東京下町散歩 江東区 (5):(砂町中南部エリア)へ

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砂町も、江戸初期に開かれた砂村新田に由来する土地である。それ以前のこの地は、利根川・入間川・隅田川の三水系の間に自然形成されたデルタ地帯。陸とも海ともつかぬ場所だった。
家康の江戸入府の半世紀以上前、連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)がまとめた旅行記がある。『東路のつと』といい、今の小名木川筋に当る水路をつたって現在の浦安辺りまで行ったときの「半日ばかり蘆荻(ろてき)を分けつつ、かくれ住みし里々を見て」と記す。ところどころに小村落があった、そういった一帯であった。
江戸時代に入ると、点在する村々に開拓農民たちがやって来た。砂村新田を開発した砂村新左衛門もそのひとり。浮島と干潟であったこの辺りの開拓をおこなう。以降、この周辺には次々と新田が開拓された。その多くは同様に開発者の名前が付けられた。v 砂村地区は深川などとともに野菜つくりが盛んにおこなわれた。江戸の人口が膨らむと、米は年貢米として市中に出回ったが生鮮野菜は圧倒的に不足。つくればつくるほど売れるという噂も広まるほど。年貢免除といった幕府の振興策もあり関西からネギ、ニンジン、ナス、キュウリなどの野菜の種がこの地にもたらされ、江戸近郊農村として、江戸の食料の供給地として野菜類の促成栽培が行われた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1624年);亀高村(北砂4・7丁目;亀戸新田と高橋新田をあわせ亀高村に)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂)
万治2年(1659年);砂村新田(南砂1-7丁目、東砂8丁目)
万治年間(1658年);八郎右衛門新田(東砂4-8丁目)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂1・3・4丁目)
元禄年間(1688年):大塚新田(北砂4・7丁目)/久左衛門新田(北砂2・3・4町目)/中田新田(東砂5丁目)/




本日のルート;仙台堀川公園>東砂4丁目>北砂7丁目>清洲橋通り・境川橋>旧大石家住宅>葛西橋通り>南砂6丁目>南砂7丁目・富賀岡八幡宮>元八幡通り>南砂3丁目・南砂3丁目公園>「砂村新田跡」の碑>南砂4丁目>明治通り>南砂緑道公園・長州藩大砲鋳造場跡>永代通り>東陽町

仙台堀川公園
小名木川から南に延びる仙台堀川公園を下る。仙台堀川の水路跡につくられた親水公園といった風情。東砂4丁目から先は砂町中南部エリア。北砂7丁目を進み清洲橋通りに架かる境川橋に。少し進むと、南砂5丁目と東砂7丁目の境で仙台堀川公園遊歩道は西に折れる。










旧大石家住宅
曲がり角に旧大石家住宅。江東区最古の茅葺き民家。この地域は半農半漁の農家も多く、この家も水害に対する工夫が見られる、とか。仙台堀川の由来。昭和40年の河川法改正で仙台掘と砂町運河をあわせて、「仙台堀川」となった。仙台掘って、隅田川河口の「上之橋」北詰に仙台藩の下屋敷・蔵屋敷があったから。






南砂7丁目には富賀岡八幡宮
仙台堀川を離れ、少し南を東西に走る葛西橋通りをすこし東に。南砂6丁目の境で南に下り、南砂7丁目にある富賀岡八幡宮に向かう。名所江戸百景『砂むら元八まん』に描かれる桜並木に惹かれたため。
現在に富賀岡八幡宮は少々殺風景。通称元八幡、富岡八幡宮の元宮と言われるとはいうものの、といった雰囲気。江戸時代は松が生い茂り、海浜に面した参堂の桜並木が有名で善男善女が数多く訪れた、とか。が、明治43年の大水害で松も桜も壊滅的損害を蒙った。





南砂3丁目公園の砂村新田跡。17世紀中ごろに埋め立てられた
神社を離れ元八幡通りを西に進む。昔の参道だったのだろう。南砂3丁目に南砂3丁目公園。「砂村新田跡」の碑。海に浮かぶ島だった砂町地区は江戸時代に埋め立てられてできたもの。
摂津の国の砂村新左衛門が一族を引き連れ関東に下り、横浜桜木町の野毛新田、横須賀の内川新田を埋め立て・開拓したあと、この地にくる。そして浮島と干潟であったこのあたりの埋め立てをおこなう。砂村新田の由来である。万治2年(1659)の頃である。延宝9年(1681年)にはこの砂村新田と永代島新田がごみ捨て場として定められた。

南砂緑道公園に長州藩大砲鋳造場
南砂4丁目を越え明治通りに。南砂3丁目交差点のあたりに「南砂緑道公園」。南砂中学校とか南砂住宅の周囲ををぐるっと囲む遊歩道。全長1キロ程度。川筋かと思ったのだが、都電の線路跡地、とのことである。緑道を少し西に。すぐ南に下ると長州藩大砲鋳造場跡。白御影石の台座の上に、パリのアンヴァリッド(廃兵院)に保存されている大砲(実物は長さ3メートル)のモデルが置かれている。
「江戸切絵図」をよれば、このあたりに長州藩主松平大膳太夫の屋敷。長州藩では、三浦半島の砲台に置く大砲を鋳造するため、同藩の鋳物師郡司右平次(喜平次)が、佐久間象山の指導のもと、この砂村の屋敷内で36門の大砲を鋳造。アンヴァリッドに保存されている長州藩毛利家の紋章の入った大砲は、攘夷戦で破れ、下関の砲台を占領され、その戦利品としてパリに持ち帰られたもの。
永代通り先に進むと永代通りに合流。西にすこし進めば東陽町。ここから先は木場・東陽エリア。

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