西会津 会津街道散歩 そのⅢ;上野尻から野澤宿を抜け、束松峠を越え片門に(西会津町縄沢・束松峠

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第四回「会津街道探索ウォーク:一泊二日」の初日は、西会津町上野尻の西寺からはじめ、往昔の野澤宿を巡り、西会津縄沢まで歩いた。おおよそ13キロ、休憩も含め6時間半ほど歩いただろうか。
Google earthをもとに作成
散歩のメモは常の如く、実際にその地を訪ねて、あれこれ気になることが現れ、メモも多くなってしまい、結局2回に分けることになった。
二日目は初日のゴールである西会津町縄沢からはじめ、束松峠を越え、会津坂下町天屋・本名の集落を経て、只見川手前の会津坂下町片門集落まで歩くことになる。
メモをはじめるこの時点では、実際に歩いたという事実と、ガイドの先生方から受けた詳しい説明の「断片的」理解だけ。常の散歩では、実際歩いたトラックログと位置情報の着いた写真だけから、都度気になったことをメモしていくのだが、この度の散歩には、既述の如く、探索ツアー主催の「にしあいづ観光交流協会」作成の詳しい資料(「以下「主催者資料」」が手元にある。その資料を参考・引用させていただきながら、メモをはじめることにする。

本日のルート:出発地点・国道49号(縄沢)>兜神社>甲石の採石場とネズミ岩>ガラメキ橋と一里塚跡>大畑茶屋跡>旧会津街道に>軽沢新道>軽沢>旧越後街道道標>舗装道とクロス>戊辰戦争塹壕跡>束松峠

束松峠>子束松>切通し>束松洞門>天屋一里塚>地辷(地滑り)点>旧街道石畳跡>旧越後路木標>「旧道入口」木標>天屋の束松>峠の六地蔵>松原屋>津川屋>阿弥陀堂>束松事件跡>そば畑>諏訪神社>片門集落>片門の渡し跡>肝煎・渡辺家>片門の薬師堂・薬師如来>長龍寺

縄沢から束松峠

出発地点・国道49号(縄沢):8時25分
2日目のスタート地点は、初日のゴール地点である、西会津町縄沢集落からの道が国道49号に合流した地点。宿泊ホテルからマイクロバスで初日ゴール地点まで向かう。
それにしても、企画ツアー参加の移動は楽である。先月、先々月と5回に渡り「予土国境 坂本龍馬脱藩の道」を歩いたが、単独行。予土国境の幾つもの峠を越えるため、車を谷筋にデポし、峠を越えて次の谷筋に着くと、ピストンでデポ地に戻り、車を山を越えた谷筋に移す。このプロセスを5日に渡り繰り返す。その苦労を考えれば「天国」である。

国道49号を進む
不動川に沿って国道49号を進む。国道49号は、福島県いわき市から新潟県新潟市へ至る一般国道。太平洋と日本海を結ぶ。この内、会津地方と越後を結ぶ道は、経路変更はあるものの、概ね会津三方道路のひとつを核に整備された。 明治15年(1882)福島県令に就任した三島通庸は、明治17年(1884)会津三方道路を竣工。福島県会津若松市の大町札の辻から 西(新潟側)、 北(米沢側)、 南(日光側)の三方に向かう新道整備・道路改良工事が実施される。
新潟側は、経路の変更はあるものの、会津・越後街道をベースにしたものである。とはいえ、その道路は砂利道以下、といった状況。現在の国道なるのは昭和39年(1964)の一級国道昇格を機に、改良工事が進められた後のことである。
盲淵
道すがら、ガイドの先生より「盲淵」のお話:縄沢村の民が不動川の「盲淵」の辺りで馬に水を呑ます。そのとき、何故かわ知らねど、河童も掬い上げ、胡乱な姿に打ち殺そうとする。が、命乞いを聞き届け、河童を淵に返すと、それ以降水難に遭うことはなくなった、と。
伝説は伝説でいいのだが、気になったのは、淵で馬に水を呑ませた、という件(くだり)。現在国道は不動川から少し離れたところを進んでいるが、かつての道・街道は、現在よりずっと川寄りの地を通っていた、ということだろう。地図を見ても、両岸に岩壁、間隔の狭い等高線が谷筋に迫る。土木技術が進めば道もできようが、それ以前は、ほとんど沢筋を進む、または大きく尾根を進むしか術(すべ)はない。実際、国道と不動川の間には会津三方道路の痕跡も残るという。

兜神社;9時
北から沢筋が不動川に合流する箇所の少し上流に架かる兜橋を渡り兜神社に。Google Steet Viewでチェックすると兜橋のゲートが閉じられている。山菜などを取る不埒者の侵入を防いでいるのだろうか。当日は、地元の方が社の清掃を行っていた。ために、ゲートが開いていたのか主催者が事前にアレンジしてくれていたのか不明ではあるが、ともあれ、橋を渡り参道を上り、岩壁を掘り抜いた神社に御参り。



◆甲岩
神社に上る狭い参道脇に大岩がある。それが甲岩。天喜5年(1057)、源義家が前九年の役で奥州に赴く途中、ここで甲を脱いで休憩。甲を忘れ出立し、引き返すと岩となっていた、と。
現在の岩を見て、甲(兜)の姿は想起できないのだが、これは慶長年間(1611年)の地震で「しころ」部分が欠け落ちた、ため。崖の下にはその欠けた部分が落ちている、と言う(「主催者資料」)。
源義家の伝説
散歩の折々で、源頼義・義家親子の奥州遠征にまつわる伝説の地に出合う。鎌倉の源氏山からはじまり、大田区の六郷神社、多摩丘陵の百草八幡、杉並区の大宮神社周辺、板橋区の熊野神社、足立区の竹ノ塚神社、炎天寺など枚挙に暇ない。
最初は、所詮は伝説、またか、などと思っていたのだが、足立区の奥州古道歩きをきっかけに、その道筋を調べたのだが、伝説の地を結ぶと「奥州古道」と重なることが多かった。物事にはそれなりの理由がある、ということだろう。

兜石観音岩
兜橋から兜神社が祀られる岩壁を眺める。ガイドの先生の説明によれば、兜石観音岩と呼ばれる、と。兜神社周辺の岩は切り出され石材として利用された時期もあったようだが、この観音岩だけは村民の人々の信仰により守られてきた、という(「主催者資料」)。
この辺りは「甲岩」と地名にあるが、集落があるように思えない。「村人」とは縄沢の村民と言うことだろう。



切石川(不動川)に沿って国道49号を進む;9時40分
兜神社で「スズメバチ」騒動もあり、兜神社出発は9時40分。兜神社に架かる橋に「切石川」とあった。これから上流は切石川と呼ばれるのだろう。岩盤石材を切り出した故の川名ではあろう。
道の右手に兜神社でみた岩壁が見えてくる。これだけの規模であれば石材切り出しも頷ける。一面岩壁ではあろうが、草木で覆われ岩壁の全容を見ることはできない。

甲石の採石場とネズミ岩;9時52分
道を進むと、国道から左手の小径に入る。往昔の会津街道の道筋ではあろうか。小径を進むと正面に岩壁とネズミ岩と呼ばれる大岩が見える。
グリーンタフ
対岸の岩壁は緑色凝灰岩でできている。2500万年から1500万年前頃、大規模な海底火山の噴火が起こり、そのとき海底に堆積したものである。グリーンタフと呼ばれるようだ。
グリーンタフは柔らかで切り出しやすく、墓石や階段石などに利用できるため、大正4-5年頃、新潟の事業家が大量に切り出すことになった。採石場をつくり、野澤停車場まで馬車で運び、そこからは大正3年(1914)に全面開通した岩越線(1917に磐越西線と改称)を使い、新潟へと運ばれた。
会津産の石は「若草石」として、兵・蔵・墓石・石畳などとして重宝されたが、 現在は他用材の登場により、採掘されることはない(「主催者資料」)。
ネズミ石
「ネズミ石」は、言われてみれば「ネズミ」のようでもある。「主催者資料」には、「グリーンタフで壊れやすく、採石時多くの犠牲者が出たようで、ねずみ岩の下に観音様が祀られている」とある。

ガラメキ橋と一里塚跡;10時7分
ネズミ岩から10分弱、切石橋に架かるガラメキ橋を渡り、国道は川の右岸に移る。橋の東詰め近くに一里塚があったようだが、今はその痕跡もない。三方道路改良工事の折に潰されてしまったのだろう。また、東詰めから切石川右岸を下ると、採石場に続く道があるようだ。
ガラメキ
「ガ1ラメキ」は表記は異なるが、全国に散見する。歌で名高い江戸川の「矢切の渡し」は「ガラメキの瀬」とも言う。浅瀬で石が「ガラガラ」と音をたてるから、とか。「がらめく」とは「ガラガラ鳴り響く」の意、とのことである。

大畑茶屋跡;10時27分
ガラメキ橋から20分ほど進むと、右手、青坂村・青坂峠からの沢筋が切石川に合流する少し先に「大畑茶屋跡」がある。道の左手の平地がその跡とのことだが、痕跡は何もない。
「主催者資料」に拠ると、「縄沢村の東約2-3㎞の所の街道傍に家が一軒あり、大畑という。縄沢端村・甲石から片門村端村・軽沢間の約2.8㎞区間に人家なく、冬の吹雪に苦労する旅人のため、安永8年(1779)に、青坂村の農民がこの茶屋を開いた(『新編会津風土記』)とある。
その願いに対し、大畑村を領分とする縄沢村は異議を唱え、茶屋開設の条件として縄沢村に「駅所」開設を求める。この反論・駅所開設願いが延享3年(1746)であるから、願い出て開設まで30年以上かかったことになる」ととことである。
青坂村・青坂峠
会津街道・越後街道の道筋をチェックしていると、その道筋は「束松峠を越え、青坂峠を経て野澤宿に」といった記事も多い。普通に考えれば、束松峠を下り、この大畑から沢筋を南に上り、青坂峠から尾根道を走沢川が不動川に合わさる手前の縄沢村に下りていったのだろう。
昔の街道は、土砂崩れなどの危険を避け、安定した尾根筋を通るのが普通である。川筋を街道が通るようになったのは、土木技術が進んだ江戸の頃から。東海道の箱根越えの道も、中世は芦ノ湖畔から尾根筋を箱根湯元まで下るが、江戸の頃には早川に沿って箱根湯本まで街道が通っている。
会津街道のこの青坂峠越えの道も、狭隘な渓谷を進むよりはるかに安全であろうから、ある時期このルートを通っても、違和感は、ない。

甲石の山賊
この話はガイドの先生が、兜神社の辺りで説明してくれた伝説であるが、登場人物の山賊が甲石から東に0.7kmの横沢という小さな沢の側、入小屋という字のあたりの住んでいたというから、この大畑茶屋跡あたりだろうと、ここでメモする;
話はこの辺りに住む山賊・伊藤掃部が旅の僧に出合い、その法力に接し改心し百姓として入小屋を開墾して暮らした、というものであり、話そのものはよくあるプロットである。
が、気になったのは、その旅の僧が会津若松徒町・浄光寺開基の教尊であり、この伝説を踏まえて甲石は浄光寺の檀家という説明。
教尊は越後・会津で浄土真宗の大寺院を建てた僧であり、その高僧の法力・功徳の話として、趣旨はわかるのだが、気になるのは「甲石は浄光寺の檀家という件(くだり)。甲石に集落といっても国道沿いに数軒目にしただけなのだが、昔は街道沿いに、もっと多くの人が住んでいたのだろうか?
浄光寺
浄光寺は、もと後鳥羽院の第二子が信濃に下ったとき、親鸞に帰依し開基したお寺さま。その縁もあり、12世教尊は信長の石山本願寺攻めの際、信濃・越後・美濃・尾張・近江の信徒に本願寺への兵糧米供出を策し、自らも石山本願寺に籠る。
が、寺は焼け落ち。教尊は越後に落ち、浄光寺を建て、末寺42を建てるに至る。会津には文禄元年(1592)、城主蒲生氏郷に乞われ坂下に。そこに浄光寺を建て、これも40以上の末寺をもつ大寺院となった、と言う。

旧会津街道に;10時36分
大畑茶屋跡から国道を10分ほど歩くと、左手の崖へと道を折れる。昔の会津街道の道筋のようである。茅の野を過ぎ、桐畑脇を20分弱歩き、束松峠手前の軽沢集落への車道(県道341)に戻る。
別茶屋(わかれちゃや
地図で見ると、旧道を歩いた辺りは「別茶屋」と記されている。旧道に入らず国道49号を進むと、藤峠へと向かう国道49号と束松峠へと向かう道に分かれる。旧来の会津街道・越後街道と、会津三方道路として明治17年(1884)県令三島通庸の指示で竣工した分岐点である。会津三方道路は従来の束松峠を抜けるルートを避け、藤峠を越える「藤村新道」を開削した。
当初別茶屋は会津街道と会津三方道路の「別れ」を意味していたのかと思っていたのだが、藤峠ルートは明治17年(1884)の会津三方道路開削以前、人も通わぬ間道であり、この「別れ」は、藤峠ではなく、藤峠手前で更に南に下り只見川筋・柳津に抜ける「柳津道(現在県道342号)」のことであった。近年まで重要な往還であったようだ。

軽沢新道
束松地区で旧道から舗装された道(県道341号)に戻り、軽沢集落に向かう。ガイドの先生から軽沢新道開削の話があった。概要をまとめると;
この切石川両岸は浸食谷で河岸段丘もなく、道は川底を通るしかなく、雪崩や大水に襲われると逃げ場がなかった。元文4年(1739)、軽沢から切石川右岸約1080mの岩壁を掘り抜く工事が行われた。
砂岩・凝灰岩の岩壁を穿つこの工事費用の三分の一は野澤原村の篤志家が負担。藩普請ではなく民間篤志家がお金や労力を負担する『寸志人足』と呼ばれる会津藩の制度である。

『寸志人足』と会津藩の財政状況
ここでちょっと疑問。勘ぐり過ぎかもしれないが、会津藩って、普請を民間に託すほど財政が厳しかったのだろうか?Wikipediaに拠れば、「第4代藩主の容貞の時代である寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する(中略)宝暦年間(私注;1751‐1764)における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり。。。」とある。
「主催者資料」に藩内巡見の4代藩主・松平容貞の御下問に、この軽沢新道の話が出る。Wikipediaの記事と併せ、藩の財政が危機に陥る頃かとも思う。上位「勘繰り」は強ち「妄想」だけではない、かも。

軽沢;11時13分
軽沢の集落に。民家は10軒弱?空き家らしき民家もある。「主催者資料」には、「この集落は、現在は西会津町であるが、以前は片門(現在会津坂下町)の端村。山林・原野に乏しい片門は、集落の北の鳥谷山(私注;580m)が草刈場・薪採集場」とあった。



旧越後街道道標;11時34分
道を20分程度上ると「旧越後街道道標」が建つ。指示に従い道を右に折れ旧道を進む。因みに、Google Street Viewで見ると、「道標」は見当たらない。「にしあいづ観光交流協会」の方が整備してくれたのだろうか。






舗装道とクロス;11時43分
10分ほど進むと舗装された道とクロス。地図を見ると、先ほどの道標を真っ直ぐ進み、磐越自動車道を越えた先から分岐し、この地を通り、その先で切れている。
この舗装道ってなんだろう?チェックすると、どうも先ほど歩いてきた県道341号別舟渡(わたりふなと)線のようである。県道341号は束松峠の東、会津板下町にも表記があり、その間が不通区間となっている。その事情など知りたいところだが、深堀利するとメモが先に進まない。取り合え巣思考停止としておく。

戊辰戦争塹壕跡;11時58分
県道341号から再び土径に入り、主催者の方が藪を刈り込んで整備してくれた様子の残る道を15分ほど上ると戊辰戦争塹壕跡。小振りな造りである。
いつだったか、尾瀬を歩いたとき、尾瀬沼・大江湿原に戊辰戦争の会津軍陣地があったことを思いだした。会津口の福島・檜枝岐に陣を張る幕府・会津軍が群馬・片品村に陣をはる新政府軍を急襲し、群馬県片品村の戸倉が戦いの舞台となったが、尾瀬の地が戦いの場となることはなかったようだ。


束松峠;12時2分
戊辰戦争塹壕跡からほどなく束松峠に。見晴らしが素晴らしい。「主催者資料」には、「イザベラ・バードがその著『日本奥地紀行』に、「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、ふたつの峰をもつ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている渓谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。
これらの峰は、岩石を露出させているもののあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色に覆われている低い山々の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私の考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった」と抒情的に描く地をこの束松峠では、とある。

明神岳から延びる山稜の向こうにかすかに見えるのが会津盆地ではあろう。糸谷はどこか特定できなかった。

峠には「峠の茶屋跡」の案内、秋月悌次郎の詠じた『北越潜行の詩』を刻む石碑とその案内が建つ。

峠の茶屋跡
「標高465メートルのこの束松峠頂上には昭和三十年代まで二軒の茶屋があった。「寛政4年(1792)片門・本名の両村よりこの頂に茶屋二軒(『新編会津風土記』)」を構え、お助け小屋を設けて、険阻なこの峠を越える人の便宜を図った。
十返舎一九の『奥州道中金草鞋』に記されているように、焼き鳥・あんこ餅が名物であった。茶屋からは高寺山塊を隔てて、会津盆地が一望され、彼方に秀峰磐梯山を望むことのできるこの峠は、会津に向かう人にとっては、はじめてみる若松城下であり、去る者は別離を流す峠であった。
「戊辰戦争敗軍の将」秋月悌次郎が越後に奥平謙輔を尋ね、会津の行く末を託しての帰途、雪の束松峠から遥かに若松城下を望み「行くに輿無く返るに家なし」と会津の行く末を想い「いづれの地に君を置き、また親を置かん」と慟哭の詩「北越潜行の詩」を詠じたのもこの峠であった(会津坂下町教育委員会)」とある。

二軒の茶屋があったこの峠は、街道の「間の宿」で、旅人の休憩・一泊の宿泊は許されていた(「主催者資料」)。焼き鳥・あんこ餅ではないが、「甘口で 行かぬ世渡りなればとて ここの汁粉の塩の辛さよ」と呼んだ十返舎一九もこの茶屋で休憩でもとったのだろうか。

「北越潜行の詩」碑
「北越潜行の詩」を刻んだ石碑の脇に「漢詩」の書き下し文と秋月悌次郎の人となりを解説した案内がある。併記する。
「故ありて北越に潜行し帰途得る所
 〈詩碑〉       〈案内板〉
行無輿兮帰無家 行くに輿(こし)なく帰るに家なし
國破孤城乱雀鴉 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治不奏功戦無略 治は功を奏せず戦いは略無し
微臣有罪復何嗟 微臣罪あり復(ま)た何をか嗟(なげ)かん
聞説天皇元聖明 聞くならく天皇元より聖明

我公貫日発至誠 我が公貫日(かんしつ)至誠に発す
恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書(しゃしょ)応(まさ)に遠きに非ざるべし
幾度額手望京城 幾度(いくたび)か手を額にして京城を望む
思之思之夕達晨 之(これ)を思い之を思うて夕(ゆうべ)より晨(あした)に達す
憂満胸臆涙沾巾 愁い胸臆(きょうおく)に満ちて涙巾(きん)を沾(うるお)す
風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝(せきれき)として雲惨憺(さんたん)
何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん
秋月韋軒胤永

◆簡単に意訳をしようとも思ったのだが、詩心も無く、どうも「詩格」が失われそうである。以下注をメモする。おおよその意味はこれでわかるかと。

輿;乗り物
雀鴉;スズメと烏
貫日(かんしつ):日々を貫く行い
赦書; お赦しの書状
京城;天皇のいる京都

秋月悌次郎のひととなり
漢詩の書き下し文の後に、秋月悌次郎のひととなりについての解説が続く; 「秋月悌次郎は通称で諱(いみな・本名)は胤永(かずひさ)、字(あざな)は子錫(ししゃく)、韋軒(いけん)と号した。
戊辰戦争時には藩の公用人として各藩との外交交渉を通して、始めから終わりまでつぶさに関わってきた。敗戦開城式をとり行ったのち、かねて旧知の西軍参謀である長州藩士奥平謙輔を越後に追って、幽閉先の猪苗代を密かにぬけだし、会津藩の善処を願うとともにその未来を託す若者の教育をたのんだ。その帰途雪の束松峠で詠んだのが、この「北越潜行の詩」である。
また、これによって束松峠を越えて学問をうけた若者の一人が、後の東京・京都帝大などの各大学の総長を歴任した白虎隊総長山川健次郎である。
後年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は秋月を「神のような人」と敬愛した。 よって、この地、束松峠茶屋跡に誌碑を建てる。一八二四生、一九〇〇没。」
石碑は平成二十五年十月吉日とある。大河ドラマ「八重の桜」でその存在を知られたこともあり、秋月の功績を伝えようと、顕彰会や愛好家が建立したと、「主催者資料」にあった。戊辰戦争の頃の会津の士、特に山川健次郎の兄、山川大蔵を主人公に描く『獅子の棲む国:秋山香乃』を思い出した。

ここでお昼。山道を四駆でお弁当を運んで頂きた主催者である「にしあいづ観光交流協会」の方に感謝。

また、二日目のメモも途中ではあるが、ここで終える。束松峠から会津坂下町の片門までのメモは次回にまわす。

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