愛媛の遍路道を繋ぐ散歩もこれで最終回。特段の信仰心があるわけでもなく、断片的に歩いた遍路道の峠越えを、どうせのことなら愛媛の遍路道だけでも全部繋げてしまおうと始めた旅も、明石寺までを繋げば、これで一応の完結となる。
如何なる天の配剤か、繋ぎを完結するお寺様である四十三番札所・明石寺は愛媛の遍路道繋ぎの旅のきっかけとなったお寺さまでもある。いつだったか、四十四番札所・大宝寺から四十四番札所・岩屋寺までを、単に「八丁坂」越えという語感に惹かれて歩いた折、大宝寺の前の札所が明石寺であり、80キロもあるという距離もさることながら、その途中にある農祖峠、下坂場峠、鶸田峠、真弓峠などに惹かれ、明石寺から大宝寺までの遍路道を繋いだ。
この明石寺からの遍路道繋ぎ散歩がきっかけとなり、どうせのことなら愛媛の遍路道をすべて繋いでしまおうとなったわけである。その明石寺に向けて、最後の仕上げに出かけることにする。
本日のルート;
■仏木寺道を下り四十二番札所・仏木寺へ■
徳右衛門道標を右折し駐車場へ>裏山に入る手前に道標>仏木寺道に3基の道標>仏木寺道と県道31号合流点脇に道標>道標>>沖戸橋>常夜灯と観音さま>四十二番札所・仏木寺
■仏木寺から歯長峠を越えて明石寺へ■
三間川・西谷橋を右折し右岸を北に>歯長橋からの道を左折し西に向かう>歯長峠上り口>道標>県道31号と合流>県道31号から分かれ土径に>土砂崩れ・道崩壊箇所>歯長峠>歯長隧道からの林道と交差>道標>県道31号に出る>歯長橋・地蔵堂>下川橋>道引大師堂・茂兵衛道標>岩瀬川左岸に>宇和高等学校体育館横の道標>「四国のみち」の木標>三差路の道標>明石寺奥之院>道の分岐点に道標>参道鳥居前に茂兵衛道標>四十三番札所・明石寺
徳右衛門道標を右折し駐車場へ
四十一番札所・龍光寺を離れ、次の札所仏木寺に向かう。本堂への石段途中に立つ徳右衛門道標を右に折れ、お寺さまの駐車場に出る。駐車場から裏山に入る石段がありそこを上る。
裏山に入る手前に道標
石段を上り裏山を西に越える土径に入る。山に入る手前に「右へ右へへんろ道 四十二番へ約三K」と刻まれた背の高い道標が立つ。『四国遍路道シリーズ 遍路道 伊予編(梅村武』には長浜市中尾多七の建てたもの。昭和四十一年春彼岸、とも刻まれている、と。この地の他、小松の香園寺裏門にも中尾氏の道標が立つとのことである。
はっきり読めなかったが「右へ右へ」とあるのは二本を一本にまとめたものでは、ともあった。
仏木寺道に3基の道標
裏山の木立の中に入ると、3基の道標が道を示す。「右へ四丁丘をこす」「右へ四十二番近道」「右に下る仏木寺みち」と刻まれる。それぞれ2分ほどの間隔で立つ。この道標も上述の中尾氏が建てたものとのことである(『四国遍路道シリーズ 遍路道 伊予編(梅村武』)。
「伊予遍路道 仏木寺道」と称される遍路道は10分強で前が開け、ブドウ畑の脇を抜け県道31号に出る。
仏木寺道と県道31号合流点脇に道標
仏木寺道が県道に出た箇所の、道の反対側にガードレール脇に道標が立つ。手印と共に「へんろ道 仏木寺へ二十丁 へん路みち 稲荷山へ五丁」と順路・逆路の道を指す。
道標
更に少し先に進むと、道の左手に道標が立つ。「へんろ道 昭和十四年」とある。地元の方々が建てたものと言う。道標に従い県道を進み、西谷川手前で遍路道は県道を離れ右に折れる。
常夜灯と観音さま
県道31号を離れ西谷川に架かる沖戸橋を渡ると常夜灯と観音菩薩が立つ。「えひめの記憶」には、「この地は沖戸駄馬と呼ばれる馬のつなぎ場ともなっていたという。広場の端には遍路墓らしきものもある」とする。
遍路道は三間町則(すなわち)の家並みに入り、やがて県道と合流する。「即」は「須之内」からの転化、かも。「須之内」は愛媛県西条市の「洲之内」をルーツとする、といった記事もある。そこから移り住んだのだろうか。「洲之内」は読んで字の如くの意味だろう。
●バリエーションルート
龍光寺参道口の鳥居の脇に「四国のみち」の案内があった。この道は県道に出ることなく、龍光寺の東を進む。どんな道筋かちょっと歩いてみた。
道を北に進み、車道が右に折れるところを直進し田圃の畦道を進み、しばらく歩き先ほど分かれた車道に合流。
合流点を少し進むと左に折れ、中山池の堰堤に上り、池の南の木立の中を進む。気持のいい木立の中を進み、里にでると「四国のみち」の木標。案内に従い右に折れ、要所に立つ木標田圃の中、丘の裾に沿って仏木寺まで続く。
四十二番札所・仏木寺
県道を進むと道の右手に山門が見える。二層の立派な山門を潜り境内に入る。右手に茅葺の鐘楼が建つ。茅葺の鐘楼はあまり見かけなかった。境内には正面に本堂、左手に大師堂、右手には家畜堂が建ち、瓦焼きの家畜やペットの縫いぐるみなども祀られる。
家畜堂
「えひめの記憶」には、「寺に家畜堂があるのは珍しいが、龍光寺の「おいなりさん」に対して仏木寺は「牛の大日さま」と呼ばれて現在でも地域の人々に親しまれている。牛馬の守り本尊の寺として、今日でも旧暦の6月の丑(うし)の日には胡瓜(きゅうり)封じの供養が行われている。
この寺と牛のかかわりは、寺に伝わる一つの大師伝説に由来する。武田明は、『巡礼の民俗』の中でその伝説を、「弘法大師がこの地を通りかかると牛をひいた老人にあった。みちびかれて楠の下を通ると上から宝珠が落ちてきた。その宝珠は大師が唐にいた時に三鈷と共に東にむかって投げた宝珠であった。大師はその楠で大日如来を刻み仏木寺を建てた。本尊大日如来は牛馬の本尊で牛の病平癒のために絵馬をあげると言う」とある。
本尊は大日如来であり、大日如来が牛に乗って現れる、といった話は時に聞く。当寺は、一カ(カは王偏に果)山毘盧舎那院(びるしゃないん)と号す。毘盧舎那院(びるしゃないん)は「遍く照らす」の意で、大日如来の別名であり、奈良の大仏(廬舎那仏)も大日如来の尊像である。
●大日如来
仏は如来、菩薩、明王、天部の四カテゴリーに分かれる。Wikipediaに拠れば、「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。
以上3つのグループの諸尊に対して、「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。天部に属する尊像としては仁王(金剛力士)、鬼子母神、吉祥天などである。
●一カ(カは王偏に果)山
山号の「一カ(カは王偏に果)山」は上述の宝珠をひとつの果物になぞらえたもの。
このお寺さまは中世期には宇和町を本拠とする西園寺氏の分家筋の菩提寺。江戸期には宇和島・吉田藩伊達氏の祈願所として本堂の造営などが行われている。
●道標
山門前、県道に面して2基の道標がある。右手は「四十二番 仏木寺 明治九年 右従是稲荷江二十五丁 左 従是明石寺江三里」、左手は茂兵衛道標。「左 仏木伽藍 明治廿一年 明石寺迄三里」と刻まれる。
茂兵衛道標には添句も刻まれる。「吹風も清し蓮乃花の寺 白杵陶庵」とある、と。陶庵の詳細は不明。この道標は巡礼百度を記念するものでもあり、茂兵衛が尊敬した僧侶ではないかとも言う((『四国遍路道シリーズ 遍路道 伊予編(梅村武』)。
なお同書には陶庵の添句として同じく百度目の標石である五十二番札所太山寺の道標にも「阿ハ礼可シ。。。(あはれかし今世に迷う人々を たすくる石に道しるべけり)」と刻まれるという。
三間川・西谷橋を右折し右岸を北に;13時39分
仏木寺を離れ歯長峠越えに向かう。県道31号から分かれ西に進む県道279号を少し進み、松山自動車道を潜り、三間川に架かる西谷橋を右折し、右岸を北に進む。
ここからは峠越えの参考として時間と山間部では標高を記しておく。
歯長橋からの道を左折し西に向かう:13時48分
少し進むと西谷橋のひとつ上流に架かる歯長橋から西に分かれる舗装された道筋にあたる。その道に乗り換え左折し西に向かう。
車居池を左に見遣り、松山道の作業所のフェンス脇を少し西に進むと登山口に至る。
歯長峠上り口;13時58分(標高230m)
上り口には「四国のみち」の案内と共に道標がある。手印と共に「へんろみち 明治三十六年」」と刻まれる。
道標;14時5分(標高285m)
10分弱土径を進み高度を50m強上げると道標があり、「左へんろ道」」と刻まれる。
県道31号と合流;14時14分(標高330m)
等高線を斜めに、緩やかな上りを20分ほど進み標高を50mほど上げると遍路道は山肌をヘアピンカーブで上ってきた県道31号にあたる。
県道31号から分かれ土径に;14時19分(標高350m)
県道31号を5分ほど進み、尾根筋が南に突き出た手前で遍路道は県道を離れ土径に入る。
●四国のみち
土径に入る県道先のコーナー部に「四国のみち」の案内がある。先にメモした龍光寺から仏木寺へのバリエーションルートとしての「四国のみち」も記載されていた。その脇には「歯長峠 この峠は法華津連峰の一隅にあり、三間町と宇和町を結ぶ交通の要衝です。
昭和45年に県道三間宇和線が開通するまでは、ずっと上方の旧へんろ道が唯一の道路であったため交通の往来に不便をきたしておりました。
この地点からは足摺宇和海国立公園のリアス式海岸が一望できるほか、はるかに鬼ヶ島連山が望め四季折々の変化のある景観が眼下に展開されます」とあった。
木々が全面を遮り展望はよくないが、木々の間からそれらしき景観が少し楽しめた。
土砂崩れ・道崩壊箇所;9時45分(標高440m)
土径にはいるとすぐに休憩所〈9時36分〉がある。道を進むと「土砂崩れ 通行止め」の案内。どの程度の状態か確認に進む。
鎖やロープの張られた急登を進むと崩壊箇所に。結構後半に斜面が崩れているが虎ロープが張られており、慎重に進めば大丈夫と判断し、そのまま進むことにした。
歯長峠;9時56分(標高490m)
道崩壊箇所から先は等高線に沿ったり、また斜めに切り上がったりと、緩やかな道10分ほど上ると石組が見え、その先の平坦箇所がにブロック造りの社や石碑が建つ。そこが歯長峠であった。県道から分かれる土径から40分程度で高度を250mほど上げ、峠に着いた。
ブロック造りの祠に祀られる石仏にお参り。「えひめの記憶」によると、祠には見送大師が祀られると言う。
●見送大師
「歯長峠は、三間町と吉田町と宇和町(私注;三間町と吉田町は現在宇和島市、宇和町は西予市となっている)の境界に位置する。そこには見送大師を安置する「送迎庵見送大師」と呼ばれる大師堂が建立されている。大師堂は、吉田町大河内の町有林(旧立間村有林)の中にあり、古くは辻堂として峠を行き交う遍路や馬子(まご)たちの信仰を集めていたという。
地元の人の話によると、この大師堂は、もとは六角屋根の木造のお堂で、「四十二番札所仏木寺奥之院」の木札が掛かっていた。しかし、昭和39年(1964)に遍路の失火によって焼失し、昭和42年に地域が大干ばつに見舞われた折に、「あのお堂の地蔵さんを雨曝(あまざら)しにしている崇(たた)りではないか。」と資金を出し合ってお堂を再建したという。現在はブロック造りの簡易なお堂となっている。
この大師堂では、吉田町大河内の人たちが、昔は毎年3月の縁日に餅(もち)やミカンなどを持ち寄って接待をしていたが、現在では、大河内地区の年中行事として、仏木寺の縁日に、供物を持ち寄って大師堂に集まり、家内安全と豊作を祈願し、その後は仏木寺に参詣して帰ることにしているという(「えひめの記憶」)。
峠の平坦地からは、リアス式の海岸は見ることはできなかったが、この峠からは眼下の連山の遠望を楽しむことができた。
平坦場には営林記念の石碑が立つ。かつての歯長峠について、「えひめの記憶」には「歯長峠には昔は茶店もあった。今もその遺構らしき石が残っている。門多正志氏の『宇和歴史探訪記』によると、明治から大正時代にかけての宇和町内の児童の修学旅行は、歯長峠を越えて三間町の宮野下(みやのした)まで歩き、それから汽車に乗って宇和島に行くのが通例であったという。
その時の「峠の茶屋」にかかわる思い出を、「峠に着いたのは昼ころで、すでに幾人もが休憩していた。茶屋には駄菓子、ラムネ、草履(ぞうり)などが売られ、赤ケットを敷いた涼み台も置かれていた。時鳥(ほととぎす)やうぐいすの鳴き声、白装車の四国遍路が鈴を鳴らして、次々と峠を越えて行った姿が印象に残っている」と記してあった。
●歯長峠の由来
見送大師堂内にあった案内によると、「昭和の初期まで,この峠道は宇和と三間・宇和島をつなぐ唯一の生活道で,大勢の人の往来で賑わい,ここにも巨人伝説が有る。
多分に伝説的な人物である東国武将足利又太郎忠綱は末代無双の勇士で,源氏の出自ながら故あって平氏側について功名を馳せ,その後,源氏に追われて西国に逃れ,この地に居住した。
力は百人力,声は十里四方にも及び,その歯の長さは実に一寸余。又の名が歯長又太郎。ここで庵を結んだことがら,庵寺にも峠にも歯長の名がついた(現在宇和町伊賀上の歯長寺に歯長又太郎の供養五輪があり,歯痛の神ともなっている)。
宇和への入り□であり,戦略上の要衝でもあったこの峠は宇和と土佐勢の攻防の舞台であり,幾多の合戦の後,長曽我部軍に攻略されたと伝えられている 西予市教育委員会」とあった。
●道標
峠からの下り口に倒れかけた道標が残る。手印と共に「へんろ道」と刻まれる。
歯長隧道からの林道と交差;10時10分(標高420m)
峠から等高線を斜めに10分程かけて高度を80mほど下げると林道と交差する。林道は県道31号が歯長峠下を抜いた歯長隧道から続いている。
●歯長隧道
当日ピストンでの戻り道、ちょっと歯長峠の風情を見に寄り道。5分ほどで隧道に着いた。隧道を北に出たところに里に下りる「四国のみち」の木標があった。 県道から登山口傍にあった「四国のみち」の案内図には大雑把ではあるが、県道のように大きく曲がることなく里に直線で下りて行く。
道標;10時23分(標高330m)
林道を交差し下る道は、ほんのしばらく等高線を斜めに下るが、林道交差部から高度を40mほど下げた辺りから、尾根筋を垂直に下るようになり、時に厳しい箇所もあるが、概ね等高線の間隔が比較的広いところも多くそれほど険しくはない。
林道交差部から高度を120mほど下げたところ、倒れた松の下に道標がある。「明石寺 是ヨリ二里 寛政七」といった文字が刻まれると言う。
この道標、巨木に隠れ見逃しやすい。実際当日も往路は見逃したのだが、復路で見つけた。ピストン行の賜物でもある。
県道31号に出る;10時37分(標高210m)
道標から15分程、比較的緩やかな道を下り高度を120mほど下げると県道31号に合流する。
県道31号合流手前の沢に石橋が架かり、その手前山側には道標が立つ。「えひめの記憶」に拠れば、「この道標には、石橋の寄付をした16名の名前が刻まれているが、「仏木寺一里半」「明石寺一里半」の文字も見え、ここが両札所のちょうど中間地点であることを示している」とある。
歯長峠から1時間20分程度で里に下りた。歯長峠へと県道31号から土径に入り峠を越えて里に下りるまでおおよそ2時間程度であった。
歯長橋・地蔵堂
県道31号を肱川(上流部を宇和川とも)に架かる歯長橋まで進む。橋の手前、道の右手に地蔵堂が建つ。「えひめの記憶」には「橋の手前の山際には巨岩があった。そこには石仏を祀(まつ)ったお堂があり、お堂のそばには小さな遍路墓らしき墓石ももたせかけられていたという。しかし、その巨岩は、平成12年の道路拡張工事で撤去され、現在は道を挟んだ向かい側にその石仏を祀る新しい地蔵堂が建てられている」とあった。
下川橋
遍路道は橋を渡ることなく、肱川左岸を進み下川橋で右岸に渡る。ところで、「下川」の読みだが、「ひとう」川とある。宇和島市宇和町下川と地名にもなる。読みに惹かれる。「しとう」川とも称するようであり、「しとう>ひとう」の転化であればなんとなく納得。
道引大師堂
下川橋を渡り県道29号に出る。左折少し進むと県道右手に道引大師堂がある。「えひめの記憶」には「道引大師堂には、中央に道引大師像、左側に弘法大師像、右側に不動明王像が祀られている。昔は現在の敷地いっぱいに茅葺(かやぶ)きの大師堂が建てられていて、ここでは接待も行われていたという。(中略) 下川では、険しい歯長峠越えで力尽きて行き倒れる遍路も多くいた。(中略)昭和初期ころまでは、峠から宇和町側の地で行き倒れた遍路は、下川地区の者が順番に4人一組となって世話をし、巨岩のあった裏手の山際に埋葬していたと話している。
また、下川は、疲れた遍路が体を癒(いや)すに適した場所でもあり、遍路が泊まる幾つかの木賃宿もあった」とある。
●明治の下川集落
「えひめの記憶」には、「明治40年(1907)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で次のように記しており、当時の宿の様子をうかがい知ることができる」とし、「下川(しもがわ)の木賃(ぼくちん)に宿(やど)る。一水(すゐ)を隔(へだ)てヽ渓山前(けいざんまえ)に峙(そばだ)つ。二軒(けん)の木賃(ぼくちん)あり競(きそ)ふて杖(つゑ)を引(ひ)く、若(わか)き女主頗(ぢょしゅすこぶ)る勞(いた)はる。此夜(このよ)、予等(よら)の宿(やど)りし木賃(ぼくちん)の客(きゃく)十五六人(にん)ありて、ガヤガヤゴタゴタ遍路始(へんろはじ)めて以來(いらい)の大勢(おおぜい)なり。然(しか)れども女主(ぢょしゅ)の言(げん)に依(よ)れば春先(はるさき)は五十、八十の客(きゃく)を泊(はく)せしむと。此家(このいえ)に拂(はら)ひし米代宿料左(こめだいしゅくりょうさ)に示(しめ)すべし。金(きん)拾八錢(せん)、米(こめ)一升代(しやうだい)、金(きん)拾貳錢(せん)、宿料二人分(しゅくりょうふたりぶん)、金(きん)四錢(せん)、菓子代(くわしだい)、金(きん)壹銭(せん)五厘(りん)、ワラジ代(だい) 女主云(ぢょしゅい)ふ、明晩(みやようばん)なれば、毎月何人(まいげつなんにん)にてもうちではお接待(せったい)いたしますのにと、この毎月(まいげつ)二十日(か)は大師忌日(だいしきじつ)の逮夜(たいや)なればなり。民俗(みんぞく)の大師信仰(だいししんかう)の状此(じやうこれ)にても早(はや)く知(し)る」と明治の頃の下川集落を描いている。
●茂兵衛道標
道引大師堂の前には下川橋が完成したころの道案内であったという茂兵衛道標がある。正面には「佛木寺 一里半余」、右面には「明石寺へ一里」と刻まれる。
●道引大師像
堂内にある道引大師像は導引大師像とも呼ばれる。由来は不明だが、文字面からすれば、どこか有難いところへ導いてくれるのだろう、か。
岩瀬川左岸に
県道31号を進む遍路道は宇和町皆田で県道31号から右に分かれ、松山自動車道の高架を潜り皆田の町並みを抜け、再び県道に合流。左手に肱川を見遣りながら少し進み、宇和町稲生で県道31号から右に分かれる道を進み、道なりに進み、松山自動車道西宇和インターチェンジへのアプローチ部の下を潜る。
出口右手の電柱に遍路道を案内するシールがあり、右折の指示。指示に従い北に進み再び高速道路へのアプローチ部手前に遍路シール。
指示に従いトンネルを抜け北に進み、道の右手の電柱に貼られた遍路シールに従い左に折れ岩瀬川に架かる橋に進む。
●他の遍路道
当日は上述の如く高速道路のトンネルを潜ると、遍路タグに従い右に折れ上述ルートを辿ったのだが、「えひめの記憶」では、そのまま直進し岩瀬川を渡り県道237に出て、そこを左折し宇和高等学校体育館へと向かうルート、また、岩瀬川を渡り北西に進み県道237号に当たるふたつのルートを記している。
その二つに分かれる分岐点にあったという道標も他所に移されており、北西に進むルートの目安となる宇和高等学校の農場、県道合流点とする七丁のバス停も特定できないため、上述遍路タグに従い進んだ遍路道を今回のルートとした。
◆「えひめの記憶」にある遍路道
参考に「えひめの記憶」にある遍路道の記事をメモしておく。
岩瀬川を渡り「やや行くと、元屋地邸(卯之町5)の前に、かつては茂兵衛道標が立っていた。この道標は、平成5年に工事の都合で宇和球場横の小高い丘の上に移されている。道標は手印で仏木寺と明石寺の方向をそれぞれ示しているが、「左 新道」という文字も見え、道標が建てられた明治35年(1902)の時点で、下鬼窪から明石寺に至る道には、新道と旧道があったことをうかがわせている。
地元の人の話を総合すると、新道は、元屋地邸の前から鬼窪の通りを直進して県道鳥坂宇和線(237号)に合流し、そこから県道を北に進み、宇和高等学校体育館横に立つ道標を経て明石寺に至る道であるという。一方、旧道は、元屋地邸の横から入る小路を通り、宇和球場横・宇和高等学校の農場を突き抜けて県道鳥坂宇和線上にあるバス停八丁坂付近に至る道であったようである。この旧道は現在は途中一部が消滅しているが、農園の辺りに「八丁」と呼ぶ地名も残っており、「八丁」は明石寺までの距離を示しているものと考えられる」。
宇和高等学校体育館横の道標
岩瀬川を渡った遍路道は道なりに進み、松山道を潜り県道237号に合流する。合流点から県道237号を少し南に戻った宇和高等学校の体育館前の歩道に道標が立つ。手印と共に「へんろ道」の文字が読める。この道標が上述の「新道」の道筋の名残を伝える。大正八年の年号も刻まれるというから、その頃まではこのルートがメーンであったのだろうか。また、いつの頃から、当日辿ったルートが加わったのだろうか。
愛媛県歴史文化博物館へのアプローチ道から右に折れる
宇和高等学校体育館の北側を愛媛県歴史文化博物館に上る車道がある。その道を進み、坂道の途中に立つ「四国のみち」の木標を右折。車一台通れる程度の舗装された山裾の道を進むと前方にこんもりと茂る森が見えてくる。
三差路の道標
森の手前の三差路に道標が立つ。「右 うの町 よし田 □□道」と刻まれるとある。この地で上述、新道・旧道の遍路道が合流したとのことである。この三差路から南に、県道を抜けて宇和球場へと下る道がある。これが鬼窪から分かれる旧道であろうか。
●たわら津道
道標の不明箇所は「たわら津道」とも言う。この地から県道45号を南西に進むと海岸線に俵津の地名が見える。現在は野福トンネルが通るが往昔は野福峠を越えていったのだろうか、また、野福峠の少し東にある法華津峠を越え、吉田から宇和島へと人々が往来したのだろか。想像するだけで結構楽しい。
明石寺奥之院
三差路先のこんもりと茂る森の道脇に「四十三番明石寺奥之院」と刻まれた石碑が立つ。注連縄が張られる境内には石の祠がある。白王権現が祀られると言う。
白王権現ってあまり聞いたことがない。『宇和旧記』には「十八、九の娘が、願をかけ深夜に軽々と大石を両腕に抱き歩いていたが、当所まで来たとき夜が明けてしまったため、大岩を置き去り消えてしまった。地元の人はその娘が千手観音の化身とも龍女の化身とも崇め、その大岩を白王権現として祠を建てて祀った、とある。
小さな祠は大岩の上にあるようにも思える。明石寺は「めいせきじ」と読むが、地元では「あげいし」さん、と呼ばれる。御詠歌は「聞くならく 千手不思議の誓いには 大磐石も軽くあげ石」とあるのがこの大岩と言うことだろう。
道の分岐点に道標
奥之院の森を出ると道はふたつに分かれる。「四国のみち」の木標がある左手の道手前に道標がある。正面に「へんろ道」、側面に「コレヨリ明石寺ヘ六丁 明治十五年」の文字が読める。
参道鳥居前に茂兵衛道標
更に狭くなった道を進むと明石寺参道入り口にでる。鳥居前には茂兵衛道標が立つ。道標には「明石寺 三丁余 仏木寺へ三里 左新道 大正三年」といった文字が刻まれる。
四十三番札所・明石寺
鳥居を潜る参道は道路拡張工事により途中で消えているようだ。「えひめの記憶」には、「昔の参道沿いには、途中に茅葺(かやぶ)きの茶堂が建てられていて、そこでは接待も行われていた。そのため、宇和町明石(旧明石村)には、毎回の接待費用を捻出する「接待田」と称する村有の田もあったという」とある。 整備された車道を300mほど進むと駐車場があり、その先に四十三番札所・明石寺がある。
これで宇和島市街から明石寺を繋ぐ散歩を終える。また、これをもって予土国境から予讃国境までの愛媛の遍路道を繋ぐことができた。2月に南予に降った大雪のおかげで、愛媛の遍路道を繋ぐ散歩を始めた明石寺で大団円となったもの、何となく嬉しい。
ついでのことながら、順不同となった愛媛の遍路道を予土国境から順にまとめてブログの静止ページ(「時空附箋」)に整理しておこうと思う。
如何なる天の配剤か、繋ぎを完結するお寺様である四十三番札所・明石寺は愛媛の遍路道繋ぎの旅のきっかけとなったお寺さまでもある。いつだったか、四十四番札所・大宝寺から四十四番札所・岩屋寺までを、単に「八丁坂」越えという語感に惹かれて歩いた折、大宝寺の前の札所が明石寺であり、80キロもあるという距離もさることながら、その途中にある農祖峠、下坂場峠、鶸田峠、真弓峠などに惹かれ、明石寺から大宝寺までの遍路道を繋いだ。
この明石寺からの遍路道繋ぎ散歩がきっかけとなり、どうせのことなら愛媛の遍路道をすべて繋いでしまおうとなったわけである。その明石寺に向けて、最後の仕上げに出かけることにする。
本日のルート;
■仏木寺道を下り四十二番札所・仏木寺へ■
徳右衛門道標を右折し駐車場へ>裏山に入る手前に道標>仏木寺道に3基の道標>仏木寺道と県道31号合流点脇に道標>道標>>沖戸橋>常夜灯と観音さま>四十二番札所・仏木寺
■仏木寺から歯長峠を越えて明石寺へ■
三間川・西谷橋を右折し右岸を北に>歯長橋からの道を左折し西に向かう>歯長峠上り口>道標>県道31号と合流>県道31号から分かれ土径に>土砂崩れ・道崩壊箇所>歯長峠>歯長隧道からの林道と交差>道標>県道31号に出る>歯長橋・地蔵堂>下川橋>道引大師堂・茂兵衛道標>岩瀬川左岸に>宇和高等学校体育館横の道標>「四国のみち」の木標>三差路の道標>明石寺奥之院>道の分岐点に道標>参道鳥居前に茂兵衛道標>四十三番札所・明石寺
■仏木寺道を下り四十二番札所・仏木寺へ■
徳右衛門道標を右折し駐車場へ
四十一番札所・龍光寺を離れ、次の札所仏木寺に向かう。本堂への石段途中に立つ徳右衛門道標を右に折れ、お寺さまの駐車場に出る。駐車場から裏山に入る石段がありそこを上る。
裏山に入る手前に道標
石段を上り裏山を西に越える土径に入る。山に入る手前に「右へ右へへんろ道 四十二番へ約三K」と刻まれた背の高い道標が立つ。『四国遍路道シリーズ 遍路道 伊予編(梅村武』には長浜市中尾多七の建てたもの。昭和四十一年春彼岸、とも刻まれている、と。この地の他、小松の香園寺裏門にも中尾氏の道標が立つとのことである。
はっきり読めなかったが「右へ右へ」とあるのは二本を一本にまとめたものでは、ともあった。
仏木寺道に3基の道標
裏山の木立の中に入ると、3基の道標が道を示す。「右へ四丁丘をこす」「右へ四十二番近道」「右に下る仏木寺みち」と刻まれる。それぞれ2分ほどの間隔で立つ。この道標も上述の中尾氏が建てたものとのことである(『四国遍路道シリーズ 遍路道 伊予編(梅村武』)。
「伊予遍路道 仏木寺道」と称される遍路道は10分強で前が開け、ブドウ畑の脇を抜け県道31号に出る。
仏木寺道と県道31号合流点脇に道標
仏木寺道が県道に出た箇所の、道の反対側にガードレール脇に道標が立つ。手印と共に「へんろ道 仏木寺へ二十丁 へん路みち 稲荷山へ五丁」と順路・逆路の道を指す。
道標
更に少し先に進むと、道の左手に道標が立つ。「へんろ道 昭和十四年」とある。地元の方々が建てたものと言う。道標に従い県道を進み、西谷川手前で遍路道は県道を離れ右に折れる。
常夜灯と観音さま
県道31号を離れ西谷川に架かる沖戸橋を渡ると常夜灯と観音菩薩が立つ。「えひめの記憶」には、「この地は沖戸駄馬と呼ばれる馬のつなぎ場ともなっていたという。広場の端には遍路墓らしきものもある」とする。
遍路道は三間町則(すなわち)の家並みに入り、やがて県道と合流する。「即」は「須之内」からの転化、かも。「須之内」は愛媛県西条市の「洲之内」をルーツとする、といった記事もある。そこから移り住んだのだろうか。「洲之内」は読んで字の如くの意味だろう。
●バリエーションルート
龍光寺参道口の鳥居の脇に「四国のみち」の案内があった。この道は県道に出ることなく、龍光寺の東を進む。どんな道筋かちょっと歩いてみた。
道を北に進み、車道が右に折れるところを直進し田圃の畦道を進み、しばらく歩き先ほど分かれた車道に合流。
合流点を少し進むと左に折れ、中山池の堰堤に上り、池の南の木立の中を進む。気持のいい木立の中を進み、里にでると「四国のみち」の木標。案内に従い右に折れ、要所に立つ木標田圃の中、丘の裾に沿って仏木寺まで続く。
四十二番札所・仏木寺
県道を進むと道の右手に山門が見える。二層の立派な山門を潜り境内に入る。右手に茅葺の鐘楼が建つ。茅葺の鐘楼はあまり見かけなかった。境内には正面に本堂、左手に大師堂、右手には家畜堂が建ち、瓦焼きの家畜やペットの縫いぐるみなども祀られる。
家畜堂
「えひめの記憶」には、「寺に家畜堂があるのは珍しいが、龍光寺の「おいなりさん」に対して仏木寺は「牛の大日さま」と呼ばれて現在でも地域の人々に親しまれている。牛馬の守り本尊の寺として、今日でも旧暦の6月の丑(うし)の日には胡瓜(きゅうり)封じの供養が行われている。
この寺と牛のかかわりは、寺に伝わる一つの大師伝説に由来する。武田明は、『巡礼の民俗』の中でその伝説を、「弘法大師がこの地を通りかかると牛をひいた老人にあった。みちびかれて楠の下を通ると上から宝珠が落ちてきた。その宝珠は大師が唐にいた時に三鈷と共に東にむかって投げた宝珠であった。大師はその楠で大日如来を刻み仏木寺を建てた。本尊大日如来は牛馬の本尊で牛の病平癒のために絵馬をあげると言う」とある。
本尊は大日如来であり、大日如来が牛に乗って現れる、といった話は時に聞く。当寺は、一カ(カは王偏に果)山毘盧舎那院(びるしゃないん)と号す。毘盧舎那院(びるしゃないん)は「遍く照らす」の意で、大日如来の別名であり、奈良の大仏(廬舎那仏)も大日如来の尊像である。
●大日如来
仏は如来、菩薩、明王、天部の四カテゴリーに分かれる。Wikipediaに拠れば、「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。
以上3つのグループの諸尊に対して、「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。天部に属する尊像としては仁王(金剛力士)、鬼子母神、吉祥天などである。
●一カ(カは王偏に果)山
山号の「一カ(カは王偏に果)山」は上述の宝珠をひとつの果物になぞらえたもの。
このお寺さまは中世期には宇和町を本拠とする西園寺氏の分家筋の菩提寺。江戸期には宇和島・吉田藩伊達氏の祈願所として本堂の造営などが行われている。
●道標
山門前、県道に面して2基の道標がある。右手は「四十二番 仏木寺 明治九年 右従是稲荷江二十五丁 左 従是明石寺江三里」、左手は茂兵衛道標。「左 仏木伽藍 明治廿一年 明石寺迄三里」と刻まれる。
茂兵衛道標には添句も刻まれる。「吹風も清し蓮乃花の寺 白杵陶庵」とある、と。陶庵の詳細は不明。この道標は巡礼百度を記念するものでもあり、茂兵衛が尊敬した僧侶ではないかとも言う((『四国遍路道シリーズ 遍路道 伊予編(梅村武』)。
なお同書には陶庵の添句として同じく百度目の標石である五十二番札所太山寺の道標にも「阿ハ礼可シ。。。(あはれかし今世に迷う人々を たすくる石に道しるべけり)」と刻まれるという。
■仏木寺から歯長峠を越えて明石寺へ■
三間川・西谷橋を右折し右岸を北に;13時39分
仏木寺を離れ歯長峠越えに向かう。県道31号から分かれ西に進む県道279号を少し進み、松山自動車道を潜り、三間川に架かる西谷橋を右折し、右岸を北に進む。
ここからは峠越えの参考として時間と山間部では標高を記しておく。
歯長橋からの道を左折し西に向かう:13時48分
少し進むと西谷橋のひとつ上流に架かる歯長橋から西に分かれる舗装された道筋にあたる。その道に乗り換え左折し西に向かう。
車居池を左に見遣り、松山道の作業所のフェンス脇を少し西に進むと登山口に至る。
歯長峠上り口;13時58分(標高230m)
上り口には「四国のみち」の案内と共に道標がある。手印と共に「へんろみち 明治三十六年」」と刻まれる。
道標;14時5分(標高285m)
10分弱土径を進み高度を50m強上げると道標があり、「左へんろ道」」と刻まれる。
県道31号と合流;14時14分(標高330m)
等高線を斜めに、緩やかな上りを20分ほど進み標高を50mほど上げると遍路道は山肌をヘアピンカーブで上ってきた県道31号にあたる。
県道31号から分かれ土径に;14時19分(標高350m)
県道31号を5分ほど進み、尾根筋が南に突き出た手前で遍路道は県道を離れ土径に入る。
●四国のみち
土径に入る県道先のコーナー部に「四国のみち」の案内がある。先にメモした龍光寺から仏木寺へのバリエーションルートとしての「四国のみち」も記載されていた。その脇には「歯長峠 この峠は法華津連峰の一隅にあり、三間町と宇和町を結ぶ交通の要衝です。
昭和45年に県道三間宇和線が開通するまでは、ずっと上方の旧へんろ道が唯一の道路であったため交通の往来に不便をきたしておりました。
この地点からは足摺宇和海国立公園のリアス式海岸が一望できるほか、はるかに鬼ヶ島連山が望め四季折々の変化のある景観が眼下に展開されます」とあった。
木々が全面を遮り展望はよくないが、木々の間からそれらしき景観が少し楽しめた。
土砂崩れ・道崩壊箇所;9時45分(標高440m)
土径にはいるとすぐに休憩所〈9時36分〉がある。道を進むと「土砂崩れ 通行止め」の案内。どの程度の状態か確認に進む。
鎖やロープの張られた急登を進むと崩壊箇所に。結構後半に斜面が崩れているが虎ロープが張られており、慎重に進めば大丈夫と判断し、そのまま進むことにした。
歯長峠;9時56分(標高490m)
道崩壊箇所から先は等高線に沿ったり、また斜めに切り上がったりと、緩やかな道10分ほど上ると石組が見え、その先の平坦箇所がにブロック造りの社や石碑が建つ。そこが歯長峠であった。県道から分かれる土径から40分程度で高度を250mほど上げ、峠に着いた。
ブロック造りの祠に祀られる石仏にお参り。「えひめの記憶」によると、祠には見送大師が祀られると言う。
●見送大師
「歯長峠は、三間町と吉田町と宇和町(私注;三間町と吉田町は現在宇和島市、宇和町は西予市となっている)の境界に位置する。そこには見送大師を安置する「送迎庵見送大師」と呼ばれる大師堂が建立されている。大師堂は、吉田町大河内の町有林(旧立間村有林)の中にあり、古くは辻堂として峠を行き交う遍路や馬子(まご)たちの信仰を集めていたという。
地元の人の話によると、この大師堂は、もとは六角屋根の木造のお堂で、「四十二番札所仏木寺奥之院」の木札が掛かっていた。しかし、昭和39年(1964)に遍路の失火によって焼失し、昭和42年に地域が大干ばつに見舞われた折に、「あのお堂の地蔵さんを雨曝(あまざら)しにしている崇(たた)りではないか。」と資金を出し合ってお堂を再建したという。現在はブロック造りの簡易なお堂となっている。
この大師堂では、吉田町大河内の人たちが、昔は毎年3月の縁日に餅(もち)やミカンなどを持ち寄って接待をしていたが、現在では、大河内地区の年中行事として、仏木寺の縁日に、供物を持ち寄って大師堂に集まり、家内安全と豊作を祈願し、その後は仏木寺に参詣して帰ることにしているという(「えひめの記憶」)。
峠の平坦地からは、リアス式の海岸は見ることはできなかったが、この峠からは眼下の連山の遠望を楽しむことができた。
平坦場には営林記念の石碑が立つ。かつての歯長峠について、「えひめの記憶」には「歯長峠には昔は茶店もあった。今もその遺構らしき石が残っている。門多正志氏の『宇和歴史探訪記』によると、明治から大正時代にかけての宇和町内の児童の修学旅行は、歯長峠を越えて三間町の宮野下(みやのした)まで歩き、それから汽車に乗って宇和島に行くのが通例であったという。
その時の「峠の茶屋」にかかわる思い出を、「峠に着いたのは昼ころで、すでに幾人もが休憩していた。茶屋には駄菓子、ラムネ、草履(ぞうり)などが売られ、赤ケットを敷いた涼み台も置かれていた。時鳥(ほととぎす)やうぐいすの鳴き声、白装車の四国遍路が鈴を鳴らして、次々と峠を越えて行った姿が印象に残っている」と記してあった。
●歯長峠の由来
見送大師堂内にあった案内によると、「昭和の初期まで,この峠道は宇和と三間・宇和島をつなぐ唯一の生活道で,大勢の人の往来で賑わい,ここにも巨人伝説が有る。
多分に伝説的な人物である東国武将足利又太郎忠綱は末代無双の勇士で,源氏の出自ながら故あって平氏側について功名を馳せ,その後,源氏に追われて西国に逃れ,この地に居住した。
力は百人力,声は十里四方にも及び,その歯の長さは実に一寸余。又の名が歯長又太郎。ここで庵を結んだことがら,庵寺にも峠にも歯長の名がついた(現在宇和町伊賀上の歯長寺に歯長又太郎の供養五輪があり,歯痛の神ともなっている)。
宇和への入り□であり,戦略上の要衝でもあったこの峠は宇和と土佐勢の攻防の舞台であり,幾多の合戦の後,長曽我部軍に攻略されたと伝えられている 西予市教育委員会」とあった。
●道標
峠からの下り口に倒れかけた道標が残る。手印と共に「へんろ道」と刻まれる。
歯長隧道からの林道と交差;10時10分(標高420m)
峠から等高線を斜めに10分程かけて高度を80mほど下げると林道と交差する。林道は県道31号が歯長峠下を抜いた歯長隧道から続いている。
●歯長隧道
当日ピストンでの戻り道、ちょっと歯長峠の風情を見に寄り道。5分ほどで隧道に着いた。隧道を北に出たところに里に下りる「四国のみち」の木標があった。 県道から登山口傍にあった「四国のみち」の案内図には大雑把ではあるが、県道のように大きく曲がることなく里に直線で下りて行く。
道標;10時23分(標高330m)
林道を交差し下る道は、ほんのしばらく等高線を斜めに下るが、林道交差部から高度を40mほど下げた辺りから、尾根筋を垂直に下るようになり、時に厳しい箇所もあるが、概ね等高線の間隔が比較的広いところも多くそれほど険しくはない。
林道交差部から高度を120mほど下げたところ、倒れた松の下に道標がある。「明石寺 是ヨリ二里 寛政七」といった文字が刻まれると言う。
この道標、巨木に隠れ見逃しやすい。実際当日も往路は見逃したのだが、復路で見つけた。ピストン行の賜物でもある。
県道31号に出る;10時37分(標高210m)
道標から15分程、比較的緩やかな道を下り高度を120mほど下げると県道31号に合流する。
県道31号合流手前の沢に石橋が架かり、その手前山側には道標が立つ。「えひめの記憶」に拠れば、「この道標には、石橋の寄付をした16名の名前が刻まれているが、「仏木寺一里半」「明石寺一里半」の文字も見え、ここが両札所のちょうど中間地点であることを示している」とある。
歯長峠から1時間20分程度で里に下りた。歯長峠へと県道31号から土径に入り峠を越えて里に下りるまでおおよそ2時間程度であった。
歯長橋・地蔵堂
県道31号を肱川(上流部を宇和川とも)に架かる歯長橋まで進む。橋の手前、道の右手に地蔵堂が建つ。「えひめの記憶」には「橋の手前の山際には巨岩があった。そこには石仏を祀(まつ)ったお堂があり、お堂のそばには小さな遍路墓らしき墓石ももたせかけられていたという。しかし、その巨岩は、平成12年の道路拡張工事で撤去され、現在は道を挟んだ向かい側にその石仏を祀る新しい地蔵堂が建てられている」とあった。
下川橋
遍路道は橋を渡ることなく、肱川左岸を進み下川橋で右岸に渡る。ところで、「下川」の読みだが、「ひとう」川とある。宇和島市宇和町下川と地名にもなる。読みに惹かれる。「しとう」川とも称するようであり、「しとう>ひとう」の転化であればなんとなく納得。
道引大師堂
下川橋を渡り県道29号に出る。左折少し進むと県道右手に道引大師堂がある。「えひめの記憶」には「道引大師堂には、中央に道引大師像、左側に弘法大師像、右側に不動明王像が祀られている。昔は現在の敷地いっぱいに茅葺(かやぶ)きの大師堂が建てられていて、ここでは接待も行われていたという。(中略) 下川では、険しい歯長峠越えで力尽きて行き倒れる遍路も多くいた。(中略)昭和初期ころまでは、峠から宇和町側の地で行き倒れた遍路は、下川地区の者が順番に4人一組となって世話をし、巨岩のあった裏手の山際に埋葬していたと話している。
また、下川は、疲れた遍路が体を癒(いや)すに適した場所でもあり、遍路が泊まる幾つかの木賃宿もあった」とある。
●明治の下川集落
「えひめの記憶」には、「明治40年(1907)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で次のように記しており、当時の宿の様子をうかがい知ることができる」とし、「下川(しもがわ)の木賃(ぼくちん)に宿(やど)る。一水(すゐ)を隔(へだ)てヽ渓山前(けいざんまえ)に峙(そばだ)つ。二軒(けん)の木賃(ぼくちん)あり競(きそ)ふて杖(つゑ)を引(ひ)く、若(わか)き女主頗(ぢょしゅすこぶ)る勞(いた)はる。此夜(このよ)、予等(よら)の宿(やど)りし木賃(ぼくちん)の客(きゃく)十五六人(にん)ありて、ガヤガヤゴタゴタ遍路始(へんろはじ)めて以來(いらい)の大勢(おおぜい)なり。然(しか)れども女主(ぢょしゅ)の言(げん)に依(よ)れば春先(はるさき)は五十、八十の客(きゃく)を泊(はく)せしむと。此家(このいえ)に拂(はら)ひし米代宿料左(こめだいしゅくりょうさ)に示(しめ)すべし。金(きん)拾八錢(せん)、米(こめ)一升代(しやうだい)、金(きん)拾貳錢(せん)、宿料二人分(しゅくりょうふたりぶん)、金(きん)四錢(せん)、菓子代(くわしだい)、金(きん)壹銭(せん)五厘(りん)、ワラジ代(だい) 女主云(ぢょしゅい)ふ、明晩(みやようばん)なれば、毎月何人(まいげつなんにん)にてもうちではお接待(せったい)いたしますのにと、この毎月(まいげつ)二十日(か)は大師忌日(だいしきじつ)の逮夜(たいや)なればなり。民俗(みんぞく)の大師信仰(だいししんかう)の状此(じやうこれ)にても早(はや)く知(し)る」と明治の頃の下川集落を描いている。
●茂兵衛道標
道引大師堂の前には下川橋が完成したころの道案内であったという茂兵衛道標がある。正面には「佛木寺 一里半余」、右面には「明石寺へ一里」と刻まれる。
●道引大師像
堂内にある道引大師像は導引大師像とも呼ばれる。由来は不明だが、文字面からすれば、どこか有難いところへ導いてくれるのだろう、か。
岩瀬川左岸に
県道31号を進む遍路道は宇和町皆田で県道31号から右に分かれ、松山自動車道の高架を潜り皆田の町並みを抜け、再び県道に合流。左手に肱川を見遣りながら少し進み、宇和町稲生で県道31号から右に分かれる道を進み、道なりに進み、松山自動車道西宇和インターチェンジへのアプローチ部の下を潜る。
出口右手の電柱に遍路道を案内するシールがあり、右折の指示。指示に従い北に進み再び高速道路へのアプローチ部手前に遍路シール。
指示に従いトンネルを抜け北に進み、道の右手の電柱に貼られた遍路シールに従い左に折れ岩瀬川に架かる橋に進む。
●他の遍路道
当日は上述の如く高速道路のトンネルを潜ると、遍路タグに従い右に折れ上述ルートを辿ったのだが、「えひめの記憶」では、そのまま直進し岩瀬川を渡り県道237に出て、そこを左折し宇和高等学校体育館へと向かうルート、また、岩瀬川を渡り北西に進み県道237号に当たるふたつのルートを記している。
その二つに分かれる分岐点にあったという道標も他所に移されており、北西に進むルートの目安となる宇和高等学校の農場、県道合流点とする七丁のバス停も特定できないため、上述遍路タグに従い進んだ遍路道を今回のルートとした。
◆「えひめの記憶」にある遍路道
参考に「えひめの記憶」にある遍路道の記事をメモしておく。
岩瀬川を渡り「やや行くと、元屋地邸(卯之町5)の前に、かつては茂兵衛道標が立っていた。この道標は、平成5年に工事の都合で宇和球場横の小高い丘の上に移されている。道標は手印で仏木寺と明石寺の方向をそれぞれ示しているが、「左 新道」という文字も見え、道標が建てられた明治35年(1902)の時点で、下鬼窪から明石寺に至る道には、新道と旧道があったことをうかがわせている。
地元の人の話を総合すると、新道は、元屋地邸の前から鬼窪の通りを直進して県道鳥坂宇和線(237号)に合流し、そこから県道を北に進み、宇和高等学校体育館横に立つ道標を経て明石寺に至る道であるという。一方、旧道は、元屋地邸の横から入る小路を通り、宇和球場横・宇和高等学校の農場を突き抜けて県道鳥坂宇和線上にあるバス停八丁坂付近に至る道であったようである。この旧道は現在は途中一部が消滅しているが、農園の辺りに「八丁」と呼ぶ地名も残っており、「八丁」は明石寺までの距離を示しているものと考えられる」。
宇和高等学校体育館横の道標
岩瀬川を渡った遍路道は道なりに進み、松山道を潜り県道237号に合流する。合流点から県道237号を少し南に戻った宇和高等学校の体育館前の歩道に道標が立つ。手印と共に「へんろ道」の文字が読める。この道標が上述の「新道」の道筋の名残を伝える。大正八年の年号も刻まれるというから、その頃まではこのルートがメーンであったのだろうか。また、いつの頃から、当日辿ったルートが加わったのだろうか。
愛媛県歴史文化博物館へのアプローチ道から右に折れる
宇和高等学校体育館の北側を愛媛県歴史文化博物館に上る車道がある。その道を進み、坂道の途中に立つ「四国のみち」の木標を右折。車一台通れる程度の舗装された山裾の道を進むと前方にこんもりと茂る森が見えてくる。
三差路の道標
森の手前の三差路に道標が立つ。「右 うの町 よし田 □□道」と刻まれるとある。この地で上述、新道・旧道の遍路道が合流したとのことである。この三差路から南に、県道を抜けて宇和球場へと下る道がある。これが鬼窪から分かれる旧道であろうか。
●たわら津道
道標の不明箇所は「たわら津道」とも言う。この地から県道45号を南西に進むと海岸線に俵津の地名が見える。現在は野福トンネルが通るが往昔は野福峠を越えていったのだろうか、また、野福峠の少し東にある法華津峠を越え、吉田から宇和島へと人々が往来したのだろか。想像するだけで結構楽しい。
明石寺奥之院
三差路先のこんもりと茂る森の道脇に「四十三番明石寺奥之院」と刻まれた石碑が立つ。注連縄が張られる境内には石の祠がある。白王権現が祀られると言う。
白王権現ってあまり聞いたことがない。『宇和旧記』には「十八、九の娘が、願をかけ深夜に軽々と大石を両腕に抱き歩いていたが、当所まで来たとき夜が明けてしまったため、大岩を置き去り消えてしまった。地元の人はその娘が千手観音の化身とも龍女の化身とも崇め、その大岩を白王権現として祠を建てて祀った、とある。
小さな祠は大岩の上にあるようにも思える。明石寺は「めいせきじ」と読むが、地元では「あげいし」さん、と呼ばれる。御詠歌は「聞くならく 千手不思議の誓いには 大磐石も軽くあげ石」とあるのがこの大岩と言うことだろう。
道の分岐点に道標
奥之院の森を出ると道はふたつに分かれる。「四国のみち」の木標がある左手の道手前に道標がある。正面に「へんろ道」、側面に「コレヨリ明石寺ヘ六丁 明治十五年」の文字が読める。
参道鳥居前に茂兵衛道標
更に狭くなった道を進むと明石寺参道入り口にでる。鳥居前には茂兵衛道標が立つ。道標には「明石寺 三丁余 仏木寺へ三里 左新道 大正三年」といった文字が刻まれる。
四十三番札所・明石寺
鳥居を潜る参道は道路拡張工事により途中で消えているようだ。「えひめの記憶」には、「昔の参道沿いには、途中に茅葺(かやぶ)きの茶堂が建てられていて、そこでは接待も行われていた。そのため、宇和町明石(旧明石村)には、毎回の接待費用を捻出する「接待田」と称する村有の田もあったという」とある。 整備された車道を300mほど進むと駐車場があり、その先に四十三番札所・明石寺がある。
これで宇和島市街から明石寺を繋ぐ散歩を終える。また、これをもって予土国境から予讃国境までの愛媛の遍路道を繋ぐことができた。2月に南予に降った大雪のおかげで、愛媛の遍路道を繋ぐ散歩を始めた明石寺で大団円となったもの、何となく嬉しい。
ついでのことながら、順不同となった愛媛の遍路道を予土国境から順にまとめてブログの静止ページ(「時空附箋」)に整理しておこうと思う。
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