秩父観音霊場散歩;小鹿野から大日峠を越えて32番札所法性寺奥の院に

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紅葉の頃、会社の仲間と秩父路へ、との話になった。さて、どこに行こうか、と少々考える。メンバーは沢ガールデビューした「怖いもの知らず」のうら若き女性が中心。ちょっと手応えがあり、かつまた紅葉も楽しめるところ、ということで秩父の西奥の小鹿野にある32番札所法性寺奥の院を訪れることにした。法性寺には二度訪れたことはある。が、二度とも奥の院はパス。時間が無かった、ということもさることさることながら、岩場をよじ登っての大日如来参拝、巨大なスラブの背を辿っての岩船観音参拝は、高所恐怖症の我が身には少々荷が重く、見ないふりをしていたわけである。
ルートを定めるに、法性寺奥の院への直球勝負では面白くない。自分ひとりで散歩するぶんには、だらだら、成り行きで歩けばそれで十分満足ではあるのだが、同行者を率いる以上、おのずと「起承転結」のルートとなってしかるべし、とプランを練る。






で、あれこれ考え決めたルートが、西武秩父からバスで小鹿野まで行き、そこから峠越えの巡礼道を法性寺に。法性寺の奥の院で少々盛り上がり、仕上げは長瀞での紅葉見物といったもの。これであれば、起=峠越えの巡礼道>承=落ち着いた法性寺>転=一転、奥の院の怖い岩場>結=結びは、長瀞の美しい紅葉見物、と構成としてはそれなりのものとなった、かと。同行者にもそれなりの気持ちの揺れも与えられることを期待しつつ、晩秋の11月18日、一路秩父へと向かった。




本日のルート;西武池袋;7時半・秩父5号>西武秩父8時58分>西武秩父駅;西武バス・小鹿野車庫・栗尾行初;9時15分>小鹿野役場着;9時51分>徒歩;大日峠経由32番法性寺(1時間)>到着おおよそ11時>法性寺奥の院(おおよそ1時間)>松井田バス停まで4キロ歩く;おおよそ1時間>松井田バス停発14時51分>秩父駅着15時1分>長瀞>西武秩父>西武池袋

西武秩父駅
西武池袋7時半・秩父5号に乗り西武秩父に8時58分着。駅前のバス停で「小鹿野車庫・栗尾」を待つ。当初の予定では駅前の観光案内所で資料など手に入れようと思っていたのだが、開館時間前で利用できなかった。

蒔田川筋
西武秩父発9時15分の「小鹿野車庫・栗尾」行き西武バスに乗り、小鹿野町役場に向かう。国道299号を進み荒川に架かる秩父橋を渡り、蒔田で赤坂峠、といっても標高200mといった長尾根丘陵の北端部といったところだが、その峠を越え長尾根丘陵の西側、荒川の支流である蒔田川の谷筋に入る。長尾根丘陵は50万年前に荒川が流れていた段丘面である。蒔田川の谷筋が荒川のそれに比べてそれほど深くないのは、蒔田川の上流部が荒川や赤平川の浸食により切断されたため、と言う。上流部分が切断されたため水流が少なくなり浸食が進まなかったのだろう。とは言うものの、はるかなる大昔の話ではある。

赤平川筋
蒔田川の谷筋、というか、浅い蒔田川を囲む水田地帯をしばらく進むと道は再び丘陵の峠に上る。丘陵名は不詳だが、その丘陵の南端の千束峠を越え荒川の支流・赤平川を渡る。赤平川は国道299号を北西に進み上州に抜ける志賀坂峠の南に聳える諏訪山に源を発し、秩父の皆野で荒川に合流する。

小鹿野_9時51分;標高248m
谷筋を進み小鹿野用水と交差するあたりで国道299号を離れ、小鹿野の町に入り、9時51分小鹿野役場で下車。小鹿野はこれで3度目。すべて秩父観音札所巡礼がらみである。最初は小鹿野の町を越え、栗尾バス停で降り、4キロほど歩き秩父観音31番札所・観音院を訪れたとき。その時、この小鹿野役場まで戻り、今回巡礼道を辿る32番札所・法性寺までタクシーを利用した。時間無きが故ではある。二度目は札所の写真を撮るだけのために車で秩父を巡ったとき此の地に訪れた。
三度目の小鹿野。小鹿野は埼玉県最西端、群馬県と接する秩父郡最奥の町である。もっとも、それは「現在」の東京を中心として結ばれた道路交通網を基にした物流の視点でのこと。かつて、物流は峠を越えての人馬が担っていた時代の視点で見ると、小鹿野の物流におけるポジショニングが大きく変わって見える。上州と境を接した秩父の最奥部の町小鹿野は、上州そして更には上州を介して信濃と結ぶ物流の拠点となって現れる。
往昔の小鹿野の経済圏は、現在の国道299号を進み志賀坂峠を越えた上州中山郷(群馬県上野村)までも含まれていた、と。当時、山間の集落、謂わば「陸の孤島」であった中山郷の産物は峠を隔てて接する小鹿野に集まっていたようだ。また、その上州の中山郷は十石峠(かつて米のとれない上州地方西部の山間部に、信州佐久平から一日十石の米を運び込んでいたことが地名の由来)を越えて信濃とつながっていた。この往還は江戸と信州を結ぶ上州道とも呼ばれ、明治・大正の頃は絹織物を運ぶ重要な道として栄えていたようである。

かくして。小鹿野は古くから開けていた。その歴史は古く、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』には既に「巨香郷(こかのごう)」として記録されている。小鹿野の地名は、古代神話で日本武尊がこの地を「小鹿の野原」と呼んだことに由来する、とか。「日本武尊を小鹿が案内した原」といった意味である。小鹿野には広大な野原があるわけでなないので、「原」はこの場合、「渡来人の住む地域(秦>幡羅>ハラ>原)ではないか、との説もある。真偽のほどは定かではないが、実際小鹿野には古墳が残る、とも。

古代から中世にかけては秩父武士団が台頭。戦乱の世には信州・上州・秩父往還筋故に、甲信越勢力の関東侵攻のための拠点とされ、この地の争奪合戦が繰り広げられたようでもある。小鹿野の町並みを更に奥に進んだ三山地区の要害山は永禄12年(1569)には武田と後北条の戦いの際の後北条方の物見跡、とも。耕地面積が少なく林業と養蚕業で生計を立てていた小鹿野地域は、江戸時代に入ると江戸と信州を結ぶ上州道・中山道裏街道における秩父路最後の宿場町として賑わいを見せた。また、その街道故に上州山間部をも経済圏に入れた西秩父の経済の中心として栄え、山間の僻地にもかかわらず六斎市が立つなど、市場町として、秩父市内=大宮郷とは異なった独自性を保った町として発展したようである。
小鹿野は江戸の頃は幕府直轄地であり、明和2年(1765)、八代将軍徳川吉宗の時代に代官の出役所として発足したのが始まりと言われる本陣跡もあるようだ。秩父市内=大宮郷は確か忍藩領であったと思うが、そのあたりの統治携帯の違いも、独自性の一因、かも。

宮沢賢治の歌碑
小鹿野役場バス停脇には休憩所があり、小鹿野近辺の地図や観光パンフレットなどが置かれている。休憩所の前には「宮沢賢治の歌碑」。「山狭の 町の土蔵のうすうすと 夕もやに暮れ われらもだせり」と刻む。賢治が地質調査で秩父を訪れた折に詠んだもの。
賢治は小さいころから鉱物・植物・昆虫などに興味を持っていたが、特に鉱物が好きで「石コ賢さん」とも呼ばれていた、とのこと。秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層に恵まれ、我国の近代地質学発祥の地である秩父を訪れたのは盛岡高等農林学校2年生、二十歳の時。大正5年(1916)9月1日から7日まで長瀞の「岩畳」に代表される岩石段丘や「ようばけ」と呼ばれる赤平川の露出崖面(よう=夕日、ばけ=はけ>崖のこと。夕日に照らされた崖といった意味だろう)、そしてこの小鹿野から三峰山に登り、玄武岩質の露出した凝灰岩の調査をおこない、三峰から影森の石灰洞などを調査し秩父大宮に戻り、盛岡に帰っている。
賢治はこの地質調査の旅の間に20ほどの歌を詠んだ。いつだったか長瀞を訪れたとき、「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ」と刻まれた歌碑があったが、これは岩畳の対岸にある虎の毛の模様を思わせる「虎石」を読んだもの。また、赤平川の「ようばけ」では「さはやかに半月かゝる薄明の秩父の狭のかへりみちかな」と詠む。

赤平川に架かる金園橋
バス停を離れ、大日峠への道が分岐する郵便局まで町を戻る。確かに郵便局の対面に、まことにささやかな「巡礼道の札」があった。気をつけていなければ見落としてしまいそうである。
道を右折し民家の間の小道を進むと庚申塚があり、そこを左折し先に進むと欅の巨木が道脇に聳える。道はこの古木の辺りから緩やかに右に曲がり下ってゆくと赤平川に架かる橋に出る。橋の名は「金園橋」。橋脇に注ぐ沢の名前が小判沢。小判>黄金>金の園との縁起故の命名とか。

小判沢集落
橋を渡ると樹林の中に入る。坂を上ると集落がある。小判沢と呼ばれる。誠に有難い地名である。地名の由来は不詳。金山でもあったのだろうか、ミヤマグルマのような小判を連想させる草花が咲くのだろうか、はたまた、養蚕が盛んな秩父では米粉団子で「繭玉飾り」をつくり神棚にお供えする風習があるようだが、その団子が繭のかたちや、小判などの縁起のいい飾りにするとのこと。そんな風習に由来する沢名前であろうか、などと如何なる根拠とても無い妄想を楽しむ。


そんな小判沢集落の入り口の小祠に「こんせい宮」が佇む。金精様とは男性のシンボルを祀る。奥日光と片品村を繋ぐ金精峠が有名だが、散歩の折々で金精様にはよく出会う。いつだったか、奥多摩の川井駅の先、百軒茶屋キャンプ場から「棒ノ折」への急登手前に金精様が祀られていたことを思い出す。金精様に限らず、石をご神体とした社によく出合う。人々の原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まってハンディな「金精さま」へと形を変えて伝わってきたのだろう、か。

巡礼道_10時25分;標高260m
集落を抜けたあたりに児童公園がある。そこから左に下る巡礼道の指導標があり、「大日峠を経て32番へ2.4km」、とある。
細い山道を下って行くと、沢に出る。これが小判沢ではあろう。小判のように光輝くこともなく、少々薄暗い杉林の中を流れる沢にかかる小橋を渡り、沢に沿って樹林の中を進む。丸木を並べた橋を渡ったり、沢の小石を踏んで渡るなど、沢をしばらく進むと道は沢から離れ峠へと向かう。



道は鬱蒼とした杉林。明るいといった雰囲気ではないが、巡礼道っぽくて、それなりの雰囲気がある。道脇には遍路道の札がかかっているので道を間違うことも、ない。

秩父の地層
小判沢では沢に沿って地層が露出している箇所も見受けられる、とか。門外漢にはよくわからないが、上で鉱物に強い興味をもった宮沢賢治が地質調査に訪れた、とメモしたように、秩父は秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層で知られるようである。
周囲を山にかこまれた秩父盆地は、盆地の中に舌状丘陵が複雑に並び、荒川や赤平川は深く刻まれた谷筋を構成する。地形フリークには誠に魅力的な地形である。
その複雑な地形を秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層の観点で整理するに、秩父中・古生層とは秩父を含む日本列島は海の底にあった時期。海底には土砂が堆積し分厚い地層が形成された。今から3億年前のことである。この時期は地球の歴史の中で、古生代から中生代と称されるため、この地層を秩父中古生層と呼ぶ。中古生層は日本全国に分布するが「秩父」中古生層と「秩父」という形容詞が付くのは、秩父ではこの地層が表面に露出し、また、この地層が最初に発見されたのが秩父であった、ため。

2億年前の中生代の末頃になると、依然海底にあった日本列島は、海底火山による造山運動がはじまる。日本列島は隆起と沈降を繰り返し、時には、高地の一部が海上に顔を出しはじめた、とか。奥秩父の高山はこのころ海上に頭を擡げたの、かも。
6000万年前に始まる新生代に入ると、日本列島が次第にその形を現してくる。1700万年前には日本列島が大陸から分離され、秩父は陸と海の境となったようである。奥秩父の山々が海岸線を形作り、秩父盆地が湾となっていた、とか。その後、海進期・後退期が繰り返され、その過程で陸地の浸食が進み、現在のような複雑な地形となっていったのであろう。
海岸線を形成していた奥秩父山系と湾となっていた秩父盆地の境目には大きな断層があり、この断層面には、秩父中古生層から現在までの地層が観察できるようである。秩父にくれば、日本列島の歴史がわかる、とか。宮沢賢治が秩父を訪れた所以である。

大日峠_10時54分;標高394m

しばらくすすむと、杉林が明るくなり尾根に近づいたことがわかる。沢を離れておおよそ30分弱。標高390mほどの大日峠に到着。沢の標高が250mほどであるので、140mほど上ったことになる。峠の見晴らしはよくない。
赤い幟の立つ峠には二体の石像が佇む。一体には傘、というか上屋があるが、野ざらしの像のほうが古そうでもある。また、像は仏像と言うより、神像といった風情でもある。像はそれほど古そうではない。秩父札所を200回以上も辿った東京在住の個人篤志家の建立、とも言う。
像の傍らには大正8年(1919)に建てられた石の道標。正面の右を示す手の形は「小鹿野道;次ノ大字ハ小鹿野町大字下小鹿野ニシテ懸道マデ約二十町」「左を示す手の形は「札所三十二番柿ノ久保」、右側面には「從是東南秩父郡長若村」と刻まれる。

柿の久保集落_11時5分;標高296m
峠で少し休憩し、里に向かって下ると六十六部供養塔。六十六部供養とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部(六部とも)と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。
六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた。この供養塔がこのような六部僧の供養のためのものか、巡礼を終えた六部尊の記念のためにつくられたものか、場所から考えれば前者のようにも思えるのだが、不詳である。
六十六部供養塔を見やりながら15分ほど下ると樹林から抜け出し民家が現れる。柿の久保集落である。民家の横を抜けると車道にでると、角にはお地蔵様が佇み、「32番まで0.5km」の指導標。道脇の諏訪神社に一礼し100mほど進むと32番札所・法性寺に到着した。

32番札所法性寺_11時13分;標高276m
11時13分、法性寺に到着。道脇の仁王門の前の広場には小鹿野町営バスの停留所や休憩所を兼ねたお手洗いがある。町営バス12時7分法性寺発の小鹿野町営バスに乗れば、松井田バス停下車;12時14分、そこで西武バス松井田バス発;12時41分に乗るのがベストプラクティスではあるが、奥の院まで辿れば結構時間が厳しそう。成り行きで対応することにして、とりあえず法性寺の仁王門をくぐる。

結構迫力のある仁王様に一礼し、79段有るという急な階段を上ると納経所。納経所の隣が本堂。本堂には薬師如来が祀られる、と。本堂の前に舟をこぐ観音像を描いた額。ために、この寺は、「お船観音」とも呼ばれる。奥の院のある山上の岩場が大きな船の舳先の形をしている、と。ために、岩船山と。またここに建つ観音様を、岩船観音と呼ぶ。本堂前の奥の院遙拝所から、尾根に佇む観音様がかすかに見える。









観音堂
本堂の先の小高い箇所には観音堂。頃は晩秋。紅葉が美しい。途中の毘沙門堂にお詣りし、本堂から更に上に、100mほど石段というか、岩を削った山道をのぼったところにある。享保4年(1719)につくられた三間四方、宝形造りに回廊をめぐらせた木造懸崖造りの観音堂は結構な構え。縁起では行基菩薩が観音像を彫っておさめた、と。また寺伝には、弘法大師も登場する。 『大般若経』六百巻を書写し納めたとか。
扁額には「補陀巌」と見える。補陀巌とは、聞思修とも称されるが、仏の教えを聞き、その法を理解し、教えを実践修行しりに至る三段階の修行の教えを意味する。正面には船に乗ったお舟観世音の額が飾られているが、そこきは三十二番般若寺とあった。
観音堂に縁起絵も飾られる。「豊島権守の娘 或る時犀が渕に飛入りし一人の美女を舟に乗せ助けしは天冠の上に笠をかぶりし御本尊なり」とある。 悪魚に魅入られ身を投げた豊島権守の娘を助けたのが岩船山の観音さまであった。ということ。この縁起絵と同様の『観音霊験記』を広重が描いている。

観音堂の背後には大きな岩窟。太古秩父まで海が広がっていた頃にできた浸食のあとだと言われる。岩窟には幾多の石仏、石塔、祠の中にも仏が佇む。昭和6年(1931)に法性寺で発見された「長享二年秩父観音札所番付」によればこの岩窟が長享二年当時、般若岩殿と呼ばれた秩父第十五番札所と記され、また現在34の札所がある秩父札所は実正山・定林寺(現在、第17番札所)から日沢山・水潜寺(同34番札所)までの33ヶ所が札所として記載されている。33札所までしかない、ということは、諸説あるも室町時代の天文年間(1532-1555)に、現在の34の札所となる以前の、初期の秩父札所の資料、ということだろう。

般若岩殿と呼ばれた法性寺が秩父第十五番札所であったように、札所の番号も長享番付と現在の番付とは、現在の二十番以外はみな番付が異なる。一番は現在の十七番定林寺、二番が現在の十五番少林寺、三番が現在の十四番今宮坊、三三番が現在の三四番水潜寺、現在一番の四萬部寺は二四番で、順序が大きく異なっている。
順路が変わった要因は、秩父往還のメーンルートの変遷に負うところが大きいようだ。室町時代の秩父往還は名栗→山伏峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷→皆野→児玉→鬼石が中心となっており、秩父観音巡礼はこの道か、吾野通りと称される、飯能→正丸峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷がメーンルートであり、札所番付もその往還に沿ったものとなっている。
巡礼の最も盛んになった江戸時代になると、熊谷通りと川越通りの往還がメーンルートとなったようで、札所1番もこのふたつの往還が交差する栃谷の四萬部寺を一番として、二番真福寺を追加し、山田→横瀬→大宮郷→寺尾→別所→久那→影森→荒川→小鹿野→吉田と巡拝し、三四番を結願寺とした。秩父札所は秩父にしっかりとした檀家組織をもたず、もっぱら江戸の市民を頼りとした。秩父札所の水源は江戸の百万市民であり、その人々がやっとの思いで秩父に入り、最初に出会うお寺さまを、どうせのことなら一番札所とするほうがお客様のご接待、現在で言うところのマーケティング戦略としては効果的であった、ということだろう。
ご詠歌;ねがわくわ はんにゃの舟にのりをえん いかなる罪も浮かぶとぞき

法性寺奥の院
観音堂で寺の紅葉を眺めるも、心ここにあらず。少々怖い奥の院を想う。奥の院には、世に言われる、岩場・鎖場を辿っての大日如来、そして巨大なスラブ(岩の塊)の背を辿っての岩舟観音さまが待ち構える。高所恐怖症の我が身には少々荷が重い。
いつだったか、四国の石鎚山頂上の天狗岩進むも足が竦み「撤退」したこと、先日の四国の歩き遍路でも、岩屋寺の岩壁を掘り抜いた祠に架かけられた、ほとんど垂直の梯子の「上り下り」、特に下りの時の怖さなどを思い起こす。とは言うものの、「怖いもの知らず」のメンバーの「先達」としては、先頭に立ち範を示すに如かず。
観音堂から少し下ったところに巨石が二つ重なって、その間に隙間があるのだが、そこが奥の院への入口。巨石をくぐって山に向かう。

竜虎岩 胎内観音

行く手右側に岩壁が見えてくる、その下に着くと「竜虎岩 胎内観音」の案内。見上げると岩窟があり、そこから鎖が下がっている。一枚岩の岩盤には足がかりが刻まれており、鎖にすがり、足場を確保しながら岩窟に。岩窟には壊れかけた小祠が祀られていた。

小祠にお参りし、再び鎖にすがり元の道まで下る。「怖いもの知らず」の山ガールも少々勝手が違うようで、少々難儀していた姿が微笑ましい。






岩窟の石仏群
更に山道を進む。巨石の脇を通りすぎると急な上りとなる。岩盤に階段が刻まれており、鎖の手すりにすがって上ると岩窟があり、そこには幾多の石仏が横一線に並んでいる。いい表情の仏様である。







大日如来_11時55分;標高392m
岩窟脇に道標があり、「左 岩船観音 右 大日如来」とある。岩船方面へと進むとスラブ(巨大な岩塊)があり、断崖絶壁となっている。素晴らしい眺望。今時の感嘆詞である「やばい!」の言葉が山ガールの口から飛び交う。
スラブ上でしばし眺めを楽しんだ後、大日如来へと向かう。右手が絶壁となった狭い山道を、怖さのあまり左手の崖に生える草木を握りしめ進む。これだけでも結構怖いのだが、その先には岩峰が屹立する。大日如来はその岩峰の上に安置されている。宝暦2(1752)年、西村和泉守作とのことである。
垂直にも思いえる岩壁に下がる鎖に縋り上り終えると、次には絶壁の岩場が待っていた。右手の断崖を極力見ないようにして岩峰上に。岩峰上は二畳ほどのスペースの小さな岩窟となっており、その中に大日如来が佇む。宝暦2年(1752)、西村和泉守作とのこと。岩窟の周囲には鉄の手すりがあるのが心強い。私は早々に狭い岩窟の奥に縮こまるのだが、後から岩場を上る山ガールたちは、あろうことか、鎖から手を離し、手を振りその感激を示す。誠に以て、私にはあり得ない所行である。
メンバー全員が峰上の岩場に着く。大日如来を囲むその岩場は4,5人が肩を寄せ合って立つのが精一杯。高所恐怖症には縁遠い山ガールは鉄の手すりから手を話して眺望を楽しんでいる。動画を撮る余裕のある者もいる。見上げたものである。私は、鉄の手すりにつかまり、かつまた、狭い岩窟の奥に控えるのが精一杯。眺望は素晴らしいが足が竦む。



お船観音_12時13分;標高356m
眺望を謳歌するメンバーを尻目に、早々に下山準備。再び今度は極力左手の絶壁を見ないようにして、鎖に縋り岩場をへっぴり腰で降り、元のスラブの辺りまで戻る。
次の目標はこのスラブの先に佇むお船観音。予想ではスラブは一枚岩でできた「痩せ尾根の馬の背」といったものであったが、実際は断崖の逆側に岩場が緩やかな傾斜で広がっており、それほど怖いものではなかった。



スラブの先端に佇む観音様からの眺めも素晴らしかった。法性寺に二度も訪れながら、一度として辿らなかった奥の院は少々足は竦むも、それに十分に見合うところではあった。





法性寺を離れる_12時41分
岩船観音で時刻をチェックするに、既に12時。もうこれは12時14分発の小鹿野町営バスには到底間に合わない。後は成り行きで段取りを組むことにして奥の院から下山し、仁王門前まで下りる。時刻は12時36分。
昼食をとり、さて、ここで14時48分発の町営バスを待つか、国道299号までの4キロ程度を歩き、松井田バス停発;14時51分のバスに乗るか。少々悩むも、バスを1時間ほど待つよりも、歩くに如かず、ということで徒歩で松井田バス停に向かう。出発は12時41分。少し急ぎ足で歩いて、なんとか間に合う、といった段取りではある。

長若交差点_13時18分
法性寺のある谷筋を流れる「般若川」に沿って進む。ほどなく右手から「釜ノ沢」が合わさるがその手前に嬲谷集落。「なぶりや」と詠む。「からかったり苦しめたりしてもてあそぶこと」の意味。凄い地名ではある。
般若川と釜ノ沢合流した川筋が長い年月をかけて開析したであろう平坦な野を進み、長若交差点に。長留とか般若といった地名はあるのだが、長若って?チェックすると、明治22年(1889) 町村制施行により、長留村,般若村が合併して秩父郡長若村が成立した。昭和30年(1955)に小鹿野町と合併し、その村名は消えたが、交差点名はその名残ではあろう。
長若交差点では県道209号と県道43号が交差する。ふたつの県道は一時同じ道筋を南に走り、蕨平交差点で二手に別れ、43号は南西に向かい、秩父鉄道白久手前で国道140号と合流。一方の209号は南東に向かい、長尾根丘陵の南端を経て荒川を渡り、秩父鉄道影森近くで国道140号と合流する。

長留川
交差点を越え、県道43号を北西に進むと長留川(ながる川)。「長留・永留」は「長く留まる状態」を示す。「長留」は「母の胎内に16年留り、ヤマト姫を待つて8万年も宮に留まり、世に208万年間留まったといわれる「猿田彦」を現す詞とも言うが、まさか、猿田彦まで遡るとも思えず、一説には「水辺の上手の道」のことを示す、といった地形を現す表現に由来するの、かとも。単なる妄想。根拠なし。
その長留川の上流をチェックすると、馬場とか屋敷平とか、旗居、番戸原といった、いかにも武将の館があったような地名が残る。実際上記二つの県道が分岐する蕨平の辺りには長留館と称される中世の館跡がある、とか。地図をチェックするに、蕨平の辺りは、長留川の川筋を遡り雁坂道に至る道筋と、秩父・大宮への道筋の分岐点。往還を扼する拠点ではあったのだろう。

茅株稲荷神社
長留川を渡り茅株、長留地区を進む。道脇に茅株稲荷神社。茅株地区由来の社だろう、か。往昔は茅葺屋根のための茅、そしてその株は大切なものであったのだろう。茅株を掘り、そして移植する職人も多くいたのだろうか。これまた単なる妄想。根拠なし。





松井田バス停
道を進むと道脇に宮本の湯。農家屋敷と囲炉裏の湯。時刻は14時40分を過ぎている。バスを誘導する職員さんに松井田バス停を確認。道なりに進めば5分程度でバス停に着くとのこと。なんとか14時51分のバス間に合いそうである。急ぎ足でバス停に到着。数分待ってバスに乗り、西武秩父駅に向かう。




西武秩父から長瀞
西武秩父から長瀞までは秩父鉄道を利用し、長瀞の紅葉を楽しみ本日の散歩を終える。毎度のことながら、長瀞で田舎で子供の頃、おばーさんにつくってもらった「柴餅」、柴とは言いながら、サルトリイバラの葉で包んだお饅頭によく似た。秩父の田舎饅頭をお土産に一路家路へと。





■観音霊場について

○観音霊場巡礼をはじめたのは徳道上人
観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と言われる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れ、曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。黄泉がえった上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印とは、人というものはズルすること、なきにしもあらず、ということで、本当に三十三箇所を廻ったかどうかチェックするために用意されたもの。スタンプラリーの原型、か。

○観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇
今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。その後、河内石川寺の仏眼上人の案内で中山寺の宝印を掘り出し、播磨・書写山の性空上人を先達として、中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡った。これが契機となり観音巡礼が再興されることになるわけだ。
この花山法皇、熊野散歩の時に出合って以来、散歩の折々に顔を出す。鎌倉・岩船観音でも出会った。東国巡行の折、この寺を訪れ坂東三十三箇所観音の二番の霊場とした、と。花山法皇って、何ゆえ全国を飛び廻るのか、少々気になっていたのだが、観音信仰のエバンジェリストであるとすれば、当然のこととして大いに納得。鎌倉・岩船観音をはじめ坂東札所10ケ所に花山法皇ゆかりの縁起もある。が、もちろん実際に来たかどうかは別問題。事実、東国に下ったという記録はないようだ。坂東札所に有り難味を出す演出であろう。
それはともかく、花山法皇の再興により、霊場巡りは、貴族層に広まった熊野参詣と相まって盛んになる。さらに時代を下って鎌倉時代には武家、江戸時代には庶民層にまで広がっていった。ちなみに、播磨の国・書写山円教寺は西の比叡山と称される古刹。天台宗って熊野散歩でメモしたように、熊野信仰・観音信仰に大きな影響をもっている。中山寺は真言宗中山寺派大本山。聖徳太子創建と伝えられる、わが国最初の観音霊場。石川寺って、よくわからない。現在はもうないのだろうか?ともあれ、縁起の中には観音信仰に影響力のある人・寺を配置し、ありがたさをいかにもうまく演出してある。


○観音霊場巡礼の最初の記録は1090年
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後三井寺の覚忠が那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。園城寺も三井寺も密教というか、熊野信仰というか、観音信仰に深く関係するお寺。熊野散歩のときメモしたとおり。で、「三十三ケ所」と世ばれていた霊場が「西国三十三ケ所」と呼ばれるようになったのは、後に坂東三十三霊場、秩父巡礼がはじまり、それと区別するため。

○坂東三十三霊場
鎌倉時代にな り、平氏追討で西国に向かった関東の武士団は、京都の朝廷を中心とした観音霊場巡礼を眼にし、朝廷・貴族なにするものぞ、我等が生国にも観音霊場を、と坂東8ケ国に霊場をひらく。これが坂東三十三霊場。が、この巡礼道は鎌倉が基点であり、かつまた江戸が姿もなかった頃でもあり、その順路は江戸からの便宜はほとんど考慮されていなかった。ために江戸期にはあまり盛況ではなかった、ようだ。

○秩父観音霊場の縁起
で、やっと秩父観音霊場についてのメモ:秩父巡礼がはじまったのは室町になってから。縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめた長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなど、観音さまと縁の深いキャスティングをおこなっている。秩父観音霊場巡礼のありがたさを演出しようとしたのだろう。で、この 伝説は、500年以上も秩父の庶民の間に語り継がれた、とのことである。

○はじまりは「秩父ローカル
とはいうものの、縁起というか伝説は、所詮縁起であり伝説。実際のところは、修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず。

○秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから
この秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから。江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たのも大きな理由。江戸の商人の経済力も大いに秩父札所の支えとなった。秩父巡礼は江戸でもつ、とも言われたほど。そのためもあってからか、江戸からの往還の変更により、巡礼の札番号も変わっている。秩父札所も単に江戸からのお客さまを「待つ」だけでなく、江戸に打って出て、出開帳をおこなっている。「秩父へおいでませ」キャンペーンといったところだ。
秩父札所の宗派については、上でメモしたように江戸期までは修験者が中心だった。その後は禅宗寺院が札所を支配するようになった。宗派の内訳は曹洞宗20、臨済宗南禅寺派8、臨済宗建長寺派3、真言宗豊山派3で、禅宗の多さが目立つ。

○秩父が33ではなく、34観音札所になったのは?
秩父が34観音になった時期については、諸説ある。16世紀後半には観音霊場巡礼が全国的になり、西国・坂東・秩父観音霊場をまとめて巡礼するようになってきた。で、平安時代に既に京都に広まっていた「百観音信仰」の影響もあり、全国まとめて「百観音」とするため、どこかが三十三から三十四とする必要がでてきた。霊場としては秩父霊場が歴史も浅かった、ということもあり、秩父がその役を受け持つことに。ために、大棚観音こと、現在の第2番札所真福寺を加え、三十四ヶ所と改められた、とか。もっとも、大棚観音が割り込んできたので、その打開策として「百観音」を敢えて提唱した、とか諸説あり真偽の程は不明。 ともあれ、諸説あるも、34の札所が成立したのは室町時代の天文年間(1532-1555)と言われる。
「三十三」って観音信仰にとっては大きな意味がある数字。観音さまが、衆生の願いに応えるべく、三十三の姿に化身(三十三見応現)とされるから,である。その重要な三十三を三十四に変えるって、結構大変なことだったと思うのだが、それ以上に「百観音」のもつ意味のほうがおおきかったのであろうか。なんとなく釈然としないのだが、門外漢としてはこれ以上の詮索・妄想もできないので、このあたりで観音霊場巡礼のまとめを終える。

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