伊予 来島群島の歴史散歩 そのⅡ;村上水軍の拠点・来島と明治の要塞島・小島を辿る

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来島海峡の急な潮流に囲まれた来島群島のふたつの、来島村上水軍の拠点であった「来島」と明治の砲台要塞として知られる「小島」の散歩。前回の来島散歩であれこれ気になることが多く、メモが少々長くなり、砲台要塞の島である小島まで「辿り着けなかった」。
で、今回は来島から小島に渡り、周囲3キロほどの島に残る明治時代の砲台要塞の散歩をメモする。



本日のルート;波止浜港>龍神社>来島に渡る>八千矛神社>心月庵>村上神社>本丸跡>小島に渡る>28cm榴弾砲(レプリカ)>(南部砲台跡周辺)>発電所跡>南部砲台跡>(南部砲台跡から中部砲台跡へ)>弾薬庫跡>兵舎跡>(中部砲台跡周辺)>中部砲台跡>地下兵舎跡>司令塔跡>(北部砲台跡周辺)>軽砲の砲座跡>発電所跡と地下兵舎跡>24センチ砲4門の砲座跡>司令塔跡>(小島南端部)>探照灯跡

小島に渡る
来島の桟橋で11時15分発の定期船に乗り、5分ほどで小島に到着。桟橋の傍ビジターセンターの脇に誠に大きな砲が据えられている。砲台要塞のシンボルとしてビジターを迎える。

28cm榴弾砲(レプリカ)
大きな砲の案内には「明治35(1902)年帝政ロシアの侵攻に備え、旧日本陸軍は広島県(安芸)竹原市の大久野島と愛媛県(伊予)の小島に芸予要塞を築く。小島には南部・中部・北部の3か所に砲台が築かれ、中部砲台に築かれた28cm榴弾砲6門をはじめ、加農砲、速射砲などが備えられていた。
28cm榴弾砲は、明治20年に海岸防御の主砲とされ、大阪砲兵工廠で造られた。 明治37(1904)年2月に日露戦争が勃発し、国内の海岸要塞から28cm榴弾砲が旅順等に送られた。小島から送られた6門のち2門が旅順要塞攻略に用いられたとされる。
芸予要塞は、大正13(1924)年に廃止されたのち、当時の波止浜町(現今治市)に払い下げ保存が図られたことから、要塞としての実質的な期間が短く、結果として、全国的にみても日露戦争前の要塞の状況を今日まで良く残している。
ここに設置している榴弾砲のレプリカは、平成21(2009)年から23(2011)年にかけて放送されたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の撮影のため、当時の資料をもとに忠実に勢作されたもの。松山市が譲り受けた後、今治市が頂き、ゆかりの地、小島に設置した」とあった。

榴弾砲と加農砲
榴弾砲はこの砲だけが榴弾を発射するわけではない。榴弾(high explosive)とは弾の内部に火薬を詰めて破壊力を大きくした砲弾のこと。その昔の大砲は鉄製の弾丸を発射し、爆発力ではなく弾丸そのものの運動エネルギー、平たく言えば鉄の塊で目標物を「壊して」いたわけである。
ために、加農砲も榴弾を使う。榴弾砲と加農砲の違いは、同じ口径であれば榴弾砲は加農砲に比べて砲身長が短く、低初速・低射程であるが、軽量。加農砲はそれに比べて高初速・長射程であり、低仰角の射撃を主用する。そのため砲座の場所がわかりにくいようであるが、そのかわり、重量とサイズは大きくなるとのことである。

(南部砲台跡周辺)

南部砲台跡に向かう。島の案内を見ると砲台要塞跡は「南部砲台跡」、「中部砲台跡」、「北部砲台跡」と大きく分かれ、南部砲台跡の周辺には発電所跡、弾薬庫跡、兵舎跡がある。中部砲台跡の周辺には司令塔跡があり展望台となっている、と。また北部砲台跡の周辺には発電所跡、探照灯跡、司令塔跡が残る。そして島の南端にも「探照灯跡」がある、と言う。
ルートは南部砲台跡、中部砲台跡、北部砲台跡と順に進み、北部砲台跡を見終えた後は、来た道を戻り、途中南部砲台跡辺りで島の西岸に下り、海岸線を辿り、島の南端の探照灯跡を見て桟橋に戻ることにした。距離的には早足で歩けば1時間半程度で済むだろうから、小島発波止浜行12時55分の定期船で戻ろうとの思惑である。

小島と芸予要塞
南部砲台跡に向かって海の家風の民家の脇の道を上る。上り始めるとすぐ道脇に「小島と芸予要塞」の案内がある。案内には「小島と芸予要塞;来島海峡の中央に位置する小島は、周囲3キロメートル、標高100mの島で、来島海峡の観潮や海水浴、キャンプ、磯釣りなどで親しまれている。
小島は、また芸予要塞の地でもある。明治時代の沿岸要塞跡として完形に近い形で保存されていて、砲台跡や兵舎跡、弾薬庫跡など、山中各地に配地された施設は、大半が往時の形が残る、歴史的な近代化遺産として貴重な史跡と言える。
小島砲台は、明治31年(1898)の陸軍省の告示を経て、工事に着手され、完成までに5年の歳月と、当時の30万円という巨費を投じて築造された。日露戦争ではその主砲が旅順攻略戦に使用されたと言われる。
その後戦術は艦船・航空機重視に変化し、要塞の見直しから、大正13年(1924)に芸予要塞の廃止が決まり、昭和2年(1929)波止浜町に払い下げられ現在に至る」とあった。

当時の30万って、現在の価値に直すといくらぐらいだろう?はっきりした基準はないが一説には当時の1円は現在の2万円程度とも言われる。とすれば、30万円とは現在で60億円。明治8年の日本海軍の予算が325万円、国家予算も3億円程度であろうから、当時の30万円は現在の60億円より、ずっと価値があったように思える。

発電所跡
歩きはじめて5分弱。煉瓦造りの建物が見えた。発電所跡である。建物の前には「防火水槽」の木標があった。発電所は煉瓦造りの平屋建て。煉瓦はドイツのハンブルグから持っていたもので、建築様式もドイツにならったとか(「えひめの記憶」)。
建物の入り口は3つ。小さい左手の中は特に何もない。左手の入り口を入ると竃(かまど)のようなものがある。炊事室だったのだろうか。水道の蛇口も残っている。中央部に入ると、銭湯のようなコンプリートの基礎部分が残っている。発電機を据え付けていた跡なのだろう。火力発電であろうとは思うが、燃料は当時であれば石炭ということだろう。
Wikipediaに拠れば、日本で最初の火力発電所は明治20年(1887)、東京電燈により建設された「第二電燈局」(現:東京都中央区日本橋茅場町)というから、日本でも結構早い時期の火力発電所ではあろう。石炭の置き場や発電規模などについての発電所に冠する説明が欲しいと願うのは、少々「ディープ」過ぎるだろうか。

小島砲台の歴史
発電所の前は海峡が開ける。道脇に「小島砲台の歴史」の案内があった。案内よ内容は前述のものと少々ダブルがメモする;「小島砲台の歴史 ;瀬戸内海は古代から大陸につながる海の道であり、様々な歴史の重なりと文化の広がりを持っている。中でも来島海峡は対岸の三原水道と共に芸予海峡を通過する交易船の主要航路であった。その来島海峡の中心部に位置する小島は、周囲約3kmの美しい島である。
19世紀末になると、西欧先進国の植民地拡大競争は激しくなり、その矛先は世界各地に向けられた。帝政ロシアの場合は、冬でも凍らない港を求めて南満州に進出し、大連に総監府をおき、旅順に軍港をつくり、極東艦隊を派遣して黄海を制したので、わが国は国家存亡の危機に見舞われた。
この事態を重視した政府は露・独・仏の三国干渉後、東京湾や瀬戸内海周辺の要塞建設を積極的に進めロシア海軍の侵攻に備えた。このとき小島は「芸予要塞」に編入され、三原水道の大久野島と共に建設工事が始まった。そして中部、北部、南部砲台を構築し、司令塔、弾薬庫、火力発電所、地下兵舎などの付帯設備が相次いで建設され、明治35年(1902)完成を見た。
小島砲台の調査設計には、城塞学の権勢であった陸軍工兵中佐上原勇作があたった。上原は都城の人。明治15年、フランス砲工学校に留学、築城工学を学んだ。帰国後、陸軍士官学校で教鞭を執る傍ら、日本各地の要塞建設を指導した。のち、上原は陸軍大臣となり、元帥に叙された。
しかし、小島砲台は一度も使用される事なく、明治38年(1905)9月、日露戦争はわが国の勝利に終わった。戦争が終わると、もはや局地的な国防の必要もなくなり、小島砲台は大正13年に廃止処分された。
そしてその2年後、軍用機の爆撃演習の目標に供され、のち、波止浜町(現今治市)に払い下げられた。ここに小島砲台は28年間にわたる軍事要塞としての役割を終えた。しかし小島要塞の遺構は100年経た今も明治の面影を留めており、特に英国式工法による赤レンガの建造物は美しく、歴史の証人として見事な光彩を放っている(以下略)(小島砲台顕彰実行委員会)」とのことである。

南部砲台跡
発電所跡から南部砲台跡に向かう。ほどなく煉瓦造りの兵舎と砲座跡が見えてくる。兵舎には「地下室跡」との木標があった。砲座はその先にある。
南部砲台跡の案内によれば、「この南部砲台は小島で一番南側で規模も小さかったが、馬島から糸山間の来島海峡を防衛する配地にある。当時の日本(陸軍)は、帝政ロシアの東アジアへの侵攻に対して、国内の沿岸に防衛態勢として要塞の配備を進めた。
石垣の石は当時1個が3銭で、人夫の賃金が27銭であったと伝えられ、小島全要塞の構築費用は、当時の金で30万円といわれた。
砲台の設計図は上原勇作大佐(のちの元帥)によって作成された。整地工事は広島側の業者が請け負った労力だけでは足りず、今治側からも数百人が参加し、明治33年(1900)に終わったとされる。
大砲の据え付け工事は軍の機密を保つため、要塞司令官と地元有力者が選定した作業人員で務め、厳しい秘密厳守を課し、近辺の地元住民にも守秘を強いた。 南部砲台には、竣工当時は軽砲二門(12cm加農砲)が据え付けられていた。現在は、砲座跡と地下兵舎が残るのみである」とある、

兵舎の上は土でおおわれて、草木が茂っている。地下の掘ったのか、煉瓦造りの建物の上に土盛りをしたものか、どちらであろう。「えひめの記憶」には「無筋コンクリートのヴォールト(アーチをもとにした曲面天井)は、その上を蔽(おお)った大量の土圧に耐えて、今日でもゆるぎなく残っている」との記述があるが、これだけではどちらか判別できない。
兵舎の入口には入口に沿ってRのついた溝が掘られていた。建物内部に雨が入らないようにしたものだろう。また、入口脇には幾つもの四角の窪みが造られている。臨戦時の砲弾格納(砲側砲弾置場)のためとも言われるが、はっきりわからない。砲座部にも同じような四角の窪みが幾つもあった。砲座部の右の小丘には社が祀られる。昔は砲台指揮所か観測所があったのだろう。

(南部砲台跡から中部砲台跡へ)

弾薬庫跡
南部砲台跡から中部砲台跡に向かう。椿に囲まれた道は地元の人たちが藪となった軍用道を整備してくれたもの。昭和40年(1965)代後半とのことである。舗装されている道も軍用道路の中心部1.4m幅を後に舗装したものであり、道を囲む椿も戦後植えられた、とのことである(「えひめの記憶)。
道を進むと「左弾薬庫・右兵舎跡」の案内。まずは弾薬庫跡に向かう。「陸軍 明治32年」と刻まれた標柱も足元に残る。左右を山の斜面で囲まれた道を進むと弾薬庫の建物があった。屋根が落ちた煉瓦造りの建物は、下部にアーチ形の隙間が造られていた。湿気を防ぐための構造と言う。建物内部は崩れた屋根瓦の他は特に目立ったものはなかった。
案内によれば、「弾薬庫跡は、山の傾斜面を現在の様に掘り下げて、深い谷間のような窪地とし、周囲は山肌で護(まも)られています。
当時のモッコとスコップを用い、人力でこのような工事は並大抵のことではありませんでしたが、危険な弾薬を貯蔵するために周囲は強じんな防壁が必要でありました。
小島の地質は閃緑岩計(せんりょくがんけい)の岩石で、東側に斑れい岩が部分的にあります。何れも有色鉱物が多く岩盤が軟らかい為、要塞工事には都合がよかったであろうと想像されます。
小島砲台の備砲は28cm榴弾砲と24cm加農砲などで、主にそれらの砲弾を備蓄するための弾薬庫であったと思われます。 現在は屋根が落ちて煉瓦作りの側面が残るだけでありますが、弾薬という一番大事なしかも危険度の高い軍用品を貯蔵するために、非常に厳重な工事と完璧な設計が施されていることがわかります」とあった。

兵舎跡
弾薬庫と兵舎跡の分岐点まで戻り、兵舎跡へ。道を進むと周囲は畠となっている。農作業をしていた方に兵舎跡を訪ねると、畑地となり特に建物などは残っていないとのこと。唯一、弾薬庫と兵舎跡の分岐点から中部砲台へと上る坂道に向かって、畑地から砲台建設当時の石段が残ると。兵舎からショートカットし一直線に砲台へと向かう石段ではあったのだろう。

(中部砲台跡周辺)

中部砲台跡
椿の覆う気持ちのいい道を進む。右手には島々を繋ぐ「しまなみ海道」が一望のもと。ほどなく道は二手に分かれる。真っ直ぐ進むと「北部砲台跡」。「中部砲台跡」へは分岐点を折り返す形で坂を上る。しばらく進むと煉瓦造りの地下室。地下室の内部には部屋の周辺に沿って小さな排水溝も造られていた。円形の砲床が完全な形で残る六つの砲座はその先にあった。南部砲台跡周辺から歩いて、おおよそ15分程度だろか。
案内によると、「中部砲台跡; 小島の芸予要塞の中核をなす中部砲台跡は築造当時28cm砲6門を備砲し、また周囲には地下室4ヶ所、地下兵舎6箇所、雨水を溜めた井戸や、この水を浄化する浄化装置などが配置され、山の頂上には司令台も設けられここには遠望施設があったと言われています。

この中部砲台の28センチ砲6門は日露戦争の旅順の鶏冠山北砲台攻撃の時、日本軍は兵隊また兵隊をつぎこんでも陥落しない。そこでこの中部砲台の28センチ砲も旅順へ運ばれ攻撃を開始したので、不落といわれた旅順北砲台がついに陥落しました。この28センチ砲が旅順攻略に重大な役割をはたしたと言われています。

現在では6ヶ所の砲座跡が残るのみでありますが、ドイツのハンブルグから取り寄せられた西洋煉瓦で築かれた赤レンガの地下兵舎とともに貴重な遺物であり、当時の様子を物語っています。この砲座跡の通路の奥から山頂への階段があり、山頂には司令台跡、電話室跡があり山頂からは来島海峡や瀬戸内の島々のすばらしい展望を満喫することができます」とあった。
砲座は三カ所。ひとつの砲座にふたつの砲床があり、その連続した姿を眺めるため、砲座後方の砲座を護る後方背檣部土塁に上り、しばし時を過ごす。

地下兵舎跡
砲座から奥に進むと「浄化装置跡」、そして煉瓦造りの地下兵舎がある。地下へ医者は将校用と兵士用が分かれており、将校用のほうが少し広いように思えた。また、南部砲台のところで、地下兵舎を覆う土は、土を盛ったものか、それとも土質の柔らかな土に横穴をあけたものかはっきりしなかったが、この中部砲台跡の地下兵舎は、地下兵舎に覆い被さる土の高さからして明らかに、山腹に横穴を掘ってつくったものであると思える。

司令塔跡
地下兵舎跡の辺りに、一直線で上に上る石段がある。そこを上ると司令塔跡である。司令塔はコンクリートの土台を残すのみであるが、司令塔跡からは瀬戸の海が一望のもと。
その脇に来島海峡の説明。案内には「来島海峡 瀬戸内しまなみ海道・世界初の三連吊橋「来島海峡大橋」が架かるこの海峡は、来島村上水軍の根拠地として、また、瀬戸随一の海の難所として知られてきた。鳴門、関門海峡と並ぶ日本三大急潮は、ときに高低差4m、最高10ノットにも達し、狭く4つに分かれた水道に無数の渦潮を見ることができる。



春から夏にかけて発生する濃霧も海峡事故多発の原因となり魔の海峡と呼ばれてきた。1日1000隻以上の船舶が航行するこの海峡の中水道と西水道は国際航路に指定されている。中水道は潮の流れどおりに、西水道は潮の流れに逆らって、交互に一方通行となる世界でもここだけのルートである」とあった。

伝声管
瀬戸の海の眺めを堪能し、司令塔を下りようとすると、石垣になにやら丸い穴があり、その穴は司令塔下にある部屋に続いていた。伝声管であろう。指揮所から作戦参謀が詰めたであろう司令塔下の部屋に情報が伝えられ、更に砲座へと伝わるように伝声管がつくられていたのだろう。そういえば、砲座の所でも、それらしき丸い穴があったように思う。



(北部砲台跡周辺)

軽砲の砲座跡
中部砲台跡を離れ、北部砲台跡に向かう。上って来た道を分岐点まで戻り、小刻みにアップダウンを繰り返しながら60mほど坂を下る。分岐点から10分強で北部砲台跡に着く。
北部砲台跡の木標の脇に、「北部砲台跡 軽砲4門」と記された案内があり二つの砲座が描かれていた。軽砲4門の砲座跡ということは、ひとつの砲座に2門の軽砲が配置されていたのだろう。保存状態はいい。スロープを上り砲座を見るに、先ほど中部砲台で見た砲床に比較すると誠に可愛い砲床が残っていた。戦闘時に置いたであろう、四角の砲弾格納用の窪みもあった。




発電所跡と地下兵舎跡
二つの砲座の先に「井戸」とか「浄化装置跡」と書かれた木標で道はふたつに分かれ、左は「地下兵舎跡」と「発電所跡」、右手はさらに砲座へと続く。まずは「三点濾過式」の浄化装置、とくに井戸の跡も見られない分岐点から、左手の道を進み地下兵舎跡」と「発電所跡」に向かう。
発電所跡は南部砲台にあった発電所にくらべて結構荒れていた。「地下兵舎跡」は2連式の内部がつながっている。美しい曲線を描く「無筋コンクリートのヴォールト(アーチをもとにした曲面天井)は、その上を蔽(おお)った土の重さに堪え、兵舎を今に留めていた。

24センチ砲4門の砲座跡
分岐点に戻り先に進むと「北部砲台 24センチ砲4門」と書かれた案内があり、4つの砲座が描かれている。その脇にあった案内によると、「北部砲台跡 小島北東部に位置する北部砲台には、24cm加農砲4門と軽砲4門が配備されたほか、発電所、兵舎、浄化槽、探照灯などが造られ、明治35年(1912年)2月に竣工しました。
しかし明治37年の日露戦争時には、中部砲台の榴弾砲が外されて旅順ほかに運ばれるなど、小島砲台の武装は軽くなっていきました。そして豊予要塞の完成によりこの芸予要塞も不要となり、大正13年(1924年)に廃止となりました。 大正15年には北部砲台は陸海空軍合同の航空機による爆撃演習が行われ一部破壊されています。
要塞の廃止後、当時の波止浜町長であった<原真十朗>氏は、要塞の街への払い下げを国に熱心に請願し、この芸予要塞の歴史的価値を永遠に伝える公園としての保存公開を訴え、昭和2年に波止浜町に払い下げられました。 この当時、北部砲台の加農砲4門は、当地に残っていましたが、太平洋戦争の際に金属回収のために供出され今は砲座跡が残るのみです」とある。

□爆撃演習による破壊跡

砲座を見るに、結構破壊されている。「爆撃演による破壊跡」と書かれた木標や演習で破壊された当時の写真などもあった。演習当時の案内には「大正15年8月17日の新聞の切り抜きに、「旧芸予要塞小島砲台爆撃演習第1日は15日に開始された。陸軍立川飛行隊と海軍霞ヶ浦航空隊からかわるがわるに飛来して爆弾透過の物凄いところを見せたが、わが国で要塞の飛行機爆撃はこれまでに前例のない壮挙で海峡は危険区域に船舶の通行を禁じて、呉軍港所属の駆逐艦数席が警戒し、さながら実戦の如く又陸海軍の爆撃腕くらべとも見られ、波止場公園や来島、馬島などの島々には多くの観衆が見物に集まっていた。」
この記事は北部砲台への爆撃演習で、他の砲台は人家に近く危険であるので行われなかった。
現在の砲台跡には爆撃によって破壊された跡が残っているが当時上原元帥は飛行隊の爆撃で俺の造った要塞は破れるものかと豪語したという。直撃弾も数発当たったけれども砲台全部は破壊することが出きず、現在の残っている一部の残骸に終わっている。
爆撃は8月15日から1週間に行われた。この小島要塞は日露戦に備えて築造された芸予要塞の一翼で明治33年完成し、大正13年の軍縮で廃止され、爆撃演習に供された後、地元へ払い下げられたもので、全国で残っている砲台跡は小島だけであります」とあった。

司令塔跡
道を進み正面突き当たりにある「地下兵舎」に入った後は、兵舎入口脇から直線に上る石段を進み司令塔跡に。ここも演習による爆撃跡が残っていた。司令塔からの眺めは一部竹藪が茂り、中部砲台ほどの広がり感はなかった。
実のところ、24センチ砲の砲座手前に「探照灯跡」の案内があったので、雨上がりの泥濘で滑る坂を上り先に進んだのだが、余りの藪に引き返した。

これで北部砲台跡も一応見終えたことになる。後は島の南端にある「探照灯跡」を残すだけである。

(小島南端部)

探照灯跡
来た道を戻り、「弾薬庫・兵舎跡辺りで、島の西岸に下りる道に折れ、海岸に出る。こじんまりとした砂浜、ちょっとワイルド(?)な「海の家」を見遣りながら、海岸に沿った小径というか堤防を進み、島の南端を越え、成り行きで堤防より一筋上の道に上り、その道を島の南端へと向かうと「探照灯跡」があった。
山を掘り抜き土台を巨石で石組みし、その下にレンガ造りの地下室入口があった。内部は吹き抜けとなっており、必要に応じ探照灯を台座上部に繰り出して光を照射したとのことである。
石段を上ると山を切り開いて造られた台座部が残る。中央円形部が吹き抜け部分。ここから探照灯をせりだしていたのだろう。探照灯台座上部からは来島海峡が眼下に見えた。
案内には「探照灯跡; 石の階段と赤レンガで築かれたこの探照灯跡は、北部灯台跡の探照灯とともに芸予要塞の一翼として重要な機能であります。探照灯(サーチライト)は、夜間に海峡を往来する船舶を確認するための照明で、一説には灯火は波方町の大角鼻の岩場まで照らしたと言われています。 今は台座の施設しか残っておらず、探照灯がいつの時期に撤去されたかは資料も残ってはいません。先端の灯台(黒灯台)付近は、浅瀬で干満時には川のように流れる潮流が見られます。向かいの波止浜湾ではこの自然の干満差を利用して塩田や造船業が発達しました」とあった。

探照灯跡を離れ、桟橋に向かう。桟橋には桟橋に向かって道が続いており、途中から島の西岸へと抜ける道が分岐していた。急ぎ足で遺構を辿ったため12時55分小島発の定期船に間に合った。夕方用事があったため、少々せわしい散歩となったが、ゆったりと歩き14時30分発の定期船に乗るようにすれば、もっと何かの発見があった、かも。
桟橋で定期線を待ち受け、波止浜桟橋に戻り、跡は車で一路実家へと。

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