七生丘陵散歩 そのⅠ;高幡不動から平山城址を経て永林寺へ

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晩秋というか、初冬と言おうか、12月初旬のとある週末、会社の仲間と高幡不動に向かった。紅葉見物と洒落てみた。高幡不動は何度か訪れたことがある。地形フリークとしては裏に控える丘陵(七生丘陵の一部)が気になってはいたのだが、時間切れで、いつも寺域のみ。紅葉もさることながら、今回は高幡不動をスタート地点に、その裏に続く丘陵歩きを楽しむことにした。大まかなコースは高幡不動から丘陵に上り尾根道へ。尾根道の散策路・かたらいの路を辿り平山城址に向かう。その後はなりゆきで進み、最後の目標は野猿街道を南に下った永林寺へ、といったもの。紅葉と丘陵、古刹と中世の城址、といった結構変化に富んだお散歩を楽しむことにする。




本日のコース;京王線・高幡不動駅>高幡不動>高幡城址>かたらいの路>都道155号線>京王線。・平山城趾駅>季重神社>平山城址公園>南陽台交差点>野猿街道>永林寺

京王線・高幡不動駅
家を出て仲間と3名で高幡不動駅に。駅から高幡不動への参道は人で賑わっていた。紅葉見物なのだろう。境内手前には結構大きな道が走る。北野街道(都道173号線)かと思っていたのだが、その北野街道は八王子の北野町から始まり浅川に沿って進み、高幡不動の少し西にある高旛橋南交差点でお終い。高幡橋南交差点から東は川崎街道となっている。お不動さんの前の道は川崎街道、ということだ。JR日野駅の少し東、日野市本町で都道256号線から分かれた川崎街道こと都道41号線は、高幡橋を渡り高橋橋南交差点へと下る。交差点からは、ここ高幡不動駅前をかすめ、稲城市大丸へと続き都道41号線はそこで終わる。川崎街道はそこから都道9号線となり南にくだる。

高幡不動
仁王門をくぐり久しぶりの高幡不動へ。室町の作とも伝えられる仁王様を拝し境内へ。高幡不動って、こんなに大きな構えだったのかと改めてその寺域を見やる。真言宗智山派の別格本山。開基は大宝年間(701年)以前とも、奈良時代に行基菩薩によるもの、とも伝えられる。行基にまつわる縁起は縁起としておくとしても、成田山(千葉県)、大山(神奈川県)と共に関東三大不動のひとつ。関東屈指の古刹である。
不動堂は平安初期、清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が山中にお堂を建てたのがはじまり。不動明王を安置し関東鎮護の霊場とした。慈覚大師円仁って、第三代天台座主。最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
円仁さんが開いたというお寺は関東だけで200強ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう。高幡不動は、開基縁起の人気者である行基も円仁も登場する。はて、その真偽のほどは。
それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。

鎌倉、室町時代に入ると高幡不動は有力武将や鎌倉公方・関東管領・上杉氏等有力武将の信仰を得る。『鎌倉大草紙』には不動尊に篤き信仰心をもつ平山城址ゆかりの源氏武士・平山季重が頂に御堂を建立した、とある。このお不動さんは「汗かき不動」と呼ばれる。戦乱の度毎に不動明王が全身に汗を流されて不思議なできごとを起こしたため、と言う。『鎌倉大草紙』にはその由来らしき記述がある。「天下風水疫病等の諸災あらんとする時は、仏体汗を生じたもうなり」、と。不動ではないが、「汗かき観音」の由来話が、西国札所12番の岩間寺に残る。この寺の千手観音は、毎晩、厨子を抜け出して、苦しむ衆生を救済し、寺に戻られた時には汗びっしょりになられていた、とか。高旛のお不動さまも、衆生済度に汗を流した、と言うことだろう、か。
紅葉を眺め境内を歩く。不動堂を越え、露天の並ぶ参道を山門に向かい、境内の奥にある大日堂へ。お堂の前の紅葉が見事。先週、紅葉を求めて秩父の長瀞まで向かったのだが、高幡不動で十分であった、よう。道を五重塔へと戻る。途中にお鼻井戸。建武2年大嵐のため、山頂の御堂が倒れ、本尊の頭が落ちた所。そこに泉が湧き出た。発熱、腫れもの、眼疾に効能あり、と。ちなみにこの御堂は先にメモした平山季重が寄進したものと、伝えられる。
五重塔脇を抜け弁天池まで戻る。境内をぐるっと一周、というところ。途中に丘陵へと続く「かたらいの路」。丘陵歩きは後ほど、ということで先に進むと近藤勇・土方歳三のことを称えた「殉節両雄の碑」があった。土方歳三の実家は高幡不動の少し東、浅川に架かる新井橋を渡った先にある。篆額の筆者は元会津藩主松平容保、撰文は元仙台藩の儒者大槻磐渓、書は近藤・土方の良き理解者であった元幕府典医頭の松本良順。
松本良順はすこぶる魅力的な人物。安政4年、幕命により長崎遊学し、オランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学ぶ。日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力。江戸にて西洋医学所の頭取となる。幕医として近藤勇と親交。戊辰戦争時は、会津若松に入り、藩校・日新館に診療所を開設し、戦傷者の治療にあたる。 幕府方として働いたため投獄。のちに兵部省に出仕し、明治の元勲のひとり山県有朋の懇請により陸軍軍医部を設立。初代軍医総監。貴族院議員。男爵。

ぐるっと巡った高幡不動、正式には高幡山明王院金剛寺。名前の由来は、西党のひとつ高幡氏からだろう、か。鎌倉から戦国期にかけて、高幡高麗氏の一族が高幡不動あたりの浅川流域を支配していた、と。戦国時代の末、この地に北条家の家臣・高幡十右衛門の館があった、との記録もある。『武蔵名所図会』に「同村金剛寺より南よりの山の中腹に馬場跡などあり。八王子城主氏照の家臣に高幡十右衛門という人の居地なり。この人は八王子城に籠もりて、落城の砌に討死せり」と。
もう少し時代を遡ると、『鎌倉大草紙』に、享徳の乱のとき、足利成氏と分倍河原での合戦で敗れた上杉憲顕は「高幡寺」で自刃した、とある。その頃既に「高幡」という言葉は使われていたのだろう。実際境内には上杉憲顕をまつる祠もあったし、それはそれで理屈は通っているのだが、よくよく考えると、高幡不動って、戦国期よりもっと、すっと歴史が古い、はず。戦国期以前はどのように呼ばれていたのだろう、とチェック。元々は「元木の不動尊」と呼ばれていた、と。由来はよくわからない。オーソドックスに地名由来からなのか、それとも、「元の木」から幾つかの仏像を造った、といった縁起であろう、か。実際、大田区の安泰寺の本尊である元木不動には、慈覚大師が一木を以って三体の不動尊をつくった、といった縁起がある。

高幡城址
かたらいの路を丘陵へと進む。不動ケ岡とも愛宕山とも呼ばれている。少し上ったあたりで「山内八十八ケ所入り口」の案内。四国八十八ケ所霊場のうつし札所。裏山一帯に渡って広がっており、少々時間がかかりそう。今回はパス。成り行きで頂を目指す。標高130m、麓との比高差50mといったところ、である。
頂上近く、石垣が組まれた手前に高幡城址の案内。石段を上ると開けた場所となっている。案内には本丸址とあるが、南北に延びる尾根の一画といった程度。本丸址のその先、一段下ったところにも開けた場所があり、それは郭址とも伝えられるが、それとてもささやかなスペースである。お城と言うよりは物見の城砦といったもののように思える。
高幡城の詳しいことはほとんどわかっていない。鎌倉公方と関東管領上杉氏との抗争時、また関東管領である山内上杉と扇谷上杉の抗争時、この近辺で幾多の合戦が行われてはいるものの、高幡城の名は登場しない。上でメモした享徳の乱・分倍河原での合戦でも、上杉憲顕が「高幡寺」で自刃との記録が残るが、高幡城がそこに登場することはない。
高幡城が記録に登場するのは、小田原北条の頃になってから。上でメモした高幡十右衛門しかり。また、天正8年(1580年)の北条氏照印判状に、「高幡之郷平山大学助知行分」とある。平山氏が北条の家臣としてこの地を守っていたのだろう。小田原北条と言えば、その築城技術で知られるが、この高幡城に本格的縄張りが行われたことはなかった、よう。
交通の要衝、渡河地点を抑える城として高幡城は、北の滝山城への中継基地として北条の滅亡時までは存続したようだ。とはいうものの、武田信玄の滝山城攻め、秀吉の小田原攻めの時も、この城は素通りしている。どれほどのこともない、城砦ではあったのだろう。

南平・鹿島台団地
城址を離れ、次の目的地である平山城址へと向かう。道案内に「多摩動物園方面」のサイン。平山城址へと続く「かたらいの路」は多摩動物園の北端を通っている。方向としてはこれだろう、と先に進む。尾根道が先に続く。右手は高幡不動境内から続く谷戸が切り込んでいる。左手下には三沢地区の住宅街が見える。紅葉を楽しみながら緑深い尾根道を進むとほどなく住宅街に出る。
瀟洒な趣の住宅街を進む。南平・鹿島台団地だろう。ところどころに「かたらいの路」の案内がある。塀にペンキで、といった大胆なものもあった。このあたりは丘陵一面が宅地開発されている。丘陵の名残はまったく、ない。別の機会に、谷を隔てた程久保の丘陵から、この高幡の丘陵を眺めたとこがある。耕して天に至る、ならぬ、建て並べ天に至る、といった立錐の余地なき住宅街が広がっていた。

かたらいの路
住宅の向こうに緑の森が見える。多摩動物園の森であろう。多摩動物園の北端らしき緑を目安に道なりに進む。京王バス・鹿島台バス停の少し先、南平東地区センターの横に石段がある。かたらいの路は、ここから雑木林の中を進む山道に入る。路の左手は動物園。場所から見て、チンパンジー園のあたりだろう。動物園の外周フェンスに沿って路は続く。右へ左へアップダウンの道は続く。ほどなく森の中に円筒形のタンク。給水塔のように見える。タンクの周囲は少し開かれている。「みはらし公園」と呼ばれている。
公園の先は下り坂。くねった坂を下ると道は平たんになり、林が途切れる。眼下の眺めが素晴らしい。うねる流れは浅川だろう。日野や八王子が一望のもと。道はほどなく住宅街に下りる。新南平台団地の住宅街。少し右に戻ったところに水鳥救護研究センター、日本野鳥の会・鳥と緑の研究センターなどがある。
住宅街の道はおよそ100m程度で終わる。かたらいの路は崖路に沿って左に折れ、再び雑木林へと入ってゆく。右手に見える緑は南平丘陵公園。雑木林の中を進む。左手は多摩動物園のオランウータン園のあたり。ゴリラの檻などが裏から見える。道を進み、南平丘陵公園への分岐をやり過ごし、先に進む。フェンス越しに動物園内の通路と最接近。園内の家族連れとフェンスを隔てて平行に歩く、といった感じ。互いに気になる距離感ではある。
坂を少しくだる。高圧線の鉄塔を越えると動物園の裏門がある切り通しに出る。多摩動物園に隣接する七生公園南平地区を繋いでいる道、かも。ここまでくれば山中の散策路はほぼお終い。路は七生公園南平地区を通り里に下り、都道155号線の元の多摩テック入口付近に出る。かたらいの路はこのあたりが終点のようだ。

都道155号線
多摩テックの入口は少し東。子どもが小さいときはよく来たものである。が、2009年9月30日をもって48年の歴史に幕を閉じた。都道155号線を西に平山城址公園に向かう。道を進むと同行の士が「お昼は」とノタマウ。一旦歩き始めれば休むことなく、ひたすらに歩くだけが散歩の身上、とは思うのだが、なにせ貸し借りありの身過ぎ・世過ぎの身とすれば、致し方なし。「食」を求めて平山城址公園駅へと向かう。
都道155号線・町田平山八王子線は町田からはじまり、小山田の里を経て尾根道幹線に上り、京王堀之内脇を北に進む。大栗川を越え野猿街道の先で二手に分かれ、ひとつはバイパスとして直進し京王線・平山城址公園駅に進む。もうひと手は多摩テック入口交差点へと上り、交差点で西に向かい平山城址公園駅点前の奥山橋交差点でバイパスと合流する。道は北に上りJR豊田駅の西をかすめ、JR八高線・北八王子の東で国道20号線に合流する。
この都道は以前鶴見川源流の泉を歩いたときに出会った。その小山田の地では都道というよりも農道。車が交差するには難儀するような道であった。しかも、尾根道幹線あたりでは道はなくなっている。御嶽山の単なる尾根道・関東ふれあいの道が都道184号線といったことに比べればどうということはないのかもしれないが、それにしても途中に道がなく都道もあるもんだ、と少々の意外感が心に残る。

京王線・平山城址公園駅
住宅街を下り奥山橋交差点に。バイパスと合流した都道155号線を進み、北野街道・都道173号線を西に折れ平山城址公園駅交差点に。北に折れ駅前に。なにか食事処は、と探す。が、つつましやかなる駅前にはそれらしき賑わいは、ない。駅前のパン屋さんでパンを買い求め、さてどこかに座って食事でも、と思って北野街道に戻ると、あれあれ、少し先に蕎麦屋の幟。パンはおやつにと思い込み、即暖簾をくぐる。

平山季重
お蕎麦屋さんに行く途中、駅から北野街道に出る少し手前に「平山季重ふれあい館」があった。このあたりに源氏武者である平山季重の館があったとの説がある。季重は、武蔵七党のひとつ西党・日奉(ひまつり)氏の一族。源義朝に従い、平治の乱(1159)の折、圧倒的多勢の平重盛の軍勢に少人数で戦いを仕掛ける。義経のもとで戦った宇治川合戦では木曾義仲の軍勢に先陣を切って斬り込む。一の谷の合戦では逆落しに駆け降り平家を破る。頼朝・義経兄弟の対立後は頼朝に従い、奥州平泉の義経征伐に加わる。その後も幕府の元老として活躍。実朝将軍就任の儀式には鳴弦の儀の大役を務めている。
季重の後の平山氏はしばらく歴史の記録から消える。北条一門による鎌倉幕府草創期からの戦武者粛正の嵐を避けようとしたのだろう、か。時をへて平山氏が登場するのは小田原北条氏の家臣として。室町期滝山城主でもあった大石氏の配下であったようだが、大石氏が北条に下った後は、同じく北条の家臣となる。高幡城のメモで北条の家臣として平山氏が築いた物見城砦としたが、正確には大石氏の家臣であった、ということ、か。秋川筋の檜原城にて甲斐の武田に備えたのも平山の一党。平山氏の出自である西党・日奉氏は平山・小川・由井・川口氏といったその支族を多摩川・浅川・秋川の流域に広げていたわけであるから、檜原に拠点を持っても不思議ではない。
ちなみに日奉氏ってその祖が武蔵守として下向。任期を終えた後も都に帰ることなく、この地に留まり、小川の牧、由井の牧を支配し勢力をのばす。日奉氏が西党と呼ばれる所以は、日野とか八王子といった西党の支族の活躍した場所が、国府のあった国分寺の西であったため、とか、日奉を音読(「にし」)したものである、とか、あれこれ。お蕎麦休憩も終え、再び散歩に出かける。

七生丘陵散策路
次の目的地は季重神社。丘陵の尾根にある。季重神社には以前訪れたことがある。そのときは駅の正面に見える平山丘陵中腹にある宗印寺におまいりし、寺の西脇から丘陵を上った。宗印寺は平山季重がねむる。もともとは、平山城址公園駅前の大福寺にあったようだが、大福寺が明治に廃寺になったときに宗印寺に移された、と。
ついでのことながら、宗印寺のはじまりは小田原北条の家臣・中山勘解由の嫡子の開基による。勘解由は秀吉による小田原北条攻めのとき落城した八王子城の家老。勘解由の奮戦・忠臣ぶりに感銘を受けた家康が、戦後その兄弟を探しだし側に置く。宗印寺はその後家光の馬術指南になった兄が開いた庵がもとになった、と。
宗印寺のあれこれはさておき、今回は別コースを通り季重神社へ進む。北野街道脇に公園への道案内。宗印寺経由がどちらかといえば平山緑地「直登ルート」といったものだが、こちらは平山緑地の丘陵を巻いて上る、といった案配。道案内には七生丘陵散策路とある。かたらいの路が消えて、少々唐突に七生丘陵散策路が現れた。チェック。高幡不動の裏や、この平山城址公園のある丘陵など、浅川の南に続く丘陵のことを七生丘陵と呼ぶ。その丘陵を東から西に歩くお散歩コースが七生丘陵散策路。コースは東と西に分かれており、東コースは百草公園のあたりから多摩動物公園あたりまでの5キロ。西コースは多摩動物公園から平山城址公園までの4キロ。次回のお散歩はこの七生丘陵散策路、とくに今回カバーできていない、百草公園からの七生丘陵散策路東コースを歩いてみたい、と思う。

季重神社
上りきったところは丘陵の景観から一転して住宅街となる。平山城址公園は住宅街の西端を南に向かって坂を上る。坂を登り切った少し東に崖を一直線に上る石段。京王研修センターとグランドの間を抜け、下から上ってきた車道を尾根に沿って西に進むと平山城址公園の入り口につく。白壁の塀があったりして城址っぽいのだが、ここにお城があったわけではない。物見程度の城砦があった、とか。平山「城址」公園としたのは京王電鉄。レジャー施設として公園を開発。どうせのことならと、物見城砦があったこの地を平山城址公園と命名。少々拡大解釈。ついでのことながら、駅名も昭和30年に平山駅から平山城址公園駅とした。
公園入り口から少し北へ進む。崖端近くに季重神社。古くは日奉明神社と呼ばれていた。日奉氏って平山氏など武蔵七党のひとつである西党の祖であるので、それはそれでいいのだが、ここに昔から神社があったわけではなさそう。ここは昔丸山と呼ばれ物見の城砦があったところ、と言う。ここに祠ができたのは昭和の頃。平山季重の館内にあった稲荷社をこの地に移した。もともと、この地にも石祠があったようで、そこに合祀し祠ができた。現在のようにこぎれいな祠となったのは平成17年、というから、それほど昔のことではない。季重神社って、いつ、だれが命名したのであろう、か。不明である。

平山城址公園
季重神社を離れる。西へと尾根道が続く。野猿の尾根道と呼ばれていた。以前、このあたりを歩いたときは野猿の尾根道を西に向かった。「行き止まり」のサインがあったのだが、なんとなく尾根道を進んでみたかった。気持ちのいい尾根道を進むと放火で焼けた民家跡のあたりで完全ブロック。その先は個人所有とのことで、厳しい立ち入り禁止サイン。さすがに歩を止めた。で、今回は尾根道を避けて尾根道の南東斜面に広がる平山城址公園を下る。比高差は30m程度。クヌギやコナラの雑木林の中を下ると湧水を集めた池など、も。道なりに進むと東京薬科大学のキャンパスに。キャンパス内の池の畔の紅葉が誠に美しい。守衛さんに挨拶し車道に出る。

南陽台交差点
東京薬科大学前交差点を西に向かう。この道は都道155線バイパスの東京薬科大学東交差点から分かれ西に向かう道。住宅街の広がる南陽台を進み南陽台交差点に。ここを北に進むと平山城址公園と長沼公園の丘陵を分ける切り通し。その先は長沼町・北野街道へ抜ける。当初の予定では、この道筋を辿り長沼公園の丘陵から尾根道を進み野猿峠に。そこから野猿街道を南東に下りて永林寺に行くつもりであった。が、如何せん時間がない。のんびりと慣れないお昼などとったためだろう、か。で、スケジュール変更。この交差点から直接永林寺に向かうことに。

野猿街道
道なりに南に下る。ほどなく野猿街道・都道160号線に。野猿(やえん)街道は八王子市の中心部と多摩市とを結ぶ道。八王子市側の起点は八王子市横山町。甲州街道・国道20号線から分かれJR中央線を越え、八王子駅南口を経て東へ進み北野に。北野から南東へと丘を登り、野猿峠を越えて下柚木に。そこで東進して多摩市一ノ宮で川崎街道に合流する。 現在では八王子市街と多摩ニュータウン方面を繋ぐルートとして交通量の多い道路だが、かつての野猿峠はかなり険しい山道であった、よう。
野猿峠の名前の由来だが、このあたりお猿でも多いのかとも思ったが、どうもそうではないようだ。「武蔵名勝図会」によれば、大石道俊(定久)がこの峠に甲を埋めて碑を建てた、とか。当時は「甲山峠」と呼ばれたようだが、その後、甲を申(さる)と書き間違え、「申山峠」と。それが、猿山峠となり、江戸の末期には何故だか知らねど、「猿丸峠」となった。で、結局、野猿峠となったのはいつの頃からなのかはっきりしない。国土地理院が正式に「野猿峠」と書くようになったのは、昭和28年から。当時、京王電鉄が峠付近をハイキングコースと整備し、「野猿峠」という名前を使い始めたともいわれるが、確証はない。

御嶽神社
野猿峠街道を下る。道脇に御嶽神社の案内。その方向を見やると、あたりは住宅街も切れ、谷戸の風情の残る落ち着いた里山が広がる。一帯は殿が谷戸と呼ばれている。畑の中の細路を上る。上りきったあたりに御嶽神社が佇む。社殿に向かって左手にスダジイ。樹齢400年。根元から幹が分かれ幹の大きさも3mほどある、という。下柚木御嶽神社のスダジイとして結構有名な、よう。スダジイって、ブナ科の常緑樹。シイの木の一種。
境内にいくつかの祠がまつられる。お稲荷さん、金比羅さん、そして猿丸さん。それぞれ宅地開発や農地開発のときに、この地に合祀されたもの、という。お稲荷さま、金比羅様はそれとして、猿丸さまはなんとなく気になる。野猿峠はその昔、猿丸山と呼ばれていたわけだから、そのこととなんらかの関係があるのだろう。

永林寺
御嶽神社から谷戸を隔てた先にこんもりとした緑が広がる。永林寺の森であろう。御嶽神社脇から畑に通じる石段があった。下りたのはいいが道はない。畑地の中を失礼し、成り行きで先に進む。道を下りきり、森の裾をぐるりと回りこみ永林寺の境内に。
寺の構えは立派。こんなに堂々としたお寺様があるとは思わなかった。寺の開基は上にメモした大石定久。大石定久って滝山城とか戸倉城とか高月城とか、散歩の折々に出会う。そう言えば、東久留米の浄牧院も大石氏ゆかりの寺であった。
所沢の久米に永源寺ってお寺がある。その寺はこの永林寺の本寺。大石氏中興の祖でもある大石信重のお墓もある。そのあたりが大石氏発祥の地との説もある。信州大石郷より出たため大石氏との説もある。木曾義仲の子孫とも称する。信重が木曽氏の出自で、この地の土豪である大石氏の女婿となった、との説からである。が、出自はいまひとつよくわからない。
ともあれ在地土豪としておこった大石氏は、室町・戦国期の争乱に関東管領上杉氏の家臣として武功をたて武蔵国の守護代をつとめるまでになる。多摩一帯が大石氏の領地となり、高月城とか滝山城などを築く。転機は川越夜戦。上杉管領方が小田原北条家により壊滅的打撃受けた後、大石氏は北条家に下る。北条氏照を女婿として滝山城に迎え入れ、定久は秋川渓谷入り口の戸倉城に隠居した、と。
で、この永林寺であるが、この寺の落慶した天文15年は、小田原北条氏が川越夜戦で上杉を打ち破り、関東全域をその支配に納めた年。この寺が立派なのは大石氏の力もさることながら、婿である氏照の援助が大きかったのだろう。落慶法要には僧千名参列したと言う。伽藍造営には氏照家人である横地監物と中山勘解由が奉行として差配した、と。そうであれば、この立派な構えも納得できる。
永林寺に大石定久がねむる。とはいうものの、定久の最後はどうもはっきりしていない。どうしても北条に屈するのを潔しとせず、背後であれこれ反北条勢力と連携。上杉謙信の小田原攻め呼応し、青梅一帯を支配する三田一揆をといった反乱勢力と結ぶ。が、その動きが露見してし、野猿峠で割腹したとか、柚木城に移されたとか、はたまた、この永林寺に押し込められたとか、諸説あり。
その由木城址。境内奥にある。ちょっとした広場に由木城址の石碑と、太田道灌そっくりのポーズをとる大石定久の像が立つ。由木城は武蔵七党のひとつ横山党に属する由木氏が築く。その後、大江広元の流れをくむ長井氏が拠る。14世紀後半、南北朝末期長井氏が片倉城に移った後、戦国期になり大石氏が館を構えた、と。城址とは言うものの、館址といったものだろう。丘陵地の谷谷間の低地には館が築かれることが多い。平山城址や高幡城址も谷戸らしき景観のところにあった。谷戸奥って湧水ポイントでもある。水を確保でき、農耕に適した谷戸は古代から中世にかけての生活の場。各谷戸に武士団が館を構えていたのだろう。

本日の散歩はこれでお終い。野猿街道に戻りバスに飛び乗り南大沢駅まで。後は一路家路へと。 歩き始めた頃、何故に高幡不動といった古刹が彼の地に建てられたのかちょっと気になった。つらつら考えるに、ちょっと離れたところに国府・国分寺がある。聖蹟桜ヶ丘のあたりには鎌倉街道が通っている。その側には武蔵一宮の小野神社もある。日野一帯は武蔵七党の一つ西党のおこった地でもある。現在から見れば東京都下ではあるが、当時の東京は芦原の湿地。このあたりが当時の武蔵の中心地であったわけ、だ。
高幡不動のお隣、七生丘陵の東端の百草園のあたりには、鎌倉幕府の祈願寺でもあった真慈悲寺があった、と言う。その地に真慈悲寺が建てられたのは小野神社のある一宮・桜ヶ丘から見て、美しい夕日の沈む地、西方浄土の地と見立てられたため、とか。高幡不動も古代の政治の中心地から見てはたして美しき夕日の沈む西方浄土の地であったのだろう、か。そのうちに多摩川端に座りその景観を確かめたいものである。 

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