土佐 歩き遍路:第二十八番札所大日寺から第二十九番札所国分寺を打ち第三十番札所善楽寺へ

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今回は28番札所からおおよそ9キロ歩き29番札所国分寺へ、そしてそこから更に7キロほど歩き30番札所善楽寺へとおおよそ16キロほどの行程。市域は大日寺のある香南市から物部川を渡り、ほんの一瞬香美市の南端部をかすめた後南国市に入り国分寺へ。国分寺からはゆるやかな逢坂峠を越えて高知市域に入り第30番札所善楽寺に至る。
地形は大日寺の建つ野市台地を離れ物部川を渡るとそこは広大な扇状地。かつては川床が低く水利に恵まれなかった荒れ地を江戸の頃、野中兼山の施策により物部川から取水した水路が開削され新田となった平坦な道を進み国分川に当たる。その辺り一帯は土佐山田台地を物部川との分水界として流れてきた国分川によって形成された氾濫平地が広がり、そこに国分寺が建つ。 国分寺から善楽寺への道は、国分川により形成された三角州を抜け細藪山地と平地の境に建つ善楽寺へ。善楽寺の前面は国分川、久万川、さらには鏡川の合作による複合三角州に高知の市街が見える。紀貫之が書いた『土佐日記』の頃、西暦930年から934年の頃、現在高知市街となっている三角州の大部分は海面下にあったようであり、その陸地化には藩政時代の埋め立てによるところが多いとされる。
本日の散歩はおおむね広義の土佐平野、土佐平野の東部に広がる香長(かちょう)平野、かつての香美郡(かつての香美郡のうち、香美平野は香美市の大部分)と長岡郡域(南国市の大部分・高知市と香美市の一部)を歩くことになる。


本日のルート;
第28番札所大日寺から第29番札所国分寺へ■
大日寺旧参道口に自然石標石>烏川に架かる佐古川橋を渡る>>上井(うわゆ)川>高天原・霊験地蔵>物部川を渡り香美市に入る>右折点に標石>自然石標石>松本集落に標石2基>真念道標>松本大師堂>南国市に入ると左折標石>旧国道195号・土讃線手前に標石>茂兵衛道標>バス停へんろ石>国分川を渡り標石を左折>第二十九番札所国分寺
>総社
 ■国分寺周辺
県道45号右折点に自然石標石>国司館跡(紀貫之郎跡)>比江廃寺塔跡>国丁跡
第29番札所国分寺から第30番善楽寺へ
寺より南進し田圃の中で右折>農道T字路を左折し南下>国分川手前を右折し西進>国道32号を潜り笠ノ川川を渡る>岡豊山裾の道に入る>水路に沿って進む>高知市域に入り逢坂峠へと上る>逢坂峠への先で県道384号を逸れる>県道384号をクロスし善楽寺へ>第三十番札所 善楽寺>土佐神社


第二十八番札所大日寺から第二十九番札所国分寺へ

大日寺旧参道口に自然石標石
大日寺を離れ次の札所二十九番国分寺に向かう。距離はおおよそ9キロ。旧参道の石段を下り県道22号に出るとると自然石の標石。手印と共に「右へん路道 二十八番大日寺」と刻まれる。 歩道参道の北には昭和39年(1964)に開かれた車道参道。参道口には自然石に刻んだ大きな碑。「四国霊場開場千百五十年記念 四国第廿八番大日寺参道 昭和三十九年二月新設」と刻まれる。

烏川に架かる佐古川橋を渡る
県道を渡ると、徒歩参道対面の少し左手に遍路道の案内石碑。案内に従い烏川に架かる佐古川橋南詰に出る。
橋を渡った遍路道は北西へと進む。地名は野市町母代寺。先に進むと野市町父養寺で県道237号に当たる。
遍路道は県道237号をクロスし直進、民家の間の細路を西進する。
母代寺・父養寺
なんだかいわくありげな地名。チェックすると貞観8年(866年)応天門の変に連座して土佐に流された紀夏井ゆかりの地であった。父養寺、母代寺という地名は、夏井が父母を弔うために建てた寺があったことがその由来。母代寺には県の史跡紀夏井住居跡が残るとのこと。
紀夏井(きのなつい)
平安時代前期の官人。善岑の子。廉直な国司として有名。書を小野篁 (たかむら) に学ぶ。天安2 (858) 年右中弁から讃岐守に任じられる。善政をしいたため,人民の要請により2年間留任。貞観7 (865) 年肥後守となったが,応天門の変で異母弟豊城の罪に縁坐,土佐に流された。
土佐国へ護送中、肥後国の百姓等は父母を失うがごとく嘆き夏井の肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国の百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで夏井に付き随い別れを惜しんだという。中央・地方を問わず人望のあった夏井の失脚は、武内宿禰以来の名家である紀氏の政界における没落を決定的なものとした。この事件の後、同氏は宗教界や歌壇において活躍する氏族となっていく。
数年後母が死去したが、夏井は草堂を建立して亡骸を安置し、母が生きているときと同じように朝晩の礼を欠かさなかった。以前から仏教への信仰心は篤かったが、3年間の喪が明けるまで毎日、この草堂の前で大般若心経50巻を唱えたという。その後の動静は伝わらないが、配所で没したとされる。
夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、菅原道真が讃岐守として現地に赴任した際、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘却しておらず、道真は何かと夏井と比較され国政運営で難渋したという(「Wikipedia」、「コトバンク」参照)。

上井(うわゆ)川
民家に挟まれた車一台幅の細路を抜けると川というか水路を渡り物部川の堤防を走る県道234号に出る。県道の眼前には田畑が広がり、その先に物部(ものべ)川が流れる。田畑は県道より5mほど低い。物部川はそれより5mほど低いところを流れる。
田畑の広がる一帯は物部川により流されてきた土砂が堆積された地のように思える。国土地理院の地質図を見ると、物部川東岸だけてなく、西岸も広大な堆積層が広がる。山地の狭隘部から解放された物部川が香美市土佐山田町あたりを扇の要とし、その下流一帯が扇状地といった形状を呈する。
で、県道手前で渡った川というか水路は、物部川により形成された河岸段丘下を流れている。物部川の支流?チェックするとこの水路は野中兼山により開削された上井川と称される用水路であった。
野中兼山の物部川流域の水路開削と新田開発
地図をチェックすると上流、町田橋の辺りで取水されている。往昔町田堰と称された取水堰設けらていたようだ。
この上井川の流れをトレースしていると、少し下流に「三又」とマークされたポイントが地図に掲載されていた。上井川は三又で十善寺溝、町溝、東野溝の三つの大きな溝(用水路)と原田溝、武市溝の小さな用水路に分水されていた。
この用水路の開削は野中兼山の手によるもの。先回のメモで、野市の由来が「野中兼山らの開発により"野原のなかに新しい市町 ができた。土佐の"三野地"の最初が野一、その 転訛野市」と記したように、野中兼山が荒れ地であったのこの地を新田となすべく水路を通したわけだ。就任当時24歳。父の後を継ぎ奉行職としてその任にあたった。

右側が物部川扇状地(Google mapで作成)
兼山の治水事業は物部川東岸だけでなく、物部川西岸の広い堆積地にも及ぶ。町田橋の更に上流、物部川が山地より平地に流れ出す少し下流に設けた山田堰より取水し上井、中井、舟入の流れを開削し新田を開発した(山田堰からは東岸に父養寺溝も開削されている)。 また舟入川は西の大津川と結び物部川と高知の舟運の便に供した。山間部で伐採された木材は山田堰で集積されたようである。
このような水路開削による新田開発の結果、石高24万石とも言われた土佐藩に新たに8万石の増収をもたらしたとのことである。 とはいえ、兼山の普請施策は厳しく、藩内で反発をかい罷免され、山田堰近くに隠棲し、その数カ月後にむなしくなった。因みに、山田堰の完成には25年もかかったと言う。兼山は、その完成をみることはなかったようである。

高天原・霊験地蔵
遍路道は河岸段丘と物部川の堆積地を画する県道234号を逸れ田畑として開墾されている堆積地に下りる。と、物部川の傍に杉や雑木が茂る一角がある。そこにちょっと古い小堂とお堂が建つ。小堂には自然石にも文字が刻まれる。文字ははっきりしない。
大きなお堂は二つ区切られ共に地蔵尊が祀られる。お堂横には「高天原 霊験地蔵 八王山蓮光院」と刻まれた石碑が立つ。地蔵尊由来書によると、天明五年巳(1785)五月に建てられたようだ。 往昔この辺りには戸板の渡しがあり、遍路もこの地から物部川を渡ったと言う。

物部川を渡り香美市に入る
県道に戻り物部川に架かる戸板島橋を渡り物部川西岸に移る。市域は香南市から香美(かみ)市となり、香美市土佐山田町戸板島。
香美市
香美市は平成18年(2006)、香美郡香北町・土佐山田町・物部村が合併してできたもの。

戸板島集落の右折点に標石
戸板島橋を渡った遍路道は西詰で左折し、物部川の堤を走る県道372号の一筋西の道に入り、民家の間を抜け、田圃の中を東西に走る道にあたる。
合流点に少し傾いた標石とその後ろに石造物多数。標石には「右へんろ道」と刻まれる。遍路道はここを右折し、西進する。

立石の自然石標石
西進すると四つ辻に集会所のような建物。その西側に自然石の標石。中央に「へんろ道」、左右に「国分寺」「大日寺」の文字が手印と共に刻まれる。








松本集落に標石2基
更に一直線に西進し、県道31号を越え先に進むと田圃の先に土佐山田町松本の集落が見えてくる。集落入り口の民家生垣の前に少し傾いた標石。風化激しく文字は読めない、さらに道が南に折れる角にも小さな自然石の標石。「左邊路道 明和」といた文字が刻まれる。



真念道標
左折し少し南下すると、道の右手、民家の壁にくっつくように標石が立つ。「右 へん路みち 願主真念 為父母六親」と刻まれた真念道標。正面が側面より幅広い真念道標には珍しいタイプ。 遍路道はこの角を右に折れ、土径を直進する。






松本大師堂
土径を進むと大師堂に出る。お堂の周囲には多くの石造物が並ぶ。近年建て替えられてのだろうか。結構新しい。
大師堂の先で水路を渡る。メモの段階でチェックすると舟入川であった。


舟入川
既述の如く、野中兼山が奉行として物部川西岸に開削した人工水路。物部川の山田堰で取水し、荒れ地であった地を潤し新田となし多くの恵みをもたらした。舟入川葉は新田開発だけでなく、紀貫之が土佐を離れるとき船出した大津で大津川と繋ぎ、物部川と高知城下の舟運に供した、と。 土佐の石高は、江戸初期には20万2千6百石(幕府朱印状石高)とも24万2千石とも言われるが、幕末の廃藩置県前には49万4千石余に達していたと言われる。物部川流域の治水事業だけでも8万石の増収を可能としたと言われるが、兼山は土佐全土で主要河川16か所で堰を築き利水事業をおこなったとのことであるの石高倍増に貢献したのではあろう。

南国市に入ると左折標石
舟入川を越えると直ぐ三差路。市域は香美市を離れ南国市となる。分岐点に「四国のみち」の指導標と2基の標石。上部が破損した標石には「*ん路* 文化五* 国分寺迄三」、もう一基には「左国分寺三十五町 大正五年」といった文字が刻まれる。遍路道は「四国のみち」の案内に従い、左折する。
南国市
北部は四国山地の南端、また南部は高知平野が広がり、太平洋に面して東西約8キロメートルの海岸線を有する。香南市と物部川で市境を画す。野中兼山の新田開発によって作られた舟入川、また国分川が市の中央部を東から西に流れ、高知市で浦戸湾に注いでいる。
奈良時代の天平13年(741年)、この地に国分寺が建立され、前後して土佐国府が置かれ、土佐の中心地となった。戦国時代には長宗我部氏が本拠地として岡豊城を構え、長宗我部元親はここを四国統一の足がかりとした。
江戸時代初期、土佐藩家老として活躍した野中兼山によって新田開発が行われた。新田の中心部に商業圏を作り、その町作りに関わった入植者には年貢・役務を免除(御免)し、やがてこの地の名が「後免」と呼ばれるようになった。
昭和34年(1959)、長岡郡後免町・香長村・野田村・岡豊村・香美郡岩村が合併して発足。その後香美郡山田町の一部を編入し現在の市域をなす(Wikipedia)。

車道左折点に標石
「四国のみち」の指導標に従い道を左折、さらにその先、道なりに右折し北に少し進むと道に車道にあたる。その合流点にも標石。手印と共に明治二十年」といった文字が刻まれる。刻まれた文字ははっきり読むことはできなかった。






旧国道195号・土讃線手前に標石
T字路を左折し南西に直進する道を進む。途中、道の右手に「大将軍」の石額のかかる鳥居が建つ。その南に大将軍神社が鎮座する。名前に惹かれるが由緒不詳。であるが、他の大将軍神社には経津主命・タケミカヅチ命が祀られている。この地の産土神という。
その先、旧国道195号の手前、道の左手のお屋敷西破端のブロック塀前に4基の石造物が並ぶ。 そのうち2基が標石との記事もあるが、はっきりしなかった。

茂兵衛道標
遍路道は国道を横切り直進するが、その先には土讃線が走っており直進はできない。少し北に進み踏切を渡り線路横断地点に戻る。
遍路道は西進。左手に南国市鳶ヶ池中学校を見遣り進むと県道45号に合流。合流地点に茂兵衛道標。「大日寺」、手印と共に「国分寺」、「明治三十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛160度巡礼時のもの。
遍路道はここを右折し、県道45号を北上する。


バス停へんろ石
県道45号を北に進むと現在の国道195号とクロス。国道を横断し更に北に歩くと「へんろ石」バス停。バス停の西側には「へんろいしまんじゅう」の看板がかかる。老舗のおまんじゅう屋さんだ。子供の頃に食べた田舎饅頭のテイスト。
「へんろ石」の由来だが、かつて、と言ってもそんなに昔のことではないのだが、店の直ぐ北の四つ辻、水路に面して茂兵衛道標が立っていた。が、令和2年(2020)初夏に訪れたときは如何なる理由か、道標は撤去されていた。

国分川を渡り標石を左折
国分川に架かる国分橋を渡ると左に折れる道。その角に標石。手印はかすかに見えるが文字は読めない。左折すれば、国分寺までほぼ400メートルである。
国分川
香美市西部の山地にその源を発し、南西に流れ高知市街で浦戸湾に注ぐ、全長21キロjほどの二級河川。上流部では新改川と称される。上流部に休場ダムがあり、平山発電所、新改水力発電所で発電が行われる。
ところで、この新改川は水量が多くなく、??野川水系穴内川に建設された穴内ダムから四国山地を穿ち、その導水路を通して新改川に水を供給している。どうも休場ダムは一種の調整池としての機能を果たしてようである。
甫喜峰(ほきがみね)疏水路
で、導水路のルートをチェックしていると、野中兼山の事績に出合った。穴内ダムから導水路で下流の繁藤ダムに流した水は、繁藤ダム湖より山地を穿つ導水路を通して休場ダムに水を流し、ダムすぐ下流の平山水力発電所、また山地を穿った導水路と通して新改水力発電所に水を供給してている。
と、休場発電所の北に発電所マークがある。チェックするとそこはどうも旧平山水力発電所のようである。明治42年(1909)完成した高知ではじめての水力発電所。発電所がこの地に選ばれたのは既述穴内川の繁藤ダムあたりから国分川に分水する甫喜峰(ほきがみね)疏水路があり、その水を発電に利用しようと計画された。当時の県予算に匹敵するほどの予算規模であったが、県知事宗像政の強い指導力のもと明治39年(1906)工事着工に至り、2年の歳月をかけて完成した。
この甫喜峰(ほきがみね)疏水路は水量が乏しい新改川へ吉野川水系の水を通し、香長平野の灌漑用水を増やすべく野中兼山が指揮をとり開削をはじめたもの。難工事のため藩政時代に完成をみることはなかったが、明治に入り幾度も深刻な水不足に見舞われた住民の訴えにより、明治33年(1900)疏水路の完成をしており、その疏水路を活用できたわけである。
偶然の「出合い」を深堀すればあれこれ面白い話がでてくるものだ。


第二十九番札所国分寺

高知平野の東部、香長平野(旧香美郡と長岡郡)に建つ。境内は白壁の土塀に囲まれる。
山門
南側に山門(仁王門)。「摩尼山」の扁額が架かる。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像が安置される。明暦元年(1655)、土佐藩主山内忠義公の建立とのこと。
この山門は鐘楼と兼用されていた。その梵鐘は創建当時、平安時代前期の作と伝わり、国の重要文化財に指定されている。
山門を潜り境内に入ると右手に現在使われている鐘楼。建立年は不明だが、 寛永11年(1634年)最初の改築が行われたとあるので結構古いものだろう。
開山堂・酒絶地蔵
境内左手には当寺開創と伝わる行基菩薩を祀る開山堂。その脇に酒断地蔵尊を祀る小堂。正面に金堂(本堂)、その左に大師堂が並ぶ。

Wikipediaに拠れば、土佐国分寺(とさ こくぶんじ)は高知県南国市にある真言宗智山派の寺院。摩尼山(まにざん)、宝蔵院(ほうぞういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。国の史跡に指定されている。
聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により全国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。当寺は寺伝によれば天平13年(741年)に行基が千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。
その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が毘沙門天を刻んで奥の院に安置、また、星供の秘法を修めたことから、当寺は星供の根本道場となり、大師像は「星供大師」と呼ばれている。そして、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられる。
国分寺周辺は古代から中世まで土佐国の国府の所在地であり、「土佐日記」の作者紀貫之も国司として4年間当地に滞在した。国府の中心である国庁は国分寺から徒歩15分の位置にあり、かつてその近くにあった土佐国総社は現在当寺境内に移されている。
寺はたびたび兵火に遭ったが、永禄元年(1558年)には長宗我部国親、元親によって金堂が再建。明暦元年(1655年)に土佐藩2代藩主山内忠義が山門を寄進した。大正11年(1922年)に境内全域が国の史跡に指定されている」とある。

柿茸き(こけらぶき)、永禄元年(1558年)建立の金堂(本堂) -は明治37年(1904)、国の重要文化財に指定されている。また本堂に祀られる平安時代中期作 と鎌倉時代作 と伝わる木造薬師如来立像2躰も -共に明治44年(1911)、大正2年(1913)に国の重要文化財に指定されている。

境内の標石
境内には2基の標石。1基は大師堂左の石造物群の中にあり、自然石でつくられ、「これよりみきへへんろみち 元禄二」といった文字が刻まれる。
もう1基は山門を潜って左側に徳右衛門道標が立つ。常と異なり大師坐像が彫られていない。梵字と共に、「右一ノ宮*里半 二十九**」、手印と共に「三十ばん 願主 豫州越智郡朝倉上村  徳右衛門」といった文字が刻まれる。
土佐一ノ宮は第三十番札所善楽寺横にある土佐神社のことだろう。

総社
境内西隣に国分総社神社 。土佐国総社で大型の祠。土佐国21社を国庁所在地に勧請して一社にまとめたもので、当初は国分新町の南にあったが1669年(寛文9年)に移された、とWikipediaにある。
日本の律令制下、国司着任後の最初の仕事は赴任した国内の定められた神社(式内神社)を順に巡って参拝することであったが、手間が大変であり、平安時代になると国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度として認められた。この総社には土佐国21社(安芸郡3、香美郡4、長岡郡5、土佐郡5、吾川郡1、幡多郡3)が勧請された。

国分寺周辺の国府関連史跡

次の札所第三十番善楽寺に向かう前に国分寺周辺の国府関連史跡にちょっと立ち寄り。先ず国司館跡(紀貫之郎跡)に向かう。

県道45号右折点に自然石標石
国分寺から東に県道45号まで戻り北進。500mほど進むと国府小学校。その校庭南西端から道が東に続く。国司館跡(紀貫之郎跡)はここを右折するが、その角、小学校のブロック塀の上に自然石。なんとなく気になりチェックすると、「紀子旧邸、国分寺、比江山親興城址」といったも文字が刻まれ、「東方約三町」などそれぞれの地への方向と距離も示されている。位置からするとこの地より3方向の地を示す標石であろう。
比江山親興
比江山親興は長曾我部元親の従兄弟の城。親興は一門として重きをなす。元親が秀吉の軍門に下った後、天正十六年(1588)、元親の嫡男信親が戸次川の戦いで討ち死。その後継者問題で讒言などもあり元親によって切腹を命ぜらた。比江山氏の断絶により、比江山城も廃城となった。 国分寺の西に長曾我部氏の居城である岡豊城がある。この比江山城は東の備えの城であったのだろう。

国司館跡(紀貫之郎跡)
右折し、道なりに進むと国司館跡(紀貫之郎跡)がある。入り口に「古今集の道」といった案内もあり、一帯が公園風に整備されている。「古今集の道」は30歳の若さで古今和歌集の撰者に任ぜられ王朝屈指の歌人でもあった紀貫之所以の命名だろう。

古今和歌集の道
公園に整備された「古今和歌集の道」には古今集に出てくる植物を歌と対比して掲載している。 「秋の菊 にほふかぎりは かざしてん  花よりさきと 知らぬわが身を 菊 276 紀貫之」。藤袴は「やどりせし ひとの形見か 藤袴 わすられがたき 香ににほひつつ」、また「秋の野の 草の袂か 花すすき穂に出でて招く 袖と見ゆらむ」はすすきを詠む、といった趣向である。

国司館跡(紀貫之郎跡)
公園を南へと進むと国司館跡(紀貫之郎跡)の案内。「奈良天平の時代から比江の地に土佐の国庁が置かれた。貫之は延長八年国司として来任。この地に住居した。地名を内裏(ダイリ)という。
承平四年在満ちて京都へ帰る時の船旅日記「土佐日記」は特に名高く、歌人として第一人者であると共に、国司としても極めて優れく々に敬慕せられた。
ここに建つ碑は天明五年(寛政元年竣工)のものと大正九年及び平成元年建立のものがあり、何れも後人が紀氏の徳を慕いその業績を讃えたもので、また俳人(高浜虚子の句碑もある」とあった。 年号から考えれば紀貫之が国司に任ぜられ土佐に赴いたのは60を過ぎてからのようだ。
比江
「土佐地名往来:には、「国司が都を懐かしんで後山を比叡山に見立て比江山 と名付。山裾に日吉神社(ひえじんじゃ)」とある。
高浜虚子の句碑
案内にあった虚子の句碑は紀貫之郎跡の東角に立つ。「土佐日記 懐にあり散る桜」と刻まれる。虚子は2度土佐を訪れているとのことだが、この句は初回昭和6年(1931)に浦戸湾から土佐入りし、この地を訪ね折からの満開の桜を詠んだとのこと。
この句碑は和19年(1944年)に虚子の古希祝いとして、土佐出身の俳人が集まり建立したもの。

高浜虚子の句碑に限らず敷地内にはいつくかの石碑が立つ。





「月」字の額
左が紀子舊跡碑
「紀貫之が土佐の守の任にあった時、自ら書いて庁舎に掲げてあった「松月庵」という額が幡多郡黒潮町伊田の松山寺 (現在は廃寺)に移されたものと伝えられている。その額を寺の僧が不要物と思い、捨て置いていたものを、当時、幡多の郡奉行であった「尾池春水」が寺に立ち寄り、紀貫之の真筆に間違いないとして世に広めた。
世々遠くあるかなきかの影とめて 月をかたみの水くきのあと 
この和歌は、尾池春水が月の字の鑑定を依頼した京都の日野大納言資枝が真筆に相違ないとして一首の和歌に託したもの。 平成二十五年十一月十日 国府史跡保存会」との案内があり、その横の石碑に「月」の文字が刻まれる。これが紀貫之の残した「月」字のレプリカであろう。

紀子舊跡碑
「月」字の額の案内の横に石碑。案内には「碑文 東面 あふく世に やとりしところ 末遠く つたへんためと のこすいしふみ 權大納言資枝」「南面 侍従 藤原豊雍 篆」「西面 文略 天明五年」といった説明があった。
何のことやらとチェック。上述尾池春水が天明五年に紀貫之の旧跡を顕彰すべく建てたもの。歌は「月」字と同様、尾池春水の和歌の師である日野資枝が呼んだもの。 「侍従 藤原豊雍 篆」とは 土佐藩の歴代藩主の中で、最高の名君とされる山内豊雍による揮毫であるということのようだ。
尾池春水
土佐藩士・歌人。天明6年(1786)2月、山奉行から幡多奉行中村定詰に任じられたのを機に、中村に移住。7年、9代藩主・豊擁のもとで天明の改革に取り組んだ。その後、教授方頭取兼帯・御馬廻組頭・側用役奥向用役兼帯・御馬廻組頭御仕置役格を歴任。
歌を日野資枝に就いて学ぶ。また旧国府の里に紀貫之を顕彰する「紀子旧跡碑」を建立し。紀貫之の書と言われる「月」字を広く紹介し、藩内はもとより、京都の公家にまで広めた功績は大きい(コトバンク)。

土佐日記の碑
石碑には二首の歌が刻まれる
「みやこへと、おもふをもののかなしきは、 かへらぬひとの、あはれなりけり」
「さおさせどそこひもしらぬわたつみのふかきこころをきみにみるかな」
「都へと思ふもものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり」は都へ帰る直前に、 京から連れてきた愛娘(6~7歳)を急病で亡くして、共に帰れない嘆き、 哀しみを詠う。
「棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな」は土佐を離れる船出に際し、名残を惜しんでくれる人の心を詠んだもの。日記では感傷に浸る間もなく、酒をくらった船頭が潮も満ち、風も吹いきたと乗船をせかした、と記される。
この碑は平成元年に建てられたもの。


「国府の碑」
「土佐のまほろば ここに 都ありき」 国府の碑について 明治30年国府村が生まれた。藩政時代の国分、比江、左右山の3村が、明治22年合併した国比左村を改称したもので、国府の名は、この地に奈良平安の古代、土佐の都国府が置かれたことに由来する。
当時の村人たちが熱い愛郷の誇りを現したものであって、爾来、行政区域は合併により、後免町から南国市へと変わったが、国府の名は地区名として連綿と受け継がれてきた。
国府史跡保存会は、昭和34年7月創立。地区内全戸が会員となり,土佐のまほろばの中核をなす史跡群の維持顕彰につとめ、史跡の傷みを心の痛みとして守り続けてきた。
ここに創立40周年を迎え、記念として国府の名を永く後世に伝えんと、この碑を建立する。 碑表の書 南国市長 浜田 純 平成11年9月25日」

千載不朽碑
「千載不朽 碑文 
麝香間祇候陸軍歩兵少佐従三位勲三等功五級侯爵 山内豊景  題額
はかなき道にのみ名をとどむるこそいとくちをしき わさならめ。
此君土佐の守たりし時、萬わたくしなかりしかは、そのいこい給ひし所をさへ後の世にもしたいものし侍るとこそ聞えける。
かくてこそ 花さへ実さへ、とことはに、そのかくはしさをのこすとこそいふへけれ。
近き世の守なる君、ここに石ふみたてて千とせ萬代にも伝へてんとはかり給ひし こころはせも、またくちしとこそおほゆれ、くはしきことはかきつくしてふみにゆつりてなん。
文化六年弥生 右近衛少将 源 定信 しるし侍りぬ
大正七年歳暮 御歌所寄人 大江正臣 筆とりぬ」と刻まれる。

源 定信とは松平定信。文化六年(1809)に定信の書き記した文を大正になって大江正臣さんが筆をとり、土佐藩主の後裔である山内豊景さんが千載不朽という題額をつけて紀貫之を顕彰するこの石碑を立てた、ということだろうか。

「貫之とはこんな人  ― 紀貫之と土佐 ―
奈良時代から平安時代を通じて、土佐に来任した国司(土佐の守)の数は、百十余人が文献に見えます。その国司の館跡が、現在「紀貫之邸跡」と称されるのは、歴代国司のうち、紀貫之が抜きんでて名の高かった故であります。
延長8年(930)1月、土佐の守に任された貫之は、当時60歳すぎでありましたが、都ではすでに王朝屈指の歌人として、その名を馳せており、30歳代の若き日に、醍醐帝の勅命による「古今和歌集」の撰者・序文の著者としての栄光を担っております。
4年間の国司の任務を無事に果たして、承平4年(934)12月には、京の都へ立ちますが、その時の船旅日記を綴ったのが、かな文字による日記文学として、後世に風韻を残した紀貫之の「土佐日記」であります。
この日記を通じて、貫之の、移りゆくものへの心くばり、情にあつい人となりが、よく分かりますが、なかでも都へ帰る直前に、京から連れてきた愛娘(6~7歳)を急病で亡くして、共に帰れない嘆き、いわゆる"帰らぬ人"への情愛・哀傷を、日記文のいたるところに滲ませております。
貫之は多情多恨、移りゆく心の持ち主であったことは、「土佐日記」や歌集などにもうかがわれますが、現在高知県安芸郡北川村に、貫之の寵を得たことを系図に記して、紀氏姓を名乗る家系があります。
貫之は土佐へ赴任する時、醍醐帝より「新撰和歌集」の撰進を命ぜられておりましたが、帝の崩御によって、作品は日の目を見ることはありませんでした。その痛恨・帰らぬ人へのおもいをこめて、「土佐日記」は創作されました。
こうした紀貫之であった故に、この邸跡に建つ新旧5つの碑は、みな紀貫之― 「土佐日記」 ― を敬慕し、讃えるものばかりであります。  (監修 岡林清水) 平成8年(1996)8月吉日  国府史跡保存会」

比江廃寺塔跡
紀貫之邸跡を離れ比江廃寺塔跡に向かう。道は紀貫之邸跡に来た東西の道を更に東に向かう。少し進むと四つ辻があり、その角、道の下に広場があり平たい石が置かれている。
その傍に「比江廃寺塔跡」の案内。「塔の心礎のみが残る古代寺院跡で、国史跡に指定されている。
礎石の大きさは、縦3.24m、横2.21mを測り、土佐では最大である。中央にある直径8.1cmの穴 は塔の心柱を支えるためのものであり、中心には、仏舎利(仏骨)を納めるための穴も開けられている。
当時の塔の高さは、心礎の柱径の約40 倍といわれることから30mを越す高さの五重の塔が 建っていたと推測されている。
発掘調体の成果から、この塔礎石が据えられたのは8世紀以降と判明しているが、周辺で出 土した古瓦から、寺の創建は白鳳時代後期と考えられている。 南国市教育委員会]とあった。 

 国丁跡
道を少し西に戻り、案内に従い左折し田圃の中を通る農道を少し南に下ると、ビニールハウスの脇に国丁跡の案内がひっそりと立っていた。案内には「国庁跡」とあり、「周辺に国丁、神ノ木戸、府中、内日吉、宝憧寺等の地名あり」の解説と昔の小字を記した周辺の地図が掲載されていた。 地図にはその他、内裏、クゲ、そして国庁跡の碑が立つあたりは「国庁」と如何にも国庁があった名残を示す小字が地図に記されていた。
国庁の広さは六丁四方、四丁四方の二説がある。現在発掘調査継続中で位置の推定はされていないが、昭和38年(1963)県指定の史跡となりここに「国庁跡」の標柱が立てられたようだ。東と南に国分川が流れ外敵からの守りに適し、かつ国分川を通じで国府の外港、紀貫之も船出したという大津湊に繋がる交通・軍事上の要衝であったのだろう。
大津(紀貫之船出の碑)
大津の紀貫之船出の碑は国分川に面する土讃線布師田駅の南、舟入川に面した大津小学校の正門を入ったところに立つ。「貫之舟出の碑」と刻まれる。
近くには土佐電鉄舟戸停留所もあり、 かつての湊の名残を今に伝える。『土佐日記』の12月27日の条に「大津より浦戸をさして漕ぎ出づ」とされる地と比定されている。

現在は舟入川傍ではあるが、舟入川は既述の如く江戸期に野中兼山によって開削された人工水路。紀貫之の時代に舟入川はなく、この辺り一帯は流路定まらない国分川筋ではあったのだろう。 周辺は現在は埋め立てられ陸地とはなっているが、千年の昔、この辺りは海であり、 紀貫之の時代、 高知市の市街部の大部分は浦戸湾が広がり、五台山、かつら島、 比島、高知城のある山は、湾の中の島であったとされる。



第29番札所国分寺から第30番善楽寺へ

国庁跡を彷徨い、国分寺まで戻る。次の札所善楽寺への遍路道を歩き始めることにする。距離はおおよそ7キロ強ほど。

寺より南進し田圃の中で右折
山門を離れ少し西に進むと南に下る道がある。これが遍路道。田圃の中を南下する。ほどなく四つ辻に「四国のみち」の指導標。案内に従い右折し西進する。




農道T字路を左折し南下
右折し西進した道はほどなくちょっと広い道にT字で合流。合流点には「四国のみち」の指導標があり、国分寺、岡豊城跡(岡豊山)への案内をする。岡豊城跡(岡豊山)まで2.4kmとあった。 遍路道はここを左折し南下する。
長曾我部検地帳の案内
その合流点にあるお屋敷入り口付近に案内板が見える。ちょっと確認。「長曾我部検地帳 二階(二階孫右衛門)」とあり、「二階氏の土居屋敷四方堀藪あり」「東ニホリ、上ヤシキ光富千熊丸給地」「カチ屋敷、中ヤシキ山田主馬兵衛」「ムロヤシキ、片村源兵衛国分寺領」「二階/東ニ上ヤシキ竹崎兵衛。毛利氏御用の廻船商人で官途「藤左衛門尉」を与えられた二階氏の一族と思われる」との記述があり、その下に地図が掲載されていた。

検地帳といえば、場所を特定する小字、耕作地の面積、所有者名が書かれているのが普通だとい思うのだが、石高の基準となる耕作面積の説明もなく(地図をはっきり見なかったので見落としかもsれない)、案内の主旨がよくわからずチラ見で済ました。
メモの段階でもう一度チェックすると、地図には検地帳に記された小字名を地元の方の努力により反映されているとのこと。「市場」、「風呂ノ前」、「市頭」、「堂ノ前」、「国分ノ前」、「町頭」、「東古市」といった小字名が記載されており、現在ののどかな田園風景とは異なった門前町の姿が想像できる。「長曾我部検地帳」というより、 長曾我部検地帳に記載された二階一族の住んだこのあたりの往昔の姿の案内、といったほうが分かりやすかったのでは、とも思った。
長曾我部検地帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った(「文化遺産オンライン」より)。
領国すべての検地帳が残るのは珍しいようである。

国分川手前を右折し西進
南に進み、国分川の一筋手前に西に向かう農道がある。分岐点には「四国のみち」の指導標とともに、「30番札所 善楽寺 6.4km」との歩き遍路案内もある。遍路道はここを右折、道なりに左折、そして右折し、その後は農道を一直線に西進する。前面には岡豊城のあった岡豊山(おこう)が見える。
国分川を水管橋が渡っていた。



岡豊城跡
Wikipediaには「岡豊城(おこうじょう)は、高知県南国市にある中世の日本の城(山城)跡。戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。
概要
南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。
城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。
沿革
鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、ただの宗我部氏であったが、隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の宗我部氏があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。この頃、長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。
室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。
七雄の抗争は翌年の永正5年(1508年)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。
従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518年)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。
それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている。 岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。

国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年)浦戸城を改築して移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
昭和30年(1960年)2月15日、高知県史跡に指定された。昭和60年(1985年)より平成2年(1990年)にかけて、1~6次にわたる発掘調査が行われ史跡整備がなされた。平成20年(2008年)7月28日、国の史跡に指定された」とある。

岡豊城の東と南は国分川が流れ、往昔は三角州であり、氾濫低地帯として自然の要害とはなっていたのだろう。また近くに国丁があるように古くから開けた一帯であり、国分川の自然堤防の後背湿地では弥生時代から稲作が行われていたという。また国分川の東、現在は広大な扇状地となっている物部川流域もその昔、三角州が形成されそこでは古くから稲作が行われていたことだろう。 物部川を境に西は長曾我部氏、山田氏(香宗我部氏の後見)、本山氏、東は香宗我部、安芸氏などが覇を競い、国分川・物部川流域一帯の豊かな恵みをもたらす地を巡り攻防を繰り広げたのではないかと妄想する。

国道32号を潜る
農道を西進すると、道の左手に「四国のみち」の石標。その石標より県道に上る坂を逸れ県道を潜るアンダーバスを抜ける。





笠の川川に架かる下乃橋を渡る
国道のアンダーパスを越える国分川支流の笠ノ川川に架かる下乃橋を渡る。
笠ノ川川
笠ノ川川って、川名であるが、いつだったか土佐の片峠と四万十川源流点を辿ったとき(ⅠⅡ);上八川川とか、枝川川、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が気になりチェックしたことがある。とlこういったケースは特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。
また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
関係ないけど、ナイル川やガンジス川も、ナイルもガンジスも川の意であり、「川川」ではある。 笠ノ川川の流域をチェックすると上流に岡豊町笠ノ川と言う地名があった。

岡豊山裾の道に入る
笠ノ川川を渡った遍路道は西詰で左折、笠ノ川川の土手に沿って進む。ほどなく県道352号とクロス。笠ノ川川はこの地で国分川に合流する。
遍路道は国分川に架かる岡豊橋を左に見遣り、国分川の堤を進む。ほどなく道は堤を離れ、岡豊山裾を進む道へと右手に逸れる。


水路に沿って進む
山裾の道に入った遍路道は、集落を抜け山裾を流れる水路に沿って進む。国分川から引いた灌漑用水だろう。しばらく木立が日陰をつくる水路脇の道を進むと岡豊山裾の道を抜け、岡豊山西側、国分川に注ぐ支流にあたる。
支流に架かる橋を渡ると前面に高知大学岡豊キャンパス。遍路道は橋を渡ると左折し、国分川に沿って西進する。

高知市域に入り逢坂峠へと上る
西進し再び国分川に注ぐ山崎川に架かる蒲原(かもはら)橋を渡ると、国分川を離れ丘陵の裾を進む道に進む。道は岡豊町蒲原を進むが、直ぐ南は高知市域。
右手に延命寺を越えるあたりから、ゆるやかではあるが次第に逢坂峠への上りとなる。南の丘陵との間には宅地開発が進んでるようだ。
南国市と高知市の境となるふたつの丘陵の間を抜ける道を進み、途中遍路休憩所を見遣りながら道を上る。

逢坂峠への先で県道384号を逸れる
道を上り切るきると県道384号に合流。少し西に進むと道の左手は山肌が削られている。採石場のように思える。逢坂峠に着く。逢坂峠は高知市一宮となる。
逢坂峠を少し西に進むと道の左手に、左方向を指す「30 善楽寺まで0.8km」の比較的新しい標石がある。標石の辺りから高知市街が目に入る。
標石に従い、国道を左に逸れ、一宮墓地公園の西端を下る。
毘沙門院
大阪峠の北東、国道284号より山に入ったところに国分寺奥の院毘沙門堂がある。高さ30mほどの滝は空海が斎戒沐浴し観念修行したときに毘沙門天王が現れ、故に毘沙門尊像を刻みお堂に安置し29番札所の奥の院と定めたとの由緒が伝わる。

県道384号をクロスし善楽寺へ
丘陵を下り、一宮東町の民家の間を西進すると県道384号にあたる。県道を少し下ると「一宮東門」バス停。その傍、県道東側に「30 善楽寺 0.3km」と刻まれた新しい石標や善楽寺方向を示す木の標識。遍路道は標識に従い、古き趣を残す一宮集落の中を通る道に入る。



第三十番札所 善楽寺

集落の道を抜けると広い車道と社叢。車道は県道384号から続く車道参道になっている。社叢の中には土佐神社。車道を左に折れ少し進むと道の左手に善楽寺、右は土佐神社が鎮座する。
こじんまりとした善楽寺境内に入ると、境内北側に本堂、その左手に大師堂が建つ。境内南側には水子地蔵、その東に子安地蔵。子安地蔵堂の東には露座の地蔵尊。梅見地蔵と称される。
梅見地蔵
子安地蔵脇にある梅見地蔵の案内には、「文化十三年(1816)年に作られたもので、首から上の病気に利益のあると云い伝えられている。以前は大師堂 梅の木の下にあり、梅の花を仰ぎ見る姿であったことから梅見地蔵」と名付けられました」といった説明があった。

Wikipediaには「善楽寺(ぜんらくじ)は、高知県高知市にある寺院。宗派は真言宗豊山派 。百々山(どどさん)、東明院(とうみょういん)と号す。本尊は阿弥陀如来。
寺伝によれば、大同5年(810年)空海(弘法大師)が高鴨大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。また、空海はこの辺りの森厳幽遠なる霊域を気に入り渓谷が百谷あれば入定の地に定めようと谷々を調べたが99谷で足りない1つを当寺を開くことにより1山補い、山号を百々山と名付けたと伝えられている。 応仁年間(1467 - 1469)に兵火で焼失したが、土佐藩2代藩主山内忠義の庇護を受けて栄えた。

『四国辺路日記(澄禅1653年巡拝)』には観音院と記されているが、万治元年(1658年)に長福寺と改名、そして『四国遍礼霊場記(寂本1689年刊)』には一宮本殿への参道の向かって右に長福寺、左に神宮寺が描かれていて、この時点での札所は「一宮百々山神宮寺」であり、本尊は阿弥陀如来、脇仏は観音と勢至であった。享保6年(1721年)徳川家重の幼名(長福丸)をはばかって善楽寺と名称が変更され、『四国遍礼名所図会(1800年刊)』によると神宮寺は衰退し、当寺は参道中ほどより入る中門を通じて立派な方丈と大きな護摩堂と大師堂を有す祈祷寺として隆盛した。
明治初期の神仏分離まで、筆頭別当寺の神宮寺では「高鴨大明神 本地阿弥陀如来 神宮寺」と、次席別当寺の観音院善楽寺(本尊十一面観音)では「正一位高賀茂神社 一之宮 善楽寺」と両方で30番の納経をしていたが、廃寺に際し、神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とするという措置がとられ、札所権と神宮寺の本尊であった阿弥陀如来坐像(重要文化財)と善楽寺の弘法大師像は南国市にある29番札所国分寺に移され国分寺で納経を代行するようになった。なお、護摩堂不動明王像の所在はそれ以降不明となっている。

両寺の廃寺により明治8年(1875年)当地より南西5.5kmの所に再興された安楽寺に、その阿弥陀如来像が移され30番札所となった。神宮寺は再興されず、善楽寺は昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院をこの地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移し、本尊は有縁の江戸期作の阿弥陀如来坐像を迎えて30番札所東明院善楽寺として再興したが、30番札所が2箇所並立することになり、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こった。昭和39年(1964年)四国開創1150年を機に両寺代表が協議し、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになるも混乱は続いたが、平成6年(1994年)1月1日、札所は善楽寺、安楽寺は奥の院とすることで最終決着した」とある。
神仏分離令の伴う札所騒動
善楽寺に限らず、神仏分離令施行に伴う札所騒動は遍路歩きの途次、時に目にする。記憶に残っているのは、伊予の横峰寺、清楽寺、妙雲寺の札所を巡る騒動、また、讃岐の68番札所神恵院と69番札所観音寺は神仏分離令がもとで、同一境内にふたつの札所が建っていた。

百谷伝説
この寺の山号である百々山(どどさん)の縁起にある、百にひとつ足りない故に云々、といった逸話も散歩の途次出合う。いつだったか小田急線の新百合丘辺りを歩いていたとき、弘法松に出合った。弘法大師が百谷あれば寺を建てようとしたが、九十九谷しかなかったのでお寺のかわりに松を植えたとあった。この弘法大師の百谷伝説は全国各地にあるようで、中には999と千にひとつ足りない故に云々、といった話もある。
百とか千にひとつ足りない故にということが何を意味するのか不詳。
安楽寺
土讃線高知駅の西、千年の昔、辺り一帯が海であった名残を残す洞ヶ島町に建つ寺院
。Wikipediaには「高知県高知市にある真言宗豊山派の仏教寺院。山号は妙色山(みょうしきざん)。 妙色山 金性院 安楽寺と号する。
伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内)。(中略)その後、12坊を有する大寺院となったが応仁の乱(1467年-1477年)の兵火を受けて焼失し衰退。(中略)明治時代初頭の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となったが、明治8年(1875年)に、長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興された」とある。


土佐神社

善楽寺を離れお隣の土佐神社にお参り。善楽寺傍から南に長い参道が延びる。参道北側直ぐにある大きな木製鳥居を潜り境内に。
入蜻蛉(いりとんぼ)様式の土佐神社)(「土佐神社」HPより引用)

正面に社殿。本殿の前に幣殿、その前に拝殿。幣殿の左右に翼拝殿。本殿は入母屋造、その他は切妻造り。屋根は?葺き。優美で勇壮、幣殿の静と翼殿の動と、誠に美しい。多くの社殿を見てきたが、この社は、いい。
この社殿の造りを「入蜻蛉(いりとんぼ)」形式と称するようだ。本殿を頭としたトンボ(蜻蛉)が飛び込む形を表すといわれ、元亀元年(1570) 長曾我部元親の凱旋帰陣を象徴する、土佐神社独特なものである。これらの社殿全体が国の重要文化財に指定されている。
御神木・礫石
社殿を囲む社叢、社殿をぐるりと一周しながらそこに建つ巨大な御神木をお参りするのもまた、いい。
御神木を眺めながら社殿を一周していると畳二畳ほどの自然石があり、「礫岩」との案内。「礫石の謂れ 境内東北方にある畳二畳ほどの自然石。「礫石の謂れ」の案内には「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。

高岡郡浦の内は現在の須崎市内の浦。そこに鳴無神社がある、古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。岩を投げたかとうかは別にして、土佐大神が祭神であった頃、高岡郡浦の内となんらか深い関係があったのだろう。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。
禊岩(みそぎいわ)
境内東方の神苑に禊岩(みそぎいわ)と称される岩があるようだ。かつて禊の斎場であった境内西方のしなね川にあったが、境内に移し祀られている、とある。

Wikipediaには、「土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
高知市北東部、南国市へと通じる大坂越えの西麓に鎮座する。『日本書紀』や『土佐国風土記』(逸文)の記述で知られるように古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された高知県を代表する神社である。
代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は戦国大名の長宗我部元親による造営、楼門(神光門)・鼓楼は土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で、いずれも国の重要文化財に指定されている。また祭事としては土佐三大祭の1つとして知られる例祭「志那禰祭(しなねまつり)」が古代から続き、神宝としては鰐口・能面・銅鏡等を伝世している。
祭神は。味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)。土佐神社の祭神は、古くは『日本書紀』に、「土左大神」とする。地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載されるが、この土左大神の祭祀には、在地豪族である三輪氏同族の都佐国造(土佐国造)があたったと考えられている。
その後、710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文(他書に引用された断片文)には「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ」と神名が変わっている。

奈良県御所市に高鴨神社、葛城一言主神社がある、この社の祭神は共に味鋤高彦根神、一言主神。 大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)で賀茂氏が奉斎した神々とされる。
神名が変わった要因は、大和葛城地方の豪族である賀茂氏が土佐に勢力を及ぼし、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏祖先神の神格を加えたことにあると言う。

『古事記』や『日本書記』には、雄略天皇が葛城山で一言主と問答をした、といった記述があるようだ。が、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、大和葛城山で雄略天皇(第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流された、といった記述と変わる、また『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)には、葛城山で「一言主神」が雄略天皇と出会ったとし、一言主は土佐に流されて「土佐高賀茂大社」に祀られた、となっている。
賀茂氏祖先神の神格を加えるべく、、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだとされる。
これらの記述以後土佐神社祭神に関しては、賀茂氏祖先神である一言主説、味鋤高彦根説、一言主・味鋤高彦根同一視説などとなっているようである。
史実として国史に土佐神社の記載が見えるのは『日本書紀』天武天皇4年(675年)条が初見で、「土左大神」から天皇に神刀1口が献上されたという。これはレガリア(首長の政治的権力の象徴品)の献上、すなわち土左大神奉斎氏族の朝廷への服属を意味すると解されている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では土佐国土佐郡に「都佐坐神社 大」と記載され、式内大社に列している。土佐国においては唯一の大社になる。
『百錬抄』元仁元年(1224年)条によると、大風(台風)によって「土佐国一宮」の神殿以下が一宇も残さずに顛倒したという(社伝では嘉暦元年(1326年)[。再建は不明)[1。中世以降に土佐神社は土佐国において一宮の地位にあったとされるが、それはこの記事を初見とする。元親は現在の本殿・幣殿・拝殿を、忠義(土佐藩第2代藩主)は現在の鼓楼・楼門を造営。
戦国時代には、永正6年(1509年)頃(諸説あり)の本山氏による岡豊城(長宗我部氏居城)侵攻で一宮村が焼かれ、土佐神社社殿も延焼により本殿以外ほとんどを焼失したという。これを受けて長宗我部元親は永禄10年(1567年)から社殿再建に着手し、元亀2年(1571年)に現在の本殿・幣殿・拝殿(いずれも国の重要文化財)が完成した。その再建工事の諸役には、高知平野の家臣が上下問わず課されている。また『長宗我部地検帳』によると、この頃の社領は一宮村を始めとして薊野・杓田・布師田・鴨部・石立・万々・朝倉・大高坂の各村に分布した。
江戸時代に土佐藩を治めた山内氏も土佐神社を崇敬し、第2代藩主山内忠義によって寛永8年(1631年)に楼門が、慶安2年(1649年)に鼓楼が造営されて現在に残っている(いずれも国の重要文化財)。

鼓楼
鼓楼 (重要文化財)-。拝殿南東に立つ。江戸時代前期の慶安2年(1649年)、土佐藩第2代藩主山内忠義による造営。二重で、屋根は入母屋造で柿葺。初層は「袴腰」と呼ばれる形式で、黒色の板を張り、中央に出入り口を設ける。上層は桁行三間・梁間二間で、彫刻・柱が彩色で彩られており、内部には時を知らせるための太鼓を吊るす。国の重要文化財に指定されている(Wikipedia)。


楼門(重要文化財)
参道を南に下り、県道384号との合流点に建つ。
楼門 - 境内入り口に立つ。「神光門」とも称され、江戸時代前期の寛永8年(1631年)、鼓楼同様に山内忠義による造営である。桁行三間、梁間二間の楼門(2階建て門で、初層・上層間に軒の出を造らないものをいう)で、屋根は入母屋造で銅板葺。初層は三間一戸(柱間三間で、中央の一間を通路とする意)で、左右間に随身を祀る。上層は初層に比して建ちが低く、勾欄を付した廻縁がめぐらされている。全体的に素木で、ほとんど装飾を付さない和様建築になる。国の重要文化財に指定されている。

本日のメモはこれでお終い。次回は第三十一番札所竹林寺へと向かう。

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