利根運河のことを知ったのは、いつの頃だったろうか。小金の牧の一端でも感じてみようと、南柏の野馬除土手を見に出かけ、次は流山か野田を歩こうと思っていた頃だろう、とは思う。なにかフックになるところはないかと、地図を見やると、北の野田市、南の柏市・流山市のほぼ境、利根川から江戸川へと通じる水路が目にとまった。それが利根運河であった。全長8.5キロほど。明治23年(1890)、オランダ人技師であるムルデルやデ・レーケの指導のもと開削された日本初の西洋式運河。それまでは、銚子で荷揚げされた物資を東京に運ぶには、利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川を下るといった案配で、3日かかったものが、この運河の開削によって1日で東京に届くようになった、とか。最盛期は1日に100艘もの船で賑わい、昭和15年に閉鎖になるまで100万艘の船が往来した、と言う。そのうちに運河を辿ろうと思ってはいたのだが、なんとなくきっかけがなく、そのままになっていた。「状況」が動いたのは先日、秋葉原で開かれた古本まつりで、『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』を手に入れたこと。運河の歴史や周囲を取り囲む谷戸の景観、中型のタカであるサシバの渡りの中継地といった自然環境のことを知り、これはもう、行くに如かず、とフックがかかった。運河の全長は8.5キロ程度、時間次第では谷津・谷戸や湧水などを探して寄り道しても20キロ程度だろう、と晩秋の週末、利根運河を辿ることにした。
本日のルート;秋葉原駅>つくばエクスプレス・柏たなか駅>医王寺>船戸天満宮>田中調整池周囲堤防>北部クリーンセンターに>運河水門>運河揚水機所>利根運河¥利根川口>運河水門>水堰橋>三ヶ尾の谷津>大青田湿地>国道16号・柏大橋>下三ヶ尾の谷津>ふれあい橋>東武野田線運河橋梁>運河橋・運河水辺公園>利根運河交流館>窪田味噌醤油・窪田酒造>利根運河大師>西深井湧水>におどり公園>運河大橋>今上(いまがみ)落し>利根運河・江戸川口深井城址>東武野田線・運河駅
つくばエクスプレス
利根運河への最寄り駅を探す。東武野田線に、その名もずばりの「運河駅」がある。が、如何せん、運河の「途中」。どうせのことなら、利根川口か江戸川口か、いずれにしても「川口」からはじめようと地図をみる。と、つくばエクスプレスが利根運河の利根川口近くを通り、「柏たかな」という駅が目についた。駅は利根川からも運河からも少々離れてはいるのだが、運河の周辺を辿り、運河の利根川口に向かうことにした。
つくばエクスプレスは秋葉原始発。まったくのはじめての路線である。地下をくぐったり、地表に出たりしながら足立区、八潮、そして三郷を超えて流山に入る。途中「流山おおたかの森」といった駅があった。気になってチェックすると、このあたりの森には「大鷹」の営巣が千葉県ではじめて確認された「市野谷の森」があり、その森が駅名の由来である、と。その森も保存されているとはいうものの、宅地開発のため、規模が縮小されている、と言う。
つくばエクスプレス・柏たなか駅
柏たなか駅で下車。それほど宅地も多くないのもかかわらず高架となっているのは、利根川の周囲堤(遊水地・調整池と堤内地を仕切るための堤防)を越すため、と言う。地形図を見るに、駅は台地と低地の境あたり、台地と谷津(戸)の間の斜面に建つ。ものごとには、それなりの理由がある、ということ、か。ところで、何故に「たなか駅」なのか。気になりチェックすると、その由来は江戸開幕期、豊臣方との大阪の陣での活躍を認められた本多正重が元和2年(1616)に下総と相馬の1万石を加増された時に遡る。その後本多氏は上州沼田城の2万石を経て、享保6年(1722)駿河国の田中城へ4万石として転封されるも、この地は田中藩の飛領地として代官所が置かれていた。そして、明治に至り、明治21年(1888)の町村制施行のとき、田中藩の善政を徳とし、村名を田中村、とした。駅名は、この田中村からのものだろう。
医王寺
利根川口までの道筋で、どこか見所は、と駅前で地図を見る。由緒などはわからないが、途中の医王寺、そしてその近くに船戸天満宮が目にとまる。まずは医王寺へと向かう。
駅前は開発がはじまったばかりの印象。台地をならし、農地の間に宅地が開かれはじめている。道なりに進むと前方に常磐自動車道。台地の間を縫って走ってきたのか、自動車道に近づくにつれ、緩やかで自然な坂となる。自動車道を潜り、再び緩やかな坂を上り、船戸地区に入ると医王寺が見えてくる。
医王寺は、真言宗豊山派で開基は不詳であるが、本堂はこの船戸に田中藩の代官所が置かれた元和5年(1615年)の建立、と言う。本尊は薬師如来とのことだが、最近つくられたと思える千手観音(平和観音)さまが迎えてくれる。このお寺さまは、「船戸おびしゃ(びしゃ=奉仕)」で知られる。おびしゃ、とは通常、矢を射ることがおおいようだが、この地では矢を射ることはなく、酒の宴で「三助踊り」「三番叟」「おかめ踊り」を演じる、とある。最近は自治会館で行われるようになったようである。
船戸天満宮
医王寺を離れ、道なりに船戸の天満宮に。ほとんど北総台地の端、利根川の低地との境に建つ。社殿は最近建て替えられたばかりのよう。鳥居の近く、玉垣の後ろに5基の庚申塔が並ぶ。宝暦から文化年間、というから18世紀の中頃から19世紀初頭のものである。
境内には牛頭天王、清瀧神社、八幡宮、天照皇大神、金比羅大権現、浅間さまなどの石祠が祀られる。区画整理か、なにかの折りに、船戸村の各所に祀られていたものが、この地に集められたのではあろう。
神社の創建は元和元年(1616)と伝わる。この年は、上でメモしたように、本多正重が此の地を拝領した年である。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。船戸藩とも呼ばれたようである。
その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した。明治の町村制施行時に田中村とした所以である。
飛領地の代官所(御役所)は、今回行きそびれたのだが、天満宮の少し南西にある三峯神社の近くにあった、とか。そこでは飛領地の北半分の村々を治めた、と言う。ちなみに、南半分を治める代官所は藤心にあった、とのことである。船戸の地名の由来は、船の着く場所=戸が、あったから。常陸・下総・武蔵を結ぶ渡船場があり、また、利根川を関宿に上る船運の休憩所としても賑わった、と伝わる。
田中調整地(池)
境内を彷徨い、台地端より低地を眺める。農地の広がる低地は田中調整地(池)と呼ばれる。1175ヘクタールにおよぶ広大な農地・調整地(池)である。境内にあった「船戸村開拓の碑」によると、「利根川沿いの舟渡から布施・我孫子へ至る広大な水田は、昔は洪水になると作物が流され、ために、流作場と呼ばれた。流作場は江戸の亨保10年(1725)、八代将軍吉宗の新田開発策の一環として実施され、田畑、また牛馬の飼料田の肥料用の秣の草刈り場として使われた。茨城側や鬼怒川口より上流には秣場がなかったため、紛争の因となる地でもあった。流作場は昭和23年に開拓がはじまり、昭和32年に完了。後には区画整理が行われ、現在のような立派な水田となった」、とある。この記念碑、江戸の頃、深さ1mもの沼地の広がる和田沼を中心とした利根川流域の湿地帯の開拓のことなのか、昭和になっての開拓の歴史を記念するものなの判然とはしないのだが、いずれにしても、沼地や低湿地を開拓するのは大変な苦労があったと、往昔の労苦を偲ぶ。
周囲堤を進み運河に向かう
天満宮より医王寺方面に一度戻り、台地を西に下ると、田中調整地(池)との境の堤に出る。こういった、調整池・遊水池と堤内地を仕切るための堤防を周囲堤と呼ぶようだ。右手に広がる、この広大な農地が調整池と呼ばれるのは、5年か10年に一度の利根川の大洪水のとき、水をこの農地に入れて、東葛地方を水害から護るため。その時は「湖」が出現する、とか。堤防を低くし、利根川の洪水を取り込む越流堤は、少しくだった布施の方にある、とのことである。また、洪水により冠水した農地は共済組合よりの補償金が制度化されている、と。ちなみに調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。
左手前方に柏市の北部クリーンセンターの建物を見ながら堤上を辿り、利根運河に到着。運河水門なども水路上に見える。これからが本日の本番である。
囲繞堤(いじょうてい・いにょうてい・いぎょうてい)を利根川に
周囲堤が突き当たる堤防が右手の利根川方面に向かって延びる。成り行きで先に進むと、この堤防は運河の堤防ではなく利根川と調整池を隔てる囲繞堤であった。調整池との関連での堤防は、遊水地・調整池と堤内地を仕切るための堤防が周囲堤と呼ばれるのに対し、調整池・遊水地と河道を仕切るための堤防のことを(いじょうてい・いにょうてい・いぎょうてい)と呼ぶ。
河川と調整池を遮るものであるので、運河の水路とは関係なく、距離はどんどん離れてゆく。どこか適当なところで堤防を降りて運河へと向かいたいのだが、運河方面へのエスケープルートが、ない。結局常磐道近くまで囲繞堤を進み、かろうじて堤防を降り運河方面への細路を見つけ、運河へと引き返す。水がなかったからよかったものの、時期に寄ってはクリーンセンターあたりまで引き返すことになった、かも。
運河揚水機場
運河跡の水路を利根川口へと先に進むと、塵芥除去用の堰のような施設が運河を堰き止めている。あとからチェックすると運河揚水機場のようであった。現在も機能しているのかどうが定かではないが、この施設は利根川の水を運河に取り込む施設であったようである。
上でメモしたように、利根川と江戸川をショートカットで結び、船運大いに栄え、明治28年(1895)には東京から銚子までの144キロを18時間で結ばれるまでになった利根運河の舟運であるが、明治29年(1896)には日本鉄道土浦線が開通し、田端から土浦が2時間で結ばれるようになる。船運では1泊2日かかった距離である。更に明治30年(1897)には総武鉄道(後の総武本線)銚子と東京が4時間で結ばれるようになると、舟運は次第に衰え、鉄路が長距離大量輸送の主役となる。利根運河の最盛期は明治23年の開通から明治43年頃までの、おおよそ20年だけであった。
その後、昭和16年(1941)には台風の被害により運河の堰が決壊し運河の通行が不可能となり、それを契機に民間企業ではじまった運河会社が破綻し、国が買い上げ、洪水時の利根川の水を江戸川に分水する「川」と変わった。名称も「派川利根川」と呼ばれたようである。もっとも、この洪水分水計画も、洪水被害を恐れる江戸川サイドの反対により、分水計画は実行されることなく、利根川口も閉じられ、結局、利根運河は周辺の排水を流す水路となってしまった。こんな状況が変わったのは高度成長期の首都圏の水不足。利根川の水を江戸川に導水するサブ水路として、この利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路として策定。昭和47年(1972)工事着工。昭和48年(1973)には通水再開。1975年(昭和50年)には、利根川口の堤防撤去し、500m程下流にあった利根川との接続点を現在の流路に移し、野田導水機場(運河水門)の設置が行われ、利根運河に再び水が流れるようになった。運河揚水機場は、この時期に利根川の水を取り込んでいたのではあろう。
水流の戻った利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路、ではあるが、2000年(平成12年)4月には北千葉導水路が完成。利根川の水を木下(きおろし)の上流で取水し、手賀川・手賀沼の南端を進み、大堀川沿いに遡り、大堀川注水施設から坂川放水口へと南に下り、松戸の坂川放水路から江戸川に注ぐ。このメーン水路の通水により、サブ水路の利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路はその役割を負える。現在は水質保全のため、年間の一定期間・一定時間のみ、利根川からの導水が行われている、とのことである。なんの変哲もない運河揚水機場から、あれこれ運河の歴史・変遷が見えてきた。
利根運河・利根川口
運河揚水機場を離れ、先に進み運河、と言うか、正確には緊急暫定導水路ではあるとおもうのだが、ともあれ、利根川口に。利根川の堤を辿ったのは、数年前、手賀沼から手賀川を遡り木下(きおろし)の堤に出たとき以来かとも思う。利根、というだけで、なんとなく、「はるばる来たぜ」の想いが強くなる。
利根川口に下りるが水は、ない。運河建設当時は江戸川から利根川へと水が流れていたようだが、台風の洪水などにより利根川と鬼怒川合流点の河床が上がり、現在では利根川口の方が水位が高くなったようである。そう考えると、先ほど歩いた囲繞堤に沿った川筋跡は、ひょっとして、往昔の利根運河の水路ではなかろうか、なとど思い始めた。上でメモしたように、野田緊急暫定導水路をつくる際に、500mほど下流にあった利根川口を現在の運河の水路に移した、とあるし、それよりなにより、現在の運河のように利根川に向かって「口」を開けて、如何にも取水する、といった現在の水路より、囲繞堤に沿って南へと利根川に向かう水路のほうが、利根川に注ぐには自然なように思える。単なる妄想。根拠なし。
野田導水機場(運河水門)
♪利根の 利根の川風よしきりの 声が冷たく身をせめる これが浮世か 見てはいけない西空見れば 江戸へ 江戸へひと刷毛(はけ)あかね雲♪。三波春男の『大利根無情』を小声で歌い、川口を離れて運河水門へと戻る。この水門も野田緊急暫定導水路計画の時に造られたものではあろう。
利根川口や江戸川口には船宿や茶屋など80軒を越える店が並んでいたようである。茶屋などが並んだところが、どのあたりか定かではないが、川口より少々奥まった処ではあろうから、この水門のある辺りではないだろう、か。川口には運河の料金所が設けられていた、と言う。この運河は利根運河会社という民間の会社によって始められたためである。
当時、この地の県議でもあった広瀬誠一郎氏が当時の茨城県令人見寧により政府の事業として計画を推進したが、人見寧が自由民権運動の加波山事件により職を辞することになる。後任の県令が運河建設に消極的態度であったこともあり、内務省が予算化を許さず、ために、浪人中の人見寧を社長、広瀬誠一郎を筆頭理事とした民間企業の事業として開始されることになった、とのことである。
広瀬誠一郎氏は「この人あって利根運河成る」と称される地元の篤志家。人見寧は京の生まれ。幕末に遊撃隊の隊士として各地を転戦。函館五稜郭の戦いで敗れ一時、逼塞するも、新政府の大久保利通に見いだされ明治政府に仕え、茨城県令となっていた。「利根運河の成就したるは一生涯の快事とす」、と書き残した人物である(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』より)
水堰橋
水門を越えて利根運河を辿ることに。西に向かって一帯を眺めるに、運河両岸には谷戸・谷津の森が迫り、誠に美しい景観を示す。先に進むと水堰橋。この辺りが台風により決壊した、とのこと。
水堰橋を渡る県道7号・我孫子関宿線の橋北詰に煉瓦造りの樋管が残る、と言う。利根川の改修工事、第一期の頃、というから明治33年(1900)頃の遺構。樋門のあった堤防は、野田堤とも江川堤とも呼ばれ、かつての利根川右岸堤防か、あるいは控堤(洪水防止のため、重点箇所に設けられる堤防)であったとのこと。台風で水堰橋辺りが決壊した、というもの、なんとなく納得。と、あれこれメモしたが、この煉瓦造りの樋門を知ったのは、此の地を通り過ぎた後のこと。行き当たりばったりの散歩故の、後の祭りのひとつ、ではある。
三ヶ尾の谷津
運河の北側に二筋の森が広がり、その間の低地を江川が流れる。かつてはこの低地は三ヶ尾沼と呼ばれる湿地帯であったが、利根運河開削の残土で沼を埋め、昭和20年代は水田となっていた。平成2年頃にはその水田も耕作放棄され、一時宅地開発の計画もあったようだが、環境保全政策により宅地開発は中止となり、現在「原野」として残る。南北の幅がおよそ200から300m、東西の長さが1.6キロ程度の平坦地の真ん中を江川排水路が流れ、平地の両側には斜面林が広がる、典型的な谷津・谷戸の景観を呈している。
三ヶ尾の名前の由来は不詳である。通常、三ヶ尾とは、三つの尾根・稜線をもつ山、のということではあるので、丘陵地が浸食されて谷状の地形=谷戸・谷津が形成されるとき、丘陵地が三つの地形となった、ということだろうか。単なる妄想であり、根拠、なし。
大青田湿地
山高野歩道橋を渡り運河南岸に移る。運河の南側を船戸山高野と呼ぶ。「やまごうや」と読むようだ。高野は「荒野」から転じた、とか。利根川沿いの丘陵地であり、新田開発された江戸の頃より古い時代に開墾された地域ではあろう。
先に進むと、堤下がいかにも低湿地といった一帯が見えてくる。低地には湧水だろうか、水を集める用水路も見え、その水路は利根運河へと注いでいる。湿地の周囲は斜面林に囲まれ、谷津の景観を示す。このあたりは大青田の谷津と呼ばれるようである。「青田」とはこの地方の方言の「アワラ」に由来し、湿地の意味。アワラ=芦原、からの転化であろう、か。
国道16号・柏大橋
大青田湿地もさることながら、利根運河の逆サイド、運河の北にも、いかにも谷津の風情の景観が広がる。北岸に移るべく、運河堤を先に進み、柏大橋に。柏大橋を通るのは国道16号。八王子あたりでよく出合う国道であり、ちょっと気になりチェックする。
国道の始点は横浜市西区高島町交差点ではあるが、そこから相模原市、八王子市、昭島市を経て、川越市、さいたま市、春日部市、野田市、柏市、千葉市、木更津市に至る。その先は東京湾であるが、道は湾を隔てた横須賀市につながり、始点の横浜に戻る。変則的ではあるが、首都圏を巡る環状線となっている。ちなみに、これも後の祭りではあるが、柏大橋の北に香取駒形神社、南に妙見神社と円福寺がある。香取駒形神社の近くに、戦時中、撃墜されたB29が墜落した、と言う。これは、柏の地に陸軍の飛行場・飛行隊があったことも、その一因であろう、か。昭和13年(1938)陸軍柏飛行場が当時の田中村、十余二村あたりに建設がはじまり、立川から飛行第五戦隊が移転。昭和15年(1940)には柏飛行場の南、高田に第四航空教育隊が設置された。そこで短期飛行訓練を受けた隊員は、鹿屋や知覧の特攻隊の基地に移っていった、とのことである。
立川の航空隊は玉川上水散歩のとき、突然暗渠となり、何故かチェックしたとき、航空隊用の滑走路の延長を考えてのことであったようだが、その飛行隊が柏に移ったため、滑走路の延長はなくなり、それに備えた玉川上水の暗渠だけが残った。歩いていれば、いろんなところで、いろんなものが紐付いてくる。
下三ヶ尾の谷津
大青田湿地の対面に見えた谷津のあたりまで少し戻り、景観を楽しむ。三ヶ尾の谷津と同じく、低湿地に湧水を集めるためのような用水路が通り、両側を森が囲む。地図を見るに、東側の森には普門寺といった古刹も残るよう。これまた、後の祭りの為体(ていたらく)とはなった。
この辺りの谷津をどう呼ぶのかはっきりしない。普門寺が下三ヶ尾地区にあり、往昔、このあたりには下三ヶ尾湿地があった、とのことであるので、一応、下三ヶ尾の谷津、としておく。運河の南北に広がる谷津は如何にも、魅力的。今回は三ヶ尾沼や谷津等の自然の地勢を生かして蛇行する河道を掘り進んだ運河を東から西へとの急ぎ旅ではあるが、次回は、運河南の大青田湿地から、北の下三ヶ尾湿地へと南から北にぶらりぶらりと歩いてみたいと思う。
蛇行する運河堤を西へと進む
下三ヶ尾の谷津を後に、柏大橋に戻る。地図を見るに、運河北側の東京理科大の東側に池がある。これって下三ヶ尾沼の名残であろう、か。運河の南には大青田の森と谷津、その西には東深井古墳の森。この辺りも、再び訪れて彷徨ってみたい。
運河は緩やかに蛇行する。オランダ人技師であるムルデルが運河の計画を立てるに際し、沼や谷津等の自然の地勢を生かし、蛇行する川道を掘り進んだ、と上でメモした。開削当初の江戸川口と利根川口の水位は僅かに28センチ。9キロ弱を28センチの勾配で進む訳であるから、川道が蛇行するのは自然なことではあろう。
蛇行する運河の堤防が正面に見えるところがある。ぱっと見には、堤は段丘面のように数段に分かれている。これは、運河開削時、河底から1.45mのところに幅90cmの「犬走り」をつくり、水生植物で護岸を強化した。また、犬走りから3.3m上に幅1.8mの「曳船道」があった、と言う。岸の左右の「曳船道」は、江戸川口からと利根川口からの曳舟道は、どちらかに決められていた、とのことである。
ちなみに、運河開削当時の利根運河は、閘門はなく、開放運河であり、運河を通る最大の船の大きさを26.4m、幅8.2m、喫水1.06m。底敷幅は18.2m、水深は1.6m。堤防の高さは9.4m、堤防上部の「馬踏(土手上面)」の幅は5.5m。六カ所の狭窄部の底敷幅は10mであった、と言う。六カ所の狭窄部とは、水量を抑え、洪水被害を少なくするためであった、と言う(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』)。
ふれあい橋
先に進むとアーチ型の橋が見える。東武野田線・運河駅と運河北にある東京理科大野田キャンパスを結ぶ。全長110m、幅4m。1996年に架けられた。アーチ橋には上部アーチと下部アーチの二つのタイプがあり、上部アーチとは、路面下の桁がアーチ型になっているもので、下部アーチは逆で、路面の上に弓状のアーチを架け、そのアーチ部材からケーブルで路面を吊る構造の橋である。また、そのケーブルが真っ直ぐなものがローゼ橋、斜めに張ってクロスしているものがニールローゼン橋と呼ばれるようだ。ふれあい橋はニールローゼン橋となっていた。
東武野田線運河橋梁
ふれあい橋のすぐ西に東武野田線の鉄橋が架かる。明治44年(1911)、千葉県営軽便鉄道として柏・野田間で開業。野田の醤油輸送を主たる目的とした。その後、鉄道は、北総鉄道、総武鉄道をへて、昭和18年(1943)東武鉄道と合併し現在に至る。
運河橋・運河水辺公園
東武野田線を越えると県道5号・流山街道に運河橋がかかる。運河橋の先は運河水辺公園となっており、川床には浮き桟橋なども架けられ、水面までくだることもでき、多くの家族連れが楽しんでいた。
堤には「ムルデルの顕彰碑」や「利根運河の碑」が建つ。ムルデルはオランダ人技師。明治12年(1879)に31歳で来日し、明治23年(1890年)帰国。その間、お雇い外国人技師として、日本各地の河川や港湾改修の指導にあたった。利根川、江戸川、鬼怒川の改修等にも従事しており、なかでも利根運河は日本でムルデルが手がけた最後の仕事であった、とか。
お雇い外国人として来日したときの月給は450円。当時の太政大臣三条実美の給料が850円、日本人土木局長の給料が250円であった、という。本国での丘給料の10倍から20倍という高級で招聘してでも、公共施設の整備を急いだ、ということであろう(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』より)。利根運河の碑は明治41年(1908年)の建立。題字は山縣有朋による。
利根運河交流館
運河北岸を少し西に進むと国土交通省江戸川河川事務所運河出張所の1階に利根運河交流館。運営は地元のNPO法人が行っている、と。当日はイベントがあったとかで、その片付けに最中の慌ただしい仲お邪魔し恐縮。往昔の運河の写真など資料が展示されている。
そこで「利根運河絵図」を頂く。運河周辺の見処を含め、情報がまとまっている。この資料が前もって手に入っていたら、「後の祭り」は相当減ったことだろう。ともあれ、取りこぼしは再び辿ることにして、交流館を後にする。
窪田味噌醤油・窪田酒造
先に進むと、堤下に黒板壁の蔵が見える。創業明治5年(1872)、創業者の吉宗さんが利根運河開削に合わせ、この地に移った、と。千葉県最北部の野田。流山は醤油や酒、みりん、などで知られる。とは言いながら、今回に散歩では、この地ではじめてその「事実」に出合った。なんとなく、嬉しい。
利根運河大師
窪田酒造のすぐ東、これも堤の下に利根川運河大師。堤を下りると17体の弘法大師像が佇む。これは大正2年、地元世話人の呼びかけで弘法大師像と祠を運河の堤に建て、「新四国八十八ヶ所利根運河霊場」を成した。行楽を兼ねて多くに人が訪れたこの札所も昭和16年の大水害による水水害で水堰が決壊し、その改修工事に際し、堤防上の札所の立ち退きが行われ、その後、結果的には大師像が四散し、所在不明となった。その後、昭和61年に、柏・野田・流山の近隣三市の有志により大師像の捜索が行われ、市野谷の円東寺に移されていた17体の大師像を見つけ、大師堂を建て、この地に迎えた、とのことである。
西深井湧水
利根運河交流館で頂いた「利根運河絵図」を見るに、利根運河大師のすぐ先にある西深井歩道橋を南に渡ると、すぐ南に西深井湧水の案内がある。湧水フリークとしては、「MUST案件」として、湧水池へと向かう。
橋を渡り、北総台地と低地の境の斜面林の崖下を南に進むに、湧水からの流路らしき筋があり、そこを辿ると湧水池があった。西側の低地部分は流山工業団地となっており、道路脇の湧水池であり、今ひとつ趣きには欠けるのだが、それでも、「湧水」を見ることができるだけで、心嬉しい。
におどり公園
再び「利根運河絵図」を見るに、流山工業団地に沿って運河堤下を少し東に進んだところに「におどり公園」。鳰鳥(にほどり)って、この辺りに棲むカイツブリという鳥の古名前、とか。如何なる由来の公園かと訪ねることに。v公園には万葉集に掲載された東歌の碑があった。『鳰鳥(にほどり)の葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを外(と)に立てめやも』。解説によると、「万葉集が編纂された8世紀には流山をはじめ現在の江戸川沿いの野田から市川、埼玉の一部も含めた一帯は「葛飾」と呼ばれ、早稲米を産する米どころとして知られていた。右の歌は、「葛飾の里でとれた早稲米を神に捧げ、門を閉ざして神の恩恵に感謝し、豊年を祝う晩は男女とも清浄でなくてはならないのだけれど、もし、いとしいあの人が訪ねて来たら外になど立たせておけないだろう。」という意の恋する乙女心をうたった歌である。「におどり」とは葛飾にかかる枕詞でありカイツブリという鳥の古名である」、と。
古来の葛飾は、此の辺りの新川耕地などの流山や江戸川対岸の三郷市一帯。古来より水田地帯であった、ということもさることながら、如何にも情緒豊かな歌に、情感乏しき我が身も、少々心動く。
運河大橋
県道5号・松戸野田有料道路が運河を越える運河大橋を越え利根運河江戸川口に進む。運河の北は今上耕地、南は新川耕地の広大な水田地帯が拡がる。新川耕地はタゲリの田圃とも呼ばれる。冬鳥として飛来し、本州中部以西の田圃や河岸・池沼で越冬する。一部関東北部では繁殖するものもいる、とWikipediaにあった。運河堤から東を見やると、新川耕地の背後に5キロほど続く、北総台地の斜面林が美しい。
今上(いまがみ)落し
運河の堤から南北の耕地を見やる。北の今上耕地、南の新川耕地に幾状かの水路が見える。往昔、利根運河ができる前、この北の野田から南の流山の水田地帯を南北に流れる悪水路(水田で不要となった水)を流す水路があった。利根運河を造るに際し、この水路を運河の下を暗渠でくぐらせるようにした。水路を深く掘り下げた工事は724mにおよび工期1年という、利根運河工事のなかでも大きな位置を占める工事となった、と言う。
今上落しがどの水路か定かではない。運河大橋の近くに新野田南排水機場があるあたりの、運河を隔てた南側に水路が現れている。現在では暗渠を通ってきた水をポンプアップで組み上げているのだろう、か。確かめたわけではないので、この水路が今上落しなのかどうか、確証はもてない。この水路、野田から流山まで11キロ程度続くようで、流山で江戸川に注いでいるようである。そのうちに流山の江戸口から遡ってみよう、と思う。
利根運河・江戸川口
運河堤を先に進む。どこかで見かけた図を想い起こすに、今上落しから江戸川口までの間には、舟運の料金所や宿、料亭、茶屋、鍛冶屋、網屋などが軒を並べていた。往昔の賑わいを想いながら、現在では耕地が拡がる運河の南北を眺めながら利根運河の江戸川口に到着。利根川口から江戸川口まで8,5キロ程度、延べ220万人、1日平均2,000名から 3,000名が工事に従事した利根運河を歩き終える。
深井城址
利根運河散歩を終え、家路へと向かう。途中、「利根運河絵図」にあった深井城址に立ち寄る。それらしき森に入るも、標識などなにも、ない。なんとなく、此の辺りかと彷徨う、のみ。城は戦国期、小金井城を本拠としていた高城氏の支城。重臣の安蒜一族が籠もった、と言う。城は、小田原征伐の折、小金井城が開城したときに、同じく開城。その後小金井城とともに廃城となった。いつだったか、小金井城を辿ったことを思い出し、その城址を想う。
東武野田線・運河駅
城址を離れ、すぐ近くにある割烹旅館新川の前を通り、明治創業のこの割烹旅館に、利根運河が賑わった当時を想い東武野田線・運河駅に向かい、一路家路へと。
そういえば、今回の散歩のきっかけともなった、『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』にある、サシバのことに全く触れていなかった。『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』によれば、サシバとは中型の鷹。夏鳥として東南アジアや中国南部から3月下旬から4月上旬にかけて秋田以南の各地に渡来。日本の谷津田で繁殖し、毎年10月頃、愛知県の伊良湖岬、ついで鹿児島県佐多岬をへて、屋久島以南の南西諸島や東南アジアに渡って冬を過ごす。その渡りのルートが此の辺りでは、利根運河の江戸川口がその飛翔ルートであったようである。サシバの生育地の条件としては、谷津田があり、耕作水田があり、その水田が大きな斜面林に蔽われる、といったことで、このあたり千葉県北部はサシバだけでなく、おおたかの森で知られる大鷹、フクロウ、ハヤブサといった猛禽類の繁殖、生息地に適している環境のようである。いつだったか、手賀沼の辺りを散歩していたとき、山科鳥類研究所があり、何故この地に、と思っていたのだが、なんとなくその理由がわかったような気がする。
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