埼玉を歩くと太田道潅とか小田原北条氏ゆかりの地に出会うことが多い。そのようなとき、折に触れて登場するのが鉢形城であり、その城を築いた長尾景春である。鉢形城って、荒川の断崖上につくられている、と。写真で見るに、なかなか魅力的な風情である。場所は寄居。荒川が秩父盆地から関東平野に流れ出るところ。少々遠い。が、思い切って散歩にでかけることに。
寄居駅
東武東上線の急行に乗り、寄居に向かう。急行で、とはいうものの、川越から先は各駅停車。武蔵嵐山、小川町、男衾といった町を越えていく。なんとなく名前に惹かれる。近々にこれらの地に足を踏み入れる予感、あり。東武東上線・寄居駅で下車。「はるばる来たぜ」を小声で叫ぶ。
本日のルート;東武東上線・寄居駅 >荒川・正喜橋>鉢形城 >鉢形城公園・諏訪神社>釜伏峠の分岐点>車山>東武東上線・寄居駅
寄居駅
東武東上線の急行に乗り、寄居に向かう。急行で、とはいうものの、川越から先は各駅停車。武蔵嵐山、小川町、男衾といった町を越えていく。なんとなく名前に惹かれる。近々にこれらの地に足を踏み入れる予感、あり。東武東上線・寄居駅で下車。「はるばる来たぜ」を小声で叫ぶ。
駅前で例のごとく見所案内をチェック。鉢形城の場所を確認。寄居近辺には、釜伏峠、日本水(やまとみず)、少林寺、そして北の円良多湖(つぶらた)、鐘撞堂山(かねつきどう)などなど面白そうなところが多い。釜伏峠は秩父往還・熊谷道の峠。日本水は名水百選に選ばれた「神秘の水」。円良多湖は桜の名所。鐘撞堂山は戦国時代、鐘をついて敵の来襲を鉢形城に知らせたことが名前の由来。
よさげなハイキングコースに少々惹かれる。が、如何せん時間がない。いつものとおり出発が遅く、既にお昼はとっくに過ぎている。あれこれ行きたいのはやまやまなれど、まずは鉢形城に。その後は成行きで、ということで歩を進める。
荒川・正喜橋
駅前を南に下ると荒川。正喜橋がかかる。大正時代に地元の篤志家が私費で吊橋をつくったのがはじまり。大正の「正」と、橋をつくった神谷茂助さんの父・喜十郎さんの「喜」をあわせて「正喜橋」と。
荒川・正喜橋
駅前を南に下ると荒川。正喜橋がかかる。大正時代に地元の篤志家が私費で吊橋をつくったのがはじまり。大正の「正」と、橋をつくった神谷茂助さんの父・喜十郎さんの「喜」をあわせて「正喜橋」と。
つくられた当時、渡橋は有料であったらしい。その後県が買い上げ、現在の橋となった。少し上流の折原橋の近くに玉淀ダムがつくられるまでは、もっと水量豊かだったよう。橋の上から対岸の崖を見やる。写真で見慣れた鉢形城の景観。自然と足が速まる。
鉢形城
橋を渡り、すぐ右に折れると鉢形城の案内;「鉢形城は荒川に臨んだ断崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害を成している。文明8年(1478年)、長尾景春が築城し、その後上杉氏の持城となって栄える。室町末期に至り、上杉家の家老でこの地方の豪族であった藤田康邦が北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して、北武蔵から上野にかけての拠点とした。
鉢形城
橋を渡り、すぐ右に折れると鉢形城の案内;「鉢形城は荒川に臨んだ断崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害を成している。文明8年(1478年)、長尾景春が築城し、その後上杉氏の持城となって栄える。室町末期に至り、上杉家の家老でこの地方の豪族であった藤田康邦が北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して、北武蔵から上野にかけての拠点とした。
城跡は西南旧折原村を大手口とし、旧鉢形村を搦め手としている。本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があり、西南部には侍屋敷や城下町の名称が伝えられており、寺院、神社があり、土塁、空堀が残っている。天正18年(1595年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本田忠勝、真田安房守などに四方から攻撃され、三ヶ月の戦いの後、開城した」と。
長尾景春
案内では長尾景春のことはさらっと触れていただけ。鉢形城といえば長尾景春でしょう、ということで、少々メモを付け加える。
文明5年(1473)のことである、関東管領山内上杉氏の家宰・長尾景信が死去。上杉顕定は景信の弟・忠景に家宰職を嗣がせた。怒ったのが長尾景信の子である景春。一時は居城・白子城(群馬県子持村臼井。沼田市の吾妻川東岸)でおとなしくしていたのだが、「やっぱり勘弁ならぬ」、ということでここ鉢形に城を築いて関東管領・上杉氏と対立することになる。これが世に言う「長尾景春の乱」のはじまり。
翌年、景春は五十子城(いかつこ;本庄市東五十子)の上杉氏本陣を襲撃。上杉氏は上野に逃れる。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は景春に帰順を求める。が、景春は拒否。用土原(大里郡寄居町用土;市街地の北東)で合戦。景春は敗れて鉢形城に立て籠もる。
上杉氏は鉢形城を包囲。それに対抗すべく、景春は古河城の足利成氏と同盟を結ぶ。関東管領上杉氏と古河公方は犬猿の仲。敵の敵は味方、ってことだろう。
成氏が上野(滝)まで進軍。
本陣危うし、ということで、上杉軍は包囲を解いき、上野に引き上げる。
文明10年(1478年)、上杉氏と足利成氏の間で停戦成立。が、太田道灌は鉢形城を攻略。景春を秩父へ追放。鉢形城は上杉顕定の居城となる。その後、景春は秩父方面で文明十二(1480)年まで抵抗を続けるが、最後には上杉氏に降伏することになった、とか。これが長尾景春のあれこれ。
景春以降の鉢形城 ついでに、景春以降の鉢形城について補足;景春の後、一時上杉がこの鉢形城に居を構えたこともある。が、結局は小田原北条の拠点となる。そのことは案内板の通り。
景春以降の鉢形城 ついでに、景春以降の鉢形城について補足;景春の後、一時上杉がこの鉢形城に居を構えたこともある。が、結局は小田原北条の拠点となる。そのことは案内板の通り。
上杉から小田原北条への潮目はやはり、川越夜戦か。天文15年(1546)の河越夜戦で上杉氏が北条氏に大敗。武蔵の土豪は次々に北条氏に帰順。天神山(秩父郡長瀞町岩田字城山1871 ;長瀞町の北部)城主・藤田重利(康邦)は北条氏康の三男・氏邦を養子に迎える。氏邦は永禄三(1560)年前後に本拠を鉢形城に移し、大規模な改修を行った。永禄十二(1569)年、武田信玄が小田原城攻撃のため上州から侵攻。鉢形城も攻められる。が、守りが堅いのを見た信玄はそのまま南下して滝山城に向かった、と。
天正18年(1590年)の小田原の役では、北条氏邦は出撃論を主張。が、当主氏直以下の首脳部は小田原評定の結果、籠城策。氏邦は鉢形城に戻り守備を固めた。
前田利家、上杉景勝らの北国軍が鉢形城の攻撃を開始、本多忠勝らが車山から大砲を撃ち込み、城内の被害が甚大であったことから、鉢形城は開城。氏邦の身分は前田利家に預けられた。
鉢形城はこれを最後に廃城となった。ちなみに、小田原評定って、あれこれ会議ばかりで、いつまでたっても結論がでないこと。
鉢形城公園・諏訪神社
荒川の崖に近づく。本丸のあったあたりをぶらぶら歩き、車道を越えて鉢形城公園に。西に諏訪神社。二の丸とか三の丸があったところ。公園の南の崖を下り、深沢川を渡る。外曲輪があったところ。鉢形城歴史館がある。残念ながら閉まっていた。はてさて、どうしたものか。公園に座り次のルートを考える。
里山を歩く
地図をチェック。県道294号線が南に下り、落合橋のところで県道11号線に合流。11号線を東に向かえば小川に続いている。歩いてみたいのはやまやまなれど、山道なのか、民家があるようなところなのか想像もつかない。夕刻までそれほど時間もない。他には、と再度地図をチェック。
鉢形城公園・諏訪神社
荒川の崖に近づく。本丸のあったあたりをぶらぶら歩き、車道を越えて鉢形城公園に。西に諏訪神社。二の丸とか三の丸があったところ。公園の南の崖を下り、深沢川を渡る。外曲輪があったところ。鉢形城歴史館がある。残念ながら閉まっていた。はてさて、どうしたものか。公園に座り次のルートを考える。
里山を歩く
地図をチェック。県道294号線が南に下り、落合橋のところで県道11号線に合流。11号線を東に向かえば小川に続いている。歩いてみたいのはやまやまなれど、山道なのか、民家があるようなところなのか想像もつかない。夕刻までそれほど時間もない。他には、と再度地図をチェック。
県道294号線の南にある標高227mの車山の裾野をぐるりと一周する道がある。一周し正喜橋まで戻ってくるのに6キロ程度。時間的には丁度いいか、ということで決定。里山の風景を楽しむことにする。
ちなみに、落合橋に続く県道であるが、後日、車で走ったことがある。山の中というわけではなく、ゆったりとした農村風景が広がっていた。
釜伏峠の分岐点
公園を離れ、県道294号線を西に進む。八高線を交差しさらに進む。折原小学校を越え、道が南に下るあたりが秋山地区。「釜伏峠、日本水」方面への案内がある。釜伏峠まで4キロ強といったところ。往時、秩父観音霊場に向かう人達がこの峠道をとおり、秩父に入った、という。
釜伏峠の分岐点
公園を離れ、県道294号線を西に進む。八高線を交差しさらに進む。折原小学校を越え、道が南に下るあたりが秋山地区。「釜伏峠、日本水」方面への案内がある。釜伏峠まで4キロ強といったところ。往時、秩父観音霊場に向かう人達がこの峠道をとおり、秩父に入った、という。
釜伏峠から1キロ程度のところに日本水(やまとみず)。美味しそうな水に惹かれはするが時間がない。次回のお楽しみということで、県道を南に下る。
車山
南に下る、といっても山間に向かっての緩やかな上り。この道は、小川町から西に進む川越道と落合で合流する。川越道とは、昔、江戸から秩父に入るときに利用した道筋。粥新田峠をへて一番札所・四萬部寺に出る。 道をしばし進むと、東に分かれる道。車山の裾を通る道。県道を離れて、野道に入る。のんびりとした里山の景色がまことに美しい。山容が穏やか、ということもあるのだろう。また、寄居と秩父を隔てる山並みも500mとか600m程度であることも、なんとなく圧迫感がなくいいのかもしれない。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
車山
南に下る、といっても山間に向かっての緩やかな上り。この道は、小川町から西に進む川越道と落合で合流する。川越道とは、昔、江戸から秩父に入るときに利用した道筋。粥新田峠をへて一番札所・四萬部寺に出る。 道をしばし進むと、東に分かれる道。車山の裾を通る道。県道を離れて、野道に入る。のんびりとした里山の景色がまことに美しい。山容が穏やか、ということもあるのだろう。また、寄居と秩父を隔てる山並みも500mとか600m程度であることも、なんとなく圧迫感がなくいいのかもしれない。
車山を眺めながら畑の脇の道を進む。車山は小田原の陣のとき、包囲軍・本田忠勝が鉢形城に向かって大砲をうった、とか。大砲ではなく、火矢を飛ばしたとも伝えられる。
『武州鉢形城』より;少し高みの諏訪曲輪の跡にのぼると線路があって電車が通りすぎた。城内を八高線が通過しているわけである。この曲輪には、諏訪神社という祠の前に大きな欅の木がある。鉢形合戦のとき、この曲輪へ徳川方の本多忠勝が車山から大砲で最初の一発を打ち込んだ。車山は真南の方角に少し霞んで見えていた。
「運転手さん、ここから車山まで、一千メートルの上もあるだろうか。一千百か二百ぐらいだろうか。」
「さあ、まだそれとは云わないでしょう。恰好がいい山は、近くに見えるんでしょうか。遠くに見えるんでしょうか。二千メートルに近いんじゃないでしょうか。一千七八百ぐらいですかね。」
「鉢形合戦時代の大砲は、一千七八百メートルも飛んだろうか。あの山から、この曲輪に撃ち込んでいるのだからね。」
「しかし、いいところ一千九百ですね。
先日、古本屋で見つけた井伏鱒二さんの『武州鉢形城』の一節。鉢形城の落城の様子が静かに、しかし迫力をもって描かれている。
平倉地区に入ると民家・農家が増えてくる。のんびりとした風景。久しぶりにいい雰囲気の里山の景色を楽しめた。予想していなかっただけに、結構嬉しい。
白髭神社
道に沿って流れるのは深沢川。源流点は先ほどの県道を進んだ峠あたりであろう。道の南に白髭神社。白髭さまといえば、高麗王・若光。てっきり若光をおまつりしたもの、かと思ったのだが、この神社は第二十二代・清寧天皇をまつる、という。清寧天皇は生来白髪であった、と。白子というかアルバイノであったとも言われるが、白髭皇子(しらかのみこ)という名前に由来するとも言われ、真偽のほど不明。
平倉地区に入ると民家・農家が増えてくる。のんびりとした風景。久しぶりにいい雰囲気の里山の景色を楽しめた。予想していなかっただけに、結構嬉しい。
白髭神社
道に沿って流れるのは深沢川。源流点は先ほどの県道を進んだ峠あたりであろう。道の南に白髭神社。白髭さまといえば、高麗王・若光。てっきり若光をおまつりしたもの、かと思ったのだが、この神社は第二十二代・清寧天皇をまつる、という。清寧天皇は生来白髪であった、と。白子というかアルバイノであったとも言われるが、白髭皇子(しらかのみこ)という名前に由来するとも言われ、真偽のほど不明。
それにしても、なぜ清寧天皇がこの寄居にまつられているのだろう。熊谷市妻沼町に白髭神社があり、そこの祭神も白髮武広国押稚日本根子命、こと清寧天皇。この神社創建には清寧天皇の白髭部が関係しているとされる。白髭部って 、子のない大王(天皇)の諱〔いみな〕を後世に残すために置かれた部民。 清寧天皇にはこどもがいなかったとされるし、また白髪部は、山背・備中・武蔵・上総・美濃・遠江に分布ししていた、と。まったくの想像ではあるが、この地の白髭神社の創建にも清寧天皇ゆかりの人々が関係したのであろう。
東武東上線・寄居駅
東に進み八高線・折原駅近くを交差。八高線と平行に北に進む。鉢形城歴史観の近くまで進むと県道294号線にあたる。県道294号線を北に進み県道30号線と合流。東に折れると正喜橋に 。もと来た道を駅に戻る。
東武東上線・寄居駅
東に進み八高線・折原駅近くを交差。八高線と平行に北に進む。鉢形城歴史観の近くまで進むと県道294号線にあたる。県道294号線を北に進み県道30号線と合流。東に折れると正喜橋に 。もと来た道を駅に戻る。
駅に戻り、少林寺に向かう。五百羅漢に惹かれたから。駅の北口に回り、近代的な寄居町役場脇を進み、国道140号線を末野陸橋あたりまで歩いた。が、どうにも日がもちそうにない。日が暮れてきた。少林寺は山の中にある雰囲気。残念ながら、本日はここまでとし、駅に戻り家路に急ぐ。
そうそう、「寄居」の由来であるが、 江戸時代に作られた『新編武蔵風土記稿』によると、「鉢形城落城の後、甲州の侍、小田原の浪士などより集まりて居住せし故の名なり」、と。また、中世の城郭の周囲に築かれた施設・集落などのことを「ネゴヤ(根古屋)」「ヨリイ(寄居)」等と呼んだとの説もある。そういえば、根古屋って、今までに散歩のときに、秩父でも、松戸でもであった。で、どちらが正しいのかわからないけれども、どちらにしても「人が寄り合う・集まる」ところ、ということに間違いないようはある。
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