東京下町散歩 江東区 (4):(大島・砂町北部エリア)へ

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大島・砂町北部エリアを歩く。大島の地は江戸の比較的早い時期に埋め立てが行われている。大島と呼ばれるくらいであるので、小名木川のラインを渚とする低湿地ではあったものの、ちょっと大きな島、というか、砂洲があったのだろう。近くに旧中川が流れるので、その砂洲でつくられた微高地を「取り付く島」として埋め立てが進んだのだろう、か。まったくの想像。根拠なし。
砂村の地の埋め立ての歴史も早い。17世紀のはじめ。寛政の頃である。砂村の名前はこの地を埋め立て、砂村新田開発をおこなった砂村新左衛門一族の名前から。北砂の旧地名をチェックすると、八右衛門新田、治兵衛新田、久左衛門新田、大塚新田など、「新田」が並ぶ。

大島と砂町の境にあるのが小名木川。塩の道も近代に入ると鉄工所などの工場が立ち並んだ。釜屋跡、化学肥料創業記念碑。そのほか北砂5丁目の精製糖工業発祥の地。日本で初めて白砂糖の精製に成功した鈴木藤三郎が明治21年に建設した工場の跡地である。日本の近代工業を支えた地帯でもある。昭和30年代になると、多くの工場が転出。その跡地に集合住宅が建設される。東砂2丁目の小名木川沿いに、並ぶアパートがそれであろう、か。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
天正年間(1573年);小名木川村(大島3・5・6.7.8丁目)
慶長年間(1596年);枚方村(大島5・6・7・8丁目;大坂・枚方の人が開発した)
寛永年間(1624年);八右衛門新田(北砂1・2丁目・扇橋あたり)
正保年間(1644年);荻新田(東砂1・2丁目、北砂6丁目)/ 又兵衛新田(東砂2丁目)
明暦年間(1655年);深川上大島・下大島(大島1・4丁目)




本日のルート: 大島橋東詰め > 横十間川親水公園 > 中浜万次郎宅跡 > 釜屋の渡し跡 > 新大橋通り・五百羅漢跡 > 中川船番所資料館 > 中川船番所跡 > 小名木川 > 仙台堀川公園

大島橋東詰めに釜屋跡・化学肥料創業記念碑。

都営新宿線・住吉駅を降り、新大橋通りを東に進む。横十間川に架かる本村橋を渡ると大島1丁目。東詰めを右折。南に下り横十間川・大島橋東詰めに。釜屋跡。化学肥料創業記念碑。釜屋跡は江戸初期、近江の国の太田氏釜屋右衛門(釜六)と田中氏釜屋七右衛門がこの地に工場を構え、明治・大正まで鋳物(いもの)業を営む。「東京深川釜屋堀釜七鋳造場」には、小名木川にそって拡がる広大な工場が描かれている。明治時代だろう。同じところに「尊農・化学肥料創業記念碑」。明治21年、タカジアスターゼで有名な高峰譲吉博士が工場長となり、日本最初の科学肥料工場がこの地にできた。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


横十間川親水公園
南に進み、横十間川と小名木川と交差するところにクローバー橋。クロスにかかる橋を渡り、横十間川親水公園を少し南に下る。北砂1丁目にあった、土佐藩下屋敷跡に中浜万次郎宅跡がある、とのこと。探したがみつけることができなかった。ジョン万次郎。土佐の漁師。船が遭難。アメリカの捕鯨船に救助される。アメリカで教育を受け、帰国後、土佐藩に登用されこの地に住み、開成学校(東大の前身)で教授として働く。で、後からわかったのだが、旧居跡は北砂小学校の敷地内にあったようだ。





小名木川に戻り「釜屋の渡し跡」に
再び北に登り、小名木川沿い・釜屋の渡し跡に。碑文の概略;釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復。 名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったから。 写真には釜屋、というか鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っている。明治時代の利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭、と。
近くにJR貨物専用線が走る。越中島貨物線と呼ぶらしい。新小岩から亀戸、そして小名木川駅を経て越中島貨物駅に続く。昔は、その先、晴海方面にまで続いていた、と。現在は貨物輸送は廃止されているようである。

進開橋から新大橋通り・五百羅漢跡

>小名木川を東に進む。進開橋を渡り明治通りを北に。新大橋通り交差点あたりに五百羅漢跡が。とはいうものの、どうもあたりは工事中。碑文を見ることはできなかった。五百羅漢とは、500人の優秀な仏弟子、とでもいったものか。
江戸時代初期、開山松雲元慶が10年の歳月をかけ江戸の町を托鉢して集めた浄財で等身大の五百の羅漢像をつくりあげた。五代将軍綱吉、七代将軍吉宗の庇護を得て「本所のらかんさま」として人気を集める。「名所江戸百景」にも描かれているが、現在はこの地にはない。明治20年に本所に、同42年に下目黒に移った。目黒不動の傍である。ちなみにこのあたりは本所五つ目と呼ばれていた。道を隔てた向かい側に羅漢寺があるが、これは別のお寺さん。

旧中川脇に中川船番所資料館
新大橋通りを東に進む。大島の町並み。旧中川にかかる船越橋の手前を右折。小高く盛り上がった「大島小松川わんさか広場」の南に中川船番所資料館。中川番所を中心に関東の河川海運と江東区の郷土史の資料を展示している。中川のコーナーには番所中川番所の再現ジオラマを中心に出土遺物、番所に関する資料。
江戸をめぐる水運のコーナーには、江戸を巡る河川水運について、海辺大工町や川さらいに関する資料。江戸から東京へのコーナーには、蒸気船の登場などによる水運の近代化を通運丸や小名木川の古写真を中心に紹介してある。『江東区中川船番所資料館・常設展示目録(700円)』『江東地域の400年(100円)』を購入し、資料館を離れる。

中川船番所跡
資料館前道を旧中川に沿ってすこし南に。中川船番所跡。資料館の番所略史の抜粋:中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したもの。番所の役人には、寄合の旗本3〜5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣されていた。小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張る。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めていた。
「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化(あふむ=鸚鵡返し)していったようだが、幕府の流通統制策に基づき、江戸に入る物資の改めを厳しく行っていた。

仙台堀川公園
番所橋を渡り小名木川の南を西に戻る。東砂2丁目を越え東砂1丁目。左手に遊歩道。仙台堀川公園である。大島・砂町北部エリアもここまで。仙台堀川水路跡の仙台堀川公園を南に進めば砂町中南部エリアに入ることになる。

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