讃岐 歩き遍路:六十九番札所 観音寺から七十番札所 本山寺、七十一番 弥谷寺へ

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六十七番札所・雲辺寺からはじめた讃岐遍路歩きも阿讃山脈の山道を下り、讃岐の里道を辿り六十九番札所・観音寺まで進んだ。
今回は観音寺からはじめ、七十番札所 本山寺、七十一番 弥谷寺へと向かう。観音寺から本山寺まではおおよそ5キロ、本山寺から弥谷寺まではおおよそ11キロ。17キロはどの長丁場となる。
観音寺から本山寺までの遍路道は、本山寺近くに行くまで標石が乏しく、特に観音寺市街にはほとんどと言っていいほど標石が見当たらない。特段の標石マニアではないのだが、旧遍路道の目安としている標石がないのは、旧遍路道を歩いているといった実感に乏しくちょっと残念。一方、本山寺から弥谷寺までは標石も多く、遍路道の周辺にもあれこれ興味を引く名前の社などがあり、ちょっと立ち寄りも多くなってしまった

雲辺寺からはじめた讃岐の遍路歩きは、まだはじまったばかりではあるが、何となく伊予の札所と趣が異なるように感じる。特段の理由が有るわけでもなく、何となくである。もう少し歩けば、その因がもう少し見えてくるものがあるかもしれない。ともあれ、今回は観音寺市からお隣の三豊市に入り、その先の善通寺市の手前まで讃岐の里の遍路道をメモする。


本日の散歩;六十九番札所 観音寺>旧市街を抜け県道5号に>県道5号を県道49号・村黒町交差点に>立専寺>加麻良神社>六地蔵と標石>本山寺橋南詰めの標石>七十番札所 本山寺
七十番札所 本山寺>三差路の標石>四国の道の標識と標石>茂兵衛道標(100度目)>妙音寺>忌部神社石標>>忌部神社>茂兵衛道標(157度目)>大津池西南隅の茂兵衛道標(164度目)と標石>宇賀神社>七義士神社>東角屋池傍の徳右衛門道標>>異形十三重塔>加茂高津神社>茂兵衛道標(150度目)>県道221号と国道11号合流点手前に標石>標石を兼ねる石造群>常夜灯と標石>落合の標石>落合大師堂>地蔵尊傍の標石>手印のみの標石>弥谷寺の寺名石>八丁目大師堂>第七十一番札所・弥谷寺

六十九番札所 観音寺
六十九番札所 観音寺から次の札所への遍路道は、財田川の北を辿るものと南を辿るものがあったようだ。しかし、現在そのルートは共にはっきりしていない。今回はちょっと気になる標石が残るという財田川の南側、旧市街を進むことにした。

旧市街を抜け県道5号に
琴弾山東麓に沿って琴弾八幡の大鳥居まで戻り三架橋を渡る。旧遍路道南側に渡ると成り行きで旧市街の細路に入る。しばらく北東へ歩き、道の左手に白藤稲荷(茂西自治会館傍)。ささやかな稲荷の社ではあるが、かつては近郷近在だけでなく、伊予の川の江からも参詣に訪れたという。小祠の先で県道5号に出る。

県道5号を県道49号・村黒町交差点に
県道5号の右手に観音寺第一高等学校、左手に荒魂神社。社にお参りし先に進むと県道49号・村黒町交差点にあたる。その手前100mの辺りに左に分岐する旧道があり、その角に標石があったとのこと。この標石が前述の「」ちょっと気になる標石であったのため、結構探したのだが見当たらなかった。
添歌付標石
標石には「生連来て残る毛能こそ石者はかり 我が身ハ消えしむかし成ら無(生まれ来て残るものこそ石ばかり 我が身は消えし 昔なるらむ)」と刻まれていた、とのこと。観音寺の商人三崎屋亦八の立てたものではないかとも言われる。
これは伊予の遍路道、西条市(旧小松町)の六十二番札所・宝寿寺から六十三番・吉祥寺に向かう途次に立っていたという茂兵衛道標(東宇和郡宇和町卯之町の愛媛県歴史文化博物館に保存)の添え歌「うま禮来天能古留茂の登天石はか里 我身ハ消へし無可能志な里希り」の元歌では、との記事もあった。
旧道角は更地となっていた。更地にする時にどこかに移されたのだろうか。ちょっと楽しみにしていただけに少々残念であった。

立専寺
右手に高木神社を見遣り県道5号を進むと、道の左手に加麻良神社の名が地図にある。名前に惹かれちょっと立ち寄ることに。社傍に西連寺、立専寺の名も見える。そのお寺様経由の道を進む。西連寺、立専寺にお参り。
立専寺の鐘楼の撞木は滑車付き。こんな撞木初めて目にした。この鐘楼は明治の神仏分離の折、琴弾八幡宮より移されたもの、と言う。


加麻良神社
道なりに進み独立丘陵に鎮座する加麻良神社に。

三ッ鳥居
本殿参道を進むと、参道脇に注連縄のはられた鳥居が建つ。特に社殿はない。横にあった案内には、この社は讃岐で最も古い社で、延喜式内社として記される以前より鎮座する。またこの丘陵そのものが神体山・御神室山(橘亀山)である、とする。
鳥居は三ッ鳥居(三輪鳥居)様式。明神鳥居の両脇に小さな鳥居が並ぶ。神体山そのものを祀るものとして平成十二年(2000)に建てられた、とあった。加麻良は神室からの転化である。
本殿
讃岐にある24の延喜式内社が並ぶ参道を進み本殿にお参り。本殿境内に木の鳥居。橿原神宮遥拝所とあった。
社伝には、この社は大己貴神(おおなむち;)と少彦名神(すくなひこな)の2神による四国経営の御霊蹟と。ここから四国の開発がはじまった、という。鎮座地の流岡は、三豊市高瀬にある大水上神社に(香川用水散歩の折に訪れた)来た少彦名神が毎夜泣き叫ぶため、大水上神は桝に乗せて流したところ、当地に流れ着いたとの故事による。周囲一面が海であった頃の話、とか。

延喜式内社
延長5年(927)の『延喜式』に記載された全国の神社一覧。「官社」として認められた社ということである。

六地蔵と標石
予讃線を潜り県道5号を先に進むと道の左に六地蔵。石の小祠の中にある。常の六地蔵は六体並び立つが、この六地蔵は一石に二躰づつ、三段に分かれて彫られた坐像となっている。こんな六地蔵を見たのは初めて。
六地蔵脇に県道から分岐した細路があるが、石祠の傍に標石。「左本山寺四丁 右又右金毘羅四里 願主 上市浦観音寺 三崎屋亦八」と刻まれる。前述の県道49号手前にあったとされる添歌標石の寄進者とされる商人である。三崎屋亦八の詳細不詳。
「右又右」は右折を二回しろ、ということ。伊予見峠を越えて金毘羅さんに向かう金毘羅道の案内だろう。

本山寺橋南詰めの標石
標石に従い細路を進む。観音寺市と三豊市の市境なっている細路を進むと財田川の土手に出る。
土手を進むと財田川に架かる本山寺橋の南詰に標石。「右いよ 左小松尾寺 明治廿二年」と刻まれる。川の真ん中で観音寺市から三豊市に入る。
いよ街道
「いよ」は旧伊予街道のこと。律令時代の南海道太政官道である。先回の散歩で茂兵衛道標と真念道標の立つ旧伊予街道と出合ったが、そこから道を辿ると、如何にも太政官道の名残を伝える「大道」といった地区を抜け、この地に繋がる。
旧伊予街道の道筋でもある本山寺橋を渡る。対岸には本山寺の堂宇、五重塔が見える。結構大きなお寺さまのようだ。


七十番札所 本山寺

橋を渡ると、旧伊予街道に面して七十番札所 本山寺の山門。大草鞋が左右に架かる

山門手前の標石2基
山門左の標石には「右遍路道 左うら門与寺門入納経所あり 寛政九丁巳」と刻まれる。丁巳は「ひのとみ」。
右の標石には「七十一番彌谷寺程三里 六十八番九番観音寺里程一里 昭和二年 市出商人連中」と刻まれる、と言う。市出とはこの地で市を出した商人達のよう。
寺前を通る伊予街道を讃岐と伊予の商人が、阿波の野呂内からは六地蔵越え辺り(野呂内越え)を越えて下って来た阿波の商人達が、この地にて市を開く交通の要衝であったとのことである。


本堂
境内正面に本堂。本尊は馬頭観音。四国霊場で馬頭観音を本尊とするのはこのお寺様だけである。建物は香川唯一国宝に指定されている。伊予と讃岐、また阿波からの往還の要衝の地故に、牛馬を大切にしたことだろう。







大師堂
平成26年(2014)に大師像が開帳され、毎月21日に開帳されている、と言う。折から参拝に訪れたバスでの団体参詣の方々がお大師さまにお参りしていた。









五重塔重塔
本堂裏手に大正二年(1923)に再建された五重塔。












十王堂
本堂左手に十王堂。十王とは閻魔王を含めた10尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ置送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰より、このお堂にお参りするのだろう。







鎮守堂
十王堂の左に社のような建物。神社によく見る注連縄がはられる。室町末期の様式を残す小さな社は鎮守堂。檜皮葺き屋根が素朴でいい。
この社には善女龍王像を祀る。請雨秘宝の霊神とされる龍王の一尊。弘法大師が京都神泉苑にて雨請の修法をおこなった時にその勧請により姿を現したとされる。





仁王門
境内南端に仁王門。室町中期の建物とされ重要文化財に指定されている。正面三間、奥行き二間一戸。正面柱間三つの内の真ん中の一間が通路となっている。








北端冠木門の茂兵衛道標
境内北端にある庫裏の旧伊予街道側に冠木門。その外に茂兵衛道標。摩耗が激しく手印が見えるのみ。茂兵衛127度目巡礼の際のものである。

寺伝によれば、この寺は弘法大師一夜建立の寺とされる。大師自ら阿波の国から木材を伐採した、と。前述伊予・讃岐・阿波からの交通の要衝と記した如く、阿讃山脈を越えた交流が古よりあった、ということか。
四国の寺は長曾我部四国攻略の折に灰燼に帰したものが多いが、このお寺さまは本堂、仁王堂が焼失を免れている。阿弥陀如来が住職の身代わりとなり寺を救ったとのお話が残る。
また、このお寺は農民一揆の集結地としても知られる。いつだったか香川用水散歩の折、七義士神社に出合ったが、この社に祀られる七名の有力農民に率いられ当時の三野郡、豊田郡、多度郡、那珂郡を巻き込む大規模な農民一揆であったよう。
なおこのお寺さまは京都の石清水八幡神を祀る。嘉禎2年(1236)京都石清水八幡宮の末社別当寺として二千石が給され祈祷所と定められたという。二千石の寺領をもち、七堂伽藍、二十四坊を有する四国有数の大寺院であった、とのことである。

三差路の標石
本山寺を離れ、寺家と言う如何にも門前町の名残を示す地名の街並みを少し進むと北西から合わさる道との三差路。その角に標石が立つ。手印と共に、「彌谷寺」の名が刻まれる。








四国の道の標識と標石
さらに道を進むと、南からの道と合わさる三差路角に「四国のみち」の標識と木の遍路標識があり、その傍に標石が立つ。手印と共に「是ヨリ東二丁 世話人藤田 本田」「平城天皇勅願所四国霊場第七十番 大同弐年九月下旬弘法大師一夜建立 本堂乾角落旧跡地蔵堂」「昭和十年」などといった文字が読める。




茂兵衛道標(100度目)
この標石から少し先、道の右手の民家敷地の角に茂兵衛道標が立つ。「右琴平宮 壱百度目為供養 周防圀大島郡 中務茂兵衛」、手印と共に「弥谷寺 是ヨリ二里三十二丁余」「明治廿一年」と言った文字が刻まれる。また、この道標には「法の花咲く道道の匂い希り」の添え歌も刻まれているとのことである。
琴平宮への案内は伊予見峠に至る金毘羅街道には右折、ということだろう。


妙音寺
遍路道は国道11号に合流。ここからはしばらく国道を歩くことになる。予讃線本山駅への六の坪交差点を越え、少し進むと道の右に妙音寺がある。本山寺奥の院であり、古代寺院のひとつと言われるお寺様へちょっと立ち寄り。
国道左にある五十鈴神社手前を右折、神社境内端の坂を左折し妙音寺へ。古き趣の山門への道筋に「建石? うちもど里」と刻まれた石柱がある。「?」は「迄」。建石まで打ち戻り、と言う意味だろうか。とはいうものの建石は地名?不詳である。







土塀の参道を進み本堂に。Wikipediaによれば、「寺伝によれば、飛鳥時代天武天皇治世の白鳳5年(665年または676年)に創建されたと言われ、讃岐国最古の寺院の一つと伝えられる。平安時代初期の弘仁年間(810年- 824年)嵯峨天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)によって現在の寺号となったと伝えられている。
戦国時代に入り天正2年(1574年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭った。この時、本尊の阿弥陀如来は自ら雨を降らせて難を逃れたと伝わっている。 天正の戦火で寺院は荒廃した。その後、江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1716年)旭応阿闍梨によって復興された。また、寛政年間(1789年 - 1801年)に清雅恵洞和尚が伽藍を整備した。
当寺院に祀られている不動明王は霊験不動尊と言われ、祈念すると夢の中でお告げがあると言われることから、別名「夢見不動」とも呼ばれている」とあった。本尊の阿弥陀如来は国の重要文化財指定となっている。

忌部神社石標
国道11号に戻り先に進む。高松道の「さぬき豊中IC」への出入口少し手前で遍路道は国道から右に入る。池端の道を進むと「高松道さぬき豊中IC」へのアプロ―チ道にブロックされ現在は直進できない。アプローチ道に沿って右に折れ、アプローチ道下を抜けるトンネルを通り国道側へと戻る。
ブロックされた遍路道の反対側まで戻り北に進むと「忌部神社」と刻まれた大きな石標が立つ。いつだったか阿波の忌部神社を辿ったこともあり、ここらへもちょっと立ち寄り。




忌部神社
遍路道から左に折れ忌部神社に。境内に特に由緒などの案内はない。阿波の忌部神社はあれこれチェックしたのだが、讃岐と忌部神社、忌部氏の関係は?
讃岐忌部
讃岐忌部(さぬきいんべ)氏は、日本各地に分布する忌部氏の一族のひとつ。手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖神とする。阿波忌部は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、紀伊忌部は彦狭知命(ひこさしりのみこと)、出雲忌部は櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)をその祖先神とするが、すべて天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に随従した五柱(五部の神)である。
出雲の忌部氏の祖先神櫛明玉命は「玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事した」とあるように、攻玉技術をもって勾玉などの調製にあたっていた。
阿波の忌部氏の祖先神である天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料であり、そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。 そしてこの讃岐の忌部氏の祖である手置帆負命。「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る」とあるように、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していたとされる。讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発したようである(Wikipedia)」とある。
讃岐は竿を貢ぐ国ということから、竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるようだ(Wikipedia)。

Wikipediaにはまた、「善通寺市大麻町の式内社・大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている」といった記事もある。讃岐忌部氏の讃岐開発の事績と共に古来より讃岐と阿波の交流が盛んであったことがわかる。
忌部氏
忌部氏って結構興味深い氏族である。通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。
それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである
下総の地の名前の由来について忌部氏との関りを示す記事もある。『古語拾遺』には、「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。下総が阿波の忌部氏によって開かれたようにも読める。門外漢故に真偽のほどは不明だが、なんとなく忌部氏って面白い。
なお、『古語拾遺』は忌部氏の後裔である斎部広成が著したものであり、斎部とは忌部と同義、天富命とは天太玉命の孫と伝わる。

茂兵衛道標(157度目)
遍路道に戻り北に進むと新屋敷の集落、道の右手に茂兵衛道標がある。手印と共に「本山寺 弥谷寺」と刻まれるが、手印があらぬ方向を示している。理屈の上では道の左手の何処かにあったものを移したのではないだろうか。明治丗年、茂兵衛157度目の巡礼道標である。






大津池西南隅の茂兵衛道標(164度目)と標石
さらに少し進むと大津池に出る。その西南隅、民家のブロック塀の前に「四国のみち」の標識、自然石の標石、そして茂兵衛道標が立つ。
自然石には手印と共に「本山二十五丁 彌谷八十五丁」、茂兵衛道標には手印と共に「本山寺 箸蔵寺 明治丗一年」と刻まれる。この手印もあらぬ方向を向いている。本山寺との位置関係でいえば、遍路道の右側のどこかに立っていたものを移したのだろう。茂兵衛164度目の巡礼の折の道標である。
金毘羅さんの奥の院と称される箸蔵寺はいつだったか箸蔵寺から土讃線財田駅へと続く箸蔵道を歩いたことがある。この地からの道筋は不詳だが、金毘羅街道を越え、財田川に沿って歩いていけば土讃線財田駅近くに出る。この地から箸蔵寺へのルートも興味を覚える。

屏風浦へんろ道の標石
茂兵衛道標などの標石がある角の道を隔てた反対側、一段低いところに石碑がいくつか並ぶが、そのひとつ、平べったい石に手印と共に「屏風浦へんろ道」と刻まれる。予讃線海岸寺駅近くにある弘法大師生誕の地に建つ海岸寺のことを屏風浦と称するようである。海岸寺に迫る天霧山、弥谷山の山容が海から見ると屏風を広げたように見える故、と。
七十一番弥谷寺を打ち七十二番曼荼羅寺に向かうお遍路さんの中には、直接曼荼羅寺へ向かうことなく、一旦曼荼羅寺とは真逆の海岸寺へと向かい、そこから曼荼羅寺へと折り返す者もいたとのことである。とまれ、大師生誕のお寺さまへの道標である。

宇賀神社
標石前の大津池の東に宇賀神社がある。「どぶろく祭り」で知られる、と。ここにもちょっと立ち寄り。
この社、古くは岡神社と称し、手置帆負命に随従してこの地に住み笠を縫い給うたその子孫がこの里に住み祖神笠縫神を祀った。またこの里を笠縫の里といい、笠岡村とよんだ、とする。現在でもこの辺りは豊中市笠田笠岡と呼ばれるようである。手置帆負命は前述讃岐忌部氏の祖先神である。
境内には酒蔵のような蔵が建つ。明治33年には濁酒醸造の許可を受け、祭りには一般参賀者に振る舞っているようである。

社殿裏手には玉垣に護られ注連縄の張られた球状巨石が鎮座する。巨石信仰?ここからは単なる妄想。讃岐忌部氏の祖・手置帆負命は天照が天岩戸に隠れたときに御殿を建てた神と言う。また阿波忌部氏の祖先神 ・天日鷲命 は天岩戸開きに大きな功績をあげた神とも言う。どちらも天岩戸に関りが深い。で、天岩戸って巨石を想起する。
神社前の池を隔てた彼方に見える七宝山を眺め、遍路道に戻る。

七義士神社
道上、大道といった如何にも古代太政官官道・南海道の名残を残す地区を越えると、道は国道11号に合流する。その合流地点に何だか見たことのある社と池。 いつだったか香川用水東部幹線を辿ったときに出合った社であった。
その時のメモを再掲;権兵衛神社(七義士神社)と称されるこの社は、江戸時代中期、9代将軍家重のときに勃発した讃岐最大の一揆の首謀者として処刑された、七人の義民(義人)を祀る神社。
寛延年間(1748-1750)、数年来の風水害に加え役人の横暴な振る舞いにより、丸亀・多度津両藩の百姓は疲弊に貧していた。徳政などの願い効なく、一揆を計画。首謀者は丸亀藩の5名、多度津藩の2名の百姓。その中での指導者が丸亀藩笠岡村の大西権兵衛であった。
寛延3年(1750)年1月20日には、一揆の呼びかけに応じた多度郡・三野郡・豊田郡の百姓は財田川の本山河原に集結。22日には鳥坂峠を越えて那珂・多度郡勢と善通寺で合流。このときの一揆の総勢は6万人余に達したと言う。
この動きに対し藩側は23日に一揆勢と会合をもち、嘆願をほぼ認め、一揆勢は解散し帰村する。しかし、その後状況は一変。全国で勃発する一揆に危機感を抱いた幕府が、20日には百姓の強訴・徒党の禁令を発令していたことを知った丸亀・多度津両藩は妥協案を完全に反故にし、一揆首謀者を捕縛。7月28日には大西権兵衛他7名をい金倉河畔において打首・獄門の刑に処せられた。
鳥居右手の「此の世をば泡と見て来しわが心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」と刻まれた大きな碑は、そのときの権兵大西権兵衛の辞世の句と言われる。 村人はこの七人を義士として密かに弔い続けたが、明治の御一新になり、七義士の威徳を偲び権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られた。
先ほど訪れた宇賀神社は、境内梵鐘を合図に一揆が立ち上がり、本山寺は一揆が集合した場所であった。歩けばあれこれつながってくる。

東角屋池傍の徳右衛門道標
七義士神社から国道11号を池に沿って少し進むと直ぐ、遍路道は池端から左に分岐すする道に入る。この辺りを「六ッ松」と呼ぶ。現在からは想像もできないが、かつては木々が生い茂り昼なお暗い一帯であった、とか。夜は暮れ六ッから明け六ッまではひとりで通るには怖すぎ、連れを待っていたとのこと。六ッ待つ>六ッ松と転化した。
溜池の間を縫うように進むと東角屋池。その傍、セメント造りの小祠に徳右衛門道標が建つ。献花筒には花も供される。道標に大師座像が刻まれているためのようだ。「是より弥谷寺迄壱里十八丁 寛政八丙辰三月」と刻まれる。丙辰は「ひのえたつ」。この小祠を一里松地蔵堂とするのは、かつてこのあたりに一里塚があった故だろう。
暮れ六ッ・明け六ッ
朝、薄明が始まった時を明け六つとし、夕方、薄明が終わった時を暮れ六つとして、時刻の基準とした。江戸時代までの時刻法の一つ。
午前0時;九ッ(子ノ刻)>午前2時;八ッ(丑ノ刻)>午前4時;七ッ(寅ノ刻)>午前6時;明け六ッ(卯ノ刻)>午前8時;五ッ(辰ノ刻)>午前10時;四ッ(巳ノ刻)>午後0時; 九ッ(午ノ刻)>午後2時; 八ッ(未ノ刻)>午後4時 ;七ッ(申ノ刻)>午後6時;六ッ(酉ノ刻)>午後8時l 五ッ(戌ノ刻)>午後10時;四ッ(亥ノ刻)

草木も眠る丑三ッ時というけど、丑は八ッでは?干支の刻は2時間。それを四等分してそれぞれ、一ッ、二ッ、三ッ、四ッとしたようだ。で、午前2時からはじまる丑の刻の丑三ッとは、午前3時から3時半ということになる。

異形十三重塔
徳右衛門道標が祀られる小祠を超えると右手に松葉碕池。池を超えると遍路道は国道11号から分かれる道と交差。遍路道はそのまま先に進むが、国道11号傍に見える大きな石の塔にちょっと立ち寄り。
交差箇所を右に折れ、国道11号の少し東に立つ石の塔に向かう。国道から右に入る道を進むと石の塔に。
威徳院勝造寺層塔とある。案内には「案内には「香川県指定有形文化財 昭和38年4月9日指定 この層塔は永和4年3月6日(1378年)に建立されたもので、通称「石ノ塔」と呼ばれている。総高7,1m、塔身は凝灰岩の切り石を十三層に積み重ねたもので他に類例がなく、異形十三重塔とも呼称される。
300年後(1678年)丸亀藩主京極高豊公が散失した塔?を集め、且つその欠けたところを補い修復した。更に300年たち損傷が甚だしいく倒壊の危機に瀕したので、香川県・旧高瀬町(現三豊市)・地元住民が一体となって、昭和52年(1977年)3月6日に解体修理に着手し同年5月14日に完成した」とある。
伝わるところでは、この塔は若狭国の八百比丘尼(やおびくに)によって建てられたとする。八百比丘尼の伝説は各地に残る。Wikipediaには「八百比丘尼(やおびくに、)は、人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼である。福井県小浜市と福島県会津地方では「はっぴゃくびくに」、栃木県西方町真名子では「おびくに」、その他の地域では「やおびくに」と呼ばれる。(中略)その伝説は全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)[33]。白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれる。800歳まで生きたが、その姿は17~18歳の様に若々しかったといわれている[34]。地方により伝説の細かな部分は異なるが大筋では以下の通りである。
八百比丘尼の伝説
ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。

とはいえ依然この塔が建てられた目的は不明。塔には大日如来を示すような梵語がかすかに見える。なお、威徳院勝造寺はこの塔の少し南東にあるお寺さま。

加茂高津神社
遍路道に戻り北に進む。道の左手に加茂高津神社。香川県神社誌には、「傳ふるところによれば、此の地は皇子屋鋪とて妙法院二品尊澄法親王(私注;宗良親王)の御遺跡にして當社は親王を祀れり。元弘二年(私注;1332)三月後醍醐天皇(私注;宗良親王の父)隠岐に移らせ給ひ、親王は本郡詫間浦に移らせ給ひたるも、詫間の気候御身に適し給はずじて當地遷らせらる。
依って此の地を皇子屋鋪といひ、又親王の遺跡を記念せむ為祠を建てて王子権現と稱し親王を奉齋すといへり。
(中略)或いは云ふ。皇子屋鋪の地に古く賀茂神を奉齋しありしが、天正年間兵火に罹り寛文年間社殿を再建して王子権現といひ、明治十五年摂津難波に倣ひ今の社號に改む」とある。
宗良親王故に王子権現と称されたのは分かった。が高津神社となった所以は「摂津難波に倣ひ」とあるだけではっきりしない。チェックすると、江戸の頃、王子を応神と取り違えたとの記事がある。摂津難波に仁徳天皇、その父の応神天皇を祭神とする高津神社がある。それに倣ったということだろうか。単なる妄想ではある。

茂兵衛道標(150度目)
予讃線高瀬駅への道との交差点を直進すると高瀬川の手前、民家にもたれかかるように茂兵衛道標が立つ。摩耗が激しく「右金毘羅」、手印と共に「本山寺」、「弥谷寺」が刻まれる。明治二十九年、茂兵衛150度目の巡礼時のもの、と言う。




県道221号と国道11号合流点手前に標石
遍路道は高瀬川の土手に阻まれ左折し、高瀬川橋の西詰で県道221号に乗り換える。道を進み県道が国道に合流する手前にY字の分岐点。その分岐点に「四国のみち」の標識とともに、平べったい標石があり、手印と共に「これよりいやたに寺三十九丁 打越へ?風ケ浦六十九丁」と刻まれる。
屏風ケ浦は予讃線海岸寺駅の近く、空海誕生の地海岸寺のあたりを海から見た姿。海岸に迫る天霧、弥谷山が屏風を広げたように見えるから。「打越」は? 遍路用語に「打戻り」といったものがある。打越しもそういった用語だろうか、地名だろうか。不明である。



標石を兼ねる石造群
分岐点の標石に従い左手の道に入ると、標石脇に高い柱碑、大師座像、壊れた屋根石下の石造物がある。墓石らしにものも見える。
「光明真言一億万遍」「文政」などの文字が読める柱碑の台座には手印が刻まれる。またその隣の大師座像の台石にも「左へんろみち 是ヨリいやたに三十九丁 是ヨリもとやまへ** 寛政十二」といった文字が刻まれ、共に遍路標石となっている。




常夜灯と標石
分岐点を境に三豊市高瀬町から同じく三豊市三野町に入る。大道>道免>鳥坂へとほぼ国道11号筋を進むかつての太政官道・旧伊予街道と先ほどの分岐点で別れた遍路道は、弥谷山に向かって一直線に進むことになる。原>出井>落合>弥谷と続く道筋の出井の辺りに大きな常夜灯があり、その傍に標石がある。手印と共に、「是より弥谷寺」と刻まれる。





落合の標石
常夜灯の先で北西に緩やかにカーブする道が、北東へと抜ける道と交差する角に標石がある。手印と共に「もとやま寺* いやだに寺道」「明治三十九年」と刻まれる。遍路道は標石の手印に従い道を右折する。







落合大師堂
右折し民家の間の狭い道を進むとすぐ落合大師堂がある。常夜灯や多くの古い石造物の中に標石が1基ある、と。大師像が彫られた石碑がそれらしき、とは思うのだが摩耗が激しくよくわからなかった。








地蔵尊傍の標石
更に道を少し進むと民家軒下といったところに、地蔵尊、金毘羅常夜灯、地神の祠があり、地蔵尊傍に標石がある。手印と共に「右丸かめ 左いや谷 道」と刻まれる。また、足をたらした地蔵尊の台石にも手印、そして「右丸か免道 左へんろふ*」「文政五」といった文字が刻まれ、標石となっていた。







手印のみの標石
水路を越え少し進むと、道の左手の電柱脇に標石。手印もほとんど摩耗しそれと言われなければわからない。










弥谷寺の寺名石
しばらく道を進み、東西に走る車道を超えると道の両側に「四国第七十一番弥谷寺」と刻まれた寺名石が建つ。ここが弥谷寺の参道口。寺名柱の手前、車道と交差する角に標石があり、手印と共に「本山寺 弥谷寺」が刻まれる。


八丁目大師堂
参道口を進み県道48号を渡り、北に進む。一筋北の車道に「四国のみち」の標識があり、ゆるやかなカーブの道を進むと弥谷山に向かう大きな車道に出る。弥谷寺への車道でもある。
車道を少し進み「弥谷寺車道」と刻まれた石柱で遍路道は左に入る。そこに八丁目大師堂。「弥谷寺本堂へ1,000米 大師堂納経所700米 仁王門400米」と書かれた案内がある。一丁は約109m、八丁は約872mである。
大師堂少し手前の一段高いところに標石があり、「従是本山寺江百*丁 従是本堂江八丁」と刻まれる。里を眺めると讃岐特有のお椀を伏せたような山が見える。貴峰山(とみねやま;標高228m)ではないだろうか。


第七十一番札所・弥谷寺


八丁目大師堂から土径を進む。道に沿って舟形地蔵などの石仏が並ぶ。道なりに進むと八丁目大師堂で別れた車道にあたる。車道を超えると弥谷寺の駐車場。バスでのお遍路さんが多い。


天霧城跡の案内
駐車場を上がり、参詣のシャトルバス乗り場のある広場に出る。山腹の本堂まで640段余の石段があるようで、途中までシャトルを利用される団体お遍路さんが目についた。
境内案内などのある反対の谷側に大師座像、第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)の横に国指定史跡天霧城跡の案内。縄張りや由来が記されている(この城跡には次回訪れる)。



茂兵衛道標
灌頂川に架かる橋を渡ると石段。25段の石段を上ったところに茂兵衛道標が立つ。「左本堂 右本山寺」、手印と共に「善通寺 金毘羅道 明治廿一年」と刻まれる。茂兵衛100度目の巡礼標石である。
○曼陀羅道
茂兵衛道標の前にも新しい石標が立ち「曼荼羅寺3.1粁 出釈迦寺3.3粁」と書かれる。ここを左に進むのが次の札所曼七十二番荼羅寺、七十三番出釈迦寺への遍路道のようである。曼陀羅道と呼ばれるようだ。



徳右衛門道標
次の石段右手に徳右衛門道標。「従是曼荼羅寺迄廿五丁」と刻まれる。通常の徳右衛門道標にある梵字、大師像もなく、高さも高く、一見しては徳右衛門道標とはわからなかった。











俳句茶屋
二段目の石段二十段を上ると俳句茶屋。休業中なのか取り壊されているのか、ともあれ現在は利用できる状態ではなかった。俳句好きの先代主人の好みで参拝客の俳句が張られているとのことである。


仁王門
俳句茶屋より五十四段の石段を上ると仁王門。正面に阿吽二体の仁王像、裏手には大草鞋が吊るされている。大草鞋は巡礼旅の安全、草履を撫で患部を治癒する撫で仏といったものなど、お寺さまで様々。
仁王門を潜った右手に四国霊場八十八番大窪寺石造。右手に薬壺らしきものをもっているようにも見える。本尊の薬師如来だろうか。

石仏
寺域には数多くの石仏が並ぶのだが、四国遍路札所にしても順がバラバラ。二十九番の横に二十二番、そしてここには八十八番。何らかの事情で移されたのだろうか。

灌頂川に架かる法雲橋傍の摩崖五輪塔
仁王門を越え小刻みに現れる石段を上り灌頂川に沿って進む。この辺りを賽の河原と称するよう。参道脇の小さな石積みの塔を見やり、大岩の間を抜けると法雲橋。橋の右手の岩には2基の五輪塔が刻まれる。







金剛拳菩薩
橋を渡ると広場に出る。シャトルバスもこの辺りまで来ているように思える。広場正面に6m余の巨大な鋳銅製仏像。金剛拳菩薩とのこと。元禄年間に造られたもの。
金剛界曼荼羅を構成する九つのパーツ(九会)の内、中央部(成会)での中尊となる金剛界大日如来を囲む阿閃・宝生・阿弥陀・不空成就の四仏の四方(東西南北)にあらわれる四親近菩薩、計十六菩薩の一つ。
堅固なる拳で衆生の貪・瞋・痴(三毒)の緊縛を破る菩薩のようだ。弥谷寺のHPの説明には、「衆生が煩悩による苦しみに縛られるのを解放する仏様といわれます。また、修行の完成を意味し十六大菩薩の最後の一尊にあたり、如来になる直前のお姿ともいえる菩薩様です」とあった。
仏様のランクは如来>菩薩>明王>天部の順になる。菩薩最終ランクであり、仏様になる直前というから結構有難い菩薩さまであった。



大師堂
四国中央市の大王製紙社主である井川氏寄進の鉄製の階段、煩悩を消す108段階段を上りきると正面に大師堂。岩壁に食い込むように建てられている。石段を上り下足し大師堂に入る。左納経所、右大師御影堂。御影堂をぐるりと
回りこむと獅子窟。大師修行の場。暗くてはっきりとは見えない獅子窟をお参りし、大師堂を出る。


大師堂手前の標石
大師堂への石段を上り切る手前右手に標石がある。「右札所道 左大師堂道 元治元」といった文字が刻まれる。
大師堂岩壁の行者像
岩壁に行者姿の石像。雨乞いの祈祷するも、その霊験無きを恥じ焼身往生をした行者様と言う。








十王堂
大師堂から右に進み、左手一段高い岩場にある多宝塔を見やり進むと広場にでる。正面に香川氏の墓、右手に鐘楼と観音堂、正面一段高いところに十王堂がある。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ置送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰より、このお堂にお参りするのだろう。 この寺は「亡くなった人の霊のゆく寺」とも言われる。地元には身寄りを亡くした人が、その霊を背負うよう背中に手を回しこの寺に上り、霊を下した後は一切振り向くことなく里へと戻るといった習慣もあったようだ。十王堂の横に観音堂があるのは、地獄に行くことなく浄土へとの想いもあるのだろうか。先ほど歩いた参道を賽の河原と呼ぶ所以である。

護摩堂・海岸寺道分岐点
観音堂から石段を上り詰めたところに護摩堂。岩に掘り込まれた洞窟となっている。
護摩堂右手に標石と道案内。「本堂、水場は左、天霧城は右の案内」、また標石には、「海岸寺道」、手印と共に「第七十一番当寺本堂道 明治四十三年」と刻まれる。
〇海岸寺道
海岸寺道とは予讃線海岸寺駅近くにある弘法大師生誕の地と言われる海岸寺への道。七十一番弥谷寺から七十二番曼荼羅寺へと直接進まず、一旦真逆の瀬戸の海方向へと向かい海岸寺をお参りした後、曼荼羅寺を打つ遍路道である。 天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の鞍部から里に下り、北へと瀬戸の海岸に向かうようである。

水場
護摩堂から左に向かうと岩場に出る。岩場には大きな石仏が祀られた水場がある。弥谷山からの地下水が枯れることなく湧き出るよう。








摩崖仏阿弥陀三尊像
水場からは上り下り、ふたつの石段が本堂に上る。石仏、五輪塔の立ち並ぶ石段に沿った凝灰岩の岩壁には摩崖仏が見える。阿弥陀三尊像とのこと。鎌倉時代に地元の匠の手によるもの。雨風に晒され、もろい凝灰岩の崩壊から像を護るようにセメントの庇が取り付けられていた。凝灰岩の窪みには小さな仏さまも祀られていた。



本堂
剣五山千手院弥谷寺。真言宗善通寺派。本尊は千手観音。自伝によれば、行基開山。聖武天皇の庇護を受け、蓮華山八国寺(やこくじ)と称した。 その後空海がこの地、獅子窟で修行。求聞持の秘法を修するや天から五柄の剣が舞い降る。これにより山号を五剣山と改め、寺名も弥谷寺とした、とある。 天正年間、長曾我部氏の四国征服の折り、この寺と峰続きの天霧城に籠る香川氏を攻め、寺は灰燼に帰す。後に讃岐の領主生駒一生、江戸期には丸亀藩主京極氏の庇護を受け堂宇が再建され現在に至る、とのことである。
〇虚空蔵求聞持法
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。

本堂前から讃岐の里の遠景を楽しみ、本日の散歩を終える。次回は七十一番弥谷寺から七十二番曼荼羅寺へ向かう。

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