五日市・秋川の古城跡を巡る

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秋川の谷合に残る古城を訪ねる。檜原城跡と戸倉城跡である。戸倉城は大石定久の隠居地、と。大石氏とは滝山城を北条氏照に譲ったあの大石定久、である。また、戸倉から少し秋川を上り、檜原にも城があるという。戸倉城と同じく同じく甲斐・武田への押さえためにつくられた城。あまり聞いたこともないお城。それぞれ少し離れており、また、途中はバス道であり、歩道があるわけでもないのでバスを利用。城跡の残る山道に取りつくのを本日のメーンイベントとする。 

 





本日のコース: 本宿役場バス停・口留番所 > 吉祥寺 > 檜原城跡 > 戸倉バス停 > 光厳寺 > 戸倉城跡 > JR五日市線・武蔵五日市

JR五日市線・武蔵五日市

JR中央線立川からJR青梅線、JR五日市線と進み武蔵五日市下車。予想外のモダンな駅舎。駅前で檜原城跡への最寄りの地・檜原村役場に行くバスを探す。駅前というかバス停近くに観光案内所。尋ねる。数馬行き、藤倉行き、小岩方面行きのどれかに乗り、本宿役場前バス停で下りればいいとのこと。数馬は秋川に沿って、檜原街道を進み武蔵・甲斐の国境・浅間峠手前を三頭山の裏手・都民の森方面へ向うルート。小岩は北秋川に沿って205号線を進む ルート。藤倉も同じルートで小岩のもっと先。


吉祥寺
小岩行きのバスに乗り、本宿役場前バス停で下車。北秋川と南秋川が合流し秋川の流れとなる交差地点に聳える山が檜原城跡。登山口を探す。あれこれ歩くがそれといった案内がない。交差点から檜原街道を少し南淺川によったところにお寺・吉祥寺。 臨済宗建長寺派の古刹で創建は応安6年(1373年)。なんとなくお寺から城山への道があるのでは、と見当をつけて境内に。本堂は工事中。土蔵に「三ツ鱗」。これって北条氏の家紋。北条ゆかり、ってことはひょっとしてこのお寺は檜原城主の菩提寺か。ということは、城につながる道があるに違いない、との推論。本堂横の山肌に「十三仏巡りの参道」。
とりあえず登る。不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閃(しゅく)如来、と参道というか山道に佇む仏様に手を合わせながらひたすら登る。結構きつい。時々仏様への参拝道は行き止まりとなる。これも修行(?)と分岐点まで引き返し、気を取り直しさらに登る。道の分岐は複雑。が、なんとなくすべてが山頂に向っているよう。息を切らしながら尾根に到着。

檜原城跡

尾根道を歩く。2箇所ほど比較的広い平坦なスペース。広さから見て、主要な曲輪への攻撃を防ぐ小さな曲輪・腰曲輪だろう。尾根の稜線にある2箇所の腰曲輪の間には空堀・堀切があり、腰曲輪の間の通路を遮断している。通路は細い土橋でつながる。頂上地点に13番目の仏さま虚空蔵菩薩が。このあたりが主郭 (曲輪)なのだろう。標高450m余り。30分程度で上り終えた。主郭の南には急斜面を下る尾根道。向いに見える最高峰への鞍部なのだろうが、いかにも危険そうでパス。しばし休憩。見晴らしはそれほど良くない。が、それなりの眺め。本宿の集落と戸倉方面が見渡せる。下りは幾筋もある道を適当に下る。急斜面を垂直に掘った空堀・竪堀(たてぼり)らしきものを見ながら、麓へと下りる。
檜原城は武州南一揆・平山氏が築いた城、というか砦。この場合の「一揆」は通常使われる一揆とは異なり、地域自衛共同体といったもの。通常は農耕に従事し、一旦事あれば「南一揆」の旗を掲げ、武器をもち戦いに赴く農耕武士集団。実力においても室町期に秋川の谷筋を守った強力な自衛集団でもあった。平山氏は戦国時代、北条氏に従属。武蔵と甲斐をつなぐ唯一の街道であった浅間峠からの道筋の戦略的抑えとして檜原の地に城を構え、甲斐・武田氏に備える。
永禄十二(1569)年の武田軍侵攻は、この街道ではなく本隊が碓氷峠越え、小山田信茂率いる別働隊は小仏峠越えで侵攻。結局のところ武田軍と檜原城の攻防戦はないままで終わる。天正十八(1590)年の小田原の役では、八王子城が1日で落城。檜原城主・平山氏重は八王子城代・横地監物ほか敗残兵を収容。前田利家、上杉景勝らの軍勢と干戈を交える。が、衆寡敵せず、七月十二日に落城、平山氏は城下で自害。家紋が北条と同じ「三ツ鱗」であることからわかるように、平山氏重は北条氏に重用されたのであろう。戦うことなく降伏した武将の多いなか、北条家に殉じた数少ない武将・土豪のひとりである。その後この城は徳川家康の関東入封と同時に廃城となる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


口留番所
バス停に。前に 神社と見まごう趣き深い民家。表札には「吉野」さんと。このあたり、吉野街道とか吉野梅郷といった地名も多く、由緒ある家柄なのだろう。調べてみた。口留番所とのこと。甲州方面から檜原を通って武蔵国へ入る場合、秋川の橘橋を渡る。で、この橋の袂に設けられたのが口留番所。『武蔵名勝図会』によると「関の険固なることは類まれなる」とある。余程厳しかったのだろう。番所の役人は地元の名主。八王子の十八代官の一人から代々委任されていた。その名主宅が吉野家、ということだった。

光厳寺

バスに乗り、戸倉城跡に戻る。1時間に1本程度のサービス。戸倉までの道は、行きのバスで見た限りでは、快適な散歩道とは言い難い。歩道があるわけでなく、車道を3キロほど恐る恐る歩くことになる。バスに乗るのが正解だろう。
戸倉で下車。戸倉城跡のある城山を確認。秋川渓谷の入口に聳え立っている。登山口を捜す。バス停近くに「戸倉小学校・光厳寺」の標識。檜原城跡の吉祥寺ではないが、お寺からのアプローチを期待して寺に向う。光厳寺に。臨済宗建長寺派の古刹。「足利二ツ引両」の家紋。足利尊氏が創建したと伝えられている。ちな みに新田家は横線が一本の「一ツ引両」。門前の急斜面に樹齢 400年もの山桜。幹周り 533センチ、枝は東西に25メートル・南北に80メートルのび、高さは22メートル。東京都下三大巨樹桜のひとつ。

戸倉城跡
お寺左手に「城山」への案内。竹林の 中を進み山道に。最初はゆったりとし上り・下り。尾根に向かう。「掘切り」を越えると尾根道に。最初はゆったり。左手は断崖。少々怖い。次第に険しくなる。殆ど直登に近いのぼり道。左手は断崖。足がすくむ。頂上付近は切立った崖・岩肌。左手は断崖。高所が苦手なわが身にとしては。、腰を浮かすのも憚られる。岩肌にすがるように登る。主郭のある頂上に。小規模な削平地。櫓台跡(武器の倉庫)とも言われている。とはいうものの、スペースとしては狼煙あげる台があった程度、ではないかとも思う。
休憩。少々怖かった。が、頂上からの眺めは素晴らしい。絶景。五日市の市街まで一望のもと。檜原城からの烽火中継点としては理想的立地。休憩も終え下ることに。この西峰から東峰に尾根道が続いているようなのだが、如何せん、怖気心が先に立つ。登ってきた道を再び下りる。谷は極力見ないように、じっくりと腰を下ろし、というか岩にへばりつくようにゆっくり下りる。岩場を越え、右手の崖を見ないように尾根道を下る。 尾根道から斜面に降りる堀切りに到着。大安心。光厳寺まで戻り戸倉城跡登り終了。

戸倉城はもともと秋川渓谷周辺の武州南一揆の有力土豪・小宮氏の居城といわれる。で、後に滝山城を養子北条氏照に「渋々」譲った大石定久の隠居地に。とはいうものの、この大石氏、完全に北条氏に従ったわけではなく、青梅の谷に勢力を張る三田綱秀などと誼を通じ、北条に対する反抗の機会を伺っていたとも。定久のその後は定かではなく、八王子周辺の野猿峠で割腹したとか、 この地で天寿を全うしたとか諸説。天正十八年の小田原の役の頃は、大石氏は八王子衆として北条の家臣団に組み入れられ八王子城で戦ったといわれている。南一揆衆を一躍有名にしたのは、足利尊氏が武蔵野合戦で敗れたとき。南朝方の新田義宗軍に敗れ、羽村と拝島の中間点である牛浜の地から秋川を渡河。この秋川 の谷筋に逃げ込み、南一揆の諸将に匿われる。6日後には南一揆の諸将とともに府中に進撃。府中・国分寺・深大寺のあたりで両軍激突。南一揆が足利軍の戦陣で活躍し新田軍を追討した、と。世に言う金井原の合戦である。
戸倉バス停から五日市駅に戻り、本日の秋川古城跡散歩を終了。歩いた距離はそれほどない。が、450m程度の山登り、しかも結構厳しい直登、急峻な崖道と、散歩とは少々言い難いコースではあった。  

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