古甲州道 そのⅠ;秋川筋を歩く

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秋川丘陵・秋川筋を五日市・戸倉まで
中里介山の小説に『大菩薩峠』がある。主人公の机竜之介が大菩薩峠で人を殺める。このシーンがずっと気にかかっていた。何故、1,900mもある峠に浪人がぶらぶらする必要があるのか、まったくわからなかった。この大菩薩峠が中世の甲州街道、今で言う主要国道筋であると知ったのは、つい最近のこと。武蔵と甲斐を結ぶ幹線道路であるとすれば、浪人や商人が往還してもなんら不思議では、ない。
現在の甲州街道は国道20号線。高尾から大垂水峠を越え、山梨に進む。江戸時代の甲州街道は高尾から小仏峠を越え相模湖付近の小原に下り、上野原から談合坂方面の山裾を通り鳥沢に下り、大月の西で笹子峠を越えて甲斐に至る。
今回辿る中世の甲州街道、別名、古甲州道は、府中からはじまり日野に進み、日野からは谷地川に沿って南北加住丘陵の間の滝山街道を石川、宮下と北上し、戸吹 で秋川丘陵の尾根道に入る。尾根道を辿った後は網代で秋川筋に下り、五日市の戸倉から檜原街道を西進。檜原からは浅間尾根を辿り青梅筋の小河内に下り、小菅を経て大菩薩を越え塩山に抜ける。
古甲州道を辿っての大菩薩行きを何回かに分けて歩く事にする。第一回は秋川丘陵の東端からはじめ、尾根道を進み、秋川筋の南側を五日市・戸倉まで歩くルート。おおよそ16キロとなった。



本日のルート:JR武蔵五日市線東秋留駅>東秋留橋で秋川を渡河>七曲り峠を越えて戸吹町>古甲州道の道筋滝山街道>上戸吹で秋川丘陵下の里道を経て尾根筋>尾根道を辿って御前石峠で旧鎌倉街道山ノ道に合流>網代から秋川南岸の谷筋の道>高尾、留原、小和田>佳月橋で北岸に>小中野で檜原街道に出る>JR武蔵五日市駅に出る


JR武蔵五日市線の東秋留駅
さて、散歩をどこからはじめようか、と少々考える。府中から日野ははじめからパス。車の騒音激しい国道歩きは御免蒙りたい。日野から先の滝山街道は、滝山城への散歩で既に歩いているし、これとても通行量の多い車道筋である。
車の騒音に煩わされないスタート地点を探す。秋川丘陵に入る手前の戸吹あたりがよさそう。が、交通の便がよろしくない。最寄りの駅はJR武蔵五日市線の東秋留駅だが、結構歩かなければならない。致し方なし、ということで中央線、青梅線と乗継ぎ拝島で武蔵五日市線に乗り東秋留駅に。

地蔵院
駅を降り、ひたすら秋川を目指す。南に向かって成り行きで進む。秋川
に近づくと川筋に向かって坂を下る。崖に沿った道は河岸段丘のハケの道。左手には加住丘 陵、右手には今から目指す秋川丘陵が見える。と、坂の下にお寺さま。用水路に沿って進むと門前に。門前にたたずむ3体の石仏にお参りし先に進む。

東秋留橋
ほ どなく秋川に架かる東秋留橋の袂に。秋川はその源を三頭山に発し、福生と昭島の境目あたりで多摩川に合流する。多摩川水系で最大の支流でもある。橋の北詰 に西光寺。境内に観音様があり、ために寺横にある坂は観音坂と呼ばれる。この西光寺のあたりには昔、渡しがあった。鎌倉街道のメーンルートは、この西の秋 川丘陵の中を通るが、ここにはその支道や間道が通っていたのだろう。

七曲り峠
人道橋も併設した東秋留橋を渡り秋川の南岸に。目の前には加住丘陵が横
たわる。スタート地点の戸吹に行くには、この丘陵の七曲峠を越えることになる。峠道を上る。昔は七つのカーブがあったのだろうが、現在はふたつ。大きな道路道となっており、古道の面影は、ない。
時に後ろを振り返り、秋川やその後ろに控える秋留野の台地の景色を楽しみながら、峠を越える。下りは一直線。ほどなく滝山街道との交差点・戸吹町に出る。滝山街道は古甲州道。大菩薩へと向かう古甲州道散歩のスタート、である。

谷地川
滝 山街道を進む。車の通行が多く、時に怖い思いも。滝山街道のすぐ西側には谷地川が流れる。秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵の流れを集めた谷地川は、上戸吹から滝山街道にそって南東に流れ、日野に入ると日野台地の北かすめて東に流れを変え、JR中央線の鉄橋のすぐ上流で多摩川に合流する。北を北加住丘陵、南を南加住丘陵に挟まれた回廊のような低地を進む古甲州道は、谷地川沿いに開かれていったのだろう。
いつだったか滝山街道沿いの滝山城跡に上ったことがある。この城もそうだが、あと五日市・戸倉の戸倉城、檜原の檜原城など、何故に、こんなところに城を築く必要があるのだろう、と考えたことがある。ほとんどが小田原北条氏が甲斐の武田に備えたもの。今回古甲州街道のルートを見て、それぞれの城は、この古甲州街道の道筋にあることがわかり、大いに納得。散歩を続けると、あれこれが繋がって、わかってくる。

桂福寺
滝山街道を北上すると道の右手に朱色の鐘楼山門。美しい門に惹かれて足を止めると、そこは桂福寺という禅寺。17世紀の始め、寛永の頃に開かれたお寺。このお寺は
新撰組の隊長である近藤勇が体得した天然理心流発祥の地。創始者近藤長裕は上州館林藩の出。浪人となりこの戸吹の地で道場を開く。二代目近藤三助、三代目近藤周介と続き、江戸に道場を開いた周介の後を継ぎ四代目となったのが近藤勇である。寄り道したおかげで、思いがけない史跡に出会った。とりあえず足を運ぶ、ってスタンスを再確認。

分岐点「上戸吹西」
滝川街道を進むにつれ、次第に秋川丘陵が近づいてくる。バス停「上戸吹」を過ぎると「上戸吹西」。滝山街道はここで大きくカーブし秋川丘陵を越えてゆく。古甲州道はこの分岐点で滝川街道と離れ、谷地川にそって秋川丘陵の南麓を進むことになる。

根小屋城址
分岐道へ入ると静かな集落。上流部に近づき、細流となった谷地川に沿って里を進む。
ほどなく、「根小屋城跡(二条城跡)この先800m」といった道標。道を右に折れ、秋川丘陵の尾根道に向かう。竹の葉で覆われた山道を上り尾根道に。そこにぽつんと祠が残る。そこが根小屋城址。
城址と言われても、何があるわけでもない。近くに空堀の遺構が残るというが、門外漢のわが身には、いまひとつよくわからない。よくわからないが、戦国の昔、この地に砦はあったのは事実のよう。滝山城を手にいれた北条氏は、秋川筋からの武田に備え、この砦を監視場とした、と言う。とはいうものの、永禄12年(1560年)、小仏峠からの武田軍の急襲以来、北条氏は加住丘陵の滝山城を捨て、裏高尾に八王子城を築く。ために、秋川筋の戦略的重要性も減り、この砦は不要となり捨て置かれてしまった。なお、この城というか砦は二条城とも新城(ニイジョウ)とも呼ばれる。サマーランド近くにある二条山の因るのだろ う。

「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」


秋川丘陵の尾根道
根小屋城址から先、古甲州道は秋川丘陵の尾根道を走る。山道を進み、少し下った先に
T字路があり、ここで古甲州道は秋川丘陵の幹線尾根に当たる。道標があり、「網代弁天5.0km、武蔵増戸4.8km、二条城0.3km、秋川駅4.2km」といった表示。右に折れ網代弁天方面に進む。網代は「漁場」と言った意味。
T字路からは道幅はやや広くなる。が、周囲に雑草が茂る。少し進むと、道脇にふたつの石仏。石仏の後ろの石段を上るとささやかな祠。十一面観音が祀ってある。先に進み、深い谷筋脇の尾根道を過ぎると道は上り。上りきったところは木が払われ明るく開けた広場となる。再び道標「網代弁天4.3km、上戸吹バス停2.1km、二条城1.0km」と。
この広場から先は起伏もそれほどなく、ゆったりした尾根道。笹の茂る道は心地よい。しばらく進むと左手にゴルフコース。八王子ゴルフ場。ゴルフ場のフェンスにそって、ふたつほどささやかな広場をやり過ごして進むと霊園に近づく。上川霊園である。菊田一夫さんが眠る。ラジオドラマ「君の名は」で有名な脚本家である。とはいっても、「君の名は」を知っているのは、我々団塊の世代くらいまで、だろう、か。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」といった番組冒頭のナレーションとか、「君の名はと たすねし人あり その人の 名も知らず 今日砂山に ただひとり来て 浜昼顔に きいてみる」という歌など、きっちり覚えているのだけど。。。

鎌倉古道と合流
緩やかな坂を下ると尾根道は左右に開ける。鞍部になっているこのあたりは駒繋峠とか御前石峠と呼ばれる。道標には「右手は二条城2.8km、秋川駅6.7km、左手は網代弁天山2.5km、武蔵増戸2.3km」と。
この峠に南から向かってくる道は鎌倉街道山ノ道、通称秩父道と呼ばれる。秩父方面と鎌倉を結ぶ主要往還である。尾根道を進んできた旧甲州道はこの峠で秩父道と合流し、秋川に下るまでしばしの間、同じ道筋を進む。
鎌倉街道、って「いざ鎌倉」、と一旦鎌倉で事が起こった時に馳せ参じる道のこと。もっとも、こういった軍事面だけでなく、経済の流れにも欠かせない道筋であった、よう。また、鎌倉街道といっても、とりたてて新しく道を作った、というより、それまでにあった道筋を整備し、鎌倉との往還を容易にしたもの、と。ために鎌倉街道は間道や支道までを含めると数多くあるのだが、主要なものは秩父道と呼ばれるこの鎌倉街道山ノ道、上ノ道、中ノ道、下ノ道といったもの。鎌倉街道のあれこれは、先日高尾から秩父まで歩いた散歩のメモをしたので、ここでは省略。

駒繋石(御前石)
鞍部を離れ、秋川筋に向かう。道はカーブしながら少し上りとなる。道脇の草むらに駒繋石(御前石)。鎌倉武士の鑑と目される畠山重忠が秩父から鎌倉への途中、馬を繋いだとされる石。三角錐の石には馬を繋いだとされる穴が残る。小さい穴であり、これが本当に駒繋の石なのか、何度も見直したほど、ではあった。言い伝えによると、駒を繋ぐ適当な石がなかったので、重忠が指を押し当ててあけた穴、ということであり、それであれば、それなりの穴であろう、と納得。駒繋峠(御前石)峠は、この石に由来すること
は、言うまでもない。
畠山重忠は文武に秀でた鎌倉武士。秩父や奥武蔵、そして青梅などに重忠ゆかりの地は数多い。妻との別れを惜しんだ妻坂峠、待ち構える女性を避けて山道を歩き、持っていた杖が折れたことが名前の由来となった棒の折山、遊女との恋の道行がその名の由来となった恋ヶ窪などなど、数え上げればきりがない。北条の謀略により二俣川で討たれた、悲劇の主人公であったことも一因ではあろうが、武蔵で最も人気のあった武将のひとりであったようだ。

網代トンネル出口
道を進む。道の北側はフェンスが張られている。そのむこうは木々が伐採され、開けてい る。そこは廃棄物処理場。しばらく道を下ると道の左脇はゴルフ場となる。東京五日市カントリークラブ。先に進むと道の両側にグリーンが広がる。そこまで下ると前方に秋川の北岸の丘陵地帯が見えてくる。草花丘陵だろう、か。さらに下り網代トンネル出
口あたりに出る。



山田大橋南詰め
トンネルから出た車道の先は山田大橋。橋まで進み、秋川の流れを楽しむ。駒繋ぎ峠から重なってきた秩父道と旧甲州道は秋川のほとり、山田大橋南詰めで再び別れる。秩父道はここから秋川を渡り馬引沢峠、または梅ガ谷峠を越えて青梅の軍畑に進み、そこから榎峠、小沢峠を越えて名栗の谷に入り、妻坂峠を越えて秩父に向かう。旧甲州道は秋川を越えることなく、秋川の南岸を五日市の戸倉へと進むことになる。

弁天橋
山田大橋南詰め手前から坂を下り、坂道が山田大橋の下に入り込む手前で、民家前の路地を左に折れる。路地に入ると杉林の中を進む小道となる。しばらく進むと弁天橋。秋川の支流に架かる。この橋からの眺めもなかなか、いい。
弁天橋を渡ると橋の袂に禅昌寺。先に進むと車道に合流。道端にお地蔵様が2体。その後ろの丘にお稲荷さんの祠があった。この合流点を左に折れれば網代温泉へと続くのだが、旧甲州道はそのまま直進。旅館「網代」脇の坂を下るとT字路にぶつかる。網代橋から上ってきたこの道を左に折れ、高尾、留原へと向かう。

網代城址
山裾の道を進む。ほどなく秋川が近づく。美しい秋川渓谷を眺めながら先に進むと、やがて民家が現れる。先に進むとT字路。右に行けば高尾橋。旧甲州道はここを左に折れる。
坂道を上って行く。坂の途中に高尾公園には梅林が見える。道の反対側には大光寺。大光寺を越えると坂は終わり。その左手に高尾神社。社殿はちょっと奥まった所にある。足早にちょっとお参り。
このあたりまで来ると民家も少なくなる。ほどなくT字路に。道標があり、「網代城址、弁天山」と。網代城址って、もとは南一揆のこもった砦、とか。南一揆って、15世紀の中頃、地侍を中心にまとまった農山村民の自衛集団。が、この南一揆も16世紀の中頃となると、滝山城の北条氏によって潰され、ここにあった砦も甲斐の武田に備える滝山城の支城となった。それが網代城である。南一揆の頭領としては小宮氏、貴志氏、高尾氏、青木氏などがいる。

留原

T字路帯横には天王橋と言う橋。やがて道の両サイドに畑が広がる。ほどなく小峰峠から下り降りてきた秋川街道と交差する。「留原」(トトハラ)交差点。秋川街道を北進すると秋川橋で秋川を渡りJR武蔵五日市の駅に至る。
旧甲州道は交差点を横切り更に真っ直ぐ進む。樹木で覆われた山裾の長い下り坂となる。HOYAの工場の裏手をかすめ、小和田グランド脇を先に進むと秋川沿いの道となる。
留原は中世には「戸津原」、近世は「渡津原」と書かれている。「トツハラ」>「トッパラ」>「突つ原」、ということで、「突き出した原」。地形的にはよくなじむ説である。また、「トドハラ」と濁ると、「トド」は「イタドリ」。イタドリの採れた原っぱ、という説もあるが、定説はない(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。
ちなみに、愛媛では「たしっぽ」、関西では「すかんぽ」などと呼ばれる茎に酸味のある山菜。子どものころ、よく山に採りにいったものだ。先日、津久井の丘陵地を歩いていた時、道ばたにタシッポを見つけ、子どもへのお土産に持って帰ったのだが、子どもたちは嫌々、一口歯を入れただけて、それっきり見向きもしなかった。

小和田橋
前方上流方向に堰。その先に小和田橋が見える。対岸に阿伎留神社がある。いつだったか阿伎留神社を訪ねたことがある。歴史は古く、延喜式には武蔵多摩郡八座の筆頭。武将の信仰も篤く、藤原秀郷は将門討伐の祈願に訪れたと言うし、頼朝、尊氏、後北条氏、家康などからの寄進を受けている。秋川沿いの古木に囲まれた境内は、いい雰囲気であった。小和田橋の手前から川沿いの小道を進み、橋の袂からは南に折れ、小和田の里を進む。小和田(オワダ)の「和田(ワタ)」は「川岸や海岸の湾曲した地形を表す、と。地形的には、その通り。また、「オワダ」には小さな集落との意味もある、と言う(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。はてさて、地名の由来に定説なし、がまた増えた。

広徳寺
畑の広がる道を歩く。左手になだらかな丘陵が見える。日向峰と呼ばれるようだ
。ゆったりとした坂を上ってゆくと、丘陵へ小径が分岐。広徳寺への参道である。参道入口には庚申塔など石仏・石塔が並ぶ。
丘陵を上ると境内に。開基は南北朝期というから14世紀の末、この地の長者の妻による。戦国期は北条氏の庇護を受けた。とか。本堂、山門、ともに堂々とした構え。特に山門は、如何にも「渋い」。如何にも、いい。道から離れ、丘に上るのには少々躊躇いもあったのだが、やはり、とりあえず行ってみる、って精神を改めて確認。

佳月橋
広徳寺を離れ、道に戻る。先に進み民家の中を歩くと分岐点。「佳月橋」の道案内。古甲州道は、佳月橋へと続く。急な坂を下り、ちいさな沢を渡り、分岐点を右に折れると佳月橋に。旧甲州道はここで秋川南岸から北岸に渡ることになる。橋の上からは秋川上流に戸倉城山が見える。戸倉城山には一度上ったことがあり、その特徴的な山容を覚えていた。留原あたりから遠くに見え始めてはいたのだが、ここまで来ると、くっきり、はっきり迫ってくる。
戸倉城は15世紀頃、南一揆の頭領のひとり、小宮氏により築かれたとする。戦国期には大石氏が居城であった滝山城を離れこの戸倉城に隠居した、とか。元は関東管領上杉方の重臣であった大石氏ではあるが、川越夜戦での勝利などで力をつけた小田原北条氏の圧力に抗しきれず、北条氏照を娘婿に迎え滝山城を譲り、自身はこの地に移った。とはいうものの、一筋縄ではいかない大石氏故に、諸説あれこれあり、大石氏のその後の動向についての定説はない。
この戸倉城、上りは結構怖かった。麓の光厳寺から上っていくのだが、南の盆堀川の崖上を進む尾根道にビビリ、山頂寸前の岩場に溜息をついた。山頂はほとんど狼煙台程度の
広さ。東の眺め眼下一望。西はここからは今ひとつよくなかったが、南北秋川の号合流点にある檜原城からこの戸倉城山はよく見えた。檜原城、秋川渓谷入口にあるこの戸倉城、秋川丘陵にある根小屋城、秋川と多摩川の合流点にある高月城、そして滝山丘陵にある滝山城へと続く「煙通信」の砦、と言うか、狼煙台であったのだろう。

檜原街道

佳月橋を渡り秋川沿いの道を進む。渓谷の雰囲気が増す道を進むと川沿いの道は行き止まり。ここからは道を右に折れ、民家の軒先をすり抜け急坂を上ると檜原街道に。そこはほとんど、檜原街道と本郷通りの分岐点である小中野の交差点。角には料亭黒茶屋。落語家、三遊亭歌笑さんの生家、とか。
古甲州道はここを本郷通りに折れ、沢戸橋を渡り、すぐ先で右に折れ、戸倉城山下の道(本郷通り)を通って再び檜原街道に戻り、檜原本宿へと向かう。が、今回の散歩はこれでおしまい。ぶらぶらと、途中五日市郷土館に立ち寄ったりしながら武蔵五日市駅に向かい、一路家路へと。

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