室戸岬突端に立つ最御崎寺を打ち終えると、次の札所第二に十五番 津照寺は5キロほど。その次の札所第二十六番金剛頂寺は津照寺から6キロ程。今回は最御崎寺から金剛頂寺迄の11キロほどの遍路道をメモする。
最御崎寺は東寺、金剛頂寺は西寺と称される。金剛頂寺の建つ行当岬は行道からとも。若き時代の空海が最御崎寺の建つ室戸岬と、金剛頂寺の建つ行当岬を西から東、東から西へと修行にあけくれた道ゆえの行道ではあろう。
この間の遍路道で印象的であったのは、最御崎寺の建つ室戸岬の台地から海岸へと下るときに眺めた室地岬西岸部に延びる緩やかな傾斜の山地。海に向かって落ち込むような室戸岬東岸と対照的な景観を呈する。
海岸に沿って続く緩やかな山地景観、時には上部面が平坦な台地とも見えるその景観は海(生ま)岸段丘であった。地質学では結構有名な場所であったようだ。 遍路道は西に続く海岸段丘の眺めを楽しみながら室戸スカイラインを海岸線まで下り、海岸線に沿って行当岬手前まで歩き、海岸段丘が海に突き出した行当岬の上部台地面に建つ金剛頂寺へと向かった。寺への段丘崖の上りも30分ほど。それほど険しくもないルートであった。 ともあれ、メモを始める。
本日のルート;
■第二十四番最御崎寺から第二十五番津照寺へ■
御崎寺・室戸スカイライン側入口>室戸スカイライン>津呂の石碑と標石>室津港>徳右衛門道標と地蔵>願船寺>第二十五番札所 津照寺(しんしょうじ)
■第二十五番札所津照寺から第二十六番金剛頂寺へ■
奈良師橋>岩谷川傍の標石>伊藤萬蔵標石を右折>向江の自然石標石>廻国塚と川村与惣太の墓>4丁石>5丁石>六地蔵と常夜灯>七丁石>第二十六番札所 金剛頂寺
最御崎寺の次の札所は第二十五番札所 津照寺。おおよそ4キロほど。旧路は消え、室戸スカイラインを大きく蛇行しながら里に下りるしか術はない。
御崎寺・室戸スカイライン側入口
本堂左手を裏に回り石段を下りると室戸スカイラインに。「四国第廿四番霊場最御崎寺」と刻まれた寺標が立つ。その先、駐車場脇に標石。「へんろ道 大正十三年」といった文字が刻まれる。
室戸スカイライン
スカイラインを下りながら室戸岬の西海岸を眺める。海岸から急勾配でせり上がり、その上部面が平坦な台地状の景観が西に続く。切り立った海食崖からなる室戸岬東側と際立ったコントラストを呈する。
●海岸(海成)段丘
国土地理院の地質図をチェックすると、海成層砂岩、砂岩泥岩互層の地層の中に、室戸岬からに西の奈半利にかけて、海岸線にそって大きな「段丘堆積物」と記された岩質の層が並ぶ。チェックすると、海岸段丘とも海成段丘とも呼ばれ、地質学では知られた地形のようである。
形成のプロセスは門外漢であるため正確なことは説明できながい、大雑把に言えば、台地上面はもともと海底にあったもの。それが室戸の沖合140kmともいわれる南海トラフの沈み込み時の「はねかえり」によって生じる地震により隆起し、その海岸部が波に浸食され平坦面が形成される。隆起した付加体の岩質が泥岩であり砂岩泥岩互層であることも浸食されやすい要因だろうか、 次いで、新たに生じた地震によって既に形成された平坦面が陸上に上位面として上がり、海岸線に新たな平坦面が形成される。素人にはわからないが、室戸岬西側には数段の海岸段丘が形成されているようだ。
それはそれでいいのだが、何故に室戸岬の東岸と西岸ではかくも景観が異なるのだろうか。岩質は共にプレート沈み込み時に隆起した付加体の泥岩であり、砂岩泥岩互層が大半である。
チェックする、と、室戸岬東岸は沖合2-3キロのところで1000mも急激に落ち込む崖となっている。一方、西岸は沖合7キロほど行っても水深は100mを越えない浅い海とのこと。これに因があるのだろうか。
隆起し波に浸食され削られた岩質も海が浅ければ堆積できようが、崖となっていれば堆積することなく深い海底へと滑り落ち込むようの思える。素人の妄想。根拠はないが自分なりに腑に落ちた。
津呂の石碑と標石
スカイラインを国道55号まで下る。遍路道は国道55号と並行した山側の道を進む。ほどなく室戸漁港(津呂)に入る。深く掘り込まれた漁港。津呂の漁港は外海と狭い水路で結ばれた如何にも人工的な船泊となっている。
旧道が津呂の漁港に入ったところに大きな石碑が2基並ぶ。右の石碑には「紀貫之朝臣泊舟之処」、左のそれには「野中兼山先生開鑿之室戸港」と刻まれる。
石碑の脇の案内には「室戸岬港(津昌港) 室戸は、土佐の国司紀貫之が任満ちて京都へ帰る時、天候悪く、十日ほど滞在したところである。
津呂港は、風や波を待つ港として野中兼山が寛永十三年(一六三六)試掘、寛文元年(一六六一)一月着工し三月に竣工させた。
これに要した人夫は三十六万五千人、黄金千百九十両を要した確工事であった。それ以前にも小笠原一学(最蔵坊)が元和四年(一六一八)願い出し開削している。 この工事は、海中に土嚢で長い堤防を架き内部を池にして海水を汲み干した後、ノミと鎚(私注;ツチ)で岩を砕いて開削「する工夫で完成した港は、東西一一〇メートル、南北十二メートル、深さは満潮時二メートルあった。古くは室戸港といわれていた。 室戸市教育委員会」とあった。
石碑のへんろ標石も立つ。手印と共に「へんろ道 大正五年」といった文字が刻まれる。
●土佐日記
土佐の国司として赴任していた紀貫之がその任期を終え、京への帰途の旅日記。承平4年(934 )12月21日から旅立ちの用意を整え、27日に出港。風待ち寄港を繰り返し、海賊に怖れながらの海路40日、その前後合わせ55日もの日数を重ね京に着いた。
『土佐日記』原文には1月12日室津の湊の記述はあり、風待ちの末1月21日に室津を出たとの記述があるが、津呂の記述はなかった。
●津呂
津呂の湊は藩政時代、捕鯨の基地であったよう。津呂の由来は瀞(とろ)と同様の「波の穏やかなさま」と「土佐地名往来(高知新聞)。以下「土佐地名往来」と記す」にある。
室津港
津呂の漁港を抜けた旧道はその先で国道55号に合流。少し進むと国道を右に逸れて旧道に入る。右手に鈴木神社、光福寺を見遣りながら道を進むと耳碕辺りで再び国道に合流するも、遍路道はすぐ左に逸れて室津の港に入る。
徳右衛門道標と地蔵
室津の港北岸を進むと突き当りに「四国第二十五番霊場 津寺」と刻まれた津照寺の寺柱石。その傍に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ西寺迄一里」。次の札所金剛頂寺(西寺)を案内する。西寺は東寺(最御崎寺)に対するものである。
道標右手には天明元年の銘がある地蔵石仏。台座には「札所」の文字が刻まれる。
願船寺
津照寺は右に折れ参道に入るが、徳右衛門道標のすぐ右手、少し奥まったところに願船寺。「最蔵坊俗名小笠原一学之碑」と刻まれた石碑が建つ。案内には「本尊は阿弥陀佛で真宗東本願寺末である。慶長年間に泉州の商人が本尊佛を安置した。
慶長九年(1604)の地震、高潮の時不思議に助かり、正徳四年(1914)願船寺となった。最蔵坊(俗名小笠原一学)は寛永七年(1630)室津港の築港に当たった。その功により今の願船寺屋敷八十四坪を与えられ現在に至っている。境内には寛永古港の礎石や最蔵坊の墓がある 室戸市教育委員会」とある。
室津港は藩主山内忠義の支援を受け、東寺(最御崎寺)の最蔵坊が、それまで岩礁を利用した港の開削をはじめ、その後野中兼山に引き継がれた。
●堀り込み港
呂津の港もそうだったが、この室津の港も道から7,8mも下にある。これだけの岩礁を彫り割った?チェックすると室戸岬の辺りは大地震のたびに土地が隆起しているようだ。最蔵坊の開削は1630年。室戸ジオパークの資料に拠れば、その後1707年の宝永地震で1.8m, 1854年の安政地震で1.2m, 1946年の昭和南海地震でも1.2mも陸地が隆起している。
ということは、最蔵坊開削時は陸地と海の差は3mから4mといったことろか。としても、地震の度に掘り込み、岩盤を掘り下げなければ船は海に浮かばないわけで、深く掘り込まれた港は先人の苦闘の証。港が違った風に見えてきた。
●一の門
参道口を進み一の門を潜る。右手には「四国霊場第二十五番 万体地蔵尊奉安殿 津照寺:、左手には「御本尊楫取地蔵大菩薩」とある。
●一木神社
左手に鳥居があり、境内に「一木権兵衛君遺烈碑」と刻まれた巨石碑が建つ。鳥居を潜った境内右手には木の覆屋の下に巨石が置かれている。
一木権兵衛正利は野中兼山の家臣。室津の港開削の命を受け、人夫延べ170万人、10万両を費やすも巨大な岩礁(釜礁)に阻まれ工事は難航。正利は人柱との願いをかけて自刃して果てる.。と、不思議にも岩礁が割れ築港が叶ったとのこと。人々は社を建て正利を祀った。
鳥居脇に置かれていた巨石は港を塞いでいた岩礁で、正利が一命を賭して砕いた「お釜巌」であった。
●大師堂
一の鳥居を潜ると右手に大師堂。左手に金毘羅大権現。参道地蔵尊の前に伊藤萬蔵既存の香台があったようだが、見逃した。
●楼門
100段近い石段を上ると竜宮門の様式の楼門がある。
●本堂
更に石段を上ると本堂が建つ。本堂から室津の港が見下ろせる。本尊は延命地蔵尊。大師がこの地を訪ね、大漁と海の安全を祈り1mほどの延命地蔵を刻み、草堂に祀ったのが寺のはじまりと伝わる。
●楫取地蔵
この延命地蔵は一の門の寺柱石にもあったように、「楫取地蔵」とも称される。その由来は、藩主山内一豊公が室戸の沖を航行中、俄かの暴風に見舞われあわや遭難。と、どこからともなく一人の小僧が現れ、楫を取り無事室津の港へと導き、いずくともなくかき消えた。
一豊公は神仏のご加護と津寺にお参り。と、そこには潮水をかぶり全身びしょ濡れとなったご本尊の延命地蔵が立っていた。
●延命地蔵は『今昔物語』にも登場
この延命地蔵は火難にも霊験あらたか、と。平安時代末、院政時代に書かれた『今昔物語』の巻十七話第六話に「地蔵菩薩 値火難 自出堂語 第六」の項がある。私でも読めるので原文をそのまま掲載する。
「今昔、土佐の国に室戸津といふ所有り。其の所に一の草堂有り。津寺と云ふ。其の堂の檐(たる)きの木尻、皆焦(こが)れたり。其の所は海の岸にして、人里遥に去て通ひ難し。
而るに、其の津に住む年老たる人、此の堂の檐の木尻の焦れたる本縁を語りて云く、
「先年に野火出来て、山野悉く焼けるに、一人の小僧、忽に出来て、此の津の人の家毎に、走り行つつ叫て云く、『津寺、只今焼け失なむとす。速に里の人、皆出て火を消すべし』と。津辺の人、皆此れを聞て、走り集り来て、津寺を見るに、堂の四面の辺りの草木、皆焼け掃へり。堂は檐の木尻焦れたりと云へども焼けず。
而るに、堂の前の庭の中に、等身の地蔵菩薩・毘沙門天、各本の堂を出でて立給へり。但し、地蔵は蓮華座に立給はず、毘沙門は鬼形を踏給はず。其の時に、津の人、皆此れを見て、涙を流して泣き悲むで云く、『火を消つ事は天王の所為也。人を催し集むる事は地蔵の方便也』と云り。此の小僧を尋ぬるに、辺(わたり)に本より然る小僧無し。然れば、此れを見聞く人、『奇異の事也』と悲び貴ぶ事限無し。其れより後、其の津を通り過る船の人、心有る道俗男女、此の寺に詣でて、其の地蔵菩薩・毘沙門天に結縁し奉らずと云ふ事無し」。
此れを思ふに、仏菩薩の利生不思議、其の員有りと云へども、正く此れは火難に値て、堂を出て、庭に立給ひ、或は小僧と現じて、人を催して、火を消さしめむとす。此れ皆有難き事也。 人、専に地蔵菩薩に仕ふべしとなむ語り伝へたるとや」と。
全体のプロットからして、上述の 楫取地蔵霊験はこの今昔物語がベ-スにあるようにも思える。
●紀貫之の風待ち
津呂でメモした如く、『土佐日記』には承平4年(934)12月27日に土佐の湊を船出し、1月12日に室津に入った記述がある。その後風待ちで待機し、1月17日に一度船を出すも悪天模様のため室津に引き返し、1月21日に再び出航したとあった。おおよそ10日室津滞在は記録上確認できた。
津照寺を打ち終えると次の札所は第二十六番金剛頂寺。距離は5キロほど。室戸市室津から室戸市浮津、室戸市元甲から室戸市元乙へと市域も変わらない。
奈良師橋
津照寺門前の徳右衛門道標脇を西に進み室津川に架かる橋を渡り、道を進むと国道55号にあたる。遍路道は国道を斜めに横切り、国道山側の旧道を進む。ほどなく奈良師橋を渡る。『土佐日記』の1月12日の項に、「十二日(とをかあまりふつか)。雨降らず。(中略)奈良志津(ならしづ)より室津(むろつ)に来ぬ」とある。奈良師は金剛頂寺建立時、奈良より招いた番匠、とも。 奈良師橋を渡ると室戸氏浮津から室戸市元甲になる。
岩谷川傍の標石
岩戸川を渡り、右手に岩戸神社を見遣り岩谷川東詰に。そこに遍路道(旧国道)から海岸線を走る国道55号に通じる道があり、道の右手に巨大な標石が立つ。「従是西寺八兆丁女人結界 右寺道 左*道 貞享二」といった文字が刻まれる。
西寺(金剛頂寺)は女人禁制の寺であったため、女性遍路は西寺に上ることなく、道を東進し行当岬の不動堂を女人堂として目指した、という。
標石の立つ場所はなんだか釈然としない。どうも元は岩谷川に架かる岩谷橋東詰にあったとの記事があった。
伊藤萬蔵標石を右折
少し進み元川に架かる元川橋を渡ると西詰に伊藤萬蔵寄進の標石が立つ。正面には「嵯峨天皇淳和天皇勅願所 第二十六番 西寺」、右側面には遍路道を示手印と共に「尾張国名古屋市塩町 伊藤萬蔵」の文字が刻まれていた。
向江の自然石標石(11時38分)
遍路道は元川に沿ってしばらく北進した後、北西に向きを変え西寺への山道取り付口のある向江の集落へ向かう。
向江の集落で右に大きく回る車道参道と分かれ、遍路道は集落の道を直進する。道の左手、ブロック塀に挟まれた自然石標石が残る。摩耗が激しく、「へんろミち **へでる」といった文字がかすかに残る。
廻国塚と川村与惣太の墓(11時55分)
集落を進み道が大きくヘアピン状に曲がる角に墓地があり、「川村与惣太の墓」の案内があり、「 『土佐一覧記』の筆者で貞佳または与三太と号し、享保五年(1720)元浦の郷氏の生まれで、儒学者の戸浦良照に学び、西寺別当職を五十二歳で辞した。
明和九年(1772)から土佐一国、東は甲浦から西は宿毛松尾坂まで巡遊し地名・故事を詠んだ三年間の行脚の記録として『土佐一覧記』を完成する。
天明七年(1787)正月十三日六十七歳で没する 室戸市教育委員会」と記される。
墓所は川村家のもののようだ。川村家は元は伯耆国の在。尼子氏の攻撃により当地に逃れ長曾我部氏に属した。与惣太は歌人でもあり、『土佐一覧記』は地名・故事を歌で綴った風土記とも称される。
墓所の端には「廻国塚」と刻まれた石碑。六部の廻国供養塔だろう。
4丁石(11時56分)・5丁石(12時1分)
川村家の墓所傍、ヘアピンカーブ左角に上部が折れた舟形地蔵丁石。「是ヨリ本堂江四丁」と刻まれる。
その先直ぐ、道の右手に舟形地蔵丁石「。「五丁」と刻まれる。
六地蔵と常夜灯(12時5分)・七丁石(12時10分)
5丁石から数分歩くと、道の左手、少し奥まったところに六基の大きな地蔵尊と常夜灯が立つ。気を付けていなければ知らず通り過ぎてしまうように思える。
六体とも個人の戒名が刻まれている。「享和二」とあるから1802に個人の菩提を弔うために建立されたものだろう。
地蔵尊像の数分先にも道の左手に七丁の舟形地蔵丁石が立っていた。
7丁石から5分ほど歩くと、金剛頂寺への車道参道に合流(12時15分)。取り付き口からおよそ30分ほどで着いた。右手は駐車場。左手には仁王門への石段が続く。金剛頂寺のある山地部は室戸市元乙地区となる。
石段下に標石(12時15分)
石段に向かう手前に丸い突き出しのある標石が立つ。手印?「施主」や「第六十三」といった文字ははっきり読めるが、「おくのみちひだり」といった文字も刻まれているようである。
仁王門
寺柱石と厄坂と刻まれた石碑の立つ石段を上ると仁王門。大正2年(1913)の再建。仁王像は昭和59年(1984)の造立。
〇徳右衛門道標と丁石
仁王門の左手に標石2基。1基は徳右衛門道標。「是ヨリ神峰迄六里」とある。もう1基は「八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。上部の欠けた地蔵と並ぶ。
本堂
仁王門から更に石段を上ると正面に本堂。弘法大師自作と伝わる薬師如来坐像が本尊として祀られる。本尊は自ら本堂の扉を開けて鎮座し、以来秘仏として誰の目にもふれたことがない、という。
霊宝殿
その右手に霊宝殿。霊宝殿には寺宝である六点の重要文化財や古美術が保存されている。
大師堂
大師堂は本堂参道に背を向けて建つ。その由来は『弘法大師行状絵詞』巻二「金剛定額」に描かれる。絵詞には、堂内で修行する大師と、その修行を妨げよう蠢く幾多の天狗、さらに楠の大樹に向かい筆をとる大師が描かれる。
楠に描かれた大師自画像の霊力により寺に棲みついた天狗は退散し足摺岬へと去ったとする。このくだりは『弘法大師天狗問答』として寺に伝わり、絵詞に描かれる大師修行中のお堂が大師堂の建つところ、とのこと。
『弘法大師行状絵詞』は京都の教王護国寺(東寺)に保存されているようだが、現在の大師堂、本堂参道に面した壁には『弘法大師天狗問答』のレリーフが架かる。 大師堂傍には空海が詠んだと言う「法性の室戸といえどわがすめば 有為の波風よせぬ日ぞなき」の歌碑も立つ。
一粒万倍釜
大師堂横にお釜が置かれた小堂がある。「一粒万倍釜」と称されるこのお釜は、大師がひと粒の米を入れて炊いたところ、万倍にも増え人々の飢えをみたした、と。往昔この寺を修行の場と定めた多くの僧の食事のためのお釜とも。
鐘楼と捕鯨八千頭精霊供養塔
大師堂対面に平成2年(2003)再建の鐘楼、その南北に捕鯨八千頭精霊供養塔が建つ。
護摩堂
鐘楼とは逆、信徒会館の西側の護摩堂があり、伊藤萬蔵寄進の香台があった。天皇の勅使を迎える勅使門跡も傍にある。
Wikipediaには「金剛頂寺は、高知県室戸市元乙に位置する寺院。龍頭山(りゅうずざん)、光明院(こうみょういん)と号す。宗派は真言宗豊山派。本尊は薬師如来。
寺伝によれば、空海(弘法大師)にとって最初の勅願寺の創建として、大同2年(807年)平城天皇の勅願により、本尊薬師如来を刻んで「金剛定寺」と号し、女人禁制の寺院であったという。 次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。
『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も10世まで勅命によって選定され、16世・覚有の頃まで寺運は栄え、多い時は180人余の修行僧がいた。
延久2年(1070年)の「金剛頂寺解案」(こんごうちょうじげあん、東寺百合文書のうち)によれば、当時の寺領は、現・室戸市のほぼ全域にわたっていた。
鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。 文明11年(1479年)には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、明治32年(1899年)の火災で大師堂・護摩堂以外の伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建である」とある。
当寺は既述のとおり西寺と呼ばれる。室戸岬突端部にある最御崎寺を東寺と称するに対するものである。所以は青年空海が修行のため、金剛頂寺と最御崎寺を西へ東へと行道したため。金剛頂寺の建つ行当岬の地名も、行道>行当への転化とされる。 因みにこの寺の建つ台地は記述の海岸段丘である。木々に阻まれ視認はむつかしいが、衛星写真で見ると室戸岬へと続く海岸段丘が見て取れる。
本日のメモはここまで。次回は金剛頂寺から次の札所神峯寺へと向かう。
最御崎寺は東寺、金剛頂寺は西寺と称される。金剛頂寺の建つ行当岬は行道からとも。若き時代の空海が最御崎寺の建つ室戸岬と、金剛頂寺の建つ行当岬を西から東、東から西へと修行にあけくれた道ゆえの行道ではあろう。
この間の遍路道で印象的であったのは、最御崎寺の建つ室戸岬の台地から海岸へと下るときに眺めた室地岬西岸部に延びる緩やかな傾斜の山地。海に向かって落ち込むような室戸岬東岸と対照的な景観を呈する。
海岸に沿って続く緩やかな山地景観、時には上部面が平坦な台地とも見えるその景観は海(生ま)岸段丘であった。地質学では結構有名な場所であったようだ。 遍路道は西に続く海岸段丘の眺めを楽しみながら室戸スカイラインを海岸線まで下り、海岸線に沿って行当岬手前まで歩き、海岸段丘が海に突き出した行当岬の上部台地面に建つ金剛頂寺へと向かった。寺への段丘崖の上りも30分ほど。それほど険しくもないルートであった。 ともあれ、メモを始める。
本日のルート;
■第二十四番最御崎寺から第二十五番津照寺へ■
御崎寺・室戸スカイライン側入口>室戸スカイライン>津呂の石碑と標石>室津港>徳右衛門道標と地蔵>願船寺>第二十五番札所 津照寺(しんしょうじ)
■第二十五番札所津照寺から第二十六番金剛頂寺へ■
奈良師橋>岩谷川傍の標石>伊藤萬蔵標石を右折>向江の自然石標石>廻国塚と川村与惣太の墓>4丁石>5丁石>六地蔵と常夜灯>七丁石>第二十六番札所 金剛頂寺
■第二十四番最御崎寺から第二十五番津照寺へ■
最御崎寺の次の札所は第二十五番札所 津照寺。おおよそ4キロほど。旧路は消え、室戸スカイラインを大きく蛇行しながら里に下りるしか術はない。
御崎寺・室戸スカイライン側入口
本堂左手を裏に回り石段を下りると室戸スカイラインに。「四国第廿四番霊場最御崎寺」と刻まれた寺標が立つ。その先、駐車場脇に標石。「へんろ道 大正十三年」といった文字が刻まれる。
室戸スカイライン
スカイラインを下りながら室戸岬の西海岸を眺める。海岸から急勾配でせり上がり、その上部面が平坦な台地状の景観が西に続く。切り立った海食崖からなる室戸岬東側と際立ったコントラストを呈する。
●海岸(海成)段丘
国土地理院の地質図をチェックすると、海成層砂岩、砂岩泥岩互層の地層の中に、室戸岬からに西の奈半利にかけて、海岸線にそって大きな「段丘堆積物」と記された岩質の層が並ぶ。チェックすると、海岸段丘とも海成段丘とも呼ばれ、地質学では知られた地形のようである。
形成のプロセスは門外漢であるため正確なことは説明できながい、大雑把に言えば、台地上面はもともと海底にあったもの。それが室戸の沖合140kmともいわれる南海トラフの沈み込み時の「はねかえり」によって生じる地震により隆起し、その海岸部が波に浸食され平坦面が形成される。隆起した付加体の岩質が泥岩であり砂岩泥岩互層であることも浸食されやすい要因だろうか、 次いで、新たに生じた地震によって既に形成された平坦面が陸上に上位面として上がり、海岸線に新たな平坦面が形成される。素人にはわからないが、室戸岬西側には数段の海岸段丘が形成されているようだ。
「国土地理院地質図」 |
隆起し波に浸食され削られた岩質も海が浅ければ堆積できようが、崖となっていれば堆積することなく深い海底へと滑り落ち込むようの思える。素人の妄想。根拠はないが自分なりに腑に落ちた。
津呂の石碑と標石
スカイラインを国道55号まで下る。遍路道は国道55号と並行した山側の道を進む。ほどなく室戸漁港(津呂)に入る。深く掘り込まれた漁港。津呂の漁港は外海と狭い水路で結ばれた如何にも人工的な船泊となっている。
旧道が津呂の漁港に入ったところに大きな石碑が2基並ぶ。右の石碑には「紀貫之朝臣泊舟之処」、左のそれには「野中兼山先生開鑿之室戸港」と刻まれる。
石碑の脇の案内には「室戸岬港(津昌港) 室戸は、土佐の国司紀貫之が任満ちて京都へ帰る時、天候悪く、十日ほど滞在したところである。
津呂港は、風や波を待つ港として野中兼山が寛永十三年(一六三六)試掘、寛文元年(一六六一)一月着工し三月に竣工させた。
これに要した人夫は三十六万五千人、黄金千百九十両を要した確工事であった。それ以前にも小笠原一学(最蔵坊)が元和四年(一六一八)願い出し開削している。 この工事は、海中に土嚢で長い堤防を架き内部を池にして海水を汲み干した後、ノミと鎚(私注;ツチ)で岩を砕いて開削「する工夫で完成した港は、東西一一〇メートル、南北十二メートル、深さは満潮時二メートルあった。古くは室戸港といわれていた。 室戸市教育委員会」とあった。
石碑のへんろ標石も立つ。手印と共に「へんろ道 大正五年」といった文字が刻まれる。
●土佐日記
土佐の国司として赴任していた紀貫之がその任期を終え、京への帰途の旅日記。承平4年(934 )12月21日から旅立ちの用意を整え、27日に出港。風待ち寄港を繰り返し、海賊に怖れながらの海路40日、その前後合わせ55日もの日数を重ね京に着いた。
『土佐日記』原文には1月12日室津の湊の記述はあり、風待ちの末1月21日に室津を出たとの記述があるが、津呂の記述はなかった。
●津呂
津呂の湊は藩政時代、捕鯨の基地であったよう。津呂の由来は瀞(とろ)と同様の「波の穏やかなさま」と「土佐地名往来(高知新聞)。以下「土佐地名往来」と記す」にある。
室津港
津呂の漁港を抜けた旧道はその先で国道55号に合流。少し進むと国道を右に逸れて旧道に入る。右手に鈴木神社、光福寺を見遣りながら道を進むと耳碕辺りで再び国道に合流するも、遍路道はすぐ左に逸れて室津の港に入る。
徳右衛門道標と地蔵
室津の港北岸を進むと突き当りに「四国第二十五番霊場 津寺」と刻まれた津照寺の寺柱石。その傍に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ西寺迄一里」。次の札所金剛頂寺(西寺)を案内する。西寺は東寺(最御崎寺)に対するものである。
道標右手には天明元年の銘がある地蔵石仏。台座には「札所」の文字が刻まれる。
願船寺
津照寺は右に折れ参道に入るが、徳右衛門道標のすぐ右手、少し奥まったところに願船寺。「最蔵坊俗名小笠原一学之碑」と刻まれた石碑が建つ。案内には「本尊は阿弥陀佛で真宗東本願寺末である。慶長年間に泉州の商人が本尊佛を安置した。
慶長九年(1604)の地震、高潮の時不思議に助かり、正徳四年(1914)願船寺となった。最蔵坊(俗名小笠原一学)は寛永七年(1630)室津港の築港に当たった。その功により今の願船寺屋敷八十四坪を与えられ現在に至っている。境内には寛永古港の礎石や最蔵坊の墓がある 室戸市教育委員会」とある。
室津港は藩主山内忠義の支援を受け、東寺(最御崎寺)の最蔵坊が、それまで岩礁を利用した港の開削をはじめ、その後野中兼山に引き継がれた。
●堀り込み港
呂津の港もそうだったが、この室津の港も道から7,8mも下にある。これだけの岩礁を彫り割った?チェックすると室戸岬の辺りは大地震のたびに土地が隆起しているようだ。最蔵坊の開削は1630年。室戸ジオパークの資料に拠れば、その後1707年の宝永地震で1.8m, 1854年の安政地震で1.2m, 1946年の昭和南海地震でも1.2mも陸地が隆起している。
ということは、最蔵坊開削時は陸地と海の差は3mから4mといったことろか。としても、地震の度に掘り込み、岩盤を掘り下げなければ船は海に浮かばないわけで、深く掘り込まれた港は先人の苦闘の証。港が違った風に見えてきた。
第二十五番札所 津照寺(しんしょうじ)
●一の門
参道口を進み一の門を潜る。右手には「四国霊場第二十五番 万体地蔵尊奉安殿 津照寺:、左手には「御本尊楫取地蔵大菩薩」とある。
●一木神社
左手に鳥居があり、境内に「一木権兵衛君遺烈碑」と刻まれた巨石碑が建つ。鳥居を潜った境内右手には木の覆屋の下に巨石が置かれている。
一木権兵衛正利は野中兼山の家臣。室津の港開削の命を受け、人夫延べ170万人、10万両を費やすも巨大な岩礁(釜礁)に阻まれ工事は難航。正利は人柱との願いをかけて自刃して果てる.。と、不思議にも岩礁が割れ築港が叶ったとのこと。人々は社を建て正利を祀った。
鳥居脇に置かれていた巨石は港を塞いでいた岩礁で、正利が一命を賭して砕いた「お釜巌」であった。
●大師堂
一の鳥居を潜ると右手に大師堂。左手に金毘羅大権現。参道地蔵尊の前に伊藤萬蔵既存の香台があったようだが、見逃した。
●楼門
100段近い石段を上ると竜宮門の様式の楼門がある。
●本堂
更に石段を上ると本堂が建つ。本堂から室津の港が見下ろせる。本尊は延命地蔵尊。大師がこの地を訪ね、大漁と海の安全を祈り1mほどの延命地蔵を刻み、草堂に祀ったのが寺のはじまりと伝わる。
●楫取地蔵
この延命地蔵は一の門の寺柱石にもあったように、「楫取地蔵」とも称される。その由来は、藩主山内一豊公が室戸の沖を航行中、俄かの暴風に見舞われあわや遭難。と、どこからともなく一人の小僧が現れ、楫を取り無事室津の港へと導き、いずくともなくかき消えた。
一豊公は神仏のご加護と津寺にお参り。と、そこには潮水をかぶり全身びしょ濡れとなったご本尊の延命地蔵が立っていた。
●延命地蔵は『今昔物語』にも登場
この延命地蔵は火難にも霊験あらたか、と。平安時代末、院政時代に書かれた『今昔物語』の巻十七話第六話に「地蔵菩薩 値火難 自出堂語 第六」の項がある。私でも読めるので原文をそのまま掲載する。
「今昔、土佐の国に室戸津といふ所有り。其の所に一の草堂有り。津寺と云ふ。其の堂の檐(たる)きの木尻、皆焦(こが)れたり。其の所は海の岸にして、人里遥に去て通ひ難し。
而るに、其の津に住む年老たる人、此の堂の檐の木尻の焦れたる本縁を語りて云く、
「先年に野火出来て、山野悉く焼けるに、一人の小僧、忽に出来て、此の津の人の家毎に、走り行つつ叫て云く、『津寺、只今焼け失なむとす。速に里の人、皆出て火を消すべし』と。津辺の人、皆此れを聞て、走り集り来て、津寺を見るに、堂の四面の辺りの草木、皆焼け掃へり。堂は檐の木尻焦れたりと云へども焼けず。
而るに、堂の前の庭の中に、等身の地蔵菩薩・毘沙門天、各本の堂を出でて立給へり。但し、地蔵は蓮華座に立給はず、毘沙門は鬼形を踏給はず。其の時に、津の人、皆此れを見て、涙を流して泣き悲むで云く、『火を消つ事は天王の所為也。人を催し集むる事は地蔵の方便也』と云り。此の小僧を尋ぬるに、辺(わたり)に本より然る小僧無し。然れば、此れを見聞く人、『奇異の事也』と悲び貴ぶ事限無し。其れより後、其の津を通り過る船の人、心有る道俗男女、此の寺に詣でて、其の地蔵菩薩・毘沙門天に結縁し奉らずと云ふ事無し」。
此れを思ふに、仏菩薩の利生不思議、其の員有りと云へども、正く此れは火難に値て、堂を出て、庭に立給ひ、或は小僧と現じて、人を催して、火を消さしめむとす。此れ皆有難き事也。 人、専に地蔵菩薩に仕ふべしとなむ語り伝へたるとや」と。
全体のプロットからして、上述の 楫取地蔵霊験はこの今昔物語がベ-スにあるようにも思える。
●紀貫之の風待ち
津呂でメモした如く、『土佐日記』には承平4年(934)12月27日に土佐の湊を船出し、1月12日に室津に入った記述がある。その後風待ちで待機し、1月17日に一度船を出すも悪天模様のため室津に引き返し、1月21日に再び出航したとあった。おおよそ10日室津滞在は記録上確認できた。
■第二十五番札所津照寺から第二十六番金剛頂寺へ■
津照寺を打ち終えると次の札所は第二十六番金剛頂寺。距離は5キロほど。室戸市室津から室戸市浮津、室戸市元甲から室戸市元乙へと市域も変わらない。
奈良師橋
津照寺門前の徳右衛門道標脇を西に進み室津川に架かる橋を渡り、道を進むと国道55号にあたる。遍路道は国道を斜めに横切り、国道山側の旧道を進む。ほどなく奈良師橋を渡る。『土佐日記』の1月12日の項に、「十二日(とをかあまりふつか)。雨降らず。(中略)奈良志津(ならしづ)より室津(むろつ)に来ぬ」とある。奈良師は金剛頂寺建立時、奈良より招いた番匠、とも。 奈良師橋を渡ると室戸氏浮津から室戸市元甲になる。
岩谷川傍の標石
岩戸川を渡り、右手に岩戸神社を見遣り岩谷川東詰に。そこに遍路道(旧国道)から海岸線を走る国道55号に通じる道があり、道の右手に巨大な標石が立つ。「従是西寺八兆丁女人結界 右寺道 左*道 貞享二」といった文字が刻まれる。
西寺(金剛頂寺)は女人禁制の寺であったため、女性遍路は西寺に上ることなく、道を東進し行当岬の不動堂を女人堂として目指した、という。
標石の立つ場所はなんだか釈然としない。どうも元は岩谷川に架かる岩谷橋東詰にあったとの記事があった。
〇金剛頂寺道〇
伊藤萬蔵標石を右折
少し進み元川に架かる元川橋を渡ると西詰に伊藤萬蔵寄進の標石が立つ。正面には「嵯峨天皇淳和天皇勅願所 第二十六番 西寺」、右側面には遍路道を示手印と共に「尾張国名古屋市塩町 伊藤萬蔵」の文字が刻まれていた。
向江の自然石標石(11時38分)
遍路道は元川に沿ってしばらく北進した後、北西に向きを変え西寺への山道取り付口のある向江の集落へ向かう。
向江の集落で右に大きく回る車道参道と分かれ、遍路道は集落の道を直進する。道の左手、ブロック塀に挟まれた自然石標石が残る。摩耗が激しく、「へんろミち **へでる」といった文字がかすかに残る。
廻国塚と川村与惣太の墓(11時55分)
集落を進み道が大きくヘアピン状に曲がる角に墓地があり、「川村与惣太の墓」の案内があり、「 『土佐一覧記』の筆者で貞佳または与三太と号し、享保五年(1720)元浦の郷氏の生まれで、儒学者の戸浦良照に学び、西寺別当職を五十二歳で辞した。
明和九年(1772)から土佐一国、東は甲浦から西は宿毛松尾坂まで巡遊し地名・故事を詠んだ三年間の行脚の記録として『土佐一覧記』を完成する。
天明七年(1787)正月十三日六十七歳で没する 室戸市教育委員会」と記される。
墓所は川村家のもののようだ。川村家は元は伯耆国の在。尼子氏の攻撃により当地に逃れ長曾我部氏に属した。与惣太は歌人でもあり、『土佐一覧記』は地名・故事を歌で綴った風土記とも称される。
墓所の端には「廻国塚」と刻まれた石碑。六部の廻国供養塔だろう。
4丁石(11時56分)・5丁石(12時1分)
川村家の墓所傍、ヘアピンカーブ左角に上部が折れた舟形地蔵丁石。「是ヨリ本堂江四丁」と刻まれる。
その先直ぐ、道の右手に舟形地蔵丁石「。「五丁」と刻まれる。
六地蔵と常夜灯(12時5分)・七丁石(12時10分)
5丁石から数分歩くと、道の左手、少し奥まったところに六基の大きな地蔵尊と常夜灯が立つ。気を付けていなければ知らず通り過ぎてしまうように思える。
六体とも個人の戒名が刻まれている。「享和二」とあるから1802に個人の菩提を弔うために建立されたものだろう。
地蔵尊像の数分先にも道の左手に七丁の舟形地蔵丁石が立っていた。
第二十六番札所 金剛頂寺
7丁石から5分ほど歩くと、金剛頂寺への車道参道に合流(12時15分)。取り付き口からおよそ30分ほどで着いた。右手は駐車場。左手には仁王門への石段が続く。金剛頂寺のある山地部は室戸市元乙地区となる。
石段下に標石(12時15分)
石段に向かう手前に丸い突き出しのある標石が立つ。手印?「施主」や「第六十三」といった文字ははっきり読めるが、「おくのみちひだり」といった文字も刻まれているようである。
仁王門
寺柱石と厄坂と刻まれた石碑の立つ石段を上ると仁王門。大正2年(1913)の再建。仁王像は昭和59年(1984)の造立。
〇徳右衛門道標と丁石
仁王門の左手に標石2基。1基は徳右衛門道標。「是ヨリ神峰迄六里」とある。もう1基は「八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。上部の欠けた地蔵と並ぶ。
仁王門から更に石段を上ると正面に本堂。弘法大師自作と伝わる薬師如来坐像が本尊として祀られる。本尊は自ら本堂の扉を開けて鎮座し、以来秘仏として誰の目にもふれたことがない、という。
霊宝殿
その右手に霊宝殿。霊宝殿には寺宝である六点の重要文化財や古美術が保存されている。
大師堂
大師堂は本堂参道に背を向けて建つ。その由来は『弘法大師行状絵詞』巻二「金剛定額」に描かれる。絵詞には、堂内で修行する大師と、その修行を妨げよう蠢く幾多の天狗、さらに楠の大樹に向かい筆をとる大師が描かれる。
楠に描かれた大師自画像の霊力により寺に棲みついた天狗は退散し足摺岬へと去ったとする。このくだりは『弘法大師天狗問答』として寺に伝わり、絵詞に描かれる大師修行中のお堂が大師堂の建つところ、とのこと。
『弘法大師行状絵詞』は京都の教王護国寺(東寺)に保存されているようだが、現在の大師堂、本堂参道に面した壁には『弘法大師天狗問答』のレリーフが架かる。 大師堂傍には空海が詠んだと言う「法性の室戸といえどわがすめば 有為の波風よせぬ日ぞなき」の歌碑も立つ。
一粒万倍釜
大師堂横にお釜が置かれた小堂がある。「一粒万倍釜」と称されるこのお釜は、大師がひと粒の米を入れて炊いたところ、万倍にも増え人々の飢えをみたした、と。往昔この寺を修行の場と定めた多くの僧の食事のためのお釜とも。
鐘楼と捕鯨八千頭精霊供養塔
大師堂対面に平成2年(2003)再建の鐘楼、その南北に捕鯨八千頭精霊供養塔が建つ。
護摩堂
鐘楼とは逆、信徒会館の西側の護摩堂があり、伊藤萬蔵寄進の香台があった。天皇の勅使を迎える勅使門跡も傍にある。
Wikipediaには「金剛頂寺は、高知県室戸市元乙に位置する寺院。龍頭山(りゅうずざん)、光明院(こうみょういん)と号す。宗派は真言宗豊山派。本尊は薬師如来。
寺伝によれば、空海(弘法大師)にとって最初の勅願寺の創建として、大同2年(807年)平城天皇の勅願により、本尊薬師如来を刻んで「金剛定寺」と号し、女人禁制の寺院であったという。 次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。
『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も10世まで勅命によって選定され、16世・覚有の頃まで寺運は栄え、多い時は180人余の修行僧がいた。
延久2年(1070年)の「金剛頂寺解案」(こんごうちょうじげあん、東寺百合文書のうち)によれば、当時の寺領は、現・室戸市のほぼ全域にわたっていた。
鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。 文明11年(1479年)には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、明治32年(1899年)の火災で大師堂・護摩堂以外の伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建である」とある。
当寺は既述のとおり西寺と呼ばれる。室戸岬突端部にある最御崎寺を東寺と称するに対するものである。所以は青年空海が修行のため、金剛頂寺と最御崎寺を西へ東へと行道したため。金剛頂寺の建つ行当岬の地名も、行道>行当への転化とされる。 因みにこの寺の建つ台地は記述の海岸段丘である。木々に阻まれ視認はむつかしいが、衛星写真で見ると室戸岬へと続く海岸段丘が見て取れる。
本日のメモはここまで。次回は金剛頂寺から次の札所神峯寺へと向かう。
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