく水が出てきている。山地の隧道を走ってきた荻窪用水とやっと出会えた。現在、早川で取水された用水は隧道を流れ来る、とのことだが、荻窪用水がつくられた頃は、隧道や堀割溝、そして、断崖面には箱堰を連ね、足を付けて橋のようにして沢を渡した、と(『近世小田原ものがたり』より)。発電用に使われるようになってから、保安のためにも、隧道を掘り抜くことにしたのだろう。関東大震災のため破損した用水の修理を引き受ける代わりに、発電用の水利権を得た、と言う。

山神神社
道はここで行き止まり。周囲を見渡すも、下りの道は如何にしても見つからない。もと来た道を引き返す。しばらく歩くと、道下に祠らしきものが目に入る。成り行きで細路を下り祠にお参り。祠に名前は無かったのだが、後でチェックすると山神神社とあった。祠の脇に石仏と庚申供養塔があったが、石仏は大日如来。どちらも18世紀初旬のもの、とのこと。

石段を下る。鳥居の脇にお稲荷さんの祠。祠に後ろにろ六十六部供養塔がある。六十六部とは、鎌倉時代末期に始まり、法華経を全国66の霊場に一部ずつ納めるべく諸国を遍歴した巡礼僧。供養塔はその六十六部(略して六部)が目的達成の記念と功徳を他者に施すため、16世紀半ばにつくられた。


牛頭天王
道を下り小田急線の遮断機のない踏切を越えて国道に戻る。国道をしばし歩く。ほどなく、道脇に牛頭天王神社への道がある。場所からすれば、先ほどの発電所への分水堰の少し手前。石段を上りお参り。
明治13年、このあたりに流行った疫病退散を祈って造られた、と。とはいうものの、神仏習合の見本といった牛頭天王の社は、明治初年の神仏分離令により、八坂神社とかスサノオ神社といった名前に変わっているのが大半であり、明治13年に「牛頭天王」神社ができるのは、いかにも不自然。ではあるのだが、詳しいことはよくわからない。

明治初年の神仏分離令により、全国の多くの牛頭天王は八坂神社と改名した。それは本家本元、京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。
ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
もっとも、牛頭天王さまには京の八坂さんと別系統のものがある。尾張の津島神社系がそれ。小田原にある別の牛頭天王さまは津島神社系とも言われるので、この地の天王さまは、はてさて、どちらの系統であろうか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

 入生田(いりゆうだ)
牛頭天王から国道に戻り先に進むと、ほどなく山麓から一直線に下る送水管。さきほど訪れた荻窪用水の分水堰より、山崎発電所に水を送る。発電所の建屋は黒部川発電所も設計したという、モダニズム建築の設計者・山口文象氏の手になる、と言う。
トラックの風圧に耐えながら国道を入生田駅へと進む。入生田って、山懐に入り組んだところにある停湿地、といった意味。「ウダ・ヌダ」は停湿地の意味。奈良の宇陀(ウダ)、足柄の怒田(ヌダ)、猪が泥水浴する「ヌタバ」に、その意が残る(『あるく・見る 箱根八里;田代 道彌(かなしんブックス)』)。

紹大寺
入生田の駅近く、紹大寺としだれ桜の道案内に従い進む。ほどなく広い参道に出る。桜見物の人が多い。紹大寺は、小田原城主・稲葉正則が城下に父母の菩提をとむらうべく建てた臨済宗の寺がそのはじまり。その後、17世紀の中頃、宇治の黄檗宗万福寺から隠元禅師の弟子の鉄牛和尚を招き、この地に開山。往時、東西1.6km、南北1.1kmにおよぶ寺域には幾多の堂塔伽藍が建ち並んだ、とのことだが、現在はその構えを偲ぶ縁(よすが)は残っていない。

参道の総門跡の先に清雲院。火災により焼失した堂宇のうち、唯一の残ったもの。子院ではあったが、現在招大寺の山号を受け継いでいる。品のいい構えである。
鬱蒼とした杉木立の中、石段を上る。途中に石地蔵跡の案内。石地蔵は稲葉正則の父正勝の家臣である塚田杢助(もくすけ)正家が、主君の一周忌にあたり殉死したことを供養して建てられたという。

長興山のしだれ桜
石段を上り終えると、透天橋と呼ばれる石橋が残る。その先が紹大寺の伽藍跡地。現在はミカン畑となっている跡地を先に進むと、その奥に石段があり、そこが稲葉家の御霊屋敷跡。さらに、その奥、杉林の中に稲葉一族の御墓。春日局の墓もある。三代将軍家光の乳母として権勢を誇った春日局は稲葉正則の父正勝の実母。その墓は、正則が祖母の追福のために造った供養塔、と。

墓所を離れてしだれ桜へと向かう。道脇には文字が刻まれた石が残る。刻銘石と呼ぶようだ。道なりに進むと、紹大寺の開山・鉄牛和尚の寿塔。17世紀末に鉄牛の長寿を祝い建てられた。左手の石段を登りお参りをすませ、道を少し下り加減にすすむと開けた場所にでる。茶店の前に堂々としたしだれ桜。高さおよそ13m。樹齢300年以上、とも。桜見物の人が多い。長興山は紹大寺の山号。

荻窪用水散策路分岐
しだれ桜を少し下ると小さな沢筋にあたる。そこに掛かる小さな橋の手前に荻窪用水散策路のコース案内。招大寺への参道は沢に沿って下るが、散策路は橋を渡り東に向かう。 ほどなくささやかではあるが荻窪用水の開渠が現れる。

細い急な下り坂を下りると一瞬の開渠。すぐに芳之田隧道に入る。開渠が一瞬姿を現すも、すぐ烏帽子岩隧道に吸い込まれる。道案内がしっかりしており、迷うことはない。道なりに進むと丸山隧道に。隧道入口は分からなかったのだが、この丸山隧道と烏帽子岩隧道あたりが堅い安山岩に阻まれ最も難工事の区間であった、と言う。丸山隧道を越え、急な上り坂を進み、上がりきると沢にあたる。沢に沿ってくだる途中に開渠が見える。滑沢隧道だろう。足下の不安定な沢を道なりに下ると萬松院に出る。




萬松院
藁葺き屋根の本堂におまいり。北条氏滅亡後、小田原城主になった大久保忠世が、徳川家康の長男信康の霊を祀るために建てた、と言われる。織田信長の命により、信康に死を賜る使いとして赴いた大久保忠世は終生これを悔い悩んだ、と言う。信長が信康を誅した理由は諸説あり。
大久保氏は箱根以西の豊臣恩顧の諸大名への抑えとしてこの地を領した。家康の、覚えめでたき大久保忠世ではあったが、子の忠隣は政争に敗れ失脚し小田原の地は天領となる。その後、阿部氏が上総大多喜から移るも、岩槻に転封し再び天領に。稲葉氏がこの地を領したのはその後のこと。その後稲葉氏が政争に敗れて越後高田に移った後、大久保氏が復帰し幕末を迎えることになる。

風祭の一里塚
萬松院から少し下がったところに旧東海道が通る。町並みも少しその風情が残る。その交差点に風祭の一里塚の碑。塚は残って居らず、ただ碑が残るのみ。一里塚は江戸時代の五街道に旅人の旅程の目安の造られたものであり、直径3m強、高さ3m弱の塚を築き、その上に榎を植えるのが基本であった。通常道の両側に築かれたとのことだが、現在はその名残は何もない。風祭の一里塚の次は畑宿にある。先日旧東海道を箱根湯本から歩いたとき、早川支流・須雲川を上った畑宿に、昔の姿を残す一里塚があった。一里塚の碑の脇に、二体の道祖神。一帯は丸彫りの仏様のような形をしており、「伊豆形道祖神」と呼ばれる。もう一体は祠形の「稲荷形道祖神」。
風祭の名前の由来だが、これは日本古来の狩猟信仰に関係がある、と。諏訪神社にも、神官が山に籠もり狩りをおこない、その生け贄を神に捧げるのだが、その一連の神事を「風祭」と称した、と(『近世小田原ものがたり』より)



丸塚隧道
一里塚から萬松院の裏手を進み丸塚隧道に。裏から見た本堂の藁葺き屋根は風雨に晒され少々無残。道を上ると丸塚隧道。隧道から出た用水は、少し長い堀割溝となっている。山麓を掘り割る水路の風情は、用水フリークには、なかなか見応えがある。用水脇にあるコース案内を確認し、階段状の道を上り進むと堀割溝。ほどなく山県水道水源池に。このあたりの堀割溝はいかも疎水といった雰囲気がある。荻窪用水は日本疎水百選に選ばれているとのことだが、このあたりのアプローチは如何にも納得。疎水と用水の違いはよくわからないが、疎水とは「灌漑や舟運のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること」と定義されているので、同じようなものだろう。





山縣水道水源地
山縣水道水源地とは、板橋にあった明治の元老・山縣有朋の別荘、「古稀庵」のために設けられた水道の水源地。円形の大きな池となっている。
池脇にある案内をメモ;「山縣水道水源地:(所在地)小田原市風祭:(海 抜)約93メートル; これは、わが国近代史に大きな影響を与えた明治の元老山縣有朋が、晩年を送った別荘古稀庵のための水道の水源地として作ったもの。
明治42年(1909年)にできあがり、老公自身が設計をした庭園等に活用され、後には近くの益田邸、閑院宮邸などの飲料水にも用いられた。個人用水道としては、大規模で、しかも早い時期の水道施設として上下水道史上でも注目されている施設。荻窪用水を分水して、直径26メートル、深さ4メートルの池で、1,300トンの水を沈殿させ、鋳鉄の管で1,860メートル先の古稀庵(海抜33メートル)まで送水していた。山縣公は、この水を愛しながら政治や茶会を楽しみ、大正11年(1922年)古稀庵で亡くなった。:飛び去ると見れば又来てやり水の 岩根はなれぬ庭たたきかな(山縣公の歌)小田原市教育委員会」。 山縣有朋の別荘は明治の実業家・益田孝がもっていた掃雲台の別邸を譲り受けたもの、という。三井財閥の基礎を気づいた益田翁は茶人としても知られる。

桜田隧道
山縣水道水源池を離れ、用水堀割に沿って進む。しばらく進み、用水は桜田隧道先で分岐される。桜田隧道は別名、「下水の尾隧道」とも呼ばれ、全長700mほどあった、とか。その昔、「下水の尾隧道」を出ると、用水には高さ7尺、幅6尺の水門があった。そらし水門の最大のもの、であったとか。ここで用水は二流に別れ、一流は板橋水門を潜り、堤新田を経て板橋に落ちる。途中で狩股隧道などの小さな1,2の隧道を過ぎて、大半は堀割溝で板橋の香林寺の西側に落ちて、部落を流れる上水道に注入する、と言う。地名ゆえに、板橋堰と呼ばれる。
そしてもうひとつの流れが用水路の本流。「下水の尾」を出ると、用水は荻窪川に落ち、沢筋を進み、荻窪地区の窪地を流れることになる。
分岐点あたりからは小田原市街が見渡せる。結構な眺めである。周囲を見渡すに、本流や板橋堰のほかにも分流がある。『近世小田原ものがたり』によれば、桜田隧道の分岐点のあたりには、煙硝蔵堰、石原堰、掘田堰、野村屋敷堰といった堰がある、という。荻窪地区には、低地だけでなく丘陵上にも耕地があるため、堰をもうけて分流したものである。
本流に沿って野道を下り、荻窪川の沢筋かとも思える煙硝蔵堰取水口を見やり、煙硝蔵堰に。更に先に進み小田原厚木道路の風祭トンネル上を越える。荻窪とか風祭トンネルは箱根ドライブの途中、小田原厚木道路で幾度出会ったことだろう。まさか、トンネル上をトラバースするなんて、その時は知る由も、なし。

荻窪用水溜池跡
小田原厚木道路を東に移り、道路に沿って少し北に戻る。荻窪インターチェンジ交差点で車道を東に折れ、少し進むと道の右脇に「荻窪用水溜池跡」。溜池の名残は何もなく、工事跡の更地といったところ。案内をメモ;むかし荻窪村は水不足で水田も少なく、日照りの害をうけることがたびたびあった。 そこで、組頭久兵衛たちが、坊所川上流の湧水を水源ちしてトンネルで水を引き、 溜池に集めて利用する計画をたてる。 そして、宝暦7年(1757)にこれを完成し、記念に石燈籠を山神社(辻村植物公園の奥にある)にあげる。 溜池は寛政11年(1779)に荻窪用水ができてからも利用されていたが、 後に水田となり、今では土堤跡が残るだけ。
この荻窪用水溜池は、荻窪用水が開かれるより25年ほど前に造られていた。水源は水の尾地区の北の伊張山よりの水を引いて貯水池をつくった、と。組頭久兵衛とは、荻窪地区代々の組頭、府川久兵衛とのことである。

掘田堰
道を須進むと、道の右上の丘に標識が見える。チェックに向かと「掘田堰」の案内。丘陵状に分水された用水路のひとつ。水路に沿って丘を進む。小田原の街並みの遠景が美しい。ほどなく水路は途切れ地中に潜る。道路に戻る道筋に日透上人の墓があった。屋根つき小屋風の構えが珍しい。日透上人のあれこれはメモし忘れた。

荻窪駒形の水車
道路に戻り、少々車に怖い思いをしながら進むと道脇に水車跡。荻窪駒形の水車とある。案内によれは、明治13年頃は、荻窪用水を利用した水車小屋は19もあった、とか。用水の水量は豊富。先に進み、道が二股に分かれるあたりから水路が開ける。道を左に折れ、市方神社に向かう。

市方神社
鳥居をくぐり石段を上ると社殿がある。境内に「川口廣蔵翁頌徳碑」。昭和32年に荻窪用水の功労者である川口廣蔵を称えたもの。廣蔵は名主でもなく、ましてや武士でもなく、一介の農民。土木技術の腕を買われて工事に参加した。
出身が足柄の山北でもあり、当地の用水開発に携わった名主である湯山氏の推挙によるものとされる。川口廣蔵の記録はおろか、工事の記録はほとんど残っていない。工期は20年にも及ぶとも言われるが、それさえもはっきりとはしていない。境内に同じく「荻窪灌漑溝復興碑」があるが、そこには小田原藩主大久保候が湯本より水路を開いた、と記してはあるが、廣蔵の名前はどこにも残っていない。当時小田原藩は財政難のため、この工事に資金提供をしたわけでもなく、人員動員の記録もない。実態は許可を与え、監督をし、多少の援助はするも、実際の工事は、村々の熱意と労力よったものであり、その工事の過程で頭角を現したのが廣蔵ではあろうが、それではお武家さまとしては心穏やかならず、ということで記録を残さなかったのであろう、か。

めだかの学校
市方神社から用水路に戻る。直角に曲がるところに水車小屋風の建屋。そこが「めだかの学校。童謡「めだかの学校」が生まれた舞台。童話作家茶木滋(ちゃきしげる)の作詞。昭和25年(1950)にNHKから作詞の依頼を受けた茶木は、息子と芋の買い出しの途中、このあたりでで交わした子供との会話を基に
して作った、と。
道を進み小田原税務所西交差点を南に折れ、県道74号線を進み台地を上り、そして小田原城の天守閣を臨みながら坂をくだり、小田原駅に戻り、本日の散歩を終了する。。

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