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加古川の谷中分水界を辿る旅の二日目。先回に続き、堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある加古川の谷中分水界を辿る。今回は同書にある「日本海と瀬戸内海の水争い:由良川による加古川の争奪」の地である鼓峠と栗柄峠、そして「真っ平でファジーな分水界:源流で水のつながる加古川と武庫川」の舞台であるJR宝塚線・篠山口駅辺りを訪れる。
栗柄峠と鼓峠は共に由良川水系による加古川水系の河川争奪の地ではあるが、鼓峠にはその結果としての「片峠」を見ることができると言う。片峠自体は、先日訪れた土佐・窪川盆地を囲む幾多の片峠に限らず、中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠、愛媛の三坂峠など、それほど珍しいものではない。また河川争奪も都内でも王子付近の石神井川、世田谷等々力渓谷の谷沢川、そして相模湖の南を流れる串川など、これも結構見かける。
だが、河川争奪による片峠といった「合わせ技」の地を訪れるのはこれがはじめてであり、文字面(づら)だけでないリアリティを感じることができ誠に面白かった。
また、篠山口の「真っ平でファジーな分水界」では、今回の旅の起点となる篠山口へと向かう際、つかず離れずその流れを見せていた武庫川がその主人公であった。前回のメモで記載の如く下流域では渓谷を刻む武庫川が、篠山口近くになると「知らず」消え去っており、その源流付近は真っ平な谷底平野で加古川水系の水路と繋がっている。通常の河川発達のプロセスからすれば「普通」ではない。
結論から言えば、両水系を繋ぐ水路は人工的に掘削されたものではあるが、それでも、真っ平な谷底平野で両水系が「超接近」するその因は、遥かはるか昔、加古川による武庫川の河川争奪にあった。旅の初日に見た、石生の日本一低い中央分水界形成のその因が、由良川流路の南流から北流への「逆転」にあったと合わせ、思いもかけず川の歴史での大きなドラマの一端に触れることができたように思う。丹波篠山、結構遠いよな、などと少々腰が重たかったのだが、行ってよかった。
以下、メモはじめるが、見出しのコピーは前述書籍の記事コピーを使わせて頂いた。地名は平成の大合併以前のものであり、現在の地名は本文にメモする。



(2日目) 本日のルート;
日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠
篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう>「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
 ■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)
鼓峠>由良川水系・友淵川の谷筋>鼓峠を越えて上る友淵川>谷中・中央分水界>宮田川を下る
栗柄峠;河川争奪
倶利伽羅不動尊の案内>杉ヶ谷川>倶利伽羅不動に>栗柄峠の谷中分水界

真っ平でファジーな分水界
JR宝塚線篠山口駅>北の堰(第一水門)>田松川>南の堰(第二水門)


■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■

由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)

篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう
篠山口のホテルを出発し鼓峠と栗柄峠のある篠山市栗柄に向かう。篠山口から15キロ弱、車でおおよそ20分ほどの距離である。折悪しく当日は朝から雨。足元は悪いが、分水界散歩であり、晴れの日より水の流れはわかりやすいか、と。 カーナビの誘導で、国道176号を北に進み、篠山川に栗柄峠から下る宮田川が合わさる篠山市明野で県道97号に乗り換える。
2車線の広い県道を宮田川に沿って北東に上り、篠山市栗柄に。『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には多紀郡西紀町とあるが、平成の大合併で篠山町、今田町、丹南町と合併し篠山市栗柄となったこの地に栗柄峠と鼓峠が隣り合って並ぶ。

篠山市栗柄・「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
道脇に大きな「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内が立つ。「河川争奪の見える不思議な水分(みくまり)の里 栗柄は三方を山で抱かれた山間盆地の狭い平地で水田が開けていますが、この付近は、たいへん珍しい谷中分水界の地形を形成しています。
右側の県道(丹南三和線)を2kmほど進むと、鼓(つづみ)峠の頂上に至ります。この鼓峠も日本海と瀬戸内海への分水界で、鼓峠から瀬戸内海側に流れた水は宮田川(右側の河川)となり、篠山川、加古川を経て瀬戸内海に注ぎます。 正面から流れる「杉ヶ谷川」は、この辺りで宮田川と合流するのがごく自然な形と思われますが、前方観音堂横で突如西へ折れ倶利伽羅不動の滝で4m近く落下し、滝の尻川、竹田川、由良川を経て日本海へ注ぐ不思議な谷中分水の地形となっています。
約2万年前、河川争奪によって形成されたと言われるこのふたつの川(私注;宮田川と杉ヶ谷川)が、谷中の平地内で百数拾米まで相寄り、しばらくは同じ方向に流れながら、突如方向を転じる地形は実に珍しく、しかも、二つの川が見渡せる位置で、中央分水界の形状が目のあたりに観察できる希少な地であります。一つの地区に二つもの分水界があるというのも、またきわめて珍しいことです」とあった。

さて、ふたつの分水界のどちらからはじめよう。なんとなく「杉ヶ谷川」と「宮田川」の栗柄峠・谷中分水界は解説にもあるように、結構わかりやすそう。一方、河川争奪による片峠となっている鼓峠、そしてその谷中分水界ってどんなものか、今一つ想像できない。「?」を早く解決しようと、先ずは鼓峠へと向かう。

■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)■
鼓峠


左手は栗柄峠で谷中分水界となった中央分水界(日本海と太平洋へと水を分ける)が、再び山稜の分水界となり鼓峠の鞍部へと落ちる山地。右手は水田など。水田の南には晴れていれば多紀連山の西ヶ嶽や三嶽が連なるのだろうが、生憎の雨。山霧にかすみ、その姿はみえなかった。
車はほどなく鼓峠に。この鞍部が由良川水系と加古川水系の分水界となる。栗柄峠の谷中分水界から再び山稜に登った中央分水界がこの峠に落ち、10mほどだろうかその鞍部を谷中分水界となして南の山稜へと上ってゆく。
鼓峠から先の中央分水界
Google Earthで作成
鼓峠からの先の中央分水界となる山稜を、由良川水系と加古川水系に注意しながらチェックする;分水界は鼓峠から南東の小金ヶ嶽に上り、稜線を北東に進み藤坂峠に。藤坂峠の東西で由良川水系と加古川水系・藤坂川が接近している。ほとんど繋がりかけている。藤坂峠から先は、板坂峠、雨石山へと続いているようである。
水系を頼りに中央分水界を辿ることに嵌ってしまいそうだが、本筋からあまりに離れてしまうため、この辺りで思考停止とする。

由良川水系・友淵川の谷筋


鼓峠までは緩やかな坂・平坦な県道であったが、峠を越えるとしばらくはちょっと急、その先ではドーンと落ちる。ドーンと落ちるとは言っても、県道は等高線に沿って100mほど高度を下げると緩やかな勾配で流れる由良川水系・友淵川支流の谷底に至るが、県道から見る対岸は多紀連山への連なりもあり、谷の深さが一層増し屏風のように屹立して見える。典型的な片峠となっている。
県道を下り、ヘアピンカーブを曲がり切ったところにある四阿(あずまや)近くに車を停める。そこから下流は友淵川支流が緩やかに谷底を流れる。一方その上流は友淵川が谷を刻みはじめる境目。下流の開けた谷と真逆の、木々に覆われた狭く深い谷を水路が上る。谷筋を少しだけ上り、谷を刻む雰囲気だけを感じ車に戻る。
中央分水界の峠を越えても篠山市
当日は気にならなかったのだが、メモの段階で鼓峠を越えても行政区は篠山市であることが気になった。通常、峠を境に行政区が変わるのが普通だろうと、その経緯をチェック。
この地は前述書籍の記事にあるように、元は兵庫県多紀郡西紀町。それが平成の大合併で篠山市となった。西紀町は、もと南河内村、北河内村、草山村が合併した西紀村がその母体。鼓峠を越えた一帯は草山村であったようだ。
それはそれでいいのだが、峠の向こうの草山村は福知山のほうがなにかと便利そう。何故に峠を越えた村々と合併し、かつまた福知山市ではなく、篠山市となったのだろう?幕政期の篠山藩の領地を見ると、草山村が含まれていた。その故だろうか。

鼓峠を越えて上る友淵川への流れ
峠近くに車を停め、谷を刻み峠に近づく友淵川支流の流れをチェック。深い谷を刻み県道からしばらく見えなかった友淵川支流は、峠近くで県道に接近し道脇を自然な溝となって峠を越えて上に続く。当日は雨であり、水の流れが日本海側へと流れるのをはっきり確認できた。
友淵川支流へ続く自然に刻まれた溝は、そのまま鼓峠を越え、耕地と山地の境、畦端を細い溝となって上へと続き、鼓峠へと南から落ちる山地の谷からの流れと繋がる。

水田の中、1メートルを隔てた谷中分水界
一方、ゆるやかな傾斜となる右手の耕地の畦道に沿った水路、というか溝を流れる水は、瀬戸内へと注ぐ宮田川に向かって下る。耕地の中、ほんの1メートルを隔てて日本海と瀬戸内に流れる水がニアミスしている。耕地の畦が中央分水界ということになる。

友淵川水系による宮田川上流部の河川争奪と片峠の形成
鼓峠へと落ちる南側山地の谷筋の水が友淵川支流の谷へと流れ、宮田川流域とニアミスする姿を眺めながら、この南側山地の谷筋も本来は宮田川へと流れていたのでは? そのほうが自然だよな、などと妄想する。
堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には、「鼓峠という片峠も、おそらく友淵川支流による宮田川上流部の奪取によって生じたものであろう。宮田川の源流は、昔は鼓峠の北東部にあったが、争奪後鼓峠の西側に引っ越してきたのだ。ただ、この場合は多分一度にすっ飛んできたのではなく、宮田川の源流部が頭のほうからじわじわと友淵川支流にかじり取られるのにつれて、徐々に今の場所まで後退してきたのであろうと思われる」とある。

遥かはるかの昔、今眼前に見る鼓峠へと落ちる谷筋の、更に大きく水量も多い谷筋が宮田川へと下っていたのだろうが、深い谷を刻んできた友淵川水系によってその上流部の谷を奪取された、ということだろう。
峠近くに流れ落ち、宮田川上流域とニアミスしながらも、友淵川支流へと下るささやかな谷筋の流れと書籍の記事を重ね合わせ、なんとなく同書の河川争奪・片峠形成の記事がわかったように思う。

光秀と鼓峠
鼓峠は織田信長の下知のもと、奥丹波攻め主将であった明智光秀が危機に瀕した峠とも言う。猛将赤井(荻野)直正のこもる黒井城(JR福知山線黒井駅北)の攻略戦に敗れた光秀の軍勢を、草山城(鼓峠を下った本郷)主・細見氏、八百里(篠山市北東の八百里山)城主・畑氏がこの峠で待ち伏せ光秀軍を敗走させた、と言う。
時期は天正6年(1578)との記述があるが、黒井攻めは二度あり、第一次攻略戦は天正3年(1575)、第二次攻略戦は天正5年から7年(1577‐1579)とされ、第一次攻略戦は光秀が敗れ、第二次攻略戦で黒井城を落としたという。天正6年と光秀敗走と繋がらないのだが、とりあえず「ママ」にしておく。

宮田川を下る
鼓峠近くでは源流部を失い、耕地の畦の雨水を集めた宮田川上流部も田圃を少し下ると沢からの水を集め川の姿を呈す。鼓峠の地名の由来は、山地に囲まれたこの地が、真ん中がくびれた鼓形で、その両側に川(>皮)がある「鼓田」に由来すると言われるが、両側に川があるところは、この沢が合流するあたりではあるのだが、くびれた鼓は想像できなかった。ともあれ、宮田川は県道97号を北に横切り左右の沢からの水を集め栗柄峠の南へと下る。

■栗柄峠;河川争奪■
倶利伽羅不動尊の案内

「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内地点に戻り、駐車する場所を探す。なかなか適当なところが見つからなかったのだが、行き来しているとき、案内板の箇所のある県道97号から分かれ、栗柄峠へと向かう県道69号から右に入り観音堂に向かう道脇に「倶利伽羅不動尊」の案内があった:
「郡内で一番高い高所に営まれた栗柄集落。竹田川に水を分かつ谷中分水界の起点となる峠に落差4メートル余りの滝があり、この滝壺に石造りの不動明王が祀られています。古くは三嶽修験の行場として栄えたと伝えられます。
この場所に立つと、激しく落ちる滝と憤怒の形相で静立する不動明王が、訪れる人々の心の内まで見透かし、隔世と安堵といった一種独特の雰囲気に誘ってくれます」とある。
三嶽
郡内とあるのは、この案内が篠山市に合併以前に制作されたと言うことだろう。三嶽?御嶽?地図を見ると、南の多紀連山に三嶽があり、その頂上付近に鳥居が記されている。この三嶽が山岳修験の場であり、お山に向かう身を清める水垢離の場所であったのだろうか。不詳である。それはともあれ、栗柄峠は、この倶利伽羅不動尊に由来する。

杉ヶ谷川
結局車は案内板にもあった、観音堂の境内にデポし、由良川水系・滝の尻川による加古川水系・杉ヶ谷川の河川争奪の地を辿る。
観音堂の少し西に柵に囲まれた杉ヶ谷川が北から下る。コンクリート護岸された川の上流にはダムが見える。栗柄ダムと呼ばれるこのダムの目的にはFNWとある。F:洪水調節・農地防災、N:不特定用水・河川維持用水、W:上水道用水であるから、多目的ダムということだろうか。
堤高26.7メートル、総貯水量383立法メートル。それほど規模が大きいわけではないが、ダムを造れるぐらいであるから杉ヶ谷川はそれなりの水量があった、ということだろう。

倶利伽羅不動に
観音堂から倶利伽羅不動参道を少し西に歩くと、杉ヶ谷川の手前が柵でブロックされている。猪でも出るだろうか。ともあれ、厳重な柵の閂を外し、さらに元に戻したうえで参道を先に進む。
河川争奪の地
参道に沿って流れる杉ヶ谷川は支尾根先端部でその流れを西に変える。もとは南へと下り加古川水系・宮田川に合わさっていた杉ヶ谷川が、倶利伽羅不動尊のある谷を刻んできた滝の尻川によって河川争奪され西へと下ることになったということが実感できる。
参道下を流れる水路の傾斜は緩やか。コンクリート護岸も無く、自然な姿でゆったり西に下る。
倶利伽羅不動の滝
ほどなく倶利伽羅不動尊に。落差4mという滝が見える。滝壷のお不動様にお参り。滝もさることながら、その下流も谷が深く刻まれている。滝のある固い岩盤に阻まれ、それより上流には谷を刻めなかったとはいえ、ゆるやかな宮田川の勾配と比較すれば、こちらの谷筋への流勢に抗し得なかった杉ヶ谷川の「事情」も現地に来て、はじめてわかったように思う。
片峠
栗柄峠も滝の尻川の谷底との比高差は70mほど。峠付近に谷筋を囲む山地がそれほど高くなく、鼓峠ほどの「屏風」感はないが、峠を隔てた栗柄の平坦な地を思うにつけ、ここも片峠と言ってもいいのではないだろうか。

栗柄峠の谷中分水界
倶利伽羅不動から戻り、流域を確認。おおよそ県道97号の北は杉ヶ谷川から滝の尻川といった由良川水系、県道から南は加古川水系宮田川に耕地畦からの水が流れ込んでいた。
宮田川と杉ヶ谷川という異なる水系、それも日本海と瀬戸内へと分かれる分水界を挟み、その間の距離は100メートル強、ではあるが、そのインパクトは、先ほど規模は違えども鼓峠で見た、その距離1メートル弱でニアミスする、沢から日本海へと流れる水、そして耕地の畦を瀬戸内へと下る雨水の印象に勝ることはなかった。


■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)


篠山口
鼓峠・栗柄峠を離れ「真っ平でファジーな分水界」の舞台である、JR宝塚線篠山口駅に戻る。地図で確認すると、「源流で水のつながる加古川と武庫川」の水路は、JR宝塚線篠山口駅のすぐ東に見える。成り行きで車をデポし、フラットな谷底平野にある日本海と瀬戸内を分ける中央分水界、しかもそれが区切れることなく一本に繋がる水路を辿る。

北の堰(第一水門)
国道176号大沢交差点を東に折れ、JR篠山口駅の北で福知山線(福知山線の篠山口駅までは「宝塚線」が愛称となっている)の踏切を渡り五差路を南東に進み丹南弁天交差点に。交差点から北東に進む県道299号に橋が架かり、その下をコンクリート護岸の水路が流れる。水は北へと流れ加古川水系・篠山川に注ぐ。(安田川と呼ばれるといった記事を目にした)。
水路に沿って南に進むがほどなく民家で行く手を遮られる。なりゆきで迂回し県道299号篠山口駅東交差点で水路へと向かい、橋を少し篠山川方向へと戻ると水門(堰)がある。堰を区切りに、ささやかではあるが北に流れる水と、堰に止められ淀む水に分けられる。

田松川
水路は南にも堰があり、南北どちらにも動いていない。地図にはこの水路を「田松川」と記す。明治7年(1874)篠山川と武庫川を繋ぐため人工的に開削されたもの。高瀬船を使って舟運を構想した当時の豊岡県役人田中光義氏と松島潜氏の頭文字をとったもの。舟運は数年で廃止されたが、用水路として整備されているようだ。

谷中分水界を掘り割り、人工的に開削された水路のため、加古川水系と武庫川水系を分ける分水界は曖昧とはなっているが、この水路のどこかだろう。とはいうものの、この辺りの等高線は標高200メートルと一面同じであり、どちらに「転ぶか」は人工的な何か次第ということだろうか(水路に分水界を示す木標が立つといった記事もあったが木標は見逃した)。

南の堰(第二水門)
左右に水田の広がる水路に沿って進み、田松川が篠山盆地に入る狭隘部の少し南に堰があった。その堰から、水は南へと下り武庫川となる。



武庫川源流
現在武庫川の起点は、この堰より少し南に下った宝塚線南矢代駅辺りで田松川に西から注ぐ真南条川の合流点とされる。源流は真南条川が谷底平野を遡り、真南条上で右へと山地に入った愛宕山の山麓であるようだ。
ところで、地図を見ていると、真南条川が谷底平野を遡った上流部と、篠山川へと下る水路が鍋塚池を境にニアミスしている。と言うか、鍋塚池で両水系が繋がっているようにも見える。この地武庫川と篠山川水系が繋がる谷中分水界となっているように見える。

●「真っ平でファジーな分水界」形成のプロセス●
真っ平でファジーな分水界を歩き、それではこのような地形がどのようにして造られたのかちょっと気になりチェック。その因は、これも遥かはるか昔、武庫川と加古川で起きた河川争奪にあるようだ。
「武庫川のふしぎな地形と地質;加藤茂弘」にあった野村亮太郎氏の説に拠ると、その川幅に比してアンバランスに広い谷底平野を形成することから、かつての武庫川は水量も多く、浸食力も強かったとし、そのことから篠山盆地一帯は武庫川上流の広い谷と繋がっていたと言う。そのプロセスは以下の通り;

◆約3万年前まで、古武庫川は幅広い河谷を砂礫で埋めながら、篠山盆地から当野付近の狭窄部を抜けて、丹波山地・三田盆地へと抜けていた
◆約3万年前頃、当野付近の山地小流域から武庫川に向けて大量の土砂が供給され、麓屑面や扇状地が造られる。古武庫川は堰止められ、当野付近から篠山盆地にかけて湖や湿地(古篠山湖)が造られた。その後、湖や湿地は埋め立てられていく
◆一方、約3万年前に、篠山盆地西の山間部を源流としていた古篠山川は、その後も山地を掘り込み、篠山盆地を流れる古武庫川との分水界を低下させた。 (私注;この篠山川は現在の篠山川の中・下流域、篠山盆地の西の山地、現在の川代渓谷辺りを源流点とし西に流れ加古川に注いでいたようだ)。
◆堰止めによる古武庫川上流部の川床高度の上昇もあり、古武庫川と古篠山川の分水界の差がなくなり、約1万年前、古篠山川は古宮田川を争奪し、次いで武庫川の上流部も争奪した。
(私注;この場合の武庫川上流部とは篠山盆地に注ぐ現在の篠山川をも含むものである。ここで先ほど栗柄峠で出合った宮田川が登場した。遥か昔、武庫川水系であった古宮田川は上流域であった杉ヶ谷川を由良川水系に争奪され、下流域では加古川水系に争奪されたということ、か)。
◆古武庫川を争奪した古篠山川は水量をまし、浸食力を強め、それまでの盆地床を掘り下げて両岸に現在の川代渓谷に見られるような河岸段丘を形成し、加古川へと注いだ。

そして、上流部を奪取された武庫川は水源を失い、埋め立てられた湖・湿地の真っ平な谷底平野に取り残されることになる。こうして真っ平な谷底平野の中に加古川水系と武庫川水系のファジーな分水界が形成され、しかも、舟運のため両水系を繋ぐ水路が開削された結果、武庫川水系と加古川水系がひとつに繋がった、ということだろう。

Wikipediaの武庫川の説明にも「最終氷河期までの武庫川は篠山川の下流であった。これは川代渓谷の標高が176mであることと篠山盆地の堆積物を除いた基盤の丹波層群の基盤の標高が160mであることから判明している。最終氷河期までの篠山川は傾斜の緩やかなことから排水が悪く、当野付近の基盤岩が武庫川に堆積し、さらに流れを堰き止めた。川代渓谷の誕生とともに排水は改善し、盆地に堆積されていた堆積土の侵食が始まる。武庫川の水は篠山川に奪われた結果、分水嶺は盆地南部に移動する。篠山川の流れは速くなり、盆地を侵食していった」との同様の説明があった。

源流部を失い、この辺りでは小川となった武庫川であるが、周辺の谷筋からの水を集め往路で眺めた武庫川渓谷の姿を呈し瀬戸内へと下っている。
相野川
地図を眺めていると、武庫川が三田盆地に出る手前、宝塚線藍本駅辺りで強烈に蛇行しているが、その蛇行起点辺りから宝塚線に沿って如何にもかつての川筋といった地形が見える。そこには相野川が流れるが、どうも元の川筋はこの相野川のようだ。
さらに地図を睨むと、相野川の源流域付近で西に流れる東条川と谷中分水界を成しているように見える。更に言えば、武庫川はこの東条川へと流れていても違和感がない。チェックすると、30万年以上前、武庫川は東条川を下り加古川に合わさっていた、との記事も目にした。本日の本筋とは関係ないが、地図を睨んでいると先ほどの真南条川といい、この相野川といい、好奇心を擽り妄想をたくましくする。

これで一泊二日の加古川に見る谷中分水界の散歩を終える。結構好奇心を擽るトピック満載の散歩であった。
先日堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』を読み,毎月の田舎帰省の折り「海に背を 向けて流れる」土佐の四万十川の源流と片峠を辿った。これが結構好奇心に「刺さる」旅であり、それならと、今度は田舎への行き帰りに立ち寄れる「意外な分水水源・不思議な分水」は他にないものかと同書をチェック。
すると兵庫を流れる加古川に関係する谷中分水界、河川争奪やそれに伴う片峠などの4つの記事が目に止まった。谷中分水界には標高95mといった、日本で一番低い中央分水界もある。
これは面白そうとルーティング。記事にある4箇所は西から、加古川が市川と繋がりそうな青垣峠,日本一低い中央分水界(加古川と由良川)のある石生、加古川と武庫川の谷中分水界がある篠山口,加古川が由良川水系に河川争奪された結果誕生した片峠(鼓峠と栗柄峠)である。

地図を睨むと、起点を篠山口にとり、お昼前後からレンタカーで走れば1泊2日ですべてカバーできそうである。初日は午後に青垣峠と石生、翌日は午前中に鼓峠・栗柄峠と篠山口とし、篠山口にあるホテルとレンタカー(24時間)を予約。田舎から東京に戻る途中、起点となる篠山口に向かった。



(初日)
本日のルート;
丹波篠山口に
水がつながりかけている?
笹山口から青垣峠へ
国道176号から県道7号に>丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に>峠近くの狭い国道を進む>青垣峠
日本海と瀬戸内海に分かれる水
石生(丹波市氷上町石生)>「中央分水界と石生の水分れ」の案内板>中央分水界を水分れ公園へ>𡶌部(いそべ)神社>水分れ資料館>谷中分水界を歩く>藤の木橋>おおかみ橋>水分れ橋>石生交差点>由良川水系・黒井川の水路に向かう

(初日)

丹波篠山口に

丹波篠山口に昼前には着きたいものと、田舎の新居浜を7時過ぎに出発。新大阪駅から大阪駅に移り、JR宝塚線丹波路快速に乗り篠山口に。大阪駅発10時21分、篠山口駅着11時28分。
およそ1時間強の列車の旅。はじめて訪れる地であり、列車の進行と地図を見比べながら進む。大阪駅を出た列車は、大阪平野から伊丹台地に入り、伊丹台地と北摂山地の境を走った後、六甲・北摂山地に入り、武庫川渓谷をトンネルと鉄橋で越え三田盆地に。
三田盆地を武庫川に沿って北に抜けると丹波山地に入り、武庫川に沿って北に進むと篠山盆地に目的地である篠山口駅があった。平野から台地、そして山地、次いで盆地、その先に山地がありそして盆地と変化に富んだ地形でもあり、篠山口までの景観をメモしておく:
大阪平野と伊丹台地
大阪駅を出たJR宝塚線(福知山線の篠山口までの愛称、とか)丹波路快速は尼崎駅で北に折れ,伊丹駅、川西池田駅へと猪名川に沿って北に進む。猪名川と武庫川によって造られた伊丹台地のほぼ東端辺りだろうか。
北摂山地
川西池田駅から西に折れ、北摂山地の麓を西に宝塚駅へと向かい、そこからは伊丹台地と分かれ、武庫川の河岸段丘上にある生瀬駅を越えると長いトンネル(生瀬トンネル)に入る。
六甲・北摂山地と武庫川渓谷
トンネルを出ると西宮名塩駅。武庫川を跨ぐように感じる駅のすぐ先にも六甲山地を穿つトンネルが迫る。何故にこんな山間の地に駅が?チェックすると、西宮名塩ニュータウン開発に応じたもののようだ。元の福知山線は武庫川を縫うように走っていたが、昭和61年(1986)福知山線の複線・電化に際し従来の武庫川沿いのルートを大幅に変更し、山地を穿つ長いトンネルのルートとなり、その際に当駅が新設されたとのことである。
西宮名塩駅から長い名塩トンネルを抜けると武田尾駅。この駅も武庫川を跨いでおり、ホームは川向うの第一武田尾トンネルに続く。第一武田尾トンネルを抜けると直ぐに第二武田尾トンネル、トンネルを一瞬抜け直ぐに第一道場トンネル、第二道場トンネル、第三道場トンネルと続き道場駅に。
福知山線
明治32年(1899)、阪舞鉄道によって尼崎・福知山間が開業。明治37年(1904;日露戦争開戦年)対ロシア軍用路線として舞鶴鎮守府まで急ぎ敷設された官設の福知山・舞鶴間の路線の貸与を受け阪舞鉄道は大阪と舞鶴を結んだ。明治40年(1907)には国有化され阪舞線となり、明治45年・大正元年(1912)の山陰本線の開通を受け、尼崎・福知山間を福知山線とした。
武庫川渓谷の旧福知山線
複線・電化以前の旧福知山線は、基本屈曲する武庫川に沿って進んでいる。生瀬駅から武庫川右岸を進み、途中左岸に移り武田尾に。武田尾の先でトンネルに入り、東南に突き出た馳渡山の尾根筋を抜けると武庫川右岸に移り、道場駅手前で左岸に移る。
廃線跡は道場から武田尾は未整備。武田尾から生瀬方面は整備されて廃線歩きが可能となっているようだ。歩いてみるのも面白そうだ。
三田盆地
六甲・北摂山地のトンネルを抜け、武庫川を鉄橋で渡った鉄路も道場駅を越えると三田盆地に入る。渓谷から一転、平坦な谷底平野となる。宝塚線(福知山線)は武庫川に沿って進む。武庫川は直線化工事がなされているようだ。平坦な谷底平地の水の出口が渓谷の狭隘部となっているわけで、往時は洪水被害も多かったのだろう。
丹波山地
三田盆地を進むと広野駅辺りから丹波山地に入る。宝塚線は蛇行する武庫川から離れ相野川沿いを進み、相野駅辺りから弧を描き東に向かい藍本駅付近で武庫川に接近し、丹波山地の間を流れる武庫川に沿って北上する。宝塚からずっとつかず離れず流れていた武庫川は、知らずその姿を消していた。
篠山盆地
山地を抜けると篠山盆地に入り、目的地である篠山口駅に到着する。

加古川
これから「加古川に見る中央分水界と谷中分水界、そして河川争奪の峠を辿る」ことになるのだが、散歩に先立ち加古川についてWikipediaを参考に概要をまとめておく;
加古川(かこがわ)は、兵庫県中央部を流れる一級河川。本流(幹川)流路延長96km、篠山川など支流数も多く、兵庫県に河口を持つ河川水系の中では、本流流路延長・流域面積ともに最大である。
その流域は東播磨全域及び丹波南部だけでなく、神戸市北区、灘区の一部(六甲山系北稜)、さらには県外の大阪府能勢町天王峠周辺の地域も含む(篠山川上流域水無川上流部)。瀬戸内海の明石海峡・鳴門海峡以西に流れ込む水系としては、流域面積で高梁川、吉井川、旭川に次ぐ規模である。
現在本流(幹川)と比定されている河流の源流は、丹波市の北西の粟鹿山(標高962m)付近に発する一の瀬川である。この河流は大名草で石風呂川と合流した後、佐治川と名を変え、篠山川合流点まではこの名で呼ばれてきた。
佐治川・篠山川合流点から美嚢川が合流する三木市が中流域。その先は加古川市と高砂市の境として播磨灘に注ぐ。市川、夢前川、揖保川、千種川とともに、播磨灘に流れ込む「播磨五川」と総称される。本流の河床勾配は日本列島の河川としては緩い。

加古川水系の大きな特徴の一つは、隣接水系との谷中分水界の多さである。隣接水系のうち、武庫川水系(①田松川、篠山市当野)、由良川水系(②「石生の水分れ」、③栗柄峠および鼓峠:篠山川支流宮田川と由良川水系竹田川及び友淵川、篠山市栗柄)、市川水系(④青垣峠:双方本流源流部)とはそれぞれの本・支流で谷中分水界を形成する。
④以外の谷中分水界については、およそ一億年前を境とする長期間、大きな湖が篠山盆地に位置していたことによるところが大きい。③のように二つの異なる谷中分水界かつ本州中央分水界がわずかの距離に並ぶのは非常に珍しい。また、鼓峠の場合、一枚の小さな田圃から水が両水系に流れ出ている」とある。

今回訪ねることにした4箇所は『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある以下の記事である。

(初日)
■水がつながりかけている?■
市川と加古川の分水界・青垣峠(兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町)
■日本海と瀬戸内海に分かれる水■
黒井川・高谷川間の水中分水界(兵庫県氷上郡氷上町)
(二日目)
■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■ 由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)
■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)

この4箇所は前述Wikipediaの挙げる、以下の4箇所と一致する。
●(加古川水系と)市川水系(④青垣峠:双方本流源流部)●
●(加古川水系と)由良川水系(②「石生の水分れ」)●
●(加古川水系と)由良川水系(③栗柄峠および鼓峠:篠山川支流宮田川と由良川水系竹田川及び友淵川、篠山市栗柄)●
●(加古川水系と)武庫川水系(①田松川、篠山市当野)●

特に意図したわけではないのだが、奇しくも今回前述の書籍よりプラニングした4箇所は、Wikipediaに記されたこの4つの谷中分水界を辿ることとなっていた。プラニングの際は、地理不案内の土地であり、4記事の地を1泊2日でカバーするのは厳しいかとも思ったのだが、エイやで性根を決めてよかったと、メモの段階で自画自賛。

水がつながりかけている?
市川と加古川の分水界・青垣峠(兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町)

篠山口から青垣峠へ
11時28分、定刻にJR宝塚線・篠山口に到着。駅の少し南のレンタカー会社に向かう。その会社のすぐ裏手が、今回の訪問地のひとつ、「真っ平でファジーな分水界 源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)」の舞台ではあるのだが、段取り上、「知らず消えてしまった」武庫川と、これも当たり前のように「北の篠山川水系と繋がる水路」を辿る旅は最後に廻し、最初の目的地である青垣峠へ向かう。
国道176号から県道7号に
篠山口から青垣峠へのナビ設定。43キロ、おおよそ58分とある。国道176号沿いにあるレンタカーを借りた場所から、そのまま国道176号に乗り、加古川水系・篠山川を越え、篠山川の支流・大山川に沿って北に進み新鐘ヶ坂トンネルを抜ける。新鐘ヶ坂トンネルの峠の尾根筋が篠山市と丹波市の境となっている。 加古川水系・柏原川の支流の谷を下り柏原の町を越え、加古川によって開かれた平地を進み、これも後ほど訪れる「日本海と瀬戸内海に分かれる水 黒井川・高谷川間の水中分水界」の舞台である石生の加古川水系・高谷川を越えた先で県道7号に乗り換える。
丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に
加古川、そして北近畿豊岡自動車道に沿って北上し、西から東へと流れてきた加古川が、その流れを南に変える丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に乗り換え、しばらく進み、途中427号と分かれ左に折れて青垣峠へと国道429号を進む。 国道429号と427号が分かれる辺りで、青垣峠への谷筋とは別に、左に分かれる川筋が栗鹿山へと向かう。これが加古川本流の源流点のある一の瀬川だろうか。
峠近くの狭い国道を進む
国道429号を進むと里は切れ、二車線の道も一車線となり、車一台分の谷筋の道を杉林の中上る。カーブは少なく走りやすい道ではあるが、予想以上に車、特にバイクが多くゆっくり走る。「酷道」とのもっぱらの評価ではあったが、四国の険路を走りまわっている我が身には、なんということはない道であった。 次第に深くなる谷筋を見遣りながら進むと前方に「青垣峠」の看板。3月にもかかわらず雪の残る切り通しの鞍部を乗り越え、すこし下った先は平坦地。水田、そしてその先に民家も見える。先日土佐で出合った「片峠」となっていた。

青垣峠
『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:(堀淳一)東京書籍』では兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町を分ける峠となっているが、現在は平成の大合併を経て生野町側は朝来市黒川、青垣町側は丹波市青垣町大名草となっている。




●市川が北から下る
道脇に車をデポし、「つながりかけている?」加古川と市川の最接近場所を探す。峠を少し下り平坦地となったところを北から小川が流れる。この川が市川。地図を見ると少し北から下る。
その市川と「つながりかけている?」加古川源流を探す。峠から下る道の左手に水の流れる筋があり、市川の手前辺りが如何にも源流域といった風情である。

●加古川源流部は国道改修により峠で断ち切られていた
「つながりかけている?」と言えばそうでもあるのだが、如何せん青垣峠手前まで谷を刻んできた加古川の支流・石風呂川とつながってはいない。前述書籍に拠れば、石風呂川源流域の谷筋は現在の峠道の少し下を刻んでいた、とのことだが、現在の青垣峠の前後は国道の法面補強されており、昔の姿は残っていない。
雪の残る峠を行きつ戻りつ、谷筋が残っていないかと探したのだが、峠鞍部の左右は比高差30mほどの尾根筋が迫っており、峠を抜ける水路が通る余地はなかった。

市川とつながりかけた加古川(石風呂川)源流域の水は、峠の前後で完全に切り離されており、今では市川に向かって下るしか術はない。自然の力でつながりかけていた加古川と市川は、人の手によって切り離されてしまったようである。



市川
加古川はそれなりに聞く川ではあるが、市川ははじめて聞く。残念ながら、加古川とつながりかけてはいなかったが、加古川と分水界をなす水系でもあるのでちょっとチェック。 Wikipediaに拠れば、市川は「兵庫県中部、丹波国、播磨国との境界近くにある朝来市生野町(旧但馬国)の三国山(標高855m)に源を発して南流。途中神崎郡各町と姫路市を流れ、姫路市飾磨区で播磨灘に注ぐ」とある。三国山は青垣峠から南東、丹波市、朝来市、多可郡多可町の行政区が接する箇所にある。で、何気なく市川の流路を地図で見ていると、生野ダム湖を経て播但線・生野駅辺りまで下った市川の北に円山川源流が接近している。
市川・円山川が日本海と瀬戸内を繋ぐ
地図を見て驚いた。日本海へと流れる円山川と市川を隔てるものは、ささやかな生野北峠だけである。この峠を越えれば播磨国から但馬国となる。日本海と瀬戸内を繋ぐ道が、こんなに敷居の低いものであれば、古来往還道として重宝したのではとチェック。
古代瀬戸内を通る海路が確立するまでは、この市川(播磨)・円山川(但馬)ルートが、加古川(播磨)・由良川(丹後)ルートとともに重用された。日本海と瀬戸内海という逆方向に向かうこのふたつの河川を舟運として使い、繋がらない部分は舟を担いで峠を越えた、とのことである。
近世に入っても、西廻り海運の捷路として両河川を利用した舟運輸送路が計画されたようだが、わずかな距離ではあるが陸路部分がネックとなり大量輸送が実現できず、西廻り海運の捷路としての目的は達成できなかったようである。

今回の散歩での最初の「つながりかけている?」加古川と市川は残念ながら切り離されてしまった事実を確認しただけに終わったが、偶々ではあるが、市川とつながりかけている円山川、そして両河川を通しての日本海と瀬戸内を結ぶルートといった歴史を知ることができ、それなりに満足。とは言ってもの、このことはメモの段階。当日は出だしからこれ?といった心持ではあった。


日本海と瀬戸内海に分かれる水
黒井川・高谷川間の水中分水界(兵庫県氷上郡氷上町)

青垣峠を離れ、次の目的地である「日本一低い中央分水界」のある丹波市氷上町石生に戻る。中央分水界は日本列島の「背骨」として、水を日本海側と太平洋側に分ける分水界のこと。その中央分水界がこの石生では聳える山地の脊稜部ではなく、わずか標高100m前後の谷底低地にある、という。書籍の記事を読んでもいまひと実感が湧かないのだが、現地に行けばなんとかなるだろうと来た道を石生へと戻る。

石生(丹波市氷上町石生)
とりあえず石生の水分公園に向かう。青垣峠から来た道を逆に国道429号、国道427号、県道7号へと乗り換え福知山線・石生駅の西、稲継交差点に。ここまで支流・本流を集めて次第に川幅を広げる加古川に沿って国道を下ることになる。
稲継交差点で左に折れ、加古川から分かれ、国道175号を進み、石生交差点、福知山線を越え水分れ交差点に。水分れ交差点からは並木の続く小川に沿ってそのまま東に向かうと、道の北側に広い水分れ公園の駐車場(公園大駐車場)があった。車を停め「水分れ公園」に向かう。

「中央分水界と石生の水分れ」の案内板
駐車場脇に案内板があり、地図とともに「中央分水界と石生(いそう)の水分(みわか)れ ここは日本列島の背骨『中央分水界』の線上にあるところです。この看板の右側の道路の中央が「分水界」で、中央より左側(北側)の雨水は由良川を流れて日本海へ、一方右側(南側)の雨水は高谷川から加古川に注いでいます。後方に見える山のふもと「石生交差点」から前方の山すそ「水分れ公園」の奥までの1,250メートルの間は全く平地のなかで分水しており標高95.45メートルは日本一低い谷中分水界です」との解説があった。

石生交差点から、知らず「中央分水界」を走ってきたようだ。道の右の小川が瀬戸内へと下る加古川水系の高谷川であった。また、車を停めた駐車場は日本海へと注ぐ由良川水系ということになる。

中央分水界を水分れ公園へ
知らねばごくありふれたん舗装道を、これが日本で一番低い中央分水界か、などと左右を見遣りながら水分れ公園へと高谷川に沿って進む。ほどなく公園に。公園自体はなんということのない、少々人工的過ぎる親水公園といった風情。

水分れ公園の分水堰
公園脇の高谷川に如何にも人工的な水分れの水路が造られていた。高谷川の真ん中に水を北の由良川水系へと分ける水路が造られ水門ゲートもある。ゲートの先には特に川といったものはなく、畑地に沿って側溝が続く。水門ゲートからの水路はそこに繋がっているのだろうか。

𡶌部(いそべ)神社
水分れ水路を離れ、公園案内図にあった水分れ資料館に向かう。手前に𡶌部(いそべ)神社。古社の風情を残す神社にお参り。案内には; 「𡶌部(いそべ)神社 剣爾山は、三角形の美しい形をしています。こういう山を昔の人は「神奈備山(神様の山)」と言いました。山上近くにある大岩は、神様が天から下りてこられる拠り所と考えて、こういう岩を「磐座」(いわくら)と言いました。
その山の前に建てられたのが𡶌部神社です。このあたりのご先祖、部の民は、大きな岩をつかって、古墳を造ったり、たんぼを造ったり(後には条里制水田造りもした)する土木工事が得意な人たちでした。
その部の人達の祖先、奇日方命(くしひがたのみこと)をおまつりしたのが𡶌部神社のはじまりは(和銅三年、今から約一,三〇〇年前頃)です(私注;ママ記載)。後に、八幡宮を勧請(神様のおいでを願う)して、八幡さんとなりました。 なお、この八幡さんは、柏原の八幡さんより歴史が古く、昔から、この𡶌部神社のお祭をして、その次の日に神様を、柏原の八幡様にお送することになっておりました。その後、𡶌部神社には、いろいろな神様をお招きして、たくさんの神様がおまつりされて、石生の人達の守り神さまとしてお祭りされております」とあった。

水分れ資料館
社の西に水分れ資料館。入場料〈200円だったか〉を払って入館。ビデオで水分れの概要をかじった上で、解説のボードを読みジオラマを見ながら、館内を巡る。
石生の谷中分水界
「この平地の分水界(谷中分水界)は、石生奥山から流れる高谷川の右側(北側)の堤防上で、奥山から尾根を下り、山裾から西に向かい、石生宿畑まで約1,250m。そこからは行者山、城山へと山を上っていきます。最も低い所は宿畑で標高94.5mです。水分橋では標高101.04mです」との解説パネル。
谷中分水界とは尾根筋ではなく、谷底平野にある分水界のこと。奥山から尾根(𡶌部神社の前の西ヶ原の尾根)を下った石生の谷中分水界は、石生交差点のある宿畑までであるが、その先は行者山・城山へと尾根を上っていくようだ。 石生では山を下りた谷中分水界とはなっているが、この分水界は日本列島の脊稜として日本海と太平洋へと水を分ける中央分水界の一部である。
石生前後の中央分水界
石生前後の中央分水界は「多紀郡の山岳連山から西へ鏡峠・黒頭峰を経て、柏原町の清水山等の頂上をつらねて走る稜線で、それはさらに延びて石生奥山の最高点に達し。それより少し南から、急に西へ降る支稜を伝わって西ヶ原に至り平地と接する。
西ヶ原の稜線端からは奥山から流れ出る高谷川の右岸(北側)の堤防上を通って、石生新町の宿畑に至る。この西ヶ原の稜線端から宿畑までの約1250メートルの間が平地で、谷中分水界。
宿畑から再び山へ上り、石生の行者山・城山の丘陵を経て、愛宕山・五台山、さらに青垣町の穴の裏峠、烏帽子岳等の頂上をつらねる山稜を経て遠阪峠に達する(「森と水と人のふれあいの径 水分れ」より)」とある。

谷中分水界から南北への流れ
「ここより北の水は竹田川から由良川に入り、南側の水は高谷川に入るか、溝を流れて稲継で共に加古川に合流して瀬戸内に入る。(中略)現在水分橋より下流は国道175号線が最も高い所となっているけれども、高谷川堤防と国道との間の水は、暗渠によって国道の下をくぐり、北側に抜けるようになっており、前から高谷川右岸が分水界であったことを示している。現在JR福知山線と国道176号線は分水界を横切って通っている。しかし、分水界を通っている感じは何もしない。生郷村志 細見末男より」

北の水は竹田川に入る、とはいうものの、中央分水界から川は見えず、側溝の水、悪水落しの水を集めた水路が石生の中央分水界の北に見える黒井川に繋がる。この黒井川が竹田川に落ちている。
国道175号云々は、国道175号が高谷川に沿って少し北を通っているが、中央分水界より北に落ちた水は、分水界より高くなった国道は暗渠を通して北に流している、ということだろう。
南への流れは高谷川を西に下り、先ほど通った稲継の先で加古川に注ぐ。分水界であれば、分水界と垂直に下っているかと思っていたのだが、分水界は西に向かってゆるやかに傾斜している故であろう。

由良川の分水界
展示パネルには「由良川の分水界 移動説の模式図」というものがあり、「もと由良川は福知山付近から南に流れて、現在の竹田川を逆流し、石生付近を通って、加古川に注いでいたといわれています。これを古加古川といいます。ところが、由良川下流の大江町付近が低下したため排水が悪くなって湿原が生まれたとされています」という解説とともに、「由良川下流の各時期の河床縦断面の変化から見た分水界移動の模式図」というタイトルで、由良川の分水界が南有路(私注;大江町)から福知山、竹田、石生と南に移っている図があった。
何の事?さっぱり理解できずにいたのだが、その傍に「石生を含む氷上盆地(私注;柏原・青垣・春日町などの平地は山に囲まれた盆地)は丹波山地の西の端に当たります。丹波山地が隆起するとともに、その西の端は沈降しました。その沈んだところに上流や付近から流されてきた小石、砂、粘土等が積もり、長い間に埋まって平になり盆地となりました。
ところが水はけが悪いため一時(2万年ほど前)は湿原となり、湿原植物は今、地下に泥炭層となっています。この湿原の上に石生奥山から雨毎に流れ出て扇状地ができ、その上を高谷川が流れ、大水ごとに土砂があふれて自然堤防をつくり、その自然堤防がこの付近で最も高いところになったため、堤防の上が分水界になったのです」との解説があった。

谷中分水界形成のプロセス
また、上のふたつのパネルの解説をまとめたような記事が、水分れ資料館で購入した前述の小冊子「森と水と人のふれあいの径 水分れ」にあった。以下概要を引用する。
「この盆地の東側は古い地層から成る丹波山地で、遠く琵琶湖まで続く。西側の山は播但山地といい、火成岩よりなる。この平地は東西の山地が隆起するとともに、逆に沈降したところである。
沈降したところを地溝帯といい、そこに周囲の山や上流から流れてきた土砂が埋まり、さらに大雨ごとに洪水の中の泥が沈んで、長い間に厚い粘土層を堆積して地溝帯は埋まった。
今から2万年ばかり前。石生附近は氷上郡春日町から柏原町に続く平坦な湿原であった。それは、もと由良川が福知山付近から、現在の武田川を逆に流れて、石生を経て氷上町稲継付近から加古川に注入していたが、京都府大江町附近の地盤が低下して傾斜がほとんどなくなったためである。この平らな湿地に、石生奥山から雨ごとに風化した土砂を流し。それが積もって石生の扇状地をつくった。
扇状地ができると、平らな湿地はここで南北に分断されることになった。そうして、奥山から流れ出る谷川(高谷川)は、扇状地の上を流れ、大雨ごとに水と土砂があふれ、両岸に自然堤防ができた。そのためこの自然にできた堤防は、この付近の最高所となり、この上に降った雨は、北側に流れると、下流の低下によって日本海側に注ぐようになった由良川に入り、南に流れると、高谷川に入り、加古川に流入して瀬戸内海に注ぐようになったのである(丹波史第八号遺稿より抜粋)」。

ふたつの解説パネルと小冊子の記事を読み、最初は何の事か分からなかった分水界の移動と、西の端(分水界移動前の由良川源流域)の標高低下、緩やかな傾斜、湿地、分水界形成を繋ぎ合わせてみる:
もとは北から南に傾斜をもって流れていた由良川が、地殻変動により上流部の標高が、遥かなる年月をかけてではあろうが次第に低下、傾斜がなくなった由良川は石生の辺りで湿地となり、流れを失った湿地は山地からの土砂で扇状地が造られ分水界が形成された。分水界の移動は、流れを失った由良川が、北へと流れる河川により争奪されてゆくプロセスであったように思えてきた。
また、この地で分水界が形成されたのは、傾斜がほとんどなく、北へ流れる由良川に下刻・浸食して谷を刻み、更に南へと分水界を移す力がなかったためではないだろか。

こんなことを考えながら地図を見ていると、稲継辺りで高谷川ともに加古川に注ぐ柏原川は、その流路から見て、遙か昔のある時期、由良川水系であったものが加古川に争奪されたのではないかと妄想してしまった。

希少魚ミナミトミヨ
展示パネルには「希少魚ミナミトミヨ」の解説があり、本来は由良川水系のこの魚が、谷中分水界を越えて加古川水系にも生息していたとあった。由良川が南に流れていた頃に遡ったものの、分水界が石生に形成され、取り残されたもののようだ。
この魚以外にも日本海系の「ヤマメ」が加古川水系に生息していた(「森と水と人のふれあいの径 水分れ」)ことなどにより、由良川の南流があったことのエビデンスとして挙げられていた。もっとも、最近はヤマメも人の手で放流されているので、境界は無くなってはいるのだろうが。。。

氷上回廊
「加古川と由良川は、石生の水分れをはさんで坂がなく、氷上回廊と称されるほど低いので古代より南北の交通路となっていました。弥生時代の磨製石剣や銅鐸は、この二つの川に沿って出土し、石剣の道と名付けられています。
江戸時代には加古川に舟路が開かれて、頻繁に舟が行き来しました。由良川流域の福知山や丹後の物資も、青垣町穴裏峠を陸路で越し、同町東芦田から小舟で船座のある氷上町本郷へ運ぶか、または石生へ廻って本郷に達し、本郷から滝野や高砂へ下りました。こうして南北の交流がおこなわれ、物資や文化も伝わりました。
このルートは、さらに北陸から上方へ物資を運ぶ北前船の通路を短縮する計画も考えられ、大阪天満の岡村善八が丹後栗田から穴裏峠を経て本郷に至る通路の改修を試み、後には石生付近を運河とする松宮構想も生まれましたがいずれも実現しませんでした。しかし、なんと言っても低い分水界を利用して南北を結ぶ計画でした」。

青垣峠でメモしたように、古代瀬戸内を通る海路が確立するまでは、市川(播磨)・円山川(但馬)ルートとともに、この加古川(播磨)・由良川(丹後)ルートも、日本海と瀬戸内海という逆方向に向かうこのふたつの河川を舟運として使い、繋がらない部分は舟を担いで峠を越えたということであろうか。

本郷の船座
加古川は石剣の道と言われ、弥生時代から南北を結ぶ交通路であった。この川に丹波まで舟運が開かれたのは慶長4年(1604)で、河東郡滝野の阿江与助と多可郡黒田庄の西村伝入斉が滝野から本郷まで開いた。
水路は本郷から高田(黒田庄)までを本郷川といい、高田から滝野までを高田川と呼んだが、船座は本郷・滝野間を運営しはじめは西村伝入斉の経営であった。
寛永17年(1640)からは二年毎の入札により落札者が請負い、幕府(京都奉行)に運上金を納めて営業した。認められた舟は16そうで、底の浅い高瀬舟を用い、本郷では長さ8mの⒖石積が多く、積荷は川の水量の多数により加減した。通船期間は灌漑用水の不要となる秋の彼岸から、翌年の八十八夜までであった。 高瀬船には3人が乗り、船頭は舳に、中乗は櫂を持ち、ともは櫓を漕ぎ、ムシロの帆も用いた。板橋があると船から下りてこれをのけ、船を通すとまた元のように直して通った。
上りの急な所では、岸の船道から綱で引き、船頭だけが舵をとり、これを「さる引き」といった。
荷物は領主の大阪蔵詰にする年貢米が最も多く、その他米・大豆・薪炭等を下し、上りは塩・藍玉等で明治の頃からは燈油があった」。

加古川の舟運のことも、面白そうだが、本筋から離れていきそうでもあり、展示パネルの引用に留めて置く。

谷中分水界を歩く
水分れ資料館での知識をもとに、日本一低い中央分水界を水分れ公園から西の端、谷中分水界が尾根道に上る宿畑まで歩き、そこから北に流れる水路を辿ることにする。

藤の木橋
高谷川に沿って中央分水界となる道を下ると、ほどなく藤の木橋詰めに案内。 「藤の木橋物語 昔、地頭に、石負(いそう)の玉の太夫という大金持ちが住んでいました。 一人娘の玉姫は、玉のように美しく近在の若者達のあこがれの的でした。そのうちどこからともなく真っ青な直垂(ひたたれ)をつけた、りりしい水もしたたる美しい若者が玉姫のもとに通ってくるようになりました。
その若者がどこから来るのかつき止めようと腰に赤い糸をつけて 後を追っていくと藤ノ木橋を渡り遠い山里の大きな池の深みに入って行きました。古池の大蛇の化身だったのです。驚いた玉の太夫は、 の神様のお告げを受け藤ノ木橋の 「藤ノ木」にお願いしたところ、その夜のうちに藤のツルが伸びて橋を塞ぎ蛇のうろこがいっぱい落ちていました。それからは二度とその男は来なくなったということです」とあった。

おおかみ橋
更に下ると、おおかみ橋。橋詰の案内には、「昔、このあたりに狼が住んでいました。この狼をとらえて、売ったお金でこの橋をかけたから「おおかみ橋」と名付けられたと、伝えられています(丹波史より)。
しかし、上となりの「藤の木橋」は「縁切り橋」、下となりの「水分れ橋」は「身分れ橋」。だから、真ん中の「おおかん橋」「おかん橋」は、神様が守って下さる安全な「大神橋」「お神橋」だ、とも言われたと伝えられています」とあった。 藤の木橋の伝説が、何を言いたいのか今一つわからなかったのだが、「縁切り」を伝えんとしていたようだ。

水分れ橋
国道176号にT字で合わさる水分れ交差点には高谷川に水分れ橋が架かる。橋の傍に「水分れ橋と氷川回廊」の案内。水分れ資料館で氷上回廊のことはメモしたように、「(前略)山地に挟まれた南北に伸びる細長い低地帯で、両水系を繋ぐ一つの道であり『氷上回廊』と名付けられています。太古の昔から人・物・文化、さらに生き物が行き交うルートであり、交通の要衝としても栄えました」との案内があった。

石生交差点
国道175号を西に進むと、前方に丘陵が見えてくる。案内にあった宿畑で谷中分水界が終わり、山へ上り、石生の行者山・城山の丘陵を経て、愛宕山・五台山、さらに青垣町の穴の裏峠、烏帽子岳等の頂上をつらねる山稜を経て遠阪峠に達する中央分水界の尾根筋に入るところである。取り付き部分には「これより山に登る」との木標があった。

由良川水系・黒井川の水路に向かう
分水界から南北に分かれる水系のうち、南流系加古川に注ぐ水路は高谷川としてはっきり目にすることができたのだが、北流系由良川に注ぐはっきりとして川筋は分水界から直ぐには流れていない。
地図をチェックすると、国道175号が中央分水界の尾根でもある城山を穿つ城山トンネルを抜けたあたりから悪水落としといった水路が見え、その更に北、春日和田山道路の大崎横田トンネルが中央分水界の尾根筋を抜けたあたりから少し水路がはっきりし、黒井川となって北へと進む。
とりあえず、黒井川の始まり部分でも確認しようと、石生交差点から国道175号に向かう。成り行きで進むと側溝に集まった水が北へと向かう。地図には国道175号の先から水路がはじまっていたが、如何にも川筋に「発達」しそうな側溝が国道手前から始まり、国道を越えた北からはコンクリート溝ではない、自然の流れとなって畑地の中を北に流れていた。
これで初日の散歩は終了。起点とした篠山口のホテルに向かいゆったりと。
奈良 山の辺の道散歩 そのⅤ:天理市の石神神宮から桜井市の三輪山裾・大神神社まで
長かった山の辺の道散歩も、やっと最後の目的地である三輪山・大神神社にやっと辿りついた。やっと辿りついた、という意味合いは、散歩それ自体は14キロ程度で、どうということもないのだが、その道に次々と現れるヤマト王権にかかわるあれこれに、古代史に特に思い入れもないにもかかわらず、疑問に感じたこと、わららないことを自分なりに納得できるまでチェックしてみようと思った結果の難路であった、ということではある。
その結果、山の辺の道が、「山の辺」を通る理由、そこにヤマト王権の古墳群が造営された理由、古墳の周濠の意味合いなど、そして今までややこしい人名故にパスしていた記紀の神話の神様など、散歩をはじめる前には想像もしていなかったあれこれが登場し、少々メモは大変であったが、なかなか面白い散歩となった。
で、今回は三輪山の裾をぐるりと廻り、最終目的地である大神(おおみわ)神社に向かうことにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

桧原神社
県道50号を少し上り、道標に従い右に折れる。長かった散歩もやっと三輪山の山裾に辿りついた。道を進むと檜原神社に。神奈備の三輪山を祀る境内奥には拝殿はなく、神宮旧内宮外玉垣の東御門の古材を使った「三つ鳥居」が建つようだが、散歩当日はシートに覆われ、その姿を前にお参りすることはできなかった。

境内にあった案内には「大神神社の摂社 桧原神社 御祭神 天照大神若御魂神(あまてらすおおかみのわかみたま) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉册尊(いざなみのみこと)
第十代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた「天照大御神」を皇女豊鍬入姫に託し、ここ桧原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのがはじまりです。 その後、大神様は第十一代垂仁天皇二十五年に永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創始と言われる」とある。

同じく、境内には「(元伊勢)桧原神社と豊鍬入姫の御由緒」の案内があり、「大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は、崇神天皇の皇女、豊鍬入姫をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。 萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西に続く桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原」の地とされています。更に西方の箸中には、豊鍬入姫の御陵とされる「ホケノ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)」があります」とあった。

左にある社殿は大神神社末社 豊鍬入姫宮。案内には「大神神社末社 豊鍬入姫宮 御祭神  豊鍬入姫命 御祭神は第十代崇神天皇の皇女であります。皇女は「天照大御神」をこの「倭笠縫邑」にお遷しし、初代の御杖代(斎王)として奉仕されたその威徳を尊び奉り、昭和十一年十一月五日に創祀されたものであります。
斎王とは天皇にかわって大神様にお仕えになる方で、その伝統は脈々と受け継がれ、現代に於いても皇室関係の方がご奉仕されています」とあった。

●祟神天皇のエピソード
この社は、3回目のメモで訪れた大和(おおやまと)神社での、祟神天皇の謎の行動に登場する社のひとつであった。重複にはなるが、松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」にあった記事をもとにまとめると、こういうことである:「第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。 その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。大和の笠縫に祀った地がこの桧原神社の地である。
エピソードは続き、地主神を祀るだけでは不都合であったようで、結局は三輪の大物主を祀ることによって事なきを得る。
何故に皇租神を追い出してまで、大物主を祀ることになったのか、祟神天皇の行動に対する妄想は既にメモしている、というかはっきりとした説明もできてはいないのここでは省略する。

●伊勢への経緯
祟神天皇と大物主の関係などについての疑問とは別に、上の案内の「永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり」という説明が気になった。皇租神の行き場所がなかなか決まらないって、どういうこと? チェックすると、娘が通った学校の校長先生から頂いた『飛鳥の風;生江義男(桐朋教育研究所)』に以下の記事があった。
「たとえば、直木孝次郎氏は、伊勢神宮は、もと、日の神を祭る伊勢の地方神で、皇室の東国発展にともない雄略朝頃から皇室との関係を有するにいたったが、それが皇室の神となったのは、壬申の乱に天武天皇がその援助を受けて勝利した後である。
また、渡会(伊勢神宮の地域)は、もと太陽信仰の聖地で、渡会氏が太陽神を祭っていたが、天皇勢力の東方計略が積極的に進められた雄略朝のときに、ここに天皇の神が祭られることになり、従来の渡会氏の神はその御餞都神に変じ、外宮のトヨウケヒメとなった」とあった。
神話においても物部氏の租先神である饒速日命に「遠慮」しているように、初期、奈良盆地の先住豪族との連合王権といったヤマト王権は、次第に力をつけ武力でもって先住豪族を支配し、東国へとその威を進めるまでは、祖神神もヤマトの地に安住の宮居を置けなかった、ということだろうか。先住の神々の居るヤマトから離れ新天地を伊勢に構えたということであろうか。ともあれ、伊勢に宮を構えたのは、直木孝次郎氏は雄略天皇の頃とする。

●二上山の案内
境内端に「二上山」の案内があり、「正面のラクダのコブのような形をしたトロイデ式火山が二上山です。 右側の雄岳の山上には大津皇子のお墓があります。大津皇子は天武天皇の 皇子でしたが、あまりにもすぐれておられたので謀反の罪を着せられ二十四歳 で死を賜りました皇子の死を悼んで、お姉さまの大伯(おおく)皇女がうたった 「現身(うつせみ)の人なる吾(われ)や明日よりは二上山を弟背(いもせ)と吾 見む」という有名な歌が万葉集にのこっています」とあった。
当日は曇りであったが、かすかに浮かび上がる二上山を認めた。

前川佐美雄歌碑
境内を離れると、社の前に歌碑がある。「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思え」と刻まれる。前川佐美雄という有名な歌人の歌と言う。文字通りに解釈すれば「春になり霞がこくなり何も見えなくなる。それが大和の地」といった意味に取れるのだが、この歌は、「春霞みの激しい大和の風土を踏まえ、何もみえないからこそ逆に浮かび上がる大和の歴史の重みが見えてくる」といった意味をもつとの解説が多かった。情感乏しきわが身も、なんだか気になる歌である。ちなみに、この歌は万葉歌碑のラインアップではない。



歌碑の傍に「桧原神社 山辺の道キーワード 元伊勢」の案内があり、「この神社は元伊勢の称があるように、豊鍬入姫宮が笠縫邑に祀った天照大神の社がこのあたりにあったと考えられています。
この神社からと、ここより少し西に行った井寺池から見る景観は、日本を代表する景観百景にも選ばれ、毎年「二上山に沈む夕日を見るハイキング」が行われています」とある。天気がよければ井寺池に行き、日本を代表する景観百景を、とも思うのだが、如何せん曇りでは仕方なく、先を急ぐことにする。

高市皇子歌碑
緑の木々の間の小径を進むと山からの清水が流れ落ちる、小さな滝、僧都之滝とも呼ばれるようだが、その傍に歌碑がある。「山吹きの立ちしげみたる山清水酌みに行かめど道の知らなく」と刻まれる。
天武天皇の皇子である高市皇子の歌と言う。十市皇女の葬ってある山吹の咲く地に清水を汲みに行くのか、十市皇女の(霊)が清水を汲みに来るから、そこに行くのか、いくつか解釈があるようではあるが、それよりも、十市皇女って、てっきり高市皇子の妃かと思ったのだが、どうも違うようだ。
夫婦であったとの説もあるが、異母姉で弘文天皇の妃との説もある。その十市皇女が急死したとき、情熱的挽歌を詠んだといったエピソードもWikipediaに解説されていた。

玄賓庵
高市皇子歌碑の先からはじまる塀にそって道をぐるりとまわると玄賓(げんぴ)庵の山門入口に。「三輪山 奥の院 玄賓庵密寺」とある。真言宗醍醐寺派の寺。境内には本堂と庫裏がある。傍にあった案内には「ここは玄賓僧都が隠棲していた庵で、ここは重要文化財の木造不動明王坐像が伝わっています。謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたものです。玄賓は弘仁九年(818年)になくなりました」とある。
謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたもの、とのこと。案内はあまりにそっけないのでチェックすると、玄賓庵とは、「桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん;注;ママ)僧都の庵と伝えられる。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたとあった。
玄賓は高徳の僧都。玄賓庵は謡曲『三輪』に「秋寒き窓の内、秋寒き窓の内、軒の松風うち時雨れ、木の葉かき敷く庭の面、門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も、苔に聞こえて静かなる、この山住みぞ淋しき」と描かれるようだ。現在は明るい雰囲気のお寺さまではあるが、かつては三輪山の檜原谷にあったようであるので、昔隠棲の風情のある庵ではあったのだろう。
また重要文化財の不動明王は幕末まで、大神神社の神宮寺・大御輪寺に本尊として安置されていたものであるが、神仏分離令に際し、大御輪寺が神社となったため、この寺にこちらに移されたと言う。
●謡曲『三輪山』
三輪山の麓に庵を結び隠棲する玄賓のもとへ常に参詣に訪れる女人がある日玄賓の衣を乞う。玄賓は衣を与え女の素性を尋ねる。女は「我が庵は三輪の山本恋しくは訪い来ませ杉立てる門」の古歌をひき、杉立てる門が目印だと住みかを教えて消える。玄賓が歌の女の言葉を頼りに、三輪明神の近くまで訪ね行くと、杉の木に玄賓が与えた衣がかかっており、その裾に一首の歌があり。それを読んでいると、女姿の三輪明神が現れる。
三輪明神は天の岩戸の前での神楽の再現、伊勢と三輪の神が一体分神であり、それが二つに身を分けて出現なさったと物語り、夜明けと共に消え行く、といったあらすじのようである。
「伊勢と三輪の神が一体分神」の意味するところも深堀したいのだが、いままでのメモの流れで、おおよその見当がつくので、それで、良し、としておく。

神武天皇歌碑
小径を進み溜池端にでると、弁天社、そしてその先に貴船神社がある。弁天社の立て看板が、あまりに大仰であったので、パスしたのだが、その先に貴船神社があり、共に「水」に関係するので、気になり弁天社に少し戻る。が、なんとなく、イメージした古社といったものでもなかった。
道を進むと、左手の少し小高いところに歌碑が建つ。「葦原の しけしき小屋(おや)に 菅畳み いやさや敷きて わが二人寝し」と刻まれるこの歌碑は神武天皇の歌とのこと。」桜井市の万葉歌碑の案内には「葦のいっぱい生えた原の粗末な小屋で、管で編んだ敷物をすがすがしく幾枚も敷いて、私たち二人は寝たことだったね」の意味とあった。
揮毫者の北岡壽逸氏は大正・昭和期の経済学者で国学院大学名誉教授。

伊須気余理比売の歌碑
道を進むと、途中に大額田女王の歌碑があった(と思うのだが)のだが、句は先に出合ったものと同じであった(ように思う)ため、なんとなくパスし、先に進むと万葉歌碑が道脇に。「狭井川よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」と刻まれる。桜井市の万葉歌碑の案内では「狭井川の方からずっと雨雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいている。今に大風が吹こうとしている」の意味。
この歌の作者は伊須気余理比売、と言う。伊須気余理比売って誰?1Wikipediaには。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記す神武天皇の妃とあった。夫婦ふたり並んでの歌碑である。
ところで、この伊須気余理比は出雲の国津神である大国主命の幸魂・和魂とされる三和大物主の娘とされている。「タタラ」は古代の製鉄法である「たたら吹き」を暗示し、出雲族出自の出とされる。神武天皇=祟神天皇とされることも多いので、祟神天皇に出雲系の妃がいるかな?とチェックしたのだが、それらしき人物は見つからなかった。

狭井川
歌碑からほどなく狭井川、細い流れの脇に木標が建ち「狭井川 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」とかかれていたのでわかったが、普通なら通り過ぎるほどの小川である。
歌に詠まれる狭井川は、三輪山から流れ出るささやかなる小川であった。神体山から流れ出る聖なる川ゆえか、この川は古事記にも登場する。「その河を佐韋河(さいかわ)という由(ゆえ)は、その河の辺に山由理草(やまゆりそう)多(さわ)にありき。故(か)れその山由理の名を取りて佐韋河と名付けき。山由理の本(もと)の名は佐韋と言ひき」とある。
神武天皇が后の伊須気余理比売を訪ねてこの地に来た際に、佐韋が咲いていたので、「佐韋川」と名付けたといった記事もあった。

狭井神社
道を進み、池に沿って左に折れ鳥居を潜り「狭井神社」に向かう。途中、石碑があり「清明」と刻まれる。よこに詳しい案内があり、三島由紀夫の揮毫であり、作家と三輪山信仰と大神神社の神事とを、本格的に、作品の主題との深い関わりにおいて書いてあるのは、三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻「奔馬」(昭和四十四年二月)である。
●三島由紀夫・「清明」の碑
三島氏は、古神道研究のため、昭和四十一年六月率川神社の三枝祭に参列。ついで親友のコロンビヤ大学教授ドナルド・キーン氏と八月二十二日再度来社、社務所に三泊参籠した。二十三日、三輪山の裾山の辺の道を散策。二十四日、念願の三輪山頂上へ登拝。この日、お山を下りた後、拝殿で神職の雅楽講習終了報告祭に参列。感銘を受けた氏は、直ちに色紙に「清明」「雲靉靆」と認めた。後日、左の感懐が寄せられた。
大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。
又、お山へ登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな感がありました。東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、 洵にはかり知れぬ神のお恵みであったと思ひます。
山の辺の道、杉の舞、雅楽もそれぞれ忘れがたく、又、御神職が、日夜、清らかに真摯に神に仕へておいでになる御生活を目のあたりにしまして、感銘洵に深きものがございました。
ここに、三島由紀夫と三輪の大神様との御神縁を鑑み、作家三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑を篤信家によって奉納建立する。平成十六年八月吉日     大神神社社務所」とあった。

●拝殿
拝殿にお参り。案内には「狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらたまじんじゃ)
主祭神   大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
配祠神   大物主神
      媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
      勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
      事代主神(ことしろぬしのかみ)
当神社は、第十一代垂仁天皇の御世(約二千年前)に創祠せられ、ご本社大神神社で大物主神「和魂(にぎみたま)」をお祀りしているのに対して、「荒魂(あらみたま)」をお祀りしています。「荒魂」とは進取的で活動的なおはたらきの神霊で、災時などに顕著なおはたらきをされます。特に心身に関係する篤い祈りに霊験あらたかな御神威をくだされ、多くの人々から病気平癒の神様として崇められています。
今「くすり祭り」と知られる鎮花祭は、西暦八三四年施行の「令義解」に『春花飛散する時に在りて、疫神分散して癘を行ふ。その鎮遏の為必ず此の祭あり。故に鎮花といふ也。』と記され、万民の無病息災を祈る重要な国家の祭として定められております。予って、別名、華鎮社・しづめの宮と称されています。 又、御社名の「狭井」とは、神聖な井戸・泉・水源を意味し、そこに湧き出る霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています。 御例祭  4月10日  鎮花祭  4月18日 」とあった。

大物主の荒魂である大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)は当社に、和魂は大神(おおみわ)神社に祀られるということはわかったのだが、今まで大国主の荒魂は出雲に祀り、大国主の和魂である大物主を三輪山の地に祀ったとメモしてきたのだが、この三輪の地にも大国主の荒魂を祀る社があった。創建年度がはっきりしないため(社伝には垂仁天皇の頃とある)、いつの頃からどのような事情で大国主の荒魂も祀る必要があったのかわからない。それとも単に、神のもつふたつの「魂」を一体として祀ることで、より「完全」にお祀りできる、といったことなのだろうか。伏兵の登場に、少々困惑。

●薬井戸
拝殿の横を進むと「薬井戸(くすりいど)」がある。ご神水が湧き出る。案内にあった「霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています」とある湧水である。あれこれの社の由来はあるが、根拠はないのだが、この湧水がこの社のはじまりのような気がする。神奈備の山から湧き出る水、神体山とは山=豊かな水への信仰でもあろうから、大物主のあれこれは記紀編纂時の後付けの理屈のように思えてきた。



●三輪山に登る参道
社境内の右手に、左右の丸木に注連縄が結ばれた縄鳥居がある。「しめ柱」と呼ばれ鳥居の原型といわれるもののようである。そこは三輪山に登る参道の入口ともなっている。狭井神社で許可を得れば三輪山に登れるようである。神奈備の山を歩いてみたいとは思えど、今回はその余裕もなく、次回のお楽しみとする。





磐座神社
大神神社への道を進むと、道から少し山側に入ったところに鳥居も社殿もない社がある。案内には「磐座神社」とあった。案内には「大神神社摂社 磐座神社 御祭神  少彦名神 御例祭  十月十一日(御由緒) 御祭神の少彦名神は大物主大神と共に国土を開拓し、人間生活の基礎を築かれると共に、医薬治療の方法を定められた薬の神様として信仰されています。
三輪山の麓には辺津磐座と呼ばれる、神様が鎮まる岩が点在し、この神社もその一つです。社殿がなく、磐座を神座とする形が原始の神道の姿を伝えています」とあった。磐座そのものが祭祀の対象ではあったのだろうし、祭神の少彦名神も後世の後付けの神様ではあろうと思う。

大神(おおみわ)神社
長かった山の辺の道散歩も、やっと今回の散歩の終点である大神神社に辿りついた。参道を進み、狭井神社と同じ「しめ柱」の「鳥居」を潜り、拝殿にお参り。

●拝殿
大神神社のHP をもとに、簡単にまとめると、「拝殿は鎌倉時代に創建された伝わるが、現在の拝殿は寛文4年(1664)徳川四代将軍家綱公によって再建されたもの。白木造りの質実剛健な切妻造で、正面には唐破風の大きな向拝がつき、檜皮葺の屋根となっている。この拝殿は江戸時代の豪壮な社殿建築として、三ツ鳥居と共に国の重要文化財に指定されている」とある。
◆三ツ鳥居
同じく同社HPの記事をまとめると、「石神神宮と同じく、大神神社拝殿の奥は聖なる場所「禁足地」があり、その禁足地と拝殿の間に結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられている。三ツ鳥居の起源は不詳で、古文書にも「古来一社の神秘なり」と記され、本殿にかわるものとして神聖視されてきている。この鳥居は明神型の鳥居を横一列に三つ組み合わせた独特の形式で「三輪鳥居」とも呼ばれています。中央の鳥居には御扉があり、三輪山を本殿とすれば、三ツ鳥居は本殿の御扉の役割を果たしていると言える」とあった。
●祭神は大物主大神
祭神は大物主大神。これまで何度となく、エピソードをメモしてきたように、祟神天皇の御世、疫病や災害がつづいたとき、それまで宮中に天祖神と地主神を共に祭祀していたことがその因であろうかと、天祖神と地主神を宮から出し、それでも治まらず、結局は崇神天皇の大叔母の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)の憑依・神託により、三輪氏の租であり大物主神の子とされる太田田根子が大物主神を三輪山に祀ることで天下は治まった、と。
で、大物主って誰?については、第三回散歩で訪れた大和(おおやまと)神社御旅所のところで妄想を逞しくしてメモした。そのメモを一部端折って再掲する。
「(前略)しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。 大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。 ◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。

◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件?
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀られるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを前後のコンテキストをもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつ。

◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件? 
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。

あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。

◆祟神天皇の頃、大物主が登場するのは国史編纂時の「後付け」?
大物主には、何となくヤマト朝廷が出雲を制圧し、「国譲り」のエピソードを下敷きにしたストーリーを感じる。
と同時に、大物主=物部氏の祖・饒速日命(ニギハヤヒ)と言った自分の妄想も同様に、国史編纂時期に大王家に対しても力を保持していた物部氏故の「後付け」といった気がしてきた。その因は、ヤマト王権において物部氏がその軍事力をもって大活躍したのは雄略天皇の頃であり、ヤマト王権初期の頃はそれほど活躍していたとは思えないからである。

◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感がある。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。

それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし」。

以上のメモのように、大物主を祀ったとするのは記紀編纂時の「後付け」であり、祟神天皇のコンテキストに登場する大物主って、先住豪族の祀る神奈備山である三輪山、水分神として豊かな水を育む神体山そのものではなかったのだろかと妄想を締めくくった。

◆「巳の神杉」は大物主>三輪山=神奈備山=水分神
その時は、これといったエビデンスがあったわけではないのだが、大神神社の境内にそのエビデンスと考えられる案内があった。「巳の神杉」がそれである。 「巳の神杉」の由来に、「ご祭神の大物主大神が蛇神に姿を変えられた伝承が『日本書紀』などに記され、蛇は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳(み)さん(親しみを込めて蛇をそう呼びます)が出入することから「巳の神杉」の名がつけられました。
近世の名所図会には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれており、現在の神杉は樹齢400年余のものと思われます。
巨樹の前に卵や神酒がお供えされているのは巳さんの好物を参拝者が持参して拝まれるからです」とある。

説明にある『日本書紀』の伝承と言うのは、祟神天皇の大物主を祀るべし、との神託を行った倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)のその後の話。倭迹迹日百襲姫は、その後大物主に嫁いだ。が、大物主は昼には現れず、夜に忍んでくるだけ。倭迹迹日百襲姫は姿を見たいと願うと、大物主は、「翌朝に櫛箱を見よ」、と。そこには蛇がいた。驚いた倭迹迹日百襲姫は自死し、巨大な箸墓に祀られる(箸墓は纏向古墳の中にある、と言う)、大物主は御諸山(みもろやま;「神が守る」山=三輪山)に帰って行った、という話である。
このエピソードからわかるのは、大物主は蛇体であった、といこと。蛇は水神であり、水を涵養する山、つまりは水分神であった、ということだろう。

また、このエピソードからは、倭迹迹日百襲姫と大物主の婚姻がうまくいかなかったとことを暗示する。つまりは、ヤマト王権と先住豪族の関係で、ヤマト王権の支配が完全でない、といった印象を受ける。かといって、この先住豪族が誰を指すのか、記紀編纂の政治的思惑、時空をまぜこぜにしたお話から考えても詮無いことかとも思う。
結論として、祟神天皇当時の初期大和王権は、奈良盆地の先住諸豪族との微妙な力関係で成り立っており、軍事力で諸豪族を支配したのは雄略天皇の頃、と言うから、その初期の不安定は大和王権の姿を暗示している、ということであろうか。

最後にWikipediaにある大神神社の解説を載せておく:神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。旧来は大神大物主神社と呼ばれた。 三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した(注;大物主神の子とされる太田田根子は堺市に住んでいたと伝わるが、それと関係あるのだろうか?最後の疑問)。

大神神社を離れ、JR 桜井線・三輪駅に向かい散歩を終える。

今回の散歩は、歩く道はそれほどでもなかったが、メモの道筋は結構厳しかった。妄想ばかりで多くの学者が喧々諤々のヤマト王権にまつわる古代史の謎をメモしてきた。門外漢がこんな領域は触らない方がいいか、さらっと流そうかとも思ったのだが、湧いた疑問は解決すべしと結構長いメモとなった。
メモは大変ではあったが、ヤマトについて知るいい機会、土地勘を得るいい機会となった。恥ずかしながら山の辺の道から少しだけ外れたところに箸墓古墳があることともはじめて知った。もっとも古墳や古代史にそれほどフックはかからないにため、古墳めぐりもさることながら、途中で手に入れた地図に載る、奈良盆地の中、あるいは外へと通る伊勢街道、多武峯街道、磐余の道などを歩いてみたくなった。
そしてなりより辿ってみたいのは、奈良盆地に14ほど点在する水分の神を祭る山口と名の付く社である。これも私のお気に入りの本のひとつである『日本の景観;樋口忠彦(ちくま学術文庫)』に「水分神社」型景観という記事があるのだが、そこの文章はこのヤマトの地を歩くまであまり理解できなかった。が、実際に歩いて、なんとなくリアリティが出てきた。近いうちに奈良盆地の水分の神を祭るを辿り、その景観を実感してみたいと思ったのが、今回の散歩の最大の成果かとも思う。



先回に散歩では「大和古墳群」の中を進む山の辺の道を辿った。大和古墳群は 古墳出現期から前期にかけての大型古墳群である。『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』には、「古代の日本人は、何かに取憑かれたように古墳の造営に狂奔した時期があったその時期はおよそ3世紀末から7世紀初頭までの三百数十年間である」とする。
そして、Wikipedia では「3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている」とあり、続けて、「3世紀の後半には奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ」、その「前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている」と言う。先回の散歩で見てきた前方後円墳はヤマト王権の全国支配のシンボルでもあったわけである。
今回は、その大和古墳群の中でも、ヤマト王権の天皇陵と比定される陵墓からはじめ、神奈備の山である三輪山の手前までを辿り、感じたことをメモすることにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」と書かれた案内には、「景行天皇陵や祟神天皇陵をはじめとする柳本古墳群や、青垣の山に続く道である山の辺の道は、訪れる人を神話や古代のロマンに誘います。これらの歴史的文化資産は、後世の国民に継承すべき大切なものです。この貴重な財産を守るため、古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)が昭和41年に制定されました。この法律により、歴史的風土を保存するのに必要な土地を「歴史的風土保存区域」として指定し、その中で特に重要な地域を「歴史的風土特別保存地区」として指定しています。
ここは、「天理市・橿原市及び桜井市歴史的風土保存区域(2,712ha)の中の「祟神・景行天皇陵特別保存地区(52.5ha)」となっています。「祟神・景行天皇陵特別保存地区」は、両天皇陵と山の辺の道等と一体となる自然的環境を保存するため、指定されました。奈良県では天理市(2地区)以外に、奈良市(6地区)、桜井市(1地区)、橿原市(4地区)、斑鳩町(1地区)、明日香村(5地区)で、特別保存地区が指定されています」とあった。
これから、いままでも何度となくメモしたヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳地区に足を踏み入れることになる。

行燈山古墳(古墳時代前期);崇神天皇陵
堤に沿って道を進むと、古墳を囲む周濠がはっきりと見える。山の辺の道すがら、いくつもの古墳に出合ったが、古墳の周囲を取り巻く周威濠がこれほどきれいに残っている古墳ははじめてである。
道傍にある案内には「行燈山古墳(古墳時代前期)」とあり、「行燈山古墳は天理市柳本町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「崇神天皇陵」として宮内庁により管理され、アンド山古墳・南アンド古墳を含む周辺の古墳4基が陪塚に指定されています。
墳丘は全長242メートル、後円部径158メートル、前方部幅100メートルを測り、前方部を北西に向けています。柳本古墳群では渋谷向山古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさです。

墳丘は後円部、前方部ともに3段築成です。周濠は3ケ所の渡り堤によって区切られ、前方部側は高い外堤によって囲まれていますが、現在の状況は江戸時代末に柳本藩がおこなった修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものになっています。
周濠の護岸工事に先立つ宮内庁書陵部の調査では、円筒埴輪、土器が出土しました。また、江戸時代末の修陵の際に、後円部周濠の南東くびれ部から銅板が出土したと伝えられます。
残されている拓本によると、片面には内行花文鏡に似た文様が、もう一方の面には田の字形の文様が表現されています。
行燈山古墳の築造時期については、埴輪の特徴や銅板の存在から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、渋谷向山古墳(景行天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とあった。

この古墳は祟神天皇陵であった。散歩をはじめるまでは、祟神天皇陵がヤマト王権の租(応神天皇との説もあるが)といったことも知らず、メモをしながらはじめてわかったことでもあり、散歩の当日はヤマト王権の歴史とはまったく別のことにフックがかかった。それは周濠への疑問である。

●周濠
仁徳天皇陵などで見るように、天皇陵って周囲を濠で囲まれている。何となく神聖な場所への「立ち入り禁止」、進入を防ぐためのものだろうと思っていたのだが、ひょっとして元は「灌漑用」の水濠として使われていたのでは?との疑問である。
そのきっかけとなったのは、2回目の散歩の時にメモした『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」の中にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説である。 頭の整理のために再掲すると、「弥生時代から古墳時代(ほぼ西紀3世紀末から7世紀前半頃)にけて、各地で小地域ごとの部族国家が統合し始める。やがて前方後円墳に代表されるような階級支配が進むのである。その大きな経済的基盤となったのは溜池築造を中心とした乾田開発の拡大だと考えられる」とし続けて、「谷間や小川に小さな堰堤を築いて溜池とし、そこから水のかからない土地に、緩傾斜を利用して水を導き、水稲耕作が可能な乾田を開発する。この溜池灌漑の適地は、年間降水量が比較的少なく、夏期高温地帯で緩傾斜地形の山の辺であったという」と述べる。
更に、「奈良盆地の大和川に流れ込む支流は、その分水界の狭き故、流量の乏しい小河川であち、、この流量の乏しい小河川であったことが奈良盆地において小河川灌漑を発展させた要因とする。
即ち、溜池灌漑で富を蓄積した部族の支配者たちは、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、「用水の乗りやすい緩斜面の小規模な谷底低地や扇状地などに水田開発」を拡げて行った。そして、河川から用水を直接取水するには高度な技術が必要であるが、奈良盆地は水量の乏しい小河川であったが故に、それが容易であった、と説く。実際、古墳時代の豪族の支配地は、小河川に沿った、段丘から扇状地そして平地に至る山の辺にある。

◆古墳の周濠は灌漑用に使われていた
こういったを想い起すに、古墳の周濠が単に神聖な場所を護る、といったものではないだろう、と思ったわけである。水が乏しく、灌漑によって豊穣の地を造り、富を蓄えていった大王家が、貴重な水を実用に使わないわけがないだろうと思い、それをサポートする記事をチェックすると、結構それに関連した記事が見つかった。

外池昇氏の「村落の陵墓古墳と周濠」には、白石太一郎氏の「古墳の周濠」という論文を引用し、その論文の末尾で古墳築造期の周濠の性格について、「水稲耕作を基盤とする初期ヤマト政権の中枢を構成していた、大和。河内の首長たちの灌漑王的性格を象徴するものであり、それは又、農耕祭祀の司祭でもあった首長が豊な水を保証するための呪的な機能をもつもの」としている、とする。 また、図書館で偶々見つけた『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』の「祟神陵としての行燈山古墳」の箇所には、若き日の論文とのコメントをつけつつも、「(この古墳を見たとき)能力からいって堂々たる大貯水に相当する」という印象を受け、大古墳の濠は墳丘をきわだたせるだけでなく、灌漑の役割、つまり農耕的な機能もあわせ有している、と書いてあった。

◆周濠は造営当初からあったわけでもなさそうだ
何となくフックがかかった、周濠と灌漑用水の関連はそれほど間違った推論でもなかったようだ。で、それ以上に、ちょっと興味深い記述が外池昇氏の「村落の陵墓古墳と周濠」にあった。
それは、先ほどの白石太一郎氏の論文に続け、外池昇氏のコメントとして、「古墳の周囲を水をたたえた周濠が取り巻くという古墳の構造は、本来的に墳丘部、外提部の水際の部分を自ら破壊するという、矛盾した構造をもっている」、と述べ、「そうしてみると、今日古墳の周濠部に水がたくわえられているのは、古墳がその築造期の形態をそのまま伝えているためというよりは、むしろ地形等の自然条件や築造期以降のそのときどきの古墳の周辺に生活する人々の必要によって、周濠部に意図的に水がたくわえられてきたことによるのではないか」との推論が成り立つのでは、と述べる。端的に言えば、周濠がはじめからあったと思い込むべからず、ということだ。そうだよな。結構納得。

◆柳本藩がおこなった修陵事業
この事業についての記事が、これも偶然『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』の「祟神陵としての行燈山古墳」に記されていた。簡単にまとめると、天皇陵墓の荒廃を嘆いた下野の蒲生君平は。近畿の天皇陵古墳を調査し1803年に『山陵志』を著す。それがきかっけで山陵復旧の機運が生じ、下野・宇都宮藩が修陵の名乗りを上げる。文久の修陵と称されるこの事業は文久3年(1863)の神武陵からはじまり、行燈山古墳(当時は景行天皇陵とされていた)は元治元年(1864)、そして渋谷向山古墳(当時は祟神天皇陵とされていた)の修陵工事が行われた。
この宇都宮藩による行燈山古墳修陵の話を聞いた柳本藩は、農業用用水不足に長年困っており、この工事を水不足解消の絶好の機会と捉え、工事に協力し、 嶋池と呼ばれた前方部正面の濠を大拡張し貯水量を増やそうとした。
思惑は大きく異なるが、宇都宮藩も地元の農民の協力なくして工事はできないため妥協し工事は進められた。
結果、幕府・宇都宮藩の目する山陵を荘厳にするという目的も達し、一方の柳本藩も水不足解消ができたわけである。そして同書では「このようなことは他の天皇陵古墳でもおこなわれていて、とくに濠の現形を原形と即断してはいけない」と記す。
◆柳本藩
織田信長の弟で、茶人として有名な織田有楽斎の所領であった大和の領地のうち、1万石を分与された織田有楽斎の子が立藩したもので、陣屋を天理市柳本の黒塚古墳の辺りに構えたとのことである。

櫛山古墳
行燈山古墳の後円部の周濠部の外提を隔て、その山側に櫛山古墳がある。このふたつの古墳は、尾根筋を堀切って、ふたつにわけているように思える。いままで見てきた古墳も、一から土を積み上げたというより、支尾根を掘り切って築造したような印象が強かったのだが、このふたつの古墳は、疑いなく士尾根の稜線を断ち切ったものであろう。
道端にあった案内(位置的には行燈山古墳の案内より先にあり、どちらが櫛山古墳か少し混乱したが)には、「天理市柳本町に所在する櫛山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長155メートルの大形古墳で、柳本古墳群を構成する。墳形は、東西に主軸をもつ前方後円形を基調とするが、前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大形の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれている。
昭和23・24年に行われた発掘調査では、この大形祭壇上から排水施設を伴う白礫を敷き詰めた遺構や白礫層の下部に赤色顔料を含む砂層を施した土坑などが検出されている。遺物も鍬形石・車輪石・石釧などの腕輪形製品や、高坏形土師器の破片が白礫層の上部から出土し、古墳の墓前祭祀に関係する遺構が見つかっている。
中円部の頂上に築かれた竪穴式石室は、すでに攪乱を受けていたが、全長7.1メートル、幅1.4メートルの南北に主軸をもつ埋葬施設で、扁平な石材を用いて石室の側壁を築いている。石室床面の中央には、石棺を据えたと思われる方形の落ち込みがあり、長持形石棺の一部が出土している。
調査では、石棺を据えてから石室の側壁を築いたものと考えている。同様な石室の構造をもつ古墳として、御所市宮山古墳の南石室がある。
櫛山古墳の西側には全長260メートルの巨大前方後円墳、行燈山古墳(崇神天皇陵)がある。そうした巨大古墳に隣接して櫛山古墳が造営されていること、石棺を用いた石室の存在、大形祭壇に白礫を敷き詰めた墓前祭祀跡など特別な印象を秘める櫛山古墳の様子は、この被葬者が行燈山古墳と関係する有力な人物であったことを想像させてくれる。天理市教育委員会」とあった。

案内に「墳形は、東西に主軸をもつ前方後円形を基調とするが、前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大形の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれている」とあるように、一目で古墳と判別するのはむずかしかった。案相に写真があり、濠の対面がそれとわかった、という有様であった。

作者不詳の歌碑
櫛山古墳からほどなく、道傍に歌碑。「玉かぎる 夕さり来れば 猟人の 弓月が嶽に 霞たなびく 作者不詳」と刻まれる。「玉がほのかに輝くような夕方になると、狩人の弓ならぬ、弓月が嶽に霞がたなびくことよ」の意味。







武田無涯子歌碑
山田の集落に行く手前に歌碑。「二古陵に一人の衛士やほととぎす」と刻まれる。 二古陵とは祟神天皇陵と景行天皇陵とのこと。意味は「ふたつの一人の守衛が守っている。ほととぎすが啼く静かな光景である」と。とはいうものの、ふたつの天皇陵は結構離れているし、守衛は作者の投影のような気もするのだが。因みに無涯子とは桜井市生まれの明治の俳人とのこと。





大和の集落の案内
その歌碑の横に「大和の集落 青垣山に囲まれた大和の田園風景は整然とした美しいたたずまいを見せています。
集落は奈良時代の条里制にもとづいては位置されてきました。この山の辺の道沿いの集落も条里制に対応しています。こうした集落の配置と、大和棟の農家によって特色ある農村風景がつくられています」とあった。




●条里制と集落
「山の辺の道沿いの集落も条里制に対応しています」と言われても、何の事がさっぱりわからない。条里制と集落の関係についてチェック。
条里制とは、「古代から中世にかけて行われた土地区画制度。1町(約109m)の四角を基本単位である「坪」とし、それを縦横6X6並べたもの、つまりは縦横648m四方を「里」とした。一里は36坪ということである。そして、「里」の横列を「条」、縦列を「里」として、各区画単位を「1条1里」、「3条3里」となどとし、「地番」管理をしたわけである。
で、それと集落の関係であるが、おおよそ1里に50戸を集落の単位とした、と言う。日本最古の計画的集落ということだろう。ただ、条里制によって整然と規則正しく区分されるのは田地であって、集落は塊形、長方形、方形などさまざまである、とのこと。
◆一定の自然空間に、おおよそ同じ規模の集落の塊が見える景観
奈良盆地をGoogleの衛星写真でみると、条里制の姿ははっきりとわかる。が、歩いていても、それほどわかるわけでもないのだが、この案内がある以前から山の辺の道に沿って集落が、ほどよい間隔を持って現れると感じていた。一定の広さ毎に、一定の数の集落が、ほどよい「リズム感」で登場していた。ある一定の自然空間に、おおよそ同じ規模の集落の塊が見える景観が、説明にあった「特色ある農村風景」ということかとも感じる。

渋谷向山古墳
山田の集落、渋谷の集落を越えて先に進むと前方に巨大な山陵が見えてくる。周濠に囲まれたこの古墳は「渋谷向山古墳」と呼ばれる。案内に拠れば、「渋谷向山古墳(古墳時代前期) 渋谷向山古墳は天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「景行天皇陵」として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む古墳3基が陪塚に指定されています。墳丘は全長約300メートル、後円部径約168メートル、前方部幅約170メートルを測り、前方部を西に向けています。古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳です。
墳丘の形状については諸説ありますが、後円部4段築成、前方部3段築成とする見方が有力です。また周濠は後円部6ケ所、前方部4ケ所の渡り堤によって区切られていますが、現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものです。
これまでの宮内庁書陵部の調査等により、普通円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が確認されています。このほか、関西大学所蔵の伝渋谷出土石枕が本古墳出土とされたこともありますが、詳しいことは分かっていません。また、渋谷村出土との伝承がある三角縁神獣鏡の存在も知られています。
渋谷向山古墳の築造時期については、埴輪の特徴から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、先に築造された行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とある。

案内にあった「現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもの」との説明は、祟神天皇陵のところでメモした、下野・宇都宮藩と柳本藩による修陵工事のこと。現形を原形とみなすべからず、ということである。
また、かつては景行天皇陵と祟神天皇陵が逆に比定されていたようだが、景行天皇陵のことは『古事記』には「御陵は山辺の道の上にあり」、『日本書紀』「大和の国の山辺の道の上の陵に葬りまつる」とあり、祟神天皇陵は『古事記』には「御陵は山辺の道の勾(まがり)の岡の上にあり」、『日本書紀』には、「山辺の道の上の陵に葬りまつる」とある。これで陵を比定するのは難しいだろうかと思う。
●景行天皇
巨大な陵墓であるが、景行天皇って、日本武尊の父と言うこと以外、あまり存在感がない。チェックすると、実在を疑うといった説もあるようだ。祟神天皇から始まるヤマト大王家は仲哀天皇でその系譜が絶えるとされるが、その間、祟神>垂仁>景行>成務>仲哀と続く天皇の内、景行天皇の他、成務、仲哀天皇もまたその実在を疑問視する説もある、とか。
天皇陵でも、ヤマト大王家のはじまりの地とされる、この辺りにあるかとチェックすると、陵墓と比定されている陵墓も垂仁は奈良市、景行はこの地、成務は奈良市、仲哀は藤井寺とバラバラであった。これ以上の深堀は力の及ぶ限りではないにで、ここでストップとする。

天理市から桜井市穴師に入る
道を進むと天理市から桜井市に入る。地域名は「穴師」と呼ぶ。穴師の地名由来は、採鉱に従事した鋳金に優れた穴師部からとか、丹入(水銀)との関連を説く人、否、「あなせ」と読むとか、「あらし」とよんで風神との関連を説くとか、常の地名の由来の如く諸説定まることなし。
穴師は旧称「巻向村」と呼ばれ、ヤマト王権の頃には垂仁天皇の巻向球城宮、景行天皇の巻向日代宮が置かれていたとの説もあるようだ。

額田女王歌碑
道標脇に歌碑がある。「額田女王歌碑」である。「額田女王歌 うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈  い離かるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見離けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
反歌 三輪山を  しかも隠すか  雲だにも  心あらなむ  隠さふべしや 中河与一書」と刻まれる。

「三輪山を、奈良の山間に隠れてしまうまで、道の曲がり角ごとに、繰り返し眺めて行きたいのだが、無情にも雲が隠していいものだろうか」と言った長歌に続け、反歌で、「三輪山を雲が隠してしまう。せめて雲だけでも思いやりの心を持って三輪山を隠さないでほしい」と詠う。
●近江遷都
この歌は、天智6年(667)、都を奈良の明日香から近江へと移すときの歌。朝鮮半島の「白村江の戦い」で百済に与し新羅・唐と戦い、結果、敗れた朝廷は新羅・唐の侵攻を怖れ都を近江へと移す。その遷都を悲しみ、魂の拠り所でもあった三輪山との別れ、明日香との別れを刻む最後の時の心を詠んでいるのだろう。
揮毫は中河与一。香川県生まれの小説家・歌人である。横光利一、川端康成と共に、新感覚派として活躍した(Wikipedia)。
●額田女王
大海人皇子(天武天皇)の妃。歌の才、その美貌故に大海人皇子の兄の天智天皇の寵愛を受けたとの話の小説なども多いが確証はないようである。
◆黒須紀一郎
因みに、いつだったか黒須紀一郎さんの『役小角』、『覇王不比等』を読んだことがある。そこには、中国大陸、朝鮮半島、日本列島を巻き込んだダイナミックな、「一衣帯水」そのものの国際情勢が描かれていた。百済系の天智、新羅系の天武、多武峰から睨みをきかす中国から勢力など、誠に面白く読み終えた。当時の朝廷の会話は朝鮮半島の言語ではなかったのだろうか、と思ったほどであった。

柿本人麻呂歌碑
穴師地区の田地の中を進む、道から離れ山の方向に上れば、相撲神社とか穴師坐兵主神社神社、里に下れば「珠城山古墳群」と言った、少し気になるところもあるのだが、それを言い出したら、JR桜井線・巻向駅の少し南に話題の「箸墓古墳」もあるわけで(これも散歩しながらこの地にあるのをはじめて知ったのだが)、時間も押してきた関係もあり、少々気になりながらも、山の辺の道を突き進むことにした。
田地の先にある穴師の集落の先、県道50号の少し手前に歌碑がある。「柿本人麻呂歌碑」の歌碑である。
「ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き 実篤」と刻まれる。「万葉集」巻七:柿本人麻呂歌集の歌とのこと。「漆黒の闇夜、巻向川の川の音が激しい。川の上流はもう嵐かもしれない」と言った意味だろう。
 ●巻向川
古くは、穴師川、痛足川とも表記。読みは共に「あなし」ではある。三輪山の西に境を接する巻向山を源流点とし、巻向山、三輪山の北の谷を県道50号に沿って下り、穴師地区で山麓を出た後、箸墓古墳付近で南西に向きを変え大和川に合わさる。

柿本人麻呂歌碑
県道50号に出ると前方に三輪山が見えてくる。県道50号を三輪山方向へ向かって進むと、巻向川が県道に右手から接近する辺りに歌碑がある。「巻向の 山辺響みて 行く水の 水沫のごとし 世の人われは」と刻まれる。揮毫名は読めなかったが、フランス文学者の市原豊太氏とのことである。
「巻向の山辺を、水が勢いよく流れゆくが、人の世は川の流れに一瞬出来ては消える泡のようにはかないものだ」と言った意味のようだ。

先ほど出合った歌麻呂の「衾道を引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」では龍王山に葬った妻を想ったのか、龍王山に行けば亡き妻に会えると思ったのか、どちらにしても、亡き妻を思い出して悲しむ歌であった。 この歌碑にある人の世のむなしさも、亡き妻に関係あるものかチェック。
どうも、妻は穴師川が流れる山峡の村里に住んでいたようだ。都での勤めを終え、妻問婚の当時、穴師川の瀬音を聞きながら妻の元に通ったからこその、人の世のあわれを穴師川の瀬音と流れの泡で引き立てているのだろうか。素人の解釈、あてにならず。
●万葉歌碑
ところで、山の辺の道に沿って建てられる歌碑が結構多い。特に歌を詠んだ箇所でもなく、碑も新しく、古くから残る碑ではないようだ。何時、誰が、如何なる理由で建てたのか気になりチェック。
広報『わかざくら平成10年8月15日号』というから桜井市の広報誌だろうとはおもうのだが、そこに万葉歌碑の経緯らしき記事があった。その記事によると、きっかけは山の辺の道を多くの人が歩き始めた、昭和43年頃、市の観光協会・商工観光課の方が、道を辿る小中学生のために万葉集を12首ほど選ぶことからはじまった。当初は丸太材に墨書であったが、後に石にすることになった。 その後、歌の数を増やし130首を選び、そのうえ揮毫者を選び依頼。揮毫者の一人であった川端康成氏の発案で万葉だけでなく記紀からも選ぶことになったようだ。万葉歌碑は五十数首建てられている、とのことである。
桜井市はある程度わかったのだが、天理市の山の辺の道傍にあった歌碑・句碑はチェックしたが、その経緯はわからなかった。
因みに、上の広報誌には、川端康成氏の選んだ日本武尊の歌「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 大和しうるはし」を書く前に亡くなられたため、ノーベル賞の授賞式の原稿から文字を選びだし、揮毫として刻んだといったエピソードが載っていた。

三輪山の麓手前で今回のメモはお終い。次回は三輪山の裾を辿り、最後の目的地である大神神社までの散歩をメモする。

2回目の散歩のメモは、石神神宮を離れ「山の辺の道」を歩いた。道は大和高原の山裾、おおよそ標高100mから150mの間を辿ることになる。奈良盆地は標高おおよそ60m程度であるので、山の辺の道を歩きはじめた頃は、はるか昔は湖であったとも言われる奈良盆地の湿地を避け、山裾に道を開いたのだろうと思っていた。
もちろん、それも一因ではあろうが、途中出合った環濠集落が契機となり、昔読んだ書籍『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説を思い出し再読。奈良盆地の部族の経済的基盤となった谷底低地や扇状地での水田開発は、奈良盆地に注ぐ河川の、その特徴である「小河川」故に水勢の制御を容易にし、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、そこから緩傾斜を利用し、水のかからない土地に水を導くことによって可能となった、といったことを思い起こした。山の辺の斜面、小河川が奈良盆地の部族、ひいてはヤマト王権の経済的基盤であった、ということである。
今回の散歩は、そのヤマト王権の残した「大和古墳群」の案内からメモを開始することにする。


本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

「大和古墳群」の案内
竹之内環濠集落から先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。「大和古墳群 古墳時代前期  奈良盆地東南部の東山山麓沿いには、古墳出現期から前期にかけての大型古墳が多数存在します。
こうした造墓地帯の最北部に位置し、天理市萱生町(かよう)、中山町一帯の丘陵上から成願寺町付近の緩やかな斜面上点在する古墳群を指して、かつて萱生古墳群とも呼ばれていた一群が大和古墳群(おおやまとこふんぐん)です。 当古墳では、その立地条件の違いから丘陵上の前方後円墳のみで形成される中山支群と、扇状地の緩やかな斜面上に点在する前方後円墳、前方後方墳、円墳などの萱生支群に区分することができます。
中山支群では、埴輪の起源となる吉備地方の特殊器台片が発見され出現期の古墳と考えられる中山大塚古墳や、特殊器台形埴輪が樹立し当古墳群の中で最大規模の前方後円墳となる西殿塚古墳、それに墳丘裾に特異な埴輪配列をもつ東殿塚古墳などがあり、同じ尾根筋上での累世的な造立が考えられています。 また、萱生支群では最古級の大型前方後方墳と考えられるノムギ古墳をはじめ、中山支群で出現した初期埴輪と同系統の埴輪をもつ波多子塚古墳(はたご)、大型内行花文鏡の副葬例を見た下池山古墳など、盆地東南部の前期古墳群のなかでも、この支群にのみ前方後方墳築造の系譜が認められています。
以上のように、大和古墳群では各支群の群形成に異なる特色が認められる 天理市教育委員会」とあった。

案内にはこの解説と共に、航空写真、そして古墳の位置を示した地図がついていた。名前のついた古墳だけで21基ほどある。夥しい数である。
散歩の最初にメモしたことだが、この山の辺に道を歩くまで、奈良盆地にこれほど多くの古墳があるとは思ってもみなかった。否、正直に言えば、飛鳥の石舞台とか、高松塚、そして箸墓古墳くらいは知っていたが、奈良に巨大な古墳があるとは思ってもみなかった。箸墓古墳が話題になった時も、巨大古墳としてのイメージをもつことはまるでなかった。
また、奈良と言えば大和朝廷=飛鳥>藤原京>平城京、といった短絡的な理解だけで、奈良盆地の山の辺に大和朝廷成立以前の豪族が割拠し、また大和朝廷につながる大和王権の豪族が、奈良盆地の、今回歩く山の辺の道からはじまったことなど知る由もなかった。
大和王権(朝廷)と大和朝廷を使い分けているのを知ったのも、このメモをはじめてからである。昔の日本史では、4世紀から7世紀の大和の王権も「大和朝廷」と習ったように思うのだが、現在では「大和王権(ヤマト政権)」と表記されることが多いようである。
その理由は、国名としての「大和」の表記が8世紀の養老律令施行後であること、また初期の大和王権の中心は大和国全域ではなく、奈良盆地東南部の東山山麓沿いでしかなかったこと、そして、初期の大和王権は大王家を中心とする政治連合であり、後年のように武力をもって各地の豪族支配し、百官を従える「朝廷」の実態を示していなかった、ということのようである。 ともあれ、これから先、大和王権の大王が降臨(侵攻)し、溜池灌漑と小河川灌漑によって豊かな水田を開発し、力を蓄え築いた幾多の古墳に沿った「山の辺」の道に入ることになる。

波多子塚古墳

道を進み、萱生の集落に入る手前、道の西、丘陵の少し下に小高い塚が見える。如何にも古墳といった趣である。道端に案内があり「波多子塚古墳」とあった。 案内には、「波多子塚古墳(古墳時代前期) 波多子塚古墳は萱生町集落西方の斜面に位置し、西向きに延びる低く長い丘陵上に立地する前方後円墳です。
現状の墳丘規模は全長140メートル、後方部東西幅50メートル、前方部幅14メートル、前方部長90メートルを測ります。前方部の形態が細長いことがこの古墳の大きな特徴であるとされることもありますが、墳丘が畑や果樹園等として開墾されていることから、築造当時の本来の墳丘形状からは大幅に改変されているものと考えられます。とくに、後方部は葺石石材を転用した石垣により段状に改変されています。また、墳頂部外縁の石垣には板状の石材が多く使われていることから、埋葬施設が竪穴式石室であったことがうかがえます。
平成10(1998)年に天理市教育委員会が後方部北側でおこなった発掘調査では、墳丘裾の葺石と周濠の存在が明らかとなり、外堤上では板石積みの小石室も見つかりました。また、周濠からは多くの埴輪片が出土し、波多子塚古墳の築造時期を知る手がかりが得られました。出土した埴輪には朝顔形埴輪、鰭付埴輪、特殊器台形埴輪などがあり、西殿塚古墳や東殿塚古墳でおこなった発掘調査により出土した初期埴輪とともに、大和古墳群における埴輪の成立と波及を考える好材料となりました。古墳の築造時期については、出土した埴輪の年代から、おおむね4世紀前葉と考えられます。平成22(2010)年3月  天理市教育委員会」とあった。

説明にあるように、畑や果樹園として崩されており、畑の中にぽっかりと浮く塚といった印象で、それほど大規模な古墳のようには見えなくなっていた。

柿本人麻呂の歌碑
波多子塚古墳の案内から少し先に進むと、歌碑が建つ。「あしひきの 山川の瀬の 響るなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る 柿本朝臣人麿」と刻まれる。
「万葉集」巻七:一〇八八番」の歌。「響る」は「なる」と読む。「山川の瀬音が響き流れるとともに、弓月が嶽には雲がわき立っている」の意味。あまり情感豊かとはいえない私ではあるが、この歌のどこがいいのかよくわからない。

どこがいいのか気になりチェックすると、この歌は「雲を詠む」という二首で一組となったもの。その対の歌は「痛足川(あなしがは) 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に  雲居(くもゐ)立てるらし」であり、川の波と山の雲が対になり、その川の波と山の雲の盛んな姿を歌い、豊穣なるを前祝いした歌と考えられる、といった記事があった。そういう意味合いであれば、なんとなく納得。 因みに、歌碑はどういった経緯で建てられたのかチェック。「天理市に文学碑を建てる会」により平成15年(2003)11月24日に設置された、山の辺の道文学碑第6号基との記事があった。「天理市に文学碑を建てる会」も山の辺の道文学碑に関する詳細は不詳。

西山塚古墳
萱生の集落に入る手前、道に沿って南に濠に囲まれた如何にも古墳らしき緑の高まりが見える。それが西山塚古墳である。道沿いにあった案内には「西山塚古墳(古墳時代後期) 西山塚古墳は萱生町集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。墳丘は前方部二段、後円部三段になるものと思われ、現状では全長114メートル、後円部径65メートル、後円部の高さ13メートル、前方部幅70メートル、前方部の高さ8メートルの規模を持ちます。
大和古墳群の中では唯一、前方部を北側に向けているのが特徴です。古墳の周囲を囲む幅12~20メートルの溜池は周濠の痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池の外側には幅10メートル、高さ2メートルほどの外堤が残っています。
発掘調査は行われておらず、副葬品や埋葬施設は不明ですが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されています。明治20(1887)年ごろに墳頂部が開墾された際、石棺や勾玉、管玉、鈴、土器、人造石が出土したとの記述が『山辺郡誌』に見られますが、現在その所在は明らかになっていません。
なお、この古墳の南東に所在する西殿塚古墳が「手白香皇女衾田陵」に治定されていますが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられるのに対し、手白香皇女は6世紀後半ごろの人物であり、西山塚古墳が手白香皇女の真陵ではないかとする考え方があります。 平成22(2010)年3月  天理市教育委員」とある。

「前方部を北側に向けている」とあるから、集落の入り口部分の藪は前方部と言うことだろう。で、この西山塚古墳の主と比定される「手白香皇女(たしから)」って誰?チェックすると第26代継体天皇の皇后であり、第29代欽明天皇の母とのこと。
●継体天皇
古代史にあまりフックのかからない私でも継体天王のことは、少しは知っている。大和王権(大和朝廷とこのメモまでは思っていたのだが)の大王家(25代武烈天皇)の後継者がいなくなり、大連である大伴氏、物部氏などが後継者を探し越(越前?)の国から呼び寄せ、河内にて即位するも、大和に入るまで20年の時を必要とした、ということと、天皇家は万世一系とはするものの、継体以前には断続があり、現在に続く天皇家の祖とする、といったものである。これが継体天皇に関する知識であり、それほど間違ってはいないかと思う。

ここからはチェックした内容だが、大和に入る前に複数の妃そして子もいたようだが、大和に入り、第21代雄略天皇の孫娘で、第24代仁賢天皇の皇女であり、第25代武烈天皇の妹(姉との説もある)である手白香皇女を妃とする。ヤマト大王家(ヤマト王権は雄略天皇の頃から、それまでの「王」から「大王」という称号に格上げされていると記録にある)と系譜ではない継体天皇の、大王家の系譜に対する融和政策であり、正当性を示す政治的施策とも思える。

◆継体天皇陵は大阪府茨木市。その妃の陵墓が何故ここに?
で、その妃の古墳がこの地にある、と。それでは継体天皇陵は?チェックすると大阪府茨城市の三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)が継体天皇陵と比定されている。結構な泣き別れ?Wikipediaには「継体天皇が、ヤマトの王統につながる手白香皇女の墓をヤマト王権の始祖たちの墓が並ぶ大和古墳群や柳本古墳群のなかに営むことによってみずからの王権の連続性・正統性を主張したものではないかと推測し(後略)」とあった。この記事は継体天皇が出自不明の王ではなく、大和王権の系譜を継ぐものとしてのエビデンスとして挙げている説明でもあるので、そのまま鵜呑みにすることもできないが、なんとなく納得感もある。

萱生環濠集落
道に沿って西山塚古墳の周濠が続く。道が周濠を横切る古墳裾に何軒かの民家が建つ。これが萱生(かよう)環濠集落ではあろうが、竹之内環濠集落のように多くの集落を囲むといったものではなく、Googleの衛星写真で見る限り、ほとんどが古墳である。古墳は耕地として数段に開墾されているように見える。昔はもっと多くの人の住む集落でもあったのだろうか。




大神宮常夜灯
集落を抜け、行く手の左手、山稜が開ける道の分岐点に大きな常夜灯が建つ。正面には「太神宮」と刻まれる。太神宮ということは「伊勢神宮」のことだろう。山の辺の道の終点である三輪山の南西麓から、初瀬川の谷を進む伊勢街道がある。お伊勢参りの道標であろうか。嘉永元戊申年(1848年)に建ったもの、と。
大神宮常夜灯の脇にはささやかな道祖神とともに、猿田彦大神と刻まれた石碑があった。Wikipediaには「天孫降臨の際、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したということから道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている」とあった。
●道祖神
塞の神・道祖神と言えば、いつだったか信州と越後を繋ぐ塩の道を歩いたときに出合った大杉を思い出す。その道端に大きな一本の杉は塞の大神と呼ばれていた。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。
この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置き、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。 ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。

五社神社
道を進み中山の集落の中に入ると五社神社が建つ。ささやかな社である。元は「五社の森」と呼ばれる広い森に鎮座していたとのことだが、明治時代に中山の歯定神社に合祀され、社地は開墾されて畑地となるも、昭和26年(1951)、この地に戻り社が造られた、と言う。
五社神社ってどのような神を祀るのかチェックすると、この社は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比咩大神。これらは春日神社の四柱。五社なのに四柱? チェックすると、全国の五社神社に特に決まった神のライアンアップは見当たらない。春日四柱との関連でいえば、浜松の五社神社が元は大玉命(ふとだまのみこと)を祀っていたが、それに春日四祭神を加え五社神社としたとあったが、これもあまり関係なさそう。結局四と五の差分はわからずじまいである。

手白香皇女衾田陵
五社神社から衾田陵の案内に従い、柿の木を見遣りながら小径を進むと手白香皇女衾田陵に。天皇陵によく見る、宮内庁管轄を示すような鳥居と石柱で正面がガードされている。
傍にあった案内には「西殿塚古墳・東殿塚古墳は大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳など前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。 西殿塚古墳 西殿塚古墳は全長230m。後円部径145mm前方部幅130mを測ります。墳丘は東側で三段、西側四段の段築により形成されており、後円部及び前方部の墳頂に方形壇が存在します。
現在、墳丘部分については「手白香皇女衾田陵」として宮内庁により管理されています。平成元年(1989)には宮内庁書陵部により墳丘の調査が実施され、墳丘の各所から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの遺物が採集されています。
また、平成5年(1993)~平成7年(1995)には天理市教育員会により墳丘周辺の範囲確認調査がおこなわれ、墳丘東部くびれ部と前方部東裾において墳丘斜面の基底石と掘割(周濠相当の落ち込み)が存在することが確認されました。この調査の際にも、有段口縁が特徴の特殊円筒埴輪など多量の初期埴輪が出土されました。
東殿塚古墳 東殿塚古墳は全長139m、後円部径65m、前方部幅49mを測り、周囲には古墳の外周を区画する長方形の地割が残っています。後円部頂には多数の板石が散乱していることから、埋葬施設は竪穴式石室であると推定されています。
平成9(1997)に天理市教育員会が前方部西側で実施した発掘調査では、墳丘上段部の基底石列や墳丘下段裾の葺石、掘割(周濠相当の落ち込み)と外堤を検出するなど、多くの大きな知見が得られました。とくに、墳丘裾と外提の間の掘割内で見つかった祭祀施設では、初期埴輪と二重口縁壺や甕(かめ)、高坏(たかつき)など布留式土器(ふる)、さらに近江系や山陰系など外来系土器との共存が確認され、初期埴輪の年代的位置づけと古墳の築造時期を考える上で非常に重要な資料が得られました。
埴輪配列を構成した初期の円筒埴輪には、朝顔形埴輪・鰭付円筒(ひれつき)・特殊器台形埴輪などがあります。その中でも鰭付円筒埴輪の1点には船をモチーフとして描かれた線刻絵画があり、当時の葬送観念を反映するものと考えられる重要な発見として知られています。
築造時期  西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまで発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられます 天理市教育委員会」とあった。

巨大な「山容」を留める西殿塚古墳は、先ほどの西山塚古墳の案内には「手白香皇女衾田陵」との案内があったが、西山塚古墳でメモしたように、西山塚古墳が「手白香皇女衾田陵」との議論もあるようだ。どちらにしても、門外漢には??
●東殿塚古墳
それより、案内にある東殿塚古墳。西殿塚古墳のすぐ東に平行に並ぶとのことだが、ちょっとした高まりのある茂みはあるのだが、東殿それらしき「高み」は見えない。チェックすると古墳の墳丘は開墾され、ほとんどが果樹園となっており、古墳らしき姿は留めていないようであった。案内を読む限りでは結構な古墳をイメージするのだが、「今は姿を留めない」とでも書いてもらえば、それなりの感慨も抱いだだろうが。。。

燈籠山古墳
手白香皇女衾田陵から山の辺の道に戻り、小高い塚がある。その東側には墓地。が広がるが、そこに「燈籠山古墳」の案内。「燈籠山古墳は天理市中山町に所在する全長110mの前方後円墳で、大和古墳群を構成する大型古墳のひとつである。前方部は念仏寺の墓地として利用されている。墳丘上には埴輪が散布し、埴輪の特徴から古墳時代前期、4世紀前半の古墳と思われる」とあった。

説明にあるように、前方部は完全に墓地となってしまっている。墳丘を眺め、山の辺の道に戻り、墓地を迂回し念仏寺への道を進む。と、また「燈籠山古墳」の説明があった。さきほどより詳しい案内であるので、再掲しておく。 「燈籠山古墳(古墳時代前期) 燈籠山古墳は、東殿塚古墳・西殿塚古墳・中山大塚古墳などと同じ丘陵に位置する前方後円墳です。
この丘陵上に位置する古墳は前方部を南に向けますが、燈籠山古墳だけは西に向けています。
古墳の規模は、現状では全長110メートル、後円部径55メートル、後円部高さ6.4メートル、前方部幅41メートル、前方部高さ6.3メートルを測ります。墳丘は大きく改変されていますが、前方部・後円部とも3段に築かれていた可能性があります。墳丘の北・南・東の三方に平坦面があり、東側は墓域を区画するために丘陵を切断した痕跡、南側と北側は墳丘に盛る土を取った痕跡と考えられています。
発掘調査は行われておらず、埋葬施設は不明ですが、後円部では竪穴式石室の部材と見られる板石が多く採集され、石材鑑定の結果、大阪府柏原市や遠くは徳島県で産出する石材であることがわかりました。また、墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が採集され、埴輪列が墳丘を囲んでいたと考えられています。
その他の出土品には、埴製枕、埴質棺、石釧、勾玉・管玉など装身具が知られています。特に埴製枕は長辺36.8㎝、短辺29.4㎝、厚さ8.0㎝の長方形で全面に朱が塗られており、中央を頭の形にくぼませて周囲に鋸歯文や幾何学文などを線刻したものです。
これらの特徴から、古墳の築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前葉)と考えられます。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とあった。

中山大塚古墳
念仏寺を越えると前方に古墳と思しき独立丘陵が見える。中山大塚古墳である。 道傍にあった案内には「中山大塚古墳 (築造時期 古墳時代初頭) 中山大塚古墳は、萱生町と中山町の一帯に展開する大和(おおやまと)古墳群の南側に位置する前方後円墳です。標高約90メートルの尾根上に前方部を南西に向けて築かれており、前方部付近には大和神社のお旅所がおかれたために削平を受けています。古墳の規模は、全長132メートル、後円部径約73メートル、後円部の高さ約11メートルを測ります。
1985年以降、1994年までの学術調査の結果、墳丘表面が葺石で覆われ、後円部に2段、前方部に1段の段築による築成であることが知られています。
また、外部施設として西側くびれ部に作られた三角形の張り出し部と後円部北側の張り出し部があり、いずれも古墳への通路的な施設と考えられています。 埋葬施設は、後円部墳頂の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室が見つかっており、長さ7.5メートル、天井までの高さ約2メートルの規模をもちます。なお、石室の南北両小口は隅に丸みをもつように石材が積まれています。石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩が使用されています。
出土遺物では、銅鏡2点、鉄器36点などが石室内より見つかりましたが盗掘が石室内全体におよんでいたため細片化したものがほとんどでした。銅鏡は二仙四禽鏡で、鉄器には鉄槍、鉄鏃などがあります。
ほかに、墳頂部からは土器のほか、特殊壷形埴輪、二重口縁壷系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器、特殊壷形土器などが出土しており、埋葬主体部を囲うように樹立していたものと考えられています。
これまでの発掘調査の成果から、当古墳の墳丘は戦国時代の山城として再利用されていたために若干改変され、現状の墳丘形状が築造当初のものではないこともわかっています。しかしながら、石室や墳丘構造、あるいは埴輪などに認められるそれぞれの初源的な要素から、当古墳が前方後円墳の築かれ始めたころの古墳であると判断されています。 1999年8月天理市教育委員会(2008年3月改訂)」とあった。

大和神社の御旅所
中山大塚古墳の案内にもあったように、古墳の前方部の大和(おおやまと)神社の御旅所がある。朱に塗られたささやかな祠が祀られる。御旅所坐神社(おたびしょにいますじんじゃ)、とのことである。
「大和神社(おおやまとじんじゃ)御旅所の由来」の案内には「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(五穀豊穣)、主神日本大国魂神(大地主神)、須治比賣大神(天照大神)
大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭りに天皇(亦は特使)が参列。 千四百年前に始まる。その以前、橘花祭りは、今から約二千年前始まるとある。 橘渡御は、はじめ大和神社の瑞籬、水砂道(みささぎの道=日本最古の道)から、笠縫を通り、中山邑、岸田邑を経て市場の休み所御神輿石、長岡岬大市坐、 皇女渟名城入姫神社、御祓い休憩、柳本新地の手前左に曲がり、中山都・古道、斎主御前の住い道を通り、長山日暮上道より、御旅所、霊薬井戸で清める。 石段を登り、赤鳥居こぐり、清霊舞を執り行う。

一日目は、斎持御前、塚上に屋形を建て、夜に宮司祭。
二日目は、石段を下がり、中山邑から長岡邑川を渡り、高槻、天照大神祭り。
三日目は、水垣で倭大国魂大神、采女の橘の舞、千戈の舞、長岡の道を下り市場へ向かう」とある。
●大和神社
御旅所(おたびしょ)とは、「神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所(Wikipedia)」。大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭の御旅所である。
大和神社は山麓を下ったJR桜井線・長柄駅の少し南にあり、日本大国魂大神(倭大国魂神)が祀られる(祭神は三柱ではあるが、倭大国魂神以外は諸説あるので省略)。説明はその大和神社のお祭りの巡行ルートは詳細に説明されている。

それはそれでいいのだが、「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(おおとしのおおかみ;五穀豊穣)、主神日本大国魂神(やまとおおくにたまのおおかみ:大地主神;おおどこぬし)、須治比賣大神(すじひめ;天照大神)」って何を伝えようとするのか皆目わからない?

●天の神・天照大神と地主神・倭大国魂
また、境内には「畏れし神の勢い 大和の地主神・日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)」といったタイトルで以下のような説明があった。「これより先、天の神・天照大神と地主神・倭大国魂を皇居の内に祀った。しかし、天皇はニ神の神威の強さを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神は豊鋤入姫命に託して大和の笠縫邑に祀り堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。また、日本大国魂神を渟名城入姫に祀らせた。いま、天照大神は伊勢神宮内に、日本大国魂神は大和神社に鎮座さる。
四月一日は、大和神社よりここ御旅所(大和稚宮神社;おおやまとわかみや)まで神輿渡御が行われます。「祭りはじめは、ちゃんちゃん祭り 祭り納めはおん祭り」大和の里謡に歌われる大和の代表的な祭りです。「チャンチャン」と鉦鼓の音が大和に春を告げます」とある。

●大歳大神って誰?
この案内で、大和神社御旅所の由来冒頭部の意味するところが、少しわかってきたが、それでも、御旅所の由来にあった「大歳大神」がどう関係するのか説明がない。そもそも大歳大神って誰?チェックすると、大歳大神とは「大物主;おおものぬし」のことのようである。それを踏まえ、もう少し深堀すると、大和神社の説明は『日本書紀』の祟神記に描かれるエピソードをベースにしたものであった。




●大歳大神(大物主)と日本大国魂神(大地主神)、そして須治比賣大神(天照大神)の関係
松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」をもとにまとめると、こういうことである:第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;天皇と呼ばれたのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇ないしは持統天皇の時代からであるが、便宜的に「天皇」と書く)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。
その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。
しかし、渟名城入姫は髪の毛が抜け落ち、痩せて病気になり、祀ることが出来なくなった。そこで崇神天皇は神浅茅原に御幸し卜占する。その時、崇神天皇 の大叔母である倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)が激しく神懸かりトランス状態になり、倭迹迹日百襲姫命の口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」というもの。その意外な展開に崇神はまだ納得がいかない。すると大物主(オオモノヌシ)は「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。
いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。茅渟県陶邑(大阪府堺市)にいた太田田根子を捜し出し、大物主大神を三輪に祀った結果、ようやく国は治まった。

◆皇祖神・地主神を宮から追い出し大物主を祀る?
このエピソードで御旅所にあった登場人物全員をカバーした物語の全容はわかった。しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。
大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
もっとも、宮から追い出した皇祖神も、いかなる理由か不詳(注;私は)だが、結局は伊勢に「出し」ているわけで、明治になって樫原神宮に祀られるまでは王権のあるヤマトの地に祀られてはいないようであり、ヤマトの地にそれほど「未練は」なかったのだろうか?門外漢にはよくわからない。

◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。

◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。
別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。
大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。

◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件? 
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀れれるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを、ヤマト大王家と出雲の神話をもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつの解釈。

◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件?
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた、という解釈。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。

あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。

◆神話は「歴史?」からの「後付け」?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、自分だけにではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感を抱く。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。「後付け」と感じる所以である。

◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。

●歯定(はじょう)神社
大和神社御旅所の境内、一段高くなったところに春日造の小祠がかつての「歯定大権現」。歯の神様とか「葉状」>農業・特に葉物野菜の種蒔きに際して、当社に豊作を祈願した神、といった説明もあるが、なんとなく出来過ぎ感があり、しっくりこない。どこかは特定できなかったが、小字に「歯上(定)堂」というところがあるようで、旧地はその地にあったものが、明治初年にこの地に移された、といった記事があったが、地名故の社名といったほうが、少し納得感がある。


柿本人麻呂歌碑
山の辺の道を進むと、道脇に歌碑がある。「衾道乎 引手 乃山尓妹乎置而  山徑徃者 生跡毛無 孝書」と刻まれる。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」と読むようだ。
歌碑の横に意味を説明してあり、「引き手の山(龍王山)に妻の屍を葬つておいて 山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない」とあった。
なんとなく気になりチェックすると、この歌は、柿本朝臣人麻呂、妻みまかりし後、泣血哀慟して作る歌二首、とある長歌の反歌の一つであった。もうひとつの歌は、「去年見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年離かる」 と「去年妻と一緒の見た秋の月は今同じだが、一緒にこの月を眺めた妻は、亡くなり遠ざかって行く」と言った意味だろう。
で、長歌とは「5・7・5」音の句を繰り返し、最後は「7・7」音で終える。その反歌とは、長歌の終わりに添えるうたのことで、長歌の意を反復・補足または要約するもの。1首ないし数首からなる。
それでは、この二首の長歌はどのようなものか「うつせみと  思ひし時に  取り持ちて  我が二人見し。。。」と続く長歌をチェックしてみた。長歌など読んだこともないのだが、これがなかなかいい。亡き妻への思い、残された子供と昼も夜もなく、寂しく、そして嘆き、恋しく思っても会う手だてもないので、羽易の山に恋しい妻はいると人の言うままに、難路を辿り来たが、うれしいことは無かった。この世で会えると思っていた妻は、ほのかにさえも見えないから、と詠っていた。
この流れで半歌を詠むと、少しリアリティが増すようだ。因みに、この長歌の意からすれば、山に葬った帰りのさみしさ、というより、さみしさゆえに、この山に入れば妻に会えるかも、といったニュアンスをかんじるのだが。。。素人の感想ではある。尚、「孝書」とは万葉集の碩学である犬養孝博士とのことである。
●犬養孝
万葉学者。万葉集研究に生涯をささげ、万葉故地の保存にも尽力。日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立。犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶとのこと(Wikipedia)

長岳寺
人麻呂の歌碑から先に進み、集落をひとつ越えたあたりで、中山地区から柳本地区に入る。最初の集落の中、山の辺の道から少し山麓へと向かったところに長岳寺がある。
拝観料を惜しんだわけではないが、先を急ぐのあまり、大門を潜った先で、お参りし寺を離れる。
高野山真言宗のこのお寺さまのWEBに拠れば、「平安初期(天長元年824年)淳和天皇の勅願により弘法大師が創建された古刹である。盛時には僧兵三百、宿坊四十八、境内94,000坪の壮大な寺院であった。 千古の歴史の中で栄枯盛衰を経たが、今なお多くの文化財を残し、国指定重要文化財としては仏像5体、建造物4棟を有する」と。
弘法大師が大和神社(おおやまと)の神宮寺として創建したとも伝わる。

歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」とある。
今回のメモはここで御しまい。次回、この案内にある、ヤマト王権の始まり頃の王の陵墓地帯のメモからはじめることにする.。
第一回の散歩のメモは石上神宮でのあれこれで力尽きた。饒速日命とか物部氏についての書籍は結構出版されている。喧々諤々のテーマのようだ。今まで黒須紀一郎さんの『役小角』、『覇王不比等』などでその名を知った程度の知識で、饒速日命や物部氏とヤマト王権についてメモすることもできず、図書館で数冊本を借りてきてスキミング&スキャンング。
単なる妄想には過ぎないが、自分なりに疑問に感じたことを、考える好い機会とはなった。 実際、関東を歩いていると、物部氏の痕跡に出合うことが多い。このメモを書くまでは、物部=出雲族、といった程度に単純化してメモしてきたのだが、未だにはっきりとはしないが、それなりに物部氏のこともわかってきたように思う。
さて、石上神宮からやっと解き放たれ、山の辺の道を辿ることにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

高蘭子歌碑
摂社拝殿の前を参道から右に折れる道に「山の辺の道」の案内がある。杉の林を進むと歌碑があり、「みじかかるひと世と思へ布留宮の神杉のほのそらに遊べる 蘭子」と刻まれる。作者の高蘭子は「山の辺短歌会」を主宰されている天理市在住の歌人とのこと。





阿波野青畝歌碑
続いて現れた歌碑には左右に二首の歌が刻まれる。右の句は「石上古杉暗きおぼろかな」と詠める。この歌碑は阿波野青畝が詠んだものであり、左手の歌は奥さまの句とのこと。「よろこびを(?)互いにに語り天高し」のように読めるのだが、はっきりしない。阿波野青畝は大正・昭和にかけて活躍した俳人とのことである。

僧正遍照歌碑
歌碑が続く。「僧正遍照」の歌碑である。「さとはあれて ひとはふりにしやどなれや 庭もまがきも秋ののらなる 僧正遍照」と刻まれる。「里は荒れて人はふりにし宿なれや庭も籬も秋の野良なる」。「里は荒れ果て、住んでいる人も年老いてしまった家であるから、庭も垣根も秋の野良のようです」と言った意味のようだ。
「古今和歌集」巻第四、秋歌上の最後に載る和歌である。「仁和のみかど、みこにおはしましける時、布留の滝御覧ぜむとておはしましける道に、遍照が母の家にやどりたまへりける時に、庭を秋の野につくりて、おほむものがたりのついでによみてたてまつりける」との題詞がある。僧正遍照は桓武天皇の孫にあたる高貴の出であり、野良のような荒れた家に住むわけもなく、ちょっとしたジョークを言っているのだろうか。
題詞にある「布留の滝」とは布留川の上流にある滝で、「桃尾の滝」とも称され、石上神宮の本宮があったとも伝わる。密教の修験の行場でもあったようである。

白山神社
左手に池を見遣りながら進むと、石上神宮の社叢から出る。前方に龍王山からの支尾根であろう丘陵に挟まれた杣之内町の集落が見える。ちょっとした谷戸状の里の民家を抜け、丘陵部の緩やかな坂を上り切ったところに白山神社が鎮座する。
神仏混淆の頃は白山権現と称され、境内にはお寺様があり、十一面観音が祀られていたとのこと。祭神は菊理媛神(きくりひめのみこと;くくりひめのみこと、とも)。菊理媛神も謎の神である。『日本書紀』に一瞬だけ登場する。 黄泉の国で、伊奘諾尊(いざなぎ)は変わり果てた伊弉冉尊(いざなみのみこと)を見て逃げ出す。が、追いつかれた伊奘諾尊と相争うとき、伊弉冉尊の言葉を取継ぎ、「何か」を言った菊理媛神の言葉がきかけとなり、ふたりは仲直りし、伊奘諾尊は黄泉の国から帰って行った、とのこと。だが、何を行ったのかは書かれていない。
そして、これもその経緯は不明だが、菊理媛は加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。白山神社に祀られる所以である。
●峯塚古墳
それはともあれ、この丘陵は古墳地帯とも言われる。『大和・飛鳥考古学散歩:伊達宗泰(学生社)』にあった地図をみると、この辺り一帯には、物部氏が5世紀から6世紀にかけて築造した「西山古墳」や「塚穴山古墳」など、杣之内古墳群が点在するが、この丘陵の南西の裾辺りに、そのうちのひとつ「峯塚古墳」がある。
チェックすると。全長11mの横穴式石室を残す円墳とのこと。築造時期は7世紀というから、物部氏の一族である石上氏による最後の古墳とも言われるようだ。当日は、こんな古墳の存在を知る由もなく、神社にお参りし、先に進んだ。常のごとくの「後の祭り」である。

大日十天不動明王の石標
白山神社を越え、左に開けた彼方の山々を眺めながら、ゆるやかに下ると国道26号の下を潜る。道はその先から、ゆるやかな上りとなり、ほどなく道が分かれる。その分岐点に「左 大日十天不動明王」と刻まれた道標がある。
名前に惹かれ、寄り道を、とは思うのだが、ひたすら距離を稼ぐK元監査役の御威光(ご意向)に遠慮する、と言うか、実際は、お不動さままでの距離が示されていなかったため、道なりに右へと山の辺の道を進むことにした。
●大日十天不動明王
十天神とは仏教において六道の一つである天部に住み仏教を護る神の内、八方(東西南北と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に天地を護る二天を加えたもので、密教では四天王とともに重視される、と(Wikipedia)。 方位といった自然を神格化したこれらの神様は、自然と調和して災難を払うことになる。東(帝釈天)、西(水天)、南(焔魔天)、北(毘沙門天)、東北(伊舎那天)、西北(風天)、西南(羅刹天)、天(梵天)、地(地天)が十天であり、全方位からの災難に耐えうる守護神と言うところだろうか(残りの二天は日(日天)と月(月天))。
因みに大日十天不動明王は、この分岐から最明川を結構上ったところにあるようで、密教修験の行場がある、との記事があった。

芭蕉歌碑
道を進むと山の辺の道は溜池に沿って左に折れるが、その溜池の堤に芭蕉の句碑が建つ。
その手前に案内があり、「芭蕉句碑 うち山やとざましらずの花ざかり  宗房 この句は、松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が江戸へ下る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで、「宗房」と号していた頃の作品である。いつの頃にこの地を訪れて作られたか、それは明らかではないが、寛文十年(一六七〇)六月頃刊行の『大和順礼』(岡村正辰編)に収められているところから、この年以前、すなわち二十三、四歳の頃までに詠んだものであろう。
[句意]
今、内山永久寺に参拝してみると、見事なまでに満開の桜で埋め尽くされている。土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもないのである」とあった。

内山永久寺跡
溜池を回り込んだ辺りに芭蕉の句にあった「内山永久寺」跡の案内があった。「永久寺跡 永久年間(1113~7)に建立された寺で鳥羽天皇の受戒の師であった亮恵上人の開基と伝えられています。
本尊は阿弥陀如来で石上神宮の神宮寺として盛時には大伽藍を誇っていたと伝えられています。その後寺勢がおとろえ、明治の廃仏毀釈で廃寺となって、いまではわずかに池を残すだけで歴史のきびしい流れを感じさせられます」とあり、また、その傍にも「廃物稀釈の嵐にのみ込まれた幻の大寺 鳥羽天皇の勅願で創建され、東大寺、興福寺、法隆寺に継ぐ(注;ママ)寺領を有し、その規模と伽藍の壮麗さから西の日光と称された。
しかし、明治の神仏分離令・廃仏毀釈により壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく破壊と略奪の対象となり、仏像・仏画・経典などは国内外に散逸した。いま各地に残る難を逃れた宝物とこの地に残る本堂池のみが、かつての大寺に栄華を伝える」とある。

案内にあった盛時の永久寺を描く画を見るに、まさに七堂伽藍が林立する大寺である。開基は興福寺の二大塔頭のひとつ大乗院(摂関家や将軍家の子弟が門主となる門跡寺。もうひとつの一乗院は天皇家の子弟を門主とする門跡寺)の僧であった関係上、大乗院の末寺として整備され、神仏混淆の流行と共に石上神宮の別当としての役割も担い、室町時代には大伽藍を有する寺院となったと言う。
案内には「西の日光」とある。当然江戸の頃の形容だろうが、江戸時代直前の頃には56の坊・院が並び、江戸の頃には、浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの院家、子院が建ち並んでいた(Wikipedia)とのことである。
また、案内には「法隆寺に継ぐ寺領」とあったが、法隆寺は1000石、永久寺は秀吉が971石の朱印地を与え、江戸時代にもこの寺領が維持された(Wikipedia)とあった。
●菅御所跡
しかし辺りは一面の野原で、なにもない。なにか遺構でもないものがと、あたりを歩くと道端の林の中に石碑があり「菅御所跡」と刻まれる。チェックすると、延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が京から吉野に落ち延びる時、一時ここに身を隠したと伝えられる御所跡とのことである。
◆馬魚(ワタカ)伝説
「菅御所」と後醍醐天皇をチェックしていると、目の前にある池に棲む魚と後醍醐天皇の伝説が現れた。いろいろバリエーションはあるが、後醍醐天皇の逃避行の折り、共にした馬が馬魚(ワタカ)なる、といったもの。危難をさけるべく切り落とした馬の首を池に落とすと馬の如く草を食む魚となったとか、力尽き息絶えた馬が池の魚に乗り移り、馬の顔をし、草を食むようになったとかあれこれ。
それはそれとして、この馬魚(ワタカ)は大正3年(1914)に石上神宮の鏡池に移されたと言う。そういえば、石上神宮で山の辺に道へと右に折れる時、池がありそれが鏡池であった。馬魚(ワタカ)の案内もちらっと見たのだが、通り過ぎた。常の如くの後の祭りではある。
因みに馬魚(ワタカ)は、琵琶湖と淀川に棲む日本特産の魚であり、いつの頃か誰かが淀川付近のワタカをこの本堂池へ放ったのが繁殖したとされる。馬魚が草を食べることから、草を食べる>馬>後醍醐天皇と馬+永久寺の本堂池=馬魚(ワタカ)伝説が生まれたのだろう。

●廃物稀釈
それにしても徹底的な破壊である。散歩をしながら明治の廃物稀釈によるお寺さまの跡に出合うことはあるが、このような大寺がこれほどまで徹底的に破壊されるって、なんらかの「因」があるのでは?
チェックすると、このお寺さまは修験道の一派である当山派の一寺として重要な役割を担っていたようである。中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織され、中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなしていた、と言う。
明治政府は修験道に対し、徹底的な弾圧を行っており、そのことが大きな要因のようにも思える。

その他、寺組織が上乗院をトップとした上意下達の組織であったことが、「廃仏毀釈」の指令が徹底した、また、地域住民との接点を全く持たない「貴族」の寺院であったこともその要因と言われる。地域に密着しておれば、せめて神社だけでも残るはずであろうから。

それと、この徹底的破壊で思い起こすのは、いつだったか歩いた阿讃山脈の箸蔵寺。このお寺さまが神仏分離令にもかかわらず、神仏混淆を今に残す風情にフックがかかり、チェックすると、この寺は真言宗御室派であり、本山は門跡寺の仁和寺。明治維新時の門跡である小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王は戊辰戦争で旧幕府軍を討伐する官軍の総大将となった。新政府軍の総大将が真言宗御室派のトップであったことが、箸蔵寺が神仏分離を免れた理由のようであった。これも歴史の「IF」にはなるが、江戸の頃永久寺が興福寺の支配下から離れず、真言宗寺院とならなかったら、石上神宮で見た摂社出雲建雄神社拝殿のような幾多の国宝が今に残ったかとも。思っても詮無いことではあるが。

十市 遠忠歌碑
内山永久寺から先、緩やかな坂を上る。雰囲気のある風情の道を進むと道端に歌碑。「布留法樂卅首中月前鴈 月待て 嶺こへけりと 聞ままに あはれよふかき はつかりの聲 十市遠忠」とある。
Wikipediaに拠れば、室町から戦国時代にかけての武将。龍王山に城を構え大和国西北部だけでなく、伊賀にまでその領地を拡げた。武勇に優れ、歌道(三条西実隆に師事)や書道にも通じ、文武両道の武将として十市氏の最盛期を築いた、とあった。

白山神社
石畳の山の辺の道を進むと道沿いに社がある。白山神社である。祭神は白山比咩命、素戔鳴命。素戔鳴命は末社に祀られていたものとのこと。この社、元は「園原社」と称されたようである。本殿裏に「奥の院跡」の石碑があるとのことだが、そこが園原社の祀られていた場所だろうか。
白山権現と称されるようになったのがいつの頃か定かではないが、天明7年(1787)と刻まれた石灯籠があるようで、18世紀には白山権現となっていたのだろう。尚、「神社」という名称は、この社に限らず、すべて明治になってからのことである。

天理観光農園
白山神社から道を進むと、風情ある峠道から一転、民家の間を進む舗装された道となる。と、道の左手の平場に「園原中央標」と刻まれた石柱が建つ。チェックするも、不詳。
しっかりとした造りの農家を見遣りながら、緩やかな道を下るとほどなく天理観光農園が左手に建つ。地図にある「峠の茶屋」とはカフェもあるこの建物のことだろうか。ここではミカン狩りとかバーベキュウなどがたのしめるようである。

夜都伎神社へ
道を下り、「道路開道(通)碑」が建つT字路を、「夜都伎神社 竹ノ内環濠集落」の標識に従い左に折れる。奈良盆地が一望のもと。広い道路を下り、左手に建つ「夜都伎神社」の標識を目安に道を左手に折れる。
道の下方向に小高い独立丘陵が見える。散歩当日は知らなかったのだが、この独立丘陵は先ほどメモした「杣之内古墳群」の南端となる東乗鞍古墳とのことであった。
●東乗鞍古墳 
西に前方部を向けた全長72mの前方後円墳。横穴式石室の石棺が遺存している。また、その下方には南に前方部を向けた全長102mの西乗鞍古墳が盆地を見下ろす。

夜都伎神社
小径を進み夜都伎神社に。小振りながら鳥居から社叢へのアプローチは、左手に耕地を見遣りながらの素朴な感じがいい。檜皮葺の本殿にお参り。檜皮は新しく、最近葺き替えたもののように思える。
鳥居脇にあった案内には「天理市乙木町の北方集落やや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、俗に春日神社といい、春日の四神を祀る。社は古墳跡に建つと言う。
乙木には、もと夜都伎神社と春日神社との二社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して、春日神社一社にし、社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、明治維新までは、蓮の御供えと称する神饌を献供し春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。
現在の本殿は明治39年(1906)改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色七種の華麗な同形の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は藁葺で、この地方では珍しい神社建築である。
鳥居は嘉永元年(1848)四月、奈良の春日若宮から下げられたものという」とあった。
●乙木
「夜都伎」は「やつき」とも「やとぎ」とも読まれる。この社のある「乙木(おとぎ)」からの音の転化とも言われる。その「乙木」も、緩やかな峠といった「小峠(おとうげ>ことげ)」からの音の転化とのこと。地名の由来はバリエーション豊かで面白い。
Wikipedia1には「乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当地に勧請したものとみられる。約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われている」とあった。

竹之内環濠集落
道は古き風情を残す乙木村の集落を抜ける。しっかりとした造りの家並みの間の小径を抜け、耕地の中を進むと左手に竹之内の集落が見えてくる。
集落の入り口、西の端に濠が見える。「環濠」とすれば、かつては集落を囲んでいたのかとは思うが、現在は埋め戻されたのか、集落の西端部分だけに濠が残っているようである。
集落入り口にあった案内には「竹之内環濠集落 奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが非常に多い。
大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け、自衛手段として防御する方法から、集落の周囲に濠を区画していたものと思われる。
そうした環濠も現在では、戦乱の防御から灌漑用に転用されたものが姿を留めている。
天理市では、竹之内町のほかに備前町、南六条町、庵治町の溝幡で環濠の痕跡をよく留めている。一般的に環濠集落は低地部で発達した集落の形態であるが、竹之内町のように標高百メートルの山麓に立地するものは、県下でも数少ない。 現在、竹之内町では、集落の入り口付近まで残っていた環濠が埋め戻され公園になっており、集落の西側で南北に区画する濠の一部が今でも残っている」とあった。
また、休憩所の傍にも同様の案内が写真付きであった。案内には「竹之内町は建武3(1336)年の記録(春日神社文書)にも現れる歴史の古い集落です。中世に築かれたと考えられる濠が集落の西側に現在も残っており、「竹之内環濠集落」として知られています。
奈良盆地には集落の周囲に濠をめぐらす「環濠集落」が多くみられます。一般に環濠集落は室町時代以降に出現したもので、戦国の動乱の中、外敵から集落を守るための防御施設として築かれたものと考えられています。現在も環濠の姿を留めている集落では、濠が用・排水に利用されている例が多いことから、もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります。
天理市には竹之内町のほかに、備前町、南六条町、庵治町溝幡が比較的よく姿を留める環濠集落として知られているほか、かつて環濠を有していた可能性がある集落も多数存在しています。多くの環濠集落は盆地内の低地に営まれていますが、竹之内町は標高100m前後の見晴らしのよい斜面上にあり、環濠集落としては奈良盆地内でも最も高いところにあります。
竹之内町では集落西側の入口付近に最近まで残っていた環濠が埋め戻されて公園となっていますが、その北側には今も環濠が残り、往時の佇まいを偲ぶことができます。 平成24年10月 天理市教育委員会」とあった。
ほぼ同じ内容ではあるが、ひとつフックが掛かった箇所がある。「もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります」という箇所である。防御もさることながら水利施設としての役割が重視されている。

●溜池灌漑と小河川灌漑
この箇所にフックが掛かったのは、先回のメモでも述べた私のお気に入りの書籍、『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」の中の「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説との関連性。
そこでは、「弥生時代から古墳時代(ほぼ西紀3世紀末から7世紀前半頃)にかけて、各地で小地域ごとの部族国家が統合し始める。やがて前方後円墳に代表されるような階級支配が進むのである。その大きな経済的基盤となったのは溜池築造を中心とした乾田開発の拡大だと考えられる」とし、続けて、「谷間や小川に小さな堰堤を築いて溜池とし、そこから水のかからない土地に、緩傾斜を利用して水を導き、水稲耕作が可能な乾田を開発する。この溜池灌漑の適地は、年間降水量が比較的少なく、夏期高温地帯で緩傾斜地形の山の辺であったという」と述べる。地図で確認しても、山の辺の道の通る大和高原に幾多の溜池が見える。
先回の水分神社のメモで、奈良盆地の大和川に流れ込む支流は、その分水界の狭き故、流量の乏しい小河川であると述べた。同書では、この流量の乏しい小河川であったことが奈良盆地において小河川灌漑を発展させた要因とする。 即ち、溜池灌漑で富を蓄積した部族の支配者たちは、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、「用水の乗りやすい緩斜面の小規模な谷底低地や扇状地などに水田開発」を拡げて行った。そして、河川から用水を直接取水するには高度な技術が必要であるが、奈良盆地は水量の乏しい小河川であったが故に、それが容易であった、と説く。
実際、古墳時代の豪族の支配地は、小河川に沿った、段丘から扇状地そして平地に至る山の辺にある。同書にある豪族の支配地と山の辺の川を併せてみると、奈良盆地の東では、和邇氏(奈良)の支配地は佐保川と布留川に挟まれた山の辺、物部氏(天理・桜井)は布留川と初瀬川に挟まれた山の辺。奈良盆地の南の青垣は、初瀬川と寺川の間に山の辺に阿部氏、寺川と米川の間に大伴氏、蘇我川と飛鳥川の間に蘇我氏、蘇我川と葛城川の間に巨勢氏。西の葛城山系の水を支配した葛城氏、生駒山系の竜田川を支配した平群氏となる。
そして、それぞれの山の辺の地には水分神社でメモしたように、山口神社が鎮座し、山の口から、勢いよく水を下し落とされる神、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神として祀られている。
環濠集落の「濠は水利施設としての性格」という記述から妄想が拡がった。実際、山の辺の道を歩きながら、何故にこのような山の辺に道が通るのか?古墳が現れるのか?散歩の当日は、遙なる昔、奈良盆地は湖であったようで、二上山の噴火で山塊に切れ目ができ、水が奈良盆地から「大和川」として流れだし、湖は消えたと言う。が、現在はその面影はないが、地勢図を見ると奈良盆地は、強湿地、半湿地、半乾半湿がほとんどである。それ故、湿地を避けて山の辺に道を通したのか、とも思ったのだが、前述の書籍を読み、この山の辺であるからこそ王権の基盤となる地であり、それゆえに道を通したようにも思えてきた。

◆水分神社(みくまり)
『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の水分神社の解説;先回の散歩でもメモしたが、大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。 その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。

「古事記・日本書記・万葉集」の案内
道を進み、竹之内集落と萱生集落の境辺りに山の辺の道のルートや写真とともに「古事記・日本書記・万葉集」の案内があった。
案内には「大和王権の創始者たちは奈良盆地の東南部に宮殿を構え国家建設を進めた。丸邇坂(わにさか)①では王権軍が反乱軍を制圧するため北進する途中、戦勝の祈願をした(崇神/すじん記・紀)。王たちは死後、いまも残る巨大な墓に葬られた⑪⑫(崇神/すじん記・紀、成務/せいむ紀)。
国を守る神々も登場する。宮殿に祀られていた日本大国魂大神(やまとおおくにみたまのおおかみ)と天照大神(あまてらすおおかみ)が強力すぎる威力のために、別の地に写し祀(まつ)られた⑧⑬(崇神紀)。最古の神社のひとつで神剣を主神とする石上神宮(いそのかみじんぐう)⑤には皇子が千本の剣を奉納している(垂仁/すいにん記・紀)。当社は有力者たちが武器や宝を奉納する特異な神社だったと考えられる。
  貴族の悲哀の物語も記されている。豪族・物部(もののべ)氏の娘の影媛は恋人・平群鮪(へぐりのしび)の死を知り、この道を布留(ふる)⑥を通り平城山(ならやま)まで駆けたという(武烈/ぶれつ即位前記)。
●古事記
712年に編纂された日本最古の歴史書。稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた神代から推古天皇までの歴史や神話、歌謡をもとに太安万侶(おおのやすまろ)が編集した。崇神(すじん)天皇の陵墓「山邊道勾岡上陵(やまのへのまがりのおかのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。
●日本書記
720年に国家事業として編纂された日本最初の正史(せいし)。神代から持統天皇までの歴史で、朝廷や寺院または朝鮮や中国に伝わる様々な資料がもとになっている。崇神天皇の「山邊道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。
●万葉集
歌聖といわれる宮廷歌人・柿本人麻呂は、布留では秘めた恋心の歌をよんだ。「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき吾は」。また龍王山に葬った妻への思いを歌った。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」。和邇下神社付近には彼の遺髪を葬った歌塚がある。いにしえの人々は、神が宿るという森や恋人が住まう里を愛し、布留や弓月ケ岳、穴師、巻向、桧原、三輪山などの地を歌に織り込んだ。「石上 布留の高橋 高々に 妹がまつらむ 夜そ更けにける」には、高く背伸びをして恋人を待つ女性の姿が描かれた(歌碑は天理駅前)。彼らのことだまは、山の辺の道に苔むしてただずむ歌碑に刻まれ、いまも息づかいを伝えている。
◆万葉集
8世紀奈良時代に編纂された日本最初の歌集。約4500首は貴族や兵士、民衆など多彩な人々の歌で構成されている。登場する奈良県内の地名はのべ約900におよび、山の辺の道沿いには多くの万葉歌碑が建つ。後世に歌聖といわれ神格化された飛鳥時代を代表する宮廷歌人・柿本人麻呂は、天理市北部の櫟本(いちのもと)付近の出身といわれている」とあった。

散歩の途中で登場した既に登場したもの、これから登場するであろうもの、そして古事記・日本書記・万葉集について頭を整理するにはいい案内であった。なお本文中の①といった番号は地図の番号を示すものであるが、ママ掲載した。

「大和古墳群」の案内
更に先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。今回のメモはここまで。次回は、山の辺の道を辿るまで、思いもよらなかったヤマト王権の古墳群をメモすることにする。

前職での監査役K氏から奈良・山の辺の道を歩きませんか、とのお誘い。奈良といえば、「山の辺の道」とか「竹内街道」は以前から名前だけは知っており、そのうち歩いてみたいと思っていた街道であり、即答で諾、と。
段取りはすべてK氏にお任せ。宿の手配から歩くルートまですべてK元監査役にお世話になった。それではと、道すがらの名所・旧跡などについて事前に調べれば少しはお役に立つかとも思うのだが、如何せん、実際に歩くまでは、よほどの険路・難所以外は事前に調べる気にならない「性分」である。それゆえ後の祭りもおおいのだが、今回も常のスタイル。実際に歩いて、何らかの「フック」がかかれば、それから調べよう、といったものであり、ルートも前泊の奈良のホテルでK元監査役から地図をもらい、はじめてわかった、といった為体(ていたらく)であった。
「山の辺の道」って「青山四周(よもめぐ)る」奈良を囲む、東の「畳なづく青垣」である大和高原の裾を、奈良から桜井まで進む道であることも奈良のホテルでの打ち合わせではじめてわかったこと。その山の辺の道を、今回の散歩では、天理市の石上神宮(いそのかみ)から桜井市の三輪山の山裾にある大神(おおみわ)神社まで歩くという。距離はおおよそ12キロから14キロ程度だろうか。
その時は山の辺の道の始まりの社、そして終点の社、また、途中に、これでもかというほど登場する、ヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳といった「古代史の謎」のど真ん中を歩くことなど夢にも思わず、山麓の小径をのんびり、ゆったり歩くといった想いではあった。
で、山の辺の道を歩いた後、さて散歩のメモを、と思うのだが、古代史にそれほどフックがかからない我が身には、少々荷が重い。始まりの石上神宮(いそのかみ)は「謎の物部氏」ゆかりの社であり、終わりの三輪山・大神神社(おおみわ)は、これまた謎多き「大物主・大国主」を祀る社、その途中に、思いもよらずの巨大古墳群が現れる。
高松塚古墳とか箸墓古墳くらいは知っていたのだが、奈良の大和高原の裾にこれほど多くの古墳があることを初めて知り、奈良の古代史といえば、飛鳥(明日香)宮>藤原京>平城京といった程度のお気楽な古代史の知識を一から整理しなければならなくなった。山の辺の道って、大和朝廷に繋がる古代ヤマト王権の地を辿る道であったわけである。
ことほど左様に、神話や歴史のレイヤーが幾重にも積み重なる古代史の迷路を解きほぐして、自分なりに納得できる散歩のメモが書けるとも思えない。気持ちは、今回の散歩メモはパスしたいのだが、「歩く・見る・書く」を基本としているわけで、それはならじと、気持ちを入れ替えて、お題が「謎からはじまり謎の地を辿り謎で終る」散歩であるので、あまり知らないヤマトの古代史をちょっとだけ覗いて。頭の整理をするにはいい機会かと、メモをはじめることにした。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

近鉄奈良駅
前泊のホテルのある近鉄奈良駅近くのホテルでK元監査役と待ち合わせ。K元監査役は東海道、中山道、奥州街道などを歩き倒した猛者であるが、私は東海道の鈴鹿峠越え、中山道の碓井峠越え和田峠越えなどをご一緒した。 トラックの排ガスを吸いこみながら国道を歩いたK元監査役には、常に「いいとこ取り」と言われるが、それでも峠を一人で歩くのは心細げで、それなりにお役に立ってはいるようである。
それはともあれ、ホテルで地図を広げ翌日のルートの説明を受ける。K元監査役も、その日のうちに東京に戻る必要があり、私も散歩を終えて、そのまま田舎の愛媛に戻る関係上、奈良からはじまり桜井まで続く山の辺道のうち、途中の天理市の石上神宮から桜井市の三輪山裾・大神(おおみわ)神社までとすることになった。
また、出発時間は余裕をもたすため、少し早めのJR奈良駅発7時31分、天理駅着7時47分。そして終了時間は3時をデッドラインとし、途中であってもその時間で切り上げることを基本とした。その時点では翌日待ち構える「謎」の数々など思いもよらず、お気楽に就寝した。

JR天理駅
予定通り7時47分にJR桜井線・天理駅に到着。K元監査役の希望もあり、駅から出発点の石上神宮まではタクシーを利用する。
タクシーの窓からは天理教の巨大な施設が続く。市の名前が私的団体に由来するのは、トヨタの豊田市と、この天理市のふたつだけ、とのことである。 で、何故にこの地に天理教が?天理教の教祖が江戸末期、この地、大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町)の庄屋の妻であったとのことであった。
タクシーは石上神宮前バス停の少し先、県道51号・布留交差点で下りる。緩やかな上り坂道の先に、緑の大和高原の支尾根が突き出ている。石上神宮の森ではあろう。

石上神宮
その緩やかな坂道を布留川を渡り、5分ほど進むと「石上神宮」と書かれた石柱と石灯籠がある。ここが参道入口。参道を進むと鳥居があり、その傍に歌碑があり、「柿本朝臣人麻呂 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」と刻まれる。



●柿本人麻呂の歌碑
「未通女等(おとめら)が 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みずかき)の 久しき時ゆ 思ひきわれは」と詠むようだ。昭和43年(1968)に建立された万葉歌碑であり、石材は後ほど訪れる内山永久寺跡の敷石が活用されたようである。 意味は「おとめ達が愛しき思いで袖を振る、布留山の社の瑞垣が神代の昔から続くように、長い年月私はあなたを恋い続けている」と言ったところだろうか。 「未通女等(おとめら)が 袖」までは地名「布留」を起こすための「序詞」であり、「振る>布留」と掛けて、石上神宮の鎮座する「布留山」を起こし、布留山の瑞垣に繋げている。また、「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の」までのフレーズもまた、「久し」を引き出す序詞となっており、要は、「袖振る」で恋愛感情を想起させながら、「(神代の昔から続く)布留山の瑞垣」のように誠に長い年月、あなたを想い続けている。ということだろう。

◆布留山
で、ここで幾つかフックがかかる。まずは石上神社の鎮座する山が「布留山」と呼ばれたということ。大和高原の龍王山の西の麓、標高266mの山であり、山中には岩石からなる磐座(いわくら)がある、とのこと。神代の昔、山自体を神体とする神奈備山であったのだろう。
◆瑞垣
また、神代の昔からあったとされる「瑞垣」とは?チェックすると、石神神宮の拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」とのこと。神体山の祭祀をおこなった霊域とのことである。

●神杉
大鳥居を越えた参道脇に注連縄の張られた巨大な杉がある。幹囲り4m強、樹齢は400年前後、高さは40m弱にもなる、と言う。社の御神木である。人麻呂も社に茂る神杉を、「石上 布留の神杉 神さびし 恋をも我は 更にするかも」と詠む。「石上神宮の神杉のような神々しい恋をさせてほしい」といった意味かとも。
また、万葉集には作者不詳ではあるが、「石上 布留の神杉 神びにし 我れやさらさら 恋にあひにける」といった歌もある。「久しく恋とは無縁の生活(神びにし)を送っていた年を取った自分が、また恋に出会ってしまった」との解釈もあるようだ。歌の意味はともあれ、石上神宮の神杉が神奈備山ならではの「神々しい・恐れ多い」といったイメージをもつものだったのだろう。


●鶏
歌碑のチェックや神杉のチェックで、石上神宮のことが少しわかってきた。もとより、当日はそんなこと知るよしもなく、歌碑や杉の老木の写真を撮っただけではある。
参道を進む。と、参道を闊歩する長い鶏が目につく。石上神社の眷属だろうか。 眷属と言えば、お稲荷さんは狐、天神さんは牛、春日大社は鹿、日吉神社は猿、熊野大社は烏、三峰神社は狼、といった程度は知っていたのだが、チェックすると伊勢神宮も天の岩戸の長鳴鳥に由来する鶏が眷属とのこと。が、石上神社に鶏が闊歩しはじめたのはそんなに古いことでもないようで、「眷属」とまではなっていないような記事が多かった。

楼門
参道脇の手水舎で身を浄め、参道左手に建つ楼門より石上神宮の社に入る。鎌倉末期、後醍醐天皇の御世である文保2年(1318)の建立。重要文化財に指定されている。入母屋造・檜皮葺の美しい建物である、当初は鐘楼門であったようだが、明治の神仏分離令により鐘は取り外された
●入母屋
Wikipediaに拠れば、入母屋造とは、屋根が「上部においては切妻造(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)、下部においては寄棟造(前後左右四方向へ勾配をもつ)となる構造をもつ」建物のこと。また、続いて、「日本においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた」とあった。

拝殿
楼門を入ると正面に拝殿が建つ。入母屋造 檜皮葺の美しい建物である。母屋(建物)の周囲には庇(ひさし)を巡らし、正面中央には向拝(江戸時代に増築)がついている。
建造は平安末期、白河天皇が五所の建物を移したとの言い伝えがあるも、建築様式からして鎌倉時代初期とされる。拝殿建築としては最も古い時期のものとされ、国宝に指定されている。

●拝殿が神奈備山・布留山に向かっていない?
拝殿にお参りしながら、ちょっと疑問。拝殿が神奈備山である布留山に向かっていない。これってなんだろう?この疑問は参道を進み、参道の正面ではなく、楼門を潜るため左に折れたときから感じていたことでもある。
何か拝殿の由緒に関する案内でもないものかと、あちこち見るも、それらしきものは見つからなかった。当日は、疑問のままにしておいたのだが、メモをする段階であれこれチェックすると、いくつか「妄想」のヒントになる事柄が見えてきた。
◆禁足地
既に人麻呂の歌碑のところで、「拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」と」とメモした。「布留社」とも称する。
現在は拝殿の後ろに本殿が建つが、それは明治7年(1874)に行われた禁足地の発掘調査により出土した、「布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)」などの神宝を祀るために、大正2年(1913年)に建てられたものとのことである。
◆布都御魂剣
で、その「布都御魂剣」であるが、石上神宮はその「布都御魂剣」に宿る「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」をその祭神とする。そして、その「布都御魂剣」は『日本書記』に、物部氏の租とされる神話上の神・饒速日命(ニギハヤヒ)と神武天皇の戦いの中に登場し、途中は省くが、結果的には饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、ヤマト王権(このメモをするまで「大和朝廷」と思っていたのだが、初期の頃は「ヤマト王権」、「ヤマト大王家」と称するようだ)の宮中にて奉祀することになる。
その後、祟神朝の頃(3世紀から4世紀にかけての時期)、伊香色雄命(イカガシコオノミコト)が、山辺郡の石上邑に建布都大神(たけふつのおおかみ;『日本書記』には経津主神(ふつぬし)、『古事記』では建御雷之男神とされる)を遷し、石上大神を創建。神剣・「布都御魂剣」は物部氏の氏神としたこの社に祀られることになった(『大和の豪族と渡来人;吉川弘文館(加藤謙吉)』)、と言う。

◆神奈備山信仰から戦の神への信仰に?
それでは、何故に神体山に向かうことなく、拝殿が建つのか、ということだが、これからは単なる妄想;元は神体山の祭祀の場として布留山に向き、物部氏(の先祖達)、そして物部氏の天孫(侵攻)以前にこの地を開いた人々も、神奈備山を祀っていたのではなかろうか。参道も現在の大きな参道ルートとは異なり、布留川を渡り社へと続いていたようだ(『大和・飛鳥考古学散歩;伊達宗泰(学生社)』)。
が、上でメモしたように、祟神朝の頃、「布都御魂剣」が石上大神と号した物部氏の氏神に「布都御魂大神」として祀られて以降、神奈備の布留山を祀るより、ヤマト王権の戦の死命を制する神宝である「布都御魂剣」の神を祀る方に重点が移り、鎌倉期に拝殿が造られた時には、神奈備山に頓着することなく、現在のような配置となったのではなかろうか、と。

◆物部氏の氏神・石上神宮は武器庫でもあった
実際、ヤマト王権にて武具の製造や管理を担うことになった物部氏に祭祀されたこの社は、ヤマト王権の武器庫ともされていたようだ。平安初期に武器を京都に移すに際し、武器の数が膨大で、運搬の人員に15万7千余人を要したと『日本書紀』にある(実際は中止となったようだ)。
また、物部氏は単に武器の管理を担うだけでなく、初期のヤマト王権・祟神天皇の先兵としてその軍事をもって王権確立に貢献し、後世、雄略天皇の時期に大王直属の軍事力を組織し、軍事力で奈良盆地に割拠する豪族を支配し、更には奈良の外へと王権の拡大に寄与したようである。

妄想をまとめるとすれば、ヤマト王権・王朝の拡大につれ、豊な山とそこから流れ出す水といった、神奈備の山への自然信仰より、動乱に勝利する武器・戦いの神へと、祭祀の主体が映った結果が神奈備山の布留山に拝殿が対していない要因かも。単なる妄想。根拠なし。

●物部氏と饒速日命(ニギハヤヒ)
「布都御魂剣」をチェックしながら、物部氏とその物部の祖にあたる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が結構気になった。『日本書紀』に「及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣」とある。 「饒速日命が天磐船(あめのいはふね)に乗(の)り、太虚(おほぞら)を翔行し、是(こ)の郷(くに)を睨(おほ)りて降(あまくだ)りたまふに及至(いた)りて、故(かれ)、因りて目(なづ)けて、「 虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国(くに) 」と曰(い)ふ」といった意味である。

◆饒速日命は神武天皇より先にヤマトに降臨(侵攻)
このフレーズの前提は、「東に美しき地(くに)あり 青山四周(よもめぐ)れり」と奈良盆地がミヤコにふさわしいとは思うのだが、このフレーズにあるように、その地には既に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨し、日本(ヤマト)と名付けている、と「神武天皇」が教えられている、ということ。 この場合のヤマトとは広義の奈良盆地を指すのではなく、北は布留川から南は初瀬川に挟まれた大和高原の南東部裾野を指すようではあるが、それはともあれ、ポイントは神武天皇のヤマト降臨(侵攻)より先に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨(侵攻)しているということである。

◆軍事力に勝る饒速日命は何故に、神武天皇に恭順したのだろう? 
そして、それ以上に、なんとも解せないのは、先住の饒速日命勢は軍事的には神武勢を圧倒しているように思えるのだが、神武天皇に禅譲というか恭順していることである。その理由は?わからない。さっぱりわからない。

わからないが、唯一自分なりに納得できる解釈は、饒速日命は神武天皇にとって,軍事力では倒すことの出来ない存在、連盟・同盟関係を結ぶことによって神武天皇がヤマトに「入れる」存在であったことを、この神話が暗示しているのではないだろうか。要するに、天孫族って、降臨(侵攻)当初は、武力でもって先住豪族を支配できる力を持っていなかった、ということだろう。

◆大王家の祭祀を物部氏が担う?何故?
神話では続けて、饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、宮中にて奉祀することになる、とする。神剣=軍事力を暗示しながらも、ヤマト王権の祭祀を担うといった重要な位置を担うことになる。
この神話を「歴史?」に置き換えると、神武天皇=祟神天皇と比定されることが多い。ということは、饒速日命>宇摩志麻治命=物部氏が祟神天皇に協力し、初期のヤマト王権においては、その軍事力を背景に王家の祭祀権までも委ねられている、ということだろう。
実際、天皇の即位儀礼に物部氏の儀式がその中核となっている、と言う。宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)で「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える儀式があると言うが、これは「物部の呪術」と同じフレーズとのことである。

◆国史に天皇家の正当性を減じる物部氏の租のエピソードを何故入れる? 
それはそれとして、『古事記』、『日本書紀』は8世紀前半、律令体制を核にして中央集権国家をつくりあげようとする持統天皇・藤原不比等による国史である。そこに神話時代では、天孫族の降臨という天皇家の正当性を減ずるような、饒速日命のもうひとつの天孫降臨のエピソードを入れる理由、武力平定とは縁遠い神武勢の非力さ、また歴史時代(?)では神宝である神剣の祭祀を委ね、天皇の即位儀式さえ差配する物部氏のエピソードをこれほどまで盛り込む理由は何なのだろう?

◆天皇家も無視できなかった物部氏の軍事力?
初期のヤマト王権から大和朝廷に至るまで、王権・朝廷を支えた物部氏の軍事力は国史編纂の8世紀になっても無視することができなかったのだろうか? 初期のヤマト王権がヤマトに降臨(侵攻)した頃、奈良盆地には天理から桜井にかけてのヤマトの本貫地を支配する物部氏の他、北の奈良には和邇(わに)氏、南西の柏原には大伴・蘇我氏・羽田・巨勢氏、葛城山麓には葛城氏、北西の平群谷には平群氏といった豪族が割拠していたようだ。
その豪族達は、あるいはヤマト王権に平定され、また、あるいはヤマト王権の内紛に敗者側の大王につくことによりその勢を失う。初期のヤマト王権において大王と両頭政権と称あされる葛城氏も含め、奈良盆地の豪族は雄略天皇の時期(5世紀中頃?)にほとんどが滅亡する。
その大乱の中、雄略天皇を軍事面で支えたのが物部氏と大伴氏。しかし大伴氏も継体天皇の頃(6世紀前半?)には力を失い、結局豪族の中で国史編纂の頃まで有力な勢を持ち「生き残った」のが物部氏だけ、のようである。

◆国史編纂の頃まで「生き残った」物部氏
ヤマト王権の軍事面を担い、各地に兵を動かし平定するなど、強力な軍事力を保持した物部氏が8世紀になっても未だその威を示したとする以下のエピソードがある;「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」という歌があるが、これは元明天皇が藤原京から平城京に遷都する和銅3年(710)、旧都に置き去りにされた物部氏(石上朝臣麻呂)の鳴らす弓の弦、楯を立てる音(軍事的デモンストレーション)に元明天皇が怯えているとの意味とも言う。この時期になっても物部氏の軍事力を王権が無視できなかった、と言う。

以上、饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇のアナロジーで妄想を進めてきた。妄想をまとめると、初期のヤマト王権の時代から、国史編纂の頃まで生き残った唯一の氏族であり、国史編纂の頃でも無視し得ない「力」を持っていた物部氏故の、神話における物部氏先祖である饒速日命の天孫族の一支流といった扱いのように思える。唯、余りの特別待遇に、少々のイクスキューズが必要と感じたのか、祟神天王の妃は饒速日命の後裔といった系譜を創り上げているのが、如何にも作為的で面白い。

◆「饒速日命・物部氏」のエピソードは奈良の先住豪族を一括りにしたもの? 
と、ここまで饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇についてあれこれ妄想をしてきたのだが、物部氏が有力な軍事勢力としてヤマト王権に貢献したのは雄略天皇の頃、と言う。とすれば、以上の饒速日命・物部氏のエピソードって、ひょっとしたら、天孫族が大和に降臨(侵攻)し、ヤマト王権から大和朝廷へと発展する過程において同盟・連合し、そして消えて行った奈良の先住豪族を「物部氏」に一括にまとめ、神話として創り上げているようにも思えてきた。
ヤマト王権は、当初先住豪族との連盟・協調によりはじまり、武力でもって豪族を支配できるようになったのは雄略天皇の頃から、と言うから、神武の饒速日命とのエピソードも、そう考えれば、なんとなくわかるような気にたってきた。素人の妄想。根拠なし。

◆歴史のIF
そして最後に。国史が編纂された8世紀頃から、物部氏もその勢を失い始める。6世紀後半に、蘇我氏との抗争に敗れ物部守屋が戦死し、物部氏は没落するも、その後を継いだのが、この石上神宮の辺りを本拠とした物部の一族が石上氏として桓武天皇の頃まで朝廷に影響力を残すも9世紀前半には政権中央から姿を消すことになる。ということは、国史編纂がもう少し遅ければ、神話に物部氏にまつわるエソードが書かれることはなかったのだろうか?

◆物部という名の疑問
あれこれと古代史に不案内の素人の妄想をメモした。ところで、いままで「物部」と簡単に書いて来たのだが、『大和の豪族と渡来人;加藤謙吉(吉川弘文館)』に拠れば、物部とは部制の名称。「物部」と称する部制が記録上に現れるのは継体天皇の頃というから、5世紀の中頃以降のことである。3世紀から4世紀ともと想定される祟神朝の頃には未だ「物部」という部制はなかったかとも思うのだが、「物部氏」はその頃どのように呼ばれていたのだろう? 大伴氏も伴造(とものみやつこ)の長を意味する大伴と称される前は来目氏と称したとも聞く。物部氏も場所から考えて「大三輪」、「倭」とでも称していたのだろうか。古代史の門外漢の素朴な疑問とする。

摂社
散歩当日は、石上神宮に関する由緒なども見つからず、10分も経たず拝殿を離れたのだが、常の如く、メモの段になってあれこれと気になることが登場し、頭の整理に結構時間がかかった。
とっとと先に向かおうと拝殿を出ると参道を隔てて石段があり、そこを登ると摂社である天神社、七座社、出雲建雄神社、猿田彦神社が祀られる。ここでまたもや、「足止め」となってしまった。
●天神社と七座社
石段を上ったところに天神社と七座社。案内には「摂社 天神社【てんじんしゃ】(西面)御祭神; 高皇産霊神【たかみむすびのかみ】 神皇産霊神【かみむすびのかみ】
七座社【ななざしゃ】(北面) 
御祭神;生産霊神【いくむすびのかみ】 足産霊神【たるむすびのかみ】 魂留産霊神【たまつめむすびのかみ】 大宮能売神【おおみやのめのかみ】 御膳都神【みけつかみ】 辞代主神【ことしろぬしのかみ】 大直日神【おおなおびのかみ】
由緒 右二社ハ生命守護ノ大神等ニ坐ス古来当宮鎮魂祭関係深キヲ以テ上古ヨリ鎮座シ給フ所ナリ」とあった。
二社で鎮魂祭を司る、と。チェックすると、天皇家には天皇の健康を護る鎮魂八神が祀られ、その神々がこの二社に祀られた大直日神【おおなおびのかみ】以外の神とのこと。更に、この八神に、七座社に祀られた、禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直す大直日神を加えた9神により、宮中にて新嘗祭前日に鎮魂の祭祀が行われるようである。

●天照がいない?
ところで、天皇家と言えば=天照、と思い浮かべる天照大神がこのラインアップに登場しない。チェックすると、「古代に天照大神が宮中に祀られたことはなく、『日本書紀』の記す伝承では天照大神は崇神天皇(第10代)の時に宮廷外に出されたとしている(現在の伊勢神宮)。通説では、実際に天照大神が朝廷の最高神に位置づけられるのは7世紀後半以降であり、それ以前の最高神は高皇産霊尊(高御産日神)であったとされる。このことから、7世紀末頃に高皇産霊尊は宮中に、天照大神は伊勢に住み分けたとする説もある」とWikipediaにあった。
へえ、そうなんだ、との想い。天神さまとは、後世の菅原道真でないことは言うまでもない。

出雲建雄神社
七座社の横に出雲建雄神社。案内には「摂社 出雲建雄神社【いずもたけお】 式内社 御祭神 出雲建雄神【いずもたけおのかみ】
由緒;出雲建雄神ハ草薙ノ剣ノ御霊ニ坐ス今ヲ去ルコト千三百余年前天武天皇朱鳥元年布留川上日ノ谷ニ瑞雲立チ上ル中神剣光ヲ放チテ現レ「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラムト」宣リ給ヒ即チニ鎮座シ給フ」とある。

ささやかな社であるが、延喜式にも記載のある式内社と言うから、誠に古い歴史をもつ社である。また、祭神は神剣・草薙ノ剣に宿す出雲建雄神とのこと。草薙ノ剣って、素戔嗚が十拳剣を振るって八岐大蛇を退治した時、八岐大蛇の尾から取り出した剣と伝わる。
その剣は天照に献上され、その後、第12代景行天皇の子である日本武尊が東征に際し、この草薙ノ剣を渡されるも、尾張で娶った妻に預けたまま伊吹山でむなしくなる。そして妻が祀ったところが愛知の熱田神宮のはじまりとされる。
この案内に拠れば、天武天皇の御世、-朱鳥元年(686年))の時代、この地に神剣が下ったとされる。Wikipediaに拠ると、皇室の三種の神器とされるこの草薙ノ剣は、「熱田神宮に祀られていたが、天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された」とあった。
Wikipediaでは天武天皇の時代に神剣の祟りと熱田神宮に戻したとあり、この社の案内では天武天皇の御世、この地に神剣が下ったとある。ちょっと矛盾しているように思えるのだが?
それでは、出雲建雄神を祀る社に関する、何かの手がかりが無いものかと、ここ以外の出雲建雄神を祀る社をチェックすると、三輪山の南を流れる初瀬川を遡った奈良市藺生町にある葛神社と、さらに奥に入った奈良市都祁(つげ)白石の雄神神社の祭神が出雲建雄神となっており、全国にはこの二社と石上神社の摂社以外に出雲建雄神を祀る社はないようだ。

出雲建雄神は水神様?
葛神社は、元は出雲建雄神社と称されていたようで、初瀬川の水源地に近いこの地の水の神として祀られているようである。一方、都祁(つげ)白石の雄神神社は「三輪さんの奥の院」と称される山を神体とした自然信仰の形態を残す社。雄神神社が鎮座する辺りは水湧庄とも呼び、近くに都祁水分神社(みくまり。注;都祁水分神社は奈良盆地に流れ込む大和川水系ではなく、木津川水系ではあるが)もある。どうも二社ともその性格は、水分の神(「神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる(Wikipedia)」)。
で、この石上神社の出雲建雄神社であるが、エピソードに布留川の上流の日ノ谷に現れている。これも単なる妄想ではあるが、布留川の水の神、神体山から流れ出る命の源、田畑を潤す灌漑用水として水を祀る「水分の神」といったもののように思える。
神話には日本武尊にだまし討ちにあった出雲建という人物が登場するので、その人物ゆかりの社かとも思ったのだが、あまり関係はないようだ。なお、江戸時代には素戔嗚命が八岐大蛇を退治した「布都御魂剣」を祀るのが石上神宮で、その八岐大蛇の尾から取り出したのが草薙ノ剣。その草薙ノ剣に宿る神が出雲建雄神ということで、この社が石上神宮の「若宮」とされていた、ようである。



●水分神社(みくまり)
私のお気に入りの本の一冊に『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』という本がある。その中に「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」という章があり、そこに水分神社の解説がある。
大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。
その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。

大和盆地に割拠した古代豪族も水分神社のある場所を拠点としている。当然のことだろう。古代自然信仰として神奈備山を祀ったとされるが、山とは水を生み出す源であり、神奈備山を祀るということは、山の神であり、同時に水の神である神体山を祀るということではないだろうか。流量が少なく、それも季節によって流量が不安定な土地柄故に、水分神が奈良盆地では重要視されたように思える。

出雲建雄神社拝殿
出雲建雄神社の西、神奈備の布留山に向かって拝殿遥拝するように、誠にエレガントな拝殿が建つ。拝殿は建物が二つに分かれており、その中を通り抜けられるようになっている。割拝殿という建築様式とのこと。他ではあまり見られない珍しい様式国宝に指定されている建築で、とのことだが、元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿であったとのこと。内山永久寺は後ほど訪れることになるが、鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院であったが、神仏分離令により明治9年に廃絶。鎮守社の住吉社はだけは残っていたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、荒廃したまま残されていた拝殿を大正3年に現在地に移築したとのことである。

当日はさらっと通り過ぎた石上神宮であるが、メモの段階であれこれ疑問が現れ、結構メモが長くなった。で、ある程度は自分なりに納得した、とは言うものの、そのソースは上に引用した3冊の書籍と、松岡正剛さんのWEB「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)のスキミング・スキャニングから得ただけのものである。 喧々諤々の議論がある古代史、古代史に興味のある方にとっては笑止千万のメモかとも思うが、所詮は山の辺の道を散歩したついでの戯言。単なる好奇心からのメモと御承知ください。

山の辺の散歩のメモではあるが、スタート地点の石上神宮のメモで力尽きた。次回は石上神宮のから離れ、山の辺の道を辿るメモとする。
定例の田舎帰省の途中、ほんの「気まぐれ」で立ち寄った琵琶湖第1疏水散歩。当日の、誠にのんびりとした、お気楽な散歩とは異なり、メモの段階で、次から次にと「わからないこと」が登場し、メモが長くなってしまった。
先回のメモは大津の取水口から第1トンネルの西口(藤尾側)で力尽きた。今回は第1トンネルの西口(藤尾側)から山科の盆地を経て京の蹴上までのメモをする。
冬枯れ、また時期の問題であろうか水量も多くなく、水路に沿って続く桜並木を目にするにつけ、桜咲く頃はさぞ美しいだろうと、何故にこの時期に、とは思いながらも、当日歩くまではこんなに桜並木があるといったことも知らなかったわけで、いつもながらの行き当たりばったり、「後の祭り」満載の散歩となった。


本日のルート;JR大津駅>琵琶湖第1疏水取水口>三保ケ崎水位観測所・三保ヶ崎量水標>琵琶湖第1疏水揚水機場>大津閘門と制水門>「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内>琵琶湖疏水案内>第1疏水第1トンネル東口>三井寺南別所・両願寺の石碑>旧神出>長等神社>小関越えの道標>等正寺の測量標石>小関峠>分岐点>第1竪坑へと道を下る>第1竪坑>国道161号・西大津バイパス>第2竪坑>第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)>緊急遮ゲート>藤尾橋>測水橋>洛東用水取水口>柳山橋(第2号橋)>四ノ宮舟溜り>諸羽トンネル>東山緑地公園>第2疏水トンネル試作物>諸羽舟溜り>諸羽トンネル東口>安朱橋(第4号橋)>安祥寺川水路橋>安祥寺橋(第6号橋)>妙応寺橋(第7号橋)>天智天皇陵>第8号橋・第9号橋>山ノ上橋(第10号橋>第1疏水第2トンネル東口>第1疏水第2トンネル西口>日ノ岡取水場・日ノ岡舟溜り跡>第11号橋>第1疏水第3トンネル東口>「本邦最初鉄筋混凝土橋」碑>藪漕ぎ撤退>大名号碑>日ノ岡宝塔様縁起>日ノ岡峠>九条山浄水場>日向大神宮参道に合流>第1疏水第3トンネル西口>九条浄水場ポンプ室>琵琶湖第2疏水合流点>蹴上舟溜り跡>合流トンネル入口>疏水第4トンネル>インクライン・運輸船>山ノ内浄水場導水管>合流トンネル出口>洗堰>蹴上発電所水圧鉄管>第4トンネルからの水路>南禅寺トンネル>南禅寺水路閣>蹴上・ねじりマンポ

緊急遮ゲート
水路に沿って先に進むとほどなく水路を跨ぐ構造物がある。平成11年(1999)設置の緊急遮断ゲートとのこと。 大地震で堤防が決壊するおそれがあると自動的に流れを止めることになる。これは歩いた後にわかったことだが、第1トンネルを抜け山科盆地に入った疏水は町を見下ろす山麓の端を進む。こんな場所が水路が決壊すれば町は浸水することになるだろう。




藤尾橋
次いで現れるのは藤尾橋。一見すれば新しい橋と見えたが、橋の土台部分が煉瓦と石組みでできている。橋は鉄筋コンクリートであるが建造当時の土台のままのようである。チェックすると疏水工事が進む明治20年(1888)9月に建設されたとのこと。疏水の第1号橋で、疏水最古の橋であった。大正10年(1921)、昭和46年(1971)に改修が行われ現在の鉄筋コンクリートになっている。 なお、疏水に架かる16の橋のうち、1号から11号までは番号がついている。藤尾橋はその1号橋である。番号橋は第1疏水開通時に架けられたのかとも思ったのだが、どうもそうではなさそうで、明治の30年代の後半に番号付けがなされた、とも言う。

測水橋
藤尾橋を過ぎると滋賀県から京都に入る。京都に入った最初の橋は測水橋。明治の末期、第2疏水工事の際に造られたのこと。「疏水の水位、流量を量る橋」といった記事があったが、これではその対象が第1疏水か第2疏水かわからない。
あれこれチェックすると、第1疏水と第2疏水の水位、流量を測る目的で造られたもので、橋の北に第2疏水からの水の開渠部(54mほど)を設けたとのこと。橋は第1疏水と開渠部を跨いで架けられていたようである。現在その開渠部は残っていない。
また、この橋を三角橋と称する。橋の建設様式かとも思ったのだが、橋の左右から5m6段の石段があり、その形が三角になっている故の通称であろう。道から石段を設けることによって、橋の高さを上げ、舟が通りやすいようにした、とも言う。とは言うものの、現在は右側のステップはなく、片側だけの「三角形」とはなっている。
橋のあれこれをわかったようにメモしているが、これは散歩のメモの段で分かったこと。散歩のときは橋の歴史など知るよしもなく、単に「橋」があるなあ、といったお気楽さではあったのは言うまでもない。

洛東用水取水口
測水橋を越えると水路左手に分水口らしき水路施設が見える。チェックすると洛東用水の藤尾分水口であった。洛東用水は多目的用途を目した琵琶湖用水の目的のひとつである灌漑用水として、この地で分水され山科盆地の四ノ宮・音羽地区を潤した。
取水口で分水された洛東用水路は、南の四ノ宮川、東海道をサイフォンで潜り抜けているのだろう。水の一部は四ノ宮川に放流されているようだ。なお、疏水からの灌漑用水は山科地区に洛東用水を含め3本の幹線用水路があるとのことである。

柳山橋(第2号橋)
取水口の先に現れた橋は柳山橋。この橋も疏水建設同時、明治22年(1889)の9月に県建設された。当時は十禅寺橋と称されたようである。現在の鉄筋コンクリートは昭和43年に改修されたもの、とのこと。

四ノ宮舟溜り
柳山橋(第2号橋)の先にトンネルが見え、その前の水路が大きく広がっている。特に案内もなく、歩いていた時は調整池かとも思っていたのだが、メモの段階でチェックすると「四ノ宮舟溜り」であった。
琵琶湖疏水には、大津から蹴上までに3か所の舟溜りがあったとのことだが、ここは大津から最初の舟溜りであった。琵琶湖疏水は多目的疏水であり、先ほどの洛東用水取水口は灌漑用であったが、舟溜りは舟運のための施設。 上にもメモしたように、「東や北から京都へ物資搬入するには人馬で山を越えねばならず、そのコストは物価高となって京都にはね返る。琵琶湖から京都へ水を引く利はまず運送にあり」とされた舟運であるが、電力など動力のない時代、京から大津に上るには舟を曳く船頭、というか曳夫の休憩所が必要であった。
舟溜りは、この曳夫の休憩所、また物資や乗客の上げ下ろしの場所として使われた。散歩で出合った江戸と川越を結ぶ新河岸川の河岸を想起させる。完成は明治21年(1888)。

諸羽トンネル
「四ノ宮舟溜り」の先のトンネルは諸羽トンネル。このトンネルには今までのトンネルの出入口にあった「扁額でたどる琵琶湖疏水案内」もない。そもそも「扁額」も見あたらない。そのときは「?」と思いながらも歩を進めたのだが、メモの段階でチェックすると、このトンネルは明治の疏水開通時ではなく昭和45年(1970)に掘削されたものであった。全長520mである。
諸羽トンネル建設の主因は山科駅を始点とするJR湖西線工事計画。山科の山裾を通す湖西線の路線と、その崖上を通る疏水路が接近することとなり、トンネルを掘り山裾を迂回していた水路を直線で通すことにしたようだ。
湖西線工事の計画は昭和39年(1964)に策定され、昭和41年(1966)には山科~西大津間の工事着手、昭和49年(1974)には 湖西線(山科~近江塩津)の全線開業が開通した。諸羽トンネルの完成が昭和45年(1970)というのはこういった事情である。

東山緑地公園
トンネルに入った水路から離れ公園に整備された旧疏水水路跡を進む。この公園の整備は昭和46年(1971)頃から工事に着手し、昭和49年(1974)に東側に四ノ宮地区の整備を終え、西側の日ノ岡までの工事が完了したのは昭和53年(1978)とのことである。公園内の水路跡を歩くに、足元の崖下を通る湖西線を見るにつけ、山裾を流れる水路を変更しトンネルを直線に抜いた理由が納得できる。
道脇に「東山緑地公園ジョギングコース」の案内。この地を始点に疏水第2トンネル東口をゴールとするコースが記されていた。その案内に疏水の案内もあり、その中に「疏水はトンネルなど至ところに煉瓦が使用されているが、その当時、日本国内には疏水工事の需要を満たす生産力がなかったため、御陵に煉瓦工場が建設された。現在の市営地下鉄「御陵」駅2番出口付近に碑が建立されている」といった記述があった。ちょっと気になりチェック。
○煉瓦直営工場
疏水工事に際し、トンネルの壁面や水路底を強固にするため煉瓦を採用することになったが、そのために必要な数は1400万個必要と見積もられた。が、当時の日本国内での煉瓦製造は東京の小菅、大阪の堺が中心で、その年間生産量は200万~300万個程度しかなかった。そのため、疏水工事に際しては、直営煉瓦工場を宇治群御陵村(今の山科原西町付近)に建設。4.4haの敷地に登り窯を築き堺から技術者を招いて指導を受け、明治19年(1886)7月から製造を開始、明治22年(1889)10月に閉鎖する迄に1370万個の煉瓦を焼き上げたとのことである。
実際疏水工事に必要とされた煉瓦総数は1100万個で足り、余ったものは他所に販売したとのことだが、明治21年(1888)に工事仕様が変更になり、予定になかったトンネルの側壁などに煉瓦が必要となり、一時的に不足をきたし、全国各地の煉瓦工場からかき集め急場を凌いだとも伝わる。

第2疏水トンネル試作物
山裾を迂回する旧水路跡を進むと、道の右手にアーチ形のコンクリート構造物が見える。近寄ると案内があり、第2疏水トンネル試作物とあった。案内には「第1疏水は1890(明治23年)に完成したが、明治30年代に入ると、電力需要等への対応や、地下水に頼っていた飲料水の不足が問題となり、第1疏水の北側に第2疏水が1912(明治45年)に造られた。
第2疏水は主として水道水源に用いるため、水が濁るのを防止する目的で、埋立てトンネルとした。
このアーチ状の構造物は疏水の建設や維持管理に作業員が建設義技術を取得するため、第2疏水の埋立てトンネル上部の複製を製作したものといわれる。 第2疏水は地上からほとんど見えないが、蹴上の第1疏水合流点で見ることができる」とあった。
○琵琶湖第2疏水
第2疏水の取水口はこのメモの最初に記したように、大津第1疏水取水口の北隣にある。第2疏水のトンネルは、小関・柳山・安祥寺・黒岩・日ノ岡の5ヶ所。トンネル間はコンクリート造りの水路を造り、上で案内にあったアーチ型鉄筋コンクリートで覆い、水路完成後埋戻している(埋立水路)ため、地上に姿を現すのは蹴上での第1水路との合流部となる。
ルートは大雑把に言って、小関トンネルは琵琶湖第1疏水の第1トンネルとおおよそ27mの間隔を保ち平行に等長山を抜け、その後は山裾を迂回する第1疏水と異なり、山を直線に穿ち蹴上へと進む。
全長7400mとなる第2疏水の工事着工は明治41(1908)年10月、明治45年(1912)3月に完成した。工事着工は第1疏水寛政の18年後ということもあり、掘削に関する環境も大幅に改善されていたとのこと。
第1疏水時代は高くて使えなかったセメントが使える時代となっており、煉瓦ではなく鉄筋コンクリートが使えた、明治24年(1891年)には蹴上発電所が運転開始しており、照明も電燈、排水にも電動ポンプが活躍した、また、第1疏水と平行に(平行に2mほど下との記事もある)進むため、第1疏水から横坑を掘って連結し、作業人員の出入り、材料運搬、土砂の排出、湧水の吐出しなど、工事の安全、作業効率のアップ、工事難易度が大幅に低下したとのことである。その箇所は第1疏水第1トンネルと小関トンネル間に11か所、その他後述する第1疏水第3トンネルと日ノ岡トンネルで1箇所の横坑が掘られたとのことである。藤尾橋の辺りにはその横坑のひとつの施設跡が残ると言うが見逃した。
○琵琶湖第2疏水連絡トンネル
琵琶湖第2疏水連絡トンネルも取水口は第2疏水と同じ場所。取水口から直ちに20mの竪穴に流れ込み、山科盆地で第2疏水に合流する。
主たる目的は渇水期の対策。水位が琵琶湖水位ゼロより1.5m低下しても安定して取水できるようになった、とか(注;個人的には今一つ納得感がないのだが、現段階で見つかったデータをメモした)。

諸羽舟溜り

左手に山科の街を見下ろしながら緑道を進む。公園の真ん中を進む道が旧水路跡とのことである。南に張り出した山稜を回り込み、北に向かうあたりで広い公園となる。
南端の崖上には休憩所もあり、散歩の当日は見晴らし所かとも思ったのだが、メモの段になって、その公園(山科疏水公園)辺りには、諸羽トンネルが開削される以前の旧水路にあった諸羽舟溜りがあった、とのこと。
何故に崖上に舟溜りなどとちょっと気になる。堤防決壊など危険この上ない。実際昭和5年(1930)には、この先に出合う天智天皇陵の西側で疏水堤防が決壊し、山科地区が冠水している。また、そもそも四ノ宮舟溜りとそれほど離れてもいない。そんなところに舟溜りを造ったのは如何なる理由か?
危険云々は、地形図をみると結構広い平坦地となっているのでなんとなく安全そう。であれこれチェックすると、四ノ宮舟溜りは少し狭く、それ故に物資の上げ下ろしはあるにしても、主に人の乗り降りの場として使われ、諸羽舟溜りは物資の上げ下ろしと船頭の休憩所となっていた、との説明があった。完成は明治21年(1888)。
なお、山科疏水公園の辺りには旧水路に架かっていた第三号橋跡があるとのことだが、見逃した。

諸羽トンネル東口


諸羽神社を崖下に見遣りながら先に進むと諸羽トンネル東口に出合う。出口前は広い「新諸羽舟溜り」となっている。舟溜り?諸羽トンネルが出来たのは昭和45年(1970)。その頃はトラックも貨物列車もあるわけで、それまで疏水で舟運が機能していたのだろうか?
チェックすると、明治35年(1902)、貨物用 14,647艘・旅客用 21,025艘と、賑わった疏水船運も、人の運搬は大正4年(1915)の京阪電車の京都と大津開通、JRも大正10年(1921)に東山トンネルを抜き山科に駅を開設するととともに激減、貨物運搬も昭和35年(1960)に疏水と京都市内の水路を繋ぐ蹴上インクライン(後述)の電気設備が撤去されており、機能は完全に停止したようだが、実質的には昭和26年(1951)には貨物運搬の舟運は終わったという。ということは、調整池といったものとして造られたのだろうか。よくわからない。

安朱橋(第4号橋)
「諸派舟溜り」から今度は北へと弧を描く山裾の水路を進むと安朱橋(第4号橋)。道すがらの案内によると、北にある毘沙門堂への道筋とのことだが、今回は急ぎ旅。寄り道の誘惑を断ち切り先に進む。橋の建設は第2号橋と同じく明治22年(1889)9月。当時は毘沙門堂と呼ばれたようだ。昭和3年(1928)、平成12年(2000)改修が行われ現在の姿となる。



安祥寺川水路橋
明治中期の建造とも言われる第5号橋を越えると水路は川を跨ぐ。川は安祥寺川。安祥寺川水路橋とでも称するのだろうか。水路橋の土台は煉瓦造り。アーチ型の美しい橋である。年代は不詳だが、明治の建造物だろうか。




安祥寺橋(第6号橋)
昭和29年(1954)、北にある洛東高校への通学路として造られた洛東橋を過ぎると、北へ弧を描いていた水路は、今度はS字を描いて南東へと進む。S字の支点辺りに安祥寺橋(第6号橋)。 この橋も、元は明治22年(1889)、疏水建設当初に造られた古い橋である。
すぐ北に安祥寺があるが、ひたすら水路を進むことのみに専念し、寄り道の誘惑はカット。安祥寺橋の先、水路は少し拡がるが、そこには安祥寺舟溜りがあったようだ。

妙応寺橋(第7号橋)
安祥寺舟溜りの先、南にU字形に突き出た山裾を進み、地図を見るに、南に妙応寺があるなあ、などと思いながら妙応寺橋(第7号橋)を越えると、疏水南に天智天皇陵が拡がる。妙応寺橋も明治22年(1889)9月に造られた歴史のある橋ではある。この橋も三角橋の形を保っている。





天智天皇陵
水路脇に石だったかコンクリートだったか、ともあれ天智天皇陵に沿って侵入を防ぐ柵が並ぶ。疏水を歩くまで、この地に天智天皇陵があるなど全く知らなかった。
○天智天皇
天智天皇と言えば、中大兄皇子=大化の改新、として知られるが、天智天皇即位の後、百済救援軍を派遣するも白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、唐・新羅連合軍の侵攻に備え西日本各地に土塁・城・見張り台など防衛施設を築くとともに、西暦667年、京を離れ近江大津の宮に遷都している。
で、大津の宮で謎の死をとげている。山科の郷に遠乗りに出かけ、行方不明となった。ここまでは知っていたのだが、この陵は、行方不明となり沓が見つかったところであった、とか。
疏水には関係ないが、百済系の天智天皇、新羅系の天武天皇など、『覇王不比等』だったか、『役小角』だったか、どちらか忘れたが黒須紀一郎さんの、日本・中国・朝鮮半島が一体となった当時のダイナミックな国際関係が誠に面白かった。

第8号橋・第9号橋
天智天皇陵に沿って進み明治中期の建造とされる8号橋、疏水北にある本圀寺を結ぶ本圀寺正嫡橋(昭和58年建造)、大正13年(1924)建造との三角橋である大岩橋(第9号橋)を越えるとトンネルと、その手前にアーチ型の橋が見えてくる。山ノ上橋(第10号橋)である。





山ノ上橋(第10号橋)
明治22年(1899)9月建造のこの橋は、もとは封山橋と称されていた、と言う。また、地名から黒岩橋とも、その形から太鼓橋とも称されたようだが、この橋は日本最初のアーチ型鉄筋コンクリート橋とのこと。後述する、日本最初の鉄筋コンクリート橋である第11号橋の建設データをもとに翌明治37年(1904)に改修された、と言う。
○琵琶湖第1疏水開通当時の橋
第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邊朔郎の指導のもとに着工、同23(1890)年に開通。ということは、疏水開通時点で疏水に架かっていた橋は、データで確認できるかぎりでは1号,2号,4号,6号,7号,10号橋、ということになる・

第1疏水第2トンネル東口
例のごとく「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内。歩きはじめたときは、なにも知らなかった琵琶湖疏水について、この案内で基本的な知識を得、また多くの問題意識をもつに至った有り難い案内であった。
この扁額案内には「仁似山悦智為水歓歡(じんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるをよろこぶ)井上 馨 筆 仁者は動かない山によろこび、知者は流れゆく水によろこぶ」とあり、疏水の案内は重複をさけて簡単にまとめると「疏水工事は、外国人技術者の力を借りず、日本人だけの手で行われた一大プロジェクトであった。費用は当時のお金で60万円が見込まれていたが、念入りの工事を求める明治政府の意向で、当初の2倍以上となる125万円の予算(京都府の予算の2倍以上)が組まれた。
第2トンネルの付近、現在の山科区原西町(地下鉄東西線御陵駅付近)には、疏水に使う煉瓦の工場が作られ、約1,400万個もの煉瓦が作られた」とある。 125万って現在の貨幣価値でいくらくらいだろう。正確なことは不明だが明治の1円は現在の2万円の価値とするデータがあった。それを元にすると250億円ということになるが、これでもちょっと少ないようにも思う。井上薫のフレーズは論語から。煉瓦のあれこれは既にメモしたので省略。

第1疏水第2トンネル西口
トンネル南の山裾を迂回し第1疏水第2トンネル西口に。第2トンネルは124mと東口から西口が見えるほど。東口にあった「扁額でたどる琵琶湖疏水」には「隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)西郷従道 筆 山にそって行くと水源にたどりつく。

第1トンネルの説明とほぼ同じ。扁額のフレーズは唐の劉長郷が山中に棲む隠者を尋ねる詩、「過雨看松色 随山到水源」に拠る、との記事があった。



日ノ岡取水場・日ノ岡舟溜り跡
日ノ岡取水池橋を越えると右手に日ノ岡取水場。この地で琵琶湖疏水から取水し、およそ4キロの導水トンネルを自然流化で下り、新山科浄水場に導水する。なお、この敷地は湖水建設当初の日ノ岡舟溜り跡とのことであった。
因みに「日ノ岡」とは、南北と西の三方が山に囲まれ、東が開けるこの地は、日の出とともに「日が当たる岡」といった説もあるようだ。



第11号橋
日ノ岡取水場を過ぎると前方にトンネル入口が見えるが、その手前に橋があり、その傍に「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内。「過雨看松色(かうしょうしょくをみる) 松方正義 筆 時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる」とある。
松方正義のフレーズは第2号トンネル西口にあった西郷従道のと同じ詩からの引用。
疏水の案内には、「眼前の第3トンネル付近には、明治36年(1903)7月、日本初の鉄筋コンクリート橋といわれる第11号橋が試造された。この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されている。鉄筋コンクリートの技術は、のちに第2疏水の土木工事などに生かされた。
橋の東には、かつて日ノ岡船溜が広がり、疏水を行き交う船が泊まっていた。現在は埋め立てられ、新山科浄水場の取水池として利用されている」とある。

案内傍の橋を渡る。日本最初の鉄筋コンクリート橋も廻りは鉄柵で囲われており、少々窮屈そうではあるが、「日本初」というだけで、なんとなく有り難みを感じる。
なお、日本最初の鉄筋コンクリート橋は神戸の若狭橋といった記事もどこかで見付け、気になってチェックしたが、若狭橋が存在したエビデンスはなく、明治39年(1906)9月に神戸で建設された長狭橋の誤記ではないか、との記事があった。

第1疏水第3トンネル東口
トンネル入口に近づき、煉瓦造りの造形美を眺め、扁額も先ほどの案内を頼りに読み終える。トンネルはここから日ノ岡山を3キロ進み1m下るといった緩やかな勾配で850m地中を進む。
このトンネル、疏水工事計画当初はトンネルを山科から南禅寺山下隧道を経て若王子に抜くといった計画であったようだが、それは第1トンネル並みの難工事が予想されたため、南寄りの日岡山下のこのトンネルルートに変更されたようだ。
因みに、先にメモしたように、琵琶湖第2疏水工事に際しては、この第3トンネルからも1箇所の横穴を掘り、既にメモしたように第3トンネルと変更して進む「日ノ岡トンネル」計画路と繋ぎ、そこを拠点に左右に掘削し、作業員の出入り、材料の運搬、土砂の運び出し、湧き水の排除などに利用したとのことである。この辺りにも横坑跡が残るとの記事もあったが、見逃した。

「本邦最初鉄筋混凝土橋」碑
橋を渡ると石碑があり「本邦最初鉄筋混凝土橋」と刻まれる。混凝土=コンクリートのこと、である。裏面には「明治36年7月竣工、米蘭式鉄筋混凝土橋桁、工学博士田邊朔郎書之」と刻まれる。米蘭式とは「メラン式」というコンクリート工法の一種で、田邊朔郎氏が日本に紹介したとのこと。門外漢はこれ以上のコメントするに能わず。

藪漕ぎ撤退
碑を見た後、この先どう進もうとちょっと悩む。第11号橋の「扁額云々」の案内には、直進すれば南禅寺とあったのだが、その道は「私有地につき立ち入り禁止」となっている。車道を迂回するのもなんだかなあと、トンネル脇から山に這い上がり、先日歩いた南禅寺からの尾根道、京都一周トレイルのコースに進み水路出口に下ることに。
急な尾根筋を這い上がり、木々を踏み敷き藪漕ぎを開始してしばらくすると、下から大きな声が聞こえる。「山を下りなさい」と、言ってるようだ。事情はわからないが、取り敢えず、上った急斜面を下ると、声の主が。曰く、この山は南禅寺辺りまで、その方の私有地であり、キノコ採りの輩に荒らされるので侵入禁止としている、と。
知らぬとは言え、私有地に入り込んだことを謝り、仕方なく車道を迂回し第3トンネル西口のある蹴上に向かうことにする。

大名号碑
成り行きで進むと府道143号の日ノ岡交差点の東に出た。緩やかな坂道を上ると、道端に緑地があり、そこに大きな石碑がある。木食正禅養阿上人(1687~1763)は、江戸中期の木食上人のひとりである。巨大な石碑には「南無阿弥陀佛」と刻まれている。
脇にあった案内には「木食とは、草根木皮の生食のみで生きる難行中の難行を言う。当時の京都には、11ヶ所の無常所(6墓5三昧)があり、いずれも刑場に近いので、僧俗一般に敬遠され勝ちであった。しかし、上人は、敢えて寒夜を選んで念仏回向に回り、享保2(1717)年7月、永代供養のため、各所に名号碑を建立した。中でも粟田口、京都最大の刑場なので、一丈三尺(約4メートル)の特大にしたと旧記にある。
現在、下半分が補修されているが、更に復元すれば「南無阿弥陀仏木食正禅養 粟田口寒念佛墓廻り回向(享保三丁酉七月十五日 となるべきであろう。 もと九条山周辺にあったが、明治の排仏思想のおり、人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用されたのである。その時の痛ましい痕跡は、今も石肌に判然と遺っている(陵ヶ岡自治会)」とある。
粟田口の刑場ってよく聞いてはいたのだが、この地にあったことは知らなかった。刑場はこの車道を少し上った「九条山バス停」の左の崖上辺りのようだ。 で、案内にあった「5三昧」って?チェックすると「火葬場」のことを指すようだ。また、案内に名号碑は4mとあるが、それほどの高さはないようだ。チェックすると、現在の高さは2.8m。明治時代の廃仏毀釈に遭い遺棄されたが、昭和8年(1933)には国道改修工事(現在は府道143号)の際に折れた上半部のみが出土し、現在地に据え置かれていたものを、昭和40年(1965)に下半部を修補・復元し再建された、とのことである。

日ノ岡宝塔様縁起
同じ緑地の中、大名号碑の先に僧形の像と石碑が建つ。案内には「日ノ岡宝塔様縁起」とあり、「桓武天皇奈良より京都へ遷都以来明治に亘る千有余年の間極刑場(粟田口処刑)が現在の九条山附近にありました。
この刑場で処刑されてはかなく消えた罪人の数は約一万五千人余にのぼったといわれ千人に一基ずつの供養塔が十五基各仏教諸宗の手で建てられたと伝えられています。
明治の初めこの刑場が廃止されたのち廃仏毀釈の難にあい、供養塔は取り壊され石垣や道路などいろいろな工事に転用されてその断片が処々に残っていました。
昭和十四年法華倶楽部小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)が処刑者の霊の冥福を祈るために石の玄題塔断片を基石としてここに供養塔を建立し毎年春秋の二季に亡霊供養の法要を行い立正平和と交通安全も併せて祈っています」とあった。
石碑には、「立正安国/南妙法蓮華経/天晴地明」の題目が髭文字で刻まれている、とのこと。日蓮宗ではこのような石碑を宝塔と称するようだ。ということは僧形の主は日蓮上人ということだろうか。

日ノ岡峠
車の往来の多い道脇の歩道を進む。緩やかな上り道。昔は結構な難所であったようだ。メモの段階でわかったのだが、先ほどの「大名号碑」のあった緑地には「京津國道改良工事(昭和8年竣工)」の記念碑があり、その改良工事を報じる当時に新聞には「その昔の難所も今は夢の夢」とある。山科と大津を間の逢坂山と共に、京都と山科の間を遮るこの日ノ岡峠越えの道も、その時に緩やかな傾斜の道としたのだろう。
日ノ岡交差点辺りで府道143号と分かれた旧東海道が左手より合流した道の先、九条山バス停を越えた崖上辺りが「粟田口刑場」であったようだが、散歩当日は知る由もなく、疏水が地下を進むであろう道の右手へと入る道を探しながら進む。
バス停を越え、車道橋が道を跨ぐ辺りがピークのようで、道はそこから京に向かって下ってゆく。ピークには日ノ岡峠の標識はなかった。
地図を見るとこの車道橋辺りから右手に水路出口へと向かう道がある。成り行きで右手に入る道を進む

九条山浄水場
ゆったりと上りの道を進むと、道の左手に水路施設が見える。地図には「九条浄水場」とある。結構古いのだが、現在でも動いているのだろうかと京都市水道局のページをチェックするが、浄水場リストには載っていない。
あれこれチェックすると、この施設は明治45年(1912)、御所に防火用水を供給するために建設された御所水道の貯水池であり、大日山貯水池と呼ばれていたとのこと。
戦後、京都市の人工増加に対応し駐留軍の指示で御所水道の貯水池を改造し「九条浄水場」とし創業したが老朽化に伴い浄水機能は昭和62年(1987)に停止、また、御所水道の機能も平成8年(1998)年には停止したとのことである。
何故にこんな高所に?チェックすると、水圧を確保すべく御所の紫宸殿と41mの落差をもって鉄管で導水した。また、用水は第3トンネル西口のポンプ室から揚水し、30m上の貯水池に揚げたとのことである。
御所水道の鉄管がどこを進んだのか気になるのだが、次の機会のお楽しみとして、ここはこれ以上の思考停止。

日向大神宮参道に合流
浄水場を過ぎ、道なりに高度を下げて進むと「日向大神宮」への参道に合わさる。この道はしばらく前大学時代の友人と歩いた道。蹴上から日向大神宮を経て大文字山の火床から京の街を眺め、銀閣寺へと下っていった。このコースは伏見稲荷からはじまり、東山・比叡山を経て大原・鞍馬に。更に西賀茂から高尾・清滝を経て嵐山に至る京都一周トレイルの一部でもあった。
そういえば、このときの散歩のメモを書いていないなあ、などと思いながらその時上った道を逆に下る。


第1疏水第3トンネル西口
道を下ると左手に水路が見えてくる。下りきった辺りで水路奥を見るとトンネルが見える。第1疏水第3トンネル西口である。日ノ岡山を850mの距離を、3キロで1m下るといった傾斜で進んできたわけだ。
例によって「扁額でたどる琵琶湖疏水」には、「美哉山河(うるわしきかなさんが) 三条實美 筆 なんと美しい山河であろう」とある。フレーズは『史記・呉記列伝』よりの引用。疏水の案内は今まで記載したもの以上のものは書いていないので省略する。

九条浄水場ポンプ室
第1疏水第3トンネル西口の出口脇に美しい煉瓦造りの建物が見える。散歩の時は、特に案内もないので、第1疏水関連施設かと思っていたのだが、先ほど出合った九条浄水場が御所水道の貯水池(大日山貯水池)であった頃、疏水の水をポンプアップする揚水施設であった。
御所水道とは言え、余りに凝った造形。何か理由は?チェックすると当時皇太子殿下であった大正天皇が琵琶湖から琵琶湖疏水を京都へ下る計画があり、この地でお迎えすることになり、明治45年(1912)、京都帝室博物館(現在の京都国立博物館)を設計した片山東熊や山本直三郎氏が設計担当した。結局、この年は明治天皇が崩御し、計画は流れたとのことである。

琵琶湖第2疏水合流点
九条浄水場ポンプ室の手前にトンネルと洗堰のような構造物が見える。メモの段階でチェックすると、そのトンネルは琵琶湖第2疏水日ノ岡トンネルの出口。琵琶湖第2疏水が第1疏水に合わさるところであった。




蹴上舟溜り跡
第2疏水が第1疏水に合わさる辺りの水路は、疏水建設当時、蹴上舟溜りであったようだ。その後、九条浄水場ポンプ室手前に蹴上・山之内浄水場の取水池が造られたため、当初からは大きく縮小され、舟溜りの面影は遺らない。
疏水の説明で、「ここで合流した琵琶湖疏水の水は浄水用と発電用に分けられる」といった記事をよく見る。しかし、メモの過程で冬場には第1疏水は、保守管理だったか何だったか、ともあれ「停止」する」とある。
では、蹴上・山之内浄水場の取水池に水はどのようにして送るの?第2疏水と取水池の間には第1疏水があるわけで、サイフォンで第2疏水から取水池に送るのだろうか?チェックすると、そもそもの山之内浄水場は平成25年(2013)には廃止されたようである。ということは説明にある、「浄水用に分けられる」機能は無くなったということだろうか。

合流トンネル入口
第1疏水と第2疏水の水が合流した「溜り」に架かる大神宮橋の南はインクライン。すぐ南で水は消える。疏水はどこに流れるの?橋の北詰めに水門ゲートがある。水は赤いゲートの下に流れる。ここが合流トンネル入口だろうか。
とは言うものの、上でメモしたように、冬場は第1疏水の水は止まる、と言う。それでは第2疏水の水は?
第2疏水が日ノ岡トンネルから出る辺り、第1疏水との合流箇所辺りをGoogle Mapの航空写真で見ると、出口右手にトンネル入口らしき呑口が見える。その後、蹴上げ辺りのジオラマの画像をどこかで見付けたのだが、そこには第2疏水の吐口の右手にしっかりと「呑口」が見えた。第2疏水の水はこのトンネルを通り、先に進むのであろう。
ということは、この赤いゲートは第2疏水が出来るまでの舟溜りから先に進むトンネルの入口であったのか、とも思う。また、上でメモしたように、第2疏水から直接先に進むトンネルが出来た後は、このゲートからの水も地中のどこかで合流し出口に進むのだろうとは思う。が、単なる妄想。根拠なし。

インクライン・運輸船
大神宮橋を渡り先に進むと、水の切れた辺りに線路と台車に乗った舟がある。案内には「この木造船は、明治23年に竣工した琵琶湖疏水で使用されていた運輸船を復元したもの。当時は、船ごとインクライン(傾斜鉄道)の台車に載せて、この坂を昇降していた」とあった。
○インクライン
傍にあったインクラインの案内によれば、「インクライン運転の仕組み;このインクラインは、第3トンネルを掘削した土砂を埋め立てて作られました。この蹴上船溜(ダム)から南禅寺船溜までの延長は約582mです。落差が約36mあるため、この間はどうしても陸送になりました。インクラインはレールを四本敷設した複線の傾斜鉄道です。両船溜に到着した船が、旅客や貨物をのせ替えることなく運行できるよう考えられたのがこのインクラインです。
建設当初は、水車動力でドラム(巻上機)を回転して、ワイヤーロープを巻き上げて台車を上下させる設計でしたが、蹴上水力発電所の完成により電力使用に設計変更されました。
ドラムは、最初は蹴上船溜の上にありましたが、後に南禅寺船溜北側の建物に移転し改造されました。台車を上下させる仕組みは、(中略)直径3.6mのドラムを35馬力(25kw)の直流電動機で回転させて、直径約3cmのワイヤーロープを巻き上げて運転していました。蹴上船溜の水中部には、直径3.2mの水中滑車(展示品)を水中に設置していました。また、レールは当初イギリスから輸入され、軌道中心には直径約60cmの縄受車を約9m間隔に設置し、ワイヤーロープが地面にすれるのを防ぎ、円滑に巻き取れるようにしてありました。ちょうどケーブルカー(鋼索鉄道)のような仕組みで、2段変速できるようになっていて、片道の所要時間としては10~15分かかりました。 琵琶湖疏水記念館にインクラインの模型(1/50)を展示しています(平成15年3月1日 京都市水道局)」とあった。

○蹴上
蹴上げって、いつだったか京都のスタンフォードセンターを訪れるまで、我流解釈で全くの思い違いをしていた。明治時代に完成した琵琶湖疎水には用水と発電と水運といったいくつかの機能があり、水運では、琵琶湖と鴨川を結んだことは知っていたので、この岡崎付近は琵琶湖へのルートとの勾配が急すぎるため、船を台車に乗せて、線路を移動させたという。その船を動かす梃子の姿を勝手にイメージして、それを「蹴上げ」と呼ぶのだろうと思っていた。
実のところ、蹴上げは船とか台車とかは関係ない。源義経にその由来があった。義経、当時の遮那王が奥州に下る際、この地で美濃の侍一行とすれ違う。武者の馬が泥水を蹴り上げ遮那王の衣服を汚す。激怒した遮那王は武者と従者の9人を斬り殺したという。これが蹴上という地名の由来伝説。『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)に、次のように書かれている。○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經 其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ、と。
思い違いをもうひとつ。船を台車に乗せて、線路を移動させ急勾配の水位差を吸収する方法をインクラインという。インクライン=incline(傾斜)の意味の英語である。これも、インク=友禅染めから来ている愛称と勝手に思い込んでいた。

山ノ内浄水場導水管
インクラインの坂を見遣りながら成り行きで進むと、大きな導水管があった。案内に拠れば、[この管は、ダクタイル鋳鉄管といい、水道管の殆どにこの管種を使用しています。強度があり、耐久性があるのが特徴です。これは直管といい、直線区間に使用し、直径1.65m、長さ4m、重さ約トンあります。この他に曲がった区間や分岐する所には、異形管という管材料を組み合わせながら、継手用のゴム輪、押輪、ボルト・ナットを用いて接続します。
第2疎水から取水した原水は、水中のゴミや藻類などを取水池の自動除塵機で取り除いた後、この管と同じものを使って、インクラインから仁王門通、冷泉通、鴨川横断、御池通を通り約8km先の右京区にある山ノ内浄水場まで導水しています。
この管で1日26万4千立方メートル(縦64m×横64m×長さ64mの立方体相当)の原水を送る能力があり、山ノ内浄水場に着くと薬品ぎょう集沈でん、急速砂ろ過、塩素消毒をした後、西京区・右京区・中京区・南区に設定した区域内に給水しています。
京都市には、このほか蹴上、松ヶ崎、新山科の3浄水場がありますが、いずれもこのような導水管や導水トンネルで疎水の水を送り続けて、市民の皆さんが安心してご使用していただけるようにお応えしています(平成15年3月1日 京都市水道局)]とあった。
説明に「第2疎水から取水した原水は」とあるが、上でメモしたように、第2疎水と取水池の間には第1疏水があるわけで、とすればサイフォンといったもので送ったのではあろうが、そもそもの浄水場が平成25年(2013)に廃止されている。

合流トンネル出口
先に進むと右手に水路が現れる。水路右手奥に「合流トンネルの出口洞門」があり、田邊朔郎が揮毫した扁額「藉水利資人工」があったようだが、成り行きで進んだため見逃した。事前準備無しの、後の祭りパターンである。インクラインにあった「史跡 琵琶湖疏水」の案内には合流トンネルは長さ87mとあった。




洗堰
合流した疏水水路を先に進むと洗堰に出合う。洗堰から流れ落ちる水は蹴上発電所の2本の水圧鉄管のひとつに送られる、との説明があった。洗堰先には下に下る2本の水圧鉄管が見える。





蹴上発電所水圧鉄管
洗堰の先に除塵機らしき装置があり、その先に2本の水圧鉄管が下る。蹴上発電所に疏水の水を送る水圧鉄管である。蹴上発電所は当初の計画であった水車動力が京都には適しないと、変更になり計画されたもの。明治24年(1891年)6月に発電機2台で運転を開始した。
当初は電力需要もそれほどなく、自ら需要環境をつくるため計画されたのが電気鉄道とのことは既にメモした通り。明治28年(1895年)には、塩小路(現在の京都駅)~伏見駅へ走る日本初の市街電気鉄道(京都市電)が開通した、と言う。蹴上発電所は、開業から100年以上を経た今でも現役で、京都の街へ電気を送り続けている、と言う。

これで本日の琵琶湖疏水散歩、正確には琵琶湖第2疏水散歩は終了。ついでのことと、また、冬枯れ、と言うか、メンテナンスのため(?)に水気の少なかった疏水散歩の締めに、いつだったか訪れたことのある、琵琶湖疏水が流れる南禅寺水路閣に向かうことにする。

疏水分線の水路
水圧鉄管を越えると、北に延びる結構広い水路が「溜る」。「溜り」の突き当たり手前の右手から水路が合わさる。何だろう?あれこれチェックすると明治20年(1887)に第4トンネル(136m)が蹴上舟溜あたりから貫通したという。後にメモするが、「史跡 琵琶湖疏水」の案内に水路図があり、そこには合流トンネル内部で分岐し右に折れる第4トンネルが描かれていた。
その水路?とも思ったのだが、この第4トンネルは琵琶湖第2疏水完成跡には使用されなくなった、という。吐口も確認できていない。どうも、第4トンネルとは関係ないようだ。
航空写真でチェックすると、蹴上発電所水圧鉄管上の「溜まり」より続き、南禅寺水路閣への水路と繋がれていた。発電用の水を落とした後の、南禅寺から哲学の道へと続く「疏水分線」への水路のスタート地点ではあろうか。
○第4トンネルと合流トンネル
第4トンネルって説明が案内にあるのだが、これって第1疏水工事が完成した頃に造られたもののよう。建設当時の写真には蹴上の舟溜りの脇、現在の合流トンネルのある位置に開削されているように思える。
上でメモしたように、第4トンネルは琵琶湖第2疏水完成後には使用されなくなった、とのことでもあるので、第4トンネルの呑口=合流トンネル呑口かとも妄想する。「史跡 琵琶湖疏水」の案内には合流トンネル内部で分岐し、ひとつは合流トンネル吐口へ、第4トンネルは右手へと分岐しているが、第4トンネルの吐口第4トンネルがはっきりしない。現在も使われているかどうか不明もある。

南禅寺トンネル方面

で、この「溜り」の先は左手には水門があるが、正面の山に呑み込まれる呑口らしきものもある。散歩の時は、何だろう?と思っていたのだが、「史跡 琵琶湖疏水」には、この箇所あたりから 全長1000mの南禅寺トンネルが描かれていた。南禅寺トンネルの呑口かと思ったのだが、南禅寺トンネルの呑口は確認されていない、といった記事があるので、これは南禅寺トンネルの呑口ではないのだろう。
では南禅寺トンネルの呑口は?あれこれチェックしたがはっきりとした記事が見つからなかった。その内に京都に行ったときにでも、琵琶湖疏水の記念館でも訪ねてみようと思う。

南禅寺水路閣
「溜り」の左手に水門があり、そこから勢いよく水が流れる。南禅寺水路閣を経て哲学道の水路を流れる水路は「疏水分線」だろう。
突然増える観光脚客に混じり水路に沿って進み、南禅寺水路閣を見終え、南禅寺をスルーして地下鉄東西線の蹴上駅に。南禅寺水路閣はあまりに有名でありメモは省略する。


蹴上・ねじりマンポ
成り行きで蹴上駅に向かう。途中、何気なくインクラインの下を潜る通路を抜けたのだが、駅方向に出たところの上に扁額があった。
メモの段階でチェックするとそこは「ねじりマンボ」と呼ばれるところであり、扁額は南禅寺側は「陽気発所」、蹴上駅側は「雄觀奇想(ゆうかんきそう)」。
北垣国道筆で、陽気発処とは、『朱子語類』からの引用で 「陽気発処、金石亦透、精神一到、何事不成」 、即ち「陽気(内に秘めたやる気)が発動すれば、金や石も突き通してしまう。 精神を集中し事を為せば、何事でも成し遂げることができる」との意。
「雄観奇想」の出典はわからなかったが、「素晴らしい眺めと優れた考え」との意。簿琵琶湖疏水完成の姿をイメージしたフレーズとも言われる。 で、「ねじりマンボ」。「マンボ」は鉱山などのトンネルに使う「まぶ=間府」ではあろうが、「ねじりマンボ」という工法はトンネルと線路が直角に交わっていない場合に、斜めの線路(この場合は傾斜のあるインクライン)と直交わするように煉瓦を積んでゆく工法で、トンネル内部から見た煉瓦は捻れたように見えるため「ねじりマンボ」と称されるとのこと。散歩の時にはそんなことは何も知らず、お気楽に通り抜け、蹴上駅に向かい、京都駅に戻り、一路田舎へと。
誠に、誠にお気楽に歩いた琵琶湖疏水ではあったが、メモの段になりあれこれ気になることが多くあり、結果的に当日の、のんびり歩いただけとはほど遠い、結構長いメモとなった。 最後に、「インクライン」にあった、琵琶湖疏水の案内を記入し、メモを終えことにする。


○史跡 琵琶湖疏水
 「史跡 琵琶湖疏水  1869(明治2)年に東京へ都が移り、産業も人口も急激に衰退していく京都にあって,第3代京都府知事の北垣国道は、京都に隣接し水量が豊かな琵琶湖に着目して、疏水を開削することによって琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防火などに利用することによって京都の産業振興を図ろうとしました。この疏水工事の御用掛に選ばれたのが、1883(明治16)年に工部省工部大学校を卒業したばかりの田邊朔郎でした。1881年(明治14)に本格的に検討に入り、1885年(明治18)に着工、1890(明治23)年に竣工しました。 琵琶湖疏水の建設工事は最も難関が予想された第1隧道(トンネル)から取りかかることになり、施工方法についてもトンネルの両側からの掘削の他、日本で最初の試みとしてトンネルの途中に竪坑(深さ47m)を掘削する方式も採用しています。 このインクライン(傾斜鉄道)は日本で初めての試みで、これによって船を南禅寺の平地へ下ろすことが可能となり、舟溜から鴨川までは鴨東運河で結んでいます。 1891(明治24)年には米国コロラド州アスペンの水力発電所を参考にした日本最初の水力発電所が蹴上に完成し、同年11月に送電を開始しています。インクラインの運転動力もこの電力を利用しています。 水力発電は新しい産業の振興に絶大な能力を発揮し、京都市発展の一大原動力となりました。 疏水工事は、1885(明治18)年6月に着工して以来、数々の困難を乗り越えて1890(明治23)年3月に大津から鴨川落合までが完成し、それより以南は1892(明治25)年11月に着工して、1894(明治27)年9月に完成しました。琵琶湖第1疎水の建設に携わった人員は、のべ400万人でした。 琵琶湖疏水は、当時の日本の大規模な工事がすべて外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって、日本人のみによって行われた最初の近代的な大土木事業であり、明治期における日本の土木技術水準の到達点を示す近代遺産として、1996(平成8)年6月に、このインクラインをはじめ12箇所が国の史跡に指定されています。 この疏水の水は、現在においても水道用水の他、発電、防火、工業など多目的に利用されており、京都市民の生活を支える重要な役割を担っています」。
月例の田舎帰省の途中、京都で途中下車し「琵琶湖疏水」を大津の琵琶湖取水口から京都・蹴上まで歩いてみようと思った。きっかけと言うほどのきっかけはないのだが、結構昔に仕事で京都の岡崎にあった京都のスタンフォードセンター(現在は同志社大学に移っていると聞いている)に行ったとき、近くにあった蹴上のインクラインを歩き、それが運搬船を琵琶湖疏水に繋げる傾斜鉄道であったとか、先日友人と南禅寺傍の日向大神宮から京都一周トレイルのハイキングコースを大文字焼の火床を経て銀閣寺に下ったのだが、そのとき南禅寺の水路閣を訪ね、煉瓦造りの水路橋を走る水を見て、それが琵琶湖疏水からの流れである、といったことを知り、そのうちに歩いてみたいと思っていたことにある。
とはいうものの、琵琶湖疏水そのものについても、その意義など前もって調べることもなく、歩いていればあれこれ案内もあるだろうと、例によってのお気楽なスタイル。タイトルには「琵琶湖第1疏水」を歩く、などと書いてはいるが、これも散歩をはじめて琵琶湖疏水には第1疏水、第2疏水、第2疏水連絡トンネルがあるのがはじめてわかって付けたものである。
琵琶湖疏水散歩のルートも詳しく調べることもせず、始点の大津の取水口から終点の蹴上までには4つの隧道があるようなので、水路に沿って成り行きで進み、隧道箇所は山越えの道があれば道を上り、迂回路があればそこを利用し、道が無ければ藪漕ぎでもして尾根に這い上がればいいか、といった行き当たりばったりのルーティング。ことほどさように誠にお気楽に琵琶湖疏水散歩をはじめることになった。


本日のルート;JR大津駅>琵琶湖第1疏水取水口>三保ケ崎水位観測所・三保ヶ崎量水標>琵琶湖第1疏水揚水機場>大津閘門と制水門>「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内>琵琶湖疏水案内>第1疏水第1トンネル東口>三井寺南別所・両願寺の石碑>旧神出>長等神社>小関越えの道標>等正寺の測量標石>小関峠>分岐点>第1竪坑へと道を下る>第1竪坑>国道161号・西大津バイパス>第2竪坑>第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)>緊急遮ゲート>藤尾橋>測水橋>洛東用水取水口>柳山橋(第2号橋)>四ノ宮舟溜り>諸羽トンネル>東山緑地公園>第2疏水トンネル試作物>諸羽舟溜り>諸羽トンネル東口>安朱橋(第4号橋)>安祥寺川水路橋>安祥寺橋(第6号橋)>妙応寺橋(第7号橋)>天智天皇陵>第8号橋・第9号橋>山ノ上橋(第10号橋>第1疏水第2トンネル東口>第1疏水第2トンネル西口>日ノ岡取水場・日ノ岡舟溜り跡>第11号橋>第1疏水第3トンネル東口>「本邦最初鉄筋混凝土橋」碑>藪漕ぎ撤退>大名号碑>日ノ岡宝塔様縁起>日ノ岡峠>九条山浄水場>日向大神宮参道に合流>第1疏水第3トンネル西口>九条浄水場ポンプ室>琵琶湖第2疏水合流点>蹴上舟溜り跡>合流トンネル入口>疏水第4トンネル>インクライン・運輸船>山ノ内浄水場導水管>合流トンネル出口>洗堰>蹴上発電所水圧鉄管>第4トンネルからの水路>南禅寺トンネル>南禅寺水路閣>蹴上・ねじりマンポ

JR大津駅
新幹線を京都駅で下り、大津駅まで引き返し、琵琶湖疏水の取水口のある琵琶湖畔に向かう。駅前の案内には琵琶湖疏水取水口のある大津港への道筋には「北国街道」の案内もあるのだが、なにせ琵琶湖疏水を京都まで歩き、本日中に田舎の愛媛に戻ることを考えれば、寄り道する気持ちの余裕もなく、疏水取水口のある国道161号に架かる新三保ヶ崎橋に急ぐ。

琵琶湖第1疏水取水口
新三保ヶ崎橋に立ち、琵琶湖疏水取水口を眺める。幅50mほどもありそうな大きな取水口である。大津港マリーナとしても使われているようでヨットも係留されている。
タイトルに「琵琶湖第1疏水取水口」と書いたが、イントロでメモしたように、疏水散歩のスタート地点に立ったときは単に「琵琶湖疏水取水口」としか思っていなかった。大津から京都への疏水散歩の途中にある案内により、琵琶湖疏水には第1疏水、第2疏水、第2疏水連絡トンネルがあることを知って付けたものである。
取水口のある大津港は、かつては遠浅の砂浜であったようだが、疏水工事の土砂で埠頭、と言うか疏水取水のための堤防を造ったとのことである。

○琵琶湖第2疏水取水口、第2琵琶湖疏水連絡トンネルの取水口
で、この新三保ヶ崎橋が架かる取水口は第1疏水の取水口。それでは第1疏水、第2疏水連絡トンネルの取水口は?メモの段にチェックすると、第1疏水取水口から埠頭を隔てたお隣にあった。事前準備無しの入り当たりばったりでは後の祭りが多いのだが、今回もその轍を踏むことになった。

三保ケ崎水位観測所・三保ヶ崎量水標
新三保ヶ崎橋から「琵琶湖第1疏水取水口」を眺めたとき、左手に疏水施設らしきものが水中に建っていた。取水のポンプアップ施設かとも思い、確認のため橋を渡り、埠頭を疏水施設らしき構造物に向かったのだが、柵で囲まれ近づくことはできなかった。
気になってメモの段階にチェックすると、それは「三保ケ崎水位観測所」であった。簡単に言えば、量水標を基準に琵琶湖の水位を計測する施設である。現在琵琶湖では平成4年(1992)の4月以降、片山(伊香郡高月町)、彦根市、大溝(高島郡高島町)、堅田(大津市)、そしてこの三保ケ崎(大津市)の5ケ所の量水標の平均値で琵琶湖の水位を測定しているとのことである。
ちなみに、この三保ケ崎水位観測所であるが、琵琶湖疏水の計画段階で取水予定地の調査のため、明治14年(1881)に三保ヶ堰量水標が設置され、湖水の水位増減を測定しはじめたとのことである。

琵琶湖第1疏水揚水機場
橋の西側に石組みと煉瓦造りの3つのアーチ水門をもつ建物がある。水路に沿って前後2つのハーフゲートがあり、水路と大津取水口を遮断できるようになっている。散歩の当日は特段に案内もなく、如何なる目的の建物か不明であったが、チェックすると揚水機場とのことであった。
この揚水機場は琵琶湖の水位が下がり過ぎた時、琵琶湖疏水に揚水する目的で昭和29年(1953)に設置された。揚水の基準は琵琶湖の水位が「-40cm」になった時ポンプ揚水をはじめると言う。

○琵琶湖の水位
ここでちょっと疑問。「琵琶湖の水位が-40cm」とあるが、それでは琵琶湖の水位って?チェックすると、歴史的には明治7年(1874)に琵琶湖からの唯一流れ出す、瀬田川の瀬田の唐橋傍に設けた鳥居川観測点を基準水位(水位ゼロ)としたと言う。B.S.L.(Biwako Surface Level)と表された観測点は、当時、オランダ人技師のエッセルの指導のもと、これ以上水位が減ることはないだろう、と推測される地点に設けたもの、と言う。
当時は正確な標高点を測定する基準もなく、B.S.L.(琵琶湖基準水位;水位ゼロ)がT.P. + 84.371mと決まったのは後のこと。東京湾霊岸島での潮位観測を終え、それをもとに明治17年(1884)にT.P.(Tokyo Peil;東京湾平均海面;peilはオランダ語で「水位」の意味)を決定し、明治24年(1891) 「日本水準原点」が設置されてからのことである。因みに琵琶湖基準水位である84.371mとは大阪城の天守閣の高さと同じと言う。
○水位ゼロ
現在琵琶湖水位ゼロ(満水位)は洪水、渇水時のB.S.L の84.371m.±0.3mと設定されているとのことである。我流解釈ではあるが「-40cm」で揚水するとは「84.371m.マイナス0.3m」より0.4m下がった水位のときに揚水する、ということだろう。平成6(1994)年9月15日、琵琶湖水位観測史上最低の-123cmとなった大渇水ではポンプの稼動で危機を乗り切った、とのことである。

大津閘門と制水門
水路脇を進み、京阪電鉄石山坂本線を越えた先の橋の向こうに、鉄製のゲートが設けられ、煉瓦や石で構築された立派な施設がある、鉄製のゲートの右手には塵芥の入流を防ぐ柵を備えた水門が見える。ここも特に案内はなく、水路には前後ふたつのゲートが設けられ、その先に柵を備えた水門からの流路が合わさる石組みの合流点がある。
これまた、如何なる水路施設かとチェックすると、水路のゲートは閘門であり、柵を備えた水門は制水門であった。
○閘門
閘門は散歩を初めて知った水路施設。日本最古、というか、規模はともあれスエズ運河より古く造られた閘門である埼玉の「見沼通船堀」や、小名木川の「扇橋閘門」など散歩の折々に出合う。
閘門は水位の異なる川を繋ぐものである。見沼通船堀は水位の異なる見沼代用水西縁と見沼代用水西縁東縁を、扇町閘門は隅田川と荒川を繋ぐ施設である。低い水路側から高い水位の川に進むには、簡単に言えばゲート内に入り、水を注水し水位を上げて先に進む。逆の場合、高きから低きに進む場合はゲート内に入り、水を排水し水位を下げて先に進む、といったものである。

この大津閘門も基本は同じ。琵琶湖の水位が低下した場合に備え、琵琶湖疏水、正確にはこの「琵琶湖第1疏水」は閘門を境に、水面を1.5m低くしてあるとのこと。B.S.L.(琵琶湖水位ゼロ)より1.66m低いところを川底とし、これに水深1.5mの水深を保ったとも言う。疏水を往来する船は閘門のゲートに入り、ゲート扉体に設けられたスライドゲートを開閉することにより注排水を行い、先に進む。
○制水門
制水門は琵琶湖第1疏水の水位調節機能を行うため、取水口から疏水に水を取り込んでいる。閘門の琵琶湖側の水深は3mとのこと。琵琶湖疏水の通船は昭和23年(1948)に廃止されてはいるが、大津閘門はそのまま残され、制水門から水を今も取り込んでいる。






水路は一直線に長等山に向かう
掘割となった水路は一直線で正面の山に向かう。取水口から先の水路を「大津運河」とも称するようである。正面の山は長等山と呼ばれるようだ。時間もなく、今回は疏水に限定しょうとパスした三井寺の山号でもある。在原業平の読んだ「世の中をいとひがてらに来しかども憂き身ながらの山にぞありける」に由来するとか。

「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内
冬枯れで水量も少ない疏水に沿って進むと「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内があった。「第1トンネル入口の扁額」は「氣象萬千(きしょうばんせん)伊藤博文 筆 様々に変化する風光は素晴らしい」とある。
チェックすると、范仲淹の「岳陽楼記」の一節とあった。范仲淹は北宋の政治家・文人、後楽園の由来ともなった、「先憂後楽」もこの「岳陽楼記」である。

案内には第1疏水の流路、散歩コースと史跡が示されており、一安心。デジカメに写真を撮りながらも、大雑把な立ち寄りポイント、そしてルートを頭に入れる。
さらに、案内には、琵琶湖疏水の説明があった。案内に拠れば、「琵琶湖疏水は、明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた京都の復興を目指して、明治18年(1885)年に建設を始め、明治23年(1890)に第一疏水が完成しました。
疏水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使われ、さらに日本初の事業用水力発電に用いられました。生み出された電力によって、工業が発達し、日本発の電気鉄道が走るなど、京都はにぎやかさを取り戻していきました。琵琶湖の豊かな水を引いたことは、京都の発展をもたらしました」とある。
○水車動力
ここではじめて琵琶湖疏水の意義、概要などがわかった。いくつか気になることが出てきた。「明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた」とは?チェックすると、人口は遷都後には三分の一が流出したとの記事もあった(京都大学新聞)。これなど典型的な指標かとも思う。
○多目的用途
また、「疏水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使われ、さらに日本初の事業用水力発電に用いられました」とあるように、疏水は多目的疏水であったようだ。
○水車動力・水力発電
次いで気になったのは目的の最初にある「水車動力」。水車と産業振興の因果関係は?チェックすると、「京都経済同友会」のなどに拠ると、当初の目論見では工業推進のため疏水の水を活用し、大規模な水車による工業推進を図ったとのことである。
しかしながら、大規模な水車設置は京都には適しないと判断し、水車動力の計画は変更、その代案として浮上したのが水力発電所建設とのことであった。説明には「さらっと」書いてあるが、「日本初の事業用水力発電々」の背景にはこのような事情もあったようだ。
なお、水車も完全に無くなったわけではなく、琵琶湖疏水分線(支流)である通称「哲学の道」沿いに精米・製綿・撚糸・鍛冶の用途で設置され、明治36年(1903)にはその数21か所であった、とのことである。

○電気鉄道
「さらっと」と言えば、「生み出された電力によって、工業が発達し、日本発の電気鉄道が走るなど」との説明も、あれこれチェックすると、事はそれほど簡単ではなかったようである。日本初の発電所が建設されたとは言え、明治の中期、京都に電力需要がそれほどあったわけでもなく、採算がとれなかったよう。
ために、供給先を工業化とは関係のない一般家庭への発電・供給をおこなっていた電燈会社に売電をおこなうが、それでも採算ラインには程遠く、それではと、大口供給を自ら設立したのが「日本初の電気鉄道(路面電車)」。明治28年(1895)のことである。
○電気事業の発展
その後、時代の推移とともに京都の電力需要も増大し、明治の後半には電力需要が疏水収入の中核に発展してゆく。またこの時期京都の工場立地数は東京、大阪を上回ったほどであり、説明の通り疏水は「京都の発展」をもたらしたとのことである。

琵琶湖疏水案内
扁額の案内の少し先に、「琵琶湖疏水案内」があった。説明には「琵琶湖疏水は、大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通り、京都市蹴上へと流れる人工の水路です。延長約9キロメートル。京都市の飲料水、発電、物資輸送、農業用水などの多目的利用のために企画されました。
第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邊朔郎の指導のもとに着工、同23年に開通。第2疏水は明治45年(1912)に完成。工事が国家的レベルの事業であったことを示すように、隧道の各洞門には伊藤博文を始めとする著名人が揮毫した扁額が掲げられています」とある。
「琵琶湖第1疏水取水口」のところで、散歩をはじめたときは単に琵琶湖疏水と思っていたのだが、歩いてみて、琵琶湖疏水には第1疏水、第2疏水があると知ったのはこの案内を見てからである。また、第2疏水をこの場でチェックしていると、第2疏水連絡トンネルがある、ということも、この場ではじめてわかった、といった為体(ていたらく)である。
それはそれとして、疏水の延長は約9キロとのこと。12キロと書いた記事もあり、京都市水道局の資料をチェックすると、取水口から蹴上上までが8,180m,蹴上下の南禅寺船溜までは8,762mであった。それでは取水口と蹴上の上部までの高低差はどのくらいかチェックする。4mとか3.4mとかいろんな記述がありはっきりしないが、ともあれ、3キロを1m下がるといった緩やかな勾配で進むようだ。実際水路を見ても、ほとんど水平に見えるほどである。
○田邊朔郎
また、説明に「青年技師田邊朔郎の指導のもと」とある。青年技師って何歳?チェックする。文久元年(1861)生まれ。明治10年(1877)工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学し、同16年卒業。卒業論文が『隧道建築編』、『琵琶湖疏水工事編』ということもあり、疏水工事を企画していた京都府知事・北垣国道に請われ京都府御用掛となり、明治20年(1887)琵琶湖疏水工事すべての責任者となる。ということは、責任者となったのは26歳ということ、か。
因みに、後に北垣知事の女婿となり、北海道庁長官であった北垣長官のもと北海道官設鉄道の計画・建設にあたるなどを経て、京都大学工科大学長就任。退官後も大阪地下鉄計画など各地の鉄道建設計画に関与した。
○北垣国道
明治の官僚・政治家。高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任した。
第三代京都府知事の時、琵琶湖疏水事業を推進する。「京都大学新聞」に拠れば、「「東京遷都」後、京都は人口の3分の1が流出し著しく衰退。彼はその京都復興手段に琵琶湖疏水を選んだ。もともと琵琶湖疏水は明治時代に突然現れたのではなく、江戸時代初期よりさまざまな開削計画が浮上していた。東や北から京都へ物資搬入するには人馬で山を越えねばならず、そのコストは物価高となって京都にはね返る。琵琶湖から京都へ水を引く利はまず運送にあり、そして近代化の時代には工業のための水車動力となった」とある。
琵琶湖疏水建設は多目的用途を目したものであり、水車動力は発電所建設に変更するといったことは既にメモしたのでここでは省略するが、計画実現には薩長の思惑(疏水管轄の農商務所は薩摩閥、土木管轄の内務省は長州閥)、また疏水計画に反対する滋賀県との交渉に苦慮したようである。滋賀県は琵琶湖の渇水期に疏水によって更に水量が減少するわけで、滋賀の人にとっては死活問題である。

これって、四国の吉野川の分水を求めメリットを得る四国3県(高知・香川・愛媛)と、季節による水量の変動が激しい暴れ川の吉野川によって洪水被害、分水によって更に渇水といったデメリットが加速する徳島県との鬩ぎあいを想起させる。詳しくは吉野川総合開発計画をご覧いただくことにして。ともあれ、 困難な折衝ののち、大阪・滋賀と水害予防工事費を京都府が負担することで合意し、琵琶湖疏水建設への道が拓けた、とのことである。

第1疏水第1トンネル東口
取水口から545m。疎水の第1トンネルの大津口に。トンネルはここから山科の出口まで2,436m山中を進む。鉄柵で囲われ近くに下りることはできないが、煉瓦造りの美しい造形美である。ゲート上には案内にあった「扁額」も見える。「扁額」と言えば、トンネル内壁にも「寶祚無窮(ほうそむきゅう)北垣国道 筆 皇位は永遠である」と刻まれた扁額がある、と言う。
○鉄扉
ところで、東口ゲート上の扁額の文字を注意して見ていると、トンネルにはゲートが付いている。何らかの事情でトンネルを閉じる必要があるのだろう、それって流れを止めることではあろうとは思いながらチェックすると、これも滋賀と京都の洪水時の対処を巡る攻防が見えてきた。
明治28年(1896)、琵琶湖一帯は未曽有の大雨に見舞われた。9月8日には分量水標の水位は327cmに達した。この水位は明治18年(1885)の洪水より55cmとも60cmを越えるものであった。琵琶湖疏水の制水門の扉は明治18年(1885)の大洪水の水位より45cm高く造っていたが、洪水はそれを乗り越え疏水に流入した。京都側は京都へ洪水の流入を防ぐべくトンネル入り口を鉄板や木材で塞いだ。9月13日は更に水位が増し、分量水標の水位は388mを示し、大津は浸水し、閘門の開放を求めることになる。 この事態に際し、如何なる対処がなされたか不明ではあるが、その結果としてできたのがこの鉄扉である。鉄扉には4箇所の孔を造り、水位上昇し鉄扉を閉鎖しても、水が疏水を流れることになった。もっとも、その流量は京都側が必要とする水量、水力発電に支障がない、と記されていた。
滋賀県は琵琶湖疏水建設の交渉に際し、水門ゲートの開閉権を主張した理由が、何となく分かったように思える(結果的には京都側がその権限をもつことになったが)。その後、昭和47年(1972)から始まった「琵琶湖総合開発」などにより、瀬田川の浚渫、いくつかの洗堰、バイパス水路の設置などにより、異常水位は調節できることになり、この鉄扉は現在使われることはないようではある。

三井寺南別所・両願寺の石碑
長等山に潜った辺りで疏水に沿って続いた道は切れ、水路と離れ、扁額案内にあったルートに従い山裾の道を左へと折れる。案内にあった次のルート上の目安は長等神社である。
長等神社に向かって先に進むと、古き堂宇があり「三井寺南別所両願寺」と刻まれた石碑がある。
その石碑のすぐ先にも正面には「三井寺南別所両願寺」、左側に「かたたげんべゑ  くびのてら」と刻まれている。どこにも説明もないので、とりあえずそのときは「首の寺」ってなんだろう、と思って通り過ぎたのだが、チェックすると、「堅田源兵衛 首の寺」とのこと。堅田の漁師である源右衛門が蓮如のために差し出した息子である源兵衛の首、のことであった。
由来によれば、当時延暦寺より仏敵として攻撃の対象とされた蓮如が、大切な親鸞聖人の木像(御真影)を三井寺(延暦寺)に預け在所を転々とする。三井寺は延暦寺で内部分裂が置き、山を下った僧侶が建てた寺であり、山門(延暦寺)と寺門(三井寺)に分かれ抗争が続いていたため。敵の敵は味方ということで御真影を預けて旅立ったのだろう。
その後、御真影を祀るお寺もでき、さて、三井寺に御真影を返してもらおうとしたのだが、三井寺は、二人の人の首をもってこなければ返さない、と。これを聞いた堅田の源右衛門は息子の首を切り落とし、自分の首とふたつ差し上げるので御真影を返してほしいと願ったとのこと。さすがの三井寺もこの行動、というか信心故に御真影を返した;というお話。ロジックはさっぱりわからないが、とりあえずこれが「かたたげんべゑ  くびのてら」のお話である。

旧神出
ほどなく朱色の楼門をもつ長等神社前に。楼門脇に案内があり「旧神出」とあり、「長等神社は、天智天皇の頃に、日吉神社から素戔嗚尊、太山咋命の二神を勧請したことに始まりますが、この二神は長等山の山頂に勧請されました。のち、天喜二年(1054)に至り、現在の社地に移り、これにより神出の地名が起こったと伝えられます」といった説明があった。

長等神社
神社のHPに「長等神社は、西暦667年頃の天智天皇の御世、近江大津宮の鎮護として長等山岩座谷の霊地に須佐之男命を祭祀されたことを起源とする1300年の歴史を持つ神社です。
後に園城寺(三井寺)の守護神として勧請合祀された大山咋大神(日吉大神)など五柱の主祭神を祀る神社として、 繁栄と安定を願う多くの皇族の方々や著名な武将に愛されてきた大社です。
当神社は、大津市指定文化財である豪華な朱塗りの楼門、全国的にも類例の少ない五間社流造の本殿、 それを取り囲む回廊など、見所の多い神社です」との説明があった。

豪華な朱塗りの楼門は明治37年(1904)に室町時代の様式にのっとった秀作で、明治時代の楼門の代表作とされる、とのことである。
○平忠度の歌碑 (平清盛末弟)
境内に平忠度の歌碑がある。「さざなみや  志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」と刻まれる。説明には。「平清盛の弟、平薩摩守忠度の詠んだこの歌は有名で、「平家物語」や「千載和歌集」にみえている。平忠度は一度訪れたであろう平清盛を想い起こして、平家都落ちの際に詠んだのではないかと伝えられている。
この歌碑は長等山の山上に建てられている碑より、多くの人々に見て頂くために、その歌碑を模して、当神社の境内に建碑したものである(昭和57年)」とあった。
○平忠度
平忠度って魅力的な武将。熊野古道散歩のとき、「薩摩守忠度の生まれたところ」との標識に出合った。この地で生まれた女性が、鳥羽上皇の御所で働き平忠盛に見初められ忠度を生む、忠盛の出世とともに、忠盛の嫡男・清盛の弟として忠度も出世する。
歌碑は倶利伽羅峠の合戦に敗れ西に落ちる途中、忠度は京に引き返し、藤原俊成に「勅撰集がつくられつときは、一首でも加えて欲しい」と託した歌。世を憚ってか読み人知らずで千載和歌集におさめられた、と言う。 因みに、ただ乗り=無賃乗車のことを何故に「薩摩守」と言うのかなど、忠度のあれこれに関心がある方はこちらをご覧下さい。

小関越えの道標
次のポイントは案内にあった「小関峠」。Google Mapで山科へと抜ける道筋を確認しながら進むと三叉路に当たった。そしてそこには正面に「蓮如上人御旧跡」、左右に「かたたげんべゑ くびのてら」と刻まれ、矢印で「本願寺 御抱所 等正寺」と示される。チェックすると、どうも、源兵衛の首は先ほどの両願寺だけでなく等正寺にも祀られると言うし、それ以外にも、堅田の光徳寺にも祀られるとも伝わるようだ。
また、この石碑の脇に正面に「小関越」、右側に「右 三井寺」、左側には「左 三井寺」と刻まれた道標が建つ。道標脇にあった案内には「大津市指定文化財有形民俗文化財 石造小関越道標 ;北国海道(西近江路)から別れて藤尾で東海道に合流する約五kmの道は、かつて東海道の間道として小関越と呼ばれていました。
この道標が立つのは、小関越から園城寺(おんじょうじ)(三井寺)へ向かう道の分岐点にあたります。江戸時代中頃の建立で、高さは約95cmあります。三面に、「左り三井寺 是より半丁」「右小関越三条五条いまく満(ま) 京道」「右三井寺」と刻まれています。
三井寺は西国三十三所観音巡札の第十四番札所として多くの参詣者がありました。刻銘の「いまくま」は第十五番札所京都の今熊野観音寺のことで、この道が巡札道であったことを示す資料ともなっています。昭和50年1月大津市指定有形民俗文化財に指定されました」とあった。

等正寺の測量標石
「小関越」の道標に出合ったことで、小関越えのオンコースであることを確認し、峠へと向かう道、といっても住宅街を抜ける舗装道ではあるのだが、その道をしばし進むと六地蔵が並び、その先に「「南無阿弥陀仏」と刻まれた大きな石塔が建つ。散歩の時は、何気なく写真を撮ったのだが、メモする段になり、この石塔の土台石は測量標石であり、測量標識を示す「不」に似た刻印もあったようだ。
この測量標石を知るにつけ、琵琶湖疏水9キロ弱を高低差3.4mで繋いだ測量技師が気になった。チェックすると島田道生という測量技師が登場した。工事責任者の田辺朔朗とともに北垣知事の疏水事業推進の両輪として活躍した人物である。
○島田道生 島田道生はクラーク博士で知られる北海道開拓使仮学校第一期生として卒業し、北垣知事が県令であった高知県に勤務していたが、京都府知事となった北垣氏に請われ京都に移り、上でメモしたように疏水事業が始まる以前の明治14年(1881)には、三保ヶ崎量水標を設置するなど、疏水事業の開始に向けて琵琶湖疏水基本構想の際の測量図作成をおこなった。
疎水事業が開始されると、島田道生が主導する測量は正確を極め、左右から掘り進められた2436mの第1トンネルが開通した時は高低差1.2mm、中心差7mmの違いしかなかったと伝わる。
その後の島田道生は田辺朔朗と同じく、北海道長官に異動した北垣国道を追うように北海道に移った。

小関峠
峠への道を進む。峠道とは言っても生活道路のようであり、舗装されている道は車の往来もある。道を上るにつれ、左手には沢があるようで、薄暗くなんとなく「湿った」雰囲気の道ではある。
峠近くに小関加圧ポンプ場。通常標高の高い配水池に水を導送水するため加圧する施設。配水池でもあるのだろうか、などと思いながら先に進み峠に到着。特に標識はないが、二体のお地蔵様が祀られる祠が峠かと思われる。この祠は「峠の地蔵さん」として地元の人たちが平成元年に別の地にあったお地蔵様をこの地に移し祠を建てた、とか。

分岐点
小関峠の祠を少し進み、空が開けたあたりで道は二手に分かれる。分岐点には「小関越えの道分岐点」の案内があり、琵琶湖疏水は左と示されてあるので道を間違うことはない。
○藤尾奥町配水池
草の繁る左手に下りてゆくと、右手に鉄柵に囲まれた巨大な施設が見える。なんとなく水路関連施設だろか、などと想うのだが何の案内もない。チェックすると、この施設は「藤尾奥町配水池」であった。下りの道に迫るような圧迫感のある構造物は巨大水槽のようである。ということは、先ほどの小関加圧ポンプ場はこの配水池に送水する施設であったのだろうか。

第1竪坑へと道を下る
「藤尾奥町配水池」を越え、右手は山の斜面、左手は段々の畑や資材置き場が続き、古道を歩くといった趣はない、道を下りながら、案内地図でチェックした、この辺りの道の途中にあるであろう「第1竪坑」を見逃さないように、注意しながら道を下ると、左手に如何にも「竪坑」といった施設が見えてきた。

第1竪坑
鉄柵に囲まれた施設の中に円形の塔が見える。それが第1竪坑であろう。鉄柵に掛けられた案内には「琵琶湖疏水第1竪坑 第1疎水の第1トンネルは大津の三井寺下と藤尾の両側から掘り進められた。同時に藤尾川から約740m(第1トン年ル全長の三分の一の地点)のところに第1竪坑を掘り下げ、その底から大津の三井寺下・藤尾の東西両側出入口に向けて掘り進め、東西のトンネルが貫通した。このようにして明治23年(1890)に完成した第1トンネルは当時日本で一番長いトンネル(全長2,436m)となった。
竪坑とは地表から垂直に掘り下げた坑道で、工事の促進・換気・採光のためにつくられた。竪坑の深さは約50m、地上から5.5mまでの抗口上部は、直径5.5mの円形、それ以下の 部分は3.2m x 2.7mの楕円形になっている。
琵琶湖疎水工事の責任者であった田邊朔郎は、昭和14年(1939)工事を振り返って、「一番苦しんだのは竪坑だが、同時に安全を与えてくれたがのあの竪坑」と語っている。
なお、平成8年(1996)には第1疏水のトンネル(第1、第2、第3)の各出入り口、第1竪坑、第2竪坑、第11号橋(本邦初鐵筋混凝土橋),山ノ谷橋、蹴上インクライン、南禅寺水路閣の12箇所が国の史跡に指定された」とある。

案内には、ルート地図とともに、第一隧道第一シャフト平面図、田邊朔郎の説明(1861(文久元年)~1944(昭和19年)明治10(1877)年工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学し、同16年卒業。卒業論文が琵琶湖疎水にかかわるもので、卒業してすぐに琵琶湖疎水工事のために京都府に採用され、同20年琵琶湖疎水工事全ての責任者となった)があった。

案内にある12か所の国の史跡はチェックポイントとして記憶に留めながらも、案内にあった「一番苦しんだのは竪坑だが、同時に安全を与えてくれたがのあの竪坑」とのフレーズがちょっと気になった。
チェックすると、竪坑開削着工が明治18年(1885)8月6日。約50m下のトンネル水路予定地まで掘り終えたのが明治19年(1886)4月17日。当時は50m掘り終えるために8カ月と11日、日数で言えば255日を必要としている。1日20cmといった進捗状況である。

その主因は、当時は電力もなく、カンテラの灯りのもとノミとハンマーによる手掘りで開削が行われということもあるが、最大の問題は予想を超える湧水であったようだ。湧水対策に苦慮し、蒸気動力のポンプが工事後半から活用されるようにはなるが、アドバイザーが解決法を求めて渡米したほどである。フレーズにある「一番苦しんだ」とはこのことを指すのだろうか。
また、「同時に安全を与えてくれた」というのは、換気・採光,また土砂の排出などは当然のことではあろうが、あれこれチェックしていると案内とは異なり、トンネルの掘削着工が第一竪坑の完工を待ってはじめられたといった記事があった。
○竪坑と第1トンネル工事着工
上の案内には「第一疎水の第一トンネルは大津の三井寺下と藤尾の両側から掘り進められた。同時に(中略)第一竪坑を掘り下げ、その底から大津の三井寺下・藤尾の東西両側出入口に向けて掘り進め」とあるが、ある記録では第一竪坑の完工が明治19年(1886)4月17日。第一竪坑から大津口に向けて掘削着工が明治19年(1886)4月17日。大津口の掘削着工が明治19年(1886)9月26日。
また、第1竪坑口から藤尾口への掘削が着工されたのが明治19年(186)4月17日。藤尾口からの工事着工されたのが明治19年(1886)9月2日、とされている。
これを見る限りでは第1トンネルの大津・藤尾口からの工事着工は第1竪坑の完工を待って工事がはじまっている。第1竪工での経験を生かしたのか、トンネル水平部の平均掘削距離は1日1.5mのスピードで進んでいる。これが、「一番苦しんだのは竪坑だが、同時に安全を与えてくれたがのあの竪坑」の意味するところだろうか。単なる妄想。根拠なし。
因みに、大津口と第1竪坑1,696mが貫通したのは明治22年(1890)2月27日である。

国道161号・西大津バイパス
右手に竹藪、左手に畑を見ながら小径を下ると民家も増え、普門寺の甍の向こうに国道161号・西大津バイパスの橋台が見えてくる。西大津バイパス橋台のほぼ下にある小祠で休憩しながら、次の目的地である第1竪坑の案内に載っていた「第2竪坑」をチェックする。


第2竪坑
今までの案内地図には記載されていないのでGoogleで検索。どうも西大津バイパスの東の民家の裏手にあるようだ。第1トンネルの竪坑であるからには、トンネル西口までの何処かあるだろうからと、Google Mapで第1トンネル藤尾口(西口)と大津東口を結んだ線あたりをチェックすると、西大津バイパスに沿って流れる小川の北のように思える。
川に沿って進む車道を歩きながら川の北を注意しながら進み、川の北に入る道をチェックしながら進むと、南に下る川が少し西に向かう手前の民家の奥に竪坑らしき施設が目に入った。
場所は民家の奥で先に進むことはできない。道に戻り、民家脇に川のコンクリート補強堤が川に沿って続く。狭い背の上を注意深く進み、川向こうに第2竪坑が見える場所に出る。
鉄柵で囲まれており中に入ることはできない。また特に案内も見つからなかった。あれこれチェックするとこの竪坑の主目的は換気・通風。工事途中で西口から300mほど掘り進んだ辺りで急に換気が悪くなったため、送風機の新設より低コストであった坑道掘削が開始された、とのこと。工期も1ヶ月ほどで、第1竪坑掘削で悩まされた湧水トラブルもなかった、と言う。

第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)
Google Mapで確認しながら第1トンネル西口に向かう。左右を緑に囲まれた美しい水路の先にトンネル吐口がみえてきた。鉄柵で中に入ることはできないが、道との比高差があまりないので、「扁額」もはっきり見える。
ここにも「扁額でたどる琵琶湖疏水」があった。扁額は「廓其有容(かくとしてそれかたちあり) 山縣有朋 筆 疎水をたたえる大地は、奥深くひろびろとしている」とある。
また、トンネル大津口で見た「扁額でたどる琵琶湖疏水」と同じく、疏水ルート地図と疏水に関する案内もあった。前の案内と重複する部分は省略し大枠をまとめると「疏水工事の中でもっとも難しかったのは、長等山を貫く7第1トンネルで、トンネル出入り口(三保ヶ先・藤尾)と竪坑(シャフト)から掘り勧められた。竪坑から大量の水が湧き出し、工事は困難を極めた。トンネルはほとんど人力だけて掘られた。
建設当初3つのトンネルがあり、各出入り口には明治の元勲が文字を書いた扁額(門戸等に掲げる横に長い額)が掲げられている」 とあった。案内は第1竪坑で補足説明したことでもある。

当日は誠に、お気楽に歩いただけではあったのだが、メモの段階であれこれ気になることが多く、メモが結構長くなってしまった。琵琶湖第1疏水散歩の第一回のメモはここまでする。

鈴鹿峠越えも二日目。前日は亀山宿から鈴鹿峠を越えて土山宿まで歩いた。本日は宿泊地である土山宿からスタートし、水口宿まで辿る。水口宿は関ヶ原の合戦の時、島津主従の集結地として、合戦前より手配されていた場所、と言う。東西両軍の激戦の中において、ひとり粛として動かず、西軍の敗軍による合戦終了後、東軍の真っ直中、しかも家康本陣直前まで進み、そこで南進し、堂々たる退却戦を演じた。東軍の追撃戦により伊勢街道を下ったもの、鈴鹿の山系を越えて近江路を進んだものなど、四散した主従が辿り着いた水口が如何なる地形で、どのような往還道が集まっていたのか、実際に目にしたいと思っていた。
今回、鈴鹿峠の「盗賊除け」、「露払い」として鈴鹿の峠越えに加わったのだが、水口宿がコースにあるとは思ってもいなかったので、思わぬプレゼント。これもセレンディピティ(偶然に出合った幸運)と、土山宿を出立し水口宿へと向かうことにする。


 本日のルート;土山支所前交差点>大黒屋公園>大黒橋>「御代参街道起点」の石碑>松尾(の)川・野洲川>垂水斎王頓宮跡>土山町前野>地安寺>土山町頓宮>土山町市場の一里塚>大日川堀割橋>土山町大野>国道1号・大野西交差点>水口町今郷・今在家一里塚>岩神社>東見付け>水口町元町・水口宿本陣跡>高札場跡>問屋場跡>からくり時計>近江鉄道と交差>水口城址>近江鉄道水口城南駅

土山支所前交差点_午前7時57分
国道1号脇にある宿のすぐ傍の土山支所前交差点の向こうに巨大な石灯籠。平成万人燈とのこと。鈴鹿峠にあった万人燈の平成版、と言ったものだろう。平成万人燈を見やりながら、交差点を南に、一の松通りを進み、昨日歩いてきた旧東海道筋へと向かう。

大黒屋公園_午前8時3分
一の松通りと旧東海道との交差する角に大黒屋公園がある。この公園は大黒屋本陣跡、問屋場跡、そして高札場跡でもある。土山町教育委員会の案内をそれぞれメモする。

大黒屋本陣;「土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。土山本陣は寛永十一年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
大黒屋本陣の設立年代のついては、はっきりと判らないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると、当本陣に規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される」、と。

高札場跡 :「高札は、室町時代より近世になってもっとも普及した制令掲示であり、一般民衆ことに百姓・町人らに発した掟書・禁令・法書などを板札あるいは紙に記して掲げるもので、その場所は高札場といわれ、一般に崇敬すべき除地として区画されていた。土山宿の高札場は、問屋場や本陣などが設けられた御役町の東西二ヶ所にあって、この内の一ヶ所が北土山の吉川にあったと言われている。東の高札場は、田村川橋の西街道の南側にあったと記録されている。

高札は桁行5メートル・横巾1.8メートル、高さ3メートルの構築物であり、高札場は五街道の宿場とか、村の庄屋宅前など民衆の注目をひきやすいと ころに制札を立て、法令の周知を期したが、明治七年(1874年)廃止された」、とあった。

公園内には「明治天皇聖跡」の石碑や「高桑闌更(たかくわらんこう)の句碑」が残る。高桑闌更は江戸中期の俳人。与謝野蕪村とともに、俳諧中興に貢献した。「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」と詠む。
この大黒屋公園が、本日の旧東海道を水口宿へと向かう散歩のスタート地点であるが、昨日田村神社から道の駅・あいの土山での休憩の跡、宿まで辿った土山宿のメモをまとめておく。

土山宿
この土山の地は、平安期に鈴鹿峠を越える伊勢への道が整備されて以来、近江と伊勢を結ぶ交通の要衝であった。室町時代の後期、土山の地が荷駄の中継地として、土山の馬方に運搬を依頼する記録が残る。
江戸になり、慶長6年(1601)、五街道が整備され、この土山も東海道の宿となり、当初は伝馬三十六疋であったものが、街道の賑わいに伴い、伝馬100疋、人足100人まで増えた、とのことである。

土山宿は日本橋から数えて東海道49番目の宿。天保14年(1843)の記録によれば、本陣2,脇本陣1,家数351軒、人口1505人、旅籠44軒とある。また、この地は幕府の天領であり、代官の支配を受けていた。 


「上島鬼貫(おにつら)」の句碑
道のえき・あいの土山から昨日辿った土山宿のメモを始める。道のえき・あいの土山を離れると、沿道には茶畑が広がり、やがて土山宿の街並みに入る。昔の屋号の書かれた木札が掛かっている民家を眺めながら進むと「上島鬼貫(おにつら)」の句碑『吹けばふけ 櫛を買いたり 秋の風』があった。
案内によれば、「上島鬼貫は、大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西に鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686年)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向う時に詠んだ句である」、と。

お六櫛とは、土山の名物であった、とか。その昔、お伊勢参りの旅人がこの土山宿で急病に。看病のお礼にと、櫛職人であったその旅人が、腕に覚えの「お六櫛」の作り方を教え、宿を後にした。お六とは、信州でその櫛を考案した女性の名前。この土山・生ま里野には十数軒の「お六櫛」の店が並んでいた、とのこと。そう言えば、道すがら「お六櫛商 三日月屋」との木札の掛かった民家を数軒見かけたように思う。





くるみ橋
しばらく歩き、右手の民家前に建つ「東海道一里塚跡」の石柱をちらりと見やり、さらに5分程度進むと白壁の欄干の橋。この来見川に架かる「くるみ橋」には、宿場の姿や「土山茶もみ唄」が描かれていた。

白川神社
橋を渡ると街道の南側、少し離れたところに鳥居が見える。白川神社の鳥居である。白川神社って、関東ではあまり見かけない神社。少々気になりながらも、信心よりも先を急ぐ同僚諸氏の「勢い」に負けパスするも、メモの段になり、やはり気になりチェックする。
この神社、元は牛頭大王社とも、祇園社とも呼ばれていたが、後に白川神社となったもの。白川神社の祭礼が「土山祇園祭花笠神事」と呼ばれる所以である。
いつの頃から白川神社となったのか定かではない。が、「神社」という名称は明治の神仏分離令以降のことであるので、明治以降ではあろう。で、何故「白川」か、ということだが、土山宿の西を流れる田村川(横田川とも野州川とも呼ばれる)に合流する松の尾川が別名、「外の白川」とも呼ばれたことにも関係あるのではないだろう、か。
この川は、京の北にある白川で祓いを済ませた斎宮群行や伊勢勅使が、伊勢への途上の祓所として早くから知られたようである。また、その祓所であった故か、土山の集落が出来た頃は土山荘とも、白川荘とも呼ばれたようである。
かくの如き所以をもって、明治になって、神仏混交の牛頭天王社を神仏分離するときに、その由緒ある「白川」の名前を使ったのではなかろう、か。(『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』)。単なる妄想。根拠なし。明治天皇も東京への遷都の途上、この宮に立ち寄られたとのことである。

森鴎外ゆかりの地
街道を進むと左手に『森白仙終焉の地(井筒屋跡)』の案内。その向かいには『森鴎外の泊まった平野屋 』の案内もある。森白仙は鴎外の祖父。津和野藩亀井家の典医として参勤交代の途上、此の地で病に伏しむなしくなった。
平野屋は、高級軍医将官であった鴎外が、祖父の墓参で土山を訪れたときに滞在した旅籠。「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。」乃ち金を借りて明日来り観んことを約して去る。寺を出つるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり。」と『小倉日記 』にある。鴎外が訪れた時には、井筒屋は既になく、荒れ果てた祖父のお墓を建て直した、と。

土山宿問屋宅跡
「二階家脇本陣跡」や「東海道伝馬館」を見やり先に進むと、ほどなく土山宿問屋宅跡。案内には「土山宿問屋宅跡;近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。土山宿は、東海道をはさんで北土山村、南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした」とある。

本陣跡
問屋宅跡のすぐそばに「本陣跡」。案内をメモする:「土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。土山宿本陣は、寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代として之を勤めた。本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇行幸の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった」、と。

本陣横には明治天皇聖蹟の石碑があり、その傍らには大正時代の仏教哲学者の井上圓了(えんりょう)博士の漢詩碑が並ぶ。大正3年に博士が訪れた時、明治天皇がここに泊まられた明治元年九月二十二日が、偶然即位後最初の天皇の誕生日であり、それを記念し住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事に感激し、詠まれたもの、と。
『鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。 維新の正に是、天長節なり。 恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる; 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人』と言った内容、とのこと。
井上圓了博士は中野散歩の時、哲学堂で出合った。哲学堂は、もともとは学校用地として購入したものだが、それが中止となり哲学堂77と称する建物が妙正寺川に沿った園内に点在していた。

「林羅山の漢詩の石碑」
少し歩くと、土山公民館。もとは土山宿の旅籠「山田屋跡」。そこには「林羅山の漢詩の石碑」が置かれている。『 行李(あんり)、東西、久しく旅居す。風光、日夜、郷閭(きょうりょ)を憶ふ。 梅花に馬を繋ぐ、土山の上。 知んぬ是崔嵬(さいかい)か、知んぬ是岨(しょ)か』。「あちこち旅をし、いろいろな景色を見る度に故郷のことを思い起こす。今、梅の花に馬をつないでいるのは土山というところ。土山とは、土の山に石があるのか、石の山に土が覆っているのか、はてさて」と言った意味、と。林羅山は江戸前期の儒学者である。


 


本日の散歩スタート_午前8時分
林羅山の漢詩の石碑を見ながら進むと、ほどなく本日の散歩のスタート地点である大黒屋公園である。ここまでが昨日の土山宿散歩のメモ。ここからが、本日の散歩メモとなる。

散歩のメモをはじめるに際し、ちょっと気になることを思い出した。馬子唄で「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」とある。そもそも、このあいの土山って、どういう意味だろう。てっきり間の宿、つまりは、正式な宿と宿の間に難路があるときなどに設けられる間の宿との説だと思っていたのだが、鈴鹿峠をはさみ、坂(坂下宿)と相対する土山(土山宿)という説、または、北伊勢地方の方言で「あいのう」が「まもなく」という意味であり「まもなく土山は雨が降る」という意味、また、坂は松の尾川(外の白河)西岸の松尾坂であり、鈴鹿峠との間の土山という説など、あれこれ。定説はないようである(『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』。
因みに、坂は鈴鹿峠の伊勢側、坂下宿と唱える説もある。鈴鹿峠の南は晴れていても、鈴鹿峠は曇っており、土山の宿は雨。これは此の地方の典型的な冬型の天候との、こと。真偽の程、定かならず。

大黒橋_午前8時6分
70m進むと橋がある。大黒川に架かるこの大黒川橋も、先のくるみ橋戸同じく白い土塀風になっていた。この橋を渡ったあたりに土山陣屋があった、とか。幕府の直轄領であった土山宿は代官支配の地であり、その役所である陣屋は東西46m、南北55mの屋敷であった。陣屋跡の石碑は見逃した。
ちなみに、これもパスしたお寺さまではあるが、橋を渡って左手に進んだところに常明寺がある。既にメモした鴎外の祖父の眠るこのお寺様は和銅年間の建立との古刹。臨済宗東福寺派のこのお寺さまには、奈良時代の般若波羅蜜多経が残る、とか。長屋王願経とも呼ばれ国宝に指定されている。芭蕉もこのお寺さまを訪れて詠んだ「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかむ」(「鳰」はカイツブリの古名)の句碑がある、と言う。

「御代参街道起点」の石碑_午前8時12分
道を進むとほどなく南土山交差点で国道1号に合流。その角の三角地に石燈篭のある小庭園があり、土山宿の案内板があった。国道を50mほど先に進むと「御代参街道起点」と書かれた石碑がある。
御代参街道は「多賀道」とも呼ばれたが、江戸の頃、京の公家が天皇の名代として彦根の近くにある多賀大社への参拝に往来したり、公家の名代の使者が往来した街道であるが故に「御代参道」と呼ばれるようになった。道筋は古くから通っていたようだが、江戸初期、春日の局が伊勢参詣の後、多賀大社にお参りするため正式に街道として整備された、とか。
「御代参道」の道筋は土山宿と中山道愛知川宿を結ぶ脇往還であり、東海道脇街道とも北国越安土道とも呼ばれていたようだ。土山宿で東海道を離れた道筋は北に笹尾峠を越え、日野、八日市をへて中山道にあたり、多賀に至る。「伊勢へ七度 熊野へ三度 お多賀さんへは月参り」、「お伊勢参らばお多賀へおいやれ お伊勢お多賀の子でござる」 などと謡われているように、朝廷だけでなく庶民の信仰も篤いお社であった。

石碑の近くには古い道標が2つ建っていて、ひとつが「たかのよつぎかんおんみち」、もうひとつには「右 北国たが街道 ひの八まんみち」、とある。「たかのよつぎかんおんみち」とは「高埜世継観音道」。八日市市の東隣の永源寺町高野にある古刹・永源寺の本尊世継観音への道。たが街道は上でメモしたとおり。「八まんみち」とは多賀街道の途中にある近江八幡のことであろう。

松尾(の)川・野洲川_午前8時32分
国道から北に分かれる道を進むも川への道はなく、大きく円を描き再び国道に戻る。国道を進むと白川橋が架あるが、往昔の東海道は白川橋の手前より北に迂回し、外の白川とも、松尾(の)川とも、野洲川とも呼ばれた川筋に架かる松尾橋を渡り、前出の松尾坂を下って現在の国道道筋である東海道に戻ったようである。先ほど歩いた道筋の先に往昔は道が川に向かってあり、橋が架かっていたのだろう。
橋は10月から2月までは木か土の橋、3月から9月までは渡し舟か徒歩で渡った、とのこと。現在は往昔の道筋は残って折らず、逆に白川橋の手前で国道より南に分岐する道筋があったので、そちらを辿る。

垂水斎王頓宮跡_午前8時55分
先に進み橋にモダンなデザインの歌声橋を渡り、国道に沿った街道を進む。歩を進めながらも、国道の北にある垂水斎宮頓所が気になり、先を急ぐ同僚諸氏に、「斎宮頓所に寄ってみませんか?」と、小声で囁く。斎宮頓所?などと訝りながらも、諸氏共に提案を諾とし、県道24号との交差点を右に折れ、国道1号・前野交差点に進み、少し道を戻り、道脇の案内に従い斎宮頓所へと向かう。
斎宮頓所は畑の向こう、こんもりと茂る林の中。アプローチの道筋を少々間違ったらしく、茶畑というか、軽いブッシュを超えて林の中に入る。木の鳥居の傍に「史蹟 垂水頓宮址」と書かれた大きな石柱。そこに滋賀県教育委員会の案内をメモする。
「史跡 垂水斎王頓宮跡 ;ここ垂水の頓宮建立跡地は、平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所である。
斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名大として、皇祖である天照大神の御神霊のみ杖代をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形でご通行されることとなった。
京都から伊勢の斎宮まで、当時は五泊六日もかかり、その間、近江の国では勢多・甲賀・垂水の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿・一志の二ヵ所で、それぞれ一泊されて斎宮までいかれたのである。その宿泊された仮の宮を頓宮といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、五ヶ所のうち、ただこの垂水頓宮だけである」と。

林の木々に覆われた境内には、ささやかな社があり、その傍に「斎王垂水頓宮址」の大きな石碑が並んでいる。社の近くの案内板に醍醐天皇の第四皇子重明親王の長女斎王徽子女御の詠んだ「 世にふれば 又も越えけり 鈴鹿山 昔の今に なるにやあるらむ」との和歌が書かれていた。
徽子女御は僅か九歳で斎王として伊勢に下向の途中、この行宮に宿泊。また、日を経て斎王に卜定された娘(村上天皇の第四皇女規子内親王)に母として、再び斎王群行に付き添い、再びこの頓宮に宿泊したときに詠ったものである。

斎王(斎宮)として占いで選ばれた未婚の皇女は京の紫野にある斎院で1年間精進の日々を送り、その後加茂神社に参詣し、京の西嵯峨有栖川にある野々宮で2年間の精進をおこない、この3年の心身精進の日々を終えて、桂川で身を清め伊勢に向かった、とのこと。なお、加茂神社の斎院に仕える宮を斎王、伊勢神宮に仕える宮を斎宮と称し区別することもある、とか。

土山町前野
地図を見るに、頓宮の東を川筋から国道脇のガソリンスタンドあたりへと続く道がある。往昔、松尾橋を越え北に迂回していた昔の東海道の道筋なのだろうか、などと想いを巡らしながら頓宮を後にして国道へと戻る。
茶畑の中を国道に戻ると、国道向かいの角に「伊勢大路線(別名須波道))と刻まれた石碑。鈴鹿峠のところでメモしたように、平安の頃、鈴鹿峠を越えて伊勢に抜ける道を阿須波道と詠んだ。阿須波とは、「足場(足庭)」の意であり、須波の神とは「足踏み立つる所を守る神」ということから、旅立ちを守る神、と言う。阿須波道とは、旅の安全を祈念した名前でもあろう。

国道から旧東海道の道筋まで戻り、西に進む。格子や板が赤茶色に塗られた民家が見られる。紅殻格子の民家は趣があり、なかなか、いい。紅殻はインドのベンガルで算出する酸化鉄を主成分とした赤色の顔料、と聞く。ベンガル>べんがら>紅殻と転化したのではあろう。防腐剤としての効果や、魔除けの役割も果たしたとか、しない、とか。

土山町前野は、もと甲賀郡前野村。明治22年(1889)、今から進む道すがらの集落である大野村、今宿村、徳原村、頓宮村、市場村と合併し大野村に。昭和30年(1955)、近隣の村とともに土山町に合併。さらに、平成16年(2004)、水口町など近隣の町が合併し甲賀市となった。

滝樹神社
少し進むと道の南に鬱蒼とした森がある。道標によると滝樹神社が鎮座するようである。先ほどは斎王頓宮へと寄り道をお願いしたばかりでもあり、今回は同僚諸氏への寄り道提案を躊躇しパス。メモする段になっても、名前が気になりチェックする。

この社、元は、伊勢の滝原宮より滝原大明神を勧請し、瀧大明神と称した、と。神社の由緒によれば、滝原宮に祀られる二神は水門の神とされる。このあたりは、田村川と松の尾川の落ち合うところで、古来より水害が多いため祀られた。その後、この鬱蒼とした森をつくる杉の神木が有り難き故、瀧大明神に「樹」を加え瀧樹大明神とした、と室町の記録にあるようだ。

地安寺_午前9時12分
街道を進むと右側にお寺さま。門前に茶の木と案内がある。案内によると、「林丘寺宮御植栽の茶 ;御水尾法皇(1596年〜1680年)の御影、御位牌安置所建立の宝永年間(1704年〜1710年)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。
当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安禅寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と、林丘寺宮へ献納されていた。この、宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている」、とある。

此の案内を見て、土山茶のはじまりは、この地から、かとも思ったのだが、どうも、そうではなく、南北朝の中頃、先の常明寺の高僧が、京の大徳寺より種をもたらしたのが、土山茶のはじまり、とのことであった。
因みに、光子内親王は父の後水尾院、養母の東福院の寵愛を受け、書画に優れた才能を残した、と。四代将軍家綱との縁談話もあったが、結局は生涯独身で過ごし、後水尾院崩御の二年後には剃髪し、47歳で仏門に入った。

土山町頓宮
道を進むと土山町頓宮の表示。もとの頓宮村ではあろう。頓宮御殿跡といった案内もあった。地名の由来は垂水頓宮から。垂井は垂水より。古来、この辺りを垂水と称した。
地図を見るに、国道の北に東光寺というお寺さまがある。往昔、この東光寺のあたりには頓宮氏の居城があった、とか。甲賀の二十一家とも、五十四家のひとつとも称される頓宮氏だが、出自は不詳。鎌倉期にこのあたりの在地から発生した勢力、とも。南北朝では南朝方に加わり、一時北朝方の攻勢により伊勢に逃れるも、室町にはこの地に地頭として復帰し、山中氏とともの土山を支配した、とのことである。

土山町市場の一里塚
土山町市場に入る。もとの甲賀郡市場村。街道左側に一里塚跡の石柱があった。民家の前に石柱と案内があるだけで、往昔の名残はなにも、ない。一里塚の少し先に藁屋根の民家がある。ここも壁は紅殻で塗られていた。その先には橋の向こうに、ちょっとした松並木が見えてきた。

大日川堀割橋_午前9時32分
松並木がはじまる手前に川があり、そこに大日橋が架かる。橋の手前には「大日川堀割」と刻んだ石柱がある。橋を渡り、松並木に近づくと、「反野畷」の石柱と「大日川堀割橋」の案内。
案内板によると、「大日川(堀切川)堀割 ;往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄十二年(1699年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄十六年(1703)に完成した(土山町教育委員会)」とある。

近くに石柱。「従是東淀領」とあった。「ここより東は淀領」ということを示す領界石。淀藩は、廃藩となった伏見藩に替わり、1626年(寛永3年)、山城の国・淀の地に遠州掛川から入封した松平定信の領地。この地は淀藩の飛び地であったのだろう。

花枝神社の鳥居
しばしの松並木の間から野洲川や、その対岸に小高い水口丘陵、そしてそのはるかかなたに信楽の山系が見えてくる。どの山塊が信楽方面か定かではないが、山並みを眺めながら、島津主従の落ち延びた姿を想う。
先に進むと花枝神社の鳥居。地図を見るに、本殿は国道の北。「はなえ」という名前に惹かれるも、少し距離があるのでパス。メモをしながら、「はなえ」の由来が気になりチェックすると、この地に近江坂本の日枝大社八王子社を勧請したとき、坂本の紅染寺の銘木を社傍に移植し花木堂としたことによる、と。紅染寺は伝教大師最澄の父・三津首百枝公の住居跡とも伝わる

土山町大野
松並木が切れた道を先に進むと土山町大野。もとの大野村である。お茶の産地を詠う漢詩の碑などを見やりながら、茶畑の広がる道筋を進む。野洲川沿いに広がる茶畑で生産するお茶は、滋賀県でも有数の生産量を誇る、とか。江戸の頃は東海道を往来する旅人の評判にもなり、明治には海外への輸出も盛んであったようである。
歩を進め、「明治天皇聖蹟」の大きな石碑や「旅籠 小幡屋」の石柱を眺め更に進む。造り酒屋であったのだろうか、大きな酒樽のモニュメントを見やりながら進むと国道1号に合流する。

国道1号・大野西交差点_午前9時59分
歩道橋が架かる国道を横断すると、旧東海道は国道1号の北を国道に沿って進む。歩道橋の辺りを、少し北に寄り道すれば杉の巨木で名高い若王寺があったようだが、訪れることもなく、これも後の祭りである。

農家と民家の混在した旧徳原村の集落を歩く。麦畑であろうか、田園風景を眺めながら歩を進めると、国道との合流の手前に、今宿と刻まれた石碑と常夜燈が建てられ、旧今宿村の名を留める。結構長かった土山町も此の辺りで終了し、この先は水口町となる。

水口町今郷・今在家一里塚_午前10時37分
横断歩道を渡ると甲賀市水口町。バイパスとして進む国道1号を離れ、旧国道1号である県道549号を少し進むと、すぐに県道から分岐する道がある。旧東海道であるこの分岐道に入り、緩やかな坂から信楽の山地、そして水口丘陵の眺めを楽しむ。
400mほど歩くと「今在家一里塚」に。それらしき姿に復元されている。裏手に浄土寺というお寺さまがあった。今在家は昔の今在家村から。現在は水口町今郷となっている。

県道549号・新岩上橋北交差点_午前10時51分
一里塚で少し休憩し、先に進む。旧東海道はほどなく県道549に合流するが、すぐに県道から離れ集落を進む。古い家並みを眺めながら先に進むと県道125号と交差。その先に続く道筋はあったのだが、我々は浄土寺の先で県道に下り、県道549号・新岩上橋北交差点に。県道脇に、「重要文化財八坂神社本殿」と刻まれた石柱があった。橋の廻りにはそれらしき社が見つからなかったため、パスしたのだが、「重要文化財」といったキーワードが気になっていたので、チェックする。

八坂神社は、野洲川を渡った水口町嵯峨のゴルフ場の手前、距離にして1キロ程度のところにある。江戸の頃は牛頭天王社とも儀峨大宮とも称され、境内にある小祠「川枯神社」を延喜式内社「川枯社」と比定する説もある古き社であった。川枯って、結構気になる名前であり、チェックすると、この辺りに蟠踞した物部氏の流れをくむ大水口宿禰命の祖母、淡海川枯姫(あはみのかはかれひめ)に関係する、との説がある。

ついでのことながら、江戸の頃まで牛頭天王が明治になって八坂神社となった例は散歩の折々に、よく出合う。神仏習合において、スサノオ=祇園精舎の守護神である牛頭天王、とみなされ、スサノオを祀る神社はその昔、(牛頭)天王さまと呼ばれたことが多い。
その牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。
八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。

岩神社_午前11時15分
県道549号を少し進み、岩上橋を越えると旧東海道は県道より分岐する。分岐してほどなく岩神社、岩上不動尊参道の石碑があった。参道らしき石段は紅葉も未だ残り、いい雰囲気でもあり、ちょっと寄り道。
参道脇にあった案内によれば、「岩神のいわれ ;かってこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られていました。寛政九年(1797)に刊行された「伊勢参宮名所図会」には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子供が生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣のあったことを記しています」、とあった。

参道を上りささやかな祠にお参りし、景勝故か展望台らしき場所があり、そこからの眺めをしばし楽しむ。というものの、野洲川に突き出た岩山は樹木で覆われ巨岩・奇岩は見えなかった。

古城山(こじょうさん)・大岡山城跡
道の南に永福寺を見やり、先に進む。次の角を右に折れたところに八幡神社があり、馬頭観音を本尊とする観音堂は水口宿の旅籠などから奉納された多くの絵馬が残る、と言う。ここも訪れることもなく、後の祭りではある。
更に進むと道は左右、二又に分かれる。右の「旧東海道」の矢印に従い歩を進めると「東海道の松並木」の石碑があった。案内によると、「東海道の松並木 :江戸時代、東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行いました。並木は風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒したのです。
街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録があるほどでしたが、先の大戦を境にして、その多くが失われました。水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われます」、とある。

松並木の説明はさることながら、案内にあるように、眼前に陣笠のような姿の古城山こと岡山城跡が見えてくる。古城山は水口宿の北東に接する標高283mの独立山。大岡山とも呼ばれていた。
この山に天正1年(1585年)、秀吉の命で、中村一氏が水口城を築城、その後五奉行の長束正家が城主となった。しかし関ヶ原の戦い(1600年)に長束正家が西軍についたため自刃、城も攻め落とされ廃城となる。誠に短い城の歴史ではあるが、城下町として整備され、その後の水口の発展の礎を築いた、と。

今回の散歩の楽しみのひとつが、島津主従の撤退戦での集結地である、西軍・長束正家の居城のある水口を見ることであった。実際に歩いてみて、伊賀・甲賀、西近江・東近江、そして伊勢への往還がこの地でクロスすること。また、この地は、水口の名の通り、鈴鹿・甲賀の山系にその源を発する野洲川、伊賀の山系からの杣川の合流する舟運の湊口=水口でもある。
水運・陸運の交通の要衝であるこの地は、撤退戦の途中で四散した島津主従が終結する場としては誠に都合のいい場所ではあったのだろう。島津主従が。この岡山を目指して撤退戦を繰り広げた姿に想いをはせる。

東見付け_午前11時41分
田圃と民家の借景ともなっている古城山・大岡山を眺めながら国道307号・秋葉北交差点を越え、ささやかな川を渡ると、水口宿の東端である東見付けに到着する。見付けには冠木門が建ち、そこには「東海道水口宿」と書いてあった。冠木門の後ろには大岡山が聳え、なかなかいい雰囲気である。
案内をメモ;「東見付(江戸口)跡 :見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長10年(1(1605)以降のことである。



特に天和2年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716~36)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった」、と。

地図を見るに、東見付けのすぐ近くに秋葉神社がある。江戸の頃、三度の大火に遭った水口宿は、明和7年(1770)、この火除けの神を遠州秋葉山よりこの地に勧請したのだろう。

水口町元町・水口宿本陣跡
街道は見付けでクランク状に曲がり、南へと向かう。城下町によく見られる防御のための鉤型の道筋跡ではあろう。水口町秋葉を超え元町交差点で国道307を渡り、水口町元町に入る。
道の両側には古い家並みが続く。先を進むと道の左に竹垣で囲まれた一角がある。そこが水口宿の本陣跡。中に入っていくと明治天皇聖蹟碑もあった。本陣跡碑の案内によると、「本陣は鵜飼伝左衛門氏が代々本陣職を勤めたこと、明治二年に明治天皇が宿泊されたのを最後にその歴史を閉じ、撤去された」といったことが書かれていた。

高札場跡_午前11時47分
本陣跡のすぐ先で道は左右に分かれる。そこに高札場跡。幕府の法度・掟書きなどを書記した板書きである高札場は、正徳元年(1711)に設けられた。明治に撤去されるが、近年まで「札の辻」とも呼ばれていた。
東海道筋は左の道。先を進むと更に道は二筋に分かれる。東海道は右側。結局、三つの平行する道筋の真ん中が旧東海道筋である。この三つの道筋は、先に進み1カ所で合流し、紡錘型の街並みを形成する。水口が「三筋の町」と呼ばれる所以である。三筋の町の成立は、大岡山の南に城下町が造られたときの町屋筋の名残であろうか、と思う。




道筋には曳山の収納庫がある。案内板によると、「曳山蔵 ;水口の曳山は享保二十年(1735)に九基の曳山が巡行し、その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれている。当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾り付けて巡行し、巡行後は組上がったまま、各町内に建てられている「山蔵」に収納されている」、と。収納庫のことは「山蔵」と呼ぶようである。

問屋場跡
道を進み、水口町京町に入った角に「問屋場跡」の案内。「問屋場跡 :問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました」とあった。

からくり時計
道なりに進むと「曳山のからくり時計」。さらに進み、三筋の道が合流するところにも「からくり時計」のモニュメントがあった。からくりの下部には銅板に広重の「東海道五十三次之内 水口」の図。傍らは水口宿の案内があった。
案内によると、「宿場町の水口 :天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し 「命二つのなかに生たる桜かな」 の句を残しています。
庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引きで賑わいました。宿場名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました」、と。
水口とからくり時計って、なんらかの深い因縁でもあるのかとおもったのだが、特段の関係はないようである。

江鉄道と交差_午前12時6分

三筋の合流地点のすぐ先に石橋が残る。ささやかな水路に架った橋で、水口石橋と呼ばれる。石橋を渡ると近江鉄道の踏切があり、すぐ近くに近江鉄道水口石橋駅がある。踏切を越え、山蔵を見ながら先に進むと宿場観光客の休憩所を兼ねた水口中部コミュニティセンターがある。山車の展示もしている、とのことだが当日はお休みであり、見学はできなかった。

旧東海道の道筋
コミュニティセンターで少し休んだ後、我々は道を真っ直ぐ進み、一路お城へと向かったのだが、東海道はこの先、城下町ならではのクランク状の道筋となる。
ルートは、少し進み水口町城東、湖東信用金庫の辺りで北に折れ、突き当たりを左折、水口町城内で左折、更に水口石とも力石とも呼ばれる石と百間長屋跡の間を右折し水口町東林口の五十鈴神社へと向かう、といったもの。
水口町城東の左折点は往昔の水口城天王口。コの字形にお城を迂回するといった道筋ではあろう。水口石は歌川国芳の描く錦絵「大力の大井子」より。水争いで、大力女が使った大石に由来する、とか。

水口城址_午前12時44分
水堀に囲まれた水口城址に。紅葉の美しい橋を渡る。ここはもとの本丸の一部であった出丸跡。本丸跡は現在、水口高等学校のグランドになっている。城址に入ると二層の模擬櫓があり、現在は資料館となっていた。ここは、もとは平屋の建物があったところで、実際に櫓があったわけではないようである。
資料館に入り、休憩をとりながら水口城の歴史をビデオや資料でちょっと勉強。それによると、関ヶ原合戦後、大岡山にあった西軍・長束氏の居城は廃城となり、徳川氏の直轄地となったこの地は、東海道の宿場として整備される。
その後、三代将軍家光の時、京都への上洛に際し、その宿館として城郭の普請がはじまった。作事奉行は庭園造りで名高い小堀遠州がその任にあたる。工事は幕府の直轄普請で3年の年月と延べ10万名の人員を必要とした。完成した本丸は京の二条城風の数寄を凝らした御殿であった、とか。
家光上洛の後は将軍宿館として使われることもなく、城番の管理する番城となっていたが、天和2年(1682)、加藤氏が石見の国から2万石で入城し、水口藩が誕生。その後、一時、鳥居氏が入城したが、これも一代限りで、加藤氏が2万5千石で再入府し、その後明治維新まで加藤氏の治世が続いた、と。この間、家光公の泊まった本丸御殿は、畏れ多しと、一度として使われたことはなく、城主は二の丸に建てた御殿、藩庁を使用していた、とのことである。

近江鉄道水口城南駅
水口宿では行基開基と伝わる大岡寺や、水口を拓いた大水口宿禰命を祀る水口神社など足を運びたい所もあるのだが、本日中に帰京の段取りでもあり、そうそうゆっくり見て廻る気持ちの余裕もない。ということで、城址を離れ、南へと坂を下り近江鉄道水口城南駅へと向かい、貴生川駅で草津線に乗り換え、草津で東海道線を京都まで戻り、新幹線で一路東京へと向かい、2泊3日の鈴鹿峠越えを終了する。

それから、今回初めて実地に使ったSONY のGPS専用端末NAV-U37のパフォーマンスではあるが、GPSの位置確認の精度は満足すべきレベルであった。また、NAV-U37でとった軌跡ログデータのカシミール3Dのプロットも問題なくできた。それと、事前にカシミール3Dで作成したルートをNAV-U37にインストールするもの、国土地理院の2万5千分の一の地図をインストールするのも、問題なくできた。途中登録した地点(マーク)はnav-u 本体とパソコンとのデータの交換・編集などをするnav-uツールをダウンロートし、マークをPCにインポート。データはXMLファイルで保存されているので、フリーソフトnvConverterを使い、XMLをGPSに変換しカシミール3Dに取り込むことができた。ちょっと残念なのはバッテリーの持ち時間は、地図の切り替えや、あれこれの機能を使うと5時間強といったところ。1日歩く場合など、予備のバッテリーが必要となる。1日の山行の場合など、今後は、軌跡ログやポイントの登録は今まで通りGarminのGPS専用端末を遣い、地図での現在位置の確認といった使い方をするのが現実的ではないかと思う。


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