加古川の谷中分水界を辿る旅の二日目。先回に続き、堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある加古川の谷中分水界を辿る。今回は同書にある「日本海と瀬戸内海の水争い:由良川による加古川の争奪」の地である鼓峠と栗柄峠、そして「真っ平でファジーな分水界:源流で水のつながる加古川と武庫川」の舞台であるJR宝塚線・篠山口駅辺りを訪れる。
栗柄峠と鼓峠は共に由良川水系による加古川水系の河川争奪の地ではあるが、鼓峠にはその結果としての「片峠」を見ることができると言う。片峠自体は、先日訪れた土佐・窪川盆地を囲む幾多の片峠に限らず、中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠、愛媛の三坂峠など、それほど珍しいものではない。また河川争奪も都内でも王子付近の石神井川、世田谷等々力渓谷の谷沢川、そして相模湖の南を流れる串川など、これも結構見かける。
だが、河川争奪による片峠といった「合わせ技」の地を訪れるのはこれがはじめてであり、文字面(づら)だけでないリアリティを感じることができ誠に面白かった。
また、篠山口の「真っ平でファジーな分水界」では、今回の旅の起点となる篠山口へと向かう際、つかず離れずその流れを見せていた武庫川がその主人公であった。前回のメモで記載の如く下流域では渓谷を刻む武庫川が、篠山口近くになると「知らず」消え去っており、その源流付近は真っ平な谷底平野で加古川水系の水路と繋がっている。通常の河川発達のプロセスからすれば「普通」ではない。
結論から言えば、両水系を繋ぐ水路は人工的に掘削されたものではあるが、それでも、真っ平な谷底平野で両水系が「超接近」するその因は、遥かはるか昔、加古川による武庫川の河川争奪にあった。旅の初日に見た、石生の日本一低い中央分水界形成のその因が、由良川流路の南流から北流への「逆転」にあったと合わせ、思いもかけず川の歴史での大きなドラマの一端に触れることができたように思う。丹波篠山、結構遠いよな、などと少々腰が重たかったのだが、行ってよかった。
以下、メモはじめるが、見出しのコピーは前述書籍の記事コピーを使わせて頂いた。地名は平成の大合併以前のものであり、現在の地名は本文にメモする。
(2日目) 本日のルート;
■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■
篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう>「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)■
鼓峠>由良川水系・友淵川の谷筋>鼓峠を越えて上る友淵川>谷中・中央分水界>宮田川を下る
■栗柄峠;河川争奪■
倶利伽羅不動尊の案内>杉ヶ谷川>倶利伽羅不動に>栗柄峠の谷中分水界
■真っ平でファジーな分水界■
JR宝塚線篠山口駅>北の堰(第一水門)>田松川>南の堰(第二水門)
篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう
篠山口のホテルを出発し鼓峠と栗柄峠のある篠山市栗柄に向かう。篠山口から15キロ弱、車でおおよそ20分ほどの距離である。折悪しく当日は朝から雨。足元は悪いが、分水界散歩であり、晴れの日より水の流れはわかりやすいか、と。 カーナビの誘導で、国道176号を北に進み、篠山川に栗柄峠から下る宮田川が合わさる篠山市明野で県道97号に乗り換える。
2車線の広い県道を宮田川に沿って北東に上り、篠山市栗柄に。『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には多紀郡西紀町とあるが、平成の大合併で篠山町、今田町、丹南町と合併し篠山市栗柄となったこの地に栗柄峠と鼓峠が隣り合って並ぶ。
篠山市栗柄・「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
道脇に大きな「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内が立つ。「河川争奪の見える不思議な水分(みくまり)の里 栗柄は三方を山で抱かれた山間盆地の狭い平地で水田が開けていますが、この付近は、たいへん珍しい谷中分水界の地形を形成しています。
右側の県道(丹南三和線)を2kmほど進むと、鼓(つづみ)峠の頂上に至ります。この鼓峠も日本海と瀬戸内海への分水界で、鼓峠から瀬戸内海側に流れた水は宮田川(右側の河川)となり、篠山川、加古川を経て瀬戸内海に注ぎます。 正面から流れる「杉ヶ谷川」は、この辺りで宮田川と合流するのがごく自然な形と思われますが、前方観音堂横で突如西へ折れ倶利伽羅不動の滝で4m近く落下し、滝の尻川、竹田川、由良川を経て日本海へ注ぐ不思議な谷中分水の地形となっています。
約2万年前、河川争奪によって形成されたと言われるこのふたつの川(私注;宮田川と杉ヶ谷川)が、谷中の平地内で百数拾米まで相寄り、しばらくは同じ方向に流れながら、突如方向を転じる地形は実に珍しく、しかも、二つの川が見渡せる位置で、中央分水界の形状が目のあたりに観察できる希少な地であります。一つの地区に二つもの分水界があるというのも、またきわめて珍しいことです」とあった。
さて、ふたつの分水界のどちらからはじめよう。なんとなく「杉ヶ谷川」と「宮田川」の栗柄峠・谷中分水界は解説にもあるように、結構わかりやすそう。一方、河川争奪による片峠となっている鼓峠、そしてその谷中分水界ってどんなものか、今一つ想像できない。「?」を早く解決しようと、先ずは鼓峠へと向かう。
左手は栗柄峠で谷中分水界となった中央分水界(日本海と太平洋へと水を分ける)が、再び山稜の分水界となり鼓峠の鞍部へと落ちる山地。右手は水田など。水田の南には晴れていれば多紀連山の西ヶ嶽や三嶽が連なるのだろうが、生憎の雨。山霧にかすみ、その姿はみえなかった。
車はほどなく鼓峠に。この鞍部が由良川水系と加古川水系の分水界となる。栗柄峠の谷中分水界から再び山稜に登った中央分水界がこの峠に落ち、10mほどだろうかその鞍部を谷中分水界となして南の山稜へと上ってゆく。
●鼓峠から先の中央分水界
鼓峠からの先の中央分水界となる山稜を、由良川水系と加古川水系に注意しながらチェックする;分水界は鼓峠から南東の小金ヶ嶽に上り、稜線を北東に進み藤坂峠に。藤坂峠の東西で由良川水系と加古川水系・藤坂川が接近している。ほとんど繋がりかけている。藤坂峠から先は、板坂峠、雨石山へと続いているようである。
水系を頼りに中央分水界を辿ることに嵌ってしまいそうだが、本筋からあまりに離れてしまうため、この辺りで思考停止とする。
由良川水系・友淵川の谷筋
鼓峠までは緩やかな坂・平坦な県道であったが、峠を越えるとしばらくはちょっと急、その先ではドーンと落ちる。ドーンと落ちるとは言っても、県道は等高線に沿って100mほど高度を下げると緩やかな勾配で流れる由良川水系・友淵川支流の谷底に至るが、県道から見る対岸は多紀連山への連なりもあり、谷の深さが一層増し屏風のように屹立して見える。典型的な片峠となっている。
県道を下り、ヘアピンカーブを曲がり切ったところにある四阿(あずまや)近くに車を停める。そこから下流は友淵川支流が緩やかに谷底を流れる。一方その上流は友淵川が谷を刻みはじめる境目。下流の開けた谷と真逆の、木々に覆われた狭く深い谷を水路が上る。谷筋を少しだけ上り、谷を刻む雰囲気だけを感じ車に戻る。
●中央分水界の峠を越えても篠山市
当日は気にならなかったのだが、メモの段階で鼓峠を越えても行政区は篠山市であることが気になった。通常、峠を境に行政区が変わるのが普通だろうと、その経緯をチェック。
この地は前述書籍の記事にあるように、元は兵庫県多紀郡西紀町。それが平成の大合併で篠山市となった。西紀町は、もと南河内村、北河内村、草山村が合併した西紀村がその母体。鼓峠を越えた一帯は草山村であったようだ。
それはそれでいいのだが、峠の向こうの草山村は福知山のほうがなにかと便利そう。何故に峠を越えた村々と合併し、かつまた福知山市ではなく、篠山市となったのだろう?幕政期の篠山藩の領地を見ると、草山村が含まれていた。その故だろうか。
鼓峠を越えて上る友淵川への流れ
峠近くに車を停め、谷を刻み峠に近づく友淵川支流の流れをチェック。深い谷を刻み県道からしばらく見えなかった友淵川支流は、峠近くで県道に接近し道脇を自然な溝となって峠を越えて上に続く。当日は雨であり、水の流れが日本海側へと流れるのをはっきり確認できた。
友淵川支流へ続く自然に刻まれた溝は、そのまま鼓峠を越え、耕地と山地の境、畦端を細い溝となって上へと続き、鼓峠へと南から落ちる山地の谷からの流れと繋がる。
水田の中、1メートルを隔てた谷中分水界
一方、ゆるやかな傾斜となる右手の耕地の畦道に沿った水路、というか溝を流れる水は、瀬戸内へと注ぐ宮田川に向かって下る。耕地の中、ほんの1メートルを隔てて日本海と瀬戸内に流れる水がニアミスしている。耕地の畦が中央分水界ということになる。
●友淵川水系による宮田川上流部の河川争奪と片峠の形成
鼓峠へと落ちる南側山地の谷筋の水が友淵川支流の谷へと流れ、宮田川流域とニアミスする姿を眺めながら、この南側山地の谷筋も本来は宮田川へと流れていたのでは? そのほうが自然だよな、などと妄想する。
堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には、「鼓峠という片峠も、おそらく友淵川支流による宮田川上流部の奪取によって生じたものであろう。宮田川の源流は、昔は鼓峠の北東部にあったが、争奪後鼓峠の西側に引っ越してきたのだ。ただ、この場合は多分一度にすっ飛んできたのではなく、宮田川の源流部が頭のほうからじわじわと友淵川支流にかじり取られるのにつれて、徐々に今の場所まで後退してきたのであろうと思われる」とある。
遥かはるかの昔、今眼前に見る鼓峠へと落ちる谷筋の、更に大きく水量も多い谷筋が宮田川へと下っていたのだろうが、深い谷を刻んできた友淵川水系によってその上流部の谷を奪取された、ということだろう。
峠近くに流れ落ち、宮田川上流域とニアミスしながらも、友淵川支流へと下るささやかな谷筋の流れと書籍の記事を重ね合わせ、なんとなく同書の河川争奪・片峠形成の記事がわかったように思う。
◆光秀と鼓峠
鼓峠は織田信長の下知のもと、奥丹波攻め主将であった明智光秀が危機に瀕した峠とも言う。猛将赤井(荻野)直正のこもる黒井城(JR福知山線黒井駅北)の攻略戦に敗れた光秀の軍勢を、草山城(鼓峠を下った本郷)主・細見氏、八百里(篠山市北東の八百里山)城主・畑氏がこの峠で待ち伏せ光秀軍を敗走させた、と言う。
時期は天正6年(1578)との記述があるが、黒井攻めは二度あり、第一次攻略戦は天正3年(1575)、第二次攻略戦は天正5年から7年(1577‐1579)とされ、第一次攻略戦は光秀が敗れ、第二次攻略戦で黒井城を落としたという。天正6年と光秀敗走と繋がらないのだが、とりあえず「ママ」にしておく。
宮田川を下る
鼓峠近くでは源流部を失い、耕地の畦の雨水を集めた宮田川上流部も田圃を少し下ると沢からの水を集め川の姿を呈す。鼓峠の地名の由来は、山地に囲まれたこの地が、真ん中がくびれた鼓形で、その両側に川(>皮)がある「鼓田」に由来すると言われるが、両側に川があるところは、この沢が合流するあたりではあるのだが、くびれた鼓は想像できなかった。ともあれ、宮田川は県道97号を北に横切り左右の沢からの水を集め栗柄峠の南へと下る。
「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内地点に戻り、駐車する場所を探す。なかなか適当なところが見つからなかったのだが、行き来しているとき、案内板の箇所のある県道97号から分かれ、栗柄峠へと向かう県道69号から右に入り観音堂に向かう道脇に「倶利伽羅不動尊」の案内があった:
「郡内で一番高い高所に営まれた栗柄集落。竹田川に水を分かつ谷中分水界の起点となる峠に落差4メートル余りの滝があり、この滝壺に石造りの不動明王が祀られています。古くは三嶽修験の行場として栄えたと伝えられます。
この場所に立つと、激しく落ちる滝と憤怒の形相で静立する不動明王が、訪れる人々の心の内まで見透かし、隔世と安堵といった一種独特の雰囲気に誘ってくれます」とある。
◆三嶽
郡内とあるのは、この案内が篠山市に合併以前に制作されたと言うことだろう。三嶽?御嶽?地図を見ると、南の多紀連山に三嶽があり、その頂上付近に鳥居が記されている。この三嶽が山岳修験の場であり、お山に向かう身を清める水垢離の場所であったのだろうか。不詳である。それはともあれ、栗柄峠は、この倶利伽羅不動尊に由来する。
杉ヶ谷川
結局車は案内板にもあった、観音堂の境内にデポし、由良川水系・滝の尻川による加古川水系・杉ヶ谷川の河川争奪の地を辿る。
観音堂の少し西に柵に囲まれた杉ヶ谷川が北から下る。コンクリート護岸された川の上流にはダムが見える。栗柄ダムと呼ばれるこのダムの目的にはFNWとある。F:洪水調節・農地防災、N:不特定用水・河川維持用水、W:上水道用水であるから、多目的ダムということだろうか。
堤高26.7メートル、総貯水量383立法メートル。それほど規模が大きいわけではないが、ダムを造れるぐらいであるから杉ヶ谷川はそれなりの水量があった、ということだろう。
倶利伽羅不動に
観音堂から倶利伽羅不動参道を少し西に歩くと、杉ヶ谷川の手前が柵でブロックされている。猪でも出るだろうか。ともあれ、厳重な柵の閂を外し、さらに元に戻したうえで参道を先に進む。
◆河川争奪の地
参道に沿って流れる杉ヶ谷川は支尾根先端部でその流れを西に変える。もとは南へと下り加古川水系・宮田川に合わさっていた杉ヶ谷川が、倶利伽羅不動尊のある谷を刻んできた滝の尻川によって河川争奪され西へと下ることになったということが実感できる。
参道下を流れる水路の傾斜は緩やか。コンクリート護岸も無く、自然な姿でゆったり西に下る。
◆倶利伽羅不動の滝
ほどなく倶利伽羅不動尊に。落差4mという滝が見える。滝壷のお不動様にお参り。滝もさることながら、その下流も谷が深く刻まれている。滝のある固い岩盤に阻まれ、それより上流には谷を刻めなかったとはいえ、ゆるやかな宮田川の勾配と比較すれば、こちらの谷筋への流勢に抗し得なかった杉ヶ谷川の「事情」も現地に来て、はじめてわかったように思う。
◆片峠
栗柄峠も滝の尻川の谷底との比高差は70mほど。峠付近に谷筋を囲む山地がそれほど高くなく、鼓峠ほどの「屏風」感はないが、峠を隔てた栗柄の平坦な地を思うにつけ、ここも片峠と言ってもいいのではないだろうか。
栗柄峠の谷中分水界
倶利伽羅不動から戻り、流域を確認。おおよそ県道97号の北は杉ヶ谷川から滝の尻川といった由良川水系、県道から南は加古川水系宮田川に耕地畦からの水が流れ込んでいた。
宮田川と杉ヶ谷川という異なる水系、それも日本海と瀬戸内へと分かれる分水界を挟み、その間の距離は100メートル強、ではあるが、そのインパクトは、先ほど規模は違えども鼓峠で見た、その距離1メートル弱でニアミスする、沢から日本海へと流れる水、そして耕地の畦を瀬戸内へと下る雨水の印象に勝ることはなかった。
篠山口
鼓峠・栗柄峠を離れ「真っ平でファジーな分水界」の舞台である、JR宝塚線篠山口駅に戻る。地図で確認すると、「源流で水のつながる加古川と武庫川」の水路は、JR宝塚線篠山口駅のすぐ東に見える。成り行きで車をデポし、フラットな谷底平野にある日本海と瀬戸内を分ける中央分水界、しかもそれが区切れることなく一本に繋がる水路を辿る。
北の堰(第一水門)
国道176号大沢交差点を東に折れ、JR篠山口駅の北で福知山線(福知山線の篠山口駅までは「宝塚線」が愛称となっている)の踏切を渡り五差路を南東に進み丹南弁天交差点に。交差点から北東に進む県道299号に橋が架かり、その下をコンクリート護岸の水路が流れる。水は北へと流れ加古川水系・篠山川に注ぐ。(安田川と呼ばれるといった記事を目にした)。
水路に沿って南に進むがほどなく民家で行く手を遮られる。なりゆきで迂回し県道299号篠山口駅東交差点で水路へと向かい、橋を少し篠山川方向へと戻ると水門(堰)がある。堰を区切りに、ささやかではあるが北に流れる水と、堰に止められ淀む水に分けられる。
田松川
水路は南にも堰があり、南北どちらにも動いていない。地図にはこの水路を「田松川」と記す。明治7年(1874)篠山川と武庫川を繋ぐため人工的に開削されたもの。高瀬船を使って舟運を構想した当時の豊岡県役人田中光義氏と松島潜氏の頭文字をとったもの。舟運は数年で廃止されたが、用水路として整備されているようだ。
谷中分水界を掘り割り、人工的に開削された水路のため、加古川水系と武庫川水系を分ける分水界は曖昧とはなっているが、この水路のどこかだろう。とはいうものの、この辺りの等高線は標高200メートルと一面同じであり、どちらに「転ぶか」は人工的な何か次第ということだろうか(水路に分水界を示す木標が立つといった記事もあったが木標は見逃した)。
南の堰(第二水門)
左右に水田の広がる水路に沿って進み、田松川が篠山盆地に入る狭隘部の少し南に堰があった。その堰から、水は南へと下り武庫川となる。
●武庫川源流
現在武庫川の起点は、この堰より少し南に下った宝塚線南矢代駅辺りで田松川に西から注ぐ真南条川の合流点とされる。源流は真南条川が谷底平野を遡り、真南条上で右へと山地に入った愛宕山の山麓であるようだ。
ところで、地図を見ていると、真南条川が谷底平野を遡った上流部と、篠山川へと下る水路が鍋塚池を境にニアミスしている。と言うか、鍋塚池で両水系が繋がっているようにも見える。この地武庫川と篠山川水系が繋がる谷中分水界となっているように見える。
●「真っ平でファジーな分水界」形成のプロセス●
真っ平でファジーな分水界を歩き、それではこのような地形がどのようにして造られたのかちょっと気になりチェック。その因は、これも遥かはるか昔、武庫川と加古川で起きた河川争奪にあるようだ。
「武庫川のふしぎな地形と地質;加藤茂弘」にあった野村亮太郎氏の説に拠ると、その川幅に比してアンバランスに広い谷底平野を形成することから、かつての武庫川は水量も多く、浸食力も強かったとし、そのことから篠山盆地一帯は武庫川上流の広い谷と繋がっていたと言う。そのプロセスは以下の通り;
◆約3万年前まで、古武庫川は幅広い河谷を砂礫で埋めながら、篠山盆地から当野付近の狭窄部を抜けて、丹波山地・三田盆地へと抜けていた
◆約3万年前頃、当野付近の山地小流域から武庫川に向けて大量の土砂が供給され、麓屑面や扇状地が造られる。古武庫川は堰止められ、当野付近から篠山盆地にかけて湖や湿地(古篠山湖)が造られた。その後、湖や湿地は埋め立てられていく
◆一方、約3万年前に、篠山盆地西の山間部を源流としていた古篠山川は、その後も山地を掘り込み、篠山盆地を流れる古武庫川との分水界を低下させた。 (私注;この篠山川は現在の篠山川の中・下流域、篠山盆地の西の山地、現在の川代渓谷辺りを源流点とし西に流れ加古川に注いでいたようだ)。
◆堰止めによる古武庫川上流部の川床高度の上昇もあり、古武庫川と古篠山川の分水界の差がなくなり、約1万年前、古篠山川は古宮田川を争奪し、次いで武庫川の上流部も争奪した。
(私注;この場合の武庫川上流部とは篠山盆地に注ぐ現在の篠山川をも含むものである。ここで先ほど栗柄峠で出合った宮田川が登場した。遥か昔、武庫川水系であった古宮田川は上流域であった杉ヶ谷川を由良川水系に争奪され、下流域では加古川水系に争奪されたということ、か)。
◆古武庫川を争奪した古篠山川は水量をまし、浸食力を強め、それまでの盆地床を掘り下げて両岸に現在の川代渓谷に見られるような河岸段丘を形成し、加古川へと注いだ。
そして、上流部を奪取された武庫川は水源を失い、埋め立てられた湖・湿地の真っ平な谷底平野に取り残されることになる。こうして真っ平な谷底平野の中に加古川水系と武庫川水系のファジーな分水界が形成され、しかも、舟運のため両水系を繋ぐ水路が開削された結果、武庫川水系と加古川水系がひとつに繋がった、ということだろう。
Wikipediaの武庫川の説明にも「最終氷河期までの武庫川は篠山川の下流であった。これは川代渓谷の標高が176mであることと篠山盆地の堆積物を除いた基盤の丹波層群の基盤の標高が160mであることから判明している。最終氷河期までの篠山川は傾斜の緩やかなことから排水が悪く、当野付近の基盤岩が武庫川に堆積し、さらに流れを堰き止めた。川代渓谷の誕生とともに排水は改善し、盆地に堆積されていた堆積土の侵食が始まる。武庫川の水は篠山川に奪われた結果、分水嶺は盆地南部に移動する。篠山川の流れは速くなり、盆地を侵食していった」との同様の説明があった。
源流部を失い、この辺りでは小川となった武庫川であるが、周辺の谷筋からの水を集め往路で眺めた武庫川渓谷の姿を呈し瀬戸内へと下っている。
●相野川
地図を眺めていると、武庫川が三田盆地に出る手前、宝塚線藍本駅辺りで強烈に蛇行しているが、その蛇行起点辺りから宝塚線に沿って如何にもかつての川筋といった地形が見える。そこには相野川が流れるが、どうも元の川筋はこの相野川のようだ。
さらに地図を睨むと、相野川の源流域付近で西に流れる東条川と谷中分水界を成しているように見える。更に言えば、武庫川はこの東条川へと流れていても違和感がない。チェックすると、30万年以上前、武庫川は東条川を下り加古川に合わさっていた、との記事も目にした。本日の本筋とは関係ないが、地図を睨んでいると先ほどの真南条川といい、この相野川といい、好奇心を擽り妄想をたくましくする。
これで一泊二日の加古川に見る谷中分水界の散歩を終える。結構好奇心を擽るトピック満載の散歩であった。
栗柄峠と鼓峠は共に由良川水系による加古川水系の河川争奪の地ではあるが、鼓峠にはその結果としての「片峠」を見ることができると言う。片峠自体は、先日訪れた土佐・窪川盆地を囲む幾多の片峠に限らず、中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠、愛媛の三坂峠など、それほど珍しいものではない。また河川争奪も都内でも王子付近の石神井川、世田谷等々力渓谷の谷沢川、そして相模湖の南を流れる串川など、これも結構見かける。
だが、河川争奪による片峠といった「合わせ技」の地を訪れるのはこれがはじめてであり、文字面(づら)だけでないリアリティを感じることができ誠に面白かった。
また、篠山口の「真っ平でファジーな分水界」では、今回の旅の起点となる篠山口へと向かう際、つかず離れずその流れを見せていた武庫川がその主人公であった。前回のメモで記載の如く下流域では渓谷を刻む武庫川が、篠山口近くになると「知らず」消え去っており、その源流付近は真っ平な谷底平野で加古川水系の水路と繋がっている。通常の河川発達のプロセスからすれば「普通」ではない。
結論から言えば、両水系を繋ぐ水路は人工的に掘削されたものではあるが、それでも、真っ平な谷底平野で両水系が「超接近」するその因は、遥かはるか昔、加古川による武庫川の河川争奪にあった。旅の初日に見た、石生の日本一低い中央分水界形成のその因が、由良川流路の南流から北流への「逆転」にあったと合わせ、思いもかけず川の歴史での大きなドラマの一端に触れることができたように思う。丹波篠山、結構遠いよな、などと少々腰が重たかったのだが、行ってよかった。
以下、メモはじめるが、見出しのコピーは前述書籍の記事コピーを使わせて頂いた。地名は平成の大合併以前のものであり、現在の地名は本文にメモする。
(2日目) 本日のルート;
■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■
篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう>「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)■
鼓峠>由良川水系・友淵川の谷筋>鼓峠を越えて上る友淵川>谷中・中央分水界>宮田川を下る
■栗柄峠;河川争奪■
倶利伽羅不動尊の案内>杉ヶ谷川>倶利伽羅不動に>栗柄峠の谷中分水界
■真っ平でファジーな分水界■
JR宝塚線篠山口駅>北の堰(第一水門)>田松川>南の堰(第二水門)
■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■
由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)
篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう
篠山口のホテルを出発し鼓峠と栗柄峠のある篠山市栗柄に向かう。篠山口から15キロ弱、車でおおよそ20分ほどの距離である。折悪しく当日は朝から雨。足元は悪いが、分水界散歩であり、晴れの日より水の流れはわかりやすいか、と。 カーナビの誘導で、国道176号を北に進み、篠山川に栗柄峠から下る宮田川が合わさる篠山市明野で県道97号に乗り換える。
2車線の広い県道を宮田川に沿って北東に上り、篠山市栗柄に。『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には多紀郡西紀町とあるが、平成の大合併で篠山町、今田町、丹南町と合併し篠山市栗柄となったこの地に栗柄峠と鼓峠が隣り合って並ぶ。
篠山市栗柄・「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
道脇に大きな「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内が立つ。「河川争奪の見える不思議な水分(みくまり)の里 栗柄は三方を山で抱かれた山間盆地の狭い平地で水田が開けていますが、この付近は、たいへん珍しい谷中分水界の地形を形成しています。
右側の県道(丹南三和線)を2kmほど進むと、鼓(つづみ)峠の頂上に至ります。この鼓峠も日本海と瀬戸内海への分水界で、鼓峠から瀬戸内海側に流れた水は宮田川(右側の河川)となり、篠山川、加古川を経て瀬戸内海に注ぎます。 正面から流れる「杉ヶ谷川」は、この辺りで宮田川と合流するのがごく自然な形と思われますが、前方観音堂横で突如西へ折れ倶利伽羅不動の滝で4m近く落下し、滝の尻川、竹田川、由良川を経て日本海へ注ぐ不思議な谷中分水の地形となっています。
約2万年前、河川争奪によって形成されたと言われるこのふたつの川(私注;宮田川と杉ヶ谷川)が、谷中の平地内で百数拾米まで相寄り、しばらくは同じ方向に流れながら、突如方向を転じる地形は実に珍しく、しかも、二つの川が見渡せる位置で、中央分水界の形状が目のあたりに観察できる希少な地であります。一つの地区に二つもの分水界があるというのも、またきわめて珍しいことです」とあった。
さて、ふたつの分水界のどちらからはじめよう。なんとなく「杉ヶ谷川」と「宮田川」の栗柄峠・谷中分水界は解説にもあるように、結構わかりやすそう。一方、河川争奪による片峠となっている鼓峠、そしてその谷中分水界ってどんなものか、今一つ想像できない。「?」を早く解決しようと、先ずは鼓峠へと向かう。
■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)■
鼓峠
左手は栗柄峠で谷中分水界となった中央分水界(日本海と太平洋へと水を分ける)が、再び山稜の分水界となり鼓峠の鞍部へと落ちる山地。右手は水田など。水田の南には晴れていれば多紀連山の西ヶ嶽や三嶽が連なるのだろうが、生憎の雨。山霧にかすみ、その姿はみえなかった。
車はほどなく鼓峠に。この鞍部が由良川水系と加古川水系の分水界となる。栗柄峠の谷中分水界から再び山稜に登った中央分水界がこの峠に落ち、10mほどだろうかその鞍部を谷中分水界となして南の山稜へと上ってゆく。
●鼓峠から先の中央分水界
Google Earthで作成 |
水系を頼りに中央分水界を辿ることに嵌ってしまいそうだが、本筋からあまりに離れてしまうため、この辺りで思考停止とする。
由良川水系・友淵川の谷筋
鼓峠までは緩やかな坂・平坦な県道であったが、峠を越えるとしばらくはちょっと急、その先ではドーンと落ちる。ドーンと落ちるとは言っても、県道は等高線に沿って100mほど高度を下げると緩やかな勾配で流れる由良川水系・友淵川支流の谷底に至るが、県道から見る対岸は多紀連山への連なりもあり、谷の深さが一層増し屏風のように屹立して見える。典型的な片峠となっている。
県道を下り、ヘアピンカーブを曲がり切ったところにある四阿(あずまや)近くに車を停める。そこから下流は友淵川支流が緩やかに谷底を流れる。一方その上流は友淵川が谷を刻みはじめる境目。下流の開けた谷と真逆の、木々に覆われた狭く深い谷を水路が上る。谷筋を少しだけ上り、谷を刻む雰囲気だけを感じ車に戻る。
●中央分水界の峠を越えても篠山市
当日は気にならなかったのだが、メモの段階で鼓峠を越えても行政区は篠山市であることが気になった。通常、峠を境に行政区が変わるのが普通だろうと、その経緯をチェック。
この地は前述書籍の記事にあるように、元は兵庫県多紀郡西紀町。それが平成の大合併で篠山市となった。西紀町は、もと南河内村、北河内村、草山村が合併した西紀村がその母体。鼓峠を越えた一帯は草山村であったようだ。
それはそれでいいのだが、峠の向こうの草山村は福知山のほうがなにかと便利そう。何故に峠を越えた村々と合併し、かつまた福知山市ではなく、篠山市となったのだろう?幕政期の篠山藩の領地を見ると、草山村が含まれていた。その故だろうか。
鼓峠を越えて上る友淵川への流れ
峠近くに車を停め、谷を刻み峠に近づく友淵川支流の流れをチェック。深い谷を刻み県道からしばらく見えなかった友淵川支流は、峠近くで県道に接近し道脇を自然な溝となって峠を越えて上に続く。当日は雨であり、水の流れが日本海側へと流れるのをはっきり確認できた。
友淵川支流へ続く自然に刻まれた溝は、そのまま鼓峠を越え、耕地と山地の境、畦端を細い溝となって上へと続き、鼓峠へと南から落ちる山地の谷からの流れと繋がる。
水田の中、1メートルを隔てた谷中分水界
一方、ゆるやかな傾斜となる右手の耕地の畦道に沿った水路、というか溝を流れる水は、瀬戸内へと注ぐ宮田川に向かって下る。耕地の中、ほんの1メートルを隔てて日本海と瀬戸内に流れる水がニアミスしている。耕地の畦が中央分水界ということになる。
●友淵川水系による宮田川上流部の河川争奪と片峠の形成
鼓峠へと落ちる南側山地の谷筋の水が友淵川支流の谷へと流れ、宮田川流域とニアミスする姿を眺めながら、この南側山地の谷筋も本来は宮田川へと流れていたのでは? そのほうが自然だよな、などと妄想する。
堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には、「鼓峠という片峠も、おそらく友淵川支流による宮田川上流部の奪取によって生じたものであろう。宮田川の源流は、昔は鼓峠の北東部にあったが、争奪後鼓峠の西側に引っ越してきたのだ。ただ、この場合は多分一度にすっ飛んできたのではなく、宮田川の源流部が頭のほうからじわじわと友淵川支流にかじり取られるのにつれて、徐々に今の場所まで後退してきたのであろうと思われる」とある。
遥かはるかの昔、今眼前に見る鼓峠へと落ちる谷筋の、更に大きく水量も多い谷筋が宮田川へと下っていたのだろうが、深い谷を刻んできた友淵川水系によってその上流部の谷を奪取された、ということだろう。
峠近くに流れ落ち、宮田川上流域とニアミスしながらも、友淵川支流へと下るささやかな谷筋の流れと書籍の記事を重ね合わせ、なんとなく同書の河川争奪・片峠形成の記事がわかったように思う。
◆光秀と鼓峠
鼓峠は織田信長の下知のもと、奥丹波攻め主将であった明智光秀が危機に瀕した峠とも言う。猛将赤井(荻野)直正のこもる黒井城(JR福知山線黒井駅北)の攻略戦に敗れた光秀の軍勢を、草山城(鼓峠を下った本郷)主・細見氏、八百里(篠山市北東の八百里山)城主・畑氏がこの峠で待ち伏せ光秀軍を敗走させた、と言う。
時期は天正6年(1578)との記述があるが、黒井攻めは二度あり、第一次攻略戦は天正3年(1575)、第二次攻略戦は天正5年から7年(1577‐1579)とされ、第一次攻略戦は光秀が敗れ、第二次攻略戦で黒井城を落としたという。天正6年と光秀敗走と繋がらないのだが、とりあえず「ママ」にしておく。
宮田川を下る
鼓峠近くでは源流部を失い、耕地の畦の雨水を集めた宮田川上流部も田圃を少し下ると沢からの水を集め川の姿を呈す。鼓峠の地名の由来は、山地に囲まれたこの地が、真ん中がくびれた鼓形で、その両側に川(>皮)がある「鼓田」に由来すると言われるが、両側に川があるところは、この沢が合流するあたりではあるのだが、くびれた鼓は想像できなかった。ともあれ、宮田川は県道97号を北に横切り左右の沢からの水を集め栗柄峠の南へと下る。
■栗柄峠;河川争奪■
倶利伽羅不動尊の案内
「郡内で一番高い高所に営まれた栗柄集落。竹田川に水を分かつ谷中分水界の起点となる峠に落差4メートル余りの滝があり、この滝壺に石造りの不動明王が祀られています。古くは三嶽修験の行場として栄えたと伝えられます。
この場所に立つと、激しく落ちる滝と憤怒の形相で静立する不動明王が、訪れる人々の心の内まで見透かし、隔世と安堵といった一種独特の雰囲気に誘ってくれます」とある。
◆三嶽
郡内とあるのは、この案内が篠山市に合併以前に制作されたと言うことだろう。三嶽?御嶽?地図を見ると、南の多紀連山に三嶽があり、その頂上付近に鳥居が記されている。この三嶽が山岳修験の場であり、お山に向かう身を清める水垢離の場所であったのだろうか。不詳である。それはともあれ、栗柄峠は、この倶利伽羅不動尊に由来する。
杉ヶ谷川
結局車は案内板にもあった、観音堂の境内にデポし、由良川水系・滝の尻川による加古川水系・杉ヶ谷川の河川争奪の地を辿る。
観音堂の少し西に柵に囲まれた杉ヶ谷川が北から下る。コンクリート護岸された川の上流にはダムが見える。栗柄ダムと呼ばれるこのダムの目的にはFNWとある。F:洪水調節・農地防災、N:不特定用水・河川維持用水、W:上水道用水であるから、多目的ダムということだろうか。
堤高26.7メートル、総貯水量383立法メートル。それほど規模が大きいわけではないが、ダムを造れるぐらいであるから杉ヶ谷川はそれなりの水量があった、ということだろう。
倶利伽羅不動に
観音堂から倶利伽羅不動参道を少し西に歩くと、杉ヶ谷川の手前が柵でブロックされている。猪でも出るだろうか。ともあれ、厳重な柵の閂を外し、さらに元に戻したうえで参道を先に進む。
◆河川争奪の地
参道に沿って流れる杉ヶ谷川は支尾根先端部でその流れを西に変える。もとは南へと下り加古川水系・宮田川に合わさっていた杉ヶ谷川が、倶利伽羅不動尊のある谷を刻んできた滝の尻川によって河川争奪され西へと下ることになったということが実感できる。
参道下を流れる水路の傾斜は緩やか。コンクリート護岸も無く、自然な姿でゆったり西に下る。
◆倶利伽羅不動の滝
ほどなく倶利伽羅不動尊に。落差4mという滝が見える。滝壷のお不動様にお参り。滝もさることながら、その下流も谷が深く刻まれている。滝のある固い岩盤に阻まれ、それより上流には谷を刻めなかったとはいえ、ゆるやかな宮田川の勾配と比較すれば、こちらの谷筋への流勢に抗し得なかった杉ヶ谷川の「事情」も現地に来て、はじめてわかったように思う。
◆片峠
栗柄峠も滝の尻川の谷底との比高差は70mほど。峠付近に谷筋を囲む山地がそれほど高くなく、鼓峠ほどの「屏風」感はないが、峠を隔てた栗柄の平坦な地を思うにつけ、ここも片峠と言ってもいいのではないだろうか。
栗柄峠の谷中分水界
倶利伽羅不動から戻り、流域を確認。おおよそ県道97号の北は杉ヶ谷川から滝の尻川といった由良川水系、県道から南は加古川水系宮田川に耕地畦からの水が流れ込んでいた。
宮田川と杉ヶ谷川という異なる水系、それも日本海と瀬戸内へと分かれる分水界を挟み、その間の距離は100メートル強、ではあるが、そのインパクトは、先ほど規模は違えども鼓峠で見た、その距離1メートル弱でニアミスする、沢から日本海へと流れる水、そして耕地の畦を瀬戸内へと下る雨水の印象に勝ることはなかった。
■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)
篠山口
鼓峠・栗柄峠を離れ「真っ平でファジーな分水界」の舞台である、JR宝塚線篠山口駅に戻る。地図で確認すると、「源流で水のつながる加古川と武庫川」の水路は、JR宝塚線篠山口駅のすぐ東に見える。成り行きで車をデポし、フラットな谷底平野にある日本海と瀬戸内を分ける中央分水界、しかもそれが区切れることなく一本に繋がる水路を辿る。
北の堰(第一水門)
国道176号大沢交差点を東に折れ、JR篠山口駅の北で福知山線(福知山線の篠山口駅までは「宝塚線」が愛称となっている)の踏切を渡り五差路を南東に進み丹南弁天交差点に。交差点から北東に進む県道299号に橋が架かり、その下をコンクリート護岸の水路が流れる。水は北へと流れ加古川水系・篠山川に注ぐ。(安田川と呼ばれるといった記事を目にした)。
水路に沿って南に進むがほどなく民家で行く手を遮られる。なりゆきで迂回し県道299号篠山口駅東交差点で水路へと向かい、橋を少し篠山川方向へと戻ると水門(堰)がある。堰を区切りに、ささやかではあるが北に流れる水と、堰に止められ淀む水に分けられる。
田松川
水路は南にも堰があり、南北どちらにも動いていない。地図にはこの水路を「田松川」と記す。明治7年(1874)篠山川と武庫川を繋ぐため人工的に開削されたもの。高瀬船を使って舟運を構想した当時の豊岡県役人田中光義氏と松島潜氏の頭文字をとったもの。舟運は数年で廃止されたが、用水路として整備されているようだ。
谷中分水界を掘り割り、人工的に開削された水路のため、加古川水系と武庫川水系を分ける分水界は曖昧とはなっているが、この水路のどこかだろう。とはいうものの、この辺りの等高線は標高200メートルと一面同じであり、どちらに「転ぶか」は人工的な何か次第ということだろうか(水路に分水界を示す木標が立つといった記事もあったが木標は見逃した)。
南の堰(第二水門)
左右に水田の広がる水路に沿って進み、田松川が篠山盆地に入る狭隘部の少し南に堰があった。その堰から、水は南へと下り武庫川となる。
●武庫川源流
現在武庫川の起点は、この堰より少し南に下った宝塚線南矢代駅辺りで田松川に西から注ぐ真南条川の合流点とされる。源流は真南条川が谷底平野を遡り、真南条上で右へと山地に入った愛宕山の山麓であるようだ。
ところで、地図を見ていると、真南条川が谷底平野を遡った上流部と、篠山川へと下る水路が鍋塚池を境にニアミスしている。と言うか、鍋塚池で両水系が繋がっているようにも見える。この地武庫川と篠山川水系が繋がる谷中分水界となっているように見える。
●「真っ平でファジーな分水界」形成のプロセス●
真っ平でファジーな分水界を歩き、それではこのような地形がどのようにして造られたのかちょっと気になりチェック。その因は、これも遥かはるか昔、武庫川と加古川で起きた河川争奪にあるようだ。
「武庫川のふしぎな地形と地質;加藤茂弘」にあった野村亮太郎氏の説に拠ると、その川幅に比してアンバランスに広い谷底平野を形成することから、かつての武庫川は水量も多く、浸食力も強かったとし、そのことから篠山盆地一帯は武庫川上流の広い谷と繋がっていたと言う。そのプロセスは以下の通り;
◆約3万年前まで、古武庫川は幅広い河谷を砂礫で埋めながら、篠山盆地から当野付近の狭窄部を抜けて、丹波山地・三田盆地へと抜けていた
◆約3万年前頃、当野付近の山地小流域から武庫川に向けて大量の土砂が供給され、麓屑面や扇状地が造られる。古武庫川は堰止められ、当野付近から篠山盆地にかけて湖や湿地(古篠山湖)が造られた。その後、湖や湿地は埋め立てられていく
◆一方、約3万年前に、篠山盆地西の山間部を源流としていた古篠山川は、その後も山地を掘り込み、篠山盆地を流れる古武庫川との分水界を低下させた。 (私注;この篠山川は現在の篠山川の中・下流域、篠山盆地の西の山地、現在の川代渓谷辺りを源流点とし西に流れ加古川に注いでいたようだ)。
◆堰止めによる古武庫川上流部の川床高度の上昇もあり、古武庫川と古篠山川の分水界の差がなくなり、約1万年前、古篠山川は古宮田川を争奪し、次いで武庫川の上流部も争奪した。
(私注;この場合の武庫川上流部とは篠山盆地に注ぐ現在の篠山川をも含むものである。ここで先ほど栗柄峠で出合った宮田川が登場した。遥か昔、武庫川水系であった古宮田川は上流域であった杉ヶ谷川を由良川水系に争奪され、下流域では加古川水系に争奪されたということ、か)。
◆古武庫川を争奪した古篠山川は水量をまし、浸食力を強め、それまでの盆地床を掘り下げて両岸に現在の川代渓谷に見られるような河岸段丘を形成し、加古川へと注いだ。
そして、上流部を奪取された武庫川は水源を失い、埋め立てられた湖・湿地の真っ平な谷底平野に取り残されることになる。こうして真っ平な谷底平野の中に加古川水系と武庫川水系のファジーな分水界が形成され、しかも、舟運のため両水系を繋ぐ水路が開削された結果、武庫川水系と加古川水系がひとつに繋がった、ということだろう。
Wikipediaの武庫川の説明にも「最終氷河期までの武庫川は篠山川の下流であった。これは川代渓谷の標高が176mであることと篠山盆地の堆積物を除いた基盤の丹波層群の基盤の標高が160mであることから判明している。最終氷河期までの篠山川は傾斜の緩やかなことから排水が悪く、当野付近の基盤岩が武庫川に堆積し、さらに流れを堰き止めた。川代渓谷の誕生とともに排水は改善し、盆地に堆積されていた堆積土の侵食が始まる。武庫川の水は篠山川に奪われた結果、分水嶺は盆地南部に移動する。篠山川の流れは速くなり、盆地を侵食していった」との同様の説明があった。
源流部を失い、この辺りでは小川となった武庫川であるが、周辺の谷筋からの水を集め往路で眺めた武庫川渓谷の姿を呈し瀬戸内へと下っている。
●相野川
地図を眺めていると、武庫川が三田盆地に出る手前、宝塚線藍本駅辺りで強烈に蛇行しているが、その蛇行起点辺りから宝塚線に沿って如何にもかつての川筋といった地形が見える。そこには相野川が流れるが、どうも元の川筋はこの相野川のようだ。
さらに地図を睨むと、相野川の源流域付近で西に流れる東条川と谷中分水界を成しているように見える。更に言えば、武庫川はこの東条川へと流れていても違和感がない。チェックすると、30万年以上前、武庫川は東条川を下り加古川に合わさっていた、との記事も目にした。本日の本筋とは関係ないが、地図を睨んでいると先ほどの真南条川といい、この相野川といい、好奇心を擽り妄想をたくましくする。
これで一泊二日の加古川に見る谷中分水界の散歩を終える。結構好奇心を擽るトピック満載の散歩であった。
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