東京下町散歩 中央区 (2) :月島から築地へ

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(佃島・月島)から(明石町・築地)へ
下町散歩第二回は中央区の佃島・月島を巡り、隅田川にかかる勝鬨橋を渡って築地に戻る。江戸時代の絵図を見ると、霊岸島の南、隅田川の河口に小さな島・三角州がある。石川島、佃島と描いてある。住吉社を囲むほんの小さな島である。現在の月島あたりは何も無い。月島地区が埋め立てられたのは明治になってからのこと、である。
前回の散歩で、「江戸港(湊)発祥跡」に出合った。佃島の対岸の地である。このあたりは江戸期の海上交通の要衝であったのだろう。佃の漁師が、徳川家との結びつきの強さのゆえ、漁だけでなく、海上交通の「見張り」役でもあった、といった「それらしき」話も、妙に真実味を帯びてくる。ともあれ、散歩に出かける。



本日のルート:
中央大橋から佃島 > 佃公園・「石川島人足寄場」・「石川島灯台跡」 > 住吉神社 > 佃の渡し跡 > 佃大橋 > 月島西仲通の「もんじゃ焼き」 > 勝鬨橋 > (築地) > 聖路加ガーデン > アメリカ公使館跡 > 明石町・「築地居留地跡」 > 聖路加国際病院 > 聖路加看護大 > 中央区郷土資料館天文館 > 慶應義塾開塾の地 > 蘭学事始の地 > シーボルト銅像 > 築地川公園 > 芥川龍之介生誕の地 > 浅野内匠頭邸跡 > 築地本願寺 > 新大橋通り・晴海通り・築地4丁目 > 晴海通り・「日比谷線東銀座駅」

中央大橋から佃島に
。中央大橋を渡り佃島に。現在このあたりは佃島、月島地区といった埋め立て地からなっている。おぼろげな記憶によれば中央大橋を渡ったあたりには昔、IHI石川島播磨重工業の工場があったような気がする。そのあたりには現在、大川端リバーサイドという高層マンション群が立っている。尾張屋版江戸切絵図と照らし合わせてみた。稲荷橋から続く鉄砲洲・船松町の沖合に石川島、佃島が描かれている。石川島は元々、鎧島と呼ばれていた。のちに佃島の一部になるが、幕府船手頭石川大隈守正次が徳川家光よりこの地を拝領し、石川島と呼ばれていた、とか。


佃公園に「石川島人足寄場」と「石川島灯台跡」

中央大橋を渡り大川端リバーサイド脇を右折、公園を隅田川に沿って歩く。佃公園に石川島灯台跡。1866(慶応2年)、人足寄場奉行の命により、人足たちの手でつくられた常夜灯。石川島人足寄場とは、江戸の無宿者を収容し職業訓練を行う更正施設。寛政2年というから1790年、長谷川平蔵の建言を入れ、老中・松平定信が設置したもの。収容人員は多いときで600名。大工、鍛冶などの訓練を受ける。労賃の3分の一は出所時に自立資金として積み立てられていた、とか。結構先進的。
長谷川平蔵って、『鬼平犯科帳』の鬼平。火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官。火付盗賊改とは町奉行から独立した警察組織。町奉行の管轄外である武家・寺社地や江戸市外に対して捜査権を持つ、一種の特捜隊といったところ。

住吉神社
佃公園を進む。きれいに整備された公園。昔の掘入といった雰囲気の水路,船溜り、というか溝渠にそって歩く。佃小橋を渡り、民家の軒先を進み住吉神社に。佃島は隅田川の河口にできた寄洲。江戸時代初期に、大阪・摂津西成郡佃島から漁民がこの地に移り住んだことからこの名がついた。
その由来についてもあれこれ諸説あり。で、住吉神社の由来書をメモすることにする。「神功皇后が三韓征伐よりの帰途、摂津国西成郡田蓑島(現在の大阪市西淀川区佃)で住吉三神を奉斎された。これが大阪佃の田蓑神社の創祀である。天正14年(1586)、本能寺の変に際して、堺に滞在していた徳川家康は、摂津の多田の廟(池田市の多田神社)を参拝することを名目に三河への脱出を計った。この時、神埼川で進退が取れなくなった家康一行に対し、田蓑島の庄屋・森孫右衛門が漁師たちに声をかけて舟を集め、無事渡ることができた。これによって家康と田蓑島の漁民のつながりが深まり、家康が漁業だけではなく田も作れと命じたことから、佃と名を改めた。
天正18年(1590)、家康が江戸に移った際、森孫右衛門を筆頭とする佃の漁民30余名と田蓑神社の神職・枚岡権太夫好次も江戸に移住した。さらに寛永 7年(1630)、幕府より鉄砲洲の向かいにある干潟を拝領して島を築いた。竣工したのは正保2年(1645)、故郷の名にちなんで佃島と名づけた。翌年、ここに鎮守として田蓑神社の御分霊と東照権現を奉斎したのが佃島の住吉神社の起こりである。佃島の漁民はもとより、海上安全の守護神として広く崇敬された。
中央区指定文化財の水盤舎は天保12年(1841)年に寄進されたもので、欄間には当時の佃島近辺の情景を描いた浮彫が配されている。また、正面の鳥居に掲げられた陶製の扁額は有栖川宮熾仁親王の書で、同じく区の文化財に指定されている」と。
家康が漁業だけではなく田も作れと命じたことから、佃と名を改めた、とある。佃=人偏+田=人が田をつくる、ということ。埋め立てでも、開墾でも、ともあれ人が荒地を開いて田を作れ、ということ、か。この佃、って日本人がつくった漢字。言いえて妙なる造語である。
佃の渡し跡堤防近くで「佃の渡し跡」らしき雰囲気を感じ、水路にもどり尾崎波除稲荷横を進む。こじんまりした神社。由来もない。波除稲荷って築地にもある。埋め立て工事が難航を極めていたとき、波間にお稲荷さんが。それをお祀りしたところ、波もぴたりとおさまった、とか。


月島西仲通の「もんじゃ焼き
佃大橋からの道筋を越え、商店街に。月島西仲通。右を見ても左を見ても「もんじゃ」。月島って明治から昭和にかけて埋め立てられた土地。隅田川が運んできた土砂の堆積により、このあたり一帯は浅瀬。船の運航もままならなくなっていった。築島=つきじま=月島、島を築く「築島」が「月島」となった理由ははっきりしない。が、宝井其角の句

「名月ここ住吉の佃島」にあるように、月見の名所であった、のであろうか。定かならず。
ちなみに、「もんじゃ焼き」って「文字焼き」からと言われる。鉄板の上に水で溶いた小麦粉で文字を書き遊びながら、親子団欒、といった風情である。真偽のほどは定かではないが、それはそれとしていい話。

勝鬨橋を渡り明石町・「築地居留地跡」に
月島川を越え晴海通りに。北に向かい隅田川にかかる勝鬨橋を渡り、橋西詰めに。勝鬨の由来は、明治・日露戦争の戦勝を祝った「勝鬨」から。昔は中央部分が開閉していた、とのことである。
晴海通りを右に折れ築地7丁目から明石町に入り聖路加ガーデンに。「築地居留地跡の碑」が。概略をメモする。「安政5年の日米修好条約の結果、江戸の地に外国人のための居留地をつくることを義務付けられた。幕府はこの地を居留地と定め明治元年、築地居留地が完成した。築地居留地は他の居留地とは異なり、商館はそれほど多くなく、公使館・領事館のほか宣教師・医師・教師といった智識人が多く住み協会や学校を開いて教育を行っていた。このため地雉居留地は日本の近代化に大きく影響を与えた地域となっていた」、と。
この地に、アメリカ公使館跡、立教学院発祥の地、女学院発祥の地、雙葉学園発祥の地、それからいまもこの地にある聖路加病院、といった施設のある・あった理由がやっとわかった。明治32年に条約改正とともに居留地は廃止された。ちなみに、太平洋戦争の東京空襲のときも、アメリカ聖公会・トライスターのつくった聖路加病院は爆撃目標からはずされていたとか、いないとか。聖路加ガーデンの東に塩瀬総本家。650年の歴史をもつ和菓子屋。

中央区郷土資料館天文館
聖路加看護大学の西にある中央区保健所等複合施設6階に中央区の郷土資料館天文館。中央区の埋め立ての歴史など結構参考になった。先にすすむと慶應義塾発祥の地、それと並んで「蘭学事始の碑」。この地はもと豊前中津藩奥平家の中屋敷があった。藩医前野良沢はこの屋敷内で『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳作業をおこなっていた。また、少し時代は下るが、中津藩士である福沢諭吉は、慶應義塾のはじまりである蘭学塾をこの地に開き、芝に移るまでここで講義をしていた。ちなみに地下鉄築地駅の近く、築地2丁目に甫州屋敷跡もある。蘭学医。前野良沢、杉田玄白とともに、『解体新書』の翻訳をおこなった。
築地川公園脇に「芥川龍之介生誕の地の碑」や「浅野内匠頭邸跡」
聖路加看護大学と築地川公園の隅に芥川龍之介生誕の地の碑。ちなみに、巣鴨の染井霊園近くの慈眼寺には芥川龍之介お墓があった。直ぐ横に「浅野内匠頭邸跡」播州赤穂藩・浅野家の江戸上屋敷跡。敷地面積は約2万9千があったという。元禄14年(1701)浅野内匠頭長矩の起こした松の廊下刃傷事件により、この江戸屋敷・領地は没収。赤穂藩浅野家は断絶となった。上屋敷とは、大名とその家族、および江戸詰めの家臣が住むところ。幕府から拝領の地である。中屋敷は嫡子および隠居、また参勤交代で江戸に出てきた家臣が住むところ。下屋敷は別邸であったり、畑地であったり、海岸近くでは荷揚地であったりした、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


築地川支流跡から晴海通り・「日比谷線東銀座駅」に
築地川公園沿って築地本願寺方面に。この川筋は築地川の支流。本流は現在では首都高速の走る道筋の上を三吉橋から南に、亀井橋、祝橋、万年橋、采女橋、千代橋、新尾張橋、そして南門橋で浜離宮公園の築地川の堀に。支流は三吉橋から東に築地橋、入船橋。入船橋で直角に曲がり、暁橋、境橋、そして築地本願寺裏手の備前橋へと続く。もちろん水など流れているわけではない。備前橋もほとんど駐車場といった場所ではある。
川筋が埋め立てられた時期はいくつかある、ひとつは戦災、空襲・爆撃跡の瓦礫の片付けに川筋を埋めた。もうひとつは、東京オリンピックの時期。土地買収が困難なため川筋を埋めその上に高速道路を通した。もちろん河川の汚れを『蓋』をすることによって解決しようとした時期。こういったものだろう。ともあれこの中央区の川筋、ほとんど埋め立てられている。上の三つのどれかにはあてはまる、かとも。
築地本願寺前の新大橋通を少し浜離宮方面に進み晴海通りとの交差点・築地4丁目に。交差点を右折し、晴海通りを銀座方面に進み日比谷線東銀座に到着。本日の散歩終了。中央区の散歩も後、日本橋地区を残すだけ。次回は萱場町から日本橋川を渡り、人形町・浜町・小伝馬町に進む。

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