讃岐 歩き遍路;八十四番札所 屋島寺より八十五番番札所 八栗寺へ

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真念の『四国遍路道指南』には、「是(私注;屋島寺)よりやくりじまで一里有。寺より東坂十丁下り、ふもとに佐藤次信のはか有」とあり、その後は相引川を渡り牟礼に入り、洲崎寺をへて八栗寺へと上っている。
本日のルートはこの遍路道を辿るのだが、寺から?丁下るという東坂がどこかよくわからない。国土地理院の地図を見ると、屋島寺から屋島東麓を次信地区へ延びる破線があり、その道筋に佐藤継信の墓もある。道は荒れて歩けないといった過去の記録もあるようだが、とりあえずその破線ルートが真念の言う東坂であろうとトライした。
結局道はきれいに整備されており何の問題もなし。その後は地名の壇ノ浦が示すように、源平争乱記の壇ノ浦合戦の旧跡と処々に出合いながら八栗寺へと上った。
それにしても源平屋島合戦の地が壇の浦、また平氏滅亡の舟合戦のおこなわれた地も壇の浦。偶然一致とすればできすぎている。島の壇の浦の由来は、飛鳥時代に大宝律令に基づき、屋島に軍団が置かれ、その軍団の浦(湊:津)故に団の浦>壇の浦とWikipediaにあった。山口の壇の浦は海岸地形を表す名とある(Wikipedia)だけで詳細は不明。少し寝かせてそのうちに深堀してみよう。

本日のルート;八十四番札所 屋島寺>遍路道下山口へ>下山口>3丁目舟形地蔵丁石>屋島スカイウエイ>舟形地蔵丁石と石仏>車道と繋ぐ>>舟形地蔵丁石と破損した大師座像>大楽寺>佐藤継信の墓>茂兵衛道標>小堂に地蔵標石>安徳天皇社>小堂と地蔵>源平合戦史跡の石碑>菊王丸墓>高橋手前のお堂に標石と石仏>洲崎寺角に茂兵衛道標>洲碕寺>標石2基>牟礼北小学校正面前に標石>三叉路のお堂に地蔵丁石と遍路墓>小堂に地蔵丁石と傍に標石>「山田家うどん」傍のお堂に地蔵と標石>県道146号に出る>八栗ケーブル駅>お堂や舟形地蔵>加持水>歓喜天の扁額をもつ鳥居>お迎え大師>八十五番番札所 八栗寺

八十四番札所 屋島寺
仁王門より境内に。
四天門
前後各2体、前には増長天と持国天、後ろに多聞天と広目天の四天王が寺を護る。 四天門の右手に標石。「是よりやく里寺 **五丁」といった文字が刻まれる。
可正桜
また四天門左手、門の少し手前に可正桜。「この老桜は高松藩士松平半左衛門可正が老後の楽しみとして、寛文五年(1665)、屋島寺石段の左右に七株を植えました。そのうち六株は枯れ残った一株を現在の地に移植したものです。
可正は次のような歌も残しています。
花の時人きてもしも問うならば可正桜と名を知らせてよ」
梵鐘
四天門を潜ると右手に鐘楼、左手に本坊。鐘楼の梵鐘は鎌倉時代の作。国指定重要文化財。「平家供養の鐘」とも称されるこの梵鐘は国分寺の鐘に次ぐ古鐘とのこと。
本堂
正面に本堂。鎌倉時代後期に再建されたもの。江戸時代に半解体修理されたため向拝、妻飾、軒廻りなど一部江戸様式を残す国指定重要文化財。本尊は十一面千手観音。後背の銘には「弘法大師御作之本尊也 弘仁元年二月」といった墨書きがある、ともされる。藤原時代初期の作でこれも国指定重要文化財となっている。

Wikipediaには「南面山 千光院 屋島寺(やしまじ)。屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。
律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。

その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年~57年)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。
明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である」とある。

鑑真の弟子で初代住職は恵海と書かれている記録もありはっきりしないが、空海が15歳で都に上る折、当山に上り空鉢恵海律師より戒律を受け、それ故に「空海」と称するようになったといったお話もある。

蓑山大明神
本堂の右手に赤い鳥居が北に続く。扁額に「蓑山大明神」とある鳥居前、両側に大きな狸像。赤い鳥居といえばお稲荷さん、お稲荷さんと言えば狐とくるが屋島寺は狸であった。 鳥居脇の案内には「蓑山大明神之由来 屋島太三郎狸 その昔、弘法大師さんが四国八十八ヶ所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたと言う。のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。
屋島の太三郎狸は、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称せられています。
太三郎狸は屋島寺本尊千手観音の御申狸(おんもうしだぬき)として善行をつんだため、土地の地主の神として、本堂の横に大切に祭られ、四国狸の大将としてあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。
尚屋島太三郎狸は一夫一婦の契りも固く、家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をます狸として全国よりの信者が多い」とあった。
屋島稲荷
鳥居横、本堂との間には「蓑山塚」があり多くの狸の置物が奉納されていた。その横には蓑山大明神を祀る小祠がある。それはそれでいいのだが、小祠を更に先に進むとその先に「屋島稲荷」と扁額に書かれた赤い鳥居前に出る。立ち並ぶ赤い鳥居を潜りゆくと狐が両側に座る石造物があり、真ん中の石には「平雄明神、朝日明神、七九朗明神」と刻まれていた。蓑山大明神にお参りすることは、知らず屋島稲荷の大明神にお参りするといった「立て付け」となっている。これってなんだろう?




大師堂・三体堂・千体堂
蓑山大明神の東側に大師堂。その南側に三体堂と千体堂が並ぶ。三体堂には鑑真が祀られ、千体堂には中央に千手観音、その背後に千体仏が並ぶ。



獅子の霊験
千体堂の南に山門があり、次の札所へと辿る遍路道に出るのだが、その前に屋島寺の西にある獅子の霊験にちょっと立ち寄り。
四天門まで戻り可正桜の所を東に進む。途中、土産物屋、新屋島水族館前を通り屋島寺西側の眺望の地に。獅子が吼えているような岩が屹立する故の命名と言うが、小学校の修学旅行での「瓦け投げ」を思い出す。瀬戸の島々、高松市街が一望の地。
で、霊験とは?弘法大師が屋島のお山に巡錫の折、本堂を一夜で建立し、また本尊の千手観音を一夜で彫上げたとの寺伝がある。その時のこと。完成しないうちに夕方となったため、この地(獅子ノ霊験)の地にて祈願し、夕日を呼び戻して彫上げた、と。その不思議な感応を以てしての「霊験」の命名かと。


屋島寺から八栗寺へ

遍路道下山口へ
獅子ノ霊験を離れ、次の札所八栗寺への遍路道下山口に向かう。下山口は特定できてはいなかったのだが、国土地理院の地図に屋島寺から東に続く折れ線が描かれる。それが下山道ではと、あたりをつけて下山口をチェック。Google Street Viewでチェックすると、屋島寺の東にある駐車場の南、今は廃墟となっている大きな建物傍(ホテル?)に下山口らしき標識があった。

屋島東側
そこを目指し、山門を出て源平合戦の折兵士が血刀を洗ったと伝わる「血の池」を経て屋島東側に。こちらも獅子の霊験同様の眺望が楽しめる。源平合戦の地・檀の浦、そしてその向こうに次の札所のある五剣山。こちらは台地状・メサの屋島とは趣を異にした姿を現す。白く削られた山肌は世に知られる庵治石(花崗岩)の丁場(石切場)かと思う。

屋島と五剣山
屋島と五剣山、隣り合う半島に突き出した山にも関わらず、その山容は全く異にする。屋島は山頂部の平坦地とそれを取り囲む急斜面の台地とそれを支える緩斜面の裾野。メサと称される。一方の五剣山は山頂部険しい岩峰が屹立し、その周囲は深い谷が刻まれる。
これってその因は何だろう?チェックする。地質は全く不案内ではあるが、大雑把に理解したところによると;両者の基盤を成すのは同じ地質の花崗岩。おおよそ9000万年前に形成された。その後1400万年前に火山活動が起こる。その時に基盤の花崗岩に被さった地質が異なったようだ。
屋島側は讃岐岩室安山岩、通称サヌカイトと称される固い岩質、それに比べて五剣山側は「柔らかい」岩質。その因は異なる系統の火山活動による火砕流堆積物の違い。それを成したのはかつて、といっても1400万年も昔のことだろうが、屋島と五剣山の間には山があり、屋島側と五剣山側を隔てていたようである。
で、長い年月による侵食作用に対しても、その抵抗力の強い固いサヌカイトの地層をもつ屋島は大規模にその山体が残り、故に山麓部の花崗岩層が地震などで崩壊しても山頂部から岩石を供給し谷が造られず現容を留める。一方、屋島側に比して「柔らかい」地層からなる五剣山側は削られ、険しい山峰よりなる五剣山として残り、またそれ故に山麓での崩壊部に供給しうる岩石に乏しく谷が発達し更に削られて現在の山容を呈した。はるか、遥か、気の遠くなるような1400万年前と言う時間軸での話ではある。


百聞は一見にしかず、ということで、メモの参考にさせてもらった、「屋島のメサはどのようにしてできたのか? 香川大学工学部 長谷川修一」の図(「約 1400 万年前の屋島と五剣山))を掲載させて頂く。




ついでのことでもあるので、香川のお山を特徴づけるお椀を伏せた山容の因は?これも基盤は7000万年から8000万にできた花崗岩。そこにマグマが陥入し垂直に花崗岩層を垂直に貫いた地層を形成。その地層が屋島山頂部と同じ、固い讃岐岩室安山岩(サヌカイト)。ために周囲の花崗岩が風化しても核となる部分が固い岩質であるため、山体は崩れず、谷も発達せず、なだらなか山容を保つ、と言う。


下山口;10時38分
眺望の地を少し南に進み、上述廃墟となった建物脇を進むと道の右手に2基の石仏、そして「八栗寺 へんろ道」と書かれた木の標識があった。下山口を確認。道の山側には 舟形地蔵も立っていた。




3丁目舟形地蔵丁石;10時55分
下山口から山道に入る。整備はされているが結構な急斜面。虎ロープも処々に張られている。痛めた膝には少々キツイ。17分ほど下ると舟形地蔵丁石。「3丁目」と刻まれる。


屋島スカイウエイ;10時57分
その丁石から少し下ったところにも舟型地蔵。丁石とは思うが文字は摩耗して読めなかった。
舟形地蔵丁石から直ぐに屋島スカイウエイと交差。かつては民営の屋島ドライブウエイとして有料道路であったが、高松市による無料化の取り組みがなされ、平成30年(2018)に屋島スカイウエイとして供用が開始された。

舟形地蔵丁石と石仏;11時11分
スカイウエイを越えると斜面は少し緩やかになる。スカイウエイからおおよそ15分下ると舟形地蔵丁石と石仏。丁石には「五丁目」と刻まれる。



車道と繋ぐ;11時16分
舟形丁石から少し下ると猪侵入防止フェンス。フェンスを抜けるとその先に簡易舗装の急坂があり、里の民家が見えた。おおよそ40分弱で山道を下ったことになる。膝を痛めていなければもっと時間は短くて済んであろう、そんな山道下りであった。

舟形地蔵丁石と破損した大師座像
里に出る急坂を下り切った道の右手に舟形地蔵丁石と破損した大師座像。丁石には「六丁目 享保十四」といった文字が刻まれる。更に少し下った道の右手に広場があり、その道端にも舟形地蔵丁石が立つ。摩耗が激しく文字は読めない。

大楽寺
道の左手に大楽寺のお堂。境内には台石と共に、4mほどの宝篋印塔が建つ。「三界万霊 天保八」といった文字が刻まれる。



お堂前、道の右手には大きな地蔵座像の石仏や南阿弥陀仏と刻まれた石碑、3基ほどの舟形地蔵が並ぶ。舟形地蔵には「八丁」「*丁」といった文字も刻まれる。少し下った道の左手に2基の石仏。美しい。

佐藤継信の墓
集落を南北に横切る車道を越えると、道の右手に佐藤継信の墓がある。広場中央の大きな石積みの上に碑が建ち、その裏手に高さ1.5mほどの古い五輪塔もあった。
案内には「継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登の守教経の強弓により、大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。また、墓は牟礼町王墓に残っています。高松市 高松観光協会」とあった。お墓と言うより供養塔といったもののようだ。

供養塔前、道の左手には多くの石仏が並ぶ。中でも目立つのが薬師如来とか十二薬師、十二薬師如来とか刻まれた文字仏石。十二薬師ってよくわからない。薬師如来には除病安楽、苦悩解脱などの十二の誓願があるようだ。そのことと関係あるのだろうか。「弘法」の文字が読める破損した割石石柱もあった。
牟礼町王墓
佐藤継信の墓は高松市牟礼町牟礼2395の神櫛王墓の東隣にもある。案内にある「王墓」とはこの神櫛王墓のことだろう。景行天皇の子で讃岐国造の祖とされる神櫛王には、80番札所国分寺手前の「日向王の塚」で出合った。

茂兵衛道標
道を東に進み、南北に走る車道に出たところ、四つ辻の東北角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「八栗寺 屋島寺 明治二十九年」といった文字が刻まれる。茂兵衛149度目の四国遍路巡礼時のもの。遍路道はここで右に折れ南に向かう。

小堂に地蔵標石
南に下る道が東にカーブする箇所に小堂があり中に舟形石仏。お地蔵様の頭の上に手印があり標石となっている。天保年間に造られたもの。カーブを曲がると道の左手に安徳天皇社がある。




安徳天皇社
社の前に「屋島遍路みち案内(弘法の道)」の旧跡案内があり、「寿永2年(1183)、平宗盛は安徳天皇を奉じ、一の谷から屋島に逃れてきました。ここは、檀の浦の入り江に臨み、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦いには地の利を得たところであったので、宗盛は行宮を建て将士の陣営をつくりました。安徳天皇社あたりが行宮跡だったと言われています」とあった。
社の建立時期は不明。壇之浦の合戦で平氏が破れ、入水しむなしくなった安徳天皇の霊を弔うために建てられたのだろうか。境内には屋島の合戦で亡くなった平氏将士を弔う三界万霊碑も建つ。
壇之浦(壇之浦)
この案内には檀ノ浦とあるが、壇ノ浦との表記もある、それよりなにより源平最後の合戦は山口の壇ノ浦、この地、屋島の合戦が行われた地も壇ノ浦と表記は同じ。安徳天皇が入水したのは山口県の壇ノ浦である。
で、讃岐の壇ノ浦だが、都を追われた平氏は屋島に拠点を置いている。安徳天皇と三種の神器を奉じ、この地で再起を図る。そして都奪還を目し兵を進めるが兵庫一の谷で源義経に敗れ再び屋島に退き、源平屋島の合戦となるわけだ。
平氏は何故屋島を拠点としたの?ひとつには讃岐の国は平清盛の祖父、正盛が国司をしていたこともあり、古くから平家の支配下にあった。都を追われた平家は、清盛の家人であり阿波守として阿波・讃岐に威を張った田口成良を頼った。
で、屋島を拠点としたのは、平氏の都落ち後四国に戻った田口成良は讃岐を制圧し、屋島に内裏を造営したこと。当時の屋島は完全な島であり、天然の要塞。東側は庵治半島との間に大きく入り込んだ入江が広がり、海から攻めてくるであろう源氏と対するには絶好の地とされたわけだ。実際は義経が浅瀬を渡り、背後から攻め込んだのは既知のこと。
田口成良
Wikipediaには「阿波国、讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。承安3年(1173年)、清盛による大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られる。(中略)治承・寿永の乱が起こると軍兵を率いて上洛し、平重衡の南都焼討で先陣を務めた(『山槐記』)。美濃源氏の挙兵で美濃国へ出陣し、蹴散らされて被害を出している。
寿永2年(1183年)7月の平氏の都落ち後、四国に戻って讃岐を制圧する。屋島での内裏造営を行い、四国の武士を取りまとめた。一ノ谷の戦い、屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦うが、屋島の戦いの前後、源義経率いる源氏方に伯父・田口良連、弟・桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。『平家物語』によれば、教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたとされる。しかし、『吾妻鏡』には平氏方の捕虜に成良の名が見られ、正否ははっきりしない」といった記述があった。

小堂と地蔵
安徳天皇社から少し皆に進み、小川の先で左に折れる。民家の間を縫う細路である。左に折れると直ぐに小堂があり舟形地蔵が祀られる。「右 扁ろ道 享保十四」などと刻まれた標石となっている。また、このお堂には地蔵の前に2個の頭部像が置かれていた。

源平合戦史跡の石碑
水路フェンスに沿って東に進むと県道150号に出る。遍路道はそこを右折し県道を少し南に進むと安徳天皇社前から南東に下った道と合流。合流点に石碑。各所に見られる「源平合戦史跡」の石碑だ。比較的新しい。「源平屋島合戦800年祭り」を記念し昭和55年(1980)に建てられたもの、という。
「アワ益田」
その石碑脇に三角石柱。県道進行方向の面には「アワ益田」「へんろ*」「観自在菩*」といった文字が刻まれる。このような形状の標石は珍しい。
「アワ益田」は、この三角石柱を立てたアワの住人である益田さんとも言われる。特徴は「アワ益田」と共に、「大日如来」「釈迦如来」「弥勒菩薩」「虚空蔵菩薩」といった文字が刻まれる。ここは「観自在菩薩」と刻まれていたのだろう。
六十一番札所・香園奥の院の標柱石に「四国六十一番奥の院 徳島県麻植郡 石工 益田喜一 昭和十六年」とあり、この方が「アワ益田」と言われる。阿波の札所十一番藤井寺から十二番焼山寺への遍路道にもあるとのこと。また先ほど佐藤継信の墓前の道端に見た、「弘法」と刻まれた破損した割石も「アワ益田」さんのものでは、とのこと。ともあれ、昭和の初期に遍路歩きされた方の供養物である。「アワ益田」はここからしばらく頻出する。

菊王丸墓
県道を進むと直ぐ、屋島東小学校の北隣、道の右手に菊王丸の墓。案内に「源平合戦の時、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして、能登守平教経の強弓に倒れました。 そのとき、教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆け寄り首を切り落とそうとしましたが、そうさせまいとする継信の弟 忠信の弓により倒されました。
菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。教経は、菊王丸を哀れんでこの地に葬ったと伝えられています」とあった。
敷地内には数基の石仏とともに、手印の標石もあり、「右やくり」と刻まれる。また、菊王丸を祀る小祠の右手に上部が破損した石があり、「薬師如* 益田」と刻まれる。上述「アワ益田」のものだろうか。

高橋手前のお堂に標石と石仏
更に南に進み、相引川に架かる高橋へと左折する手前、県道右手にお堂があり標石や石仏が並ぶ。堂内の大師座像は矢印で屋島寺方面を指す標石、舟形地蔵の1基には「ひたりやくりミち 寛政元」といった文字が刻まれる標石となっている。
また、お堂の左右には舟形地蔵と共に仏名石が建ち、「勢至菩薩 へんろ 益田」「阿しゅく(注;元の漢字が表示できない)如来 へんろ道 アワ益田」とあるようだ。

洲崎寺角に茂兵衛道標
道の左手に立つ「源平合戦史跡」を目安に県道を左折し高橋を渡り四つ辻、洲崎寺北西角に茂兵衛道標。手印と共に「屋島寺 八栗寺」とある。また、四つ辻の茂兵衛道標の対角線角にも標石、手印と共に「八栗道 十八丁 是ヨリ三丁南 佐藤次信墓 明治五年」といった文字が刻まれる。
お堂と標石
高橋から茂兵衛道標へと続く道の一筋北に道が通る。道脇に面してお堂があり、中に舟形地蔵丁石が祀られ「右やくりミち」と刻まれえた丁石ともなっている。その道を東に進み、四つ辻から北に延びる道とのT 字交差の少し北にもコンクリートの小堂があり、その脇に手印のついた標石があり「八十五番」の文字が読める。手印は東を指すが道はない。どこからか移されたものであろうか。

洲碕寺
遍路道は茂兵衛道標に従い洲碕寺の塀に沿って南に折れる。塀が切れたところを左折し洲碕寺に。
「アワ益田」仏名石
曲がり角にはお堂があり、その左に「開明小学校跡」、「洲碕堂 大尊聖観世音大*」と刻まれた石柱、お堂の右手には「彌陀如来 へんろ アワ益田」と刻まれた文字仏石が並ぶ。
源平の庭
境内に入る。庭は「洲碕寺源平の庭」として、源平合戦旧跡が苔と岩で意匠されている。 境内の案内には、「洲崎寺は眺海山円通院と号し、大同年間(806~)に弘法大師により創建されました。本尊である「聖観世音菩薩」は大師の作と伝えられています。 源平合戦・長宗我部氏の侵攻により焼かれるなど、繁栄と衰退を繰り返し、元禄12年(1699年)に再興され、現在に至っています。
源平合戦時、義経の身代わりとなり討死した佐藤継信の亡骸を、戦火によって焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣の瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝えられており、継信の菩提寺として、毎年3月19日に慰霊法要が行われています。
平成12年(2000年)に再興300年を記念して完成した庭園は、苔と石で「屋島檀ノ浦の戦い」を表現し、境内壁面に「扇の的」・「弓流し」等の合戦のあらましを刻んだ説明板があります。 また、江戸時代四国八十八ヶ所霊場を庶民に広め、「四国遍路の父」と称えられている「真念」の墓があります」とある。
真念の墓
あら、真念のお墓がこの寺に?事前準備なしの散歩故の驚きと楽しみ。境内の東、塀の前に「四国遍路大先達」「大法師 真念」と刻まれた石柱に囲まれた真念のお墓があった。 脇の案内には、「真念は江戸時代初期の僧であり、弘法大師に帰依し、四国八十八の霊場を巡ること二十余度に及ぶその間巡拝案内記を作り、遍路道を整備するなど、霊場の興隆につとめ、「遍路の父」と仰がれている。お墓は昭和五十五年二月、牟礼町塩屋の南三昧から当須崎寺に移したものである」とあった。
お墓を囲む石は新しそうだが、中央に立つ茄子型丸彫の墓石は南三昧の共同墓地から移されたもの、と言う。「大法師真念霊位 大阪寺嶋在 元禄」といった文字が刻まれる、と。 須崎寺は弘法大師である和気宅成の創建とも伝わる大師ゆかりの寺であり、共同墓地に無縁仏となっていた真実念の墓が当寺に移された、とか。
真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。大阪などの信者から喜捨を募り、遍路する人のために案内石を建立した真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

州崎寺の源平の庭にあったように、州崎寺の近くに源平合戦の旧蹟がある。ついでのことでもあり、ちょっと立ち寄り。
義経弓流しの碑
州崎寺の境内西塀に沿った道を少し南に下ると、道の左手の少し奥まったところに「義経弓流しの碑」が立つ。案内には、「源平合戦時,源義経は勝ちに乗じて海中に打ち入って戦ううち、脇下にはさめていた弓を海中に落として、平家方の越中次郎盛嗣に熊手をかけられあやうく海中に落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあらい左手のムチで弓をかき寄せ引き上げたということです。
平家方に弓を拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな に弱い弓を使っているのか」と物笑いになるのをおそれたといわれております」とあった。
総門跡
道を少し南に下ると、道の左手に総門跡がある。案内には「総門 寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島檀の浦の行宮のできるまで)ここで門を構えて、海辺の防備に備えました。
総門はこの遺跡です。後、檀の浦に行宮をうつしてからも、この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたが、ついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。 標木は松平頼重の建てたもの、野津大将題、黒木欣堂撰書 "夏草や"の碑は久保不如帰氏作。 高松市教育委員会」とあった。

海から攻め来ると想定した平氏側の防衛策に反し、徳島から県境の大阪峠を越えて背後より攻め入った義経勢により、平氏は戦に敗れた、と言う。
野津道貫は明治の軍人。幕末の争乱、西南の役、日清・日露の戦役を武人として参戦しその武功により元帥の位まで上りつめた。
久保不如帰の"夏草や"の句は「夏草や ここにもひとつ 髑髏(されこうべ)」と石碑に刻まれる。その傍に「お遍路の 行きつつ 髪を束ねけり」と刻まれる、久保五峰の石碑も立つ。 黒木欣堂は明治・大正期の書家・漢学者。

屋島寺からの屋島南麓を進む遍路道

久保五峰の句にあるように、上にメモした屋島寺から屋島東麓を下る道とは別に、屋島南麓を進みこの総門を経て八栗寺へと進む遍路道もあったようだ。
その道筋は屋島寺表参道を下り、二つ池の標石を東に折れ、琴電・古高松駅の北、相引川に架かる赤牛橋の北詰めに至り、相引川の北岸を東に。明神橋で相引川を南岸に渡り、琴電・八栗駅の東で川を渡り北詰の「かつはし地蔵堂」を見遣り総門のある道筋に。

総門を過ぎると一筋北の道を右折。そこには標石がある。右折した遍路道の右手にはお堂が立つ。道は県道146号となり後述する八栗ケーブル駅へと向かう。




洲崎寺から八栗寺へ

県道36号を渡り田圃脇の径に
洲碕寺の境内を出た遍路道は左折し、寺の東側、県道36号に出る。道の逆側、田圃の中を南東に進む細路への入り口に遍路道案内の遍路タグがあった。




標石2基
細路を辿ると突き当りの民家ブロック塀に標石。手印と共に「右やくり道」の文字が見える。 手印に従い道なりに進むとT字路に。そこには手印だけの標石があった。手印に従い左折し北西へと道を進む。


牟礼北小学校正面前に標石
途中石造常夜灯(弘化二年)などを見やりながら道なりに進むと、遍路道は牟礼北小学校の校庭に阻まれる。往昔は校庭を突き切るルートであったようだが、左折・右折・左折を繰り返し牟礼北小学校の東側へと迂回する。
牟礼小学校正門辺りから北東に向かう道の角に標石。「従是八栗寺二、一粁」「従是屋島寺五、三粁」とある。比較的新しい。地元の石材業者が建てたものであった。

三叉路のお堂に地蔵丁石と遍路墓
遍路道は緩やかに坂を登り、左から比較的大きな道が合わさる三叉路にお堂がある。お堂の裏手は池のようで一帯は開ける。お堂には舟形地蔵標石と遍路墓。標石には「左やくり道」、遍路墓には「西井善七妻ゲン 備中浅口郡道口村 天保十四」といった文字が刻まれる。 遍路道は更に北東に進む。舟形地蔵標石の指す方向とはちょっと違う。広い道が整備されるときにでもお堂が移されたのだろうか。
お堂の対面にも標石が立つ。

小堂に地蔵丁石と傍に標石
道が民家石垣に突き当たったところに標石。手印と共に「やくり道」と刻まれる。遍路道は手印の指す左に折れると分岐点に小堂があり中に舟形地蔵丁石。「是より上やくりみち 文化八」といった文字が刻まれる。お堂脇にも標石があり手印と「十二丁」の文字。遍路道は手印に従い分岐点を右に折れる。

「山田家うどん」傍のお堂に地蔵と標石
うどん工場の傍の細路を進み、「山田やうどん」手前の坂を上る道の右手に一間四面のお堂。中中に、「左扁ん路道 享保十四年」と刻まれた舟形地蔵と台石に「明和二」と刻まれた地蔵があった。
お堂の先に「山田家うどん」の駐車場。昔風の美しい店構えの大きな食事処であった。国の登録文化財指定の建物とは後で知った。

県道146号に出る
「山田家うどん」の店構えの南東角を左折、直ぐに右折し細路を上り切ったところで車道に出る。合流点に自然石の標石。手印と「やく**」の文字が見える。
遍路道は手印の指す右に折れると、ほどなく左に細路が分岐する。細い道を抜けたところで電動146号に合流。合流点、道の反対側のガードレールには遍路道案内の「遍路タグ」。遍路道は左に折れて県道146号の坂を上る。

お堂と標石
県道との合流点から坂を上ると道の右手の墓石手前に舟形地蔵。標石のようだが摩耗し文字は読めない。その直ぐ先、道の左手に立像や座像石仏、舟形地蔵などが並ぶ。右から二番目の舟形地蔵には「右扁ろ道 享保十四」といった文字が読めた。

八栗ケーブル駅
源氏池を過ぎると八栗ケーブル・八栗登山口駅。お隣の半島である屋島では昔あったケーブルが廃止されているのだが、こちらは現在もお山の札所八栗寺へ人を運ぶ。歩き遍路はケーブル駅傍にある鳥居を潜り参道を上ることになる。

お堂や舟形地蔵
舗装された表参道を上る。鳥居を潜ると直ぐに道の右手に舟形地蔵。左手にお堂、お遍路休憩所、その先に4丁目と刻まれた舟形地蔵丁石がある。
舟形地蔵丁石の先、道の右手にお堂があり杖をついたおばあさんらしき像が祀られる(写真はピンボケ。残念)。比較的新しい。その先にも道の右手に舟形地蔵が立つ。



加持水
道右手に石仏群。弘法大師御加持水。水不足に困る老婆の話を聞き、独鈷をもって岩を割ると水が出た、との弘法水の地。それにしても大師座像、不動明王、舟形地蔵、石仏など多くの像が並ぶ。舗装道路として整備されるときにでも集められたのだろうか。

歓喜天の扁額をもつ鳥居
先に進むと再び大鳥居。「歓喜天」の扁額をもつ。八栗寺は本尊の聖観音よりも歓喜天への信心が強いお寺さま。そのことを鳥居も表している。




鳥居を潜ると道の左に石仏群、右手には「左本堂参詣道」と刻まれた標石が立つ。その先には「霊徳洽三界」と刻まれた石柱が立つ。「れいとくこうさんがい」。洽は「あまねく」との意味であるから、「霊徳三界にあまねし>「お大師さまの霊験が三界世界にいきわたる」と言った意味だろう。参道はその先でヘアピン状に曲がる

お迎え大師
ヘアピンカーブを曲がり、最後の急坂。曲がり角にも多くの石仏が並ぶ。急坂を上り切ったところに駐車場。車でここまで来れそうだが、お山を東へと降りる道とは繋がっていない。
駐車場を先に進むとお迎え大師。展望台となっており、屋島や讃岐の里の遠望が楽しめる。

八十五番札所 八栗寺
お迎え大師から続く参道の先に山門。八十八番札所八栗寺に到着。これで屋島寺から八栗寺までの旧遍路道を繋いだ。本日のメモはここまで。次回は八栗寺を打ち終え志度寺までの旧遍路道を辿る。

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