2回目の散歩のメモは、石神神宮を離れ「山の辺の道」を歩いた。道は大和高原の山裾、おおよそ標高100mから150mの間を辿ることになる。奈良盆地は標高おおよそ60m程度であるので、山の辺の道を歩きはじめた頃は、はるか昔は湖であったとも言われる奈良盆地の湿地を避け、山裾に道を開いたのだろうと思っていた。
もちろん、それも一因ではあろうが、途中出合った環濠集落が契機となり、昔読んだ書籍『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説を思い出し再読。奈良盆地の部族の経済的基盤となった谷底低地や扇状地での水田開発は、奈良盆地に注ぐ河川の、その特徴である「小河川」故に水勢の制御を容易にし、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、そこから緩傾斜を利用し、水のかからない土地に水を導くことによって可能となった、といったことを思い起こした。山の辺の斜面、小河川が奈良盆地の部族、ひいてはヤマト王権の経済的基盤であった、ということである。
今回の散歩は、そのヤマト王権の残した「大和古墳群」の案内からメモを開始することにする。
本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社
「大和古墳群」の案内
竹之内環濠集落から先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。「大和古墳群 古墳時代前期 奈良盆地東南部の東山山麓沿いには、古墳出現期から前期にかけての大型古墳が多数存在します。
こうした造墓地帯の最北部に位置し、天理市萱生町(かよう)、中山町一帯の丘陵上から成願寺町付近の緩やかな斜面上点在する古墳群を指して、かつて萱生古墳群とも呼ばれていた一群が大和古墳群(おおやまとこふんぐん)です。 当古墳では、その立地条件の違いから丘陵上の前方後円墳のみで形成される中山支群と、扇状地の緩やかな斜面上に点在する前方後円墳、前方後方墳、円墳などの萱生支群に区分することができます。
中山支群では、埴輪の起源となる吉備地方の特殊器台片が発見され出現期の古墳と考えられる中山大塚古墳や、特殊器台形埴輪が樹立し当古墳群の中で最大規模の前方後円墳となる西殿塚古墳、それに墳丘裾に特異な埴輪配列をもつ東殿塚古墳などがあり、同じ尾根筋上での累世的な造立が考えられています。 また、萱生支群では最古級の大型前方後方墳と考えられるノムギ古墳をはじめ、中山支群で出現した初期埴輪と同系統の埴輪をもつ波多子塚古墳(はたご)、大型内行花文鏡の副葬例を見た下池山古墳など、盆地東南部の前期古墳群のなかでも、この支群にのみ前方後方墳築造の系譜が認められています。
以上のように、大和古墳群では各支群の群形成に異なる特色が認められる 天理市教育委員会」とあった。
案内にはこの解説と共に、航空写真、そして古墳の位置を示した地図がついていた。名前のついた古墳だけで21基ほどある。夥しい数である。
散歩の最初にメモしたことだが、この山の辺に道を歩くまで、奈良盆地にこれほど多くの古墳があるとは思ってもみなかった。否、正直に言えば、飛鳥の石舞台とか、高松塚、そして箸墓古墳くらいは知っていたが、奈良に巨大な古墳があるとは思ってもみなかった。箸墓古墳が話題になった時も、巨大古墳としてのイメージをもつことはまるでなかった。
また、奈良と言えば大和朝廷=飛鳥>藤原京>平城京、といった短絡的な理解だけで、奈良盆地の山の辺に大和朝廷成立以前の豪族が割拠し、また大和朝廷につながる大和王権の豪族が、奈良盆地の、今回歩く山の辺の道からはじまったことなど知る由もなかった。
大和王権(朝廷)と大和朝廷を使い分けているのを知ったのも、このメモをはじめてからである。昔の日本史では、4世紀から7世紀の大和の王権も「大和朝廷」と習ったように思うのだが、現在では「大和王権(ヤマト政権)」と表記されることが多いようである。
その理由は、国名としての「大和」の表記が8世紀の養老律令施行後であること、また初期の大和王権の中心は大和国全域ではなく、奈良盆地東南部の東山山麓沿いでしかなかったこと、そして、初期の大和王権は大王家を中心とする政治連合であり、後年のように武力をもって各地の豪族支配し、百官を従える「朝廷」の実態を示していなかった、ということのようである。 ともあれ、これから先、大和王権の大王が降臨(侵攻)し、溜池灌漑と小河川灌漑によって豊かな水田を開発し、力を蓄え築いた幾多の古墳に沿った「山の辺」の道に入ることになる。
波多子塚古墳
道を進み、萱生の集落に入る手前、道の西、丘陵の少し下に小高い塚が見える。如何にも古墳といった趣である。道端に案内があり「波多子塚古墳」とあった。 案内には、「波多子塚古墳(古墳時代前期) 波多子塚古墳は萱生町集落西方の斜面に位置し、西向きに延びる低く長い丘陵上に立地する前方後円墳です。
現状の墳丘規模は全長140メートル、後方部東西幅50メートル、前方部幅14メートル、前方部長90メートルを測ります。前方部の形態が細長いことがこの古墳の大きな特徴であるとされることもありますが、墳丘が畑や果樹園等として開墾されていることから、築造当時の本来の墳丘形状からは大幅に改変されているものと考えられます。とくに、後方部は葺石石材を転用した石垣により段状に改変されています。また、墳頂部外縁の石垣には板状の石材が多く使われていることから、埋葬施設が竪穴式石室であったことがうかがえます。
平成10(1998)年に天理市教育委員会が後方部北側でおこなった発掘調査では、墳丘裾の葺石と周濠の存在が明らかとなり、外堤上では板石積みの小石室も見つかりました。また、周濠からは多くの埴輪片が出土し、波多子塚古墳の築造時期を知る手がかりが得られました。出土した埴輪には朝顔形埴輪、鰭付埴輪、特殊器台形埴輪などがあり、西殿塚古墳や東殿塚古墳でおこなった発掘調査により出土した初期埴輪とともに、大和古墳群における埴輪の成立と波及を考える好材料となりました。古墳の築造時期については、出土した埴輪の年代から、おおむね4世紀前葉と考えられます。平成22(2010)年3月 天理市教育委員会」とあった。
説明にあるように、畑や果樹園として崩されており、畑の中にぽっかりと浮く塚といった印象で、それほど大規模な古墳のようには見えなくなっていた。
柿本人麻呂の歌碑
波多子塚古墳の案内から少し先に進むと、歌碑が建つ。「あしひきの 山川の瀬の 響るなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る 柿本朝臣人麿」と刻まれる。
「万葉集」巻七:一〇八八番」の歌。「響る」は「なる」と読む。「山川の瀬音が響き流れるとともに、弓月が嶽には雲がわき立っている」の意味。あまり情感豊かとはいえない私ではあるが、この歌のどこがいいのかよくわからない。
どこがいいのか気になりチェックすると、この歌は「雲を詠む」という二首で一組となったもの。その対の歌は「痛足川(あなしがは) 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居(くもゐ)立てるらし」であり、川の波と山の雲が対になり、その川の波と山の雲の盛んな姿を歌い、豊穣なるを前祝いした歌と考えられる、といった記事があった。そういう意味合いであれば、なんとなく納得。 因みに、歌碑はどういった経緯で建てられたのかチェック。「天理市に文学碑を建てる会」により平成15年(2003)11月24日に設置された、山の辺の道文学碑第6号基との記事があった。「天理市に文学碑を建てる会」も山の辺の道文学碑に関する詳細は不詳。
西山塚古墳
萱生の集落に入る手前、道に沿って南に濠に囲まれた如何にも古墳らしき緑の高まりが見える。それが西山塚古墳である。道沿いにあった案内には「西山塚古墳(古墳時代後期) 西山塚古墳は萱生町集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。墳丘は前方部二段、後円部三段になるものと思われ、現状では全長114メートル、後円部径65メートル、後円部の高さ13メートル、前方部幅70メートル、前方部の高さ8メートルの規模を持ちます。
大和古墳群の中では唯一、前方部を北側に向けているのが特徴です。古墳の周囲を囲む幅12~20メートルの溜池は周濠の痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池の外側には幅10メートル、高さ2メートルほどの外堤が残っています。
発掘調査は行われておらず、副葬品や埋葬施設は不明ですが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されています。明治20(1887)年ごろに墳頂部が開墾された際、石棺や勾玉、管玉、鈴、土器、人造石が出土したとの記述が『山辺郡誌』に見られますが、現在その所在は明らかになっていません。
なお、この古墳の南東に所在する西殿塚古墳が「手白香皇女衾田陵」に治定されていますが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられるのに対し、手白香皇女は6世紀後半ごろの人物であり、西山塚古墳が手白香皇女の真陵ではないかとする考え方があります。 平成22(2010)年3月 天理市教育委員」とある。
「前方部を北側に向けている」とあるから、集落の入り口部分の藪は前方部と言うことだろう。で、この西山塚古墳の主と比定される「手白香皇女(たしから)」って誰?チェックすると第26代継体天皇の皇后であり、第29代欽明天皇の母とのこと。
●継体天皇
古代史にあまりフックのかからない私でも継体天王のことは、少しは知っている。大和王権(大和朝廷とこのメモまでは思っていたのだが)の大王家(25代武烈天皇)の後継者がいなくなり、大連である大伴氏、物部氏などが後継者を探し越(越前?)の国から呼び寄せ、河内にて即位するも、大和に入るまで20年の時を必要とした、ということと、天皇家は万世一系とはするものの、継体以前には断続があり、現在に続く天皇家の祖とする、といったものである。これが継体天皇に関する知識であり、それほど間違ってはいないかと思う。
ここからはチェックした内容だが、大和に入る前に複数の妃そして子もいたようだが、大和に入り、第21代雄略天皇の孫娘で、第24代仁賢天皇の皇女であり、第25代武烈天皇の妹(姉との説もある)である手白香皇女を妃とする。ヤマト大王家(ヤマト王権は雄略天皇の頃から、それまでの「王」から「大王」という称号に格上げされていると記録にある)と系譜ではない継体天皇の、大王家の系譜に対する融和政策であり、正当性を示す政治的施策とも思える。
◆継体天皇陵は大阪府茨木市。その妃の陵墓が何故ここに?
で、その妃の古墳がこの地にある、と。それでは継体天皇陵は?チェックすると大阪府茨城市の三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)が継体天皇陵と比定されている。結構な泣き別れ?Wikipediaには「継体天皇が、ヤマトの王統につながる手白香皇女の墓をヤマト王権の始祖たちの墓が並ぶ大和古墳群や柳本古墳群のなかに営むことによってみずからの王権の連続性・正統性を主張したものではないかと推測し(後略)」とあった。この記事は継体天皇が出自不明の王ではなく、大和王権の系譜を継ぐものとしてのエビデンスとして挙げている説明でもあるので、そのまま鵜呑みにすることもできないが、なんとなく納得感もある。
萱生環濠集落
道に沿って西山塚古墳の周濠が続く。道が周濠を横切る古墳裾に何軒かの民家が建つ。これが萱生(かよう)環濠集落ではあろうが、竹之内環濠集落のように多くの集落を囲むといったものではなく、Googleの衛星写真で見る限り、ほとんどが古墳である。古墳は耕地として数段に開墾されているように見える。昔はもっと多くの人の住む集落でもあったのだろうか。
大神宮常夜灯
集落を抜け、行く手の左手、山稜が開ける道の分岐点に大きな常夜灯が建つ。正面には「太神宮」と刻まれる。太神宮ということは「伊勢神宮」のことだろう。山の辺の道の終点である三輪山の南西麓から、初瀬川の谷を進む伊勢街道がある。お伊勢参りの道標であろうか。嘉永元戊申年(1848年)に建ったもの、と。
大神宮常夜灯の脇にはささやかな道祖神とともに、猿田彦大神と刻まれた石碑があった。Wikipediaには「天孫降臨の際、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したということから道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている」とあった。
●道祖神
塞の神・道祖神と言えば、いつだったか信州と越後を繋ぐ塩の道を歩いたときに出合った大杉を思い出す。その道端に大きな一本の杉は塞の大神と呼ばれていた。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。
この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置き、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。 ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
五社神社
道を進み中山の集落の中に入ると五社神社が建つ。ささやかな社である。元は「五社の森」と呼ばれる広い森に鎮座していたとのことだが、明治時代に中山の歯定神社に合祀され、社地は開墾されて畑地となるも、昭和26年(1951)、この地に戻り社が造られた、と言う。
五社神社ってどのような神を祀るのかチェックすると、この社は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比咩大神。これらは春日神社の四柱。五社なのに四柱? チェックすると、全国の五社神社に特に決まった神のライアンアップは見当たらない。春日四柱との関連でいえば、浜松の五社神社が元は大玉命(ふとだまのみこと)を祀っていたが、それに春日四祭神を加え五社神社としたとあったが、これもあまり関係なさそう。結局四と五の差分はわからずじまいである。
手白香皇女衾田陵
五社神社から衾田陵の案内に従い、柿の木を見遣りながら小径を進むと手白香皇女衾田陵に。天皇陵によく見る、宮内庁管轄を示すような鳥居と石柱で正面がガードされている。
傍にあった案内には「西殿塚古墳・東殿塚古墳は大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳など前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。 西殿塚古墳 西殿塚古墳は全長230m。後円部径145mm前方部幅130mを測ります。墳丘は東側で三段、西側四段の段築により形成されており、後円部及び前方部の墳頂に方形壇が存在します。
現在、墳丘部分については「手白香皇女衾田陵」として宮内庁により管理されています。平成元年(1989)には宮内庁書陵部により墳丘の調査が実施され、墳丘の各所から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの遺物が採集されています。
また、平成5年(1993)~平成7年(1995)には天理市教育員会により墳丘周辺の範囲確認調査がおこなわれ、墳丘東部くびれ部と前方部東裾において墳丘斜面の基底石と掘割(周濠相当の落ち込み)が存在することが確認されました。この調査の際にも、有段口縁が特徴の特殊円筒埴輪など多量の初期埴輪が出土されました。
東殿塚古墳 東殿塚古墳は全長139m、後円部径65m、前方部幅49mを測り、周囲には古墳の外周を区画する長方形の地割が残っています。後円部頂には多数の板石が散乱していることから、埋葬施設は竪穴式石室であると推定されています。
平成9(1997)に天理市教育員会が前方部西側で実施した発掘調査では、墳丘上段部の基底石列や墳丘下段裾の葺石、掘割(周濠相当の落ち込み)と外堤を検出するなど、多くの大きな知見が得られました。とくに、墳丘裾と外提の間の掘割内で見つかった祭祀施設では、初期埴輪と二重口縁壺や甕(かめ)、高坏(たかつき)など布留式土器(ふる)、さらに近江系や山陰系など外来系土器との共存が確認され、初期埴輪の年代的位置づけと古墳の築造時期を考える上で非常に重要な資料が得られました。
埴輪配列を構成した初期の円筒埴輪には、朝顔形埴輪・鰭付円筒(ひれつき)・特殊器台形埴輪などがあります。その中でも鰭付円筒埴輪の1点には船をモチーフとして描かれた線刻絵画があり、当時の葬送観念を反映するものと考えられる重要な発見として知られています。
築造時期 西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまで発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられます 天理市教育委員会」とあった。
巨大な「山容」を留める西殿塚古墳は、先ほどの西山塚古墳の案内には「手白香皇女衾田陵」との案内があったが、西山塚古墳でメモしたように、西山塚古墳が「手白香皇女衾田陵」との議論もあるようだ。どちらにしても、門外漢には??
●東殿塚古墳
それより、案内にある東殿塚古墳。西殿塚古墳のすぐ東に平行に並ぶとのことだが、ちょっとした高まりのある茂みはあるのだが、東殿それらしき「高み」は見えない。チェックすると古墳の墳丘は開墾され、ほとんどが果樹園となっており、古墳らしき姿は留めていないようであった。案内を読む限りでは結構な古墳をイメージするのだが、「今は姿を留めない」とでも書いてもらえば、それなりの感慨も抱いだだろうが。。。
燈籠山古墳
手白香皇女衾田陵から山の辺の道に戻り、小高い塚がある。その東側には墓地。が広がるが、そこに「燈籠山古墳」の案内。「燈籠山古墳は天理市中山町に所在する全長110mの前方後円墳で、大和古墳群を構成する大型古墳のひとつである。前方部は念仏寺の墓地として利用されている。墳丘上には埴輪が散布し、埴輪の特徴から古墳時代前期、4世紀前半の古墳と思われる」とあった。
説明にあるように、前方部は完全に墓地となってしまっている。墳丘を眺め、山の辺の道に戻り、墓地を迂回し念仏寺への道を進む。と、また「燈籠山古墳」の説明があった。さきほどより詳しい案内であるので、再掲しておく。 「燈籠山古墳(古墳時代前期) 燈籠山古墳は、東殿塚古墳・西殿塚古墳・中山大塚古墳などと同じ丘陵に位置する前方後円墳です。
この丘陵上に位置する古墳は前方部を南に向けますが、燈籠山古墳だけは西に向けています。
古墳の規模は、現状では全長110メートル、後円部径55メートル、後円部高さ6.4メートル、前方部幅41メートル、前方部高さ6.3メートルを測ります。墳丘は大きく改変されていますが、前方部・後円部とも3段に築かれていた可能性があります。墳丘の北・南・東の三方に平坦面があり、東側は墓域を区画するために丘陵を切断した痕跡、南側と北側は墳丘に盛る土を取った痕跡と考えられています。
発掘調査は行われておらず、埋葬施設は不明ですが、後円部では竪穴式石室の部材と見られる板石が多く採集され、石材鑑定の結果、大阪府柏原市や遠くは徳島県で産出する石材であることがわかりました。また、墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が採集され、埴輪列が墳丘を囲んでいたと考えられています。
その他の出土品には、埴製枕、埴質棺、石釧、勾玉・管玉など装身具が知られています。特に埴製枕は長辺36.8㎝、短辺29.4㎝、厚さ8.0㎝の長方形で全面に朱が塗られており、中央を頭の形にくぼませて周囲に鋸歯文や幾何学文などを線刻したものです。
これらの特徴から、古墳の築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前葉)と考えられます。平成23(2011)年3月 天理市教育委員会」とあった。
中山大塚古墳
念仏寺を越えると前方に古墳と思しき独立丘陵が見える。中山大塚古墳である。 道傍にあった案内には「中山大塚古墳 (築造時期 古墳時代初頭) 中山大塚古墳は、萱生町と中山町の一帯に展開する大和(おおやまと)古墳群の南側に位置する前方後円墳です。標高約90メートルの尾根上に前方部を南西に向けて築かれており、前方部付近には大和神社のお旅所がおかれたために削平を受けています。古墳の規模は、全長132メートル、後円部径約73メートル、後円部の高さ約11メートルを測ります。
1985年以降、1994年までの学術調査の結果、墳丘表面が葺石で覆われ、後円部に2段、前方部に1段の段築による築成であることが知られています。
また、外部施設として西側くびれ部に作られた三角形の張り出し部と後円部北側の張り出し部があり、いずれも古墳への通路的な施設と考えられています。 埋葬施設は、後円部墳頂の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室が見つかっており、長さ7.5メートル、天井までの高さ約2メートルの規模をもちます。なお、石室の南北両小口は隅に丸みをもつように石材が積まれています。石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩が使用されています。
出土遺物では、銅鏡2点、鉄器36点などが石室内より見つかりましたが盗掘が石室内全体におよんでいたため細片化したものがほとんどでした。銅鏡は二仙四禽鏡で、鉄器には鉄槍、鉄鏃などがあります。
ほかに、墳頂部からは土器のほか、特殊壷形埴輪、二重口縁壷系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器、特殊壷形土器などが出土しており、埋葬主体部を囲うように樹立していたものと考えられています。
これまでの発掘調査の成果から、当古墳の墳丘は戦国時代の山城として再利用されていたために若干改変され、現状の墳丘形状が築造当初のものではないこともわかっています。しかしながら、石室や墳丘構造、あるいは埴輪などに認められるそれぞれの初源的な要素から、当古墳が前方後円墳の築かれ始めたころの古墳であると判断されています。 1999年8月天理市教育委員会(2008年3月改訂)」とあった。
大和神社の御旅所
中山大塚古墳の案内にもあったように、古墳の前方部の大和(おおやまと)神社の御旅所がある。朱に塗られたささやかな祠が祀られる。御旅所坐神社(おたびしょにいますじんじゃ)、とのことである。
「大和神社(おおやまとじんじゃ)御旅所の由来」の案内には「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(五穀豊穣)、主神日本大国魂神(大地主神)、須治比賣大神(天照大神)
大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭りに天皇(亦は特使)が参列。 千四百年前に始まる。その以前、橘花祭りは、今から約二千年前始まるとある。 橘渡御は、はじめ大和神社の瑞籬、水砂道(みささぎの道=日本最古の道)から、笠縫を通り、中山邑、岸田邑を経て市場の休み所御神輿石、長岡岬大市坐、 皇女渟名城入姫神社、御祓い休憩、柳本新地の手前左に曲がり、中山都・古道、斎主御前の住い道を通り、長山日暮上道より、御旅所、霊薬井戸で清める。 石段を登り、赤鳥居こぐり、清霊舞を執り行う。
一日目は、斎持御前、塚上に屋形を建て、夜に宮司祭。
二日目は、石段を下がり、中山邑から長岡邑川を渡り、高槻、天照大神祭り。
三日目は、水垣で倭大国魂大神、采女の橘の舞、千戈の舞、長岡の道を下り市場へ向かう」とある。
●大和神社
御旅所(おたびしょ)とは、「神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所(Wikipedia)」。大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭の御旅所である。
大和神社は山麓を下ったJR桜井線・長柄駅の少し南にあり、日本大国魂大神(倭大国魂神)が祀られる(祭神は三柱ではあるが、倭大国魂神以外は諸説あるので省略)。説明はその大和神社のお祭りの巡行ルートは詳細に説明されている。
それはそれでいいのだが、「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(おおとしのおおかみ;五穀豊穣)、主神日本大国魂神(やまとおおくにたまのおおかみ:大地主神;おおどこぬし)、須治比賣大神(すじひめ;天照大神)」って何を伝えようとするのか皆目わからない?
●天の神・天照大神と地主神・倭大国魂
また、境内には「畏れし神の勢い 大和の地主神・日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)」といったタイトルで以下のような説明があった。「これより先、天の神・天照大神と地主神・倭大国魂を皇居の内に祀った。しかし、天皇はニ神の神威の強さを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神は豊鋤入姫命に託して大和の笠縫邑に祀り堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。また、日本大国魂神を渟名城入姫に祀らせた。いま、天照大神は伊勢神宮内に、日本大国魂神は大和神社に鎮座さる。
四月一日は、大和神社よりここ御旅所(大和稚宮神社;おおやまとわかみや)まで神輿渡御が行われます。「祭りはじめは、ちゃんちゃん祭り 祭り納めはおん祭り」大和の里謡に歌われる大和の代表的な祭りです。「チャンチャン」と鉦鼓の音が大和に春を告げます」とある。
●大歳大神って誰?
この案内で、大和神社御旅所の由来冒頭部の意味するところが、少しわかってきたが、それでも、御旅所の由来にあった「大歳大神」がどう関係するのか説明がない。そもそも大歳大神って誰?チェックすると、大歳大神とは「大物主;おおものぬし」のことのようである。それを踏まえ、もう少し深堀すると、大和神社の説明は『日本書紀』の祟神記に描かれるエピソードをベースにしたものであった。
●大歳大神(大物主)と日本大国魂神(大地主神)、そして須治比賣大神(天照大神)の関係
松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」をもとにまとめると、こういうことである:第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;天皇と呼ばれたのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇ないしは持統天皇の時代からであるが、便宜的に「天皇」と書く)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。
その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。
しかし、渟名城入姫は髪の毛が抜け落ち、痩せて病気になり、祀ることが出来なくなった。そこで崇神天皇は神浅茅原に御幸し卜占する。その時、崇神天皇 の大叔母である倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)が激しく神懸かりトランス状態になり、倭迹迹日百襲姫命の口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」というもの。その意外な展開に崇神はまだ納得がいかない。すると大物主(オオモノヌシ)は「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。
いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。茅渟県陶邑(大阪府堺市)にいた太田田根子を捜し出し、大物主大神を三輪に祀った結果、ようやく国は治まった。
◆皇祖神・地主神を宮から追い出し大物主を祀る?
このエピソードで御旅所にあった登場人物全員をカバーした物語の全容はわかった。しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。
大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
もっとも、宮から追い出した皇祖神も、いかなる理由か不詳(注;私は)だが、結局は伊勢に「出し」ているわけで、明治になって樫原神宮に祀られるまでは王権のあるヤマトの地に祀られてはいないようであり、ヤマトの地にそれほど「未練は」なかったのだろうか?門外漢にはよくわからない。
◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。
◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。
別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。
大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。
◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件?
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀れれるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを、ヤマト大王家と出雲の神話をもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつの解釈。
◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件?
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた、という解釈。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。
あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。
◆神話は「歴史?」からの「後付け」?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、自分だけにではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感を抱く。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。「後付け」と感じる所以である。
◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。
●歯定(はじょう)神社
大和神社御旅所の境内、一段高くなったところに春日造の小祠がかつての「歯定大権現」。歯の神様とか「葉状」>農業・特に葉物野菜の種蒔きに際して、当社に豊作を祈願した神、といった説明もあるが、なんとなく出来過ぎ感があり、しっくりこない。どこかは特定できなかったが、小字に「歯上(定)堂」というところがあるようで、旧地はその地にあったものが、明治初年にこの地に移された、といった記事があったが、地名故の社名といったほうが、少し納得感がある。
柿本人麻呂歌碑
山の辺の道を進むと、道脇に歌碑がある。「衾道乎 引手 乃山尓妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無 孝書」と刻まれる。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」と読むようだ。
歌碑の横に意味を説明してあり、「引き手の山(龍王山)に妻の屍を葬つておいて 山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない」とあった。
なんとなく気になりチェックすると、この歌は、柿本朝臣人麻呂、妻みまかりし後、泣血哀慟して作る歌二首、とある長歌の反歌の一つであった。もうひとつの歌は、「去年見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年離かる」 と「去年妻と一緒の見た秋の月は今同じだが、一緒にこの月を眺めた妻は、亡くなり遠ざかって行く」と言った意味だろう。
で、長歌とは「5・7・5」音の句を繰り返し、最後は「7・7」音で終える。その反歌とは、長歌の終わりに添えるうたのことで、長歌の意を反復・補足または要約するもの。1首ないし数首からなる。
それでは、この二首の長歌はどのようなものか「うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し。。。」と続く長歌をチェックしてみた。長歌など読んだこともないのだが、これがなかなかいい。亡き妻への思い、残された子供と昼も夜もなく、寂しく、そして嘆き、恋しく思っても会う手だてもないので、羽易の山に恋しい妻はいると人の言うままに、難路を辿り来たが、うれしいことは無かった。この世で会えると思っていた妻は、ほのかにさえも見えないから、と詠っていた。
この流れで半歌を詠むと、少しリアリティが増すようだ。因みに、この長歌の意からすれば、山に葬った帰りのさみしさ、というより、さみしさゆえに、この山に入れば妻に会えるかも、といったニュアンスをかんじるのだが。。。素人の感想ではある。尚、「孝書」とは万葉集の碩学である犬養孝博士とのことである。
●犬養孝
万葉学者。万葉集研究に生涯をささげ、万葉故地の保存にも尽力。日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立。犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶとのこと(Wikipedia)
長岳寺
人麻呂の歌碑から先に進み、集落をひとつ越えたあたりで、中山地区から柳本地区に入る。最初の集落の中、山の辺の道から少し山麓へと向かったところに長岳寺がある。
拝観料を惜しんだわけではないが、先を急ぐのあまり、大門を潜った先で、お参りし寺を離れる。
高野山真言宗のこのお寺さまのWEBに拠れば、「平安初期(天長元年824年)淳和天皇の勅願により弘法大師が創建された古刹である。盛時には僧兵三百、宿坊四十八、境内94,000坪の壮大な寺院であった。 千古の歴史の中で栄枯盛衰を経たが、今なお多くの文化財を残し、国指定重要文化財としては仏像5体、建造物4棟を有する」と。
弘法大師が大和神社(おおやまと)の神宮寺として創建したとも伝わる。
歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」とある。
今回のメモはここで御しまい。次回、この案内にある、ヤマト王権の始まり頃の王の陵墓地帯のメモからはじめることにする.。
もちろん、それも一因ではあろうが、途中出合った環濠集落が契機となり、昔読んだ書籍『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説を思い出し再読。奈良盆地の部族の経済的基盤となった谷底低地や扇状地での水田開発は、奈良盆地に注ぐ河川の、その特徴である「小河川」故に水勢の制御を容易にし、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、そこから緩傾斜を利用し、水のかからない土地に水を導くことによって可能となった、といったことを思い起こした。山の辺の斜面、小河川が奈良盆地の部族、ひいてはヤマト王権の経済的基盤であった、ということである。
今回の散歩は、そのヤマト王権の残した「大和古墳群」の案内からメモを開始することにする。
本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社
「大和古墳群」の案内
竹之内環濠集落から先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。「大和古墳群 古墳時代前期 奈良盆地東南部の東山山麓沿いには、古墳出現期から前期にかけての大型古墳が多数存在します。
こうした造墓地帯の最北部に位置し、天理市萱生町(かよう)、中山町一帯の丘陵上から成願寺町付近の緩やかな斜面上点在する古墳群を指して、かつて萱生古墳群とも呼ばれていた一群が大和古墳群(おおやまとこふんぐん)です。 当古墳では、その立地条件の違いから丘陵上の前方後円墳のみで形成される中山支群と、扇状地の緩やかな斜面上に点在する前方後円墳、前方後方墳、円墳などの萱生支群に区分することができます。
中山支群では、埴輪の起源となる吉備地方の特殊器台片が発見され出現期の古墳と考えられる中山大塚古墳や、特殊器台形埴輪が樹立し当古墳群の中で最大規模の前方後円墳となる西殿塚古墳、それに墳丘裾に特異な埴輪配列をもつ東殿塚古墳などがあり、同じ尾根筋上での累世的な造立が考えられています。 また、萱生支群では最古級の大型前方後方墳と考えられるノムギ古墳をはじめ、中山支群で出現した初期埴輪と同系統の埴輪をもつ波多子塚古墳(はたご)、大型内行花文鏡の副葬例を見た下池山古墳など、盆地東南部の前期古墳群のなかでも、この支群にのみ前方後方墳築造の系譜が認められています。
以上のように、大和古墳群では各支群の群形成に異なる特色が認められる 天理市教育委員会」とあった。
案内にはこの解説と共に、航空写真、そして古墳の位置を示した地図がついていた。名前のついた古墳だけで21基ほどある。夥しい数である。
散歩の最初にメモしたことだが、この山の辺に道を歩くまで、奈良盆地にこれほど多くの古墳があるとは思ってもみなかった。否、正直に言えば、飛鳥の石舞台とか、高松塚、そして箸墓古墳くらいは知っていたが、奈良に巨大な古墳があるとは思ってもみなかった。箸墓古墳が話題になった時も、巨大古墳としてのイメージをもつことはまるでなかった。
また、奈良と言えば大和朝廷=飛鳥>藤原京>平城京、といった短絡的な理解だけで、奈良盆地の山の辺に大和朝廷成立以前の豪族が割拠し、また大和朝廷につながる大和王権の豪族が、奈良盆地の、今回歩く山の辺の道からはじまったことなど知る由もなかった。
大和王権(朝廷)と大和朝廷を使い分けているのを知ったのも、このメモをはじめてからである。昔の日本史では、4世紀から7世紀の大和の王権も「大和朝廷」と習ったように思うのだが、現在では「大和王権(ヤマト政権)」と表記されることが多いようである。
その理由は、国名としての「大和」の表記が8世紀の養老律令施行後であること、また初期の大和王権の中心は大和国全域ではなく、奈良盆地東南部の東山山麓沿いでしかなかったこと、そして、初期の大和王権は大王家を中心とする政治連合であり、後年のように武力をもって各地の豪族支配し、百官を従える「朝廷」の実態を示していなかった、ということのようである。 ともあれ、これから先、大和王権の大王が降臨(侵攻)し、溜池灌漑と小河川灌漑によって豊かな水田を開発し、力を蓄え築いた幾多の古墳に沿った「山の辺」の道に入ることになる。
波多子塚古墳
道を進み、萱生の集落に入る手前、道の西、丘陵の少し下に小高い塚が見える。如何にも古墳といった趣である。道端に案内があり「波多子塚古墳」とあった。 案内には、「波多子塚古墳(古墳時代前期) 波多子塚古墳は萱生町集落西方の斜面に位置し、西向きに延びる低く長い丘陵上に立地する前方後円墳です。
現状の墳丘規模は全長140メートル、後方部東西幅50メートル、前方部幅14メートル、前方部長90メートルを測ります。前方部の形態が細長いことがこの古墳の大きな特徴であるとされることもありますが、墳丘が畑や果樹園等として開墾されていることから、築造当時の本来の墳丘形状からは大幅に改変されているものと考えられます。とくに、後方部は葺石石材を転用した石垣により段状に改変されています。また、墳頂部外縁の石垣には板状の石材が多く使われていることから、埋葬施設が竪穴式石室であったことがうかがえます。
平成10(1998)年に天理市教育委員会が後方部北側でおこなった発掘調査では、墳丘裾の葺石と周濠の存在が明らかとなり、外堤上では板石積みの小石室も見つかりました。また、周濠からは多くの埴輪片が出土し、波多子塚古墳の築造時期を知る手がかりが得られました。出土した埴輪には朝顔形埴輪、鰭付埴輪、特殊器台形埴輪などがあり、西殿塚古墳や東殿塚古墳でおこなった発掘調査により出土した初期埴輪とともに、大和古墳群における埴輪の成立と波及を考える好材料となりました。古墳の築造時期については、出土した埴輪の年代から、おおむね4世紀前葉と考えられます。平成22(2010)年3月 天理市教育委員会」とあった。
説明にあるように、畑や果樹園として崩されており、畑の中にぽっかりと浮く塚といった印象で、それほど大規模な古墳のようには見えなくなっていた。
柿本人麻呂の歌碑
波多子塚古墳の案内から少し先に進むと、歌碑が建つ。「あしひきの 山川の瀬の 響るなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る 柿本朝臣人麿」と刻まれる。
「万葉集」巻七:一〇八八番」の歌。「響る」は「なる」と読む。「山川の瀬音が響き流れるとともに、弓月が嶽には雲がわき立っている」の意味。あまり情感豊かとはいえない私ではあるが、この歌のどこがいいのかよくわからない。
どこがいいのか気になりチェックすると、この歌は「雲を詠む」という二首で一組となったもの。その対の歌は「痛足川(あなしがは) 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居(くもゐ)立てるらし」であり、川の波と山の雲が対になり、その川の波と山の雲の盛んな姿を歌い、豊穣なるを前祝いした歌と考えられる、といった記事があった。そういう意味合いであれば、なんとなく納得。 因みに、歌碑はどういった経緯で建てられたのかチェック。「天理市に文学碑を建てる会」により平成15年(2003)11月24日に設置された、山の辺の道文学碑第6号基との記事があった。「天理市に文学碑を建てる会」も山の辺の道文学碑に関する詳細は不詳。
西山塚古墳
萱生の集落に入る手前、道に沿って南に濠に囲まれた如何にも古墳らしき緑の高まりが見える。それが西山塚古墳である。道沿いにあった案内には「西山塚古墳(古墳時代後期) 西山塚古墳は萱生町集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。墳丘は前方部二段、後円部三段になるものと思われ、現状では全長114メートル、後円部径65メートル、後円部の高さ13メートル、前方部幅70メートル、前方部の高さ8メートルの規模を持ちます。
大和古墳群の中では唯一、前方部を北側に向けているのが特徴です。古墳の周囲を囲む幅12~20メートルの溜池は周濠の痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池の外側には幅10メートル、高さ2メートルほどの外堤が残っています。
発掘調査は行われておらず、副葬品や埋葬施設は不明ですが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されています。明治20(1887)年ごろに墳頂部が開墾された際、石棺や勾玉、管玉、鈴、土器、人造石が出土したとの記述が『山辺郡誌』に見られますが、現在その所在は明らかになっていません。
なお、この古墳の南東に所在する西殿塚古墳が「手白香皇女衾田陵」に治定されていますが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられるのに対し、手白香皇女は6世紀後半ごろの人物であり、西山塚古墳が手白香皇女の真陵ではないかとする考え方があります。 平成22(2010)年3月 天理市教育委員」とある。
「前方部を北側に向けている」とあるから、集落の入り口部分の藪は前方部と言うことだろう。で、この西山塚古墳の主と比定される「手白香皇女(たしから)」って誰?チェックすると第26代継体天皇の皇后であり、第29代欽明天皇の母とのこと。
●継体天皇
古代史にあまりフックのかからない私でも継体天王のことは、少しは知っている。大和王権(大和朝廷とこのメモまでは思っていたのだが)の大王家(25代武烈天皇)の後継者がいなくなり、大連である大伴氏、物部氏などが後継者を探し越(越前?)の国から呼び寄せ、河内にて即位するも、大和に入るまで20年の時を必要とした、ということと、天皇家は万世一系とはするものの、継体以前には断続があり、現在に続く天皇家の祖とする、といったものである。これが継体天皇に関する知識であり、それほど間違ってはいないかと思う。
ここからはチェックした内容だが、大和に入る前に複数の妃そして子もいたようだが、大和に入り、第21代雄略天皇の孫娘で、第24代仁賢天皇の皇女であり、第25代武烈天皇の妹(姉との説もある)である手白香皇女を妃とする。ヤマト大王家(ヤマト王権は雄略天皇の頃から、それまでの「王」から「大王」という称号に格上げされていると記録にある)と系譜ではない継体天皇の、大王家の系譜に対する融和政策であり、正当性を示す政治的施策とも思える。
◆継体天皇陵は大阪府茨木市。その妃の陵墓が何故ここに?
で、その妃の古墳がこの地にある、と。それでは継体天皇陵は?チェックすると大阪府茨城市の三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)が継体天皇陵と比定されている。結構な泣き別れ?Wikipediaには「継体天皇が、ヤマトの王統につながる手白香皇女の墓をヤマト王権の始祖たちの墓が並ぶ大和古墳群や柳本古墳群のなかに営むことによってみずからの王権の連続性・正統性を主張したものではないかと推測し(後略)」とあった。この記事は継体天皇が出自不明の王ではなく、大和王権の系譜を継ぐものとしてのエビデンスとして挙げている説明でもあるので、そのまま鵜呑みにすることもできないが、なんとなく納得感もある。
萱生環濠集落
道に沿って西山塚古墳の周濠が続く。道が周濠を横切る古墳裾に何軒かの民家が建つ。これが萱生(かよう)環濠集落ではあろうが、竹之内環濠集落のように多くの集落を囲むといったものではなく、Googleの衛星写真で見る限り、ほとんどが古墳である。古墳は耕地として数段に開墾されているように見える。昔はもっと多くの人の住む集落でもあったのだろうか。
大神宮常夜灯
集落を抜け、行く手の左手、山稜が開ける道の分岐点に大きな常夜灯が建つ。正面には「太神宮」と刻まれる。太神宮ということは「伊勢神宮」のことだろう。山の辺の道の終点である三輪山の南西麓から、初瀬川の谷を進む伊勢街道がある。お伊勢参りの道標であろうか。嘉永元戊申年(1848年)に建ったもの、と。
大神宮常夜灯の脇にはささやかな道祖神とともに、猿田彦大神と刻まれた石碑があった。Wikipediaには「天孫降臨の際、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したということから道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている」とあった。
●道祖神
塞の神・道祖神と言えば、いつだったか信州と越後を繋ぐ塩の道を歩いたときに出合った大杉を思い出す。その道端に大きな一本の杉は塞の大神と呼ばれていた。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。
この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置き、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。 ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
五社神社
道を進み中山の集落の中に入ると五社神社が建つ。ささやかな社である。元は「五社の森」と呼ばれる広い森に鎮座していたとのことだが、明治時代に中山の歯定神社に合祀され、社地は開墾されて畑地となるも、昭和26年(1951)、この地に戻り社が造られた、と言う。
五社神社ってどのような神を祀るのかチェックすると、この社は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比咩大神。これらは春日神社の四柱。五社なのに四柱? チェックすると、全国の五社神社に特に決まった神のライアンアップは見当たらない。春日四柱との関連でいえば、浜松の五社神社が元は大玉命(ふとだまのみこと)を祀っていたが、それに春日四祭神を加え五社神社としたとあったが、これもあまり関係なさそう。結局四と五の差分はわからずじまいである。
手白香皇女衾田陵
五社神社から衾田陵の案内に従い、柿の木を見遣りながら小径を進むと手白香皇女衾田陵に。天皇陵によく見る、宮内庁管轄を示すような鳥居と石柱で正面がガードされている。
傍にあった案内には「西殿塚古墳・東殿塚古墳は大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳など前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。 西殿塚古墳 西殿塚古墳は全長230m。後円部径145mm前方部幅130mを測ります。墳丘は東側で三段、西側四段の段築により形成されており、後円部及び前方部の墳頂に方形壇が存在します。
現在、墳丘部分については「手白香皇女衾田陵」として宮内庁により管理されています。平成元年(1989)には宮内庁書陵部により墳丘の調査が実施され、墳丘の各所から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの遺物が採集されています。
また、平成5年(1993)~平成7年(1995)には天理市教育員会により墳丘周辺の範囲確認調査がおこなわれ、墳丘東部くびれ部と前方部東裾において墳丘斜面の基底石と掘割(周濠相当の落ち込み)が存在することが確認されました。この調査の際にも、有段口縁が特徴の特殊円筒埴輪など多量の初期埴輪が出土されました。
東殿塚古墳 東殿塚古墳は全長139m、後円部径65m、前方部幅49mを測り、周囲には古墳の外周を区画する長方形の地割が残っています。後円部頂には多数の板石が散乱していることから、埋葬施設は竪穴式石室であると推定されています。
平成9(1997)に天理市教育員会が前方部西側で実施した発掘調査では、墳丘上段部の基底石列や墳丘下段裾の葺石、掘割(周濠相当の落ち込み)と外堤を検出するなど、多くの大きな知見が得られました。とくに、墳丘裾と外提の間の掘割内で見つかった祭祀施設では、初期埴輪と二重口縁壺や甕(かめ)、高坏(たかつき)など布留式土器(ふる)、さらに近江系や山陰系など外来系土器との共存が確認され、初期埴輪の年代的位置づけと古墳の築造時期を考える上で非常に重要な資料が得られました。
埴輪配列を構成した初期の円筒埴輪には、朝顔形埴輪・鰭付円筒(ひれつき)・特殊器台形埴輪などがあります。その中でも鰭付円筒埴輪の1点には船をモチーフとして描かれた線刻絵画があり、当時の葬送観念を反映するものと考えられる重要な発見として知られています。
築造時期 西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまで発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられます 天理市教育委員会」とあった。
巨大な「山容」を留める西殿塚古墳は、先ほどの西山塚古墳の案内には「手白香皇女衾田陵」との案内があったが、西山塚古墳でメモしたように、西山塚古墳が「手白香皇女衾田陵」との議論もあるようだ。どちらにしても、門外漢には??
●東殿塚古墳
それより、案内にある東殿塚古墳。西殿塚古墳のすぐ東に平行に並ぶとのことだが、ちょっとした高まりのある茂みはあるのだが、東殿それらしき「高み」は見えない。チェックすると古墳の墳丘は開墾され、ほとんどが果樹園となっており、古墳らしき姿は留めていないようであった。案内を読む限りでは結構な古墳をイメージするのだが、「今は姿を留めない」とでも書いてもらえば、それなりの感慨も抱いだだろうが。。。
燈籠山古墳
手白香皇女衾田陵から山の辺の道に戻り、小高い塚がある。その東側には墓地。が広がるが、そこに「燈籠山古墳」の案内。「燈籠山古墳は天理市中山町に所在する全長110mの前方後円墳で、大和古墳群を構成する大型古墳のひとつである。前方部は念仏寺の墓地として利用されている。墳丘上には埴輪が散布し、埴輪の特徴から古墳時代前期、4世紀前半の古墳と思われる」とあった。
説明にあるように、前方部は完全に墓地となってしまっている。墳丘を眺め、山の辺の道に戻り、墓地を迂回し念仏寺への道を進む。と、また「燈籠山古墳」の説明があった。さきほどより詳しい案内であるので、再掲しておく。 「燈籠山古墳(古墳時代前期) 燈籠山古墳は、東殿塚古墳・西殿塚古墳・中山大塚古墳などと同じ丘陵に位置する前方後円墳です。
この丘陵上に位置する古墳は前方部を南に向けますが、燈籠山古墳だけは西に向けています。
古墳の規模は、現状では全長110メートル、後円部径55メートル、後円部高さ6.4メートル、前方部幅41メートル、前方部高さ6.3メートルを測ります。墳丘は大きく改変されていますが、前方部・後円部とも3段に築かれていた可能性があります。墳丘の北・南・東の三方に平坦面があり、東側は墓域を区画するために丘陵を切断した痕跡、南側と北側は墳丘に盛る土を取った痕跡と考えられています。
発掘調査は行われておらず、埋葬施設は不明ですが、後円部では竪穴式石室の部材と見られる板石が多く採集され、石材鑑定の結果、大阪府柏原市や遠くは徳島県で産出する石材であることがわかりました。また、墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が採集され、埴輪列が墳丘を囲んでいたと考えられています。
その他の出土品には、埴製枕、埴質棺、石釧、勾玉・管玉など装身具が知られています。特に埴製枕は長辺36.8㎝、短辺29.4㎝、厚さ8.0㎝の長方形で全面に朱が塗られており、中央を頭の形にくぼませて周囲に鋸歯文や幾何学文などを線刻したものです。
これらの特徴から、古墳の築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前葉)と考えられます。平成23(2011)年3月 天理市教育委員会」とあった。
中山大塚古墳
念仏寺を越えると前方に古墳と思しき独立丘陵が見える。中山大塚古墳である。 道傍にあった案内には「中山大塚古墳 (築造時期 古墳時代初頭) 中山大塚古墳は、萱生町と中山町の一帯に展開する大和(おおやまと)古墳群の南側に位置する前方後円墳です。標高約90メートルの尾根上に前方部を南西に向けて築かれており、前方部付近には大和神社のお旅所がおかれたために削平を受けています。古墳の規模は、全長132メートル、後円部径約73メートル、後円部の高さ約11メートルを測ります。
1985年以降、1994年までの学術調査の結果、墳丘表面が葺石で覆われ、後円部に2段、前方部に1段の段築による築成であることが知られています。
また、外部施設として西側くびれ部に作られた三角形の張り出し部と後円部北側の張り出し部があり、いずれも古墳への通路的な施設と考えられています。 埋葬施設は、後円部墳頂の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室が見つかっており、長さ7.5メートル、天井までの高さ約2メートルの規模をもちます。なお、石室の南北両小口は隅に丸みをもつように石材が積まれています。石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩が使用されています。
出土遺物では、銅鏡2点、鉄器36点などが石室内より見つかりましたが盗掘が石室内全体におよんでいたため細片化したものがほとんどでした。銅鏡は二仙四禽鏡で、鉄器には鉄槍、鉄鏃などがあります。
ほかに、墳頂部からは土器のほか、特殊壷形埴輪、二重口縁壷系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器、特殊壷形土器などが出土しており、埋葬主体部を囲うように樹立していたものと考えられています。
これまでの発掘調査の成果から、当古墳の墳丘は戦国時代の山城として再利用されていたために若干改変され、現状の墳丘形状が築造当初のものではないこともわかっています。しかしながら、石室や墳丘構造、あるいは埴輪などに認められるそれぞれの初源的な要素から、当古墳が前方後円墳の築かれ始めたころの古墳であると判断されています。 1999年8月天理市教育委員会(2008年3月改訂)」とあった。
大和神社の御旅所
中山大塚古墳の案内にもあったように、古墳の前方部の大和(おおやまと)神社の御旅所がある。朱に塗られたささやかな祠が祀られる。御旅所坐神社(おたびしょにいますじんじゃ)、とのことである。
「大和神社(おおやまとじんじゃ)御旅所の由来」の案内には「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(五穀豊穣)、主神日本大国魂神(大地主神)、須治比賣大神(天照大神)
大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭りに天皇(亦は特使)が参列。 千四百年前に始まる。その以前、橘花祭りは、今から約二千年前始まるとある。 橘渡御は、はじめ大和神社の瑞籬、水砂道(みささぎの道=日本最古の道)から、笠縫を通り、中山邑、岸田邑を経て市場の休み所御神輿石、長岡岬大市坐、 皇女渟名城入姫神社、御祓い休憩、柳本新地の手前左に曲がり、中山都・古道、斎主御前の住い道を通り、長山日暮上道より、御旅所、霊薬井戸で清める。 石段を登り、赤鳥居こぐり、清霊舞を執り行う。
一日目は、斎持御前、塚上に屋形を建て、夜に宮司祭。
二日目は、石段を下がり、中山邑から長岡邑川を渡り、高槻、天照大神祭り。
三日目は、水垣で倭大国魂大神、采女の橘の舞、千戈の舞、長岡の道を下り市場へ向かう」とある。
●大和神社
御旅所(おたびしょ)とは、「神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所(Wikipedia)」。大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭の御旅所である。
大和神社は山麓を下ったJR桜井線・長柄駅の少し南にあり、日本大国魂大神(倭大国魂神)が祀られる(祭神は三柱ではあるが、倭大国魂神以外は諸説あるので省略)。説明はその大和神社のお祭りの巡行ルートは詳細に説明されている。
それはそれでいいのだが、「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(おおとしのおおかみ;五穀豊穣)、主神日本大国魂神(やまとおおくにたまのおおかみ:大地主神;おおどこぬし)、須治比賣大神(すじひめ;天照大神)」って何を伝えようとするのか皆目わからない?
●天の神・天照大神と地主神・倭大国魂
また、境内には「畏れし神の勢い 大和の地主神・日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)」といったタイトルで以下のような説明があった。「これより先、天の神・天照大神と地主神・倭大国魂を皇居の内に祀った。しかし、天皇はニ神の神威の強さを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神は豊鋤入姫命に託して大和の笠縫邑に祀り堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。また、日本大国魂神を渟名城入姫に祀らせた。いま、天照大神は伊勢神宮内に、日本大国魂神は大和神社に鎮座さる。
四月一日は、大和神社よりここ御旅所(大和稚宮神社;おおやまとわかみや)まで神輿渡御が行われます。「祭りはじめは、ちゃんちゃん祭り 祭り納めはおん祭り」大和の里謡に歌われる大和の代表的な祭りです。「チャンチャン」と鉦鼓の音が大和に春を告げます」とある。
●大歳大神って誰?
この案内で、大和神社御旅所の由来冒頭部の意味するところが、少しわかってきたが、それでも、御旅所の由来にあった「大歳大神」がどう関係するのか説明がない。そもそも大歳大神って誰?チェックすると、大歳大神とは「大物主;おおものぬし」のことのようである。それを踏まえ、もう少し深堀すると、大和神社の説明は『日本書紀』の祟神記に描かれるエピソードをベースにしたものであった。
●大歳大神(大物主)と日本大国魂神(大地主神)、そして須治比賣大神(天照大神)の関係
松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」をもとにまとめると、こういうことである:第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;天皇と呼ばれたのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇ないしは持統天皇の時代からであるが、便宜的に「天皇」と書く)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。
その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。
しかし、渟名城入姫は髪の毛が抜け落ち、痩せて病気になり、祀ることが出来なくなった。そこで崇神天皇は神浅茅原に御幸し卜占する。その時、崇神天皇 の大叔母である倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)が激しく神懸かりトランス状態になり、倭迹迹日百襲姫命の口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」というもの。その意外な展開に崇神はまだ納得がいかない。すると大物主(オオモノヌシ)は「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。
いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。茅渟県陶邑(大阪府堺市)にいた太田田根子を捜し出し、大物主大神を三輪に祀った結果、ようやく国は治まった。
◆皇祖神・地主神を宮から追い出し大物主を祀る?
このエピソードで御旅所にあった登場人物全員をカバーした物語の全容はわかった。しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。
大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
もっとも、宮から追い出した皇祖神も、いかなる理由か不詳(注;私は)だが、結局は伊勢に「出し」ているわけで、明治になって樫原神宮に祀られるまでは王権のあるヤマトの地に祀られてはいないようであり、ヤマトの地にそれほど「未練は」なかったのだろうか?門外漢にはよくわからない。
◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。
◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。
別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。
大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。
◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件?
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀れれるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを、ヤマト大王家と出雲の神話をもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつの解釈。
◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件?
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた、という解釈。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。
あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。
◆神話は「歴史?」からの「後付け」?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、自分だけにではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感を抱く。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。「後付け」と感じる所以である。
◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。
●歯定(はじょう)神社
大和神社御旅所の境内、一段高くなったところに春日造の小祠がかつての「歯定大権現」。歯の神様とか「葉状」>農業・特に葉物野菜の種蒔きに際して、当社に豊作を祈願した神、といった説明もあるが、なんとなく出来過ぎ感があり、しっくりこない。どこかは特定できなかったが、小字に「歯上(定)堂」というところがあるようで、旧地はその地にあったものが、明治初年にこの地に移された、といった記事があったが、地名故の社名といったほうが、少し納得感がある。
柿本人麻呂歌碑
山の辺の道を進むと、道脇に歌碑がある。「衾道乎 引手 乃山尓妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無 孝書」と刻まれる。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」と読むようだ。
歌碑の横に意味を説明してあり、「引き手の山(龍王山)に妻の屍を葬つておいて 山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない」とあった。
なんとなく気になりチェックすると、この歌は、柿本朝臣人麻呂、妻みまかりし後、泣血哀慟して作る歌二首、とある長歌の反歌の一つであった。もうひとつの歌は、「去年見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年離かる」 と「去年妻と一緒の見た秋の月は今同じだが、一緒にこの月を眺めた妻は、亡くなり遠ざかって行く」と言った意味だろう。
で、長歌とは「5・7・5」音の句を繰り返し、最後は「7・7」音で終える。その反歌とは、長歌の終わりに添えるうたのことで、長歌の意を反復・補足または要約するもの。1首ないし数首からなる。
それでは、この二首の長歌はどのようなものか「うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し。。。」と続く長歌をチェックしてみた。長歌など読んだこともないのだが、これがなかなかいい。亡き妻への思い、残された子供と昼も夜もなく、寂しく、そして嘆き、恋しく思っても会う手だてもないので、羽易の山に恋しい妻はいると人の言うままに、難路を辿り来たが、うれしいことは無かった。この世で会えると思っていた妻は、ほのかにさえも見えないから、と詠っていた。
この流れで半歌を詠むと、少しリアリティが増すようだ。因みに、この長歌の意からすれば、山に葬った帰りのさみしさ、というより、さみしさゆえに、この山に入れば妻に会えるかも、といったニュアンスをかんじるのだが。。。素人の感想ではある。尚、「孝書」とは万葉集の碩学である犬養孝博士とのことである。
●犬養孝
万葉学者。万葉集研究に生涯をささげ、万葉故地の保存にも尽力。日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立。犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶとのこと(Wikipedia)
長岳寺
人麻呂の歌碑から先に進み、集落をひとつ越えたあたりで、中山地区から柳本地区に入る。最初の集落の中、山の辺の道から少し山麓へと向かったところに長岳寺がある。
拝観料を惜しんだわけではないが、先を急ぐのあまり、大門を潜った先で、お参りし寺を離れる。
高野山真言宗のこのお寺さまのWEBに拠れば、「平安初期(天長元年824年)淳和天皇の勅願により弘法大師が創建された古刹である。盛時には僧兵三百、宿坊四十八、境内94,000坪の壮大な寺院であった。 千古の歴史の中で栄枯盛衰を経たが、今なお多くの文化財を残し、国指定重要文化財としては仏像5体、建造物4棟を有する」と。
弘法大師が大和神社(おおやまと)の神宮寺として創建したとも伝わる。
歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」とある。
今回のメモはここで御しまい。次回、この案内にある、ヤマト王権の始まり頃の王の陵墓地帯のメモからはじめることにする.。
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