伊豆 韮山散歩:頼朝配流の地 蛭ヶ小島を辿る

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2月のはじめ、伊豆を歩くことになった。きっかけは倶利伽羅峠と同じく、源氏だったか平家だったか、ともあれやんごとなき公達を主人公にした恋愛シミュレーションに嵌った同僚のお誘い、から。
韮山にある頼朝配流の地・蛭が小島、北条家の館跡、修善寺に移り実朝、範頼終焉の地を巡るとのこと。韮山といえば、蛭が小島もさることながら、江川太郎左衛門ゆかりの地でもあり、一度は行ってみたい、と思っていた。また、1泊2日の行程の中には「伊豆の踊り子」の歩いた下田街道を登り、天城峠を越え、河津七滝を歩く、という、少々のコンプリメントというか、散歩フリークへのご配慮もある。行かずばなるまい、ということである。(火曜日, 2月 27, 2007のブログ修正)



本日のルート;伊豆箱根鉄道・韮山駅>韮山・イチゴ狩りセンター>代官屋敷>蓮華寺>山木判官屋敷跡>蛭ケ小島>伊豆箱根鉄道と交差>成福寺>伝堀越公方跡>政子産湯の井戸>狩野川>守山自然公園遊歩道>守山山頂展望台>古川>真珠院>願成就院>伊豆箱根鉄道・韮山駅>修善寺駅>修禅寺>指月院>実朝の墓>範頼の墓>湯ヶ島温泉

伊豆箱根鉄道・韮山駅
品川駅から「踊子号」に乗り、三島に。伊豆箱根鉄道に乗り換え韮山駅で下車。このあたり伊豆の国市韮山と言う。2005年、伊豆長岡町・韮山町・大仁町が合併してできたもの。駅から東に進み最初の目的地は「韮山・イチゴ狩りセンター」。ビニールハウスの中を、後ろから迫るグループに追い立てられる如く、とはいいながら、もとを取らずば帰れまい、といった落ち着かない心持で畦道を進むわけで、情緒のないことこの上なし。とっとと切り上げ、イチゴ狩りセンターから南に少し歩き、次の目的地「江川邸」に。

江川邸
江川邸。代官屋敷を今に伝える重要文化財指定の建物。高い天井裏の構造、立ち木をそのまま利用した生き柱などの説明をボランティアガイドの方より説明を受ける。このお屋敷の主人はご存知「江川太郎左衛門」。ご存知、とは思ったのだが、同行の、それほど若くもない同僚諸氏にはあまり馴染みがないようでもあった。
江川太郎左衛門、といえば幕末・洋学・韮山代官・反射炉・お台場・海防・西洋砲術、といったキーワードが思い浮かぶ。が、江川太郎左衛門って、代々世襲の名前であった。祖始は清和源氏・源経基からはじまる名家。もとは宇野を名乗った。宇野治長が頼朝の挙兵を助けた功により、江川荘を安堵。鎌倉幕府・後北条と仕え、室町になって「江川」姓に改める。秀吉の小田原攻めの際、北条から離反し家康に与力。その功により代官に。明治維新まで駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵の天領(5万4千石。後に26万石)の民政官として活躍した、と。

江川太郎左衛門
キーワードで代表される江川太郎左衛門、って36代の英龍のこと。号は担庵(たんなん)。若くして江戸に遊学。斉藤弥九郎に剣を学ぶ。二宮尊徳を招き農地改良をおこなったり、領民への種痘 接収など仁政を行い、「江川大明神」などと慕われる。そうそう、日本で最初のパンをつくった人でもある。
が、江川太郎左衛門といえば、なんといっても、反射炉であり、西洋砲術であり、お台場である。実のところ、この代官屋敷でボランティアガイドさんから説明を聞くまで、何ゆえ「韮山代官」が海防に尽力しなければならないのか、不思議に思っていた。伊豆の一地方・韮山の代官がどうして、相模湾・江戸の海防に腐心する必要があるのかわからなかった。説明によれば、韮山代官ってその行政範囲は駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵の天領といった広大なもの。外国船が出没しはじめた相模灘・相模湾、江戸湾の入口は行政管轄内であり、幕府の施策として「外国船打ち払い令」が制定されている以上、代官としては、その職務を全うするために海防施策にこれ勤める必要があったわけだ。「韮山代官」って如何にも「局所」っぽい名称に少々惑わされていた。
江川太郎左衛門と海防:職務上の必要から海防への強い問題意識。川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と交流。尚歯会は古色蒼然たる砲術の近代化のため、洋学知識の積極的な導入を図る。崋山は、長崎で洋式砲術を学んだ高島秋帆の登用を図る。蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力による妨害。天保10年(1839年)の蛮社の獄。鳥居の仕組んだ冤罪(えんざい)により崋山・長英ら逮捕され、尚歯会が壊滅。江川は老中・水野に評価されており、罪に問われることはなかった。
坦庵は崋山らの遺志を継ぎ高島秋帆に弟子入り。近代砲術を学ぶ。幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行う。高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育。佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(のちの木戸孝允)などが彼の門下生。水野忠邦失脚後の老中・阿部正弘にも評価され、彼の命によりお台場を築く。反射炉も作り、銃砲製作も行う。韮山に残る反射炉跡がこれ。また、造船技術の向上にも力を注いだり、近代的装備による農兵軍の組織を企図。その途上病に倒れる。

日本ではじめてつくった「パン」

江川邸を離れる。代官屋敷前のお店で坦庵が日本ではじめてつくった「パン」を買い求める。乾パン、といったテースト。

山木判官屋敷跡
道路脇の観光案内標示に「山木判官屋敷跡」の案内。山木判官って、治承4年(1180年)、源頼朝の軍勢による夜襲によって討ち取られた伊豆国の目代。源氏再興のはじまりとなった奇襲攻撃、である。この山木判官、正式名・平兼隆。京で検非違使をしていたが、その乱暴狼藉ゆえに勘当され伊豆国山木郷に配流。1179年のこと。翌年、以仁王の乱で伊豆知行国主・源頼政が死亡。平時忠が伊豆知行国主となる。で、兼隆は、国司・平時兼の目代として伊豆国を支配することに。目代とは現地に赴くことのない国司(遙任国司)が派遣した代理人のこと。
山木判官、って北条時政が、娘の北条政子を嫁がせようとした男であると言われる。で、婚礼前夜、政子は館から抜け出して源頼朝の待つ伊豆山権現へ遁れた、と。話としては面白いのだが、頼朝と北条政子の祝言は1177年。兼隆が伊豆に来たのが1179年であり、もう頼朝・政子は夫婦になっているわけで、兼隆・政子の祝言ってことはありえない話、といった節もある。山木判官屋敷跡を探して歩く。結局見つからず。どうも民家の庭先にあるようだ。

香山寺
道成りに進んで香山寺に。山木判官・平兼隆の墓がある、という。韮山駅から2.3キロといったところ。

蛭が小島
香山寺を離れ、次の目的地・蛭が小島に向かう。頼朝配流の地。蛭って、あまりにも、ぞっとしない名前。が、語源はノビル(野蒜)のことではないか、とも。蒜(ひる)とは、ネギやラッキョウなどを総称する古名。 川の堤防などに生える。つまり、蛭が小島って、ノビル(野蒜)が生い茂る川の中州、ってこと。往時、このあたりに狩野川の川筋があったのだろう。ちなみに、韮山の「韮」もノビル(野蒜)。韮山って、ノビル(野蒜)が生い茂る山といった意味、との説もあり。

頼朝がこの地に流されるまでの経緯
1156年、後白河天皇と崇徳上皇の争い。後白河側には源義朝・平清盛。崇徳サイドには源為義。これが保元の乱。後白河天皇側の勝利。戦後、平家を厚遇・源氏冷遇。1159年、清盛の熊野詣。この機を逃すべからずと、義朝挙兵。後白河が藤原信頼と図った謀略にうまく乗せられた結果、とか。これが平治の乱。
熊野より引き返した清盛に義朝は敗れ、東国に逃れる。が、尾張で殺される。一行に加わっていた頼朝も捕らえられ、殺されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願により助命され、蛭が小島に流される。
何故、蛭が小島か、ということだが、この地が平時忠の知行地であった、ため。上でメモした、山木判官の目代屋敷のある地であり、監視下に置くのに都合が良かった、ということだろう。ちなみに、平時忠って、あの有名な「平家にあらずんば、人にあらず」というフレーズを言い放った人物。壇ノ浦で捕虜となる。娘を義経の側室にするなど、保身を図るが結局は能登に流され、一門は時国家として続くことになる。
14歳でこの地に流された頼朝は1160年ころから20年この地で暮らすことになる。流人とはいいながら、謀反の企てさえしなければ結構自由な暮らしではあったよう。熱海にある伊豆山権現や箱根権現の学僧に学問を学んだり、地方豪族の若者と狩りに興じたりもしている。で、恋愛も自由。蛭が小島のすくそばに館のあった北条家の政子にかぎらず、結構な恋愛模様が繰りひろげられた、よう。

条政子産湯の井戸跡

蛭が小島を離れ、次の目的地は北条政子産湯の井戸跡。西に進み伊豆箱根鉄道を越え国道136号線に。国道に沿って少し南に。道案内の標識を目安に西に折れ、小高い台地・「守山」方面に向かう。伝堀越御所跡の案内。「伝堀越」って何だ?と、疑問を残しながらも、標識に従い少し南。個人の住宅の玄関先といったところに「北条政子産湯の井戸跡」が。このあたりに北条一族の館があった、と か。もっとも、西手に聳える守山の西に館があった、との説もあり、よくわからない。付近には時政が頼朝のために宿館、つまりは別荘として建て、頼朝の死後に寺とした光照寺、8代執権北条時宗の子が父の遺志をついで創建したとされる成福寺など、北条氏ゆかりの寺が集う。
北条氏は桓武平氏の流れといわれる。伊豆の国北条庄にて代々在庁官人をつとめていた。とはいうものの、伊豆のほんの小豪族であり、頼朝の監視役であり、にもかかわらず娘が頼朝と割れな い仲に。立場上、当初反対するも、最後にはその仲を許し、上でメモした山木判官館襲撃をきっかけとして頼朝挙兵に与力。熱海・石橋山合戦での大敗北、その後安房への逃亡から再起、源平争乱をともに戦い、「大」北条となったことは、言うまでもない。

堀越御所跡

「伝堀越」御所跡に戻る。案内板を読む。あれ?これって、伝「堀越公方」、つまりは、「堀越御所跡」と、伝えられる、って、こと。堀越御所がこの地にあるとは思っても見なかったので、当初、伝堀越、と呼ばれる御所があったところ、と読み違えていた。ともあれ、思いがけない堀越御所の登場。本日の最大のサプライズ、となった。
堀越御所は堀越公方・足利政知が開いた御所。韮山の西方、狩野川に近い北条、というか守山の麓にある。一万坪にちかい敷地に、寝殿つくりの建物が並び平安文化を感じさせる館があった、とか。堀越公方、とは言うものの、もともとは、兄でもある将軍・足利義政の命を受け、東国に威を示すために下向したもの。しかしながら、東国平定、具体的には古河公方・足利成氏を平定するどころか、鎌倉に入ることもできず、この地に留まらざるを得なくなる始末。とはいうものの、鎌倉は今川の鎌倉攻撃により焼け野原。入ったところで心休まる場所もなかったではあろう。
古河公方とか、堀越公方とか、関東管領・上杉とか、この時代は、あれこれややこしい。ちょっと整理しておく。ちなみに堀越は「ほりごえ」と読む。
京都の将軍家は東国支配のため鎌倉公方を設ける。これって幕府が東西にふたつできる、ってこと。しかし、あくまでも鎌倉は京都の下にあるべきものと、されていた。が、時がたつにつれ、下風に立つことを潔よしとしない鎌倉幕府・公方と京都が対立。京都と鎌倉の全面戦争が勃発。それが、永享の乱。京都方が勝利し、鎌倉公方足利持氏の自殺で幕を閉じる。
この騒乱をとおして力をつけたのが上杉一族。京都の足利将軍家に与力し、鎌倉公方を攻撃。その功により、関東管領として関東を支配することになる。が、上杉一族、とはいうものの、なかなか一枚岩になることはなく、山内上杉とか扇谷上杉とかいった一族・身内での内紛もあり、関東の豪族の京都=上杉に対する反発も強く、鎌倉方は持氏の遺児を擁して京都=上杉と再び争いが勃発。それが結城合戦。
1449年、京都=上杉サイドは妥協の産物として持氏の遺児足利成氏を鎌倉公方に擁立。が、これにて上杉と鎌倉公方サイドの遺恨が消えることもなく、父を殺され恨み骨髄の成氏は関東管領・上杉憲実(持氏討伐の首謀者)の息子憲忠を暗殺。これを機に勃発したのが享徳の乱。上杉管領家と成氏の騒乱がおきる。当初は成氏 有利な局面あるも、駿河守護・今川範忠の鎌倉攻撃により、成氏は鎌倉を落ち、下総古河に後退。京都に反発する武将が集結。これが古河公方。
局面打開のため、京都派の武将は堀越「公方」成氏に対抗できる「権威」の下向を要請。京都の足利義政は天龍寺に出家していた足利政知を還俗させ、関東に派遣を決定。1457年、政知は成氏討伐のため下向。が、副将・斯波義敏が義政の命令に従わず出陣しないなど、陣容整わず、政知は成氏軍に大敗。成氏の勢威強く、鎌倉入府さえ叶わず、鎌倉手前の伊豆領に留まる。当初、山内上杉領であった伊豆の守護府のある韮山・国清寺に居を構える。後に旧北条の館跡といわれるこの地に御所を。それが堀越御所であり、堀越公方と呼ばれるにいたった所以である。
関東統一を目指し下向したものの、自前の武力もなく、賞罰の決定権もない。軍事権も政治権も京都の傀儡、家臣団も官僚も京都からの派遣。関東の豪族の支持を得られることもなく、京都=上杉派の名目的棟梁。とはいうものの、京都と成氏に和議が成立するなど、パワーポリティックには全くの蚊帳の外。無力な落下傘公方として鬱々たる日々をこの地で送ることになった、とか。
とにもかくにも、思いがけなく堀越公方ゆかりの地に出会った。韮山って、ここに来るまでは、韮山代官とか、反射炉、程度しか知らなかったのだが、伊豆の守護府があったり、西関東全域を行政区域とする韮山代官所があったりと、この地は戦略的に重要な位置を占めていたのであろう。箱根峠にも近く、伊豆の府中である三島にも近く、東海道の喉元にあたり、西方は駿河、遠江を、東方は相模、武蔵を押さえる要地であった、ということであろう。

狩野川の堤
堀越御所跡を離れ、守山の脇を抜け、狩野川の堤に向かう。守山と狩野川の間の微高地に北条館があった、との説もあり、その近くに願成就院がある、と思った。大雑把な地図であり、願成就院は守山の東麓、というから、川堤に沿って迂回する必要はなかったのだが、それは後の祭り。ともあれ狩野川方面に向かう。
狩野川は伊豆半島最高峰の天城山の源流を発し、修善寺川などの支流を集め、下田街道に沿って北流。田方平野を潤し、沼津で西に向きを変え大場川、黄瀬川と合流し駿河湾に注ぐ。全長46キロほどの一級河川。水源地・天城連山は年間雨量の多い地帯でもあり、標高差も高く水害が多発した。なかでも1958年の台風22号による狩野川流域の被害は甚大。世に言われる「狩野川台風」である。

守山自然遊歩道

狩野川の堤を歩く。守山の自然・緑に惹かれる。と、守山自然遊歩道の案内。よく調べることもせず、成行きで進めば目的の願成就院、そして守山八幡に進めるのでは、などと御気楽に考え山に入る。 これが大きな誤算。はじめこそ、遊歩道っぽいゆったりとした登り道。が、途中から厳しい登り。
木の階段が延々と続く。麓を巡る遊歩道、といった思惑はもろくも崩れ、これって登山道の赴き。グングン高みに進む。で、頂上の展望台に。いやはや苦労しただけあって、眺めは素晴らしい。
眼下に韮山が一望のもと。狩野川の流れ、ここまで歩いてきた道筋が手に取るように見える。往時の見張り台としては理想的なロケーションであろう。事実、ここには「守山砦」があった、とか。平城というか、平安風館の堀越御所は防戦には使えず、御所の背後のこの地に砦を築き敵を迎え討った、と。事実、この守山砦を巡る合戦が後の北条早雲・伊勢新九郎と堀越公方・茶々丸の間で戦われた。
先日読んだ小説、南原幹夫『謀将 北条早雲』に、この守山砦の合戦の記述があった。どこまでが事実で、どこからがフィクションか不明ではある。が、ちょっとまとめておく
堀越公方・足利政知のことは先にメモした。この政知には先妻の子である嫡子・茶々丸、がいた。が、政知は次男・京都天竜寺香厳院に出家の清晃を将軍後継者に、と企てる。それに怒り心頭の茶々丸は乱暴狼藉。座敷牢に押し込まれる。が、改心のふり。解き放たれた茶々丸は政知、一族を殺戮。山内上杉顕定(関東管領兼伊豆守護)が茶々丸に与力し威を示す。
この茶々丸討伐の企てをおこなったのが、伊勢新九郎。当時、今川家守護代として沼津・興国寺城主であった。関東制圧の野望をもつ新九郎は、暴政・圧政を敷く茶々丸誅殺を決心。茶々丸に与力する山内上杉顕定(関東管領兼伊豆守護)に敵対する扇谷上杉定正(相模守護)と結び、茶々丸勢力の分散を図る。で、扇谷上杉定正が山内上杉顕定をひきつけ、援軍不可の状況を作り出し堀越御所を奇襲攻撃。支えきれない茶々丸は、この守山砦に退き防戦に努めた、とか。
茶々丸はこの地で討ち死にしたとか、茶々丸に与力する狩野道一の城・狩野城にこもり、長く伊勢新九郎こと北条早雲を悩ました、とか説はあれこれ。ともあれ、この新九郎による茶々丸攻撃は、室町幕府の御所に対する今川家守護代の襲撃であり、考えようによっては日本最初の下克上、とも言われている。
守山で北条早雲まで現れるとは思ってもみなかった。そういえば、今回訪れなかった韮山城も堀越御所攻撃の後、新九郎が籠もった城である。いやはや、韮山って、あなどりがたし。

真珠院

展望台を離れ自然遊歩道を山麓東に下る。降り切ったところを南に進み古川の手前に真珠院。曹洞宗のこの寺には、頼朝との悲恋のヒロイン・八重姫の供養等がある。
頼朝は流人とはいいながら、結構自由に行動し、恋愛もした、と上にメモした。八重姫もその一人。東伊豆の豪族・伊東裕親(すけちか)の娘。頼朝は裕親の館に1167年から1175年まで招かれていたのだが、その間に恋に落ち、一子・千鶴丸をも設ける。頼朝監視役の裕親は怒り心頭。千鶴丸をなきものとし、頼朝を殺さんと、する。頼朝は北条館に逃げ込み難を避ける。
その後、頼朝をこの地に訪ねた八重姫は、頼朝に会うこともできず、というのは、すでに政子と祝言をあげていた、といった説もあるが、ともあれその身を嘆き、古川に身を投げた、と。八重姫を哀れんだ里人は古川の傍らにお墓を建てる。後にこのお墓がこの真珠院に移され、今に至る、と。
この八重姫には別のストーリーも伝えられる。江間小四郎に嫁いだ、という説だ。この江間小四郎って、北条政子の弟。後の北条義時。実際、義時の妻のことは謎に包まれているとも言われているし、まんざらありえないことでもないよう。
ちなみに千鶴丸も甲斐源氏の辺見氏に預けられ、後の島津になった、とも。ということは、この千鶴丸って三代執権・泰時ってことになるわけで、こうなってくると、わけがわからない。ここでは古川に身を投げた悲劇のヒロインということで止めておく。
伊東祐親(すけちか)のメモ;東国における平家方武将として平清盛から信頼を得る。頼朝の監視役でもあったことは先に述べた。頼朝挙兵後の動きであるが、熱海・石橋山の合戦では大庭景親とともに、頼朝軍を撃破。が、安房に逃れ、その後勢力を盛り返した頼朝軍と富士川の合戦で戦うが、それに破れ捕らえられる。一命は赦されたが、そのことを深く恥じ自刃した、と。

願成就院

真珠院を離れ韮山最後の目的地・願成就院に。鎌倉時代に頼朝の奥州征伐の成功を祈って北条時政が「願いが成就するように」という意味で創建。その後北条氏の氏寺として伊豆屈指の大寺院となる。が、先にメモした伊勢新九郎の茶々丸襲撃の時であろうか、願成就院は全焼。僅かに再建された堂宇も、秀吉の小田原征伐の時に再び全焼。現在の堂宇は江戸期に建てられたもの、である。

はてさて、これで韮山散歩もほぼ終了。時間の関係で伊勢新九郎が伊豆への橋頭堡として住まいした、韮山城、そして江川太郎左衛門の建設した反射炉跡はパスした。少々残念。反射炉も、実のところ、どうせ模型程度であろう、と思っていたのだが実物が残っている、ということだ。そうであれば、少々無理をしてでも歩いてみたかった、とは思うが後の祭り。国道136号線を伊豆長岡駅までに向かい、次の目的地・修善寺に。

修善寺

修善寺駅を降り、はてさて、どうするか。日も暮れてきた。どうしたところで時間がない。当初、最寄のところまでタクシーで行き、それから駅に歩いて戻りながら源氏ゆかりの 地を巡る、って段取りであった。が、乗ったタクシーの運転手さんの、「名所まとめてご案内、その後は本日宿泊予定の湯ヶ島までまとめて6000円で」との魅力的なる提案に負け、修禅寺、指月殿、源頼家の墓、源範頼の墓を一巡。散歩のメモという以上、歩きもしないところをメモするのも、なんだかなあ、ということで、修善寺のメモはパスすること、に。湯ヶ島の結構立派な宿に泊まり、明日の天城越えへの英気を養う。

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