石神井川散歩 Ⅱ;石神井公園から板橋まで

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先回の迂回路、迷い路,EveryWhere状況の再現を怖れつつ、気持ちも少々晴れやかならず、石神井公園に向かった。結論から言えば、予想に反し、予想外の展開で、本日の散歩ルート、 石神井公園から板橋・滝野川までは快適な散歩道。遊歩道、川筋に沿った車道との共同道と遊歩道一本やりというわけではないが、川に沿って迷うこともなく、行き止まりに「怒る」こともなく、楽しく歩けた。(yoyochichi 2010年10月10日 20:30 日曜日, 8月 14, 2005のブログを修正)



本日のルート:西武新宿線上石神井駅>三宝寺>道場寺>氷川神社>石神井城址>三宝池・石神井池>禅定院>笹目通り>清戸道交差>豊島園>広徳寺>高稲荷神社>早宮史跡公園>氷川神社>光伝寺>城北中央公園>御嶽神社>田柄川跡>茂呂遺跡>安養寺>東新町氷川神社>環七>川越街道>旧川越街道・下頭橋

西武新宿線上石神井駅
井の頭線。中央線、正確には吉祥寺から総武線で西荻窪。駅前からバスに乗り、西武新宿線上石神井駅に。北口大通りを北に進み早大学院前バス停に。先回日没ギブアップでバスに乗ったところ。坂を下り、石神井川を井草通りまで進み左折。旧早稲田通りを越え、三宝寺池に向かう。

三宝寺
まずは、三宝寺。由緒ある真言宗の寺。品格のある風情。開山は南北朝時代の応永元年(1394)。もとは少し先にある禅定院のところにあったようだが、豊島氏を破った太田道灌の命により、この地に移った。小田原北条家や江戸の徳川家により庇護を受け、末寺数十という大寺となった。
表参道の「守護史不入」(しゅごしふにゅう)の碑は、 守護の徴税史も山門内には入れない、ということ。寺格のほどを誇る。山門は「御成門」と呼ばれる。三代将軍家光が御園猪山で猪狩りのとき、この寺を休憩所としたことが名前の由来。山門東側の長屋門(ながやもん)は、勝海舟の屋敷門を移したものとのことである。ちなみに三宝、って「仏・法・僧」。悟りを開いた人である「仏」、仏の教えである「法」、法を学ぶ仏弟子「僧」ということ。

道場寺
落ち着いた、いい雰囲気の禅寺(曹洞宗)。豊島山との山号が示すようにこの寺院は石神井一帯を支配した豊島一族が建立したもの。文中年間(1372)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が建て、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられる。境内には文明九年(1477)太田道灌に滅ぼされた
豊島氏最後の城主奉経や一族の墓と伝えられる石塔三基がある。伽藍は昭和11年から60年に渡って再建され、各時代の様式を再現している。室町様式の「山門」に入ると、左手に鎌倉様式の「三重塔」、右手には安土桃山様式の「鐘楼」、そして正面の「本堂」は奈良・唐招提寺の「金堂」を模した天平様式、「客殿」は京都・桂離宮を模した江戸時代、といった案配である、とか。

氷川神社
寺を出て、すぐ北にある氷川神社。平安時代末期から室町時代中期まで,この地域、というか、現在の文京区,台東区,豊島区,北区,荒川区,板橋区,練馬区などやその周辺地域、つまりは、石神井川流域に勢力を持っていた豊島氏が祀ったもの。周りは鬱蒼とした森。神社脇の踏み分け道をはいると石神井城址があった。

石神井城址
石神井城址。鎌倉末期、豊島泰経の居城跡。空堀と土塁が残っているとのこと。保護フェンス越しに丘を眺める。で、この豊島泰経、1477年に太田道潅との戦いに敗れ、平塚城に落ちその後。。。平塚城?上中里の平塚神社の平塚城?あの浅見光彦様がお団子を食べるためよく行く、平塚団子亭のある、あの平塚神社?表紙が違っただけで新刊と思う自分も悪いのだが、出版社の「新刊」という宣伝に惑わされ、実際の作品総数の5割り増しの200冊ほど「買わされた」あの名探偵浅見さまの平塚神社?急に豊島泰経、大田道潅が身近になった。
先日の妙正寺川散歩の折も、江古田・沼袋の戦いで太田道潅・豊島泰経の名前が出てきたのだが、古川公方だの、扇谷上杉、山内上杉など、ややこしくてちょっと躊躇していたこの二人、なぜ互いに戦ったのかについて、まとめてみることにする。

結論としては、豊島泰経は古河公方、大田道潅は鎌倉公方・関東管領方として互いに会い争う立場にあったということ。鎌倉公方とは室町幕府の関東10カ国の最高責任者といったもの。古河公方も、もともとは鎌倉公方。鎌倉公方であった足利成氏が、その最高補佐役である関東管領の上杉氏と諍いを起こし、席を同じゅうせず、と古河(茨城県古河市)に居を構えて反目することになる。その本拠地故に古河公方と呼ばれるようになる。
大田道潅は関東管領の一族扇谷上杉氏の重臣。豊島泰経も関東管領山内上杉氏の重臣。同じ管領側が敵味方に分かれたのは?山内上杉家の重臣、長尾景春が跡目相続の恨みで主家に反旗を翻し、鎌倉公方から古河公方に移ったことがきっかけ。豊島泰経は長尾景春に与力した、つまりは、古河公方側についたため、鎌倉公方側の大田道潅と戦うことになった、ってこと。
戦いのプロセス;1477年、道灌軍豊島氏の属城である平塚城を攻める為に江戸城を出る。が、泰経はその隙に江戸城を奪うべく石神井城より出陣。が、しかし道灌軍は転じて石神井城方面に侵出。江古田・沼袋付近で両軍は激突(江古田原・沼袋の戦い)。豊島軍は敗れ、この石神井城に逃げ込むが落城。豊島泰経は,落城後,平塚城(北区平塚神社)に敗走。その翌年の1月25日に道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げた、と伝えられる。
後日談。大田道潅は主家扇谷上杉家に疑念をもたれ謀殺される。その後、後北条(ごほうじょう)氏、上杉氏、足利氏、長尾氏、太田氏による戦乱の中、扇谷上杉家は力を失い滅亡。一方山内上杉は越後に逃れ、管領職を重臣・執事の長尾氏に。長尾景虎こと、上杉謙信が関東管領として関東を窺うことになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三宝池・石神井池
さてと、歩きはじめなくては。石神井城址から三宝寺池に。江戸のお散歩の達人・村尾嘉陵が《江戸近郊道しるべ》の『石神井の道くさ』に、氷川の社から三宝池への「道くさ」を描く:「(略)畑の細道を行ば、氷川の社あり。鳥居の脇を猶西へ行ば、道の左林のうちに小社あり、天満天神を崇め奉る。そこより少し行ば、北にくだる小坂あり。くだれば、向ひに弁才天の社あり。社をめぐりて皆池(三宝池)なり。蘆荻(ろてき)生じけり、雁鴨あまた下居て、かなたこなた水の面をゆきかへる、いくらといふ数をしるばからず、池の大さ七八十間ばかり、四面は東の一方のみ明て、余はみな高からぬ山なり」、と。
三宝池に着く。葦かなにかはわからないが、湿地一面の芦原って、こういった風情かと想像。水源は、もとは武蔵野台地からの湧水であった。ために、水温も季節によって大きな変化が無く、氷河期からの植物が生息する池として昭和10年には国の特別天然記念物に指定された沼沢植物群落を有する池となったが、湧水が涸渇してきた昨今、状況は変わってきているのだろう、か。池には厳島神社が祀られる。石神井川の水源ともなった三宝池を守る水神様というところだろう。森というか林を抜け、石神井池に。以前一度ここにきたことはあるのだが、石神井公園の東側の石神井池は三宝池とは大きく印象を替え、都会風の洒落た公園、といったもの。もとは三宝池の水をひいた田圃であったところを堰止めて昭和8年に池にした。都心や宅地化された周辺住民のための観光・行楽の地とするためとのことであろう。
ところで石神井川だが、wikipediaによれば、最近まで石神井川の本流はこの三宝池から流れ出す川であり、小金井からの流れは大川、さらに上流では「悪水」などと呼ばれていたようだ。都市化ともに三宝池からの湧水が減るにつれ、大川が石神井本流とされるようになった、とか。石神井川とは石神井村を貫流するが故の名前ではあるが、源流点が石神井ではないわけで、なんとなく名前に違和感があったのだが、もとはこの地からの流れが石神井川、ということであれば、なんとなく納得できる。

禅定院
石神井池を離れ石神井川へと向かう。途中に禅定院。火災による古書類消滅のため開基時期は不詳。境内で南北朝期の板碑がみつかっているので、おおよそその頃にはお寺が開かれていた、と推測されている。本堂前の寛文十三年(1673)と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠と言われる。茶人古田織部が創案したとされる織部灯籠は、竿にマリア像に似た石彫りがあり、また、織部が切支丹であったと伝わるためである。
「橋を北へわたりこせば、石神井村、この辺一人の往来を見ず、もの問べきよすがもなし。路の行あたる所に寺あり、禅定寺(禅定院)といふ、その前を西へ山にそふて、田のふちを行ば民家一戸あり、其先に又寺あり、道常寺(道場寺)といふ、その西にとなれるが三宝寺なり(村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》の『石神井の道くさ』)」。禅定院から三宝院への描写である。

笹目通り
石神井公園を離れ、南田中団地の中を進む。両岸に宗歩道があり、川幅も広くなる。笹目通り、西武新宿線練馬高野台駅付近を交差。笹目通りの名前は開通当時、戸田市の笹目を通っていたから。川は北に振れる。谷原一丁目で目白通りに接近。少しの間目白通りに沿って流れる。笹目通りを少し北に、西武新宿線を越えて左に入ると長命寺がある。いつだったか自転車で和光の白子の宿に向かうとき偶然出会ったのだが、その構えに少々驚いた。後北条一族の開基。江戸の頃は御朱印寺でもあり、東の高野山と称される大寺であった。南大門の四天王様もなかなか、いい。たまたま迷い込んだところに、突然現れた古刹だけに記憶に残る。

清戸道交差
環八練馬中央陸橋付近で目白通りと環八通りのクロス部分を越える。ここにもガスタンク。東伏見付近に続き二つ目。どうということはないのだが、なんとなくおもしろい。環八を越えると遊歩道はなくなり一般の道が川に沿って進む。バルコニー風のデザインの道楽橋での清戸道、旧目白通りと交差。清戸道は文京区関口から大雑把に言って目白通りの道筋を清瀬の清戸に進む道。清戸にあった尾張藩の鷹場への道とも、近郊の野菜を江戸に運ぶ道とも。もっとも、野菜を江戸に運んだ帰り道、「有機肥料」を持ち帰る姿故に呼ばれた「汚穢(おわい)街道」のほうが通りやすいか、とも。神路橋のあたりで貫井川が合流する。石神井公園の南、下石神井付近から石神井川の南をほぼ平行に暗渠となって進む。一部は貫井川緑道ともなっているようだ。石井橋から先で石神井川は豊島園に入ってゆく。

豊島園
現在豊島園となっている一帯は昔の練馬城址。石神井川を自然の堀割に、川の北側の急崖の台地の上に城が築かれていたようだ。この城は豊島一族の支城。太田道灌との戦いにおいては、豊島方の拠点の石神井城とともに道灌方の江戸城と川越城の連携を阻止すべく奮戦するも、江古田の戦いにおいて豊島勢は道灌方に敗れる。練馬城もこのときに落城したようだ。遊園地となった今、遺構は残らない。ただ、遊園地の名前である豊島にその名残が残る。豊島区でもないのに、どうして豊島園、の所以はこういうことである。
川は豊島園内を流れているため、園に沿って迂回。川の南側、その昔は矢野山と呼ばれる雑木林であったそうだ。西武豊島線・豊島園の駅前あたりまで上り、ふたたび石神井川筋へと下っていく。
豊島園の東に中之橋。橋の脇には大江戸線のトンネル内の漏水を放流しているとの案内。水質保全のためではあろう。水源には何も水がなかった石神井の流れが徐々に豊かになっていくのは、それほど単純なことではないようだ。

広徳寺
道に沿って進むと川の右手に練馬総合運動場。中学校の陸上競技大会などを見やりながら、先に進むと川の右手に豊かな緑が見える。地図をチェックすると広徳寺とある。いかなる由緒のお寺さまかは知らないままに広徳寺に向かう。
広大な敷地とは思えども、「拝観お断り」のメッセージがあり境内には入れない。どこかに入り口はないかと彷徨うが、入口は見あたらず。総門脇の桂徳院にてかるくお参りをすます、のみ。案内によれば、臨済宗大徳寺派の大寺。もとは台東区の上野にあったものが、関東大震災の後、この地に移った。この時期は塔頭の桂徳院などと墓地だけであったようだが、戦後になって本寺もこの地に移ってきた。寺域二万坪と言う。浅草の浅草寺がおよそ三万坪、芝の増上寺が一万六千坪というから、現在の東京でもベストスリーに入る広大な寺域である。
寺の興りは元亀・天正(1570-92)の頃。岩槻城主北条氏房が義父である太田三楽齋の菩提を弔うため小田原に建てたことにはじまる。寺は秀吉の小田原征伐の時に炎上・焼失。江戸時代になり徳川家康により復興され神田、さらには下谷に移され、多くの諸大名・旗本の帰依を受ける。境内の墓地には柳生、前田(大聖寺)、小堀(備中松山藩、近江小室藩初代藩主。小堀政治一は小堀遠州の名で作庭家))、織田、立花、小笠原、秋月、細川(谷田部)、市橋、関、松浦、真田(松代)、桑山、滝川、松平(会津)などの大名が眠る、という。
あれ? 下谷? 広徳寺?ひょっとして「びっくり下谷の広徳寺?」。然りであった。太田南畝がつくった「おそれ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師さま」を庶民がアレンジし「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」となり巷間流布したフレーズにある、あの広徳寺であった。こんなところで出会うとは、まことに「びっくり練馬の広徳寺」ではあった。
ちょっと気になることがある。何故家康が広徳寺を再興したのだろうか。以下は単なる推論というか、妄想であるが、最初に思い浮かぶのは、北条の領地を引き継いだ家康の北条旧領民や旧北条家臣団の融和策。もう少し深読みすれば、もともとは太田三楽齋という北条の関東支配以前からの旧勢力太田氏の菩提寺であったわけで、その寺を庇護することにより旧北条家臣の勢力を牽制した。実際新領地に移った徳川家は北条旧家臣団の蜂起を怖れてはいただろう。まだ深読みすると、広徳寺は小田原早雲寺の末寺のひとつ。その小田原早雲寺は臨済宗大徳寺派の関東の拠点。十数カ所の末寺を擁していたわけで、拠点を抑えば末寺を通しての可能となる。早雲寺も北条滅亡し焼失したわけで、臨済宗大徳寺派を再構築する際に、末寺の中から北条家ゆかりでもあるが、同時に北条家臣団への牽制ともなりうる広徳寺を選び出し、江戸で臨済宗大徳寺派のネットワークを組み上げていった、ということだろう。妄想はそろそろやめて散歩に戻る。

高稲荷神社
川筋に戻ると、ほどなく公園に。公園南に小高い台地に稲荷の社・高稲荷神社。「高稲荷は石神井川に臨んだ台地上にあるが、その下は、むかしは大きな沼。そこには、主の大蛇がすんでいた。練馬村のとある若者が、その沼の主である大蛇に見込まれ、沼の中に引きいれられてしまった。それは篠氏の一族だともいうが、その霊をなぐさめるために祀ったのが、高稲荷」いった伝説が伝わる。文政5年(1822)の頃より地元の農民の信仰を集めていた、と。高稲荷公園も護岸工事などがないはるか昔には沼地であったのだろう。
この高稲荷神社付近からは旧石器・縄文・弥生時代の遺構遺物が発掘されている。特に東北地方産と考えられる材質(硬質頁岩)の旧石器時代の石器は、石神井流域によく見られる黒曜石やチャートの石器とは異なる特徴をもち、注目されている、とか。いまひとつ有り難みはよくわからないが、それはそれとして、さて次はどこ、と地図をチェック。石神井川の北岸台地の上に早宮史跡公園がある。名前が如何にも有り難そう。一休みの後、台地を上る。

早宮史跡公園
住宅街を上り、右往左往、そして下る。また上る。住宅に囲まれた台地上の公園を見つけるのに少々苦労。見つかればどうということはないのは、いつものことではあったが、誠につつましやかな公園についた。この公園敷地辺りで弥生時代の住居跡や土器、縄文時代の鍬などが確認され、遺構は再び埋め戻されている。
この公園あたりも含め、この地域は旧石器時代から平安時代までの複合遺跡である「東早淵遺跡」と呼ばれる。この遺跡からは旧石器時代の石器製作跡や調理用礫、縄文時代初期の土杭、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓、土器、また平安時代の住居跡や土器が発見されている。この石神井川北岸台地の東早淵遺跡、そして川向こうの高稲荷の遺跡など、石神井川の両岸の台地の上では往古より人の営みがあったわけである。事実、石神井川や白子川流域には130余の縄文・弥生、そして古墳時代の遺跡が残る。ちなみに、有り難そうであった、早宮の由来は早淵と宮が谷戸の合成語というだけであった。早淵は石神井川の早き淵、宮が谷戸は近くの氷川の宮との関連ではあろう。

氷川神社
台地を下り氷川神社へと向かう。長禄元年(1457)、渋川義鏡が古河公方・足利成氏との合戦への途上に下練馬で石神井川を渡河。淀みに泉を見いだし、武運を祈ったのがはじまりと言う。もとは、「お浜井戸」(桜台6-32)に鎮座していたとのことだが、1477年(文明9年)の江古田原の戦いの際に焼失。江戸時代の延享年間(1744年 - 1748年)に現在地に移転・再建された、とのことである。4年に1度の例大祭にはお里帰りと呼ばれる神幸行列を組んで神社から発祥の地まで練り歩く。
渋川義鏡は享徳の乱(古河公方・足利成氏と関東管領上杉家の争い)に際し、室町幕府より派遣され、堀越公方・足利政知とともに古河公方・足利成氏と戦う。これから先はよくわからないのだが、結局は和を結び古河公方の傘下に入る、とも。その後は武蔵に進出した小田原北条の支配下に入り、16世紀の前半、扇谷上杉家の上杉朝興に攻められ居城の蕨の城は落城した、とのことである。いまひとつ全体像がよくわからないのだが、古河公方と結んだのであれば太田道灌(扇谷上杉家の家宰)と敵対するだろうし、道灌と敵対すれば、敵の敵は味方ということで豊島一族とは誼(よしみ)を通じるわけで、石神井川一帯を支配する豊島一族の支配下に、こういった伝説が残るのもあり、ということだろう。

光伝寺
参道脇に古い趣の民家と商家があった。なかなか、いい。成り行きで都道441号の光伝寺交差点に戻り、差光伝寺に向かう。参道を通り山門をくぐり境内に。本堂、閻魔堂、鐘楼、十一面菩薩道などが残る。開山は16世紀の中頃、か。橋柱石が境内に保存されているとのことだが、これは光伝寺の和尚が私財を投じ、石神井川にかけた「弥右衛門橋(現在の正久保橋)」の名残り。地元民の徳を集めた和尚様であった、と伝わる。

城北中央公園
光伝寺から成り行きで石神井川に戻る。開進橋の先に城北中央公園。練馬区と板橋区に跨る26ヘクタールにも及ぶ広い敷地をもつ。戦時中は空襲被害の拡大を防ぐ防空緑地であったものが、戦後公園となった。一時期立教学園の運動場もあったようで、その建設の時期に石器時代から平安時代に至る複合遺跡がみつかった。地名をとって栗原遺跡と名付けられた遺跡には、現在奈良時代はじめの竪穴式住居が復元されている。雑木林の中を成り行きで進むと御嶽神社が現れた。

御嶽神社
教育委員会の案内によれば、創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神。この栗原の地は、康生二(1456)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田村の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあり、往古より開けた土地柄であった、と。この社はその頃、信州の御嶽山(一説には甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七(1854)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。毎年三月八日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている、と。
誠に、狛犬は狼型。御嶽信仰において狼は神狗、「大口の真神」との尊称をもち、御山の神の眷属、神の使いとして神聖視されていた。御嶽山には平安時代修験道の霊山として蔵王権現が祀られ、江戸の頃には数多くの御嶽講が組織され、御師のガイドより御山への登拝が行われたが、その御師が檀家廻りのとき、配った神札が、「御神狗」であった。

田柄川跡
御嶽神社から石神井川に戻る。社前の道に緑道がある。櫻川緑道とあったが、これは場所からみて田柄川の川筋ではなかろうか。先日、別の機会にこの公園北にある金乗院に出かけたとき田柄川跡の暗渠に出会い、思わず少し北に辿ったことがあるのだが、源流点が練馬の光が丘辺りとわかり、遡行は別の機会と言い聞かせた川筋であった。

茂呂遺跡
石神井川に戻ると川の南側にいかにも、何かありそうな小高い叢がある。思わず進むと台地はフェンスで囲われ、案内に茂呂遺跡とあった。旧石器時代の遺跡であり、黒曜石のナイフ形石器やその剥片石器が出土した。石神井川の両岸の台地上で日当たりが良く、水の便がいいこの地は往古の人々にとっての快適な地であったのだろう。

安養院
再び石神井川に向かって成り行きですすむ。川筋から少し北に安養院。安養院とか多聞寺といった名前のお寺様は結構外れが少ない。とりあえず寄り道。
本堂、鐘撞堂、大師堂、庫裏など美しいお寺様。銅鐘は江戸時代の作で国の重要美術品とか。寺伝によれば、鎌倉中期正嘉元年(1257)に、最明寺北条時頼が諸国行脚のみぎり、持仏「摩利支天」を此地に安置し一宇を建立して創建されたと伝えられる。1257といえば、五代執権であった時頼が病のため執権職を義兄である北条長時に譲り出家し、最明寺入道と称した年の1年後。執権職を強化するためには辣腕をふるう一方で、見識にすぐれ善政を敷いた名君と評される。ために、能の『鉢の木』の「廻国伝説に時頼の民情視察の諸国行脚が語られている。安養寺の寺伝はそのみぎり、と符号するのだが、実際は出家したとはいえ、幼い嫡子時宗の次期執権職を安泰とするため幕府の実権はしっかり握っており、且つまた、病気のためむなしくなったのが、寺伝縁起の数年後の1263年というから、諸国行脚をしている余裕はなかった、かと。いつものように縁起は縁起としておこう。

東新町氷川神社
安養院から東へ道なりに進むとほどなく氷川神社。東新町の豊か鎮守の森の中にある。一の明神鳥居から二の木製の台輪鳥居へと長い参道を歩く。その先は石段となっており、上りきると三の朱塗り両部鳥居がある。鬱蒼とした木々が茂る境内の入り口には嘉永3年(1850)生まれの子連れ江戸流れ狛犬。子連れの狛犬ってあまり見たことがないので、なんとなく、いい。本殿は嘉永3年(1850)に改築されたもの。現在は)鉄筋コンクリート建ての覆殿に納められている。

環七
氷川神社から石神井川へ戻ると、ほどなく環七と交差。先に進むと耕整橋。耕整橋から緑道が南に向かうが、これは「エンガ堀」と呼ばれた用水跡。昔は一面に広がる田圃の用水路ではあったのだろうが、都市化が進むとともにその機能を失い暗渠化され、現在緑道の地下には下水道向原幹線が通っている。耕整橋の名前は、耕地の整理に際して出来た橋であったのだろう。また、「エンガ」は、エガ堀とも呼ばれ、「江川」と表示することもあるようだが、「エンガ」の由来は不明。埼玉県には「排水堀で川へ落ちる部分」との方言があるそうだ。このあたりの意味が近そう。いつだったか、この耕整橋から南へ、大谷口の給水塔へと歩いたことがあるが、それはそれとして、先に進むと、ほどなく川越街道。

川越街道
現在の川越街道・国道254号線は起点である豊島区・池袋六ッ又交差点からはじまり、埼玉県川越市に終わる。ちなみに、起点から先、日本橋に向かう国道254号線は春日通りと呼ばれる。川越街道のはじまりは、戦国の頃、古河公方に対する防御ラインとして川越に城を築き、江戸城との間を古道をつなぎ合わせて道としたもの。江戸時代に入り、川越藩主。松平信綱により、中山道の脇往還として整備された。中山道を板橋宿・平井の追分(現在の板橋3丁目三叉路)で別れ、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿と進み川越に至る。

旧川越街道・下頭橋
先に進むと東武東上線との交差の手前に下頭橋。このあたりは昔の川越街道の道筋であろう。橋の袂に祠があり、ちょっと立ち寄る。橋と祠の由緒の案内によれば、この辺りは旧川越街道の上板橋宿跡。宿橋である下頭橋は近隣住民の協力により石橋に架け替えることにより、それまで頻発していた水難事故が跡を絶った、と。
橋の名の由来については、例によって諸説ある。旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽を吹いて大木に成長したという逆榎がこの地にあった、というのがそのひとつ。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから、というもの。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもの。橋脇の六蔵祠はこの六蔵の徳を讃えて建てられたもの。本日の散歩はここまで。東武東上線・中板橋駅に向かい、家路へと。


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