水戸街道散歩:若柴宿から牛久宿に

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東海道、中山道、奥州街道など街道歩きに燃えている元の会社の監査役から水戸街道を歩いているとの話。基本、御老公こと元監査役の熊除けの露払いとして峠越えをご一緒しており、東海道の鈴鹿峠、中山道の碓氷峠、和田峠越えなどを共にしているのだが、元監査役に言わせば「好いとこ取り」とのこと。 少々の異論はあるのだが、それはともあれ、話を聞くと丁度、取手辺りまで歩を進めているとのこと。私も、これも「好いとこ取り」ではあるのだが、水戸街道のうち取手から若柴宿までを切り取って歩いており、そのうちに牛久宿まで歩かねば、などと想っていたこともあり、若柴宿から牛久までご一緒することにした。
峠もないのに露払いもないだろう、とのことではあるのだが、今回は単なる老婆心。「距離を稼ぐ」を主眼に、宿から宿へと一目散の元監査役に、若柴宿で絶対にパスするであろう見所をご案内致したく若柴宿の最寄りの駅である「佐貫駅」で待ち合わせ、若柴宿を案内し牛久宿へと向かった。



本日のルート;常磐線・佐貫駅>水戸街道合流点道標>江川>若柴宿>八坂神社>加治屋坂>金龍寺>星宮神社>御手洗の池>牛めの坂>鬮神社>星宮神社>県道243号・八代庄兵衛新田線>成井一里塚>国道6号>牛久宿>下町>上町>常磐線牛久駅>得月院>愛宕神社>城中観音堂>牛久沼>根古屋不動尊>牛久城址>大杉神社>江川>常磐線・佐貫駅

常磐線・佐貫駅
御老公との待ち合わせの地である常磐線・佐貫駅に。市域は茨城県龍ヶ崎市である。御老公こと元監査役は今朝は我孫子辺りから水戸街道を歩いてくるとのこと。ほぼ定刻に駅前で合流。大変な健脚である。数年まで、いくら散歩をお誘いしても、一顧だにしなかった御仁とは思えない。駅前のコンビニで早めの昼食を取り散歩に出発。
■関東鉄道・龍ヶ崎線
この佐貫駅は関東龍ヶ崎線の駅でもある。関東龍ヶ崎線は、現存する茨城の私鉄では最も歴史が古く、明治33年(1900)に今のJR佐貫駅開業と同時に開業した。当時は762mmの軌道で、大正4年(1915)に標準の狭軌1067mmになったとのこと。当初は竜崎鉄道という名前であったが、鹿島参宮鉄道から関東鉄道になり、今の龍ヶ崎線となった。距離はわずか3,5kmで中間に駅がひとつ(入地)あるだけと言うもの。因みに「佐貫」は細長い土地の特徴を表す「狭貫」が転訛したという。い、結構楽しい一日であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


県道5号・馴柴小交差点
駅から水戸街道の道筋まで戻るため県道5号・訓柴小交差点に。取手宿から藤代宿を経て進む、水戸街道の道筋は、この交差点から西へと向かう。交差点脇に誠にささやかな屋根付き西碑。「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば」と刻まれているとのことだが、摩耗し全く読めない。
■平国香の慰霊塔
この馴芝小入口交差点から少し下った、城西中学校の辺りに平国香の慰霊碑がある。御老公の好みではないだろうと今回はパスしたが、先回の散歩で立ち寄ったとき、城西中学校近くの雑草に覆われた一角に、それらしき宝塔の上部のみが置かれていた。案内も何もないので、はっきりしないが、近くにあった安楽寺にお参りすると、飛び地に平国香の宝塔が建つ、と案内あったので、間違いはないだろう。
平国香は平将門の叔父。将門が禁裏での衛士の任を終え、下総相馬御厨の下司として故郷に戻った頃、一族内紛のため、父の良将の旧領でのある下総相馬の地の大半が叔父の国香や良兼により侵食され、あれこれの経緯はあるものの、結果将門により国香は誅される。その後将門と国香の嫡子である貞盛との抗争は将門の乱が終わるまで続くことになる。

馴柴小の道標
道標の前の道を進み、関東鉄道の踏切を越える。右側に訓柴小学校を見ながら進み突き当たりの三叉路隅に石の道標。数年前この地を訪れたときは、学校の敷地内中に道標があり、柵らしきもので囲われていたのだが、現在は囲いは取り払われ見やすくなっていた。 案内板によると、「文政9年に建立され、三面に水戸16里 江戸13里 布川3里と彫られている」。
ここが取手宿を通ることなく、我孫子宿から利根川(当時は利根川の遷事業が完成していないので、正確には常陸川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿へと進んだ初期の水戸街道と、その後、取手宿を経由し藤代宿から若柴宿へ通ることになった水戸街道が合流した地点、ということであろう。
「江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀(須藤堀町)、紅葉内(河原代町)の一里塚をたどって若柴宿に至る街道(布川道)と、取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り現在の小通幸谷町を経て若柴宿に入る道があった。この二つの合流点、現在の市立馴柴小の北東隅の三叉路にこの道標(里程標)が建てられ、三面に水戸十六里、江戸十三里、布川三里と通ずる方角とそれぞれへと里程が刻まれている。 裏面には「この若柴駅街道の碑は、文政九年(1826)十二月に建立した。三叉路で旅人が迷い易いので若柴駅の老人が相謀り、普門品一巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた」とあり、十五名の村民の姓名が記されている。
明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には牛久沼沿いの道路が開通した。そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)街道の碑として往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである」、と案内にあった。

筑波稲敷台地前面の低地
常磐線・佐貫駅前から通る県道271号を越えると一面の田圃。その先に台地の斜面林が見える。若柴宿は小貝川や牛久沼からの河川流域の低湿地を開拓した田圃のその向こうの筑波稲敷台地上にある。
現在は豊かな田圃が広がる一帯であるが、この地が新田として開拓されたのは江戸の頃。今を遡ること1000年の昔、平安時代の頃は印旛沼は手賀沼や霞ヶ浦と一帯となった大きな水域であり、香取の海あるいは安是の海と呼ばれる広くて大きな海水の入り込む内海であった。その内海が、上流からの流される土砂や海退現象によって、次第に陸地化し、それぞれが独立した水域となったわけだが、この辺り一帯に土砂を流し陸地化を進めたのが小貝川であり小貝川に合流した鬼怒川の流れであり、一帯は上流よりの土砂が堆積された氾濫原であった。

現在は別の流れとなっているこのふたつの川であるが、かつて鬼怒川は大木丘陵の手前、寺畑(つくばみらい市)の辺りで小貝川に乱流・合流し、両川が合わさり暴れ川となり、下流一帯を氾濫原と化していたわけである。

鬼怒川・小貝川の分流事業
この暴れ川による洪水被害を防ぎ、合わせて合流点より下流一帯の氾濫原に新田開発すべく計画されたのが鬼怒川と小貝川の分流事業。鬼怒川の南流を阻んでいた大木丘陵を人工的に開削し、鬼怒の流れを南に落とし利根川と繋いだわけである。
鬼怒川の開削水路は利根川合流点まで7キロ以上。丘陵部だけでも5キロほどもある。大工事である。このような大工事をした目的はこの地域の洪水対策、新田開発だけでなく、利根川東遷事業の一環として、利根川から江戸への船運の開発、そして、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海を陸化して新田開発を行うといった壮大な構想のもとに行われた、とも言われる。

鬼怒川との分流工事が行われた小貝川ではあるが、こちらも流路を変え元々は取手台地から先に東に続く台地を避けて、台地の東で利根川と合流していたが、洪水対策・新田開発に役するため、台地を切り通して利根川に繋いでいる。また、利根川(常陸川)の流路も我孫子台地の東端手前を切り通し、流路を南へと移している。
ちなみに、小貝川の旧流路は現在の竜ケ崎市である旧川原代村と旧北文間村(長沖、長沖新田、羽黒、豊田、須藤堀、北方)および旧高須村(高須、大留)の東で利根川に合わさっていたのだろう。その理由は、竜ケ崎のその他の地が元来常陸国河内郡であるのだが、この村々は北相馬郡というから下総国。川が地域や国堺を決めることの多かった当時、小貝川の流路が西に移ることにより、これらの地域が下総から常陸へと移ったのではあろう。

若柴宿
筑波稲敷台地の南端にある若柴宿へと田圃の中を一直線に続く道を進む。江川など牛久沼より流れる割と大きな用水路をふたつほど越えると坂道。台地に上るこの坂道は大阪と呼ばれる。台地上にある若柴宿へは、この大阪の他、南から延命寺坂、会所坂、足袋屋坂、鍛冶屋坂といった坂が並ぶ。
若柴宿は水戸街道千住宿からかぞえて8番目の宿。常陸への入口にあたる宿場町。本陣はない。明治19年(1886)の大火により宿場は焼失し記録が残らないため詳しい宿場の規模は不明だが、10件程度の旅籠や茶店が並んだのではなかったかと推測されている、
江戸以前牛久沼は今以上に大きく、周囲は湿地帯で通行が困難なため、この若柴宿をへて牛久宿へと向かう人が多かったようだが、明治5年(1872)に水戸街道が陸前浜街道と改称され、現在の国道6号(水戸街道)が牛久沼東岸を通ることになり、明治17年(1884)その新道が明治天皇の牛久行幸に際して整備されたため、この若柴宿は取り残されることとなり、逆に静かな佇まいを今に残している。

八坂神社
坂を上がりきると街道は又定石どおり直角に曲がっているが,そのコーナーに八坂神社がある。鳥居をくぐり、石段を数段駆け上ると社殿がある。社殿は新しいもので、右手に慶応年間の年号のある庚申塔群、裏手は竹林となっている。この社は旧若柴村(下町、仲町、上町、横町、向原)の鎮守であり、若柴宿はここからはじまる。境内には三峯社も祀られている。
先回の散歩でもメモしたのだが、取手から若柴の間では八坂神社によく出合う。まず取手宿での八坂神社、次いで藤代宿の相馬神社。この神社は八坂神社を合祀したものであった。また、宮和田宿の渡しの辺りにも八坂神社、そして若柴宿のこの八坂神社。八坂神社は全国に3000ほどもある、とのことであるから、それだけのことかとも思うが、それでもこの地方と八坂神社がなんらかの関係があるのでは、と妄想を逞しくする。

八坂神社と言えば祇園祭。「祇園御霊会」とも称され疫病を防ぎ、怨霊退散をそのはじまりとする。八坂神社の祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。素戔嗚尊は朝廷への反逆児のイメージが強い。それ故に朝廷への反逆児である将門を同一視し、その怨霊を鎮め無病息災を祈ったのであろう、か。
また、八坂神社は明治の神仏分離例により名付けられたもの。それ以前は「牛頭天王社」と称されていた。独立国をつくり「新皇」と称した将門と「天王」を同一視したものであろう、か。
それとも、野田のいくつかの八坂神社の縁起にあるように、将門が尊崇した神社というだけのことであろう、か。とは言うものの、八坂神社の中には将門に仇なす藤原秀郷ゆかりの社もある、と言う。結局のところ、あれこれの理屈は関係なく、単に疫病を防いでくれる有り難い神として祀られただけであろうか。

八坂神社


八坂神社はもとは「天王さま」とも「祇園さん」とも称された。それが八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社と改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。 で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトとする。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう(『江戸の町は骨だらけ;鈴木理生(ちくま学術文庫)』)。

若柴宿仲町・上町
若柴宿を仲町、上町と進む。落ち着いた、豊かな構えの集落を進む。いわゆる、宿場といった風情ではないが、長屋門を構えた旧家などが並び、豊かな農家といった雰囲気の、誠に得難い、気持ちのいい集落である。宿場町の雰囲気を感じないのは明治19年(1886)の大火の影響もあるのだろうか。

鍛冶屋坂
上町を進み、道が再びクランクに曲がる手前で台地を一度下りてみましょうと御老公に提案。台地を下りるいくつかの坂の中で最北端と言うか最西端にある鍛冶屋坂を下りる。竹林に囲まれた道筋は、それなりの雰囲気。台地と湿地の間の水源は種池と呼ばれ、農具の泥よけなどに使われた、とか。
水戸街道を進んで若柴宿に入った時はありふれた田圃が広がる、といった景観であったが、台地下を湿地に沿って通る「根柄道」脇は葦が生い茂る湿地が残るり、新田開発される前のこの辺り一帯の低湿地の原風景を見れる湧水フリークには心躍る場所ではあるのだが、御老公はどれほどのこともないようである。

金龍寺
坂を戻り上町が終わり、横町へと直角に曲がる突き当たりに金龍寺がある。数段の石段を上ると観音寺跡とか不動明王の社。右手に畑地の残る境内を進み本堂にお参り。本堂の裏手には新田義貞の墓がある。元は上州太田に会ったものを、新田義貞の後裔、と言うか、新田家を乗っ取ったとも言える由良国繁が太田から移した、とか。由良氏と新田氏、それに太田から若柴の地に移った所以など、さっぱりわからない。チェックする。
元々金龍寺は応永24年(1417)、太田(群馬県太田市)の地において金山城主・岩松氏の重臣横瀬氏(後の由良氏)によって創建された、とされる。あれこれの経緯は省くとして、岩松氏は新田宗家を継承した武将である。その後、横瀬氏(由良氏)は岩松氏を退け金山城主となるが、己が正当性を示すべく義貞戦没の地に近い越前称念寺に祀られていた義貞の遺骨を持ち帰り、義貞の法名の一部を(金龍院)用いた金龍寺を創建し、一族の菩提寺として新田義貞の墓を奉った、と。
その後天正13年(1585)、由良氏と称した横瀬一族の国繁は小田原北条に与し、小田原落城とともに窮地に陥る。それを救ったのが、その母。新田義貞の末裔である由良一族の滅亡を救い給えと前田利家に訴え、秀吉より存続が認められる。
安堵された由良氏は常陸国、岡見氏没落後の牛久城主となる。由良氏の牛久移封に伴い、金龍寺も太田から牛久に移された。当初は現在の牛久新地町にある東林寺。東林寺は牛久城主岡見氏の菩提寺であったが、廃寺となっており由良氏の菩提寺として再興された。が、由良氏の牛久城主の座は一代限りで終わり、領地は没収。主を失った金龍寺は寛文6年(1666)、幕府の庇護を受け、この若柴にあった古寺を改修し、この地に移された、とのことである。これが、由良氏と新田、太田と若柴を巡る一連の流れではあった。
本堂の裏に「新田家代々の墓」がある。左側の五輪塔が新田義貞、中が横瀬貞氏、右が由良國繁の墓とのことである。とはいうものの、由良氏が新田氏の係累というのはなんとなく収まりが良くないし、新田義貞と若柴って何らの関係も無い地であり、なんとなくしっくりこない新田義貞ゆかりのお寺さまであった。

御手洗乃池
星宮神社までは街道筋であり、御老公も成り行きで尋ねるではあろうが、その手前で少し寄り道することが今回御老公こと元監査役の露払いを申し出たコース。距離をひたすら稼ぐ御老公に、少々街道を離れたコースを案内する。 金龍寺から横町を進み、途中立派な門構えの民家などを見ながら進み、星宮神社の手前を右に折れ「牛めの坂」に向かう。先回この若柴宿を訪れたのは『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』の「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」に惹かれたからである。

民家と畑の間の小径を抜け、その先に見える鬱蒼とした森というか林を目指す。 森に入ると緩やかな坂となり、坂を降りきった三叉路脇に御手洗乃池の案内。現在は大きな欅の根っこあたりが少し湿っぽくなっている、といった程度。かつて御手洗乃池があった、とか。そこには淵があったようで、次の言伝えが残る;御手洗乃池の淵には大きな欅が聳えていていが、この欅を伐ってはいけない、また枝を落とすのも、落ちている枝を拾うのもいけない。触ると運が悪くなる、と。また、この池には多くの鰻がいたが、鰻を食べると目がつぶれると云われていた。それは、星宮神社のご祭神には首に鰻が巻きついていたから、とか。
星宮神社と鰻(うなぎ)の関わりはよくわからないが、鰻は虚空蔵菩薩の眷属。また、虚空のように広大無辺の福徳をもつ虚空蔵菩薩信仰は「金星」への信仰と深い関係がある。星宮神社の妙見信仰は北極星とか北斗七星への信仰。星つながり故の「鰻伝説」であろう、か。

牛めの坂
三叉路を左に折れると森が一瞬切れ、左手に畑地などが見える。先を進み、再び森に入る手前に左に上る緩やかな坂があり、『関東周辺 街道・古道を歩く』には「牛めの坂」とあったがここには「牛女坂」と表示されていた。坂の左手は十分に開けており、「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」にはほど遠い。先に進めばキャプションのような坂があるのかと、ゆるやかな坂をのぼり先に進む。
高い杉に覆われた道を進み、宅地として開かれた辺りまで進むも、鬱蒼とした杉の建ち並ぶ小径ではあるけれど、書籍で見た坂の姿はなく、坂の上り口まで戻る。思うに、キャプションにあった写真は、御手洗乃池へと下る坂道ではなかろう、か。『関東周辺 街道・古道を歩く』には場所もそのように記している。場所は違ったにしても、民家のすぐ隣りに「森に迷い込んだような錯覚に」といった森があったわけで、森の散歩は十分楽しめる。
ところで、「牛女坂」の由来であるが、この牛め!」と鞭を打ったと伝えられている。星座で言えば「牛女」とは、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)、とのことだが、この地に住んだ住井すゑ著『野づらは星あかり』に、「牛めにしてみりや、人間なんてどいつもこいつもみなちくしょうに見えるにきまってる。牛めは何も人間のために生れて来たわけじゃねえのに、むりやり鼻輪を通されて、それ、車を引っ張れの、田畑を耕えのとこき使われ、揚句の果に、この肉は硬いとか、あんまりうまかねえとか、つまらぬ文句といっしょに食われてしまうだかんなア。だからたまたま夜中に厩栓棒を外して、そのまま車もつけずに連れて行ってくれるのが居たら、″こりやア、ありがてえ。〟とのどを鳴らしてついて行っても不思議はあんめで。」「それはもっともだ。牛めにすれば、。。。」と、如何にも「牛」そのものを「牛め」と呼んでいるようにも思える。このあたりがなんとなく納得感が高い。

鬮(くじ)神社
牛女坂の三叉路を真っ直ぐ進み、高々と伸びた杉の木に覆われた森の中を進むと2本の巨木の間の奥にささやかな祠が見える。道から奥に上る石段を進むと祠には千羽鶴と杓文字が奉納されている。若柴宿では多くの屋敷神が祀られていたとのことだが、この祠も屋敷神のひとつで鬮(クジ)神社と称し、クジ(運)の神であった、とのことである。また、この社には絵馬ならぬ杓文字(しゃもじ)が願掛けとして奉られる。
杓文字は、その昔、この祠には江戸の義民として知られる佐倉惣五郎が隠れた、とか。そこに杓文字があり、その杓文字で飯をよそると風邪が治った、とか。風邪を「めしとる」ということらしい。これでは義民が召し捕られる、ということで、なにを伝えたいのかよくわからないが、ともあれ、今は願を召し捕る、ということなのか、願掛けとなっている。
御老公を含めた、元監査役軍団はたまに宝くじを買い楽しんでいるようであるので、鬮神社に寄り道したわけではあるが、その霊験のほどの結果は未だ聞いていない。

星宮神社
鬮神社から水戸街道に戻り星宮神社に。鳥居の注連縄が酒樽の形に編まれているのが面白い。酒屋衆の奉納の名残であろうか。奥に進み社殿にお参り、現在の社殿は江戸時代の再建で、平成元年(1989)に修理されている、とか。 社殿の左手には平貞盛ゆかりの「駒止の石」がある。天慶の乱の折、平貞盛の乗った馬がこの石のまえで動きを止めた。不思議に思った貞盛が辺りを見廻すと星大明神の祠があり、懇ろに参詣すると馬は動きだした、との話が残る。それもあってか、縁起によると、星宮神社は延長2年(924)、肥後国の八代神社から分霊勧請して祀ったと云われ、天慶2年(939)には平貞盛が社殿を建立寄進したと伝えられている。肥後の八代神社は能勢の妙見さん、相馬の妙見さんとともに日本三大妙見宮とも称される妙見信仰の社。北極星とか北斗七星を崇める妙見信仰は常陸・下総・上総を領した平氏、またその下総平氏の後裔である千葉宗家の守り神。かつて星大明神と称されたこの星宮神社も妙見信仰の社ではあろう。

星宮神社の分布を見るに、星宮神社と称する社は、福島、千葉、茨城、岐阜(郡上)に各1社、栃木には33ほどの社がある。郡上八幡は別にしてそれ以外は、下総・常陸平氏、千葉宗家の領する一帯ではある。
因みに、八代神社は平貞盛の流れをくむ伊勢平氏の郎党であり肥後守となった平貞能が上宮・中宮・下宮からなる社の中宮を建立しているわけで、貞盛と因縁浅からぬものがある。故に、この社の貞盛ゆかりの話はあまりに出来すぎであり、肥後からの勧請も含めて後付けの物語のようにも思えるが、根拠があるわけでもなく、縁起は縁起として思い込むべし、か。

県道243号・八代庄兵衛新田線
星宮神社から再び水戸街道を先に進む。誠に緩やかな上り道を進むと、道脇に民家も切れ、畑地の中をしばらく進むと県道243号・八代庄兵衛新田線に交差。牛久沼に面する竜ケ崎市庄兵衛新田町から竜ケ崎市八代町を繋ぐ。八代町にある竜ケ崎ニュータウンへのアクセスルートとして国道6号と繋がれた。
路線認定は昭和52年(1977)。竜ケ崎ニュータウンの開発も昭和52年(1977)。当初30万人規模の巨大ニュータウンを目論んだものの、あれこれの障害もあり、開発は一朝一夕には進まなかったようではある。

成井一里塚
を越え、若柴配水場手前で分岐する道を左手に入る。原新田地区を進み成井地区に入ると道脇に小高い塚。成井一里塚である。
案内によると、「一里塚は、主要な街道に一里(4㎞)毎に築かれた塚である。慶長9年(1604)、徳川幕府により日本橋を起点に全国的な街道には一里塚が築かれた。これは里程や人馬賃銭の目安を目的とし、徳川家康が徳川秀忠に命じ、大久保長安統括下で整備したとされる。由良国繁を城主と記す「牛久城絵図」にも、成井の一里塚が描かれている。
江戸時代の水戸街道は、我孫子から布佐へ廻り、布川に渡って、現竜ケ崎市の須藤堀、紅葉内(こうようじ)、若柴を経て成井に達しており、成井の一里塚は江戸日本橋からは十五番目、水戸街道の起点である千住からは十三番目にあたる(牛久市教育委員会)」、とあった。
通常一里塚は街道の両側のあり、その塚の上には榎などの木が植えられているとのことだが、この一里塚は片側はほぼ原形をとどめておらず、塚の上にも木も残っておらず、とはいうものの、千住から先の水戸街道で一里塚を見たのははじめて、かも。

国道6号
成井一里塚を離れ遠山地区に進むと台地は一旦谷戸へと下る。印旛沼方向に開ける谷戸の耕地を進み、再び台地に上り台地縁を道成りに進み台地を下ると常磐線、そしてそのすぐ先で国道6号とクロスする。
国道をクロスし国道6号に沿って道を進むと根古屋川。周囲の低地は根古屋川によって開析された谷戸の景観が楽しめる。根古屋という地名は散歩の折々に出合う。山麓に城郭をもつ城の家臣団が住む山裾一帯を「根古屋」または「根小屋」と称するわけだが、道の左手に見える台地一帯が牛久城址のようである。

牛久宿
根古屋川に架かる坂下橋を渡り、如何にも湿地といった趣の台地下の景観を眺めながら進むと道は台地に上りはじめる。道筋は国道6号に対して「くの字」となっているが、この台地上り口からはじめ、国道6号とクロスする「くの字」部分が牛久宿ということである。
牛久宿は南北1キロ、江戸側が下町、水戸側が上町。脇本陣は無く、本陣と15の旅籠からなる宿場であった。家数124軒。戦国時代の牛久城主岡見氏の頃には町の原型が造られていたようである。
寛文9年(1669)には牛久藩主山口氏によって牛久陣屋が築かれ、その支配下に置かれた牛久宿であるが、牛久藩領には牛久宿と荒川沖の二つの宿場があり、 荒川沖宿はその規模が小さいこともあり、両宿が合同で継立をおこなっていた。が、荒川沖宿は上りの牛久宿への継立のみをおこない、牛久宿からの下りは荒川沖宿を飛ばし、その次の中村宿へと継立をおこなっていたため牛久宿の負担が大きく、通行量の増大にともない、宿場だけの人馬継立は負担が大きく、近隣の村々に助郷役が賦課されるようになる。
しかし、天明の飢饉や重い年貢による疲弊に加えての助郷の負担は近隣の村々には大きく文化元年(1804)には村人の百姓一揆がおきる。牛久宿の東にある女化(おなげ)稲荷に結集したことから女化騒動と称される牛久助郷一揆は近隣53ヶ村の村人が集結し牛久問屋場を打ち壊すも、佐倉藩、土浦藩からの出兵により鎮圧される。牛久助郷一揆とは言うものの、終結した土浦藩からの村人の参加は無かった、とか。
ちなみに、ここに仙台藩とあるのは、慶長11年(1606)、伊達政宗は徳川家康より竜ケ崎市域の中心部、昔の竜ケ崎村を中心とした1万石を拝領したため。仙台藩江戸屋敷の維持管理の費用とするためであった、とか。以来、幕末まで竜ケ崎は仙台藩領として続いた。ついでのことながら、若柴村は天領であった。

下町
北浦坂をのぼり牛久宿を進む。宿場の面影はほとんど残ってはいない。先に進むと道脇に「芋銭河童碑道」。芋銭って何?チェックすると、小川芋銭という俳人であり画家に拠る。本名小川茂吉、牛久藩大目付の子として江戸藩邸で生まれた茂吉であるが、廃藩置県後、牛久に移り住み「芋を買えるくらいの銭を貰える画家になれれば」との命名である、とか。画家としては「河童の絵」で知られ。「河童の芋銭か 芋銭の河童か」とも称されたのが、この碑の所以である。この石碑を左折すると、牛久城大手門跡や小川芋銭記念館「雲上亭」へと向かうことになる。

上町
下町は石碑のある交差点のすぐ先にある郵便局辺りまで。その先は上町となる。先に進むと黒塀の旧家脇に「明治天皇牛久行在所跡」の案内。明治17年(1884)、女化原で行われた近衛砲兵大隊の演習視察の際の宿所となったことを記念したもの。
○正源寺
その先、「くの字」が国道6号に向けて曲がったところに印象的な山門が見える。曹洞宗瑞雲山正源寺である。山門前でガードする仁王様も印象的ではあるのだが、山門が気になる。楼上には格子戸がはまり風情を醸し出すこの楼上は戦前まで鐘楼であったよう。山門と鐘楼がひとつになった堂宇であった、とか。
お寺の案内によれば、開創は天正20年(1592)、小田原の役の後、この地に群馬より天封された由良国繁が牛久城に居を構えたのがきっかけ。戦乱で亡くなった将士の礼を弔うべく各地に七観音八菩薩を祀った際、この地に寺の前身となる牛久観音久宝山正源寺を建立。現在、山門脇にある建物がそれ。
江戸時代に、牛久藩が山口氏に替り牛久藩の陣屋を牛久城跡に定め、牛久宿として人馬往来が賑やかになるとこの寺には厄除けの馬頭観音が祀られ、往来の安全を見守り、寺名も現在の瑞雲山正源寺と改称。また、火事の多い宿場の防火のため火伏りに霊験あらたかな秋葉三尺坊大権現を御堂(秋葉堂)に祀り、本尊の馬頭観音を本堂に移した、と。とはいえ、このお寺様もいく度もの火災被害を蒙っているようではある。

常磐線牛久駅
道を進み国道6号に合流。道なりに進み常磐線牛久駅に。ここで本日の散歩を終えるはずではあったのだが、まだ日暮まで少々時間がある。これであれば牛久城址を廻れるかもと、朝から歩き続けている御老公を駅でお見送りし、一人牛久城跡まで引き返すことにした。
駅前交差点から、どうせのことなら牛久沼に注ぐ稲荷川筋から下ってみようかなどと進み始めたのだが、如何せん時間がかかりそう。結局、来た道を引き返し、「牛久城大手門跡」への案内のあった「芋銭河童碑道」のあった交差点まで戻る。

八坂神社

交差点から先に進むと、道の右手に八坂神社。上にもメモしたが誠にこの一帯には八坂神社が多い。昔、竜ヶ崎市域の大半をその領土とした仙台藩(伊達藩)は愛宕神社を深く信仰したと言うが、この地ゆかりの平将門や「、その討伐軍である平貞盛、藤原秀郷も八坂神社の前身である牛頭天王(=素戔嗚尊)を深く信仰したとも伝わる。平一門の後裔がその領地とした此の地一帯ゆえのことだろうか。単なる妄想。根拠なし。

牛久城大手門跡
住宅街から次第に耕地も散見するあたりとなり、交差点から700mほどで三叉路といった場所に到る。そこに「牛久城大手門跡」の案内。「牛久城は16世紀の初めの頃在地領主岡見氏によって築かれたと言われる。天正18年(1590)岡見氏滅亡後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。元和7年(1621)、由良氏が除封となり廃城となった。城は周囲三方を沼に囲まれ、一方の北側は台地を掘り切った要害堅固な旧城中集落全域を含む大規模な城郭である。大手門は、堀切のほぼ中央に「喰違い虎口」と「枡形馬出し」を備えた、厳重なものであった(牛久市教育委員会)」、とある。
ぱっと見た目にはわからない、ごく普通の町の一隅ではあるが、カシミール3Dで造った地形図で確認するとこの大手門の辺りが、台地が低湿地に突き出す舌状台地の境目となっている。この大手門の辺りを掘り切ってしまえば、いかにも三方を沼に囲まれた要害の地となっている。

得月院
大手門跡一帯は城跡の面影はなく、普通の民家が連なる。先に進むと道の左手にお寺さま。曹洞宗の古刹である稲荷山得月院。山門をくぐり本堂にお参り。境内には閻魔堂。左に阿弥陀に如来立像、右に奪衣婆坐を配し中央に閻魔様が拝観できる。案内によれば、「得月院閻魔堂 牛久市指定文化財 木造 閻魔大王と奪衣婆坐像;地獄界の王閻魔は、死者を裁く十王の中の第五の王で、死後五七日(35日目)忌の裁判に当たる。死者の衣を奪う奪衣婆(だつえば)は閻魔の妹で、閻魔と対をなしてよく造像されている。この閻魔の首柄には宝永4(1707)年の墨書銘があり、奪衣婆も同時期の作と思われる。当地方にはこの類例はなく、閻魔の大喝し悪を懲らしめる造形も良好で、貴重な文化財と言えよう(牛久市教育委員会)」とあった。
また、このお寺さまには小川芋銭と牛久城主由良国繁の母が眠る。榧(カヤ)の大木も名高く、「小川芋銭の墓と榧(かや)と五輪塔」と記された案内によると、「牛久が生んだ近代日本画壇の巨匠であり、「河童」で知られる小川芋銭の墓は、当得月院本堂裏にある。境内本堂脇の榧(カヤ)は、市指定文化財で推定樹齢450年から500年の大木で、芋銭作品『樹下石人談』のモチーフになった。市指定文化財の五輪塔は本堂裏墓地の中心部に建っており、文禄3年(1594)に得月院を開基した牛久城主由良国繁の母、「妙院尼」の墓碑で、「文禄3年」4と刻まれている」、とあった。

由良国繁の母・妙院尼
由良国繁が牛久城主になるに際し、「その母の功により」といった枕詞が付く説明が目につく。如何なる「功」であるのかチェックすると、誠に母の功績ゆえのエピソードが現れた。
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の折り、国繁は心ならずも小田原勢として小田原城に籠城させられていた。天正15年(1587年)、国繁兄弟は佐竹義重に通じ北条氏直に叛旗を翻したが、天正16年(1588年)には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移されていたのである。
そのとき、母妙印尼は嫡男貞繁を率いて松井田城の前田利家に従い各地を転戦したと言う。また、その昔の天正11 年(1583)、国繁兄弟が厩橋城の北条氏直のもとに出仕した際、北条の佐竹攻めのため居城である金山城の借用を迫られ、兄弟は承諾するも家臣は北条に与するのを潔しとせず国繁らの母である妙院尼を擁立し籠城。ために国繁兄弟は小田原城に幽閉されている。因みにこの居城である金山城も天正14年(1586)北条氏照に明け渡され国繁は上記桐生城へと弟の長尾顕長は足利城に居城を移すことになる。
ことほど左様に、国繁は佐竹に与し北条と対抗しようにも、肝心なところでは常に幽閉されているわけで、それにかわって「反北条」の姿勢を貫き通した「母」の言動が秀吉の愛でるところとなり、国重が城主として牛久に赴いた。より正確に言えば妙印尼が秀吉から常陸牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ、ということではある。

愛宕神社
得月院を離れ道なりに進むと道の左手に鳥居。鳥居から参道を進み奥まったところに愛宕神社。小高い塚となっているが、ここは古墳跡と言う。城の土塁として利用されたため変形が著しいが円墳であったよう。
沼地を望む台地上の古墳と言えば、いつだったか印旛沼を見下ろす東北岸の台地上の「房総風土記の丘」があり、5世紀末から7世紀前半にかけての113基もの古墳が残っていたし、手賀沼北岸の台地にも100近い古墳があるという。手賀沼南岸の沼南町もしかり、そして佐倉市の印旛沼を見下ろす台地の山崎ひょうたん塚古墳群など数限り無い。往古、印旛沼も手賀沼も内海であり、水の心配もなく、かつ安全な内海を臨む台地の上には長い年月に渡って古墳がつくられていったのであろう。

小祠の木造薬師如来坐像
愛宕神社の鳥居のすぐ隣に小祠が見える。城中区民会館の敷地脇の小祠にお参りすると「木造薬師如来坐像」の案内。仏様も拝観できる。案内には「奈良時代の僧「行基」の作と伝えられており、ほぼ半等身の薬師如来坐像。檜材により寄木造りで、伏し目がちな優しい表情や穏やかな肉取り、また、衣文や東部の刻みなどすべてに、定朝様式が見られる。目は彫眼で、鎌倉時代からの玉眼になっていないことや、寄木造りの制作手法などから、実際は平安時代末期(12世紀)の作と思われる。像内背部に墨書銘があり、南北朝時代の文和4年(1355)に、大幅な修理が行われたことが知られる(牛久市教育委員会)」とあった。

牛久沼
牛久城址へと台地を進む。台地から低地というか往昔の沼地へと下るあたりに牛久城址へと向かう道もあるようだが、未だしっかりと牛久沼も見ていないので台地を下り牛久沼へと向かい沼地方向から城址に向かうことに。
台地からの坂道の左手に如何にも牛久城址といった舌状台地先端部を眺めながら牛久沼の畔に下り、しばし沼を眺める。食べてはすぐ寝る怠け者の小坊主が牛となり、入水自殺を図ったことより、牛を食う沼>牛久沼となったとも伝わる面積4平方キロ弱、最大水深3m、平均水深1mというこの沼。牛久市ではなく竜ケ崎市に属する。地図を見ながら何故なんだろうな?と疑問に思いチェックすると、牛久沼干拓計画とその失敗、そしてそれに伴う債務の引き受けといった経緯を踏まえた牛久沼の竜ケ崎市域化といった歴史が見えてきた。

牛久沼干拓計画と失敗
ことの発端は牛久沼の干拓計画。幕府財政難を改善するため新田開発を奨励した将軍吉宗の動きに呼応し、牛久沼も近世中期の享保10年(1725)に牛久藩領に住む桜井庄兵衛(下総国相馬郡平野村(藤代町)出生)が新田550ヘクタール、山屋敷72ヘクタールの造成を目指して干拓の願いを幕府に提出し認められた。
その条件としては、鍬下年季を3カ年とし、地代金3750両を支払うこと、山屋敷開発に際しては、年貢として一カ年平均永38頁九900文ずつを上納すること、このほかに冥加として年々米200石ずつを上納することとなっていた。この資金を援助したのは江戸鎌倉河岸の江戸屋七右衛門であったという。また、工事の実際の指揮にあたったのは、幕府御勘定の井沢弥惣兵衛為永である。
見沼の開発などに実績を挙げた井沢弥惣兵衛為永の起用にもかかわらず、37年に亘る工事は失敗に終わる。干拓により沼を灌漑用水としていた牛久沼南の九ヶ村(下郷)に配慮し、小貝川から用水路を開削し下郷に「代用水」を供給するといった工事も、沼と小貝川の距離が短く且つ水面の高さに著しい差がなく、小貝川からの逆流などにより、牛久沼周辺の水害被害も多発し、結局は宝暦10年(1760)の「溜沼復帰運動」となって牛久沼干拓計画は頓挫する。干拓事業失敗の原因は干拓地域累年の水害や、経済的事情、用排水の分離工事の困難、干拓に対する庄兵衛の態度が挙げられている。計画早々に見切りをつけ、工事に積極的ではなかった、とか。

で、その計画失敗の債務を代償し、年冥加米を納入することで、この沼を溜め池として利用する権利を保持することになったのが牛久沼の南、現竜ケ崎市に属する九ヶ村(下郷)である。下郷にとって牛久沼の水は九ヶ村(下郷)の溜池として利用されており農業に不可欠であり、多額の地代金や計画の際の拝借残金、牛久沼利用の諸種の運上金・冥加金を上納し「溜池」として利用する権利を保持することになったのだが、このことが牛久沼の竜ケ崎市域の因となる。

明治9年(1876)、用水溜池として復帰させたこと、そのために多額の債務を代償した事実を背景に地租改正条例に基づき、牛久沼は下郷の共有地として民有化されることになった。明治42年(1909 )以降は、下郷で牛久沼普通水利組合が設立されるにおよび、その所有へと帰した。庄兵衛の残務の処理実績が、約150年後の沼の所有権獲得につながったわけである。
これが、竜ケ崎市域から唐突に飛び出し、地里的には少々違和感のある牛久沼が竜ケ崎市に属する理由であった。ちなみに、牛久沼の干拓の失敗は、手賀沼などとならぶ井沢為永の治水・開発事業の失敗例の一つとなっている。また、干拓計画を願い出た庄兵衛であるが、県道243号・八代庄兵衛新田線の地名として牛久沼東岸にその名を残す。

根古屋不動尊
牛久沼を右手に見ながら牛久城址のある舌状台地の裾をぐるりと回り根古屋不動尊に向かう。台地が切れ、右側が根古屋川によって開析された平地に出る。平地というか、正確には根古屋川によって台地が開析され北へと、先ほど辿った牛久宿下町の筑波稲敷台地の北浦坂の常磐線の東までに食い込んだ谷筋であるが、如何にも往昔の沼地の雰囲気を今に残す。
台地を回り込むとささやかな社。根古屋不動尊とある。由来等は特に残っていないようだ。地域の地名が根古谷である。上にもメモしたが、根古谷(根小屋)は山城などの山裾にある家臣団の屋敷の地名。湿地に家臣の屋敷も無いだろうとは思うので、根古谷川所以の地名であろう、か。

牛久城址
根古谷不動尊を後に、台地裾を道なりに進み台地に上る坂道を進むと牛久城への案内。道なりに進むと道脇に「牛久城址」の案内。「牛久城は城主岡見氏によって天文後半(1550頃)に築造された。この城は戦国期に築かれた東国の城の特徴をもち、本丸がある城山には石垣や天守閣をもたない典型的な遺構を残している。ここは小田原北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られた極めて頑強な城となっている。 下妻の多賀谷氏によって岡見氏の有力支城である矢田部城と足高城は落城したが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高木氏などの援軍を得て守り切った。牛久城は天正18年(1590)に豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城した。その後、秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原合戦後の元和元年(1623)には牛久城は廃城となった」とある。

岡見氏の牛久城開城までの説明の行間を埋めると、岡見氏は南北朝時代に常陸南部を支配した筑波小田城の小田氏の一族で、その末裔が常陸国河内郡岡見郷に土着し、岡見氏として分流したと考えられている。
岡見氏は代々小田氏に従っており、常陸国にて南侵を計る佐竹勢と対立が激化。永禄12年(1569年)手這坂の合戦では小田氏が大敗。小田氏は、天正元年(1573年)頃には佐竹氏に臣従したが、岡見氏はその後独立領主として勢力を維持する。 小田氏の勢力が衰退し、佐竹勢の下妻城主多賀谷重経が勢力を拡大。岡見氏はこれに対抗することとなるが、元亀元年(1570年)には谷田部城が落城、天正8年(1580年)には一時谷田部城を取り戻すが、再び攻め取られ、天正15年(1587年)には牛久城主岡見治家の兄の居城である足高城も落城した。こうした情勢のなか、岡見氏は小田原北条氏に支援を要請し、次第にその支配下に属していくようになる。
小田原北条氏は対佐竹対策として佐竹領に隣接する牛久城を重要視し、天正15年(1587年)頃から下総国小金城主高城氏、下総国布川城(現在利根町役場)主豊島氏、上総国坂田城(千葉県山武郡横芝光町)主井田氏など近隣の国人たちに交代で牛久城を守るよう命じており、牛久番と呼ばれていた。しかしながら、天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐により岡見氏は北条氏とともに滅亡した、ということである。
その後の牛久城であるが、上でメモしたように小田原の役の後、その母妙院尼の功もあり、新たに牛久領の領主には源氏の名門新田義貞の子孫由良国繁が金山城(群馬県太田市)から入る。由良氏は関ヶ原の合戦で徳川方に付くなど5千石から7千石へと領土を広げるも、元和7年(1621)直系が途絶え養子を迎えた事で2千石の旗本となり牛久を去る。
その後、慶長5年(1600)には、山口氏が1万5千石(後1万石)で牛久城の一画に牛久陣屋を築き牛久藩を立藩、慶長18年(1613)、私婚禁止違反で牛久藩は一時廃藩となるが、後に許されて明治維新まで山口氏一族が藩主を世襲することになる。
城址を彷徨い、土塁や堀切跡などを眺め、帰路に着くのだが、常磐線牛久駅に戻るか常磐線・佐貫駅に戻るか少し悩む。距離は同じ位ではあるので、同じ道を戻るよりは少しでも新しい道をと本日の出発点である佐貫駅に戻ることに。 城址から道を成り行きで進むと台地西側を下る坂に出た。坂を下り切ったところは城址のある舌状台地の西端というところであった。

大杉神社
道を進み車の多い国道6号を避け、脇道を探す。と、国道6号を越え常磐線の手前に大杉神社がある。鳥居をくぐり小祠にお参り。大杉神社も散歩をはじめるまで全く知らなかった社ではあるが、散歩の折々で出合う社ではある。最初に出合ったのは川越から江戸へと下る新河岸川の堤であった。

大杉神社
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に西から東に突き出た台地上の突端に位置する場所にあり、『常陸風土記』には安婆嶋として記される。くびれた地形故に島状の景観を示していたのであろう。
海から内海へと向かう突端の地に鎮座する社ははるか昔より常総内湾の交易の要衝であり、その社に屹立する巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれ、常総内湾の人々の信仰の対象であり、且つ、海上交通の目印の役割を果たしてきたとのこと。大杉神社の社名の所以である。
古来より海上交通の守り神として船頭・船問屋に信仰された社であるが、利根川の東遷事業により銚子へと流路を変えた利根川により、水郷地方と江戸が直接繋がれ船運が急速に発展を遂げるに伴い、地域ローカルな社であった大杉神社もその祭祀圏を大きく拡大する。利根川流域の河岸や鬼怒川、小貝川、そして、それらの河川に注ぐ中小の河川、河岸、そして街道筋まで拡大していった、とか。新河岸川の大杉神社、葛西の大杉神社流山など処々で出合う大杉神社の理由が少しわかったように思う。

江川用水
大杉神社を離れ、常磐線の東側を線路につかず離れず道なりに進む。進行方向左手は筑波稲敷台地の谷戸、常磐線の右手は庄兵衛新田。牛久沼干拓を計画した桜井庄兵衛由来の新田ではあろう。台地裾を通り抜け左手に若柴宿の台地を見ながら低地を進むと江川に当たる。

印旛沼から水を引く江川は当初印旛沼の水抜堀として江川が開削された、と言う。その後江川は用水路の性格が強くなってゆくが、本来は水抜堀であった。既にメモしたように、古代 といっても、奈良・平安両時代のころ、牛久沼は、香取の海と呼ばれる内海(海跡湖)の一部であった。安土桃山時代には海水が後退し、ひと続きになっていた牛久沼から手賀沼当たりまでは、 雨期以外、 水深が浅くなり萱が自生する中州が点々とし、所々に浅瀬があり、その中を常陸川や小貝川が蛇行を繰り返していたとのこと。当時は鬼怒川が上流で合流していた小貝川により堆積された土砂によって次第に陸地化していたのではあろう。

その状況が大きく変わったのは関東郡代である伊奈忠次・忠政・忠治三代総指揮の下で、徳川第2代将軍秀忠治世の元和7年(1621) に開始された利根川の東遷事業の影響である。東遷事業の一環として鬼怒川と小貝川が分離され、小貝川の流路が変更となると、小貝川の堤と牛久沼がひと続きになり、ひとたび豪雨ともなれば牛久沼の水が氾濫し、洪水時には小貝川の水が牛久沼内に逆流することもあった。
忠治は、牛久沼の氾濫と小貝川逆流を防止するために、7年の歳月を費やし、沼内に 「かこい堤(土 手)」 を築いた。かこい堤の延長は2000間(3640m)に及んでいて、後世に通称二千間土手(牛久、 龍ケ崎、 取手市域をカバー)と呼ばれる。
そして、かこい堤築堤と同時に東側のかこい堤より、牛久沼の排水と川下村々1万石 (現龍ケ崎市域) の用水と両方の役割を持つべく開削されたのが江川である。しかし、水抜抜堀としての江川は牛久沼の水を排水するには不十分であり、伊奈忠治は、寛永四年(1627)弥左衛門新田(藤代町)から小貝川にかけての新水抜堀を開削。当初新川と呼ばれていたが、堀幅の長さが八間だったので八間堀と呼ばれるようになる(その後新しい八間堀が出来たため、古八間堀と呼ばれるようになる)。八間堀のお陰もあり牛久沼の排水能力は高まり、菅場谷原の新田開発が急速に進められたとのことである(「広報うしく;牛久市文化財審議委員 栗原功氏」より)。
江川の歴史をチェックすると、悪水と用水の鬩ぎ合いの歴史でもある。用水として豊富な水は必要だが、同時にそれは推進の浅い牛久沼では洪水や逆流による地域の水の被害の要因ともなる。江川に起因する悪水・用水を巡る利害の対立する村々の争いを解決すべく開削されたのが古八間堀であり、二千間堤の普請であろう。

常磐線・佐貫駅
日暮の江川を越え、本日の散歩の始点である常磐線・佐貫駅に到着し、一路家路へと。当初は御老公の若柴宿のご案内程度と思った散歩ではあったが、牛久沼や牛久城址など知らないことに出合い、結構楽しい一日であった。

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