杉並 善福寺川筋の窪地・水路跡散歩 Ⅲ;西荻窪の松庵川からはじめ、荻窪の旧流路・揚堀と高野ヶ谷戸の水路跡を辿る①

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先回の散歩は善福寺川筋の窪地散歩と共に、メモの過程で気になってきた善福寺川の旧流路、その流路を活用した(と思われる)揚堀を辿ることになった。堀ノ内の揚堀を進み、窪地に残る松ノ木支流、成田東支流を辿った後、成田東の善福寺川旧流路・揚堀を進み、更に成田東・成田西の善福寺川旧流路・揚堀を進んだのだが、途中で合流してきた桃園川の養水路である天保新堀用水の取水口が気になり、旧流路・揚堀が荻窪に入った辺りで天保新堀用水の水路跡に乗り換えた。

今回は歩き残した、荻窪を進む旧流路・揚堀散歩とするのだが、天保新堀用水の水路に乗り換えた地点まで、そのためだけに歩くのは少々ウザったい。なにかいいルートの組み合わせがないかと地図を眺めていると、西荻窪駅付近から下る松庵川水路跡の善福寺川合流点が、成田東・西を進んできた揚堀と天保新堀用水の分岐点のすぐ近くにある。
ということで、今回の散歩は松庵川水路跡からはじめ、先回歩き残した成田東・西から荻窪に入った善福寺川の旧流路・揚堀を歩き、更に荻窪を流れた揚堀・旧流路に合わさる高野ヶ谷戸からの支流を辿ることにした。


本日のルート:JR西荻窪駅>松庵川源流点付近>本田東公園>上流部の水路跡を探す>松庵川の水路跡が現れる>車道に出る>水路跡は消える>水路跡が現れる>高井戸第四小学校>宮前3丁目で水路跡が消える>神明道路わきに水路跡が現れる>民家の間を細路となって南に下る>車道の先にも水路跡が続く>通行禁止の看板>水路跡が消える>慈光寺境内に水路跡>慈光駐車場で水路跡が消える>不可解な地形>神明通りへ>民家敷地に水路跡>環八とクロス>柳窪公園>水路跡が現れる>旧環八に沿って民家の間を北に>コンクリート蓋の暗渠が現れる>暗渠はふたつに分かれる>善福寺川との合流箇所①>分岐点から下流への暗渠を辿る>水路跡が消える>松渓橋から西田端橋へ>善福寺川との合流点②

JR西荻窪駅
松庵川の源流点の最寄り駅である西荻窪駅に向かう。大正11年(1922)開業の駅である。当時の井荻村の村長である内田秀五郎が私財を擲ち、誘致活動を行った、とのこと。氏は井荻土地区画整理事業で知られるが、西荻窪駅だけでなく、西武新宿線(当時の西武村山線)の上井草・井荻・下井草各駅の開設、電灯の敷設置(大正10年;1921)、井荻水道の完成(昭和7年;1932)など、地域住民の住環境整備に尽力した。
いつだったか、善福寺池を訪れ池畔にある浄水所取水井近くで氏の銅像を見たことがある。そのときは、それほどの人物といったことも知らず、軽く眺め通り過ぎてしまっただけであった。



井荻土地地区区画事業
井荻村(現在の井草、下井草、上井草、清水、今川、桃井、善福寺、荻窪(一部)、上荻、西荻北、西荻南(一部)、南荻窪にほぼ相当する)一帯の整然とした区画され、落ち着いた街並みは、大正14年(1925)から昭和10年(1935)にかけて実施された区画整理事業の賜物である。井荻村に隣接した高円寺や野方の入り組んだ街並みと比べて、その差は歴然としている。
事業策定のきっかけは大正12年(1923)の関東大震災。壊滅した都心を離れ東京西郊に宅地を求める状況に、無秩序な宅地開発を防止すべく区画整理事業を立案した。
工区は全8工区:中央沿いのA地区(1,2,7,8)と西武沿線のB地区3,4,5,6区からなり、それまで整備された道もなく雨が降れば往来にも苦労した一帯は、碁盤目状に道が整備され、現在の閑静な住宅街の礎が築かれた。

松庵川源流点付近
松庵川の源流点に向かって西荻窪駅から西に向かう。源流点は吉祥女子校辺りの「松庵窪」と言う。カシミール3Dで作成した数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図で事前に確認すると、善福寺川から切れ込んだ窪地は蛇行しながら西荻窪駅辺りまで切れ上がり、西荻窪駅の西で中央線の南北を囲み、松庵3丁目と吉祥寺南町5丁目の境辺りで中央線の北、現在の吉祥寺東町4丁目を囲むように形成されている(注;数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図と同様の地形図がWEB(「Tokyo Terrain 東京地形図」)公開されており、kmlファイルをダウンロードすれば地形陰影段彩がマッピングされたGoogle Earthで閲覧できる)。

源流点はこの吉祥寺東町4丁目辺りであろうとチェックすると、松庵川は自然河川ではなかったようであり、源流点という言葉も適切かどうか、といた「川」であった。『杉並の川と橋』によれば、松庵川はこの窪地・松庵窪に集まる吉祥寺方面からの下水・悪水と、甲武鉄道敷設工事にともなう工事用土採掘後の湧水を処理する水路とのことである。水路は大正後期に開削されたようだが、昭和初期には宅地開発の影響ですでに下水路となっていた、と言う。
それはそれでいいのだが、それにしては松庵川筋の窪地は結構大きく長い。ちょっと昔は下水・悪水処理の水路ではあったのだろうが、標高点は井之頭池や善福寺池、妙法寺池、石神井川の水源地といった、東京の川の源流となった湧水点と同じ標高50m辺りである。はるか昔には豊かな湧水が湧きし今に残る窪地を形成したのであろうか。
松庵
松庵とは趣のある地名である。由来をチェックすると、江戸の頃、荻野松庵が拓いた松庵新田に拠る、とのことであった。
男窪・女窪
上に、「甲武鉄道敷設工事にともなう工事用土採掘後の湧水を処理する水路」とメモしたが、この鉄道敷設用土砂採取跡は中央線の北に女窪、南に男窪があり、男窪からの流れが松庵川の本流水路といった記述が『杉並の川と橋:杉並区立郷土博物館』ある。しかしながら。地図が少々大雑把であり、また、同書の男窪の位置が地形図の松庵窪と大きくはずれているので、参考にするのは止めにした。

本田東公園
自然河川ではない以上、源流点探しは無意味と止めにし、吉祥寺女子校辺りを彷徨い、窪地らしき雰囲気を感じることにする。何となく窪地といった感じもするのだが、いまひとつはっきりとした「窪地」の実感はない。
水路に関する何らかの痕跡はないものかと辺りを見回しながら歩いていると、吉祥寺東町4丁目と西荻北3丁目の境、中央線と接するところに公園があった。今までの街歩きからの経験で、公園は元行政の敷地跡のことも多い。ちょっと気になりチェックすると、この公園には昔、下水処理のポンプ場があった、とのこと。大正末期より宅地開発された吉祥寺地区から松庵窪に流れ込む下水を処理する施設であった、と言う。
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
吉祥寺の南、玉川上水が走る尾根道が神田川と善福寺川の分水界である。ために、吉祥寺近辺からの生活廃水は自然とこの松庵窪に集まることになる。しかし、松庵川下水路の規模では西荻窪近辺の下水処理で手一杯であり、しかも行政区の異なる吉祥寺の下水を、松庵川>善福寺川に流すのも筋違いと、この地に下水処理場を設け、神田川に送水していたと言う(『杉並の川と橋』)。 下水処理場は昭和27年(1952)に建設が開始され、完成したのは昭和35年(1960)。その後昭和44年(1969)に下水処理網として善福寺幹線が完成したため、昭和45年(1970)には下水ポンプ場が休止になり、その跡地は「下水ポンプ場公園」となった。現在は合流式下水改善施設(大雨時に一時的に下水を貯める施設)を兼ねた本田東公園となっている。
なお、本田東の由来は、この辺りの昔の小字に「本田北」とか「本田南」といった地名があったようであるので、地名故のものだろう。

上流部の水路跡を探す
数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図で見ると、窪地は本田東公園から中央線の南北を囲み、西荻窪駅近くまで東西に延び、駅手前から中央線の南を南東に向かって続く。西荻窪駅の南側を上る坂があるが、そこが窪地と台地の境ではあろう。
その中央線沿いの緩やかな坂を上り切った辺りと、その手前に南に下る二筋の坂道に古い趣の橋の欄干が残る。坂道の両側は民家が立ち並び水路跡の痕跡を見つけることはできないが、松庵窪から下った水路は、この坂道の下あたりを進んだのだろうか。

松庵川の水路跡が現れる
道を西荻窪駅方向に向かい、中央線高架下を通る道路から、少し東を南に進む坂を下り水路跡を探す。と、橋の欄干といった石柱が残る坂を下りきったところに、東に延びる、如何にも水路跡といった細路が見えた。
それはそれで嬉しいのだが、それでは坂にあった橋の欄干は何だったんだろう?橋の欄干下に水路があったとすれば、今出合った水路と繋がるのは欄干下で直角に曲がらなければならない。少々無理がある。
水路跡と暗渠化工事された下水路が同じルートとも限らないし、橋の欄干自体が元々の場所なのか、道路工事に際し移されたものなのかもはっきりしないわけで、疑問は抱きながらも、とりあえず、坂下で見つけた水路跡を松庵窪からの水路跡と「思い込み」、先に進むことにする。

車道に出る
狭い水路跡を進む。水路跡にはマンホールも埋められてあり、それらしき雰囲気の道となっている。直角に曲がる箇所があったが、自然河川であれば不自然ではあるが、下水路であれば、それほどの違和感はない。宅地化された民家の敷地を避けて下水路がつくられたのだろう。直角に2度ほど曲がり、車道にでる。

水路跡は消える
車道に出ると水路跡は消える。地形図を見ると窪地は南へと延びている。とりあえず道なりに南に進む。『杉並の川と橋』に下水は高井戸第四小学校前を進んだとあるので、その道筋まで水路跡は無いものかと、区画整理された道を「カクカク」と直角に折れて進む。





民家の間に細い水路跡が現れる
「カクカク」と車道を直角に折れ、西荻窪駅前からの車道の二筋東の通り、西荻窪2丁目17と16の間を南に下り西荻首2丁目11との境まで進む。 そこから東西に延びる道を西に進めば高井戸第四小学校にあたる。と、その道筋に、車道と分ける鉄柵が並ぶ。何か地中に埋まっている予感。
その鉄柵の始点に向かって東に少し進むと、西荻窪2丁目17-2辺りの民家の間に金網が張られてあり、民家の間に如何にも水路跡といった細路が北に延びている。人ひとりも通れないほどの狭い道筋である。ここで再び水路跡が登場してきた。

高井戸第四小学校
水路跡を確認し、高井戸第四小学校方向へと道を進むと、水路跡と車道の仕切り柵が道の北から南に移る箇所からコンクリート蓋の暗渠が登場する。 暗渠は高井戸第四小学校前を進む。『杉並の川と橋』には「昭和12年高井戸第四小学校建設が決められた時、「大宮前下水の汚水停滞、汚染甚だしく保健衛生上からも改修しておかないと、万一の洪水によって新設の学校が被害を受けるという事があってはいかないので、至急改修してほしい」旨の陳情が出されている」とある。
暗渠がこの改修と関係あるのかどうか不明ではあるが、松庵川が下水路であったことはこれではっきりわかる。また、松庵川は「大宮前下水」とも呼ばれていたようである。この場合の大宮は宮前3丁目にある春日神社のことだろう。

金太郎の車止め
高井戸第四小学校のある西荻南1丁目を進み、天照院あたりで宮前3丁目に入る。道の南側にあった車道との区切り柵が北に移った先で水路跡は北に折れる。入口には「金太郎の車止め」があり、そこを少し進むとすぐに右にコンクリート蓋の暗渠が続く。金太郎の車止めは、杉並区では水路跡・暗渠を示す行政の標識である。

宮前3丁目で水路跡が消える
暗渠を辿ると車道に出て水路は消える。水路跡の消えた先には新築のマンション(関根マンション)があり、水路跡のラインに沿って通り抜けができるため、何か痕跡でもないものかと進むが、何もなく、一筋先の車道に出る。 消えた水路跡のその先を想うに、『杉並の川と橋』には、誠に大雑把ではあるが、水路跡は「新田街道」へと向かっている。とりあえず成り行きで新田街道、現在の「神明通り」へと北にに向かう。

神明道路わきに水路跡が現れる
宮前通3丁目と南荻窪2丁目の境を下る神明通りを進み、杉並宮前3郵便局を越えると、道脇の山手ハリスト正教会の辺りからコンクリート蓋の暗渠が現れる。一安心。
新田街道
現在の神明通り。新田街道とも北街道とも呼ばれたようだ。由来はこのあたりの地名であった「大宮前新田村」より。その大宮前新田の由来は、江戸の頃、17世紀の中頃、関村(現在の練馬区関)名主であった井口八郎衛門が、幕府用達の茅狩場であったこの辺り一帯を、五日市街道に沿って開墾をはじめ新田を開発した。その完成を記念して建立したのが五日市街道沿いにある春日神社である。
神明通り
新田街道が神明通りとなった由来は?南荻窪2丁目には神明天祖神社とか神明中学に「神明」が残るのだが、地名に神明は見当たらない。チェックすると、神明町は昭和9年(1934)に成立し、昭和44年(1969)に廃止された町名であった。成立前は杉並区上荻窪町、廃止後は南荻窪2町目・4丁目になった、とある。天祖神明神社に由来する神明町故の命名だろうか。
南街道
新田街道・神明通りは北街道とも呼ばれた、とのこと。であれば南街道もあるだろう、ということでチェック。京王井の頭線・久我山駅の北から、三鷹台の立教女学院の裏手に向けて通る道の事を指すらしい。北の松庵・宮前と南の久我山町の境を区切る。
思うに、北街道と南街道は昔の松庵村(松庵1丁目から3丁目)、大宮前新田村(宮前および西荻南1丁目および2丁目)、そして中高井戸村(松庵1丁目から3丁目)の南北の境界を区切る道のように見える。

民家の間を細路となって南に下る
コンクリート蓋暗渠を歩くと、ほどなく如何にも水路跡といった細路が民家に挟まれ南に下る。コンクリート蓋の敷き詰められた水路跡を南に進み、道なりに直角に曲がると車道に出る。





車道の先にも水路跡が続く
車道で水路跡が途切れるか、と一瞬不安がよぎる。が、車道の向かいの駐車場の北端を水路跡らしき道筋が進む。道に沿って進むと、駐車場東端で水路跡は直角に曲がり、駐車場から南も民家の間を細路となって下ってゆく。コンクリート蓋で覆われた暗渠となっている。


通行止めの看板
コンクリート蓋の暗渠は車道を一筋越えて更に南に進む。と、突然板の遮蔽物が道を塞ぐ。遮蔽板の先は車道となっている。ここまで下って突然の通行止め?あれこれ板を触ってみると、なんとか動かすことができ、先に進めた。板の表面には「通行を禁ず 宮前三丁目防災会」と書いてあった。
一筋北の車道とクロスする水路跡にでも「通行止め」の案内でもあれば歩かなかったであろうが(?)、出口にあっても、ちょっとなあ、と自分に『納得』させる。

行き止まり
「通行禁止」の案内のあった車道から南にも水路跡は続く。特に何も通行禁止の案内もないので先に進むが、道はすぐに行き止まりとなる。 この先の水路は?『杉並の川と橋』には「高井戸第四小学校の正面前を流れて(暗渠にした後、そよ風通りと命名)慈光寺裏の湿地の悪水や柳窪の悪水を集め、後の荻窪公園となった所の水も集めて善福寺川に流していた」とある。とりあえず、慈光寺を目指す。
悪水
田畑で使用した後の不要となった水や生活排水などを指す。

慈光寺境内に水路跡
水路が消えた地点の一筋東の車道を下る。なにか水路跡の痕跡はないものか、湿地があったとある慈光寺裏手に進める道はないものかと注意しながら進むが、水路跡痕跡も慈光寺に入る道もない。結局、都道7号・五日市街道に出て慈光寺に入る。
本堂にお参りし、水路跡を求めて境内を彷徨うと、コンクリート蓋の水路跡が残っていた。境内を横切るその水路跡を東に進むと、宮前中学校手前の慈光寺の駐車場に出た。水路跡は駐車場手前で消える。
慈光寺
案内には「井口山慈宏寺は日蓮宗です。寛文十三年(一六七三)に創建、開山は南大泉妙福寺の慈宏院日賢上人、開基は大宮前新田開墾の名主井口杢右衛門、檀家は新田開発に力をそそいだ人々が主体となりました。
当山安置の「荒布の祖師」について、江戸名所図会にはつぎのように書かれています。
弘長元年(一二六一)日蓮上人が伊豆の伊東に流される時、日朗上人は「是非おともに」と願いましたが許されず、鎌倉に留まり日蓮聖人の無事を日夜懇願しました。ある日、浜に荒布を巻きつけた流木を見つめて持ち帰り、日蓮聖人の影像を二体彫り上げました。
一体は座像で、目黒区の法華寺に安置され、後に堀之内妙法寺に移されました。もう一体は旅姿の立像で、当山の「荒布の祖師」です。
創建当時の伽藍は明治十一年に焼失、現在の堂宇は昭和四十七年に建立されました。釈迦如来などの仏像と「荒布の祖師」は昔のままです。
なお、当寺には明治八年高井戸学校の前身である郊西学校がおかれました。平成十一年三月 杉並区教育委員会」とあった。

慈光駐車場で水路跡が消える
消えた水路跡のその先だが、『杉並の川と橋』の略図に拠れば、水路跡はこの後、五日市街道の少し北を平行に進み、再び新田街道(現在の「神明通り」)に向かって北上している。
この記事の行間を埋めると、「五日市街道の少し北を平行に進み」と言うのは、慈光寺境内を東西に進む水路ラインではあろう。また水路は元の大宮体育館裏(2016年2月現在)は更地になっている)を進んだとも言われるが、そのラインは慈光寺境内の水路跡ラインの延長線上にあるので、消えた水路は慈光寺駐車場から宮前中学と元の大宮体育館の間を東に進んだのだろう。

不可解な地形
宮前中学と元の大宮体育館の間を進む道は無いので、五日市街道まで下り、春日神社脇を東に曲がり、一筋先の道を宮前中学の辺りまで進む。そこには大善公園があるのだが、中学校の敷地と結構な段差となっている。この高い段差は五日市街道に向かって続いている。これでは元の大宮体育館と宮前中学の間を進んできた水路は進みようがない。台地南端の五日市街道まで迂回したのだろうか。ちょっと困惑。




「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
自宅に帰り地形図を見ても、台地は宮前中学の校庭の北から、学校敷地・元大宮体育館跡東端を囲むように五日市街道まで続いている。この台地の東には、北に向かって窪地が続くのだが、台地の東西の窪地がうまく繋がっていないように見える。台地を五日市街道辺りまで迂回して窪地が繋がっているようにも見えない。
どう解釈していいものか?不明である。最もシンプルで乱暴な「解法」は、台地を堀割って水路が進んでいたが、不要となって埋め戻された、または、窪地の連続を分ける台地は人工的なもの、といったもの。
学校の北と東を囲む台地が直線となって形成されており、如何にも人工的、と言えなくもない。水路が宮前中学の東の台地に当たる箇所にある「大善公園」は開発業者によって区に提供された、もの、と言う。実際大善公園北には宅地開発された民家が整然と建つ。大善公園を境に、なんとなく雰囲気が異なる。宅地開発の時、公園辺りに東西に通じていた窪地が埋められたのだろうか。どちらの解釈にしても単なる妄想。根拠なし。

春日神社
案内には「大宮前  春日神社 この神社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡大宮前新田の条に春日神社とあって、「除地・二段五畝六歩・小名本村にあり、神体は木の坐像長五寸許・太神宮八幡を相殿とす。木の坐像各長五寸許、覆屋一間半四方、内に小祠を置、当村の鎮守にして、例祭は十月廿二日に修す、慈宏寺持」とあるように旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(一六五八?一六六〇)に、農民井口八郎右衛門の勧請によって創建されたと伝えられています。
祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売命の四柱です。
本社は、明治五年十一月に村社となり、拝殿は明治十年、本殿は明治二十一年の建築です。
境内末社に第六天神社、御嶽神社・稲荷神社があります。境内の石燈籠二基は文久二年(一六八二)十月の造立です。石造りの大神鹿一双は明治二十七年四月に、小鹿一双は明治三十三年四月に、それぞれ氏子の奉納といわれています。 社殿前の「大宮前鎮守」の石碑は、この地域の地名変更に伴って"大宮前"の地名を保存する意図で造立されたと言われています。
本社では、元下高井戸八幡神社宮司斎藤近大夫の指導によると伝えられる"早間の大宮前ばやし"が、今も郷土芸能として例祭日に奉納されます。杉並区教育委員会」とある。

神明通りへ
慈光寺から宮前中学南端辺りを東に進んだ後、北に流路を変える松庵川の水路跡に関する地形上の疑問は残したまま、五日市街道近くの台地の東から神明通りへの流路を探す。
松庵川の窪地を東西に分ける台地の東端は、地形図によれば少し窪地が深いようであり、それならば、少し東に離れた辺りを北に折れたであろう水路跡を探すと大善公園の北東に「宮前けやき緑地」がある。水路跡が公園となっているのはよくあること。
成り行きで公園に向かうと、公園内の道は水路跡をイメージするように蛇行している。なんでもかんでも、というか、水路跡らしきものはすべて水路と関連づけて見てしまうため、如何なものかとは思うのだが、松庵川はこの公園辺りを北に向かったといった記事もあったので、一応水路跡と「思い込む」。

民家敷地に水路跡
「宮前けやき緑地」から民家の間を進む水路跡は痕跡がない。『杉並の川と橋』の略図に拠れば、水路跡は神明通りの少し手前で左に折れる。「宮前けやき緑地」の一筋東を神明通りに上る車道に水路跡がないかとチェックするが、見つからない。
神明通りまで進み、道を東に進み一筋先の車道を南に下り、神明通り少し手前で東に向かったとされる水路跡を探す。と、神明通りから少し南に下った民家の敷地の中にコンクリート蓋の暗渠が残っていた。粘り勝ち、とひとり悦に入る。


環八・神明通り交差点とクロス
民家の敷地内に一瞬姿を現した松庵川の暗渠は、その先姿を消す。南に下る道筋をチェックするも痕跡は何もなかった。『杉並の川と橋』に拠れば、水路跡は神明通りに沿って環八とクロスする。南荻窪1丁目と宮前2丁目の境を走る神明通りにそって環八へ。

神明通りはどこから始まり、どこまで続く
  ところで、この神明通りって、どこからどこまで続くのだろう。ちょっと気になりチェック。結構長く、千川上水・吉祥寺橋(練馬区立野町・関町南4丁目と武蔵野市北町三丁目の境)から南東に一直線に下り、西荻窪駅を経て下、環八通り・環八神明通り交差点へ。その先も南西に下り五日市街道を越え高千穂大学前を通り方南通り・永福図書館前まで続く。
杉並区和泉の自宅から環八への抜け道に使う道が神明通りであった。前述の「新田街道」の呼称は、大宮新田のあった西荻窪窪駅から環八あたりまでのものであろうか。なお、吉祥寺橋以西は、鈴木街道や深大寺道に繋がってゆく。結構古い道かとも思える。
環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった。
昭和21年(1946)に建設計画が決定されるも、渋滞の激しい瀬田交差点(世田谷区)を挟むわずかな区間の既存の道路が拡幅された程度で、実際に本格的に着工されたのはそれから10年後の1956年(昭和31年)。しかし本格着工後も実際の施工は遅々として進まなかったようである。
その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。
しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか。
深大寺道
深大寺道とは、関東管領上杉氏が整備した軍道、と言う。本拠地の川越城と、小田原北条勢への備えに築いた深大寺城と結んでいる。清瀬を歩いた時に出合った「滝の城」は、その中継の出城、とも。深大寺道は滝の城からほぼ南に下り、武蔵境通り、三鷹通りをへて深大寺に至る。また、この道は「ふじ大山道」との説もあるようだ。

鈴木街道
武蔵野大学前にある庚申塚の脇に沿って西に進む道は鈴木街道とも呼ばれる。鈴木新田と上谷保新田を結ぶもの。鈴木新田は八代将軍吉宗の頃、武蔵野台地に開かれた新田のひとつ。小金井から小平にかけ、武州多摩郡貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門により開発された。阿波洲神社の北側の道を進み小金井公園の北抜ける。その先の小金井街道との交差点のあたりに鈴木町という町名が残る。鈴木新田って、このあたりだろう、か。

柳窪公園
環八・神明通り交差点を越えると、神明通りは南の高井戸東4丁目と荻窪1丁目の境を進む。ほどなく道脇に「柳窪公園」がある。『杉並の川と橋』に「柳窪の悪水も集め」とあるので、ちょっと公園に立ち寄り。が、公園は一段高いところにあり、これといって窪地といった風情はない。





柳窪
帰宅し地形図でチェックすると、窪地は標高45mラインとなって、五日市街道の柳窪交差点の東、五日市街道を南に越えた辺りが南端の袋状の窪地となっていた。また、この標高45mラインは北に向かい西田小学の北、松渓公園を北端とし、善福寺川の流れに平行に南へと続いている。
松渓公園
縄文中期の住居跡3基が発掘され、「西田町大ヶ谷戸遺跡」と呼ばれたが、保存のため地下に埋められ、昭和51年(1976)に松渓公園となっている。「松湲(しょうかん)遺跡公園」との記述もある。「渓」も「湲」も、「水がゆっくりめぐる」と言った意味である。

水路跡が現れる
柳窪公園前を東に進み、旧環八・高井戸東4丁目交差点を境に高井戸東4丁目から荻窪1丁目に入る。交差点を越えると直ぐ、民家の間を水路跡と思しき細路が北に入る。
旧環八
この辺りの旧環八が、どこからどこを指すのか詳しい記事は見当たらないが、今昔マップなどを参考にチェックすると、現在の環八と人見街道とのクロス地点の少し下から環八を右に入り、弧を描きながら井の頭通り、五日市街道柳窪交差点を越え、川南交差点で環八に合わさる区間を指すと思われる。
この区間を今昔マップでチェックすると、この道筋は「今昔マップ1927-1937」ではじめて登場する。この時期のルートは人見街道下で現在の環八ルートに合わさるが、その南、甲州街道より南に道はない。「今昔マップ1965-1968」もルートに変わりなく、「今昔マップ1975-1978」となって、現在の環八ルートが地図上に現れる。この頃から従来の道筋が旧環八と呼ばれるようになったのだろう。

旧環八に沿って民家の間を北に
マンホールが異常に多く感じる水路跡を北に進む。道は旧環八の少し東の筋を、旧環八に沿って上る。荻窪1-19と荻窪1-35・1-36の境となる車道を越えた辺りから、西に弧を描く旧環七から逆方向、東に向かって弧を描いて水路跡は進み、荻窪1-16と1-17の北端辺りで狭い民家の間の道から出る。

中道寺
ここから少し北、春日橋の南に中道寺がある。開創は天正10年(1582)、本尊日蓮上人像は通称「黒目の祖師」といわれる。山門は欅作りの二階建。二階には梵鐘が吊ってある。

コンクリート蓋の暗渠が現れる
少し周囲が開けた道をほんの少し進むと、荻窪1-13辺りで水路跡は再び民家の間の狭い道に入る。コンクリート蓋の暗渠となって進む水路跡は松渓中学の一筋東を南北に走る車道に出た後、再びコンクリート暗渠となって進み、松渓中学東端の北で流路を北に向ける。


松渓
松渓の由来は何だろう?特に地名も無いようだ。し、あれこれ調べても不明である。唯一、それっぽいものとすれば、上にメモした縄文中期の住居跡を発掘・保存している「松渓遺跡公園」があるのだが、「西田町大ヶ谷戸遺跡」と呼ばれたこの遺跡が「松渓遺跡公園」となったのは昭和51年(1976)とのこと。ちょっと新しすぎる。
念のため地図にあった松渓中学校の沿革をチェックすると、昭和24年(1949)には同名の中学校となっている。松渓中学に由来がありそうだ。と、『杉並の川と橋』を見ていると、同校の元校長のコメントとして「学校から眺めるこの風景が中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似ているので校名を松渓と名付けた」とあった。松渓の出処は校長先生にあった。
学校は柳窪を形成する標高45mラインから数段下がった等高線上、善福寺川に突き出た台地上にある。往昔は一面に松林が茂り、台地下を流れる善福寺川と相まって「松渓」の景観を呈していたのであろう。

暗渠はふたつに分かれる
コンクリート蓋の暗渠を北に進むと、暗渠は二手に分かれる。コンクリート蓋の暗渠は直進する。『杉並の川と橋』には「柳窪の水を集め、後の荻窪公園となった所の水も集めて善福寺川に落ちしていた」とある。排水口の少し東には荻窪公園がある。とりあえず直進して荻窪公園方向の暗渠を進む。どうもこちらの水路跡が「本流」のようではある。
荻窪公園
『杉並の川と橋』には、「杉並の区立公園第一号(昭和十二年)となった「荻窪公園」は(中略)その多くを占めていた池沼を埋め、盛り土・地ならしをして公園にした」とある。松案川は下水路とは言いながら、処々の池沼からの水を集めた自然の流れも合せたと言うことであろう。
分離された松庵川
これは散歩のメモの段階でわかったことではあるが、『杉並の川と橋』には、松庵川の水路が神明通りから慈光寺方面へと南に下る辺りから、北に水路が延び、善福寺川と繋がっている。これは洪水対策として上流部からの下水をこの中流域で分離し善福寺川に流したとのこと。この時点で松庵川の上流部と下流部は分離され、下流部は柳窪からの水を流すのが主眼となったようである。松庵川とは言いながら、全区間がつながっていたのは数十年程度と言う。

善福寺川との合流箇所①
水路跡を辿ると善福寺川に出る。暗渠が善福寺川に当たる箇所には排水口があった。松見橋の少し下流であった。
因みに、台地を下りたところに松渓橋があり、そのひとつ上流にあるのがこの松見橋であるが、この「松見」も松渓と同じく、地形・景観に由来する名とされる。


分岐点から下流への暗渠を辿る
松庵川が善福寺川に合流する箇所から暗渠分岐点(荻窪2-5)に戻る。右に折れる水路跡は普通のコンクリート道である。民家と社宅の塀の間を少し進むと道が開ける。荻窪2丁目3とある。






水路跡が民家敷地に潜る
車止めのある道を進み、民家が切れ、左手に善福寺川が見える辺りで水路跡が消える。ここで水路は終わり?地図をチェックすると、少し下流の松渓橋を少し南に下った辺りから、如何にも水路跡らしきゆるやかなカーブの道が続く。とりあえず行ってみる。

松渓橋から西田端橋へ
川筋を松渓橋まで進み、橋の南詰を少し南に下り、善福寺川に沿ってゆるやかにカーブする道筋を進む。川の向こうは先回の散歩で歩いた天保新堀用水の取水口のあった大谷戸橋がある。民家の間を進み西田端橋から東に進む車道に出る

暗渠が崖方向から合わさる
車道を越えて先に進むと、右手からコンクリート蓋の暗渠が合流する。何だろう?ちょっと気になり暗渠を進むと窪地に都営アパートが建ち、その先は崖となり、台地上には西田小学校が建っている。西田小学校は柳窪から続く標高45mライン上にある。「今昔マップ首都1927-1939」には窪地辺りは「大ヶ谷戸」と記載されてある。「大ヶ谷戸」の水を集めた暗渠ではなかろうか。




善福寺川との合流点②
その先で道は左に折れ善福寺川に当たるが、その道筋はコンクリート蓋の暗渠となっていた。善福寺川との合流点には排水口もあり、辿った水路跡・暗渠は大ヶ谷戸の水も集め善福寺川に合わさったのではないだろうか。場所は西田端橋と神通橋の中間辺りである。


神通橋
『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通tpは、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。

・ これでJR西荻窪駅から辿った松庵川跡散歩を終える。当日はこの後、先回の散歩で途中、天保新堀用水に乗り換えた成田東・成田西を進んだ旧流路・揚堀が、その先、荻窪地区に入り善福寺川に合わさる辺りまで歩き、またその旧流路・揚堀に荻窪駅辺りから注ぐ高野ヶ谷戸の水路跡を歩いたのだが、松庵川のメモが思いのほか長くなった。このメモは次回に廻す。

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