板橋区散歩 そのⅣ;志村・板橋・常盤台を歩く

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志村から前野地区をへて、板橋宿、そして常盤台に

西端からはじめた板橋散歩も4回目。今回は、北東部からはじめ、中央部から南部に向かって歩こうと思う。大雑把に言えば、北区との境あたりから豊島区に向かって下る、といったコース。
このコースを歩けば、中山道、川越街道、石神井川、そして板橋宿といった板橋のビッグワードはカバーできそう、である。 




 



本日のルート龍福寺>小豆沢神社>総泉寺>清水薬師>旧中山道・清水坂>延命寺>見次公園>出井川跡>常楽院>西前野熊野神社>東前野熊野神社>長徳寺>蓮沼・氷川神社>南蔵院>清水稲荷神社>智清寺>日曜寺>環七の近くに氷川神社>板橋宿>中宿>板橋観光センター>本陣跡>縁切り榎>石神井川・東武東上線>常盤台・天祖神社>大谷口・エンガ掘>氷川神社と西光寺>大谷口の給水塔

龍福寺
都営三田線・志村坂上で下車。小豆沢地区に向かう。板橋区の北東端といったあたり。駅前から小豆沢通りを東に進む。小豆沢公園前交差点を越え、すぐ北に折れしばらく進むと龍福寺。板碑が多く残されている、とか。このあたりは小豆沢貝塚が発見されたところ、らしい。崖下に新河岸川が流れている。

小豆沢神社
お寺の隣に小豆沢神社。この地域の氏神さま。で、小豆沢の由来だが、その昔、この地で小豆を積んだ船が沈没。積荷の小豆が漂着した地である、という説もある;
「小豆沢村は、往昔、荒川の入江に傍って、七々子崎と唱へし、わずかの湊なり、平将門東国を押領せし頃、貢物の小豆を積来り船、この江に沈みしかば、此の名は起これり」、と。
また、赤羽の地名の由来でメモした、赤埴(あかはね)、つまりは赤い土、からきたものかとも思う。真偽の程定かならず。このあたり志村城址から小豆沢神社にかけて円墳が点在。志村古墳群と呼ばれるほど。この神社もかっては観音塚と呼ばれる円墳であった、とか。

総泉寺
小豆沢神社を離れ、都営三田線・志村坂上に戻り、清水薬師に向かう。中山道を北に進む。中山道が環八との交差に向かって下る、というか、新河岸川の流れる低地に向かって下る途中に総泉寺。この総泉寺って、台東区散歩のとき橋場で出会った。正確に言えば、もとはその橋場の地にあった江戸三刹と呼ばれる大寺であった、あの総泉寺。板橋に移ったとそのときのメモに書いていたが、ここにあった、とは。
総泉寺で思いだすのは、総泉寺にあった平賀源内のお墓はもとの橋場の地に残っている、ということと、隅田散歩の折の「梅若伝説」の悲劇の母親・妙亀尼のお墓がある、ということ。お寺の歴史をまとめておく。
開基は建設仁元年(1201年)、千葉介により開かれた。中興開基は石浜城主・千葉介守胤。江戸時代には曹洞宗江戸三刹の一つとして幕府の庇護を受け,同時に秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となった。
現在の地に移ったのは昭和2年。関東大震災により被災し、当地にあった大善寺と合併した。境内にある薬師三尊は,もと大善寺の本尊。清水薬師とも呼ばれる,清水坂の地名もこれによる。地蔵堂に祀られている地蔵は,もと清水坂の中腹にあったもの。現在は子育地蔵として信仰を集めている。鉄筋のつくり、っぽい。中山道沿いお寺の営業用看板が結構目立つ。

清水薬師
坂を少しくだり、薬師の泉に。現在は公園になっている。江戸名所図会「清水薬師・清水坂」を見ると、このあたりに清水薬師大善寺があった、よう。清泉というか、清水が湧き出でていたわけだ。
新編武蔵風土記稿の文政9年(1826)の豊島郡の項の記録;「大善寺、禅宗曹洞派江戸芝青松寺末医王山薬師院と号す。本尊薬師聖徳太子の作坐像長二尺許是を清水の薬師と呼ぶ。享保の頃有徳院殿(八代将軍吉宗)御放 鷹の時、境内に清水あり、その流れいと清冷なれば清水の薬師徒と唱えよとの仰せあり。これより以来近郷にその名高しという」。清水坂の由来はこの清泉にあったわけだ。
ちなみに、江戸名所図会を見ていると、清水坂って、まっこと山の中って雰囲気。現在の姿から、この坂が難所であった、ってことは想像できない。

旧中山道・清水坂
清水薬師を離れ、中山道を志村坂上方面に戻る。道の西側に成り行きでそれる。道なりに進むと、都営三田線の高架が台地下に入り込むあたりに結構な坂道。清水坂。偶然、旧中山道に出会った。
この清水坂、江戸を出てから最初の難所であった、とか。昔はもっと勾配がきつかったのか、そうでなくても、舗装していない往時、雨でも降れば滑ったりして大変であったのか、その「難所感」はいまひとつ実感はできないながら、坂を登る。
清水坂の由来は、このあたりに、というか中山道沿いの清水薬師さんなのだが、清水が湧き出ていたから。千葉隠岐守信胤にちなみ、「隠岐坂」とも。坂の途中に地蔵尊があったので、「地蔵坂」とも。 江戸名所図会に清水坂の説明;「志村にあり。世に地蔵阪とも号(なず)く。旧名は隠岐殿(おさどの)坂と呼べり。昔隠岐守何某闘かるるゆゑなりといふ。この地峻岨 (けんそ)にして、往還の行人おはいに悩めり。よって寛保年間(1741~44)大善寺の住守直正和尚、僧西岸と力を戮せ(あわせ)、勧進の功を募り、木 を伐り荊(いばら)を刈りて、石を畳みて階とす。しかありしより、行人苦難の患ひを逓」、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


延命寺
旧中山道を歩き、志村坂上まで戻り、志村銀座を西に向かう。少し歩き、これも適当に志村銀座通りを折れて南に進む。木立茂るあたりを探しながら歩くと、次の目的地・延命寺に。大永4年(1524年)、小田原北条家の北条氏綱が江戸城から川越に落ちてゆく扇谷上杉朝興との追討戦となり、このあたりで干戈を交える。先般のメモのように、その折、志村城が落城。城主千葉信胤の家臣、見次権兵衛は自宅庭先で討ち死にした子息・権太郎をみるにつけ、世の無常を感じ自邸を寺としたのがおこり。江戸時代は志村・熊野神社の別当寺。

見次公園
延命寺を離れ、道なりに進む。次の目的地は中台・前野町のある高台。首都高速5号・池袋線の走る谷地に下りる。坂道に沿って志村坂上見次公園がある。その東手には凸版印刷。この板橋工場には昔来たことがある。出張校正であったのだろうか。ともあれ、坂を下る。谷地に見次池。このあたり、もともとは田圃(たんぼ)。いたるところ湧水が湧き出ていたとのこと。池ができたのはそれほど昔のことでもないかと思う。

出井川跡
首都高速5号・池袋線、見次交差点に。このあたりには昔、出井川が流れていたよう。出井川の源流点は泉町の「出井の泉」。川は泉町からはじまり、すぐに高速道路の路線に沿って北西に進む。もちろん今となっては流路などなにもない。途中2箇所の支流を集め、ひとつは上板橋の西手あたりでもあるのだが、ともあれ支流を集め、先般歩いた志村城山あたりで高速から離れる、というか流れていた。あとは、城山の台地下を巻き、都営三田線・志村三丁目に。
そこからは緑道となり、新河岸川に続いている、というか、「いた」。

常楽院
首都高速下・交差点を渡り、前野町の台地に取り付く。少し進むと常楽院。いい風情のお寺さま。土器寺とも呼ばれる。この地で弥生式土器が発見され、前野町式土器として知られる。




西前野熊野神社
常楽院山門を離れ西に。前野本通りを過ぎ、途中、急坂を登り、のぼりきったところに西前野熊野神社。神社は少し寂しい。が、神社裏手から台地下の眺めは結構いい。
台地のさらに上に淑徳学園。で、今更のこと気がついたのだが、淑徳学園の西って、先回歩いた稲荷神社のある若木地区。地名の「襷」が繋がってくる。




東前野熊野神社
淑徳学園から前野公園に進み、前野中央通りの坂道を下る。この道、逆に進めば、東武東上線・上板橋の東手に出る。坂を下り、台地を下りるちょっと手前、前野町3丁目に東前野熊野神社。西前野に比べて造作はいい。ちょっと長い参道も格好いい。神社の東は台地の端。下に大型ホームセンターが見える。境内で少々休憩し次のルートを考える。




長徳寺
東前野熊野神社を離れ、台地を降りきり、首都高速5号・池袋線に沿って少し下る。道に沿って長徳寺。藤原時代の阿弥陀像がある、という。結構、構えの大きいお寺さまである。
大原町をブラブラすすみ中山道にあたる。大原の地名の由来。小豆沢村の字である、大日前・大日後の「大」と、本蓮沼村の字名・西原の「原」を組み合わせたもの。そんなんありか。小豆沢村の字名・大日は長徳寺にある「大日」如来から来ている、と。


蓮沼・氷川神社
中山道の陸橋に上がり、深い緑を探す。少し北に戻ったあたりに、それっぽい緑。少し北に戻り、道から少々入ったところに氷川神社。神社の由来もさることながら、このあたりの地名蓮沼がめっぽう気になった。こんな台地の上に沼がある?川筋もないのに?調べてみた。
この神社、もとは志村の台地下、荒川河川敷、現在の坂下・東坂下・舟渡あたりにあった。が、たびたびの洪水の被害のため、特に享保12年(1728年)の洪水の折、村人は水難を避けて現在の地に移る。蓮沼村字前沼にあった氷川神社もこの地に移る。ために、蓮沼村は坂上と坂下の二ヶ所に別れることになる。坂下は「上蓮沼村」と称したため、この地は「本蓮沼村」となった、と。蓮沼町もこの神社のまわりだけ、というこじんまりした地域であるのも納得。水害で何度となく流失したため「十度の宮」とも呼ばれる。

南蔵院
氷川神社の隣に南蔵院。氷川神社の別当寺。同じく志村坂下からこの地に移る。度重なる荒川の氾濫を避けてのことである。享保6年(1722年)、八代将軍吉宗が荒川で鷹狩をしたとき、御膳所となった、という由緒のあるお寺まさ。関東36不動霊場の第12番札所の志村不動尊と呼ばれる。


清水稲荷神社
中山道を南に下る。首都高速5号・池袋線と合流。少し南に歩き、稲荷通り商店街を西に入る。少し進むと清水稲荷神社。由緒書をメモ;創立年代不詳。

『遊歴雑記』に「老親飲めば美酒、その子飲む時は清水なり、彼地を呼んで酒泉澗といい、後に清水村とあらためけるとなむ」とある。当時一丈 ばかりの高台に祀られていた小祠が、当稲荷神社であり、後世、中山道の支道の当地に移転され、古来清水村の鎮守として尊崇を集め伝統を守って今日に至る、と。
酒泉澗があったのは、この神社の少し北、志村第一小学校近くの清水児童公園あたり(泉町24)。出井川の源流点がここ、のはず。



智清寺
清水稲荷を出て、道なりに南に下る。中山道と環七の交差・大和交差点に。少し南に進み、中山道を離れ、西に折れる。すこし坂をくだると智清寺。室町時代初期の創建、とされる。天正11年(1591年)、家康が5石の御朱印地を寄進。
山門手前の石橋は、かつてこの地を流れた石神井川の分水である中用水(根村用水)の遺構。江戸から大正に渡って流れていた、と。境内には豊臣秀吉ゆかりの「藤吉稲荷」(木下稲荷、出世稲荷、とも)がある。


日曜寺
すぐ隣に日曜寺。江戸時代の創建。本尊の愛染明王から「愛染さま」の名がある。「藍染」に通じるところから、染物業者の信仰を集めた。享保年間、八代将軍・吉宗の第三子・田安宗武によって再興された、と。山門の扁額は白河藩・松平定信の書。それにしても、「日曜」って、どこから来た言葉なのだろう。少なくとも、曜日の「日曜」からきたとは思えない。曜日の意味での「日曜」が使われ始めたのは明治になってから、ってわけだから。
調べる;この場合の「日曜」は、「七曜の御暦(しちょうのごりやく)」からきている、かと。七曜暦はインドの天文学・暦をもとにつくられたもので、日本では平安時代に既に使われていた、よう。一説によれば空海が中国から持ち帰った「宿曜経(すくようきょう)」の影響とされる。特に密教各派がこれを使った、とか。宿曜経によれば、日(太陽)と月、それと火星・水星・木星・金星・土星の七つを七曜と称し、その暦をもとに善悪吉凶を占う、一種の占星術といったものであった、よう。藤原道長も日記に曜日が記載している。現在の「曜日」の意味ではなく、その日の吉凶の判断の参考にしていたのだろう。こういった素地もあったので、明治に太陰暦から太陽暦に変更するに際し、1週間Seven daysを意味する「曜日」の用語として、この「七曜」を採用したのだろう。ということで、この日曜寺の日曜って、大いに密教の影響を受けた「宿曜経」の意味するところの「日曜」であった、ということで一件落着、としておこう。



環七の近くに氷川神社
日曜寺を離れ、道なりに坂道を上る。すぐ下は石神井川なのだが、坂の上を走る環七の近くに氷川神社がある。ちょっとのぞいてみよう、と思う。
真に立派な構えのお宮さま。由来書のメモ;「創建年代は不明。社伝によると応永年間(1394〜1427)に大宮氷川神社から勧請されたと伝えられている。当松山氷川大名神と称し、旧根村、板橋宿上宿の産土神として崇敬された。相殿として祀られている蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)は、もと下板橋宿稲荷台の新堀山に鎮座していた新堀稲荷社。板橋城廃城後、太田道灌の家臣新堀氏がこの地で奉斉したもの。明治40年氷川神社に合祀された」、と。

板橋宿
氷川神社を離れ、次は板橋宿に向かう。いつだったか、石神井川を源流から下り王子で隅田川の合流点まで歩いたことがある。途中、石神井川に板橋という橋がかかっており、そこが板橋宿であった。ということで、成り行きで南に石神井川まで下り、川に沿って続く遊歩道を東に向かう。
中山道の手前の氷川神社にちょっとお参りし、中山道を渡り少し進むと旧中山道に板橋が架かる。橋の脇に「板橋」の案内。簡単にまとめる;「板橋の名前は、この橋に由来する。板橋の名前は鎌倉時代の古書に登場。江戸には宿場町、明治には町名、昭和には区名となる。板橋宿は南の滝野川村の境から北の前野村境までのおよそ2.2キロ程度。この橋より京都寄りを上宿、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、山宿をまとめて板橋宿と呼んだ。板橋宿の中心は、本陣や問屋場、旅籠が並ぶ中宿ではあるが、この橋のあたりも賑やかであった。橋野長さは16m強、幅5m強あった」、と。

中宿
橋を離れ、旧中山道を南に下る。商店街となっている。本陣跡などないものか、と左右を見ながら進むが、それらしきものは見当たらない。道なりに進むと、旧中山道中宿の標識のある小振りなロータリーに。これから先は不動通り商店街となる。はてさて、と思案。
と、道脇にに「板橋観光センター」の案内。不動通りを少し南に下った、板橋地域振興センター内にある。行けばなんらかの資料もあろうかと、先に進む。

板橋観光センター
センターには板橋宿や中山道の案内が展示。赤塚、高島平、志村、板橋、常盤台の地域別の地図などが無料で提供されている。板橋散歩の最初にここに来ておけばなあ、などと少々の溜息。ボランティアであろう職員さんも親切で、まことに心地よかった。
で、本陣、脇本陣などをチェック。来た道の途中にあるようだ。また、石神井川を越えたところに「縁切り榎」などもある。ということで、少々の休憩の後、商店街を北に戻る。

本陣跡
住所をたよりに進むとスーパーの脇、民家の玄関脇(仲宿47)に、ひっそりと碑が立っていた。本陣が残っているわけでもなく、見逃すはずである。どうように脇本陣跡(仲宿53)も、マンションの駐車場脇にひっそり碑がたっていた。この脇本陣には皇女和宮が宿泊した。
板橋宿は江戸期に大中小あわせて60ほどの旅籠があった。人馬継問屋は遍照寺というお寺の境内にあったが、明治に成って廃寺。現在は成田不動の末寺となっている。仲宿40にある跡地は民家然とした、お不動さん。通路にならぶ馬頭観音が昔のなごりをとどめるだけ、である。




縁切り榎
中宿の商店街を抜け、石神井川にかかる板橋を再び渡りすこし進むと道路脇に「縁切り榎」。案内を参考にメモ:「江戸時代、道を隔てた向かい側に、旗本近藤歌之助の抱屋敷があった。その垣根の際に榎(えん)と槻(つき)の古木があった。
で、いつの頃からか、縁切り榎と呼ばれるようになった。(えん>縁)がつき>尽きる)ということであろう。ために、嫁入りに際しては、縁が切れるのをおそれ、その下を通らなくなった。その中で、もっとも有名なのが皇女和宮の迂回路のエピソードである。
文久元年(1861年)、皇女和宮が十四代将軍・家茂に嫁ぐため京より中山道を下向。で、この地で縁切り榎を避けるため、迂回路をつくった。中山道が現在の環七と交差するあたりで中山道を離れ、練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て再び旧中山道に戻り、板橋宿の上宿へと戻ったようだ。槻(つき)の木とは欅(けやき)のこと、である。『和宮御留:有吉佐和子(講談社)』をそのうち読み返してみよう。





石神井川・東武東上線
板橋宿を離れ、常盤台に向かう。縁切り榎前の交差点を西に進み、中山道を渡ると先ほど歩いた智清寺、日曜寺前の愛染通り。
道なりに西に進むと中根橋で石神井川にあたる。遊歩道を西に向かう。中山橋の先で川が南西に大きく湾曲。その先で東武東上線と交差、そしてその先に先日訪れた下頭橋。今回は下頭橋西詰めから旧川越街道を西、というか北西に進む。


常盤台・天祖神社
環七を越え、東武東上線・常盤台駅近くに天祖神社。立派な雰囲気。旧上板橋村の産土神。江戸の文人・太田南畝・蜀山人がこの神社のメモを書いている;「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」。
「石橋」とは「下頭橋」のこと。「神明宮」とは、天祖神社は明治まで、他の天祖神社も多くがそうであったように、「神明宮」「神明社」と呼ばれていた、ため。川沿いの小高い丘の鎮守の森、そこに鎮座するお宮さま。地名、常盤も明治に東武鉄道により宅地開発・分譲がおこなわれたとき、この鎮守の森の「常盤」の松に由来する。ちなみに蜀山人。この人も散歩の折に触れ姿を現す。なんだかおもしろそう、ということで『蜀山残雨:野口武彦(新潮社)』、『橋の上の霜:平岩弓枝(新潮文庫)』などを読んだが、未だ未消化。

大谷口・エンガ掘
天祖神社を離れ、南西に下る。川越街道を越えと東新町に氷川神社。構えの立派なお宮様。参道入り口から台地に上るアプローチはなかなか、いい。先を急議、道を南東に成り行きで進むと環七通りに交差。道を渡り、更に成り行きで南に下ると石神井川に合流。橋を渡れば大谷口。
石神井川を離れ南に進む。いかにも水路跡といった暗渠が続く。「エンガ掘」と言うようだ。筑波大付属看護学校あたりでちょっとした商店街に当たる。


氷川神社と西光寺
向原団地のつつましやかなる商店街をちょっと東に。急な坂のうえにこんもり茂った緑。いかにも鎮守の森。氷川神社。旧大谷口の鎮守さま。神社を離れ道なりに進むと結構立派な構えのお寺さん。西光寺。ここには「しろかき地蔵」の話がある。
板橋の昔話からのメモ;「代かき地蔵:昔々大谷口村に仏様を深く信仰するお百姓が。明日は村を上げての田植え。そのお百姓、準備に一生懸命勤める。が、代かきが間に合わない。困り果てていると、どこからともなく若いお坊様。「代かきが間に合わないの」と話かけ、どこともなく去っていった。一夜あけ、あたりを見まわすと代かきがきちんと終わっている。泥の足跡が田んぼから丘の上まで。跡を辿ると丘の上の小さなお堂まで。中を開けると腰の辺りまで泥だらけのお地蔵さまが。このお地蔵様は現在この西光寺にある、とのこと。
ちなみに大谷口の地名の由来は、文字通り、「大きく谷が扇状仁開いた地形であった」から。なんとなく氷川神社あたりの地形が近い、かも。

大谷口の給水塔

板橋散歩の最後に大谷口に来たのは、東京都水道局の大谷口給水塔を見ておきたかった、から。西光寺を東に進んだところにある、はず。近くに東京都水道局の給水塔があった。これって、荒玉水道のところでメモした、荒川―多摩川を貫通すべく企画したが、結局この地で留まった、その給水塔。大谷口中央通を東に進み、川越街道から要町3丁目に抜ける大きな通りとの交差点に出る。
交差点前に大規模な工事現場。これって、給水塔の場所。角の交番で訪ねると、目下、リニューアル、というかお色直しとのこと。数年後に完成する、ということだった。少々残念。後は、台地を下り、要町三丁目まで進み、有楽町線・千川駅から一路家路、へと。

赤塚地区、高島平地区、志村地区、板橋地区、そして常盤台地区と歩き、なんとなく板橋各地区位置関係がわかってきた。なにも考えずにはじめた板橋の散歩であるが、地形も歴史も魅力的で、結構、時空散歩を楽しむことができた。

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