今回はその続き、浅海からはじめ、「窓坂」とか「ひろいあげ坂」を経て、菊間まで進むことにする。この間、歩き遍路とは言いながら、札所はない。札所は松山市和気町にある53番・円明寺の次の札所は、今治にある54番札所・延命寺である。
先回の花遍路の里の散歩もそうだが、今回も札所巡りと言うより、遍路道を辿ること、それも先回の粟井坂越え・、鴻之坂越えと同じく、今回も「窓坂越え・ひろいあげ坂越え」、といった峠越えらしき言葉の響きに魅せられての散歩ではある。
コースは浅海から旧野間郡菊間(現在は今治市菊間町)までの10キロ程。車を菊間の駅近くにデポし、そこから浅海まで列車で移動し、駅から歩き始めるのがベストではあるが、車のデポ地は成り行きで、とする。 ルートは常の如く、「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター(以下「えひめの記憶」)」の記事を頼りにチェックするに、「窓坂」への道もそれほど整備されていないようである。また、「ひろいあげ坂」はゴルフ場建設のため消え去っているとのこと。「ひろいあげ坂」から菊間までは、しっかりとした道や県道を歩けばよさそうである
。 ということで、浅海からひろいあげ坂を越えた辺りまでの山越えのルートとポイントをチェック。Google Mapの「マイマップ」に大雑把なルート図(トラック)と場所(ウェイポイント)を作成し、iphoneのアプリGmap Tools(無料)に読み込み、それを頼りに窓坂を越えることにした。
窓坂峠越えは、道も荒れ、藪漕ぎのイメージで、結構緊張して臨んだのだが、結果的には何ということもない、至極あっさりとした峠越えではあった。
本日のルート;JR予讃線・浅海駅>薬師堂>小竹古墳群への分岐点>名石山が前方に見える>窓坂池の郡境石>窓坂峠への三叉路>窓坂峠>地蔵道標>松山シーサイドカントリークラブ>県道197号>里程石>藪道をゴルフ場へと>県道197号を菊間に>遍照院>茂兵衛道標>茂兵衛道標>茂兵衛道標>JR予讃線・菊間駅>JR浅海駅>大乗妙典一字一石>加茂神社>厳島神社>茂兵衛道標>茂兵衛道標
JR予讃線・浅海駅
実家のある愛媛県新居浜市を車で出て、国道196号に乗り、高縄半島の首根っこを進み、斎灘を左手に見ながら国道を進み、当初デポ予定のJR予讃線・菊間駅に。が、駅前の駐車スペースは一杯。
当初の予定ではここに車をデポし、JR浅海駅まで列車で移動し、菊間に戻るつもりであったが、予定を変更。JR浅海駅に車をデポし、菊間まで歩き、車をピックアップしに浅海まで戻ることにした。
海岸線に沿って車を走らせ、JR予讃線・浅海駅に。幸い駅前に広いスペースがあり、デポさせて頂く。
薬師堂;11時36分(標高14m)
遠目に池の堤上に何かが見える。郡境であることを期待し池の堤に上る。が、そこには薬師堂が建っていた。案内には「この薬師堂は、風早八十八箇ヶ所の番外19番の札所になっています。昔からこの薬師堂へお参りして拝むと「イボが治る」と伝えられてきました。そのために、手や足にタコができると、こぞってお参りしていたのです。
お参りをした人々は、仏前にある灰をタコやイボのできているところにつけて拝みます。時には漁に出てオコゼにさされた人もお参りをしていたそうです」 とあった。残念ながら、この池は「窓坂池」ではなかった。
小竹古墳群への分岐点;11時44分(標高11m)
地図を確認すると、この池の北端の先に県道339号がある。そこから東へ分かれる農道の先にある池を探すと、それらしき小さな池が地図にあった。そこが窓坂池であろうと、池の堤を進み、県道に下りる。
●北条古墳群
県道に下りたすぐのところから左に折れる農道がある。少し進むと「小竹古墳群 6号墳・7号墳」の案内があった。古墳にあまりフックが掛からないため、そのまま進んだのだが、メモの段階でチェックすると、北条には200基ほどの中期・後期の古墳が残ると言う。立石川、そして河野川や粟井川が山間部から風早平野に流れ出る地点で灌漑用水を完成させ、勢力をもった首長の墳墓ではあろう。ほとんどが盗掘や耕地の開墾で崩れてはいるようだ。
この小竹古墳群はその北条古墳群の支群と言う。浅海地区だけでも23基の古墳が記録されているようだ。案内にあった「小竹6号墳」からは馬具製品が出土されている、とのこと。小竹古墳群の「小竹8号墳」は5世紀後半の造築のようで、この北条古墳群の中では最古と考えられている、といった記事があった。
名石山が前方に見える
窓坂池の郡境石;11時53分(標高37m)
地上高176cm、幅19cm、厚さ19cmの安山岩製で、石面には「従是南風早郡」「郡境」「従是北野間郡」と刻されている。
『垂憲録拾遺』によると、松山藩松平第6代藩主定喬のとき、寛保元酉年(1741年)3月に、御領界・里塚・郡境の立木を立石に取り換えたとある。
この郡境石の字は書簡役・荒井又五郎の筆によるもので、又五郎は老年に至り、「郡」の堅体が二寸(約6センチメートル)長すぎたと後悔したという逸話も残されている。
なお、栗井坂には和気郡と風早郡との郡境石がある。風化、破損したため、花崗岩で新設したものもある」とあった。
●郡
案内にあった栗井坂にある和気郡と風早郡との郡境石は、先回の花遍路の里散歩で訪ねた。で、ちょっと疑問。郡境碑と言う以上、「郡」が出来た上での「境」ではあろう。ということで、郡成立の時期をチェック。
和気郡・風早郡・野間郡は元松山藩の村。明治の郡区町村編成法の施行に伴い、明治11年(1878)に和気郡と風早郡、明治17年(1884)に野間郡が成立。なお、野間郡は明治30年(1897)には越智郡・野間郡の区域をもって越智郡となり、野間郡は廃止された。
が、郡境碑の案内には寛保元酉年(1741年)とあり、これは江戸時代。これって、どういうこと?チェックすると明治の郡区町村編成とは、元々伊予の国にあった「郡」が再整備されたもののようであった。元々の「郡」は律令制度の「国郡」制度に基づくもの。大宝元年(701)に制定された「大宝律令」により国郡の制度が整備され、愛媛には伊予「国」の下部組織として13の郡が成立し、その後貞観八年(866)に14郡となり明治11年(1878)まで千年ほど続いた。東予から順に挙げると、宇摩郡。新居郡、周敷郡、桑村郡、越智郡、野間郡、風早郡、和気郡、温泉群、久米郡、浮穴郡、伊予郡、喜多郡、宇和郡がそれである。
明治の郡区町村編成法の施行に伴う郡は、旧来の郡を基礎とし、浮穴郡が上浮穴郡・下浮穴郡の二つに分かれ、宇和郡が西宇和郡・東宇和郡・北宇和郡・南宇和郡の4つに分かれ、18の郡となったようである。
窓坂峠への三叉路;11時59分(標高85m)
道を進むと三叉路にあたり、そこに「窓坂峠」の案内がある。左手には道が続くが、窓坂越えの道は「窓坂峠」の案内から三差路を直進し、山の中へと入る道のようである。
窓坂峠;12時5分(標高73m)
道なりに進むと藪の向こうに開けた箇所が見えてきた。そこを抜けるとミカン畑の広がる農道に出る。結構、拍子抜けの窓坂峠越えであった。 この窓坂峠のある尾根筋は旧風早群と旧野間郡、現在の松山市(旧北条市)と今治市(越智郡菊間町)の境であり、つまりは、中予と東予の境ともなっている。
●旧窓坂峠:12時10分(標高80m)
峠から少し下ってきたのだけれど、昔の窓坂峠の切り通しを確認に戻ることにした。現在の峠から再び山道に入り、藪の中にそれらしき堀切をみつけた。昔の遍路道はここから下っていたのだろう。どうせなら旧遍路道を、と堀切の先に進もうとしたのだが、先ほど、下から見た時と同じく藪が酷く、即撤退した。
◆郡境碑
先ほど窓坂池の堤で見た郡境碑は、元はこの堀切の辺りにあったようだ。「えひめの記憶」には、「堀切りから田之尻へ下る角の右側に倒れていた郡境碑を昭和30年代初めに浅海側の人が持ち帰った」とあった。
◆海岸線を通る道
江戸時代から明治の頃まで、この窓坂峠から、この先の「ひろいあげ坂」を越える道が主要な往還であった。藩政時代には藩主の行列も通り、「殿さん道」とも呼ばれたこの往還が使われなくなったのは、明治43年(1910)に海岸に沿って県道が整備されたため。
県道建設以前も海岸に沿って道はあったが、難路であったようである。県道は幾度か改修が重ねられ、現在の国道196号となった。
地蔵道標;12時25分(標高20m)
また、「えひめの記憶」によれば、「元は道標と同じ高さにあった田が整地のため低くなった」とされる。現在田圃は、道より下にあり、とすれば、相当掘り下げたことになる。地蔵道標がある支尾根の北に、別の支尾根があり、その手前に小川が流れている。この小川の水を取り入れるために掘り下げたのだろうか。
松山シーサイドカントリークラブ;12時31分(標高126m)
「えひめの記憶」に拠れば、「昔の遍路道は、この合流点より400mほど上った辺りで左に進み、やがて坂を越えていた。その左に進む辺りを田之尻の『背戸口』といい、坂の向こう側を『長坂明田(みょうだ)』といった」と言う。この坂がひろいあげ坂と思われる。そしてこのひろいあげ坂は現在ゴルフ場の中に吸収されてしまっている」とある。
残念ながら「ひろいあげ坂」はゴルフ場の中であり、しかもゴルフ場として整備するため、平坦に整地され坂は消えてしまっているようである。「えひめの記憶」に「承応2年(1653)巡拝の澄禅は「大坂ヲニツ越)」、貞享4年(1687)刊の『四国邊路道指南』では真念が、「まど坂、ひろいあげ坂、此間一里余むらなし)」と記し、明治時代の中務茂兵衛も、「まど坂・ひろいあげ坂)」と二つの坂を越える」とある「ひろいあげ坂」を越えることは残念ながらできなかった。
ゴルフ場によって途切れた道の先を確認する。400mほどゴルフ場により消え去った道は、ゴルフ場の先に延びており、そこに里程石が建つと言う。その里程石を次のチェックポイントにゴルフ場を迂回して進むことにする。
県道197号;12時48分(標高65m)
里程石;12時54分(標高72m)
里程石には「松山札辻より六里」と刻まれる。松山札辻とは松山城の御堀傍、本町3丁目の電停辺りであり、そこから6里と言うことである。元はひろいあげ坂の途中にあったものを、ゴルフ場建設の折に、この地に移したものである。 里程石の脇には「菊間町有形指定文化財 石碑 「一里塚」 七里 葉山 八里 高城」と刻まれた石柱も建つ。葉山は菊間の東、太陽石油の工場のある辺り、高城は菊間町と大西町の境辺りである。
藪道をゴルフ場へと;12時58分(76m)
はじめは道らしき道ではあったが、ほどなく木々に遮られたブッシュとなる。それでも何とか木々を折り敷き先に進むも、ゴルフ場に近づいた辺りで藪に蔽われた崖の様相を呈する。先に進むこと結構大変そうであり、また、その先はゴルフ場で遮られているであろうから、「苦労の割にリターン無し」とそこで撤退し、里程石の所まで戻る。
県道197号を菊間に
県道197号は昔の遍路道・今治街道を改修したもので、ところどころ、県道から山側に入り、そしてしばらくして県道に戻る道に往時の名残を残す。
長田川に沿って県道を進み明田集会所の手前辺りに来ると、菊間の町が見えてくる。「えひめの記憶」に拠れば、かつての今治街道は「明田集会所を過ぎた辺りから左側の山の中腹を進み、やがて県道と交差して右に折れ、現在はJR予讃線で分断されているが、菊間駅の海側の新玉町へ続いていた」とのことである。
遍照院;13時44分(標高2m)
Wikipediaに拠れば、この真言宗豊山派のお寺さまは「「四国八十八箇所番外札所、新四国曼荼羅霊場第四十二番札所。別名・厄除大師。平安時代初期の弘仁6年(815年)四国巡錫中の空海(弘法大師)が、当地の峰に霊感を受けて聖観音を刻み寺院を建立した。これが当寺の起源と伝えられている。また、自らの像も刻んで厄除仏として安置したと言われる。また一説によれば空海がこの寺に訪れた際、寺の和尚様が寝ていたため、四国遍路の寺に数えられなかったという説がある」とあった。
山門にあった、「中札所」?チェックすると、いつだったか四十五番の岩屋寺とともに辿った、四国八十八箇所の四十四番札所である大宝寺を「中札所」とする説明が多い。この場合は、53番円明寺と54番延命寺の間にある札所、という意味だろうか。
また「弘法大師巡錫伊予二十一霊場」とは大師入定の21日に因んでつくられた霊場。愛媛県の新居浜市から宇和島までの21のお寺さまで構成されている。比較的新しく造られた霊場のようである。
●弘法大師巡錫伊予二十一霊場
第1番 安養寺(新居浜)>第2番 萩生寺(新居浜)>第3番 正善寺(丹原)>第4番 満願寺(今治)>第5番 高野山今治別院(今治)>第6番 神供寺(今治)>第7番 乗禅寺(今治)>第8番 遍照院(今治)>第9番 高音寺(松山)>第10番 成願寺(松山)>第11番 円福寺(松山)>第12番 極楽寺(松山)>第13番 香積寺(松山)>第14番 道音寺(松山)>第15番 文珠院(松山)>第16番 理正院(砥部)>第17番 施法寺(内子)>第18番 永徳寺(大洲)>第19番 金山出石寺(長浜)>第20番 永照寺(野村)>第20番 龍光院(宇和島)
境内に入り、鐘楼門を見遣りながら本堂にお参り。「えひめの記憶」に拠れば、「境内の南東隅に中務茂兵衛が建立した道標、北東隅には「延命寺江三里」の道標がある」とのこと。
●茂兵衛道標
正面には「左 遍照院 122度目為供養建立」、右には「明治二十五年 吉日 願主 中務茂兵衛義教」、左には「豊後國南海部郡米水津村大字浦代」と刻まれる」、とのこと。
豊後國南海部郡米水津村大字浦代って?チェックすると、宇和島の龍光寺にある茂兵衛道標の施主として「豊後国南海部郡 佐伯用治」とあるので、この施主の住所かとも思う。また、正面に「左 遍照院」とあるので、どこからか移されたものであろう。
●道標
水尻不動の茂兵衛道標
遍照院から国道を少し西に戻り、「津田製瓦工場」脇の細路を海側に入って行けば、お不動さんがある、とのこと。道を入り、成り行きで進むと、荒れたお不動さんへの石段入り口に土に埋もれた道標があった。
建立年は明治21年、茂兵衛44歳の時のものである。手印のある正面には「周防國**願主**」、右側には「兵庫東**施主**」、左には「明治二十五年」と刻まれるとのこと。周防は茂兵衛の生まれた場所である。
この手印から考えて、海岸に沿って通る遍路道の道標であったような気がする。
茂兵衛道標
町中にY字の道を探すと、国道196号を港から少し東に進んだ辺りから右に入った道が如何にもY字に見える。とりあえず、その道を進むと民家の塀脇に道標が建っていた。
建立年度は明治25年。茂兵衛48歳、122度目の巡礼のときの道標である。手印のある正面には「豊後国**」、右側には「明治二十五年二月吉日」、左側に「右 遍照院 122度目為**願主 中務茂兵衛義教」と刻まれる、と。
茂兵衛道標
遍路道は、手印に従い右折しT字路に当たる。この道は旧県道である遍路道・今治街道。遍路道は菊間川を渡り先に進むことになる。
JR予讃線・菊間駅
歩き遍路は一応ここまでとし、JR浅海駅にデポした車をピックアップすべくJR予讃線・菊間駅に戻ることにする。
菊間の町はどっしりとした瓦、鬼瓦などで知られる。町には瓦製造の工場も多く見られる。ついでのことなので、菊間の瓦について「えひめの記憶」を元に簡単にまとめておく。
菊間瓦

江戸時代は松山藩の保護のもと瓦株仲間を組織し発展。松山城のお城の瓦、京都禁裏営繕御用瓦、広島藩への御用瓦といった、幕府・諸藩及び朝廷などを対象とした注文販売(御用瓦)だけでなく、 元禄(一六八八~一七〇四)・享保(一七一六~三六)以後には庶民の間にも瓦の需要が増大し、一般の人びと向けの小売・注文販売によって行わるようになる。
江戸の頃の一般向けの販路は、愛媛だけでなく、安芸(広島)を第一として、備後・豊後・日向・讃岐・伊予など、主に瀬戸内海、九州地方であった。浜村(菊間町)には瓦輸送専用の船が17隻(安政4年;1857)あったとのことである。
明治以降は政府の大型発注、軍需御用などで繁栄し,盛時は50以上の瓦製造工場があったようだが、次第に瓦需要が減少し現在は15の製造工場程になっているとのこと。また販路も現在はほぼ愛媛県内に限定されているようではある。
◆菊間で瓦製造が盛んになった要因
ところで、何故に菊間で瓦の製造が発達したのか、ちょっと気になりチェック。 温暖で雨が少いという瀬戸内の気候が瓦の乾燥や焼成に適していたことがひとつ。次に、瓦製造の原料となる瓦土(粘土)や燃料の松葉にも恵まれていたこと。そして、瀬戸内沿岸という瓦を輸送のための船運に適した地であったことが挙げられていた。
とは言うものの、もとは菊間の山や田圃で入手できた瓦製造の粘土供給は、それほど長くは続かず、製造用粘土は波方町や広島に求めることになり、明治20年(1887)以降は香川県の粘土を多用することになったようである。現在も香川の粘土と地元の粘土のブレンドで瓦製造がおこなわれている、と言う。
◆菊間の地名の由来
ところで、「菊間」ってなんとなく気になる地名。その由来をチェックすると、 木の生い茂った奥まった地という意味の「木隈」からなど諸説ある。実際「菊間」という表記が定着したにも江戸の頃であり、それ以前は「菊万」、「菊麻」、 「伎久間」、「幾久間」などの漢字を音にあてていたようである。
菊間の75%は山地と言う、木が生い茂り鬱蒼とした地=隈といった説も結構説得力がある。
JR浅海駅
列車を待ち、無人の菊間の駅から一両編成の列車に乗り浅海駅に戻る。海岸線に沿って走る列車は9つほどの短いトンネルを抜け駅に到着。駅前の車をピックアップし、実家のある新居浜へと国道196号を再び菊間方面へと向かう。 国道を走る道すがら、見どころでもないものかとチェック。菊間に加茂神社とか厳島神社といった社が目に入る。とりあえず加茂神社へと向かう。
大乗妙典一字一石
で、「大乗妙典一字一石」って何?チェックすると、大乗妙典とは妙法蓮華経の別称。一字一石とは写経といったもので、通常紙に書き写すものであるが、この場合は、石一個に一文字づつ経文の文字を書き写すもののようだ。石碑のある辺りから経文の文字が書かれた河原石が見つかったのだろうか。菊間には5つの「大乗妙典一字一石」の石碑があるようだ。
加茂神社
そのほか当日境内では、継ぎ獅子、牛鬼や神輿(大小の神輿10数体)が繰り出し、にぎやかに祭り絵巻が繰り広げられます」とあった。
当社は、寛治4年堀川天皇の勅願によりそれまで宮中武徳殿で行われていた競馬の儀式を京都賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行う事となりそのためには20頭の馬が必要であり菊万荘園地他全国で19ヶ所の荘園地が定められその年貢が競馬の費用に充てられた。
その荘園地となった社領鎮護のため御分霊を奉斎したものと考えられる。豊臣秀吉が天下統一した後社領制度改めにより天正14年以後菊間との関係は無くなる。
江戸時代には菊間郷十ヶ村の大氏神として、松山藩特別崇敬社となり、臨時祭には藩より奉幣と共に必ず代官が参列している。
10月の秋の大祭には町内各神社の神輿が集合し馬場では(昭和42年県無形文化財指定)お供馬の行事があり飾られた馬が少年騎手によって270米の参道を駆けぬける稚児競馬があり勇ましい掛け声が聞かれる。
また池原地区よりはしし舞が町地区に於いては県東部唯一の牛鬼が繰出され午前中境内は絢爛豪華な祭りとなる」とあった。
約五百年の間庄園地であったが、徳川時代となってその関係は絶たれたが、本社五月の葵祭には、菊万の庄と名乗って召立に応じる儀式が今も残っている。本社葵祭の競馬の様式を模倣して昔から行われているのが、愛媛県指定無形文化財、民族資料、走り馬の行事である」と刻まれていた。
「えひめの記憶」には加茂神社の庄園の広さは「菊間荘百三十町、佐方郷(菊間町佐方)廿四町小」とある。1町はほぼ1ヘクタールであり、100m x 100mが一町であるから、その150倍といった広さではあろうか。
厳島神社
石段を上り拝殿にお参り。拝殿南の丘陵には古墳も残る、とか。また拝殿の横には荒神社。荒神信仰は瀬戸内の沿岸に多く見らえる。
●荒神信仰
荒神さま、って竃神(かまど)として台所に祀られるお札としては知ってはいるのだが、この神様は未だ解明できない謎の神様のようである。Wikipediaに拠れば、大雑把に言って、荒神信仰には2系統あり、ひとつは竃神として屋内に祀られる「三宝(寶)荒神」、そしてもう一方は屋外に祀られる「地荒神」である。
屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
また、Wikipediaには「荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である」とあるが、これは地荒神のことであろうか。屋内の竃神としての「三宝荒神」のお札は、あたりまえのように東京の我が家にも祀られているわけだから、大方の家には「三宝荒神」のお札が祀られているのではないだろうか。
茂兵衛道標
車を走らせバス停を確認。バス停の裏手に道標があった。建立年は明治44年。茂兵衛67歳のとき。正面には「施主 中教正 竹田*子」、右側には「明治四十四年六月吉日」、左には「願主 中務茂兵衛義教」と刻まれる、と。
なお、「えひめの記憶」に拠れば「この道標には巡拝度数がなく、形も他の茂兵衛道標と違っている。頭部がかまぼこ型で、正面上部に梵字と大師坐像が刻まれており、これは武田徳右衛門道標の特徴である。
(この標石は「是より円明寺まで○里」と刻まれた里程石であって、五十四番までの里程が刻まれていた。或いは「あがた円明寺」となっていたとしても、「あがた」の文字が読めなくなっていた。何れにしても五十三番か五十四番か、遍路が判断できず、案内標石としての価値を失い、大師坐像が刻まれているため何処か道行く人の眼につかない所で祀られていたものを、茂兵衛が再刻してへんろ標石として再び遍路たちに見えるようにしたのではなかろうか」と記す。
「五十三番も五十四番も「圓明寺」と記された時代があった(現在、五十三番は円明寺(えんみょうじ)、五十四番は延命寺(えんめいじ)である)ことからくる改刻」との説明があった。
●徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。
因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。
茂兵衛道標
明治25年の建立。茂兵衛48歳の時、123度目の巡礼時の道標である。正面には「遍照院」、右側には「123度目為供養 願主 中務茂兵衛義」、左側には「明治二十五年壬辰三月吉良日」と刻まれる、とか。右側には周防の住所とともに「左 札所」といった文字も読める。
これから先の予讃線伊予亀岡の辺りまでも幾つか道標もあるし、なにより葉山の七里里程標も見てみたいのだが、如何せん時間切れ。亀岡辺りからの歩き遍路は次回のお楽しみとし、一路実家へと。
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