杉並 善福寺川筋の窪地・水路跡散歩 Ⅲ;西荻窪の松庵川からはじめ、荻窪の旧流路・揚堀と高野ヶ谷戸の水路跡を辿る②

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JR西荻窪駅地近くの窪地からはじまる松庵川を善福寺川との合流点まで辿り、その後、荻窪地区を流れていた善福寺川の旧流路・揚堀を辿り、最後に高野ヶ谷戸の水路源流部の荻窪駅へと歩いた散歩の後半部のメモをはじめる。 先回のメモでは西荻窪駅近くの松庵川、といっても下水路であったようだが、その水路跡・暗渠を西荻窪から南東に下り、荻窪の善福寺川との合流点までカバーした。当日はその後も成田東・成田西から荻窪に入った善福寺川の旧流路・揚堀を善福寺の取水口辺りまで辿った後、その旧流路・揚堀に荻窪駅方面から注ぐ高野ヶ谷戸の支流を歩いたのだが、先回のメモは松庵川で終えることにした。
今回はその散歩の続き、善福寺川の荻窪地区河川改修以前、現在の善福寺川の流路北に広がる田端田圃(西田田圃とも)と台地の境を流れていた善福寺川の旧流路・揚堀、そしてその旧流路・揚堀に注ぐ高野ヶ谷戸からの支流のメモをはじめる。


本日のルート;
 ■荻窪を流れた旧流路跡・揚堀を辿る
 神通橋>天保新堀用水と旧流路・揚堀が合わさる地点>天保新堀用水と善福寺川の旧流路・揚堀跡分岐点>田端神社の鎮座する台地の崖下を進む>西田保育園脇を進む>旧荻窪団地>北から高野ヶ谷戸からの水路跡>松渓橋への道との交差する箇所に車止め>荻外荘>松見橋への道と交差>善福寺川と合わさる
高野ケ谷戸をたどる
高野ヶ谷戸西側支線との分岐点
高野ケ谷戸西側支流(仮称)を辿る
コンクリート蓋の暗渠が現れる>水路跡が消える>コンクリート蓋の暗渠が北に進む
高野ケ谷戸中央支線(仮称)を辿る
民家の間の細路を進む>公園の池手前の道に出る>北に水路跡が続く>駐車場からさらに北に>中央図書館北の車道に水路跡が現れる>青梅街道・天沼陸橋付近
高野ケ谷戸東側支線(仮称)を辿る
大田黒公園北側の道を進む>車止めのある細路>源流点付近


荻窪を流れた旧流路跡・揚堀を辿る

神通橋
松庵川が善福寺川に合流する2箇所のうち、下流の合流点からメモをはじめる。合流点から少し下流に架かる神通橋を渡り、善福寺川の旧流路・揚堀と天保新堀用水の分岐点に向かう。「杉並 善福寺川筋の窪地・水路跡散歩 Ⅱ」で、成田東・西を進んで来た善福寺川の旧流路・揚堀から、思わず天保新堀用水に乗り換えた地点である。
神通橋
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通は、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。

天保新堀用水と旧流路・揚堀が合わさる地点

神通橋を渡り、成田西4丁目と荻窪1丁目の境の道を進む。道の右手は矢倉台の台地先端部、善福寺川緑地公園となっている。成田東・成田西と進んできた旧流路・揚堀はこの台地を迂回し、善福寺川緑地公園に沿って台地崖線下を進み、台地先端部を廻り込む。
台地先端部を回り込んだ辺りは、成田西4丁目の共立女子学園研修センター杉並寮の辺りから、台地を穿ち胎内堀で進んできた天保新堀用水が、台地から姿を現した辺りではあろうが、その痕跡は見当たらない。
天保新堀用水のこの水路はカワウソだか洪水だか、その詳細は不明だが、土手が決壊し、結果別ルートが開削されることになったわけで、この天保新堀用水ルートが機能したのは2ケ月程とのこと。



とはいうものの、苦労して開削した取水口や水路が活用されなくなったわけではないだろう。旧流路を活用し、田用水路・揚堀として田畑を潤したものと思う。
実際、昭和22年(1947)の航空写真には、大谷戸橋下流(神通橋のふたつ上流に架かる)の取水口から現在の公園を南に下る水路が見える。また、揚堀もその水路に合流している。天保新堀用水として開削された水路は昭和の頃まで揚堀の一部として田畑を潤していたようである。しかし現在、その痕跡は何も、ない。
ともあれ、先回と同じく巨大なマンホールのある道を進み、先回の散歩で思わず天保新堀用水へと乗り換えた分岐点に。

天保・新堀用水 桃園川の窪地・水路跡の散歩の折のメモを再掲:
天保新堀用水の水源は青梅街道の南を流れる善福寺川である。天沼の弁天池を水源とする桃園川は水量が乏しく、千川上水・六ヶ村分水からの養水で水量を補っていた。しかしこの養水では天沼村・阿佐ヶ谷村は辛うじて潤うものの、更に下流の馬橋・高円寺・中野村には十分な水が届かず、その解決策として、水源を水量豊かな善福寺川に求めることにした。
取水口は現在の大谷戸橋付近。そこから善福寺川に沿って矢倉台を迂回し、途中胎内堀り(素掘り)で進み、現在の都立杉並高校の北にある須賀神社辺りの弁天池(明治に作成された「関東平野迅速測図」にも大きな池が記されている)に貯め、そこから先は、再び青梅街道の走る台地の下4mから5mに、高さ1.3m、幅1.6mの地下トンネルを穿ち(胎内堀り、と称する)、青梅街道の北、桃園川に下る窪地に水を落とすことにした。この窪地には用水開削以前から新堀用水と呼ばれる自然の水路が流れていたようである。
天保11年(1840)9月に貫通した天保新堀用水であるが、その2カ月後には善福寺川に沿って迂回していた田端・矢倉台付近の土手が崩壊。その原因は「カワウソ」であった、とか。実際は大雨による土手の決壊ではないだろうか。 それはともあれ、この対応策として川筋迂回は止め、大谷戸橋付近から弁天池にほぼ直線に進む水路を計画。途中の矢倉台は、550mを胎内堀りで抜く工事を再開。天保12年(1841)のことである。
胎内堀りは馬橋村の水盛大工である川崎銀蔵が五百分の一という極めて緩やかな勾配を掘り進め、新堀の窪地と繋げた。この用水の完成により、馬橋・高円寺・中野の村は、大正の頃までその地の田圃の半分ほどをこの用水で潤した、という。
善福寺川緑地
『杉並の川と橋』に拠れば、「善福寺川緑地および和田堀公園地内の橋」の項に「昭和39年に都市計画公園として事業化された両地域には、作場橋(農工作用の橋)の他、古道に架けられていた橋を除いて、一般通路用として橋は架けられていなかった。
善福寺川緑地公内の最西端に架けられている神通橋と最東端の大成橋との間には上流から、なかよし橋、西園橋、西田橋、せきれい橋、児童橋、相生橋、成田上橋、成田下橋、成園橋がある。昭和43年の「杉並区橋梁名称図」には相生橋以外その名が出てこない。相生橋は(中略)、昭和14年の「陸測図」には橋名の表記はないが、橋記号は表示されている。これは、昭和7年、田端田圃の中に杉並高等小学校が開校された時、通学用の新道が尾崎の丘方面に開通したので、善福寺川に架橋されたものと思う」とある。

この記事を読むだけで、昔一面の田圃であった善福寺川流域が宅地化が進み、人々の往来のための架橋、憩いの公園の整備といった流域の変遷を想像し得る。 なお、この橋一覧に屋倉橋、天王橋、尾崎橋の名がないが、この3つは古道に架かっていた橋ということだろうか。

旧流路・揚堀は荻窪地区に向かう
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
先回の散歩で思わず天保新堀用水へと乗り換えた地点から、左手に天保新堀用水流路跡である天神橋公園を見遣りながら揚堀跡を先に進む。天神橋は台地上にある天神さまとも称された田端神社に由来するものだろう。
今から進む水路跡は、幾筋もの流れが交じり合って下った往昔の善福寺川の流路のひとつであろうかと思う。田端田圃(西田田圃)の中を蛇行しながら幾筋も流れていた善福寺川の河川改修は、昭和10年(1935)頃からはじまり、河川の一本化が完成したのは昭和45年(1970)と言う。「今昔マップ首都 1944-54」では幾筋かに分かれている善福寺川の流路が、「今昔マップ首都 1965-68」ではほぼ一本化されているのはこういった河川改修工事の結果であろう。
この辺は、昭和38年(1963)には松渓橋下(神通橋の3つ上流に架かる)まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われたという。ということは、この辺りが善福寺川河川改修の仕上げの箇所であった、という事だろう。
善福寺川の河川改修
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』によれば、昭和10年(1935)頃に善福寺川流出口から鉄道橋下まで、昭和13年(1938)頃に中野境から駒が坂橋(注;環七の東)下流500m付近まで、その後戦争で中断した後、昭和21年(1946ぎ手はに工事再開し、堀之内本村橋下流まで、昭和25年(1950)には済美橋下まで、昭和26年(1951)には大松橋上流まで(注;現在の和田堀公園の東辺り)工事が行われ、昭和38年(1963)には松渓橋下まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われ、河川が次第に一本化され、これによって田用水路などが暗渠化されていった。
旧流路・揚堀
メモで「旧流路・揚堀」と表記しているのは、揚堀はある程度河川改修をおこなった後、田を潤す用水として設けられた水路であろうが、古い地図を見ると、その水路は旧流路と被ることも多い。「経済合理性」の観点からも、揚堀・田用水は、新たに開削しなくても、幾筋にも分かれていた旧流路の「どれか」を活用したものであろうと推測し得る。また、旧流路がいつの頃から揚堀として整備されたか不明である。旧流路=揚堀、ではあろうが、揚堀として整備された日時が不明であるため、「便宜的」に「旧流路・揚堀」と併記表記している。

田端神社の鎮座する台地の崖下を進む
分岐点から先は、しばらく田端神社の鎮座する矢倉台の台地崖下に沿って進む。 『杉並の川と橋』に拠れば、「この台地一帯は「矢倉」または「屋倉」と言われ、『新編武蔵風土記稿』には「伝云鎌倉時代より陣屋櫓のありしを、・・・或は云成宗が柵迹なりと、・・・此辺りに鎌倉街道の迹ありと云う、但し此処より長新田道というあり、西五日市檜原街道なり」とあって、小田原北条氏の家臣大橋知行(成宗)の館跡とも言われている」とある。古くから開けた地のようである。
田端神社
田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。境内は古墳であった、と。なお、品川右京も良影も何者か不詳。
長新田道
上の矢倉台のメモで、長新田道との記述があった。チェックすると、これは西荻窪、大宮前新田辺りの五日市街道の呼称であった。五日市街道は場所によって、伊奈道、砂川道、青梅街道脇道、小金井道、長新田(ながしんでん)道、五日市道などと呼ばれていた。
伊奈道
五日市街道と呼ばれるようになったのは近世末期から近代になってから。それ以前は「伊奈道」と呼ばれていた。秋川に架かる山田大橋の辺りの地名は伊奈と呼ばれるが、ここでは伊奈石が採れた。平安末期には信州伊那谷の高遠から石工が集まっていた、と言う。で、江戸城築城に際し、この伊奈の石材を江戸に運ぶために整備された道が「伊奈道」である。
伊奈道が五日市街道となったのは、伊奈に替わって五日市に焦点が移った、ため。木材の集積の中心として五日市が伊奈にとって替わった。ために、道筋も五日市まで延ばされ、名称も五日市街道になった、という(『五日市市の古道と地名;五日市市郷土館』)。鎌倉街道山の道を高尾から秩父まで歩いた途中で伊奈の地を歩いた頃が少し懐かしい。

鎌倉街道
甲州街道が首都高速4号線と重なる京王線・上北沢駅入口交差点近くに「鎌倉橋」交差点がある。ここは小田急線・祖師谷駅北の千歳通り十字路から右に折れ、芦花公園、この鎌倉橋交差点、大宮神社、中野の鍋谷横丁をへて板橋へと向かう鎌倉街道中ツ道の道筋(「東ルート」と仮に呼ぶ)である。
また、杉並を通る鎌倉街道には、千歳通り十字路から北に南荻窪の天祖神明宮、四面道へと向かうルートもある(「北ルート」と仮に呼ぶ)。
このふたつのルートが所謂鎌倉街道と称される道であるが、そもそも、鎌倉街道は、「いざ鎌倉へ」のため新たに開削された道ではなく、旧来からあった道を繋ぎ鎌倉への道路網を造り上げたものとも言われる。上記ふたつのルートが関幹線とすれば、幹線を繋ぐ幾多の支線がある。田端神社脇の「鎌倉街道」も、そういった支線のひとつではないだろうか。
具体的な資料がないので想像ではあるが、「東ルート」、「北ルート」というふたつの幹線を繋ぐとすれば、「東ルート」からは大宮八幡から左に分かれ砦のあった田端神社の台地に向かい、「北ルート」からは五日市街道、人見街道あたりから田端神社方面へと向かい、二つの幹線を繋いだのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

西田保育園脇を進む
水路跡脇に西田保育園がある。地名に西田がないのは、先回のメモの東田中学校の由来と同じ。成田は成宗と田畑の合成地名というが、時系列でより正確に言えば、田端は成宗を左右から囲んでおり、成宗の東側の田端を東田、西側を西田とした。
その後、成宗1丁目と東田1丁目・2丁目の一部が合わさり成田東となった。同様に、成宗2丁目と1丁目、西田町2丁目の一部を合わせてできたのが成田西である。昭和44年(1969)の新住居表示にともなう施行であった。

旧荻窪団地で荻窪地区に入る
西田保育園の少し先で成田西4丁目から荻窪3丁目に入る。成田から荻窪に入ると、水路跡であろう道の南にUR都市機構(前身は「日本住宅公団」)の「シャレール荻窪」の建物が並ぶ。この宅地は元の荻窪団地跡にできたものである。 『杉並の川と橋』に拠れば、「西田町の田端田圃(当時は西田田圃とも言われていた)が住宅公団建設用地に姿を変えた。(昭和)三十三年には二十七棟の五階建て団地が建設され、三十四年には「荻窪団地」と名付けられた入居が始まった。(中略)団地ができる前の西田町の人口(昭和二十五年)は851人であったのが昭和三十七年には3099人になり。四十年には3336人となった。これは荻窪団地だけの人口増ではなく、付近の雑木林や畑地に社宅や都営団地等が建設された結果である」とある。
再開発される前、この辺りを歩いたことがあるのだが、現在では古い住宅が消え去り、様変わりしていた。なお、「シャレール」とはUR都市機構の統一ブランド名らしく、各地に「シャレール」を冠した宅地がある。シャレールとは「洒落る」を捩ったもの?フランス語で、chaleureux、真心のこもった、との意味もある。

北から高野ヶ谷戸からの水路跡
旧荻窪団地跡の再開発された宅地を見遣りながら、旧荻窪団地東北端、「大谷戸かえで公園」の東端辺りで、水路跡は車道を離れ民家の間に入る。車止めも何もなく、水路跡?と思いながら歩いていると、道の北側に車止めが見える。高野ヶ谷戸からの流れが旧流路・揚堀に注ぐ箇所ではあろう。ちょっと安心。高野ヶ谷戸は荻窪を進むこの旧流路・揚堀を辿った後に歩くことにして、とりあえず先に進む。



松渓橋への道との交差する箇所に車止め
どうといったことのない車道を進むと、坂を下る車道と交差する先が少し狭くなり車止めがある。安心。この坂を下る車道は松渓橋に続く。
松渓
松渓の由来は先回もメモしたように、『松渓中学校の元校長のコメントとして「学校から眺めるこの風景が中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似ているので校名を松渓と名付けた」とあった。松渓の出処は校長先生にあった(『杉並の川と橋』より)。
学校は柳窪を形成する標高45mラインから数段下がった等高線上、善福寺川に突き出た台地上にある。往昔は一面に松林が茂り、台地下を流れる善福寺川と相まって「松渓」の景観を呈していたのであろう。

荻外荘
車道先に整備された遊歩道を進むと道の左手に公園が見えてくる。1万坪もあったと言う近衛文麿公の邸宅である「荻外(てきがい)荘」跡地の一部を整備して造られた区立公園である。
『杉並の川と橋』に拠れば、荻外荘は「大正天皇の侍医であった入沢達吉博士(東京帝大教授)が宮内省を退官する時、この地約二万坪を購入(一説には功績によって宮内省から贈られたものという)して家を建てたと言われている。近衛公が第一次内閣総理大臣(注;第一次近衛内閣のことだろう)に任命された時、入沢博士から半分を譲り受けた。(中略)「荻外荘」の名は、当時上荻窪の関根あたりに住んでいた有馬頼寧公の命名であると言われている」とある。

Wikipediaなどを参考にもう少し荻外荘についてまとめると、松渓の由来でもメモしたように、この地は中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似るという。南面の台地から一面の田圃、その中を流れる善福寺川、対岸の高台の松林の向こうには富士山を見渡せるこの景勝の地に惚れ込んだ近衛公は入沢博士に願い、昭和12年(1937)にこの地1万坪を購入した。本邸は目白にあるのだが、この別邸に住み始めてからは、本邸に戻ることはなかった、と言う。
近衛公はこの別邸を政治の場としても活用し、第二次世界大戦前夜の重要な国策の決定がこの荻外荘なされた。と言う。連合艦隊司令長官・山本五十六が対米決戦の見通しに関する質問に対し「初め半年や1年は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ」と答えたのもこの荻外荘でのことと言われる。
戦後は一時期吉田茂が近衛家から借りて私邸代わりとしていた時期もある、と言う。昭和35年(1960)には邸宅のおよそ半分の建物が巣鴨にある天理教の敷地内に移築され寮宿舎となっている(非公開)。平成25年(2013)、地元住民の要望を受け杉並区が荻外荘を買い取ることになり、平成27年(2015)年3月、敷地の一部が荻外荘公園として公開された。

松見橋への道と交差
荻外荘公園を過ぎ、台地から松見橋に下る車道と交差する箇所に車止めがあり、その先は公園として整備されている。
松見
松見の由来は、前回メモしたように、景観・地形から。松渓の由来にあるように、台地に松林の茂る景観を表したものである。





善福寺川と合流
松見橋への道を超え、荻窪第二児童遊園として整備されている水路跡を少し進むと水路跡は善福寺川にあたる。水路跡が善福寺川と合わさる箇所に水管口が見える。往昔の揚堀の取水口辺りではあるが、田圃などなにもない現在、揚堀が機能しているとも思えないため取水口とも思えない。雨水の排出口だろうか。




高野ケ谷戸をたどる

荻窪を流れる善福寺川の旧流路・揚堀跡を歩き終え、途中目にした、高野ケ谷戸からの水路合流点に戻る。地形図をチェックすると合流点辺りから北の台地に切れ込んだ窪地は、上部で二つにわかれ、ひとつは大田黒公園に沿って荻窪駅方面へと東北へ、もう一方は杉並区中央図書館辺りへと西東へと向かって等高線が延びている。

高野ヶ谷戸東側支線(仮称)との分岐点
車止めのある合流点から水路跡をイメージしたような美しくカラーリングされた道を進む。ほどなく東西に走る一車線の車道にあたる。カラーリングされた道は車止めの先、北に進むのだが、交差する車道の右手、一筋東を北に上る道に通路を分ける小さいコンクリートの標識が断続して続いているのが見える。水路や埋設鉄管を示す標識であることが多いので、ちょっと気になり寄り道をする。

高野ケ谷戸東側支線(仮称)を辿る

コンクリート蓋の暗渠が現れる
断続して続くコンクリートの標識に沿って進むと、道にはマンホールが顔を出す。水路跡なのか下水網なのかはっきりしないので、もう少し先に進むと車止めがあり、道も狭くなる。そして、その先、東西に通る道と交差する先には車止めが見え、道はコンクリート蓋の暗渠となって北に向かう。水路跡であった。

水路跡が民家で塞がれる
その先で水路跡は民家に遮られ消えてしまう。地図を見ると、民家の立ち並ぶ北に、如何にも水路跡といった道が続いている。宅地の右に通る道を迂回し水路跡の道筋に向かう。
コンクリート蓋の暗渠が北に進む
迂回し、水路跡の道筋に回り込む。回り込んだ民家の間の道にはマンホールが見えるが、民家の間の道といった趣で水路跡といったものではない。 何かしら痕跡はないものかと、少し北に進むとコンクリート蓋に覆われた暗渠が登場するが、通行禁止となっている。暗渠を進めば中央図書館脇の池の辺りに繋がりそう、ということを確認し、分岐点へと戻る。

高野ケ谷戸中央支線(仮称)を辿る
分岐点に戻り、再びカラーリングされた道を進むと大田黒公園北側を荻窪駅方面に向かう道に出る。左に折れれば、地形図で確認した高野ケ谷戸の上部で北東に等高線が切れ込む窪地である。左に進もうか、などと思っていると、少し右手の民家の間に土嚢が見え、その先は如何にも水路跡と思しき道が北に続く。とりあえず民家の間の道を辿ってみる。

民家の間の細路を進む
コンクリート蓋の暗渠を進み、左に折れると道はいよいよ狭くなる。先に進み直角に右に折れるところには網戸が置いてあり道を塞ぐ。少し動かし、元の位置に戻し先に進む。道の右手は年代物の高い石垣が組まれており、往昔の水路跡の趣が感じられる。その先、草生した石垣の辺りを過ぎると宅地開発された辺りに入り、道の両側も少し新しいコンクリート塀で囲われることになる。

公園の池手前の道に出る
水路跡を進むと鉄柵で行く手が阻まれる。鉄柵の先は車道となっている。鉄柵も低かったので、申し訳ないとは思いながら柵を越えて車道に出る。車道の右手の北には中央図書館脇の公園の池がある。そこまで続いているのだろうかと、 水路跡を探す。



北に水路跡が続く
と、車道北の民家の間に水路跡が見える。道は厳重に鉄柵で遮られており、歩くことはできない。地図を見ると、水路跡が北に延びる先に駐車場がある。そこに右から迂回し、駐車場まで進んできた水路跡を確認することにする。



駐車場からさらに北に
駐車場東南端の民家脇から駐車場に水路跡が現れる。予想では杉並区中央図書館左の「読書の森公園」に見える池に繋がると思っていたのだが、予想に反し、水路跡は真っ直ぐに北に向かう。
水路跡は誠に細く、また「読書の森公園」公園は柵で囲まれているため水路跡に沿って進むことはできない。仕方なく、道を迂回し水路跡が北の車道にあたる箇所に向かう。



中央図書館北の車道に水路跡が現れる
駐車場から一筋北の道に。その道はJR荻窪駅から杉並区中央図書館に向かう幾度も通った道であった。その道の公園東端から細い暗渠が道まで続き、道の北、民家の間を、これも誠に細いコンクリート蓋の暗渠となって更に北に向かう。 ここまで来ると、窪地から離れてしまう。思うに、桃園川の窪地散歩の折にメモしたように、桃園川を養水した千川上水の六ヶ村分水から水を取り入れたのかとも思えてきた。
千川上水・六ヶ村分水
千川上水・六ヶ村分水は、練馬区関町で本流から分かれ、青梅街道に沿って台地上を下り、上井草・下井草・下荻窪・天沼・阿佐ヶ谷の六つの村に水を送る用水路。乏しい水量の桃園川への養水の役割を担った。

青梅街道・天沼陸橋付近・中央支線・取水口(?)
ついでのことであもるので、千川上水・六ヶ村分水が通った青梅街道まで進み、何か水路跡の痕跡でもないものかと確認に向かう。
道を少し東に戻り、青梅街道の天沼陸橋脇の道に出る。天沼陸橋交差点を少し西に進み、北に進んだ水路跡を探してビルの間の駐車場などの入り込むが、駐車場の南はそれらしき雰囲気なのだが、遮蔽物があり水路の確認はできなかった。
それはそれで少々残念ではあったが、高野ヶ谷戸から揚堀に注ぐ水は窪地からの水だけでなく、確証はないものの、千川上水・六ヶ村分水からの養水も含まれいたようだ、という可能性を感じただけで少々満足。

高野ケ谷戸西側支線(仮称)を辿る

大田黒公園北側の道を進む
青梅街道から高野ケ谷戸中央支線(仮称)と分かれた太田黒公園北の分岐点に戻る。地形図によれば、窪地は太田黒公園北の道に沿って北東に延びている。仮に高野ケ谷戸東側支線と名付けることにして公園北の道を進む。
大田黒公園
明治26年(1893)生まれ。裕福な環境で育ち、大正から昭和に渡って音楽評論家・批評家として活躍。音楽にあまり興味のない私でもその名を知る吉田秀和氏をして「大正リベラリズムが生んだひとつの典型。今でもあの人が私の唯一の先輩」と評されるほどの人物である。大田黒公園はその邸宅跡を整備し昭和56年(1981)に開園した区立公園である。

車止めのある細路
天沼陸橋南交差点から下る道と交差する先に、車止めある細路が直進する。地形図でも確認した高野ヶ谷戸の東北端はその先である。人ひとり通れるかどうか、といった細路を進むと車道にあたる。






源流点付近
車道の先には、更に狭くなった水路跡らしき道が民家の間に見える。細路を進むと道は右に曲がり、車道にあたる。地形図によれば、この辺りが高野ヶ谷戸の北東端と一致する。





分流
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
上でメモした「更に狭くなった水路跡らしき道」が見える車道で水路は分岐するといった記事もあった。等高線44mで引いた高野ヶ谷戸は上記源流点辺りが塔北端となるのだが、そのさらに一段高い等高線45mラインで見ると、荻窪駅手前まで扇形に大きく広がっている。
高野ヶ谷戸は地形図で見る限り標高44mラインで形成される窪地と思うのだが、標高45mラインで囲まれた一帯からの水も集め、高野ヶ谷戸の水路に合していたのだろうか。または、先ほどの中央支線と同様、千川上水・六ヶ村分水からの「養水路」であったのだろうか。不明である。
車道分岐点から道なりに左に進み、車道を右に折れ荻窪駅方面に向かう。これといった水路跡の痕跡は見つからなかった。荻窪駅から善福寺川に架かる忍川橋を越え環八・桃井二小交差点に向かう車道と交差する地点まで歩き、今回の散歩を終えることにする。

杉並の窪地・水路跡散歩もこれで終わりか、と思ったのだが、チェックすると善福寺川の南の成田西地区に旧水路跡・揚堀がある。また、善福寺川を上った中央線の北、西荻窪に窪地、上荻にも水路跡が地図に見える。ついでのことでもあるので、杉並区の窪地・水路跡をほぼカバーすべく、次回も地味に杉並の窪地、旧流路を歩くことにする。

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