旧中山道散歩 碓井峠越えⅠ:碓氷峠越え;横川から碓氷峠を越えて中山道19番・沓掛宿へ

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会社の同僚、と言うか、先輩と言うか、監査役と言うか、ともあれ敬愛するご老公の諸国漫遊のお供旅の第二回は旧中山道碓氷峠越え。第一回の東海道鈴鹿峠越えと同じく、今回もお供として、ご老公よりちょっとだけ若い私と、大分若い同僚のふたりが、助さん・格さんよろしく、峠の盗賊除け・熊除けの露払いの御役を務めることに相成った。



ご老公、と言うか監査役はこの初春に東海道を走破し、返す刀で日光街道もクリア、今回の中山道69次を辿ることに。お供の我々二名は、峠越えのときだけの道行き。ご老公に言わせば、「いいとこ取り」とのことであるが、峠越えフリークとしては、その言葉を甘んじて受け峠歩きを楽しむことにする。日程は金曜から日曜までの2泊3日。初日の金曜は高崎に前泊。碓氷峠越えは、比高差680mの山道を上り、宿を予約した中軽井沢(昔の沓掛宿)まで25キロ程度歩くため、高崎に前泊することにしたわけである。峠越え当日の2日目のルートは、土曜日朝一番で高崎から信越本線・横川駅まで移動し、横川駅から中山道17番目の宿場である坂本宿から碓氷峠を越え、18番目・軽井沢宿を経て19番目・沓掛宿のあった中軽井沢まで。3日目の日曜は沓掛宿から20番目の追分宿を越えて成り行きで進み、しなの鉄道・御代田駅あたりまで進み、日曜中に東京に戻る、といった段取り。旧中山道最大の険路と称される碓氷峠越えとは如何なるものか、例によって事前調査なし、成り行き任せといういつもの散歩のスタイルで当日を迎えることになった。

中山道とは江戸幕府が開幕してすぐの慶長6年(1601)に整備した五街道のひとつ。江戸の日本橋から近江の草津までの129里。67の宿場よりなる。草津宿で東海道と合流し大津宿、京の三条大橋を加え合計69次と称される。道筋は近世以前の東山道をベースに鎌倉期に整備された鎌倉街道や戦国期の古道を直し造られた、とのこと。因みに東山道とは律令時代の五畿七道(畿内、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道)のひとつである行政区分でもあり、その行政区分である東山道(近江、美濃、信濃、上野、下野、武蔵、陸奥、出羽)を結ぶ幹線道路、としても用いられている。

参考資料;『街道の日本史17 中山道;山田忠雄編(吉川弘文館)』『中山道を歩く;児玉幸多(中央公論社)』『信濃路をゆく;児玉幸多(学習研究社)』『軽井沢物語;宮原安春(講談社)』『広重・英泉の木曾街道六十三次旅景色(人文社)』



本日のルート;高崎>信越本線・横川駅>碓氷関所跡>川久保橋・碓氷川>薬師坂の碑>薬師堂・薬師の湧水>白髭神社>水神社>上信越自動車道>坂本宿下の木戸>金井本陣跡>佐藤本陣跡>脇本陣永井>旅籠かぎや>たかさごや>坂本宿上の木戸>坂本八幡宮>浄水場>登山口>堂峰番所跡>念仏百万遍>柱状節理>刎石坂石碑群>下り地蔵上り地蔵説明板>覗>馬頭観音>風穴>弘法の井>四軒茶屋跡(羽根石立場跡)>堀切>南向馬頭観音>北向馬頭観音>一里塚>座頭転がしの坂>栗が原>入り道くぼ>線描き馬頭観音>山中茶屋跡(立場跡)>山中坂>一つ屋跡>子持山標識>和宮道>陣馬が原>化粧水跡>笹沢陣馬施行所跡>長坂>仁王門跡>思婦石>熊野神社>二手橋・矢ヶ崎川>芭蕉句碑>軽井沢銀座>神宮寺>軽井沢観光会館>本陣跡>旧軽ロータリー>離山通り>庚申塔>軽井沢歴史民俗資料館>市村記念館>しなの鉄道・中軽井沢>パイプの煙

高崎
午前7時59分発の信越本線・横川行きに乗車。土曜日の朝でもあるのか、学生の乗車が多いが次の北高崎で大半の学生が下りていった。往昔、東山道の駅があったとも伝わる野尻近くの中山道14番目の宿・板鼻宿辺りを越えると、碓氷川の左岸を進んできた信越本線は碓氷川を渡り川の南側を進む。ほどなく中山道15番目の宿・安中宿のあった安中駅が見えるが、その裏手に山を覆うプラント工場が見えてくる。この工場がカドミウムを原因物質とする安中公害訴訟で知られた東邦亜鉛安中工場である。
昭和12年(1937)、東邦亜鉛の前身である日本亜鉛精錬株式会社の操業当初より発生した公害事件は昭和61年(1986)、東邦亜鉛が責任を認め地域住民への補償を行うことにより和解が成立し、公害防止協定が締結されるまで、39年の長きに渡り続くことになった。
操業が開始された昭和12年(1937)は日中戦争がはじまった年である。軍事産業に欠かせない亜鉛、鉛の大部分をアメリカ、カナダに依存し、国内資源の開発と非鉄金属精錬所の創設は国家的急務という時代背景ではあったとは言うものの、操業直後から付近一帯の桑畑や草木は白く変色し枯死するなど、その後の深刻なカドミウム汚染の前兆を既に示していた、との事実が残る。安中駅の北辺りで九十九川が合流する碓氷川に沿って信越本線・磯部駅を越え、中山道16番目の宿・松井田宿のある松井田駅を越える辺りで再び碓氷川を左岸へと渡り、その後は西松井田駅を経て現在群馬側での信越本線の終点となっている横川駅に到着する。到着時間;午前8時33分。

信越本線・横川駅
終着駅の横川駅のホームに下りる。ホームの西端には線路止めがあり、その先が塞がれている。信越本線は群馬県の高崎と新潟県上越市を経て新潟市の新潟駅を結んでいたが、平成9年(1997年)の長野新幹線の開設に伴い、新幹線の平行在来区間のうち横川・軽井沢間が廃止。軽井沢から篠ノ井駅間は第三セクターである、しなの鉄道に経営を移管した。廃止された横川・軽井沢間の線路跡は、途中まで現在「アプトの道」として整備・保存されている。アプトとは機関車の下に取り付けた歯車をレールの間に取り付けたギザギザのレールの噛み合わせて進む方式。横川と軽井沢の間、水平距離9,2キロ・標高差553mという急勾配を上るために導入された。

明治のはじめ、政府は東京と京都を結ぶ幹線鉄路として、東海道筋ではなく中山道筋を通す中山道鉄道幹線計画を立案。殖産興業振興のためには既に交通路が開けていた東海道筋より中山道を結ぶほうが、経済効果が高いとか、軍部から海岸線を走る東海道筋は海からの攻撃に脆く、山間部を通る中山道筋のほうが防御しやすいという意見もあった、とか。ともあれ、明治16年(1883)には高崎と横川間が開通した。しかし、工事開始とともに建設費の高騰、碓氷峠越えの技術的問題など様々の問題が発生し、結局は明治19年(1886)、中山道鉄道幹線計画を中止し、東海道線に変更することになる。
鉄道幹線路は東海道筋に変更されたが、日本海と首都を結ぶ直江津・東京間の路線建設はその跡も継続して続くことになる。当時養蚕先進地帯であった東信・北信の生糸を輸出するため横浜に運ぶ主要ルートとしてこの路線が重視されたわけであろうか。路線建設に際しては、中山道鉄道幹線計画の建設資材運搬用に敷設されていた直江津・軽井沢間の線路も活用し、明治21年(1888)には直江津と軽井沢間が開通。後は最大の難路である碓氷峠越えの待つ軽井沢・横川間が残されるだけとなった。
急勾配の碓氷峠を越える鉄路は三つのコースが検討された、とのこと。ひとつが、現在の国道18号を通る中尾ルート。第二がその南、現在の国道18号・碓氷バイパスの通る入山峠ルート。そして、3つめがバイパスの南、現在、上信越自動車道の碓氷軽井沢出口のある県道92号・和美峠ルート。当初は最も傾斜の緩やかな和見峠越えが最適とされたが、結局は国道18号を通る中尾ルートが選ばれた。この国道18号の前身である碓氷新道が明治19年(1886)に完成しており、工事資材の運搬が容易であった、ということが決定の主因であった、とか。工事は明治24年(1891年)から始まり翌年に完成。試運転を重ね明治26年(1893)に開業し、ここに高崎・直江津間が結ばれた。
国道18号に付かず離れず峠越えの鉄路が結ばれた。途中26のトンネルと17の橋があった、とか。急勾配を上るには四両の機関車が連結されていた。当然のことながら煤煙に悩まされることになる。そのためもあろうか、明治45年(1912)には峠越え箇所は、日本の鉄道幹線としては初めて電化された。アプトの道に残る丸山変電所跡はそのためのもの。現在アプトの道は五号隧道の先、碓氷湖に注ぐ碓氷川の支流に架かるめがね橋の辺りまで続く、と言う。今回は急ぎ旅のため寄り道はできないが、次回のんびりと歩いてみたいと思う。

碓氷関跡
駅を下り、県道92号に出る。道脇の石段の上に如何にも関所跡といった門が建つ。復元されたものである。説明によれば、「関所の構えは、中山道を西門(幕府の門で天下の門)と、東門(安中藩管理)の五十二間二尺(約94.5m)で区切られ関門内とした。関所は木柵などで四方を取り囲み、その外側は天然の自然林による阻害物にさえぎられ、忍び寄ることも不可能な御関所要害が、近御囲・遠御囲と続き、碓氷峠山麓には堂峰番所を置いて通行を監視していた。関所の前には、正面の軒に安中藩殿様の定紋を染めた幔幕を中央で結び、上り下りする通行者を取締っていた(松井田教育委員会)」とある。
復元された門の前に「おじぎ石」という平らな石が置かれているが、通行人はこの石に手をついて通行許可を受けたという。「関所の役人は、番頭2人、平番3人、同心5人、門番4人、改め女2人、中間4人、合計20人で構成されている。同心が、手形の受付と案内、犯人追捕などの実務についた。女性を改めるのは、改め女として西門番の妻女が交代で勤めた。碓氷関所の門限は、明け六つから暮六つまで(=日の出から日の入まで)と定められ、門限以外は特別な場合を除き、固く門を閉じていた。関所を破った人は、御定書により磔・獄門の刑に処された(松井田教育委員会)」、と。

碓氷の関所がこの地に設置されたのは江戸幕府が開かれた元和9年(1623)のことである。碓氷の関所の説明によれは、「関所の起こりは、醍醐天皇の昌泰二己未年(899)、坂東に出没する群盗の取締りのため、交通を監視したのがはじめである。平安時代に編集された『類聚三大格』には「相模国足柄坂、上野国碓氷坂、置関勘過事」とあり、箱根と碓氷に関所を置いた」、と記されている。但しこの場合の碓氷の関は旧東山道の道筋である「入山峠」に設けられた、との説が有力である。
また、説明には「その後関所は、正応二年(1289)鎌倉幕府の執権北条貞時によって関長原(安中市松井田町大字関長のことで、碓氷峠山麓を指す)に関所がすえられ、以来戦国時代まで何度か時の権勢によって整備された。江戸時代になって、慶長19年(1614)大阪冬の陣のとき、井伊兵部小輔直勝が関長原に借番所をつくり関東防衛の拠点とした」とあるが、この場合の関長原もこの横川の地ではなく、説明にあるように碓氷峠山麓であったようだ。実際、江戸の頃に開かれた初期の中山道も、現在の碓氷川沿いの道ではなく、横川のある段丘面より150mほど高い台地を横切り関長原、高墓を経由し、九十九川右岸の高梨子を経て安中に進んでいた、との説がある。このルートはほぼ東山道のルート、とも言う。

霧積橋
碓氷の関所跡を西に出ると、中山道は南に折れて、廃線となった碓氷線のガードをくぐるが、上を信越本線の線路を利用して「碓氷峠鉄道文化むら」と「碓氷峠の森公園交流館」を結ぶトロッコ列車が走るようである。ガードを潜り、国道18号に出る。国道18号バイパスを見やりながら進むと霧積橋に。橋脇に「川久保橋の案内」。案内によると、「霧積橋の上流に川久保橋があった。碓氷御関所橋とも称された、とか。橋桁が低い土橋でありたびたび流出。川止めとなることも多く、関所には大縄一筋。荒縄一筋が常備され、宿継ぎ御用縄として書状箱を対岸に渡した」とあった。
霧積橋が架かる川は霧積川と呼ばれる碓氷川の支流。北から南へとこの地に下る。霧積川に限らず、碓氷川水系はこの辺りから上流は概ね北から南に、ここから下流は西から東へと流路を返る。南北方向に流れる支流が多い中にあって、東西方向に流れを変えるところに「横川」と呼ばれる地名がある、と言うことは。この地・横川の地名の由来はこの流路の変更に関係あるのか、とも。単なる妄想。根拠なし。

薬師坂
碓氷川に架かる霧積橋を渡ると国道18号から分かれる緩やかな坂があり、上り口に薬師坂の碑が残る。坂の途中にささやかな祠があり、この薬師堂故の坂の名である。薬師堂は厳しい関所を無事に通れる願いとその御礼を兼ねて薬師如来が祀られた、とか。その薬師如来の功徳か、祠から少し上った道脇に湧水があり、その薬師の湧水が眼病に霊験あらたかとであった、とも。また、薬師坂はこの湧水を使った心太(ところてん)が旅人の疲れを癒した故に心太坂とも呼ばれたようである。坂道をしばし進むと道は再び国道18号に合流する。

旧東山道
国道18号に合流した先に「原」の地名表示が道路標識に見える。この辺りは昔、原村と呼ばれたところ。往昔、ここから遠入川を遡上し、入山村を経て入山峠を越え信濃の沓掛宿と追分宿の中程にある借宿村へと抜ける入山道があったとのことだが、その道筋は往古の東山道の道筋と言う。
この入山道は、近世になって中山道ができて後も、嶮岨な碓氷峠越えの中山道を避け、人や牛馬の往来が多かったようである。道中奉行がそれを取り締まった、とはいうものの、公道である中山道に比べて通行が自由であり、信州諸藩の年貢米や商人の荷はこの入山道を利用し、松井田や下仁田の市場で売却された、とか。道中の取り締まりが厳しくなったのは亨保2年(1802)、豪雨のため入山峠越えの薬師坂が崩れ、ために碓氷関所が丸見えの状態になり通行が禁止された。その時発覚したのが入山道を利用した信州諸般の年貢米の量の多さ。上田藩や小諸藩などを合わせると、合計2万俵弱にも達した、と(『街道の日本史17 中山道;山田忠雄編(吉川弘文館)』)。

白鬚神社
国道18号をしばし進むと道の左に白鬚神社。白鬚神社と言えば、帰化人・高麗王の若光を祀る社として武蔵国の散歩の折々に出合うのだが、その社が何故にこの地へと好奇心に惹かれちょっと寄り道。
鳥居横には道祖神や庚申塔、二十二夜塔などが並ぶ。社にお参りし、案内を見る「~白髭の老人日本武尊を救う~;十二代景行天皇の命により、日本武尊は東国を平定し帰途、武蔵・上野を経てこの地碓氷嶺東麓川久保坂にさしかかった。その時山の神は、白鹿に化け尊の進路を妨げた。尊は蛭を投げて征せんとすると、濃霧たちまち起こり進退きわまった。すると剣を持った白髭の老人の現れ白鹿を撃退したので尊は濃霧から脱することができた。尊は、白鬚の老人の霊験を見たのは天孫降臨を先導した猿田彦命の加護と思い石祠を建て祀った。時に景行天皇四十年(240)白髭の老人にちなみ白鬚神社の創立となった。なお尊が濃霧を避難した岩を不動尊の岩と呼び、そこから落下する滝を麻苧(あさお)の滝という。この滝と白鬚神社の前宮として飛滝大神を祀る。白鬚神社の祭神は猿田彦命・日本武尊・飛滝大神である」とある。
あれあれ、予見に反して高麗王・若光にまつわる由来がない。日本武尊は、この碓氷峠だけでなく前述の関所の起こりにある足柄峠にも同様の話があり、それはそれとしておけばいいのだが、要点は祭神が高麗王・若光ではなく猿田彦、ということ。あれこれチェックすると、この猿田彦と高麗王・若光には深い関係があるようだ。高麗王・若光は猿田彦を崇敬していたとのことである。実際、東京・隅田の白鬚神社も祭神に猿田彦も祀られている。
とはいうものの、猿田彦は渡来人の神であり、いまだ謎の神のようである。そのような謎の猿田彦と高麗王・若光の関係の深掘りは、ちょっと荷が重いので、両者はどうも深い関係がありそうだ、ということで留めるが、その謎の神である猿田彦について簡単にメモしておく。
猿田彦は「古事記」に登場する。天孫降臨の際、天の八衢(やちまた)にいて天孫を先導する神として描かれる。八衢は、天降りの途中にある方々への分かれ道を意味しており、これは大きくは国の行く手を示す神でもあろうが、庶民にとっては、道の守り神として、悪しきものから村人や旅人を守る神として祀られることになる。実際、猿田彦が悪しきものから村を守る村境の「塞の神」、道祖神と同一視されることも多い。街道を通る人々の安全を願った社ではあったのだろう。因みに「しろひげ」の表記には「白鬚」と「白髭」がある。「鬚」は「あごひげ」、「髭」は「口ひげ」である。なにか違いがあるのだろうか。不明である。

水神社
白鬚神社を離れ、上信越自動車道の少し手前、18号脇に赤い鳥居とささやかな祠がある。水神社とある。この辺りを東端とする原村の用水路の起点がこの辺りにあった、とか。松井田町教育委員会の案内によれば、「坂本宿の道路の端を流れてきた堀を曲折させて、村のはずれから道路中央に流れていた水を、原村住民は生活用水に利用。その用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願い水神を祀った。水神は、川、井戸、泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水を司る民間信仰から生まれた神である(以下略)」とあった。

坂本宿
国道を進むと坂本宿と書いた木戸が見えてくる。案内によると「中山道69次の宿場が出来たとき、坂本宿が設けられた。宿内の長さ392間(713m)。京都寄りと江戸寄りに、上の木戸と下の木戸が作られた。この木戸は軍事・防犯などの目的のため、開閉は明け六つから暮れ六つ(現在では、午前6時~午後6時)までであった。
実際には、木戸番が通行人の顔を識別できる時間で判断されたようである。坂本宿は、文久元年(1861)の絵図によると幅八間一尺(約14.8m)の道路に川幅四尺(約1.3m)の用水が中央にあり、その両側に本陣・脇本陣に旅篭・商家160軒がそれぞれ屋号を掲げ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。 雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越します坂本へ」(松井田町教育委員会)」、と。

坂本の地の歴史は古い。坂本駅は「延喜式」にも東山道の駅として記載され、信濃国の長倉駅(現在の中軽井沢;江戸の沓掛宿)と上野国の野尻駅(江戸の板鼻宿の近く)の中間にあった。また、昌泰2年(899)には関東一円を荒らした僦馬の党(しゅうばのとう)の逃走を防ぐため坂本に関が設けられた、とされる。
その坂本の地に中山道69次のうち江戸から数えて17番目の宿場・坂本宿が出来たのは参勤交代に伴い碓氷峠の登り口に宿場が必要となった三代将軍徳川家光の時代、寛永2年(1625)のことである。幕命により計画的に造られた宿であり、付近の住民を移住させ、宿をつくった。案内にある「文久元年(1861)の絵図とは浮世絵師・渓齋英泉による、『木曽街道六十九次』のうち、坂本宿の画である。浮世絵には、道の中央に用水が流れ、橋も架かる。道に沿って旅籠や商家が並び、宿の後ろには「刎石(はねいし)山」が聳える。実際道を歩くと、道は刎石山に向かって真っ直ぐに伸びている。碓氷峠越えの取っ掛かりは、この刎石山への取り付きからはじまる。

金井本陣跡
下の木戸を越え、峠の釜飯で知られる「おぎのや」の看板が見える。横川の駅弁として売られた「横川の釜飯・おぎのや」のはじまりの地、とも。
先に進むと、道の南側二草の生えた敷地があるが、そこが金井本陣跡。案内によると「坂本宿には、宮様・公家・幕府役人・高僧など宿泊する本陣が二つあり、金井本陣は「下の本陣」と称し、間口10間(約19m)、建坪180坪(約594㎡)、屋敷360坪(約1200㎡)玄関、門構えつきの建物であった。(諸大名様方休泊御触書帳)によると中山道を上下する大名例弊使のほとんどは坂本泊りであった。本陣に泊まるには、最低124文、最高300文、平均200文程度で多少のお心付けを頂戴しても、献上品が嵩むので利は少なかったが、格式と権威は高く格別の扱いを受けていた。(中略)皇女和宮ご宿泊の折詠まれた歌;都出で幾日来にけん東路や思えば長き旅の行くすえ(松井田町教育委員会)」、と。

佐藤本陣跡
先に進むと、ほどなく道の南に坂本宿のもうひとつの本陣である佐藤本陣跡がある。坂本宿のふたつの本陣のひとつであり、金井本陣が「下の本陣」と呼ばれたことに対し、こちらは「上の本陣」と称された。建物脇の案内によれば、文政年間には31の大名が坂本宿を往来した、と。寛政2年8月8日には、加賀百万石の松平加賀守りが江戸へ、信州松代真田右京太夫が帰国へと、この宿に宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠を控えたこの地にはこのようなケースもあり、本陣が二軒あった、ということだ。宮様をはじめ、大名、茶壺道中、日光弊例使でこの坂本宿は賑わったが、同時にそれ故の準備で難渋もしたようである。現在の住宅は明治34年に「新築」されたものである。

茶壺道中とは、宇治のお茶を将軍家に献上するための行列。将軍家光の頃制度化され、将軍吉宗の倹約令が出るまで、1000人からの行列ともなった、とか。行列は権威があり、御三家であっても道を譲らなければならなかった。「ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら、どんどこしょ。。。」と謳う童謡のこの箇所は茶壺道中のことを描く。「ズイキの護摩味噌和えをつくっていると、茶壺道中がやってきた。家の中に入り、戸をぴしゃりと閉めて(とっぴんしゃん)、静かにしておこう。道中が通りすぎればほっと一息(抜けたら、どんどこしょ)」と言った意味とのこと。

また、日光弊例使とは、日光の東照宮に幣帛(神に奉献するもののうち、神饌(米・魚・酒などの食べ物)以外のものの総称)を奉献するための朝廷からの行列。例幣使は下級公家が多く、朝廷と幕府の権威を背負ったこの道中を、このときとばかり乱用し、無理無体の要求、蓄財に励む傾向が強かった、とか。実際、時代小説で登場する日光例幣使では、ほとんどの場合悪役として描かれている。

脇本陣永井
佐藤本陣の向かいには脇本陣の「みよがや」と「永井」。「みよがや」は見逃したが脇本陣永井跡は昔ながらの旧家の趣を残し目に付く。案内によれば、皇女和宮下向の際には幕府役人が宿泊した、と。

旅籠かぎや
脇本陣永井家の先には坂本公民館があるが、そこは脇本陣・酒屋跡。先に進むと「旅籠かぎや」とある、「かぎや」の看板も古く、古き趣の商家跡は坂本宿で一番古い建物とされる伝統的旅籠建築とのこと。「伝承によれば、およそ370年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅篭を営むに当たり役職にちなんだ屋号を「かぎや」とつけた」と、案内にあった。
「建物を見て、まず目につくのが家紋の丸に結び雁がねの下に(かぎや)とした屋根看板である。上方や江戸方に向かう旅人に分かりやすくされている。出梁の下には透かし彫刻が施されている。間口六間で玄関から入ると裏口まで通じるように土間がある。奥行きは八畳二間に廊下、中庭を挟んで八畳二間。往還に面して二階建て階下階上とも格子戸である。宿場は街道の文化の溜まり場である。坂本宿も俳句、短歌、狂歌など天明寛政のころは最盛期で当時の鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し、次の作品を残している。 末枯れや 露は木草の 根にもどる (紅枝)(松井田町教育委員会)」。

たかさごや
その先の案内板に、小林一茶の定宿「たかさごや」というのがあった。案内によれば、信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763~1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠・商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草履を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり俳諧談義に華咲かせた。碓氷峠の刎石山の頂に「覗き」と呼ばれるところがあって、坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。坂本や 袂の下は 夕ひばり」、と。

坂本八幡宮
坂本宿が切れるあたり、「上の木戸」を過ぎると道脇に坂本八幡宮。日本武尊の勧請という伝承はともかくとして、延喜年間には近くに社殿があったというから相当に古い社ではあろう(それほど古くない、との説もあるようだが)。入口に、「御嶽山座王大権現」の石碑がある。御嶽信仰の石碑である。石碑の脇には男女対の双体道祖神がある。また、狛犬がいかにも、いい。散歩で幾多の狛犬を見たが、この狛犬が最高に、いい。
鳥居の前には常夜灯の台石と芭蕉句碑もある。「ひとつ脱ひて 後ろにおいぬ衣かえ」、と。「寛政年間、坂本宿の俳人春秋白雄先生に依頼して選句、書いてもらったもので、句の内容は碓氷峠のものでなく、木曽路下りのものである。句碑は碓氷峠の刎石山にあったものを明治年間に移動のため現在地に移転した。当時の宿駅文化の盛況を知る上でよい資料である(松井田町教育委員会)」との案内があった。芭蕉の句は、貞亨5年(1688年)4月1日、『笈の小文』の旅の途中の句であろう。

坂本浄水場
坂本八幡を離れ、国道18号が大きく湾曲するあたりに坂本浄水場の水槽が見える。中山道はそのタンクの左に入る小径を進むことになる。道を進むと国道18号の高い法面(のりめん;切土や盛土により作られる人工的な斜面)に沿って進み、途中にある階段を上ると再び国道18号に出る。メモを書く段になってわかったことだが、どうもこの辺りの国道下を信州本線の廃線跡を利用した遊歩道・アプトの道の第一号隧道が通っているようである。例の如くの後の祭りではあるが、隧道を歩けなかったのは、ちょっと残念。

登山口_午前9時58分;標高516m
登山口から碓氷峠に向かう。峠まではおおよそ8キロ。標高差680mほどを上ることになるが、取っ掛かりの箇所が最も勾配が厳しい。1.6キロを250mほど上ることになる。
道脇に「安政の遠足」の案内が目に付く。「えんそく」では「とおあし」と詠むようだ。現在は町興しのイベントともなっているこの遠足の歴史は古く、安政2年(1855)に遡る。当時の安中藩主・板倉 勝明公が、藩士の鍛錬のために中山道を碓氷峠の熊野権現まで7里余り駆け足・強歩をさせたのがはじまり。『中山道を歩く;児玉幸多(中央公論社)』によれば、安政2年の5月から6月にかけて、ふたりから七名までの17組が峠を上っている。昭和30年にその記録が峠の茶屋から発見され、それを記念し、現在のトレールランといった催しが毎年5月に開催されるようになった、とか。

堂峰番所跡_午前10時4分;標高557m

山道を進むと堀切となった道脇に堂峰番所跡の案内。「堂峰の見晴らしの良い場所(坂本宿に向かって左側)の石垣の上に番所を構え、中山道をはさんで定附同心の住宅が二軒あった。関門は両方の谷がせまっている場所をさらに掘り切って道幅だけとした場所に設置された。現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されている。江戸時代に、関所破りを取り締まった番所の跡である」、とあった。




柱状節理_10時24分;標高693m

次第に険しくなる道を20分ほど上ると、柱状節理の案内。「火成岩が冷却、団結するとき、き裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものである」と。







刎石坂石碑群_10時27分;標高697m
柱状節理のすぐそばに石碑群。「刎石坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観音がある」。先ほど坂本宿で出合った芭蕉の句とは、このことだろう。

上り地蔵・下り地蔵_10時32分;標高724m
「十返舎一九が「たび人の身をこにはたくなんじょみち,石のうすいの とうげなりとて」と・・・その険阻な道は刎石坂である。刎石坂を登りつめたところに,この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめているともに,幼児のすこやかな成長を見守っている。 刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめているとともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。高い位置に建つ方を上り地蔵、低い位置に建つ方を下り地蔵。室町時代の作と呼ばれる」、とは案内にあるものの、どれが上り地蔵・下り地蔵なのか、その特定はできなかった。

覗_10時35分;標高730m
覗は坂本宿を見下ろせるビューポイント。人工的に造られたという坂本宿の道筋が一望のもと見渡せる。一茶は「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ、とか。






風穴_10時44分;標高742m
覗でしばし中山道の遠望を楽しみ先に進むと道脇の石に「風穴」の案内。刎石溶岩のさけめから、水蒸気で湿った風が吹き出している穴が数カ所ある、とのことだが、現在はなんということのない、ただの石。





弘法の井戸_10時50分;標高765m
ほどなく簡易な藁葺き屋根に覆われた足下の岩の間に水が溜まる。「諸国をまわっていた弘法大師が、刎石茶屋に水がないのを憐れみ、ここに井戸を掘れば水が湧き出すと教えられ、水不足に悩む村人は大いに喜び「弘法の井戸」と名付けたと伝えられている霊水」、と言う。散歩の折々、弘法大師ゆかりの井は幾度出合ったことだろう。



刎石立場跡(四軒茶屋跡)_10時58分;標高785m
刎石山の頂上で、昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも杉林の中に石垣と平な屋敷跡が残っている。力餅、わらび餅などが名物であった。

登山口からこの辺りまでの1.6キロ弱が碓氷峠越えの最大の難所。250mを上ってきた。この後は峠までおおよそ尾根道に沿って7キロ弱を400mほどゆったりと上ってゆくことになる。

碓氷坂の関所跡_10時58分;標高789m
昌泰2年(899)碓氷の坂に設けた関所跡、とのこと。もっとも、その碓氷の関は、入山峠にあったとの説もあり、はっきりしない。関所跡の近くに休憩所があり、ここで小休止。

掘切り跡_11時31分;標高794m
しばし休憩の後、20分程度道を進むと尾根道の馬の背状態になり、道の両側が急な谷へと切れ込む。案内によると「天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を、松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所とのことである。



南向馬頭観音_11時35分;標高801m
「この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。昔、この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観音が道端にある。寛政3年12月19日坂本宿 施主七之助」、と案内にある。高さ65cmのお地蔵様である。



北向馬頭観音〕_11時38分;標高804m
ほどなく北向馬頭観世音。「馬頭観世音のあるところは,危険な場所である。一里塚の入口から下ると,ここに馬頭観世音が岩の上に立っている。観世音菩薩 文化十五年四月吉日 信州善光寺施主 内山庄左衛門 上田庄助 坂本世話人 三沢屋清助」と案内にある。高さ142cmのお地蔵様。




一里塚_11時41分;標高814m
「座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。その途中に小山を切り開き「一里塚」がつくられている」。
この案内を見て、少々混乱。ひとつは「慶長以前の旧道(東山道)がある」、ということ。もうひとつは「一里塚」。東山道って、入山峠から原村へと結ばれたとの説があることは、上でメモした。こんなところ東山道が通るのは?あれこれチェックすると、この案内の左脇を中山道から離れて尾根道に上ると堀割状の遺構が残るとのこと。そこには一里塚らしき塚状の小丘も残る、とか。この説明は慶長に中山道が整備される以前の碓氷峠を越える道筋のことであり、その道筋を東山道と呼んでいるのだろう。東山道も古代のもの、戦国期のものと、その道筋は変わっているようである。
次に一里塚。この刎石一里塚の東にある一里塚は新堀(松井田宿の先)にある。その距離9キロ。理屈から言えば横川辺りに一里塚が残るはずであるが、その痕跡は、ない。その理由は、横川の碓氷関跡のところでメモしたように、初期の中山道は現在の碓氷川沿いの道ではなく、関長原、高墓を経由し横川のある段丘面より150mほど高い台地を横切り、九十九川右岸の高梨子を経て安中に進んでいた、からだろう。そのルートのどこかに一里塚が残るのだろう、か。それにしても、中山道が横川を通るようになってからも横川辺りに一里塚がつくられなかったのだろう、か。

座頭ころがし(釜場)_11時48分;標高862m
「急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているのですべりやすい所である」。座頭転がしも散歩の折々に出合う。江戸の頃の甲州街道の談合坂パーキングエリアあたりの古道に「座頭転ばし」があった。また、東海道の箱根峠越え・湯元から畑宿に向かう途中にある大澤坂も別名「座頭転ばし」と呼ばれていた。国語辞典によれば、座頭転がし、って「かつて座頭が踏みはずして墜落死したという言い伝えのある、山中の険しい坂道」とのこと。




栗が原_11時59分;標高897m
「明治天皇御巡幸道路と中山道の分かれる場所で、明治8年(1875)群馬県最初の「見回り方屯所」があった。これが交番のはじまりである」、と。明治天皇の明治天皇御巡幸道とは明治11年(1878)に北陸から機内を経て東海道を巡幸するに際して開いた新道とのこと。刎石坂や座頭転がしといった険路を避けるため、この地より尾根道を離れ、刎石山を避け碓氷川野谷筋へと下り碓氷橋へと続く。険路をさけるといっても桟道を架けなければ通れない急峻な場所もあり、天皇も徒歩で進んだとのことである。 




入道くぼ・馬頭観音(賽の神)_12時20分;標高964m
「山中茶屋の入口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる」。ここまでくれば峠まで残すところ3キロである。




山中茶屋(立場)跡_12時26分;標高963m
「山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安年中(1648~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。寛文2年(1662)には13軒の立場茶屋ができ,寺もあって茶屋本陣には上段の間が二か所あった。明治の頃小学校もできたが,現在は屋敷跡,墓の石塔、畑跡が残っている」。
蜀山人こと太田南畝は『壬戌紀行』において、「このあたりより吾妻のかたをながめやるに 日本武尊のむかし思ひ出らる 春のなごりのかすみわたれる山々のけしき いふもさらなり 山中坂を下りて立場あり賑はしき茶屋也 餅うる家あり山中村といふ 八重桜の花今をさかり也・・・」と描く。

山中部落跡・山中学校跡
「江戸時代中期頃、ここに茶屋13軒あり、力餅、わらび餅などを名物にしていた。またここには、寺や学校があり、明治11年(1878)の明治天皇北陸御巡幸の時、児童が25名いたので25円の奨学金の下附があった。供奉官から10円の寄付があった」と案内にある。

山中坂_12時44分;標高984m
「山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった」、と。

一つ家跡_12時51分;標高1031m
「ここに老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている」と如何にもシンプルな案内。その案内の下に草に隠れた古い案内があった。「江戸時代、このあたりの老婆の商う茶屋があった・・・」と。草に埋もれた案内には「一つ家の歌碑。。。」といった誠に素っ気以内説明があたが、よくわからない案内ではある。

子持山標識
此の辺りは子持山の山頂近く。子持山標識には、子持山を詠んだ万葉集の歌が紹介されている。「子持山 若かへるての もみつまで  寝もと吾は思う 汝(な)はあどか思ふ(万葉集巻14東歌中 読人不知) 」。「児毛知山(子持山)この山のカエデの若葉が紅葉するまでずっと寝ていたい。あなたはどう思う」といった意味。「かえるて」とは「カエデ」の古名。カエデの葉の形が蛙の手「=かえるて」に似ていたから、とか。「子持ち」は山の名前と「子をもとう=結婚しよう」を掛ける。素朴な口説きの歌、と言う。

陣馬が原_12時58分;標高1052m
「太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている」。新田と足利の戦いとは正平7年(1352)、南朝の宗良親王と新田義貞が足利尊氏と戦った合戦。ということは、この頃には碓氷峠越えの道が開けていた、ということであろう。

和宮道
陣馬が原から右手に入る道が和宮道。「和宮道」とは、幕末の文久元年(1861)、皇女・和宮が徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸へと中山道を下るに際し、道筋の各宿場や街道を整備した。この地の和宮道も、当時の碓氷峠道は険しく荒れていたので、新たに平易な別ルートを開いたもの。約3万人からなる一行は軽井沢を発ち、碓氷峠を越え、翌日には横川へ宿泊している。

化粧水跡>_13時8分;標高1068m
「峠町へ登る旅人が、この水で姿、形を直した水場である」。化粧=けわい、とはお化粧ではなく、身だしなみを整える、の意味。この地名は全国に残り、国府や守護所の近くにある、と言う。鎌倉にも鎌倉七口(切り通し)のひとつに化粧(けわい)坂が残る。

人馬施行所跡_13時12分;標高1068m
笹沢と呼ばれる沢を越えるあたりに人馬施行所跡の案内。「笹沢のほとりに、文政11年、江戸呉服の与兵衛が、安中藩から間口十七間、奥行二十間を借りて往来の人馬が喉を潤すための休む家を作った」。道中一の水量を誇る水場跡である。
この江戸呉服の与兵衛さんって、この碓氷峠だけでなく同じ中山道の和田峠や東海道の箱根峠にも同様の人馬施行所跡をつくっている。数年前、偶々読んだ『峠の歴史学;服部英雄(朝日新聞社)』の記事をまとめると、「文政7年(1824)、江戸呉服町加勢屋の与兵衛は東海道の箱根と山中の二カ所に人馬施行をおこなった。4年後の文政11年(1828)には、与兵衛は80歳となり隠居となっていたが、碓氷峠と和田峠にも人馬施行を行いたいとの与兵衛の意志を孫達が叶えた。河内国の八尾村出身の与兵衛は関東と関西の間を往復するに際し、峠で生死を彷徨う体験があったのでは、と。
施行の詳細は、和田峠の場合、「和田宿より8.5キロほど上ったところに、人馬の息継場所をつくり、一年中飼葉を与え、11月1日から12月の晦日までは人足および貧窮者に粥をふるまい、11月1日から正月晦日までは薪火を施行した。このために与兵衛一族は金千両(現在の価値で1億ほど)提供し、毎年の金利百両でもって運用資金にあてるよう願い出ている」。あまりにそっけない案内の裏には結構大きなヒューマンドラマがあった。

長坂道_13時30分;標高1173m
「中山道をしのぶ古い道である」。これまたそっけない案内板であり、詳細は不詳ではあるが、1602(慶長7)年に中山道として整備された碓氷坂の道の長い下り坂の部分を長坂道と表示したものではないか、との解釈もある。






仁王門跡_13時38分;標高1180m
少しすすむと和宮道との合流点。地形図を見るに、和宮道は等高線に沿ってしばらく北に進み、等高線の間隔が広くなったあたり、つまりは傾斜が緩やかになった辺りで等高線を交差して陣馬が原へと下っている。
和宮道との合流点の辺りには仁王門跡と思婦石がある。仁王門跡とは、ここにあったお寺さまの門の跡。「もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の廃仏毀釈によって廃棄された。仁王様は熊野神社に保存されている」との案内がある。明治になって神仏分離令により、神と仏が分離される以前は、神も仏も皆同じ、といった案配で、神は仏が仮の姿で現れたものとされていた。膨大な教義をもつも、外来の宗教であり、民衆にはいまひとつ敷居が高い仏教と、日本古来の宗教ではあり民衆には身近な神ではあるが、教義をもたず理論的根拠に欠ける神道が互いの強み・弱みを勘案し、共同戦線をはったものが神仏混交、と言えば乱暴だろう、か。ともあれ、神宮寺とは通常、神仏習合思想に基づき神社を管理する別当寺のことを指す。

思婦石(おもふいし)
「群馬郡室田の国学者・関橋守の作で 安政四年(1857)の建立である:ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき  吾妻路のそら」とある。日本武尊の嬬恋の昔を偲んだ歌、とのこと。東国平定に赴いた日本武尊が、三浦半島の走水から房総に渡るとき海が大荒れ。海神の怒りを鎮めるべく海に身を投じた妻の弟橘媛を偲び、この碓日嶺から「吾嬬(あがつま)はや」と三度嘆いた故事を踏まえての歌である。
もっとも、散歩の折々に日本武尊が「吾嬬(あがつま)はや」と嘆いた場所に出合う。中世の東海道足柄峠越えでも出合った。その先、秦野の吾妻山にも、おなじ故事が残っていた。

碓氷貞光神社・一つ家の歌碑
足柄峠と言えば、この地で合流する和宮道を少し北に進み、すぐに右に分かれる道を進むと碓氷貞光神社がある、とのこと。峠越えをほぼ終え少々気が抜けたようで、実際に訪ねたわけではなく、事前調査なしの散歩によくある後の祭ではあるが、ちょっとメモ。
碓氷貞光は源頼光の四天王として酒呑童子などと言った鬼退治で有名であるが、足柄峠にも源頼光の四天王として名高い金太郎こと坂田金時が登場する。この碓氷峠で源頼光にリクルートされた碓氷貞光は、足柄峠では坂田金時をリクルートした、と言う。碓氷の関のところでメモしたように、醍醐天皇の昌泰二己未年(899)、坂東に出没する群盗の取締りのために設けられた関のあった相模国足柄坂と上野国碓氷坂で、鬼退治伝説のふたりの武将が登場する。実在の人物かどうかは不明であり、真偽の程は定かはないが、物語の構成としては、良くできている。
なお、この碓氷貞光神社の脇に石碑があり、そこには「八万三千八三六九三三四七 一八二四五十二四六百々億四百」と刻まれている、とか。「やまみちは さむく さみしな  ひとつやによごとにしろくももよおくしも(山道は寒く寂しくな 一つ家に 夜毎身にしむ百夜置く霜)」と読む、と言う。この石碑は「一つ家」の歌碑と呼ばれる。先ほど味も素っ気もない案内のあった「一つ家」の茶屋にあったものが、天明の浅間の大噴火やその後の水害で所在不明となり、幕末に碓氷峠の社人がこの地に再建した、とのことである。元は弁慶が爪で刻んだ、とか。伝説は伝説として、受け入れる、べし。

碓氷峠_13時44分;標高1194m
仁王堂・思婦石を越えると舗装された道の向こうに碓氷峠が見えてくる。登山口から9キロ弱をほぼ4時間半かけて標高差680m程を上ってきたことなる。、「旅人の身を粉に砕く難所道 石のうすいの峠なりとて」 「苦しくも峠を越せば花の里みんな揃って身は軽井沢」と詠まれた厳しい峠越えもやっと終わる。
峠は通常木立に覆われた少々寂しきところが多いのだが、この碓氷峠は空が開け、開放的な雰囲気がある。先日の東海道・鈴鹿峠も西の近江側はなだらかな傾斜であるるが、鈴鹿峠を境に東側は急坂となっていたのと同じく、この碓氷峠も峠の西は軽井沢の街から6キロを200m強ゆったりと上るが、峠を境に9キロ弱を680mほど下る急峻な坂となっている。こういった地形の特徴もこの開放感の一助となっているのではあろう。
碓氷峠の歴史は古い。『日本書紀』には、碓日坂にさしかかったとき、碓氷嶺から東南を望み。「吾妻はや」と嘆いた日本武尊の説話が残る。もっとも、その碓日坂(昔は峠と書かず坂と書いた)はこの地ではなく、何回かメモしたようにここより南の入山峠との説もあり、碓日坂、というか峠が、実際はどこであったかはっきりしない。
万葉集にも碓氷峠を詠んだ歌が載る。「日の暮れに うすいの山を こゆる日は せなのが袖も さやにふらしつ(巻14)よみ人知らず」「ひなくもり うすひの坂を こえしだに いもが恋しく わすらえぬかも(巻20)他田部子磐前」。防人として西国に出かける家族の心情を詠んだ歌、と言う。
古代の東山道・碓氷坂(碓氷峠)が入山峠越えなのか、この地なのか、和美峠越えなのか定かではないが、いずれにしても古代駅路は11世紀には廃絶し、東山道・碓氷峠(坂)の駅路も荒廃した、とされる。中世になると、碓氷峠越えの主要路はこの地の碓氷峠越えとなったようである。その理由が、入山峠を越える道筋より、こちらの峠道のほうが険阻であったから、と。普通に考えれば、楽な道筋を整備するのだろう、と思うのだが、険阻であるがゆえに防備しやすいこの道筋が選ばれた、とのこと。信玄や秀吉など戦国の武将も、この峠を越えて信濃國・上野國武蔵國を往来した。江戸時代になり五街道の整備にともない、この峠越えの道が中山道として整備されたのは既にメモした通りである。因みに、碓氷峠は日本列島の中央分水嶺であり、この地に降った雨は長野側は千曲川から信濃川水系で日本海へ、群馬側は碓氷川、烏川から利根川水系で太平洋へと異なる方向に流れる。「水の分けされ」の地である。

史蹟 赤門屋敷跡
歩を進めると碓氷峠の標識の辺りには茶屋、と言うか、食堂・休憩所が並ぶ。「力餅」の暖簾を眺めながら進むと碓氷山荘の駐車場の辺りに「史蹟 赤門屋敷跡」の案内があった;「江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。この制度の確立の為「中山道」が碓氷峠「熊野神社」前を通り、此の赤門屋敷跡には「加賀藩前田家」の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿「追分・沓掛・軽井沢」を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休息し、無事碓氷峠まで来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。江戸時代の終り文久元年(1861)仁考天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休息された。
明治11年(1878)明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道18号線へと移った。上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり熊野神社の社家町「峠部落」も大きく変り赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。此の屋敷は熊野神社代々の社家「峠開発の祖」曽根氏の屋敷であり心ある人々からは由緒ある赤門「御守殿門」及び格調高い「上屋敷」の滅失が惜しまれている」、と。

みくのふみの碑
なお、これまた後の祭りではあるが、この駐車場の東隣にある茶屋「しげの屋」の駐車場の奥に、先ほど碓氷貞光神社の脇にあった「一つ家」の歌碑と同じく、数字が並んだ石碑があったようだ。「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十」と刻まれているとのことだが、「よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人」と読む。碓氷峠の社家に伝えられていたもので、忘れ去られないようにと、1955(昭和30)年に歌碑として建立した、とのことである。

熊野神社_13時44分熊野神社;
茶屋の力餅の幟を見やりながら先にすすむと熊野神社。峠の神社と言えば、祠程度のものしか見たことがなかったので、結構な構えに少々の驚き。石段の途中にある狛犬は誠にユニークなもの。狛犬と言うよりも、蛙といった趣。風化も激しいこの狛犬は室町の作とも伝わる。
石段を上り、随神門の手前に「石の風車」。案内によると、「元禄元年(1688)建立。軽井沢宿の問屋佐藤市右衛門及び代官佐藤平八郎の両人が二世安楽祈願のため、熊野神社正面石畳を1657(明暦3)年に築造した。その記念に、その子市右衛門が佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したものである。秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車として親しみ、「碓氷峠のあの風車 たれを待つやら くるくると」と追分節に唄われて有名になった)とある。
随神門をくぐり境内に。境内正面には3棟からなる社殿があり、その社殿は群馬と長野の両県にまたがっており、本宮の中央にその境界線が引かれている。中央の両県にまたがるのが本宮殿(祭神:伊邪那美命・日本武尊)。群馬側が新宮殿(速玉男命)、長野側が那智殿(事解男命)が鎮座する。また、境内の群馬側には熊野神社の拝殿(神楽殿)、長野側には熊野皇太神社の拝殿が鎮座する。熊野神社はかつては長倉神社熊野宮、または長倉山熊野大権現と称したが、社地が信濃・上野の境界となり上野国も入ったため熊野宮と名称が短くなった、とか。長倉神社が延喜式に載る信濃の古社であるため、信濃色を薄めるためであろう、か。
またこの社は碓氷神社、熊野大権現とも呼ばれ、1868(慶応4)年に熊野皇太神社に改称。第二次世界大戦後、現在の熊野神社という名称になった。神社の縁起によれば、景行天皇40年(110)、朝廷の命により東国平定に赴いた日本武尊(やまとたける)が碓氷坂で道に迷い、それを熊野の神の使いである「八咫烏(やたがらす)」が現れ道案内をした。日本武尊はそれを熊野の神のご加護とし、この地に熊野の神を勧請した、と。「八咫烏(やたがらす)」は神武東征の折りには、大和から熊野に入る神武を導いた三本足の大カラス。神武を導き、日本武尊を導きと忙しいが、それはそれとして。伝説は伝説として受け入れる、べし。
その後、神社は鎌倉武士の信仰を受け、上にメモしたように吊り鐘の奉納などを受けている。江戸の頃は、諸大名を始め、多くの人々が中山道を行き来し、熊野の権現様は「碓氷峠の権現様は 主の為には 守り神」と旅人に唱われ、追分節の元唄となるほとに人々の信仰を集めた、とか。水の分けされ、とも称される。

碓氷峠の力餅
境内を彷徨い、樹齢800年とも伝えられるシナノキなどを眺め、神社を離れ、茶屋で小休止。軒先に架かる暖簾にある力餅を話の種にと味見。この餅は、元々は峠越えの安全を祈り熊野神社にお参りしたときに、護符として与えられた餅が始まりであり、「碓氷貞光の力餅」とも呼ばれる。文武両道に秀で、人々から「碓氷峠の力持ち」と呼ばれた貞光にあやかっての命名であろう、か。もっとも、碓氷貞光が実在の人物か否かは不明ではある。ともあれ、ごま風味のお餅は結構美味しかった。

ブッシュの古道跡を下る
休憩を終え、14時20分に碓氷峠を出発。旧中山道は碓氷山荘の駐車場の石垣に沿って下ることになる。数年前に百年ぶりに発見された、とか。峠の沢に付けられた掃部坂(かもんさか)を下り、林道を横切り唐沢へと斜面を横断する。本当にこの道でいいのか不安になるような道筋である。唐沢の窪地を下り沢を渡り斜面に沿った道を崩れた箇所などを注意しながら進むと往昔の街道といった道に出る。ほどなく進むと遊歩道に合流する。遊歩道を少し進み、別荘地帯に入り、カーブ手前で突然現れる旧中山道の道標を目印に雑木林へと入り、聖沢を渡る。しばらく法面に沿って進むと大きな道に当たる。この道は碓井峠から下ってくる御巡幸道である。

二手橋_15時2分;標高979m
舗装された中山道聖坂を下ると矢ヶ崎川に架かる二手橋に到着する。旧中山道時代も同じ場所に橋があった。橋名の由来は、軽井沢宿の旅籠から旅立つ人をこの橋まで送り、ここで二手に分かれたから、とか、あれこれ。峠から2キロほどを道を215m下ったことになるが、ここから先は平坦な道となる。

アレキサンダー・クロフト・ショウ
橋を渡ると右手の森に中にアレキサンダー・クロフト・ショウの胸像や日本聖公会ショウ記念礼拝堂がある。アレキサンダー・クロフト・ショウはカナダ生まれの英国英国聖公会宣教師。明治19年(1886)、布教の途中軽井沢に立ち寄り、その自然と気候が気に入り、その翌年も避暑に訪れた後、明治21年(1888)にこの地の大塚山に別荘を建てた。これが軽井沢で初めての別荘であり、「軽井沢開発の父」と称される。
軽井沢と言えば、広大な針葉樹の林の中に点在するイメージであるし、実際現在の軽井沢もそうである。が、偶然明治初年の軽井沢の写真を見たことがあるのだが、そこに映る軽井沢は、中軽井沢から軽井沢にかけて林などひとつもない原野である。そこに一直線に通る道が中山道であり、その道脇に旅籠らしき家屋が見える。本当に、なにもない原野である。

野沢源治郎
この原野がどのようなプロセスで現在の緑豊かな軽井沢となっていったのか、ちょっと気になりチェックするとキーマンとして野沢源治郎という人物が現れた。明治末まで個々に土地を求め別荘が建てられていた軽井沢は大正になって大規模な別荘地開発・分譲がはじまった。その中心人物が野沢源治郎氏である。氏は大正4年(1915)、軽井沢の西に聳える離山から東の三度山あたりまでの200万坪の土地分譲と別荘経営を行った。氏にゆかりの野沢原という地名が現在も残る。
この土地分譲と別荘経営では道を造り、区画整理を行い、アメリカ式建築設計施工の別荘を建て、東京から一流店を誘致。そのためもあり、政財界、学者、文士が多く集まることになった。野沢源治郎自身が病弱で、軽井沢での療養が体を癒し、また、点在する外国人の避暑の姿を見聞するに及び、高原保養地の事業に意欲をもった、とのことである。

芭蕉句碑
先に進むと「つるや旅館」の手前には芭蕉句碑。「馬をさえ ながむる 雪の あした哉」。「思わぬ雪の朝。見慣れた馬の往来も新鮮に感じる:」といった意味だろう、か。「野ざらし紀行」(甲子吟行)の中の一句、とか。碑は1843(天保14)年、当地の俳人によって、芭蕉翁150回忌に建てられたもの、とのこと。

つるや旅館
この旅館は江戸方枡形跡脇に建つ。江戸初期に旅籠「鶴屋」として開業した「つるや旅館」は、大正から昭和の中頃まで多くの文士の定宿となった、と。島崎藤村、正宗白鳥、室生犀星、萩原朔太郎、芥川龍之介、堀辰雄、谷崎潤一郎、志賀直哉、山本有三、石坂洋次郎、丹羽文雄などなどなどが滞在している。文士だけでなく政財界人の定宿としても知られた。

軽井沢銀座_15時10分:標高967m
旅館の先は、旧軽井沢の雑踏となる。殺到の右手に神宮寺。ちょっとお参りし再び雑踏へ。軽井沢銀座と呼ばれる。大正5年(1916)、名古屋の豪商・近藤友右衛門が別荘の敷地の表通り、つるや旅館の前に近藤長屋を造り、夏季出張店の為に安い家賃で貸した。ために銀座の老舗呉服店等が避暑客のため軒を連ね、その名の通り軽井沢銀座が誕生した。近藤友右衛門はこの他、碓井峠遊歩道や見晴台などの軽井沢名所を残している。
軽井沢観光案内所に立ち寄り、あれこれ資料を頂戴。少し休憩し先に進む。軽井沢銀座の中に本陣跡があるとのこと。郵便局の対面とのことではあるが、そこにはこぎれいなカフェーらしきものが見える、だけ。脇本陣といった看板が目に入るも、どう見てもそれらしき建物もないようであり、パス。先に進むとロータリーの手前に軽井沢一里塚跡、とのことだが、これまたその面影も残っていないようである。現在の建物は昭和46年の火災の後に再建されたものである。

軽井沢宿
軽井沢宿は浅間三宿(軽井沢宿、沓掛宿、追分宿)の一つ。元禄16年(1703)には家数208軒。本陣1、脇本陣4が設けられ、問屋1、高札場、旅籠が軒を連ね、宝暦11年(1761)には人口1,442人(男595人、女847人)で、戸数は201戸であったという。女の数が多いの 旅籠に接待婦としての飯盛女を多数抱えていたためである。川柳に「丸顔をみそに(自慢)して居る軽井沢」「軽井沢膳のなかばへ勧めに来」などと詠まれる。蜀山人こと太田南畝も『壬戌紀行』で「石橋を渡りて軽井沢にいたる。ここはあやしのうかれ女のふしどときけばさしのぞきて見るに、いかにもひなびたれど、さすがに前の駅(沓掛)より賑はしく見ゆ。障子に国の名物二八そばとかける多し」と描く。
その繁栄も1783(天明3)年の浅間山大噴火によって壊滅。また、寛政3年(1791)、同5年の大火災、天保14年(1843)には119軒、住民450名にまで激減し、荒漠たる原野に家屋が残る明治初期の写真の軽井沢を迎えることになる。

離山通り
雑踏の軽井沢銀座を越えるとロータリー。ここは京方枡形跡。道路の両側にひろがる別荘地を見やりながら離山通りを進む。左右に広がる別荘地は野沢源治郎氏が手がけた一帯ではあろう。精進場川を越えて進むと右手に離山が大きくなる。1255mの離山は和宮下向の折りは、縁起が悪いと、子持山と呼ばれた、とか。

軽井沢歴史民俗資料館_16時39分;標高944m
国道18号と離山通の合流点の北傍に軽井沢歴史民俗資料館がある。ちょっと立ち寄り。縄文時代の石器や、東山道・中山道の宿場の歴史など、道の文化史に関する資料と、明治以後の別荘地としての発展を紹介する資料、高冷地のくらしを支えた生活道具などの資料を保存・公開している。『道』というテーマに絞った展示・解説がありがたい。
展示・解説に古東山道、東山道の道筋があったが、「大和政権が全国を統一し碓氷坂は交通の要衝として古代史に大きな位置を占めようになった。しかし、この道も大化の改新後(645年)には大きく変わる。官道として整備が行われ、それまでの軍事方面のみに重要視された性格が、政治・経済・文化の交流にまで幅を拡げる。この道は東山道と呼ばれ、それまでの道筋の古東山道とは区別しています。峠の難路を上ると頂上に熊野神社が祭られ、人々は安全を祈って旅を続けた」との解説とともに古東山道、東山道のルート図があった。それによると、古東山道は伊奈郡高遠あたりから諏訪湖の南東の杖突峠を越え、車山の大門峠を経て雨坂、望月の南を抜け、森泉山の北をかすめ入山峠へと続いている。一方、東山道は富田、伊奈北に向かい、善知鳥峠から塩尻、松本、保福寺峠、小諸、長倉を経て軽井沢、そして碓氷峠を越えている。
原村のところのメモで、往昔、ここから遠入川を遡上し、入山村を経て入山峠を越え信濃の沓掛宿と追分宿の中程にある借宿村へと抜ける入山道があり、その道筋は往古の東山道の道筋とメモしたが、この説明ルートとは少々異なっているようだ。どうしたところで確たるエビデンスはないわけであるから、どのルートが古東山道、東山道か不明であるが、既にメモした説明との整合性を保つために妄想を逞しくすれば、入山道は東山道からの支道であったのか、とも思える。

旧雨宮邸の門
軽井沢歴史民俗資料館を出ると資料館周辺は如何にもお屋敷跡といった風情。時刻も5時となりあまりゆったりする余裕もなく、公園風の屋敷跡を足早に歩き、通りに面した瓦屋根の重厚な門に向かう。門の名前は「旧雨宮邸の門」、とある。気になりチェックすると、この資料館隣の広大な敷地は「雨宮御殿」の後とのこと。主人である雨宮敬二郎は幕末の甲州に生まれ、明治の開国と同時に洋行し見聞を広める。帰国後、国内初の近代製粉工場を興し、また、全国各地に鉄道を拡げ、「鉄道王」の異名をとる。他にも製鉄事業や石油取引、砂金採取事業などなど、明治期の産業の多くに関り、「天下の雨敬」と称された人物。その「天下の雨敬」は明治10年頃より軽井沢の開発に着手した。明治17年(1884年)には、軽井沢の南原・向原・芹ヶ沢地区など1100町歩の開墾と植林事業を開始したと言う。明治39年(1906年)になると、自身の還暦記念に、毎年30万本のカラマツを植林していくこととし、大正期にはその植林されたカラマツは700万本を越えたという。軽井沢というと、カラマツ林が想い浮かぶ、それは雨宮敬次郎のカラマツ植林が基礎になっているということである。明治初期の、あの荒野の 荒野の軽井沢を現在の緑豊かな地に変えるために大きく貢献した人物のひとりと言えよう。

上で野沢源二郎の別荘地開発をメモした。ここで雨宮敬二郎が登場し、少々混乱してきたので、軽井沢の開発の歴史を時系列で整理しておく。江戸時代の終了とともに、宿場が廃止され軽井沢に賑わいが消える。高冷地で、かつ火山灰の影響で痩せた土地がひろがり、また湿地の点在する軽井沢での明治政府の殖産興業策として、未開の官有地を元小諸藩士に払い下げられ農地を開き、次いで雨宮敬次郎といった政財界人に払い下げられ牧草地・農耕地・植林地開発がはじまった。明治期の軽井沢開発は開墾であり、植林事業が主であった。その軽井沢に大規模別荘地の開発がはじまったのは上でメモしたように、大正になってから。野沢源治郎(野沢組)や堤康次郎(箱根土地)が別荘開発を行い、カラマツやポプラ並木を整備し、現在の別荘地・軽井沢の基礎を築いた、ということである。なお、植林事業は単に別荘地開発だけでなく、明治43年に軽井沢を襲った大洪水が契機となった、とか。治水の為にも山に樹林を育てる必要があった、と言うことである。
雨宮邸跡には「市村記念館」があり、そこには近衛文麿の別荘跡が残ると言うが、気分の余裕もなくパスした。なお、主人の市村今朝蔵は雨宮敬次郎の甥にあたる、とのこと。

しなの鉄道・中軽井沢駅
旧雨宮邸の門を離れ、国道18号を軽井沢中学あたりまで進み、軽井沢中学前の信号を南に折れ、しなの鉄道の踏切を越え、すぐに右に折れ、しばらく進むと湯川に当たる。右手に浅間山を眺めながら、ひたすら歩き、本日の宿のある、しなの鉄道の中軽井沢、昔の沓掛宿に到着。17時27分;標高940。峠からの11キロ歩き、ホテル到着は午後6時となった。朝9時からの長丁場となった碓氷峠越えであった。

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