伊予 別子銅山遺構散歩のメモも結局3回となってしまった。メモを書きはじめて、端出場発電所導水路のこと、上部鉄道のこと、また、そもそも別子銅山について、近所に居ながらあまりに何も知らず、メモの前提となるあれこれの整理、発電所導水路のあまりの難路・険路ゆえにメモが長くなってしまった。
2回のメモでメモの前提および往路の端出場発電所導水路跡を書き終え、第三回の導水路の終点である沈砂池から復路である「上部鉄道」跡を辿り、出発点の東平までをメモする。
本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平
沈砂池;13時5分
端出場発電所への導水路の終点。ここで水に混ざった砂を分け、水圧鉄管で落差約600mの水圧で端出場発電所のペルトン水車を回し、生産力買増大により必要となった別子銅山の電力需要に応えたことは既にメモで延べた。 沈砂池を囲む煉瓦造りの縁上をぐるりと廻り、下の水圧鉄管の支持台などを幾つか目に留めて、東平へと戻ることにする。復路は「上部鉄道跡」を一本松停車場跡まで戻り、そこから東平へと下る。
石垣跡;13時25分
水圧鉄管支持台より沈砂池の傍に戻り、山道を上部鉄道跡へと上り始める。杉の木に括られた「まとの滝上部 停車場」の標識(13時12分)に従って上に進む。
50mほど上ると立派な石垣が残る。この石垣は何の遺構だろう。沈砂池からは大分はなれている。往昔この辺りを上ったであろう「仲持ち」さんの施設なのだろうか、「牛車道」関連の施設があったのだろうか、それとも10mほど上にあった上部鉄道の施設なのだろうか?
あれこれチェックすると、上部鉄道石ヶ山丈の地盤を安定させるため、3段に渡る石垣を築いた、といった記事を目にした。位置からして上部鉄道関連の遺構のように思える。
石垣の前に「銅山峰ヒュッテ 停車場跡」の標識がある。銅山峰ヒュッテは上部鉄道の西端・角石原駅の辺り、停車場跡は同じく上部鉄道の東端・「石ヶ山丈駅」のことである。
魔戸の滝への分岐;13時30分
標識から10mほど上ると人の手が入った平坦地に出る。東に下れば種子川の魔戸の滝に下る山道、西は上部鉄道の「石ヶ山丈駅」である。この辺りは上部鉄道が開通する以前、別子銅山から粗銅を運び、銅山村へ日用品を運んだ「仲持さん」の泉屋道であり、牛車道として往還の拠点ではあったのだろう。
○「中持ちさん」・「牛車道」と石ヶ山丈
銅山遺構散歩の「そのⅠ」でメモしたように元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された別子銅山は、初期は銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回した(第一次泉屋道)。その理由は、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。
その後、元禄15年(1702))、住友の幕閣への交渉が功奏したのか、西条藩が別子村>銅山峯>角石原>「石ヶ山丈」>立川 >角野>泉川>新居浜に出る銅の運搬道を許可した(第二次泉屋道)。仲持ちさんの背に担がれての運搬である。
明治に入り、明治13年(1880) には延長22kmの牛車道が完成。銅山嶺南嶺の別子山村>銅山越>銅山峰北嶺の角石原>「石ヶ山丈」>立川中宿>新居浜市内が結ばれた。
この牛車道も明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく「角石原から結ばれる。通洞内は牛引鉱車で運搬されたとのことである。
石ヶ山丈停車場跡;13時33分
山側に組まれた石垣をみやりながら平坦な道を進むと「石ヶ山丈駅」跡に着く。杉の木に「石ヶ山丈停車場」の案内があり、その脇には石組みのプラットフォームらしきものが残る。
石ヶ山丈停車場跡は上部鉄道の東端の駅。「えひめの記憶」に拠れば、明治22年(1889)に欧米を視察した広瀬宰平は、製鉄と鉱山鉄道の必要性を痛感し、石ヶ山丈-角石原問5532mに山岳鉱山鉄道建設を構想し、明治25年(1892)年5月に着工し、翌26年(1893)年12月に竣工した。標高1100mの角石原から835mの石ヶ山丈間の日本最初の山岳軽便鉄道は急崖な山腹での工事に困難を極めたと、言う。
この上部鉄道であるが、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺南の日浦の間、3880mが直結し、嶺南の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれるに到り、その役目を終える。上部鉄道が活躍したのは18年間ということである。
索道施設;13時34分
石ヶ山丈駅のすぐ傍に深い溝をもった遺構がある。索道施設跡である。上部鉄道により角石原より運ばれた粗銅は石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した「下部鉄道」により市内へと運ばれた。
ところで、石ヶ山丈の索道基地は明治24年(1891)に完成している。上部鉄道の建設が開始されたのは翌明治25年(1892)と言うから、上部鉄道開通までは明治13年(1880)に開通した第一通洞の銅山峰北嶺の角石原から石ヶ山丈までは牛車道で粗銅が運ばれ、ここから延長1,585メートルの索道で端出場まで下ろされたのであろう。
なお、明治24年(1891)に完成した索道は「複式高架索道」とのこと。明治30年(1897)には単式高架索道となっている。単式(高架)索道は、端出場火力発電所の電力を使った「電力」で動く索道とのこと。ということは、「複式」とは「上りと下り」の索道の動力モーメントで動かしたものではあろう。
地獄谷;13時38分
索道施設からほどなく谷に橋台が残る。急峻な谷に石が敷かれ、地盤を固めているように見える。橋台跡など、本来なら結構感動するものだろうが、なにせ、往路での導水路の強烈な橋跡を見たわが身には、あまり「刺さる」ことはなかった。
切り通し;13時46分
地獄谷から8分程度で切り通し。上部鉄道の写真でよく目にする箇所である。岩壁手前の岩盤を切り通した箇所から貨車を繋いだ蒸気機関社が映る。貨車には人が乗っている。
上部鉄道の機関車2両、客車1両、貨車15両はドイツのクラウス製。開通当時は運転手もドイツ人であった、とのこと。蒸気機関車2両が交替で貨車4,5両繋ぎ1日6往復。片道42分、平均時速およそ8キロで走った、とのこと。 切り通し部の写真ではフラットな路線のように見えるが、最大斜度が18分の一、133回ものカーブのある断崖絶壁を走ったわけで、結構スリルのある山岳鉄道ではあったようだ。
当時は岩場だけの緑のひとつもない、禿山の切り通しではあったが、現在は線路跡にも木々が立ち並び、緑豊かな一帯となっている。
東平が見える;13時56分
切り通しを越え10分程度歩くと谷側が開けたところに出る。切り通しから先は。谷側には木々が茂り、昔のような禿山の断崖絶壁を歩く怖さは緩和されているが、その分見通しがわるかったのだが、ここでやっと東平が見えた。ポールに赤い旗が巻かれているが、これは東平からこの地点確認しやすくするためなのだろうか。よくわからない。
禿山と言えば、明治22年(1893)頃より、別子銅山は銅山用の木材伐採と製錬所から排出される亜硫酸ガスで山は荒れ果て、一面の禿山となってしまっていた。
明治27年(1894)、初代総理事廣瀬宰平が引退した後、別子銅山の煙害問題に取り組んだのが、のちの第二代総理事である伊庭貞剛。煙害問題解決のため、製錬所を新居浜沖約20kmにある四阪島(宮窪町)へ移すなど対策を講じる(後年、この四阪島も周桑郡に大きな煙害を齎すのだが)とともに、荒廃した山を再生させる植林事業を開始。それまで年間6万本程度であった植林本数を100万本までへと拡大し、現在の美しい緑の山の礎を築いた。
紫石;14時1分
東平を眺め5分程度進むと、線路脇に大きな岩が鎮座している。紫岩と呼ばれる。雨に濡れると紫が際立つ、とか。それはともあれ、この辺りは、往路で出合った「山ずれ」の上部箇所。紫岩手前辺りで線路跡の道にギャップがある。上部鉄道上を通る「牛車道」も山ズレ状態にあるようだ。
第一岩井谷;14時19分
紫石から20分弱で朽ちた木が残る橋跡に着く。谷は「第一岩井谷」との案内があった。橋台は煉瓦造りだが、上に架かる橋は木。木橋であったのだろうか。
第二岩井谷;14時22分
第一岩井谷から数分で第二岩井谷。ここは橋台の上に鉄板の仮橋が架けられている。上部鉄道の三つの谷を渡る橋を見てきたのだが、橋は鉄橋ではなく木製であったようだ。
一本松停車場跡;14時34分_標高960m
給水タンクや保線小屋の案内を見遣り、小さな沢に架かる橋台、橋台に渡されている木橋などを越えて10分強進むと「銅山峯へ 石ヶ山丈をへて種子川へ 東平へ」との三方向の案内がある標識」のあるところに出る。ここが上部鉄道の角石原駅と石ヶ山丈駅の中間にあった「一本松停車場跡」である。一帯は平坦に整地されていた。結構広い。引き込み線もあったようだ。
上部鉄道はここから角石原へと向かうが、本日のメーンイベントは端出場発電所導水路散歩であり、上部鉄道散歩の残りは次の機会として東平へ戻る道を下ることにする。
東平に下る:15時2分、
14時40分、一本松停車場跡の平坦地を離れ、「東平」への道標に従い尾根を下る。6分程度下り、標高870m辺りに木に「一本松社宅」の案内。かつてこの地 には別子銅山の「一本松社宅」があった。戸数185。飯場と人事詰所、クラブ、派出所が各1、その他3つの職員貸屋と2箇所の浴場があった、とのことである(「えひめの記憶」)。
社宅跡から10分程度(14時50分)、標高820m辺りに住友共同電力の送電線鉄塔。そのすぐ下に上の方向を「高萩西線46 」と示した住友共同電力の標識があったので、その鉄塔は「高萩西線46」ではあったのだろう。
鉄塔から10分程度下り東平のスタート地点に15時2分到着。長かった端出場発電所導水路および、上部鉄道散歩を終える。
本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平
沈砂池;13時5分
端出場発電所への導水路の終点。ここで水に混ざった砂を分け、水圧鉄管で落差約600mの水圧で端出場発電所のペルトン水車を回し、生産力買増大により必要となった別子銅山の電力需要に応えたことは既にメモで延べた。 沈砂池を囲む煉瓦造りの縁上をぐるりと廻り、下の水圧鉄管の支持台などを幾つか目に留めて、東平へと戻ることにする。復路は「上部鉄道跡」を一本松停車場跡まで戻り、そこから東平へと下る。
石垣跡;13時25分
水圧鉄管支持台より沈砂池の傍に戻り、山道を上部鉄道跡へと上り始める。杉の木に括られた「まとの滝上部 停車場」の標識(13時12分)に従って上に進む。
50mほど上ると立派な石垣が残る。この石垣は何の遺構だろう。沈砂池からは大分はなれている。往昔この辺りを上ったであろう「仲持ち」さんの施設なのだろうか、「牛車道」関連の施設があったのだろうか、それとも10mほど上にあった上部鉄道の施設なのだろうか?
あれこれチェックすると、上部鉄道石ヶ山丈の地盤を安定させるため、3段に渡る石垣を築いた、といった記事を目にした。位置からして上部鉄道関連の遺構のように思える。
石垣の前に「銅山峰ヒュッテ 停車場跡」の標識がある。銅山峰ヒュッテは上部鉄道の西端・角石原駅の辺り、停車場跡は同じく上部鉄道の東端・「石ヶ山丈駅」のことである。
魔戸の滝への分岐;13時30分
標識から10mほど上ると人の手が入った平坦地に出る。東に下れば種子川の魔戸の滝に下る山道、西は上部鉄道の「石ヶ山丈駅」である。この辺りは上部鉄道が開通する以前、別子銅山から粗銅を運び、銅山村へ日用品を運んだ「仲持さん」の泉屋道であり、牛車道として往還の拠点ではあったのだろう。
○「中持ちさん」・「牛車道」と石ヶ山丈
銅山遺構散歩の「そのⅠ」でメモしたように元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された別子銅山は、初期は銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回した(第一次泉屋道)。その理由は、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。
その後、元禄15年(1702))、住友の幕閣への交渉が功奏したのか、西条藩が別子村>銅山峯>角石原>「石ヶ山丈」>立川 >角野>泉川>新居浜に出る銅の運搬道を許可した(第二次泉屋道)。仲持ちさんの背に担がれての運搬である。
明治に入り、明治13年(1880) には延長22kmの牛車道が完成。銅山嶺南嶺の別子山村>銅山越>銅山峰北嶺の角石原>「石ヶ山丈」>立川中宿>新居浜市内が結ばれた。
この牛車道も明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく「角石原から結ばれる。通洞内は牛引鉱車で運搬されたとのことである。
石ヶ山丈停車場跡;13時33分
山側に組まれた石垣をみやりながら平坦な道を進むと「石ヶ山丈駅」跡に着く。杉の木に「石ヶ山丈停車場」の案内があり、その脇には石組みのプラットフォームらしきものが残る。
石ヶ山丈停車場跡は上部鉄道の東端の駅。「えひめの記憶」に拠れば、明治22年(1889)に欧米を視察した広瀬宰平は、製鉄と鉱山鉄道の必要性を痛感し、石ヶ山丈-角石原問5532mに山岳鉱山鉄道建設を構想し、明治25年(1892)年5月に着工し、翌26年(1893)年12月に竣工した。標高1100mの角石原から835mの石ヶ山丈間の日本最初の山岳軽便鉄道は急崖な山腹での工事に困難を極めたと、言う。
この上部鉄道であるが、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺南の日浦の間、3880mが直結し、嶺南の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれるに到り、その役目を終える。上部鉄道が活躍したのは18年間ということである。
索道施設;13時34分
石ヶ山丈駅のすぐ傍に深い溝をもった遺構がある。索道施設跡である。上部鉄道により角石原より運ばれた粗銅は石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した「下部鉄道」により市内へと運ばれた。
ところで、石ヶ山丈の索道基地は明治24年(1891)に完成している。上部鉄道の建設が開始されたのは翌明治25年(1892)と言うから、上部鉄道開通までは明治13年(1880)に開通した第一通洞の銅山峰北嶺の角石原から石ヶ山丈までは牛車道で粗銅が運ばれ、ここから延長1,585メートルの索道で端出場まで下ろされたのであろう。
なお、明治24年(1891)に完成した索道は「複式高架索道」とのこと。明治30年(1897)には単式高架索道となっている。単式(高架)索道は、端出場火力発電所の電力を使った「電力」で動く索道とのこと。ということは、「複式」とは「上りと下り」の索道の動力モーメントで動かしたものではあろう。
地獄谷;13時38分
索道施設からほどなく谷に橋台が残る。急峻な谷に石が敷かれ、地盤を固めているように見える。橋台跡など、本来なら結構感動するものだろうが、なにせ、往路での導水路の強烈な橋跡を見たわが身には、あまり「刺さる」ことはなかった。
切り通し;13時46分
地獄谷から8分程度で切り通し。上部鉄道の写真でよく目にする箇所である。岩壁手前の岩盤を切り通した箇所から貨車を繋いだ蒸気機関社が映る。貨車には人が乗っている。
上部鉄道の機関車2両、客車1両、貨車15両はドイツのクラウス製。開通当時は運転手もドイツ人であった、とのこと。蒸気機関車2両が交替で貨車4,5両繋ぎ1日6往復。片道42分、平均時速およそ8キロで走った、とのこと。 切り通し部の写真ではフラットな路線のように見えるが、最大斜度が18分の一、133回ものカーブのある断崖絶壁を走ったわけで、結構スリルのある山岳鉄道ではあったようだ。
当時は岩場だけの緑のひとつもない、禿山の切り通しではあったが、現在は線路跡にも木々が立ち並び、緑豊かな一帯となっている。
東平が見える;13時56分
切り通しを越え10分程度歩くと谷側が開けたところに出る。切り通しから先は。谷側には木々が茂り、昔のような禿山の断崖絶壁を歩く怖さは緩和されているが、その分見通しがわるかったのだが、ここでやっと東平が見えた。ポールに赤い旗が巻かれているが、これは東平からこの地点確認しやすくするためなのだろうか。よくわからない。
禿山と言えば、明治22年(1893)頃より、別子銅山は銅山用の木材伐採と製錬所から排出される亜硫酸ガスで山は荒れ果て、一面の禿山となってしまっていた。
明治27年(1894)、初代総理事廣瀬宰平が引退した後、別子銅山の煙害問題に取り組んだのが、のちの第二代総理事である伊庭貞剛。煙害問題解決のため、製錬所を新居浜沖約20kmにある四阪島(宮窪町)へ移すなど対策を講じる(後年、この四阪島も周桑郡に大きな煙害を齎すのだが)とともに、荒廃した山を再生させる植林事業を開始。それまで年間6万本程度であった植林本数を100万本までへと拡大し、現在の美しい緑の山の礎を築いた。
紫石;14時1分
東平を眺め5分程度進むと、線路脇に大きな岩が鎮座している。紫岩と呼ばれる。雨に濡れると紫が際立つ、とか。それはともあれ、この辺りは、往路で出合った「山ずれ」の上部箇所。紫岩手前辺りで線路跡の道にギャップがある。上部鉄道上を通る「牛車道」も山ズレ状態にあるようだ。
第一岩井谷;14時19分
紫石から20分弱で朽ちた木が残る橋跡に着く。谷は「第一岩井谷」との案内があった。橋台は煉瓦造りだが、上に架かる橋は木。木橋であったのだろうか。
第二岩井谷;14時22分
第一岩井谷から数分で第二岩井谷。ここは橋台の上に鉄板の仮橋が架けられている。上部鉄道の三つの谷を渡る橋を見てきたのだが、橋は鉄橋ではなく木製であったようだ。
一本松停車場跡;14時34分_標高960m
給水タンクや保線小屋の案内を見遣り、小さな沢に架かる橋台、橋台に渡されている木橋などを越えて10分強進むと「銅山峯へ 石ヶ山丈をへて種子川へ 東平へ」との三方向の案内がある標識」のあるところに出る。ここが上部鉄道の角石原駅と石ヶ山丈駅の中間にあった「一本松停車場跡」である。一帯は平坦に整地されていた。結構広い。引き込み線もあったようだ。
上部鉄道はここから角石原へと向かうが、本日のメーンイベントは端出場発電所導水路散歩であり、上部鉄道散歩の残りは次の機会として東平へ戻る道を下ることにする。
東平に下る:15時2分、
14時40分、一本松停車場跡の平坦地を離れ、「東平」への道標に従い尾根を下る。6分程度下り、標高870m辺りに木に「一本松社宅」の案内。かつてこの地 には別子銅山の「一本松社宅」があった。戸数185。飯場と人事詰所、クラブ、派出所が各1、その他3つの職員貸屋と2箇所の浴場があった、とのことである(「えひめの記憶」)。
社宅跡から10分程度(14時50分)、標高820m辺りに住友共同電力の送電線鉄塔。そのすぐ下に上の方向を「高萩西線46 」と示した住友共同電力の標識があったので、その鉄塔は「高萩西線46」ではあったのだろう。
鉄塔から10分程度下り東平のスタート地点に15時2分到着。長かった端出場発電所導水路および、上部鉄道散歩を終える。
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