秦野散歩;紅葉の頃、弘法山の丘陵を歩く

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秋、紅葉を見たいと思い立つ。小田急に乗り秦野を目指す。秦野弘法山の丘陵に一度行ってみたいと思っていた。途中、小田急で行き先を間違い江ノ島方面に。大和を過ぎ港南台のあたりで気がつき相模大野まで引き返す。小田急小田原線に乗り換え伊勢原を過ぎ秦野で下車。
秦野の歴史;秦野の名前の由来は「秦」氏からという説も。渡来人が住み着いていたのだろうか。藤原秀郷。俵の藤太、むかで退治、平将門を倒した武将、その子孫藤原経範がこの地を開墾し波多野氏を名乗る。これが波多野氏のスタート。前九年の役、保元の乱と活躍。勢力をのばす。これが平安時代まで。鎌倉時代、波多野氏は当初平氏に組する。負け戦。当主、自害・所領没収となるが、のちに許され、幕府の要職に。越前の地頭職になったとき、曹洞宗の開祖道元を招聘し永平寺を開くほどに。(水曜日, 11月 30, 2005)


本日のルート;小田急・秦野駅>弘法山公園入口>浅間山>権現山>弘法山>吾妻山>鶴巻温泉弘法の湯>小田急・鶴巻温泉駅

小田急線秦野駅

ともあれ散歩にでかけよう。途中車窓から目的の山というか丘陵地・浅間山は確認済み。駅からそれほど遠くない。駅前を北に。水無川にかかるまほろば大橋を渡り、右折。河岸を進む。車の往来激しい。平成橋、常盤橋を越え、新常盤橋を左折。川筋から離れる。

弘法山公園入口
川原町交差点を越え直ぐ、県道71号線脇に弘法山公園入口が。川筋に沿って道なりに歩くと浅間山への登り道となる。ここまで、駅から30分弱といったところ。上り道は結構厳しい。鎌倉の天園ハイキングコースを思い出す。20分ほどで広場に。ここが浅間山。秦野の町並み、箱根や丹沢の山のつらなりの眺めが楽しめる。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

浅間山から権現山
浅間山の広場から権現山に。少し上り、すぐ下り、車道、というか山越えの道を横切り再び山道に入る。この上りも結構厳しい。が、ほどなく頂上。広場になっている。展望台からは富士山が見える、とか。相模湾の眺めはなかなかよかった。権現山からはよく整備された坂道、というか階段道を下りる。目的の紅葉、盛りにはほど遠い。ちらほら。桜並木の馬場道が続く。途中、秦野がタバコの里であったことを示す記念碑。
秦野とたばこの歴史(掲示案内文);「秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ほし、味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていました。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なものでした。 この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすことのできない場所でした。明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少していきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはたばこ耕作そのものが終わりを告げました。秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くしたたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの土地にしっかりと息づいています」と。

弘法山

しばらく歩くと分岐。下ると、めんようの里。いまひとつわかりにくいが、弘法「山」に行くわけだから分岐点を上り方向に進む。わずかに上ると弘法山。弘法大師が修行したとの伝説のある山。山頂には大師の木造を安置した大師堂、井戸、鐘楼などが残る。

峠の切り通しは切通しは矢倉沢往還
次の目的地吾妻山。釈迦堂脇から山道に入る。みかん畑の脇を上りゆったりとした道筋を進み善波峠に。弘法山、吾妻山、大山の分岐点。峠のちょっと手前の階段っぽい崖道にくずれかけた常夜灯がある。これは「文政10年(1827)に旅人の峠越えの安全のために道標として立てられたもの」で「御夜燈」と尊称されている、と。
峠の切り通しには地蔵と馬頭観音。この切通しは矢倉沢往還の道筋。矢倉沢往還の道筋は江戸城の「赤坂御門」が起点。多摩川を二子で渡り、荏田・長津田、国分(相模国分寺跡)を経て相模川を厚木で渡り、大山阿夫利神社の登り口の伊勢原に。さらに西に善波峠を経て秦野、松田、大雄山最乗寺の登り口の関本、矢倉沢の関所に。その後足柄峠を越え、御殿場で南に行き、沼津で東海道と合流する。これが矢倉沢往還の全ルート。矢倉沢往還は古くから人や物が行き交う道。日本武尊の東征の道筋が、足柄峠を通って矢倉沢から厚木まで矢倉沢往還とほぼ同じであったよう。矢倉沢往還は公用の道、信仰の道、物 資流通の道と様々な機能を持つ。
公用の道;徳川家康の江戸入府の折り、箱根の関所の脇関所の一つとして矢倉沢に関所を設ける。関所の名前が街道名の由来。また、後年、人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還・裏東海道の一つとなった。
信仰の道;江戸時代中期以降、大山信仰が盛んになる。各地から大山詣での道がひらけ、その道を大山道というようになったが、矢倉沢往還は江戸から直接につながっており、大山道の代表格。
物資流通の道:相模、駿河、伊豆、甲斐から物資を大消費地である江戸に運んだ道で、駿河の茶、綿、伊豆のわさび、椎茸、干し魚、炭、秦野のたばこなどが特に有名。

吾妻山へ
分岐を右に。というか、3箇所分岐となっており少々分かりにくい。すこし下る感じの道筋が吾妻山へのオンコース。長い道筋の割には道路標識がなく不安になりながら、ともあれ歩く。1時間近くもあるいたろうか、吾妻山の山頂に。ここからの眺めは結構いい。お勧め。日本武尊の由来書;「日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から舟で房総に向う途中、静かだった海が急に荒れ出し難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ、海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり、無事房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中、相模湾・三浦半島が望めるところに立ち、今はなき弟橘比売を偲ばれ「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています」と。

弦巻温泉駅

あとは緩やかな道をひたすら下る。30分もすれば東名高速に。下をくぐり、温泉旅館の看板などを眺めながらのんびりあるくと弦巻温泉弘法の湯。市営の日帰り温泉。一風呂浴びて、弦巻温泉駅から一路自宅に。紅葉見物とはいいながら、紅葉には少々早い秦野散歩ではあった。

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