予土往還 土佐街道・松山街道 ②;七鳥から面河川を渡り予土往還・高山通りの尾根筋へ上る

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予土往還 土佐街道・松山街道歩きの2回目。どのルートをどこまで進むかあれこれチェック。先回もメモしたようにここから先、ルートはふたつ。ひとつは現在の国道494号筋を辿るもの。仁淀川水系面河川支流の東川に沿って東進し源頭部まで上りサレノ峠(瓜生野峠?)で予土国境を越え土佐に入り、瓜生野、桧谷、舟形、出丸、用居の集落を経て池川(高知県吾川郡仁淀川町)に至るもの。このルートは幕末動乱期、幕府方の松山藩征伐のため土佐藩が伊予へと進軍したルートと言う。 
もうひとつのルートは七鳥から面河川を渡り山稜に取り付き尾根筋を東進し、猿楽岩を経て黒滝峠で予土国境を越える。土佐に入った街道は雑誌山の北を東西に走る尾根筋を辿り水ノ峠(みずのとう)へと抜け、そこから寄居、坂本を経て吾川郡仁淀川町池川に至るもの。「予州高山通り」とも称される。
国道494号筋の往還のほうが楽そうなのだが、国道筋を離れて続いたであろう土佐街道に関する詳しい資料が見つからない。他方、通称「高山通り」はこれも先回メモした久万高原遊山会(以下、「遊山会」)の調べた予土国境の黒滝峠までの資料があり、トラックログもダウンロードでき、道筋がはっきりしている。結構キツそうではあり、また予土国境を越えた土佐側の詳しいルート図はないのだが、成り行きに任そうと取敢えず今回は「高山通り」を歩くことにした。

ルートは決めたが、さて何処まで進むか。ルートをチェック。面河川の谷筋から面河川を渡り山入りした道筋は、11里石の立つ尾根筋あたりまで比高差500m強、距離は側面距離で5キロ弱。11里石の立つ尾根筋から先は、猿楽岩を越え予土国境の黒滝峠までおおよそ6キロ強だろうか。国境を越えた先も尾根筋が続き水ノ峠を下りた寄合の集落まで6キロ弱ある。

次いで車デポ地の確認。仁淀川町池川の辺りまでバスの便はないため、基本ピストン行。Google MapとGoogle Street Viewでルート付近で車を寄せることができる場所を探す。と、山入りした尾根筋近くの11里辺りを越え尾根筋より南、前川の谷筋に下る県道210号・美川川内線の支線が通っており、Google Street Viewでチェックすると舗装され車で行けそう。
黒滝峠までの尾根筋に接近する林道をチェック。猿楽岩の北まで見えるがGoogle Street Viewではチェックできず、舗装された道かどうかわからない。黒滝峠を越え水ノ峠への途次には、水の峠ノ北に大規模林道が整備されており、黒滝峠から3キロ弱進んだ水ノ峠の北西辺りまで車を乗り入れることができそうだ。
つまるところ、はっきりした車デポ可能地は面河川から尾根筋へ上る県道210号線支線と、黒滝峠から3キロ弱進んだ水ノ峠近くの大規模林道のふたつ(猿楽石近くに続く林道は未確認)。
で、ルートの距離、車デポ地、ピストン坑を前提として「予州高山通り」クリアの行程プランは;
1.面河川を渡り山入りし、11里石の先の尾根筋まで進みピストンで七鳥に戻る。距離はピストン往復で10キロ弱。比高差500m強。
2.再び尾根筋辺りまで車を寄せデポ。予土国境・黒滝峠まで往復ピストン12キロ。尾根筋のアップダウンで比高差300mほど。
3.土佐に入ると水ノ峠の北を走る大規模林道に車をデポし、黒滝峠まで往復6キロ(比高差250mほど)。大規模林道の車デポ地から水ノ峠まで往復2キロほどのピストン2キロ(比高差200mほど)

以上の3回に分けて歩けば「水の峠」の先にある寄合の集落へと下りることができそうだ。とはいいながら、尾根筋に上る道、また尾根筋を辿る道のルートははっきりしているが道の状況がよくわからない、更には土佐に入った土佐街道は詳しい資料が見つからない。水ノ峠から寄合集落までは現地に行ってみないと何とも言えない。はっきりはしないのだが、取敢えず上記プランを基本にして「予州高山通り」の池川までをクリアしようとの皮算用。

で、今回はその「予州高山通り」山入りの第一回。七鳥の集落から面河川を越え11里石を目指した。が、結果は11里石までも辿りつけず、尾根筋まで1キロ程を残し、標高760m付近の「土佐道」、「旧土佐道」の標識の立つ県道210号線支線で時間切れ撤退とした。時刻は午後3時半頃。
撤退時間を3時半としたのは往路で結構道に迷ったため。復路すんなりと下れるとも思えず、ピストンも尾根筋までの一気通貫は止めてピストンを小分けにし、土佐街道が県道210号支線とクロスする地点に数回デポ。最終デポ地は尾根筋まで1キロ弱といった筒城集落まで寄せていたのだが、それでも復路は道に迷い車デポ地に元った時刻は午後17時。午後3時半撤退は正解であった。

で、総括。午前10時に出発しており最終車デポ地に戻ったのが午後5時頃、おおよそ7時間かかったことになる。
実際の時間だが、ピストン行を考慮すれは往路ではその半分の3時間半ほど。予想以上に道が荒れ、道迷い、また膝痛のため下りでスピードがでないことを考慮すれば、スムーズに進めば往路3時間弱といったところだろうか。

初回から皮算用破綻。次回は11里石の先の尾根筋までその距離1キロ弱、比高差160mほど上げた後、尾根道を予土国境黒滝峠までピストン12キロとなる。ちょっと計画クリアのハードルが高くなってしまった。
黒滝峠途中の猿岩峠までが精一杯とは思うが、それでは次回同じ尾根筋を歩かなければならない。これは困った。唯一の望みは尾根筋近く、猿楽岩辺りまで上ってくる林道に車を寄せることができるかどうか。これが可能なら同じ尾根道を再度歩くこともない。まあ、これも行ってみなければわからない。
ともあれ、計画未達の山入り・一回目のメモをはじめる。



本日のルート;
七鳥の集落から面河川へ下る
県道212号に下りず山裾の道を東進>十里石と常夜塔>東光寺>県道212号の七鳥バス停から面河川に下りる
面河川を渡り山入し県道210号に出る
面河川に架かる沈下橋を渡る>簡易舗装の林道を左(東)へ進む>林道が分岐する>等高線の間隔の広い等高線440mから450mの間の平坦な地に>等高線450m地点でGPSにプロットした土佐街道トラックに合流>数基のお墓が残る>県道210号に出る
県道210号から筒城集落の県道210号支線に出る
県道210号をクロスし再び山入り>沢を渡る>県道210号支線(地図では高山集落で切れている)に出る>県道210号支線(高山で切れる)をクロスし尾根筋をショートカットする>筒城の集落に出る
筒城集落の県道210号支線を逸れ、山道を進み蓑川集落経由の県道210号支線に出る
筒城集落の県道210号支線を逸れ山道に>四つ辻を左折等高線670m‐680m辺りで道が消える>県道が見えてくる>210号支線(蓑川経由)に「土佐街道」標識>藪を這い上がり、直ぐ上を走る県道210号支線(蓑川経由)に出る>撤退と判断し筒城の車デポ地に戻る


本日の全ルート図(「遊山会」ルート(青)、実行ルート(赤)、補足ルート(緑))


七鳥の集落から面河川へ下る

県道212号に下りず山裾の道を東進;午前9時50分(標高415m)
県道手前分岐を左に
先回、七鳥かしが峠を越え七鳥を抜ける山裾の道を辿り、丘陵が県道へと突き出し集落の民家が切れた辺りにある工場(お茶の工場?)脇から県道212号に下りた。 
付近に十里石のあることはわかっていたのだが、疲れ果て探す気力もなく、迷うことなく県道212号に下り、県道を東進し久万高原町へと戻る岩屋寺口バス停へと急いだ。
今回は十里石からスタートすべく、十里石への道は県道212号に下りることなく山裾の道を東へと続くのであろうと見当をつけ先回の県道への下り口に車を進める。 下り口近くにあった県道脇のスペースに車をデポし、県道下り口を少し上がると上述工場(お茶?)脇に分岐点があり山裾を東に向かう道があった。県道212号の一段上を東に向かう道に沿って進む。

十里石と常夜塔;午前9時55分(標高415m)
木々に覆われた道を5分ほど進むと道の右手に常夜灯。その直ぐ先、道の左手に「松山札辻より十里」と刻まれた十里石里程標が立つ。
十里の「里」の辺りが削り取られたように見える。どうも十里と十一里の里程標の立てる位置を間違い、運び直すのも大変だったのだろうか、それぞれ里程標の文字を削り修正したと言う。十一里の里程標は「一」を削り、この地の十里の里程標は「一」を付け加えたとのこと。里の辺りが削られているのはそのため、と。
里程石
先回もメモしたが再掲載;里程石は松山市内本町三丁目の電停辺り、かつて「札の辻」と称されていた松山藩の高札場から土佐街道を進む目安として立てられた里程標である。予土国境まで一里ごとに12里までの里程標が建てられたとのこと。
古くから伊予と土佐を結ぶ主要往還ではあるが、往来を盛んに行き来するようになったのは藩政時代に入ってから。従来木で造られていた里程標も、寛保元年(1741)3月に石に改めた。文字は松山藩祐筆の水谷半蔵らに書かせたとある。これが今に残る里塚石である。
尚、現存するのは森松の二里標石と六里から十二里まで。また、レプリカではあろうが、三坂峠を下り47番札所の手前に「三里塚」が立っていた。

東光寺;午前10時
更に山裾の道を東へ5分ほど進むと東光寺。このお寺には「土佐の高知のはりまや橋でぼんさんかんざし買うを見た」の坊さん、純信の過去帳が残るとのこと。
過日土佐の歩き遍路の途次、27番札所神峯寺への山道入り口、安田の地にこの事案に関する案内板が立っていた。
そこには「〇よさこい秘話「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた ヨサコイヨサコイ
よさこい節に登場する坊さんかんざし騒動の主人公お馬さんが、ここ安田、東谷の旅籠「坂本屋」で働いていた。幕末の土佐に、恋の自由を求めて奔放した 「よさこい、かんざし騒動」は、維新の志士達より早く自由精神を実践した。
由来
五台山、竹林寺の学僧、百余名を預る指導僧の純信と五台山麓、鋳掛屋の娘、お馬との恋の「かけおち」のため純信がお馬に花かんざしを買い求めたもので、安政元年(一八五四)の大地震の直後の翌二年、五月十九日の夕刻、純信、お馬と土佐山田出身の道先案内として安右衛門の三人で、物部村から国抜けし、讃岐の金比羅、百段目の旅籠「高知屋」で捕えられ、高知の山田町奉行所で取調べられた。
この時の奉行は、ここ安田に生まれ育った儒学者、岡本寧浦の門下生である松岡毅軒であった。 この取調べの際、松岡奉行が「なぜ年が二〇も違う親の様な人と好きで逃げたのか」との問いに、お馬は平然として「好きになったら、年の差などどうでもよい。」と答えたと毅軒は後世に書き残している。
やがて裁きが終り、お馬は安芸川以東へ追放、この安田・東谷の神峯登り口、旅籠「坂本屋」で奉公をする身になった。
一方、純信は仁淀川以西へ追放となったが、自らの意志で国外追放を願い、伊予国、川之江の 塩屋の三軒屋炒娚石の亀吉の世話により、学問一筋の家柄、井川家の私塾の教授となって、子弟の教育に専念する。 一方、お馬は、ここ坂本屋で奉公中、突然、追放先の変更を受けた。理由は、純信がお馬を連れもどしに来たとのことであった。
事実不明のままお馬は、今度は高岡郡、須崎池ノ内の百姓に、預けられ、のちに土地の大工と 世帯を持ち、二男二女をもうけた。
お馬の子供達もそれぞれ成長し、明治一八年(一八八五)お馬夫婦は、長男の住む東京小石川に引越し、更に明治二一年(一八八八)に「二男の家で余生を送り、お馬は煙草屋の店先で店番をしていたという。東京都北区豊島で明治六年(一九〇三)六五歳で病没し、北区の西福寺で出かに眠っている」とあった。
なお。「歴史の道調査報告書(久万高原町)」に拠れば、純信はその後、この地を東に進んだ東川に戻り、東川にお墓があるとのことである。

県道212号の七鳥バス停から面河川に下りる:午前10時5分(標高400m)
県道合流点
七鳥バス停
東光寺前の生活道を少し東進し道なりに県道212号に下りる。その県道対面に七鳥バス停があり、傍に「近世土佐街道(三坂越え)」の案内。先回もメモしたが再掲; 「近世土佐街道(三坂越え)
名称 土佐街道というのは、伊予国から土佐国へ向かう街道のことである。時代によって地域によっていろいろな街道がある。この土佐街道は、近世つまり江戸時代のもので、三坂越えと呼ばれている地域のものである。
成立 一六〇三(慶長八)年戸幕府開始ととも日本橋を起点に諸街道に一里塚を築かせ始めていることにより、松山藩も、かなり早い時期に街道整備を始めたものと思われる。一七四〇(元文五)年から一七四一(寛保元)年にかけて一里塚を木製から石製に作り替えた記録が残っている。
路程 松山札の辻を起点に森松・荏原を経て、三坂峠から久万町・七鳥・二箆(私注;ふたつの)に至るコースである。久万高原町内の里塚石は次のようになっている。
六里 東明神、七里久万町村
、 八里 菅生村、九里 有枝村、
十里 七烏村、十一里 東川村、
十二里 蓿川村 以上すべて現存する。
特色と利用
①松山藩の久万山支配の道である。
(松山藩士等人馬の往来の便を図ったもの。中世城館の配列に沿っている。) ②人の往来の開けたところである。
(駄賃持ちたちの馬による物流の道でもあった。)
③百姓一揆の道である。
(一七八七年土佐用居・池川の百姓、一八四二年土佐名野川の百姓いずれも大宝寺に逃散)」と記される。

三坂峠は久万高原から松山へと下りる典型的な片峠。通常の峠は「上り」そして「峠」から下りとなるが、片峠は平坦な台地端からの下り(逆から言えば上りのみ)。片峠を見るため、高知や丹波篠山辺りまで足を延ばしたのだが、よくよく考えれば片峠ってそれほど珍しいものではないかも知れない。いつだったか歩いた中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠も片峠であった。

七鳥から県道210号交差部まで


面河川を渡り山入し県道210号に出る

面河川に架かる沈下橋を渡る:午前10時10分(標高380m)
「土佐街道「の案内板にあった土佐街道の概略地図も久万高原遊山会(以下「遊山会」)の作成したトラックログも、土佐街道はこのバス停より県道212号を逸れガードレールの切れ目より面河川へと下り川を渡り山入りするとある。
県道212号を逸れ面河川へと下ると川に沈下橋が見える。コンクリート造りの橋は面河川の途中で切れ、その先は河原に岩の転がる川床。ゴロゴロ岩の間を進み対岸に渡る。

簡易舗装の林道を左(東)へ進む;午前10時15分
林道へのアプロ―チ箇所
林道
対岸まで進むが橋が途中で切れており、山入りのアプローチ点がはっきりしない。資料には簡易舗装の林道がアプローチ道とのことであるので、草に覆われた山裾を注意深く見ると、緩やかに東にのぼる道らしきものが見える。そのスロープが最も低くなる辺り、ブッシュを掻き分けて林道に入る。アプロ―チ口探しにちょっと時間がかかった。

林道が分岐する;午前10時21分(標高400m)
林道分岐点;直進道(倒木)と右折道
簡易舗装、といったも土砂に覆われステックで確認しなければ簡易舗装とは見えないのだが、ともあれ林道を5分ほど東進すると道は西に大きく曲がる。簡易舗装もここで切れる(といってもステックで確認しなければわからない)。直進方向には倒木が道を塞ぐが、その先にも道が続いている。
当日はあれこれ資料をチェックした時に見付けた土佐街道歩きの資料をもとに直進した。



「遊山会「のトラックログは右折・西進
ピストン復路;林道分岐点への掘割道
当日は直進。GPSにプロットした「遊山会」のトラックログをチェックすると結構離れている。その時は、こんなに離れているようでは、プロットしたトラックって大丈夫かな?困ったなあ、などと思いながら先進み結果、後述するよようにルート探しに結構難儀したのだが、ピストン復路で道なりに踏み跡を下るとこの分岐点に下りた。そのルートは「遊山会」のトラックログと重なっていた。
以下当日歩いた直進ルートをメモするが、土佐街道はこの分岐点を右折する「遊山会」のトラックログを進むのがいいかと思う。後述するが実行ルートは「遊山会」のルートに等高線450m地点で偶々合流した。

等高線の間隔の広い等高線440mから450mの間の平坦な地に;午前11時26分 
この先で道は行き止まり
藪漕ぎし平坦地に這い上がる
見つけた記事に従い分岐点を直進し、道なりに右に廻りその先で直ぐ心持ち左に折れると、記事にあったように道は行き止まりになった。そこから先は「藪漕ぎ」と記事にあったためアプローチ口を探す。行き止まりの先は小さな沢だった(?)ようにも思うのが、その手前が這い上がりやすそう。踏み跡らしきものは無いのだが、とりあえずブッシュを掻き分け、特に根拠はないが目安とした等高線の間隔の広い等高線440mから450mの間の平坦な地に向かう。
途中踏み込まれらた感のある道をみつけ、成り行きで平坦地に出る。この時点では「遊山会」のトラックログが「ずれている」と思い込んでおり、西へ突き出た平坦部の西端に上る「遊山会」のトラックログとは異なったところに這い上がっていた。

と、あっさりと書いてしまったが、この時点では頼りとした「遊山会」のトラックログが「ずれていると思い込んでおり」どちらに進むべきか指針がなく、道に迷い行きつ戻りつ、時にははじめからやり直しと林道分岐点まで戻ったりしたため気が付けば1時間以上の時間が経過してい(右往左往の実行トラックログは省略。)。実行トラックログを見ると、途中「遊山会」のサイトからダウンロードしてた土佐街道のトラッログを踏んでいた。

等高線450m地点でGPSにプロットした土佐街道ルートに合流;午前11時27分
平坦地を成り行きで高度を10mほど上げた地源でGPSギアにプロットした「遊山会」の土佐街道トラックログと合流する。その時は別ルートから進み偶々一緒になったことなど知るよしもなく、狐につつまれた感。
このもやもやが解消されるのは、復路成り行きで踏まれた感のある道を下り、偶々上述林道分岐点に出たため復路の実行トラックログをチェック。それが「遊山会」のトラックログと重なり、そういうことか、と分かるまで時を待たねばならなかった。
上述したが、復路実行ログとプロットしておいたトラックをチェックすると等高線430mあたりでふたつのトラックは一度合流していた。

数基のお墓が残る;午前11時38分(標高490m)
掘割道の先にコンクリート壁
450m等高線を越え、踏み込まれた感のある道を進む。途中小さな沢を越え少し左にルートを振った先、標高490m付近の杉林の中に数基の墓がぽつんと残されていた。 この辺りも等高線の間隔が広く平坦な地。山中の平坦地は木々の枝葉が道を覆い往々にして道を読み難いところが多いのだが、ここも常に漏れず道が消え西へ東へと少し彷徨う(結構彷徨ったのだが実行トラックログは省略)。最後にお墓のあるところから少し西にある沢筋のような掘割に入り、そこを上に進むと成り行きでそれらしき踏み込まれた道へと入っていった。
掘割道を先に進むと前方が少し明るくなり、石垣のようなものが見える。近づくとコンクリート壁であったが、道はこのコンクリート壁の西端の段差のない所で林を抜けて草叢に出る。

常はGPSギアにプロットしたトラックログがあれば、そのログを追っかけるのだが、今回はスタート地点で、実行ルートとプロットしたトラックの差分が大きす、頼りにならないと思い込んでいたため(実際は正しく、自分の思い込みだったのだが、それがわかったのは上述の如くピストン復路を戻り終えた時であった)

県道210号に出る;午後12時3分(標高520m)
その先にはガードレールが見える。やっと県道210川内美川線に近づいた。
草叢を抜けガードレールの切れ目から県210号にでる。ガードレール切れ目の草叢の中に数基のお墓。その中の1基、丸い自然石の墓石は時代ははっきりしないが近世のものとされるようである。
この間少し時間がかかっているのは標高490m辺りにあった墓石辺りで道探し・道迷いで時間をロスしたためである。

なんとか県道まで出たけれど距離は1キロ強、比高差150mほどを2時間ほどかかった。プロットしたトラックと実行トラックがあまりに違い過ぎ少々混乱し、プロッしたトラックログに信を置けず道迷い、ルート検証のためスタート地点近くの林道まで戻ったりと1時間以上、また途中杉林のお墓の辺りでも時間をロスしたのがその因。
この間のメモはあまり参考にならない。自分のための記録といったものである。このルートを歩かれる方は林道分岐点から先のメモは無視し、
面河川の沈下橋を渡り、簡易歩道の林道を東に上る。最初の分岐を(直進せず)右に折れ踏み込まれた掘割の道を道なりに進みトラックログに従い県道210号に出る。
このコースがいいのかと思う。復路県道210号下のコンクリート壁の西端から掘割の道筋をトラックログを見ないで(この時点ではGPSギアにプロットしたトラックログを信頼していなかったため)成り行きで下り、知らず林道分岐点に下りたわけだから、あながち間違っているとは思えない。


県道210号山入部から引き返し地点まで


県道210号から筒城集落の県道210号支線に出る

初っ端から道に迷い、これでは復路スムーズに戻れるとも思えず、当初予定していた尾根筋まで一気通貫で上り、ピストンで戻るといった計画を変更。土佐街道が県道支線に出たところ、車デポできるところを確認し折り返し,ピストン小出しで進むことにし、七鳥の車デポ地まで戻ることにした。
おぼろげながらも道の記憶が残っているうちに戻ろうとの思惑ではあったのだが、上りと下りで見える景色が異なり、実際は道に迷うこと多々ではあったのだが、それはともあれ、以下の時刻が上述県道210号に出たときと大きくずれているのはこのためである。
七鳥の集落の車デポ地より、県道212号を直瀬川が面河川に合流する地点・岩屋寺口バス停で県道210号に乗り換え東進、仕七川(しながわ)の集落で面河川を左岸に移り、曲折する山道をこの地まで戻ってきた。
前もってStereet Viewで舗装道であることは確認していたのだが、時にガードレールの切れる車一台が走れる道。対向車が来ないことを願いながらこの地まで戻り、土佐街道が210号に出た辺りに車をデポ。次の目的地である県道210号支線の筒城の集落に向かう。

県道210号をクロスし再び山入り;午後13時33分(標高520m)
スロープを上る
直ぐ沢。道が切れる
県道210号をクロスし山入りのアプローチ口を探す。道の左手、廃屋の西隣に法面を斜めに上る鉄の手摺のついたアプローチがあった。廃屋傍から道がないものかと進むが直ぐ沢に遮られて行き止まり。取敢えず法面を斜めに上る道に入り、廃屋を左手下に見ながら先に進む。
県道から山道に入ると直ぐに沢に行く手を遮られる。

沢を渡る;午後13時46分
沢の対岸に掘割道が見える
崖面をトラバースし沢に下り、対岸に渡る
崖となってギャップもあり、さてどうしたものかと。右上には県道210号の支線(地図には高山集落で切れている)があるのだが、「遊山会」のトラックログは県道支線に乗ることなく、その東を進んでいる。沢を渡れ、ということだ。
上述の如く復路ピストンで上述林道分岐点に出たトラックログが「遊山会」の土佐街道トルートと合致しており、この時点ではGPSギアにプロットした「遊山会」のログを信頼しており、その気になって対岸を見ると掘割の道が沢に出合っているように見える。慎重に崖を下り、トラバース気味に沢床の岩場を渡り、対岸の堀割道に這い上がった。
沢を渡らず掘割道に出るルート
草の茂みℋを東に進むと
沢を越えた掘割道にあたる
沢で行き止まりになる地点のすぐ上に、上述県道210号支線が走る。そこに這い上がり、大きくU字にカーブする突端部から県道210号支線を逸れ、草に覆われた場所を東に進むと沢を渡ってきた掘割道に出る。復路ピストンで沢を迂回しようとして見つけたルートである。

県道210号支線(地図では高山集落で切れている)に出る;午後13時55分(標高555m) 
掘割道を進む。途中ブドウ棚のような造りの棚の下を潜り先に進むと前面が開け、林から抜ける。
草に覆われた道を進むと農作業小屋が現れ、その先で県道210号支線(高山集落まで続く)に出る。前述の沢を渡る辺りで出合った高山集落へ向かう県道支線である。
高山
予土往還のひとつ、今回辿ろうとしているルートではあるが、七鳥から面河川を渡り山稜に取り付き尾根筋を東進し、猿楽岩を経て黒滝峠で予土国境を越え、雑誌山の北を東西に走る尾根筋を辿り水ノ峠へと抜け、そこから寄居、坂本を経て池川に至るルートは、予州高山通とも称されるようだ。この呼称は土佐側から見たものだろうから、予州高山通とは県道210号支線が切れる高山集落由来のものかもしれない。

県道210号支線(高山で切れる)をクロスし尾根筋をショートカットする;午後14時3分
農家脇を抜け
簡易舗装の生活道に
県道支線をクロスし土径を進むと数軒の農家が道筋に現れる。道はその傍を抜け道なりに西向きに曲がり掘割の道を進む。西に突き出た尾根筋をショートカットする道筋になっている。
尾根筋を廻り込むと前方が開け道も集落の簡易舗装された生活道となる(標高585m)。

筒城(つつじょう)の集落に出る;午後14時4分(標高580m)
簡易舗装の道を下ると直ぐ県道210号支線に沿って建屋が並ぶ筒城の集落に出る。この支線は前述高山へ向かう支線とは別支線。筒城集落の先で地図から消えている。 比高差65m、距離500m、沢のトラバースは予想外ではあったが、特段道に迷うこともなく30分で筒城の集落の県道210号支線に出た。前面に広がる山並みの遠景を楽しみ、車デポ地に戻る。


筒城集落の県道210号支線を逸れ、蓑川集落経由の県道210号支線に出る

車デポ地に戻り県道210号を進み、途中県道210号を逸れ筒城へと向かう支線に入り筒城集落の県道支線にスペースを見付け車をデポ。当日はダウンロードした「遊山会」のトラックログに従い、集落を走る県道210号支線を少し先に進み、県道を逸れ山道に入り、同じ県道210号支線ではあるが今までメモした県道210号支線とは全くの別路線、蓑川集落経由の県道支線に出る。
その県道210号支線へ出たとこに、「土佐街道:「旧土佐道」の標識が立つ。本日はじめての標識であった。
このルートも途中道が消え、道迷いの箇所がある。楽はさせてくれない。但し、後述するが道迷い箇所とピストンの合わせ技で土佐街道と思われる道を辿ることができたようにも思える。それで良しとすべしか。

筒城集落の県道210号支線を逸れ山道に;午後14時41分(標高595m
県道支線から「遊山会」のトラックログが山入する地点を探す。民家の左手に山に入る道がある。標識はないが、トラックログでは山入りアプローチ点のようだ。道の右手に水路が流れる土径を進む。
土佐街道はどちらの道筋?
上に簡単にメモしたが、土佐街道のルートの話。先走った話になるが、蓑川集落経由の県道210号支線まで道を繋ぎ、ピストンで車デポ地に戻るに際し、往路で道が消え道に迷った辺りから結構踏み込まれた道筋に入り、あまりに快適な道筋のためGPSのトラックログを見ることもなく成り行きで下っていった。
が、なんとなく筒城の集落へ時間がかかりすぎ。ということでログを見ると往路の実行ルート(プロットしたルートに合致)から大きく東にずれている。ためにプロットしたトラック地点まで戻り筒城の集落まで戻った。
上掲写真;この辺りから左折し進むのかも
が、メモの段階で「遊山会」のルート図を見ていると、そのルートは筒城の県道支線を進むことなく、集落に下りる手前、西に突き出た尾根筋を廻り込んだ辺りで左折し山道を進んでいる。前述の県道支線に出る直ぐ手前、簡易舗装の生活道になったあたりである。そしてその道筋は復路間違え道として引き返した道筋に繋がっているようにみえる。復路下っていた道はしっかり踏み込まれており、道なりに進み、引き返さずそのまま進めば、「遊山会」の地図に記されてた筒城集落手前の分岐点に出たのかとも思う。
この箇所だけダウンロードした「遊山会」トラックログと同会の地図に記された土佐街道が異なっているが、県道支線を進むより山中を進み道のほうが「土佐街道」っぽいので、参考のため復路の間違いルートと思い引き返した道筋を先に延ばして分岐点まで繋いだルート図を記しておく。

以下は往路のダウンローしたトラックログに従った実行ルートである。

四つ辻を左折;午後14時46分(標高618m)
四つ辻を左折
左手が開けた先は杉林
道なりに進むとほどなからく四つ辻。ダウンロードした土佐街道トラックログは左折し道を進む。ログに従い道を進むと左手が開かれた場所に出るが、直ぐ林の中に入る。道は荒れてはいるがなんとか踏み跡らしい土径を進む。



等高線670m‐680m辺りで道が消える;午後15時
道を15分ほど進むと等高線670mと680mの間の間隔が少し広く杉林の中、道が消える。ルート探しに難儀するだろう。この辺りではGPSのトラックログを注意深くチェックしながら進んでいただければと思う。
復路でのセレンディユピティ
往路でルート探しに難路したところであるが、復路でもこの辺りで道が分からず、偶々見つけた踏み込まれた道を成り行きで下り、間違いルートと思い往路トラックログ地点まで戻ってきたところでもある。この道筋はひょっとすると土佐道であったかもしれないのは前述の通り。とすれば詣迷い道・ピストン復路合わせ技でのセレンディユピティ(思いがけない贈り物)のきっかけとなった箇所かもしれない。

県道が見えてくる;午後15時17分(標高735m)
道迷い地点をクリアし少し踏み込まれた感のある山道を進む。途中倒木が道を塞ぐが木に斧の切れ込みがある。なんとなく人が乗り越えやすいようなステップのようにも思える。オンコースであろうと思い込む。
その先、前方にガードレールが見えてくる。一安心。道迷い地点からおおよそ17分 で一安心地点にたどり着いた。

210号支線(蓑川経由)に「土佐街道」標識;午後15時20分(標高750m)
ガードレール下、草に覆われたところをガードレールに沿って進み県道210号支線に出る。出たところに「土佐街道」の標識。本日はじめての「土佐街道」の標識であった。


県道210号支線(蓑川経由)
この別支線は面河川を左岸に渡ると直ぐ県道210号から左に分かれ、蓑川集落を経て尾根筋まで上り、その先で前川の谷筋に向かって下ってゆく。

藪を這い上がり、直ぐ上を走る県道210号支線(蓑川経由)に出る;午後15時27分(標高760m)
「土佐街道」(左)と「旧土佐道』(右)標識
「旧土佐道」標識から藪を這い上がる
210号支線に出ると道の山側・法面が切れるとこるに「旧土佐道」の標識が立つ。直ぐ上に「旧土佐道」の標識の先でU字に曲がって上る県道210号支線のガードレールが見える。
「旧土佐道」の指す方向は藪。上に見える県道210号支線のガードレールを目指して藪の中を這い上がる。数分で支線に這い上がることができた。

撤退と判断し筒城の車デポ地に戻る:午後17時3分
山入の「旧土佐道」標識
時刻は午後3時半になっている。本日の予定としていた11里石の先の尾根筋までは1時間以上かかりそう。ピストン往復するとスムーズに道を辿ったとしてもこの地に戻ると午後時半から6時頃になりそう。そこから車デポ地の筒城の集落まで1時間弱。とすると車デポ地着はうまくいっても午後7時前となる。今日のルートは結構道に迷った。復路をスムーズに下りる自信はない。その思いが強く、本日はここで終了とする。
取敢えず県道支線から尾根筋に向かって山入する場所だけを確認する。直ぐ先のコーナー傍に「旧土佐道」の標識が立っていた。次回のスタート地は決まった。少し県道支線を上ったところに車をデポできるスペースもある。

真下を指す「土佐街道」標識
山入の土佐街道アプローチ点の標識、車デポ地も確認し筒城車デポ地に戻ることにする。と、山入する「旧土佐道」の標識の対面傍に「土佐街道」の標識が立つ。方向は真っすぐ下りろと指す。上述、210号支線(蓑川経由)に出たところにあった藪の方向を指す「旧土佐道」の方向とは異なっているように思える。が、取敢えず標識の指す方向へと真っすぐ進むと直ぐ県道支線に出た。カーブ先端部をショートカットしているだけのようだった。なんとなく?

復路雑感
それはともあれ、車デポ地に戻るまで結構道に迷った。前述、本来の土佐街道かもいしれない踏み込まれた道をお気楽に下ったりし、結局筒城の車デポ地に戻った時刻は午後5時頃になっていた。戻りに1時間半ほどかかったことになる。尾根筋まで進むのを止めてよかった、と改めて思い起こし、筒城の集落からの遠景をしばし楽しみ、対向車がいないことを願いながら県道210号支線を下り、一路自宅に向かった。

次回は当初の計画である、尾根筋からのスタートし予土国境の黒滝峠までの思惑とは異なり、尾根筋まで1時間半ほど必要となる。黒滝峠途中の猿楽岩までが再一杯だろう。猿楽岩までは距離は6キロほどだろうが、ピストンでもあり、また尾根筋の道はほぼ藪のようである。次回はどこまでいけるか出たとこ勝負となりそうだ。
但し、黒滝峠まで行けなければ、当初の計画である高知の水の峠の北を走る大規模林道から黒滝峠までを繋ぐ計画を延長し猿楽岩まで8キロ、ピストン往復で16キロとなる。膝が持ちそうにない。
望みはイントロでメモした猿楽岩近くで尾根筋に接近する林道の状態。車で乗り入れることができれば猿楽岩で撤退しても林道を走り、撤退地点から猿楽峠を経て黒滝峠までカバーできそう。ひとえに林道のコンディション次第。これも出たとこ勝負ではある。さて、どうなることやら。



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