伊予 歩き遍路;千本峠越えと六部堂越え

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先回、久万の町にある四十四番札所・大宝寺と四十五番札所・岩屋寺を繋ぐ遍路道のひとつ、「逆打ち・打ち戻しなし」のルートを、越ノ峠を越え有枝川、槇ノ谷の谷筋を辿り八丁の坂(茶屋跡)へと上り、数年前歩いた岩屋寺への尾根道と合流。遍路道のひとつを繋いだ。
返す刀で八丁の坂(茶屋跡)から山裾の車デポ地に戻り、次の目的地である千本峠越えに。四十四番から四十五番へと「巡打ち」した後、同じルートを「打ち戻る」途中から山地に入り、久万の町に再び戻ることなく、松山へと下る三坂峠方面に向かうルートである。当日は千本峠を越えて高野の集落に出たところで時間切れとなった。

今回の散歩は、千本峠越えの後半部と六部堂越を目す。千本峠後半は、先回の最終地点である高野の里からはじめ、ゆったりとした山里の道を辿り、槻ノ沢集落を経て国道33号まで下り、千本峠越えの遍路道を繋ぐ。国道33号に下りた地点で、思いがけず仰西渠に出合い、水路好きのわが身には、よきご褒美ともなった。

次いで六部堂越に向かう。「えひめの記憶」に久万から三坂峠に向かう遍路道のひとつであったと記されていたこと、そしてなにより、六十六部回国僧・遊行僧由来の「六部」という言葉に響きに惹かれて、誠にお気楽に向かったのだが、これが結構な難行。
「えひめの記憶」には、「『四國遍路だより』に「(六部堂越の道は)山頂(さんちゃう)の景色(けしき)は重巒雄大(ちゃうらんゆうだい)ですが、さして近(ちか)いこともありませず淋(さび)しい道(みち)です。大方(おほかた)は千本峠越(ぼんとうげご)えして松山街道(まつやまかいどう)に出(で)ます」とあるように、お遍路さんも絶えて久しくこのルートを辿っていないようで、現在は遍路道の案内も、ない。
河之内の集落から峠近くまで続く林道も、峠直前の沢部で切れ、後は藪漕ぎでなんとか六部越(峠)に這い上がることになった。結構な急斜面の沢筋のトラバースでもあり、躊躇しばしの末の決断ではあった。

峠から国道33号方面への下りは、国道>六部堂越>皿ヶ峰へと上る登山者のログも多く、まあいいか、とパスし、替わりになんとか六部堂越までの「スムーズなルートを繋げようと。
しかし、六部堂越は復路も楽をさせてくれなかった。峠から地図に破線で描かれる踏み分け道を下るが、それもすぐに消え、往路の林道に滑り降りる始末。誰の役に立つとも思えないが、こうとなれば虚仮の一念で、六部堂越までの「藪漕ぎ無し」ルートを見付けようと、林道と踏み分け道の組み合わせでなんとか峠と繋げた。
それにしても、道を覆い絶えることのない茨、道を塞ぐ倒木、茨と倒木の「通せんぼコラボレーション」に悩ませられた六部堂越であった。

これで、数回にわたってメモした、久万に入るいくつかの峠越えの遍路道、また久万から出て松山へと下る三坂峠に続くいくつかの遍路道も歩き終え、ルート完成。
ルートは繋いだものの、歩き疲れたお遍路さんが、古の遍路道ではないものの、体に優しい国道を歩かず、あえて峠越えの遍路道を歩くとも思えない。実際、峠越えでお遍路さんに会うこともなく、国道33号で見かけたお遍路さんに声をかけて乗車をお誘いする帰途となった。



本日のルート;
■千本峠越え■
(後半部)
高野集落の遍路道分岐:8時2分>槻ノ沢の2基の道標;8時11分>大除城の案内;8時16分>手印の道標:8時17分>馬頭観音と道標;8時25分>道標を土径に:8時29分>採石場;8時36分>久万川;8時42分>仰西渠:8時43分

■六部堂越■
(往路)
林道に車をデポ;9時55分(標高745m)>登山道分岐;10時16分(標高890m)>六部堂越えの林道分岐点;(標高940m)>峠直前で林道が消える;10時43分(標高1,000m)>六部堂越;11時27分(標高1,010m)
(復路)
登山道も消える;11時41分(標高1,000m)>林道からの踏み分け道も消える;11時時54分(標高980m)>往路の林道に滑り降りる;12時6分(標高940m)>峠との道を繋ぐ;12時15分(標高980m)>車デポ地に戻る;13時2分(標高745m)

■千本峠越え■
(後半部)

高野集落の遍路道分岐:8時2分
先回、危険個所ってどの程度のものか確認のため、通行止めの木標から先に進んだのだが、既に復旧工事は終わっているのか、落石可能性を避ける安全確保のためだけの通行止めであったのか、その因は不明だが、結局知らず高野の集落に出てしまった。そして集落から車道を下り土径に分かれる遍路道を確認し散歩を終えた。
本日の散歩はその分岐点から。国道33号を久万の町に。そこから県道12号に乗り換え、峠御堂トンネル手前、「高野展望台」の案内が立つ分岐を左に折れ高野集落に。遍路土径分岐近くのスペースに車をデポし散歩をスタート。

槻ノ沢の2基の道標;8時11分
しばし畑地脇を進んだ後、杉林に入る。杉林を抜けると槻之沢(けやきのさわ)の集落に出る。一面の霧の中、棚田がうっすら見える。千本峠を越える手前の棚田は人の手が入っておらず、草茫々で荒れ果てていたが、この集落の棚田は水が満々と張られ、杉林を出たところに立つ2基の道標に美しい霧の借景を与えていた。

大除城の案内;8時16分
土径を下ると道脇に「大除城の跡」の案内。「大除城は、天文年間(1532-1554年)に、道後湯築城主の河野氏が、土佐の長曽我部一族の侵入を防ぐためにこの前方の山頂に築いたものです。以降、城主の大野氏は3代にわたり繁栄しましたが、天正13年(1585年)に秀吉の命を受けた小早川隆景軍に河野氏が降伏し、大除城を明け渡したのです」とある。
次第に晴れてきた霧の先に、周囲からちょっと抜け出た山が見える。標高694.2mピークの山が大除城山だろう。

手印の道標:8時17分
大除城の案内の直ぐ先に手印だけの道標が立つ。特に道の分岐もないのだが、先ほどの大除城の案内の直ぐ傍でもあり、昔は大除城山方面、というか槻ノ沢集落への分岐道でもあったのだろうか。







馬頭観音と道標;8時25分
土径を下り車道に出たところに木標があり、その傍にささやかな馬頭観音と並んで道標が立つ。
「えひめの記憶」には「遍路道が車道と合流した地点に馬頭観音が祀られており、その横に道標がある。ここで遍路道は二つに分かれる。一つは、ここで右折して大除城址の左側の山麓を回って久万川に向かって緩やかに下っていく道であるが、この道の大半は消えている。もう一つは道標からそのまま直進する道である」とある。
上の手印道標のところで、大除城山・槻ノ沢集落方面への土径分岐でもあったのでは?などとメモしたが、昔にこの車道があったわけもないだろうから、強ち間違いでもなさそう、かと。

道標を土径に:8時29分
車道を少し下ると、道の右手に道標があり、遍路道は右に折れ土径を下ることになる。「えひめの記憶」には「道の右端に道標あり、順路・逆路に加えて、菅生山・久万町道を指示している。ここから左折すれば大宝寺参道の中之橋に至る脇道となる」とある。
左手の耕地に向かう道は見えるが、特段道筋といったものわからないが、国土地理院2万5千分の一地図を見ると車道をもう少し下った辺りから、久万の町を結ぶ線が見える。道路改修で昔の道筋が消えたのだろうか。よくわからない。 ともあれ、道を右に折れ農家の作業小屋など、のどかな土道を進む。右手には砕石場と岩肌がむき出しになった山が近づく。大除城山ではあろう。

採石場;8時36分
4月中旬ではあるが、いまだ残る桜を眺めながら土径を進むと砕石場ゲート辺りで車道に合流する。「えひめの記憶」には「採石場のある山の裾(すそ)近くで道の一部が消えている。その消えた道の先に残る五反地で、大除城址の山麓から下ってきた道と合流して50mほど進むと道端に道標がある。久万川左岸にあったものを、川の改修工事の際に移設したと地元の人は言う」とある。
当日は、遍路道と車道が合流した辺りを探したのだが、道標は見つからなかった。先ほど馬頭観音の車道にでたところで、「ここで右折して大除城址の左側の山麓を回って久万川に向かって緩やかに下っていく道であるが、この道の大半は消えている(「えひめの記憶」)」とあったが、ひょっとする道標はその山麓を廻る道筋にあるのかもしれない。地図には大除城山の山麓をぐるりと廻る道筋がみえる(Google Street Viewでは確認できなかった)。

久万川;8時42分
車道を下り久万川に出る。橋の北詰めに大除城の案内。さきほど棚田で見た案内より詳しく説明されている。「大除城 大除城址は中世の山城である。標高694m、麓からの比高は約150m、南北に流れる久万川が裾野をめぐり、土佐街道(現国道33号)が膝下を通る要害の地にある。
遺構は、中予地方を代表する城に相応しく、大規模で堅牢である。三方の険しい地形にそびえ立ち、北方のみが尾根によって背後の山と続いている。本丸跡と推定される最頂部の郭(郭Ⅰ)は、長辺約30m、短辺約18mの方形をなし、周囲は石垣によって固められている。郭Ⅰから南西方向に数mずつの段差を隔てて郭Ⅱ、郭Ⅲに続くが、これら郭の側*面にも石積の跡を確認することができる。
郭Ⅱの下の郭Ⅳには東側に小規模な空間があり、虎口であったと考えられる。 郭Ⅰから南東方向には三角形の腰郭(郭Ⅴ)が設けられ、その下に郭Ⅶがある。 郭Ⅶの北側石積から北東斜面に上り、石垣が続いている。郭Ⅰから北方に降って背後に続く尾根道の鞍部には堀切が設けられて守りを固めている。 「予陽河野家譜」には、土佐一条氏の侵入を防ぐために河野氏が築城し、喜多郡宇津城(私注;小田村、現在の内子町)主大野安芸守直家に守らせたと記されてある。築城年代は明らかではないが、文亀元年(1501)前後であるとも推定されている。寛正五年(1464)に久万山入道というものが築城したという庄屋記録があることから、小規模な砦の跡へ築城したとも考えられる。
天文年間には直家の子利家が河野氏にそむいて小手ヶ滝城、大熊城(ともに川内町)の戒能氏を攻め、永禄年間には土佐一条氏が久万山に侵入したのを、利家の子直昌が防いだという(予陽河野家譜)。
直昌は武勇にすぐれ、土佐長曾我部氏に対抗する山の手の旗頭として河野氏の重鎮であった。その幕下は48騎、41箇城といわれ、大除城を中心に、三重の円陣を描き予土国境に向かって展開していた」とあった。
大野氏
大野氏は旧小田町、現在の内子町といった土佐国境地帯に勢力を持つ「山方衆」の有力武将であり、守護である河野氏からも半ば独立したスタンスを示していた。一族には河野氏と敵対する宇都宮氏や長曽我部氏と結ぶものあり、また、河野氏の勢威が盛んで、権益が侵されないときは臣従するも、河野氏が弱体すすると上述の如く、山を下り河野氏に叛乱をおこすこともあった、とか。 その中で、直昌は河野氏の宿将として、土佐一条氏、毛利氏、三好氏、伊予宇、宮氏、長宗我部氏などの侵攻をたびたび撃退し、衰退した河野氏を支えたとのことである。

仰西渠:8時43分
久万川に架かる橋を渡ると「仰西渠」の案内。「手づくりの水路"仰西渠" 仰西渠は、元禄年間(1688‐1703)に、山之内彦左衛門(後に仰西という)が私財を投じて完成させた注目すべき水路で、青の洞門(大分県本耶馬渓)にも匹敵するといわれております。
この水路のおかげで、農業用水の確保に苦しんでいた農民が、どんなに助かっか言うまでもありません。
長さ57m・幅2.2m・深さ1.5mのこの水路は、現在も当時の姿のまま、利用されています。昭和25年10月10日県の史跡に指定されています」とある。

案内脇に水路が流れており、岩を掘り抜いた隧道も見える。水路に沿って取水口まで辿り、自然の岩を活用した余水吐けなどを見た後国道33号に出ると、記念地とともに詳しい案内があった:
「江戸時代に山之内彦左衛門(後の仰西)が、水田に水を引くことができず困っていた農民を救うために私財を投じて作った農業用水路で、長さ57mで幅2.3m、深さ1.5mあり、下流25haの水田を潤した。固い岩盤をノミと槌だけで切り開いており、県指定史跡となっている。現在も当時のままの姿で田畑を潤しており、潤いと安らぎをもたらすものとして地元の方々に親しまれている。 ここを流れる用水路が造られた江戸時代は、米は年(税)として武士におさめる大切なものでした。人々は、とても重い税のために、なんとかして水田を広げて、コメのとれ高を増やそうと努力しました。
入野地区のような、やや高いところへ水を引くには、久万川のずっと上流のこの地から用水路を引くしかありません。
最初、人びとは、川の上流に堰を造り、固い岩山のところは筧(かけひ)をつかって水を引こうとしたようですが、筧は台風や大雨、強風などでこわされたり、流されたりすることが多かったようです。修理する費用や時間もなく、水がなければ稲が育たなくなってしまいます。人びとの暮らしは大変苦しいものだったようです。
人びとの苦しい生活を見かねた山之内仰西は、用水路を造り、入野地区まで水を引こうと考えて、かたい岩山を切り開く工事にとりかかりました。
はじめは、仰西や石工だけで行っていましたが、「石粉一升、米一升」のアイデアにより村人の協力がえられました。そのうちに米をめあてにしていた人も、心から水を求めて仕事に取り組むようになり、ついに用水路は完成しました。この後は、コメの取れ高も安定し、暮らしはずっとよくなったそうです。

その後、人びとは、この用水路を「仰西渠」と呼ぶようになりました。「仰西渠」は山之内仰西や地域の地人々の「郷土を思いやる心」がひとつになって、造ることができた用水路です」。

散歩をはじめていくつの手堀りの用水に出合っただろう。箱根の深良用水荻窪用水、足柄の山北用水、愛媛でも丹原の劈巌透水路や志川堀抜隧道など枚挙に暇ない。水を求める先人の努力は散歩をはじめるまで、全く知らなかったことである。
また、農民、商人普請の用水開削の記録は残らず、あまつさえ罪を問われるケースが目についた。お上としては農民・商人のその功を認めたくなかったのだろうか。

これで千本峠越えを国道、かつての旧土佐街道まで繋いだ。来た道を車デポ地まで折り返し、次の目的地である六部堂越に向かう。


■六部堂越■

(往路)
林道に車をデポ;9時55分(標高745m)
車デポ地の高野の集落から県道12号に折り返し、峠御堂トンネルを抜け、河合の集落で県道209号に乗り換える。有枝川の開いた谷筋を北に進み河之内の集落県道を左折し、集落の中の道を進む。
地図には林道らしき道筋が、六部当堂越の近くまで記載されている。ピストン行の関係上、車を寄せられるところまで進もうと、いくつか蛇行を繰り返すが、ペアピンカーブを越えたとここで舗装が切れる。スペースに車をデポし、六部堂越スタート。

登山道(?)分岐;10時16分(標高890m)
周囲も開け、左手に沢を見ながらの散歩である。林道を20分ほど進むと右手に踏み分け跡がある。実のところ、往路ではこの踏み分け跡を見落とし、知らず林道を先に進んでいた。
後述するあれこれの顛末があり、復路に登山道を上り峠に辿りつくルートはないものかと地図を注意深くチェックし、この箇所から峠に繋がる破線を確認。登山道かとも思い入ってみるが、直ぐに沢に出合い、その先に踏み分け跡は見当たらなかった。沢を渡り、どこかにルートがないものかと探したのだが、完全に消え去っていた。


六部堂越えの林道分岐点;(標高940m)
登山道分岐点(消え去っていた)を過ぎると林道が荒れてくる。茨が道を覆い腕や体に刺さり難儀する。登山道分岐から940m等高線に沿って少しすすむが、その後は緩やかではあるが等高線に垂直に林道を進む。結構林道分岐もあり、GPSでもなければ不安になるだろう。
林道も荒れてくる。茨だけでなく倒木も相まって結構大変。標高930m辺りでは、もう滅茶苦茶。その先標高940m辺りで右に林道が分かれる。これも後の話ではあるが、この直進する林道が復路峠との道を繋いだ林道である。地図に記載された林道が消える、ちょっと先といった辺りであった。

峠直前で林道が消える;10時43分(標高1,000m)
地図に林道表示はなくなるが、それでも分岐の先に林道が続く。荒れている分岐林道を進むことなく、「より少なく悪い」条件の林道を左折し、北東に突き出る尾根筋(標高980m)の突端部に。そこでも林道が分岐するが、なりゆきで尾根筋を進む林道を標高1,000mまで上ると、林道は等高線1,000m辺りを進む水平道となる。
激しい茨に遮られながら林道を進み、この分なら峠(六部堂越)まで林道が続く?などと期待しながら進むが、道は峠直前でスパッと消える。峠までは数十メートルもないだろう。

六部堂越;11時27分(標高1,010m)
切れた道の先は緩やかではあるが等高線がこれ込んだ沢筋となっている。六部堂越はその谷筋を上りきったところにあるようだ。道が切れた箇所から水平にトラバースしていけば峠に着くように見えるのだが、峠までの沢筋は倒木と藪で難儀しそう。
しばし逡巡。足元の悪い沢を藪漕ぎトラバースするか、林道から尾根筋に這い上がり峠に向かうか、結構悩む。で、結局尾根道を選択し、取りつき口を探し尾根に向かって這い上がってはみたのだが、尾根筋に踏み分け道もなく、藪も激しく一旦林道に戻る。
一度は撤退と林道を下り始めたのだが、ここで諦めるべからずと思い直し、結局林道の切れた箇所から沢の斜面に取りつき、GPSの峠位置情報を頼りに力任せで峠手前の尾根筋に這いあがる。
尾根をちょっと下ると左手に下から上る道が見えた。国道33号から六部堂越に上る登山道だろう。その道に下りると右手に踏み分け道があり、「六部堂 皿ヶ嶺」の木標が立っていた。

本来なら峠から国道33号まで道を下るのだが、その道は木標にあるように皿ヶ嶺の登山ルートとなっており、多くのルート図もあるようなので、ここから折り返す。国道に下りるにかかるであろう時間を使い、往路で難儀したルートではない、六部堂越に続く「スムーズ」なルートを繋ごうとの想いであった。

(復路)
踏み分け道も消える;11時41分(標高1,000m)
六部堂越から下る踏み分け道を探す。地図に描かれる破線に沿って踏み分け道がある。これはラッキー、これで道を繋げることができる、と思ったのも束の間、踏み分け道が切れ、その先も進めそうもない。






林道からの踏み分け道も消える;11時時54分(標高980m)
さてどうしたものか。と、下に林道が見える。踏み分け道と林道の間は数メートル離れでいるが、林道に滑り降りる。
そこから林道を進むが、地図の破線部からどんどん離れてゆく。道を破線部に戻ると、そこから右手にかすかな踏み分け道が下りている。これで安心。と思ったのだが、その道も消えてしまう。またまたどうしたものか、と悩む。

往路の林道に滑り降りる;12時6分(標高940m)
GPSの地図には往路上った林道ログが40mほど下に見える。が、急斜面を滑り下りる必要がある。先ほど出合った林道に戻れば往路の林道に繋がるように思うのだが、地図には記載されておらず、あらぬ方向に連れて行かれるかもしれない。
ちょっと悩んだ末、往路の林道へと沢筋の急斜面を滑り降りることにした。足元に気をつけながら、倒木を乗り越えなんとか林道に復帰。下りた箇所は上述「六部堂越えの林道分岐点」の直ぐ傍であった。

峠との道を繋ぐ;12時15分(標高980m)
林道に復帰したのだが、目標とした六部堂越まで「スムーズ」に上るルートが繋がっていない。上で、「六部堂越えの林道分岐点」とメモしたが、この時点では六部堂越に繋がっているかどうかわかるはずもないのだが、それはともあれ、この分岐林道を辿れば、先ほど峠からの踏み分け道の行き止まり地点で出合った林道に繋がっているのではと道を上る。
これまた激しい茨と倒木。勘弁してくれ、と思いながら、それ以上に誰の役にも立つわけもないのに、とも思いながら進むと、踏み分け道から林道に下り、そこから下に続く踏み分け道の箇所に到着。林道と踏み分け道の組み合わせではあるが、「スムーズ」に六部堂峠ルートが繋がった。

車デポ地に戻る;13時2分(標高745m)
これで本日の散歩は終了。前述の如く、登山道を辿っての「スムーズ」なルートはないものかと、辿りはしたものの道は消えており、地図にある破線を辿っての峠に辿るルートはないものと「納得し」、車デポ地に戻り家路へと急ぐ。
これで久万の札所に入る二つの峠ルート、久万の札所の「逆打ち・打ち戻しなし」ルート、久万から松山の札所に下る御坂峠へと抜けるふたつの峠道をカバー。次回の遍路道はさて、どこにしようか。

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