八王子城址散歩 そのⅠ;城山の北から尾根道を八王子城址に上り、富士見台をへて城山南の尾根道を裏高尾の駒木野に下る。

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 八王子城址は幾度か訪ねている。オーソドックスに表口の宗閑寺方面からアプローチし城山や御主殿跡を歩いたり、裏高尾の荒井バス停方面から尾根に這い上がり富士見台を経て城山へと向かったり、城主北条氏照の居城を歩こうと八王子城から滝山城へと向かったこともある。
散歩のメモは八王子城から滝山城へのルートは書き残しておいたのだが、八王子城そのものについてのメモは今一つ気乗りしなかった。その最大の理由は、八王子の城山から北の恩方谷へと下る道が地図にあるのだが、どうしても見つけることができず、なんとなくピースの一片がかけているような感じがし、メモをするのはこの城の搦手口へのルートを辿った後にまとめようと思っていたわけである。
今回のルートを選ぶに、城山からの下り口が見つけられないのであれば、逆に恩方谷から城山に向かえばいいか、などと、ルートをチェック。結果、選んだルートは信玄の娘ゆかりの心源院から尾根道を城山に辿るルート。搦め手口から城山に上るには滝沢川に沿って城沢を上るのがオーソドックスではあろうが、心源院=松姫というキーワードに抗することができず、今回のコース設定となったわけである。
で、散歩を終えメモをとりはじめ、八王子城攻防戦での搦手口から攻め上った上杉勢のことなどを知るにつけ、はやり滝沢川、棚沢、横沢といった辺りを歩かなければ、などと思ったり、また、城の縄張りなどを知るにつけ、八王子城の南の外郭といった位置づけの太鼓尾根の堀切や曲輪、そしてその尾根の中腹を通ったという「登城道」なども辿りたい、と言うことで結局連続して3回の八王子城址散歩となってしまった。 今回は八王子城址散歩メモの一回目。太鼓尾根にある堀切といった、ちょっとディープな八王子城址散歩のきっかけともなった散歩もある。同行者は元会社の仲間。ルートは心源院から尾根道を上り城山山頂の八王子城遺構を訪ね、そこから山裾の館跡に下る。そこからは城山川を少し上流に進み、地図にある城山川北沢の北の山道を富士見台近くの尾根まで上り、そこから尾根道を裏高尾に向かって下ろう、といったもの。が、実際は、城山川北沢からの山道の入口が見つけられず、結局再び城山山頂まで戻り、詰の城への尾根道を辿り富士見台を経て裏高尾に下ることになった。おおよそ6時間、12キロ程度の散歩となった。心源院からの尾根道ははっきりしたルート図があるわけではないのだが、山のベテランである元同僚Tさんと一緒であるので、怖がりの小生には心強きパートナーである。



本日のルート;JR中央線高尾駅>河原宿大橋バス停>鎌倉街道山の道>心源院>秋葉神社>寺の谷戸・寺の西谷戸>285mピーク>見晴台>131nnし基準点>368mピーク>搦手道(城沢道)との合流点>八合目・棚門台>九合目・高丸>見晴らし>休憩所>小宮曲輪>本丸>八王子神社・中の曲輪>松木曲輪>中の曲輪>下山>金子曲輪>馬蹄段>二の鳥居>山下曲輪>林道>大手前広場大手道>曳き橋>御主殿跡>御主殿の滝>城山川上流端>(山頂に)>高尾・陣馬樹走路道標>坎井(かんせい>堀切>馬冷やし>詰の城>大堀切>陣馬山縦走路分岐点>富士見台>城山北沢方面分岐>荒井バス停・摺指バス停分岐>太鼓尾根分岐>地蔵ピーク>中央高速交差>駒木野・小仏関所跡>JR高尾駅

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である心源院の最寄りのバス停・川原宿大橋に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

都道61号
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点。宮前とか宮の前といった地名があるのは、道の東にある八幡様に由来する。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。

河原宿大橋バス停


バスは中央高速の高架をぐぐり、八王子城跡入口交差点に。ここはオーソドックスなルートで八王子城址に行くバス停である。今回はこのルートを避けて、八王子城址のある深沢山の北からのアプローチであるため先に進み、左右に霊園の広がる丘を上る。坂を下り切るとまたまた前方に上り道。この上り道をそのまま進み小田野トンネルを抜け、河原宿大橋バス停で下車。小田野トンネル上の丘陵には小田野城址が残る。
○小田野城
小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した。

鎌倉街道山の道・深沢橋
北浅川に架かる河原宿大橋を折り返し、橋の南詰より川に沿って上流に続く小道にはいり、深沢橋のある通りに出る。深沢橋のある通りはその昔の「鎌倉街道山の道」である。「鎌倉街道山の道」は高尾駅辺りからはバス道とほぼ同じルートを進むが、都道61号の左右に霊園の広がる丘を上り、道が再び上って小田野トンネルに入る手前で左に折れ、この地に至る。
深沢橋を渡った鎌倉街道は、一旦陣馬街道に出るが、そこを右に折れ「川原宿」交差点に向かい、そこからまた都道61号を北に向かう。川原宿って、いかにも宿場といった名前。陣場街道の宿場であったのか、と、チェック。が予想に反し、陣場街道という名前は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは案下道とか、佐野川往還と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。
○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院_午前7時45分;標高189m
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
城山を山の北側(裏側)から眺めた姿で形容するということは、ちょっと不自然。築城当時の八王子城大手口は後世のそれとは異なり,この滝沢川側にあったのではないだろう、か。城の北側の案下道は甲斐に通じる要衝路であるし、室町に遡る古刹も城山の北側に多い。心源院の山号からちょっと妄想を拡げてしまったが、識者の中には築城当初は山の北側にあった可能性を示唆する方もいるようだ。
とは言うものの、城山のある深沢山は慈根寺山、牛頭山とも称される。慈根寺(じごうじ)は先ほどバスで通過した、宮の前付近の元八王子の古い名である古神護寺村に由来する。延喜の頃華厳菩薩がこの地へ八王子権現を勧請しその別当寺を神護寺(神宮寺)と称したわけだが、それが村名となり、またそこのあった西明寺の山号に「音」をあてて、慈根寺山としたと言う。また、牛頭山も八王子城址へと表口から向かう途中にある宗閑寺の前身の牛頭山寺に由来する、とも。とすれば、城山の北側、深沢谷に大手口があった、というのはちょっと説明が苦しくなってくる。


根拠のない妄想はこのくらいにして心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。

この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。ここで出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。
松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。v

秋葉神社
さてと、心源院から八王子城へと延びる尾根に取りつくことにする。心源院の境内の南端に舌状に伸びる尾根・丘陵部の先端部が落ちる。丘陵裾に鳥居があるが、それは丘陵上に鎮座する秋葉神社の鳥居。
丘陵に取りつき、折れ曲がった小道を上り、竹林の中を進むと道は二手に分かれるが、その先で合流していた。S字状の参道らしき道を進むと秋葉神社の境内に到着。これといって由来書はない。お参りを済ませ、社殿の左手にある、少々錆びついた「八王子城址に至る」の道標に従い先に進むと、ささやかな祠がある。その祠の左側に細路があり尾根道に入って行く。笹竹なども茂が道はしっかりしている。

寺の谷戸・寺の西谷戸
尾根道に入り少し進み、「寺の谷戸」を隔てた短い舌状の支尾根(東尾根)との分岐点を超えると西側が開ける。寺の西谷戸を隔て、植林のためだろうか禿坊主となった長い尾根(北尾根)が北に見える。このふたつの尾根が合わさる285mピークの辺りに「向山北砦」とも、「北遠見番所」とも称される見張り台があったようである。とりあえず、この285ピークを目指して尾根道を進む。

285mピーク_午前8時9分
同行者がいるからいいようなものの、ひとりでは心細くて引き返しそうな踏み分け道を先に進む。道がふたつに分かれているところの木に青色のテープ。八王子城址は左手の踏み分け道に入るが、右に進むと285mピーク。往昔このピークの辺りにあった見張台・番所で心源院方面からの東尾根道を攻めてくる敵勢とともに、北尾根の東の谷であり、八王子城の搦手口である、滝沢川沿いの松竹口方面からの敵情を見張っていたのだろう。

見晴台_午前8時15分
285mピークから分岐点まで戻り(1分もかからない)、城址に向かって青いテープを左に入り、常緑樹の繁るゆるやかなアップダウンの続く尾根道を進む。道が心持ち傾斜するあたりで道が分岐する。ここにも木に青いテープがまかれているが、小さいテープであるので見逃してしまいそうである。
八王子城址はここを右手に進むが、左手に進むと見晴らしのいい場所がある、と。いくつかの資料に「大六天曲輪」が登場するが、この地が大六天曲輪かとも思い、ちょっと寄り道。木々が生い茂り見晴らしはそれほどよくないが、右手は奥多摩、正面は都心方面の180度景観が広がる。

131基準点_午前8時37分;標高328m
緩やかなアップダウンを繰り返し尾根道を進み、少しの上りを越えると東西に延びる尾根にあたる。木の白のテープに右方向のサインがあり、尾根を少し右に進むとちょっとした高みがあり、そこに「八王子市道路台帳1級基準No.131」と刻まれた石標が埋め込まれていた。
この基準点は緯度経度・標高などが正確に測量された三角点、水準点、電子基準点など、国が設置した基準点を補完するために地方公共団体が設置した基準点であろう。一等三角点の設置間隔は40キロ、二等三角点は25キロ、1級基準点の点間距離は1キロ、とのことである。

368mピーク_午前8時42分
131基準点を南に下り、東に流れるふたつの支尾根をやり過ごし、尾根道のピーク部分を南に進むと368mピーク。とりたてて標識はない。ここまでくればもう支尾根に迷い込む心配もなく、南に伸びる尾根道を滝沢川沿いの松竹方面からの搦手道との合流点に進むだけである。松竹口からの搦手道は、滝沢川の支流である棚沢に入り、清滝不動のあたりで棚沢の支沢である城沢に沿って八王子城へと上る道筋である。

搦手道(城沢道)との合流点_午前8時56分;標高362m
368mピークからはゆるやかな尾根道、そして下り、その下りも結構な勾配もあり慎重に進み鞍部に下りる。鞍部を越えると再びちょっとした上りとなり、そこを越え鞍部に下りると道は十字路になっている。搦手道(城沢道)との合流点である。
十字路にはいくつものささやかな道標がある。右手からの搦手道(城沢道)は 「松竹方面」,「松竹橋(バス停)」,「松竹ばしへ40分」、 左手に下る道は「八王子城跡20分」,「しろ山へ」、 正面の道は「×急坂」、今登ってきた道は「霊園方面」,「行き止まり」とあった。

八合目_午前9時;標高362m
十字路を左に下りる道を進むと小道に合流。この道は八王子大手口方面から八王子城址の山中遺構、山頂遺構、八王子神社などへと上るふたつの登山道である新道と旧道(2013年5月現在倒木のため。登山口辺りは閉鎖中)のうち、旧道の道筋である。旧道との合流点を少し進むと新道と合流。「八合目」と刻まれた石標がある。

○柵門台 
八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。これではなんのことかわからないので、チェック。
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。
坂道を進み、登山道を脇に入り柵門台の崖の端へと向かう。端から柵門台下を眺め比高差を崖上から実感し、登山道へと戻る。なお、山王台への道標はない。柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路を進むと山王台に至る。

高丸
八合目から、山頂の遺構群へと向かう。道を進むと「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識がている。思うに、高丸は先ほど心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれなかった。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、何気なく小屋に近づくと、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図があった。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とあった。
地図を見ると、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道が描かれている。今まで数度八王子城跡の山頂には来てはいるのだが、例の如く事前準備なしの、お気楽散歩であるので、小宮曲輪にも本丸にも訪れたことがなかった。今回の偶然の出合いに感謝しまずは小宮曲輪に。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。

案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。
○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸_午前9時20分;標高449m
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもでいそうだなあ、などと妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

金子丸
松木曲輪を離れ、中の曲輪に下り、先ほど上ってきた九号目、八合目までと下り、右側に梅林の見えるあたりの「金子丸」に。案内に「金子三郎右衛門家重がまもったといわれる曲輪。尾根をひな段状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫をしている(後は略)」。ひな段状とは上下二段の平坦部に分かれ、上段はおよそ60平米程度、下段はおよそ400平米。下段の下には七段の馬蹄段を設け敵の侵入を防ぐ。この曲輪はこの馬蹄段や梅林のあるあたりの緩斜面を這い上がる敵と、登城門から柵門台へと攻め上る両面の防御を受け持ち、八王子合戦の時には激戦となった曲輪ではあろう。

馬蹄段
金子丸から、7段あるという馬蹄段を眺めるながら下る。結構しっかり残っている。馬蹄段とは馬蹄形の曲輪を階段状に並べたものであり、階段状曲輪とも呼ばれるようである。登山道は馬蹄段の北端を下る。

二の鳥居
馬蹄段を過ぎ、道端に石垣らしき遺構を眺めながら下ると「二の鳥居」。鳥居の辺りで山頂へと向かう登山道の新道と旧道(2013年5月現在閉鎖中)が分かれるが、このあたりに登城門(城戸)があった、と。登城門とは、小宮曲輪の案内にあった「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」に住んでいた家臣が御主殿とか山上に上るために通る門のこと。
往昔の登城門への道は、現在の一の鳥居から直線に上る参道(登山道)の南側にあり、登城門から20mほど下ったところでL字形に曲がり、城山川の支沢である花かご沢川を越えて「近藤曲輪」方面に繋がっていたようである(『戦国の終わりを告げた城』)。 なお、家臣が通用路として登城門へと向かう道は「下の道」、家臣が公用路として登城する道は「上の道」と呼ばれ別々になっていた。大雑把に言って「下の道」は城下川の北、「上の道」は城下川の南、小宮曲輪の案内に「居館地区(注;御主殿地区)の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪」のある太鼓尾根を南から越えて丘陵の中腹を御主殿地区へと向かっていたようである。

山下曲輪
一の鳥居を越えると深く切れ込んだ「花かご沢川」の橋を渡る。この「花かご沢川」の北というか東側が「近藤曲輪」、沢の南と言うか西が「山下曲輪」である。花かご沢の深いV字の谷が山下曲輪の堀の役割を果たしているようである。近藤曲輪は現在公園として整備されており、広い平坦地となっているが、かつては東京造形大学の学舎が建っていたようである。今回は近藤曲輪は眺めるだけで、山下曲輪にある管理棟で地図など資料を手に入れる。
山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。

アシダ曲輪
山下曲輪を離れ御主殿跡へと向かう。管理棟のあるところから坂を下り、城山川沿いの林道に下りる。林道の右手、山下曲輪と御主殿との間にはアシダ曲輪がある。比高差は20mほどである。「アシダ蔵」との記録があり、「足駄の形をした蔵」があった、とも。また、曲輪の西側、御主殿に近い地区は、現在残る御主殿ができる前の御主殿があった場所とも言われる。アシダ曲輪と御主殿は細い沢で隔てられ、小橋で連絡していたようである。

林道
城山川に沿って林道を進む。この林道の原型ができたのは江戸の頃といわれる。江戸時代、八王子城のある深沢山は幕府の直轄林として代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、この山は「江川御山」とも呼ばれていた。『多摩歴史散歩2佐藤孝太郎(有峰書店)』によると、現在城跡の東にある宗閑寺方面から一直線で結ばれえている道は大正時代に造られたものであり、それ以前は道らしきものもなく、明治の日露戦争のときになってはじめて、江川御林を伐り出す必要が生じたために道がつくられた、とのことであるので、本格的に林道として整備されたのは明治以降ではあろう・

ちょっと脱線;八王寺城があった頃は宗閑寺あたりの根小屋地区(山麓の家臣団の住居地区)から登城門へと向かう「下の道」はあったにせよ、それは通用路であり、現在の立派な車道の南、城山川にそった小道程度のものだろう。初めて八王子城を訪れたときは、城正面に続く大きな道を見て、なんと正面が無防備な城なんだろう、などとおもったのだが、当時は道もなく、川をせき止めれば泥沼地と化すような地形であり、むしろ攻めるに困難な地形だったのかとも思えてきた。実際豊臣勢も太鼓尾根といった尾根筋から攻め入ったとの話もあり、現在の地形をもって、昔を安易に妄想するなかれ、との戒めを再確認。

大手門前広場
ともあれ、昔はなかったであろう林道を少し進むと木橋に似せた橋があり、そこで城山川の右岸に渡る。前面を塞ぐのは太鼓尾根である。
橋を渡ると広い平坦地となっている。『戦国の終わりを告げた城』にあった、「大手前広場への寺院移転計画にともなうブルドーザーでの整地」、また、「民間企業が倉庫を造るためにブルドーザーを入れ約2ヘクタールを雑木ごと根こそぎ削り取り、大手門前広場と接するところでは約5mの深さに削った」とあったのがこの地だろう、か。不自然に平坦な場所が出現している、といった風情である。このケースだけでなく、林道の拡張、料亭や大学の建設で遺構が破壊されている、とのことである。

大手道_午前10時28分;標高255m
それはともあれ、平坦地から山麓中腹にある道に上る。上りきったところに、「大手道」の案内;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。
現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から西の御主殿跡に向かって整備されているが、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていたようである。 御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。
この大手道は既にメモしたように「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。上の道が中腹を通る太鼓尾根には掘切や曲輪が残る、と言う。藪漕ぎの予感はするが、城の南の外郭として整備されていた「上の道」や曲輪や堀切の残る太鼓尾根を求め、彷徨ってみたいと思う(後日、大手道の東端に通行止めの柵があり、それを越えて大手道を少し辿ったが案の定薮に遮られ途中で撤退した)。

曳橋
大手道を進むと、城山川を跨ぎ御主殿跡を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と。

虎口
曳橋を渡ると正面は石垣。右に折れると虎口があり、左折して石段を上ることになる。虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。

櫓門(やぐらもん)
25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

御主殿跡_午前10時40分;標高259m
石段を上り切ると左手に冠木門が建つ。門柱の礎石が発見されたため再現されたとのことである。冠木門の西に広がる平坦地が御主殿跡。東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
この後訪れる「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。
散歩をはじめてわかったことだが、関東のどこに行っても小田原北条の事蹟に出合う。広大なその領国経営は概イメージしか記憶に残らない。秀吉相手に無謀な挑戦、とはその後の歴史の結果がわかっている者だから言えることであろう。

御主殿跡でのんびりしながら、山腹の「山王曲輪」に続く「殿の道」の上り口を探す。道標はなかったが、如何にも山腹へと向かいそうな細道入口を御主殿跡の西端の辺りに確認。今回はパスするが、次回に備える。
○山王曲輪
柵門台から沢を隔てた南側にあり、沢頭につけた約100mの小道で結ばれる。柵門台よりやや高い辺りに、岩を切り取って人工的に造られたおよそ80平米の舌状台地で、沢に面した側には石垣が組まれている(『戦国の終わりを告げた城』)。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残っていた。

城山川上流端に_午前10時46分;標高269m
さて、これからのルートは、と地図を見る。城山川林道を突き進み、富士見台(八王子城山頂のある尾根から西に続く尾根にあるポイント。景信山や陣馬山への分岐点でもある)から裏高尾に下る尾根筋に合流するルートは途中危険のマークがあるが、御主殿の滝から少し進み、城山川がふたつに分かれるあたりから北側の沢に沿って上る登山道のマークがあった。この上り口が見つかれば、この沢道を進み富士見台近くの尾根に這い上がれるかと、それらしき入口を探すもブッシュに阻まれ撤退。諦めて八王子城山頂の「中の曲輪」まで戻り、尾根筋を富士見台へと向かうことにする。一度下りた登山道を上り返すのは少々鬱陶しいが仕方なし(後からわかたのだが、もう少し先に、尾根への上り口があるとの地元の人の話。次のお楽しみとしよう)。

高尾・陣馬樹走路道標_午前11時19分;標高429m
城山川上流部より大急ぎで林道を戻り、一の鳥居、二の鳥居をくぐり登山道に入る。下りでは気が付かなかった石垣跡などを見ながら、これも下から見る馬蹄段跡をじっくりと眺め、金子曲輪を越え、中の曲輪の先、松木曲輪の裏手にある「至る 高尾山・陣馬山」の道標まで戻る。おおよそ30分強といった時間で戻れた。道標識に従い、本丸と言うか、山頂曲輪のある城山(深沢山)の山頂部の山塊をぐるりと取り巻く道に出る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

坎井(かんせい)_標高428m_午前11時21分
道を進むとほどなく井戸がある。坎井(かんせい)と呼ばれるこの井戸は築城時に掘ったもので、深さは4m弱とのこと。昔は釣瓶井戸ではあったのだろうが、現在はポンプ式になっており、ポンプを押すと水が出た。井戸の傍には如何にもゴム製の送水パイプ(?)が備わっており、現在も自然水かどうか不詳である。
坎井(かんせい)の井戸を通る道は、その昔の「馬廻りの道」。上下2段あり、この道は上馬廻り道。松木曲輪、山頂曲輪のある要害部、小宮曲輪をぐるりと囲む。攻防戦の時の兵員の移動を容易にしたものだろう、か。

馬冷やし_午前11時27分;標高409m
坎井(かんせい)からジグザグ道を少し下り、再び城山山頂の要害部を囲む道に出る。この道は下段の馬廻り道。上馬廻り道よりおおよそ20m低い部分の山頂部を取り囲んでいる。5,6分歩くと「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち切り切り通しとしていていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手のj棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。機会があれば、これらの道を辿ってみたい。なお、ここで切取られた石は、八王子城の石垣として利用されたようである(後日、堀切から北に続く馬周り道を一周した。高丸のすぐ傍に続いていた)。

詰の城_午前11時40分;標高479m
馬冷の堀切部から元の尾根道に少し上り返し、少々のアップダウンはあるものの、おおよそ緩やかな上りを400mほど歩くと「詰の城」に着く。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。
それはともあれ詰の城の最大の防御の縄張りは、西の尾根を断ち切った「大堀切」。堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。

陣馬山縦走路分岐点_午前11時55分;標高540m
詰の城から少々きつい上りを15分程度進み、詰の城から西に伸びる尾根道が堂所山を経て陣馬山に向かう尾根道との分岐に到着。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」とある。荒井バス停は裏高尾の旧甲州街道にある。分岐を左に「荒井バス停」方面に

富士見台_午後12時_標高552m
分岐を折れるとほどなく富士見台。富士の山は見えなかった。ここには休憩台があり数グループが休憩を兼ねた食事中。我々も小休止。
城山北沢方面分岐_12時18分;標高479m
富士見台で少し休憩し、下り道を10分程度進むと、当初計画した城山北沢から富士見台の尾根道に向かう山道との分岐点にあたる。道標を探したのだが見当たらなかった。後ほど地元に聞いたところ、見つけ難いが下りる道はある、とのこと。今回は上り口がみつからず断念したが、次回を期す。

荒井バス停・摺指バス停分岐_12時35分;標高404m
城山北沢分岐から少し下り、そのあと一度525mピークに上り、その後は標高404mにむかって20分弱下ると荒井バス停との分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、裏高尾の荒井バス停から富士見台を経て八王子城址へと辿ったことがある。バス停から中央高速下をくぐり、中央高速に沿って進み、工事中の圏央道を見ながら成り行きで尾根へとはいっていったのだが、それがこの道であろう(GPSでのトラックデータをとっていなかったので散歩のメモはつくってい)。
当初の計画ではここから荒井バス停に下る予定ではあったのだが、時間も十分にあるので、ここから裏高尾に出るのをやめ、駒木野に下る尾根道に乗り換えて先に進むことにした。
なお、この分岐少し手前に。城山林道を突き進み尾根道に合流する山道があるのだが、現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

太鼓尾根分岐_12時43分;標高400m

荒井バス停との分岐から10分弱で太鼓尾根との分岐点に至る。標識では「城山入口 405m」といた案内であったが、後日、太鼓尾根を辿った記憶では、太鼓尾根から城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山、これも正確には「御主殿跡」とかに下るには、尾根道を切り取った堀切部分から、力任せに下るほかないように思うのだが、道標を見落としたのだろうか。ともあれ、太鼓尾根を下った東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至る。橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる。



地蔵ピーク_午後1時3分;標高360m
「駒木野バス停 高尾駅」方面へと向かう。ゆるやかなアップダウンを繰り返し20分強進むと地蔵ピーク。2体の地蔵が佇んでいた。

中央高速交差_標高221m_13時22分
地蔵ピークから20分程度、ひたすら下ると中高高速をくぐる。中央高速を越えると民家が見えてきた。やっと裏高尾に到着である。

小仏関所跡_標高195m_13時30
旧甲州街道の駒木野にある小仏関跡に到着。小仏関はともとは小仏峠にあったものがこの地、駒木野宿に移された、とか。小仏関の石碑の前に、手形石とか手付石といったものがあった。旅人が手形を差し出したり、手をつき頭を下げて通行の許しを待つ石であった、と。 因みに、小仏関所跡のある駒木野の由来ははっきりしない。青梅筋の軍畑の近くにある駒木野は、馬を絹でまとって将軍様に献上した、からと言う。「こまきぬ」>『こまぎぬ」ということ、か。駒木野宿は戸数70戸ほどの小さな宿。関所に付属した簡易宿で、なんらか馬に関係はしたあれこれがあったのだろう。関所跡前にあるバス停でバスを待ち、おおよそ12キロ、6時間の散歩を終え一路家路へと。

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