伊予 別子銅山 仲持ち道散歩 そのⅠ;別子銅山の仲持ち道を東平まで登り、上部鉄道跡を経て魔戸の滝へ

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月例帰省のある日、弟から仲持ち道を歩こうとのお誘い。仲持ち道とは四国山中の別子銅山において採鉱され精錬された粗銅を背負い、銅吹所(精錬所)のある大阪に送るべく新居浜の湊まで運んだ道。江戸の頃から、牛車道(明治13年(1880))や索道施設が整う明治の中頃(明治24年)まで続いた、と言う。前々から仲持ちさんの歩いた道を辿りたい、と言ってたことを受けての、有り難いお誘いである。

ルートは弟にお任せ。そのルートは、仲持ち道を組み込むも、それ以外に日本最初の山岳鉱山鉄道跡、巨大な魔戸の滝を辿り、仕上げは犬返しの岩場とバリエーション豊かなもの。山中を下る仲持ち道が国領川の谷筋に下りきった遠登志(おとし)からスタートし、明治の頃、山中に3000人とも5000人とも言う人々が住んだ一大鉱山集落のあった東平まで。これが仲持ち道パート。 次いで、東平から少し標高を上げ、四国山中の標高1000m辺りの山腹を走った別子銅山・上部鉄道跡を6キロほど進む。これが日本最初の山岳高山鉄道である別子銅山・上部鉄道パート。このルートはいつだったか、端出場発電所送水路散歩の復路で歩いている。
上部鉄道の終点、銅山の粗銅、後には鉱石を端出場に下ろした索道基地があった石ヶ山丈からは、魔戸の滝へ下る尾根筋への「繋ぎ道」を辿り、尾根を魔戸の滝に下る。これが魔戸の滝パート。 魔戸の滝からも、おとなしく谷筋を下ることなく、一度尾根(立川尾根)に登り返し、犬も怖がり引き返した、という「犬返し」を経て立川集落の龍河神社に下る。これが「犬返し」パート。

四国の山を歩き倒している弟ならではのルートではあるが、弟のメーンテーマは石ヶ山丈から魔戸の滝へ下る尾根筋への「繋ぎ道」を確認することのようで、その他は私にために見繕ってくれたもの。弟のメーンテーマである繋ぎの部分600mほどは藪が激しく、確たるルートが身体に刷り込まれていないようで、これを機会に確定したい、との思いのようであった。


本日のルート:
Ⅰ仲持ち道パート;遠登志(おとし)=落トシ ~東平・第三広場  約2時間10分
○車デポ>遠登志橋>遠登志からの登山道と合流>坑水路会所跡>坑水路会所跡>索道施設跡>坑水路会所跡>軽い土砂崩れ箇所>支尾根に索道鉄塔基部跡>>鉄管>切り通しにお地蔵さん>中の橋(ペルトン橋)>東平遠望>滝が見える>;辷坂地区(すべり坂)社宅跡地>第三広場

Ⅱ上部鉄道パート;第三広場>一本松停車場跡>上部鉄道>石ヶ山丈(いしがさんじょう) 約1時間30分
○第三広場>一本松社宅跡>一本松停車場跡>橋台に木橋>第二岩井谷>第一岩井谷>紫石>東平が見える>切り通し>地獄谷>索道施設>石ヶ山丈停車場跡

Ⅲ 魔戸の滝パートへの繋ぎ道探索;石ヶ山丈分岐~魔戸の滝・造林小屋分岐~魔戸の滝~滝登山口 約1時間
○石ヶ山丈分岐>沢に橋台>道が切れる>下段に林道が見える>下段林道を石ヶ山丈方面へと戻る>石ヶ山丈分岐直下に戻る>魔戸の滝登山道合流点へ向かう>魔戸の滝登山道合流点>魔戸の滝上部分岐標識

Ⅳ 魔戸の滝パート;魔戸の滝上部分岐~西種子川・魔戸の滝登山口 約 40分
○魔戸の滝上部分岐標識>大岩展望所>魔戸の滝に急坂を下る>魔戸の滝に到着>魔戸の滝登山口

Ⅴ 犬返しパート;魔戸の滝登山口~鉄塔尾根~犬返し~龍河神社分岐~龍河神社 約2時間
○魔戸の滝登山口>種子川林道を下る>林道石ヶ山丈線分岐>四国電力鉄塔保線路への分岐>種子川林道崩壊地の上部>犬返し>「種子川林道」の分岐標識>龍河神社分岐>保線路分岐>林道へ着く>龍河神社のデポ地点に

Ⅰ;仲持ち道パート;遠登志(おとし)=落トシ ~東平・第三広場  約2時間10分


車デポ;7時15分(標高234m)
登山地点と下山地点にデポするため車2台で実家を出発。国領川の谷筋を、デポ地点の立川集落にある龍河神社に向かう。一台を下山地である立川の龍河(たつかわ)神社下にデポ。先に進み、もう一台を出発地点である鹿森ダム上の遠登志(おとし)渓谷遊歩道入口に停める。

仲持ち像
遠登志(おとし)渓谷遊歩道入口に「仲持ち像」が建つ。仲持ち道の山間部のはじまりである。案内には「「仲持ち」とは、別子銅山の山中で製錬された「あらどう」を運び出し、また、帰りには山中での生活に欠かすことができない「日用品」や「食料」などを、男子でおよそ45キロ、女子でおよそ30キロを背に一歩一歩山道を踏みしめ運搬していた人たちです」とある。
仲持ち道
元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された"やけ"(銅鉱床の露頭)からはじまった別子銅山であるが、鉱石は江戸から明治にかけては「仲持さん」と呼ばれる人たちの背によって運ばれた。その道は時期によってふたつに分かれる。
第一次泉屋道を「中持ちさん」が土居の天満へと運ぶ
第一期、住友の屋号「泉屋」をとった「第一次泉屋道(元禄4年[1691]から元禄15年(1702)」は、銅山川に沿って保土野(旧別子山村)を経て小箱峠、出合峠を越え浦山(四国中央市土居)までの23キロを仲道さんが運ぶ。浦山からは牛馬によって12キロ、浦山川に沿って土居(現四国中央市)に下り、土居海岸の天満浦まで進む。天満浦からは船で大阪にある住友の銅吹所(精錬所)へと運んでいた。
このルートは峠越え36キロにおよぶ長丁場であった。銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回したのは、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。

第二次泉屋道を「中持ちさん」が新居浜の口屋へと運ぶ
第二期の搬出ルートは、銅山峰を越え角石原に出て、馬の背を経て石ヶ山丈へ。そこから国領川谷筋の立川に下り、角野、泉川を経て、新居浜市内西町の口屋へと向かうもの。
第二次泉屋道(元禄15年(1702)から明治13年(1880)まで)と呼ばれるこの道は、別子から立川までの12キロを中持ちさん、そこから新居浜浦までの6キロは牛馬で運ばれた。距離は16キロに短縮されることになった。住友は当初よりこのルートを望み、銅山峰を越えた北嶺の立川銅山を領する西条藩と折衝、また住友より幕閣への懇願の効により実現したものである。
なお、第二次泉屋道に関しては、元禄13年(1700)、西条藩は、新道設置を許可し、銅山峰から雲ヶ原を右に折れ、上兜の横手から西赤石に出て、種子川山を通過して国領川に下り、国領川の東岸に沿って新須賀浦に下りたとするとか、元禄15年(1702)の銅山越えのルートは、別子-雲ケ原-石ケ山丈-立川山村渡瀬を経て新居浜浦に出たもので、銅山越-角石原-馬の背―東平―立川を経て新居浜に出るルートは、寛延2年(1749)に立川銅山が別子銅山に併合された移行との記述もある(「えひめの記憶」)。

遠登志橋;7時45分(標高228m)
遊歩道を進み小女郎川に架かる遠登志橋を渡る。遠登志は、元々「落トシと呼ばれた。川の水が滝となって落ち込んでいた地形を現したもの。遠登志橋の近くに、地名由来の滝があるとのことだが、どこだろう?
現在は鹿森ダムのダム湖に埋もれその面影はないが、誠に千仞の谷の趣きのあった遠登志渓谷の姿が子供のころの記憶として残る。
遠登志橋
遠登志橋(落し橋)は、明治38年(1905)に架設された鉄製アーチ橋(長さ48.25m)。もともとは坑水を通すための水路を設けると同時に人の往来や物資を運搬するために架設されたもの。ドイツ人技師の設計によると言う。
平成5年、アーチ部分を補修・保存し、更に、ワイヤーロープ吊り橋(長さ50m・幅2m)を架け加重に絶えうるように補強された。平成17年(2005)には、明治38年(1905)に架設のアーチ橋が、登録有形文化財に指定されている。
鹿森ダム
新居浜の工業用水、灌漑用水などを供給する目的で昭和37年(1962)4月に完成。高さ58m、長さ108m、総貯水量約160万トンの県営ダム。
小女郎川
昔、この谷に夕方になると美しい娘に化けるため、小女郎狸と呼ばれる狸がいた、という伝説が名前の由来だろうか。この小女郎狸、その神通力故に一宮の神主に見込まれ社の眷属にもなった、とのことだが、悪戯が過ぎ。。。、と言った話が残る。

遠登志からの登山道と合流;7時53分(標高291m)
橋を渡ると荒れた遊歩道の石段を上がる。ほどなく県道脇からの登山道と合流する。そこから先も急な上りが続く。
この仲道道は、仲持道の機能が無くなった後も、「東平街道」とも呼ばれ、最盛時4000名もの別子銅山関係者が住んだとも言われる嶺北の鉱山集落、最近ではその遺構を以て「東洋のマチュピチュ」などとPRしている東平(とおなる)の鉱山集落の人々の生活道路としても機能していた。
昭和43年(1968)の東平事業所撤退、昭和48年(1973)別子銅山の閉山というから、40数年前までは山と市内を繋ぐ唯一の道として使われていたわけである。

坑水路会所跡;8時20分(標高453m)
仲持ち道から左に分岐する送電線鉄塔巡視路の標識を見遣りながら、石垣や石段などのある道を進むと、道脇に煉瓦造りの水路施設がある。これって、端出場発電所水路散歩の時にメモした坑水路跡ではないだろうか。
坑水路のことを知ったのは先回、端出場発電所水路跡を辿ったときのこと。東平の第三通洞脇に立派な煉瓦組みの水路施設があり、何だろうとチェック。その煉瓦の施設が坑水路に関係するものかどうか定かではないが、ともあれ、坑水路とは、明治の頃、環境汚染対策として、採鉱に伴う廃水を山中の東平から新居浜市内まで流すべく整備された廃水路である。
木樋そして、流路変更点など重要な箇所は煉瓦造り(坑水路会所)とした坑水路のルートは、東平からの山中は東平とから山裾を結ぶ道に沿って進み、山を下った水路は、端出場から先、下部(鉱山)鉄道の線路に沿って進んだ、とのことであり、いつかその水路跡の一端にでも触れてみたいと思っていたのだが、思いも拠らずこの地で出合った。
坑水路会所
坑水路とは住友家二代目総理事である伊庭貞剛翁が明治38年(1905)、坑内排水を国領川水系に流れ込むのを防ぐべく、東平の第三通洞の出口から、新居浜市内惣開の海岸まで通した廃水路。鉱石内の銅や鉄などが水に溶け出し強い酸性の水となるわけで、その環境汚染を防止するため16キロにも及ぶ坑水路を造った、という。別子銅山の煙害被害など公害対策に尽力した翁ならではの対策ではあろう。
第三通洞からは木樋で通し、途中流路変更箇所には坑水路会所(流路変更の継目の施設)を設け、東平から端出場までは山道に沿って、端出場から惣開までは下部鉄道沿いに進んだ。端出場に第四通洞が通った大正12年(1923)以降は、坑内排水は第四通洞にまとめられ、 そこから坑水路が下ったとのことである。
実家の直ぐ裏手の山沿いに下部鉄道が通っており、その線路跡の脇に今も坑水路が続く。実家の裏手の下部鉄道脇には「山根収銅所」、通称「沈殿所」があるが、そこでも坑内廃水より銅の成分を抜く作業が現在も行われている。

余談ではあるが、実家のすぐ上を走る線路脇の水路が坑水路と知ったのは、先回の散歩のメモをした時である。子供の頃は、水路は現在のようにコンクリートで完全に蓋をされてもおらす、諸処に開いていた。悪ガキどもであった我ら三兄弟は、蓋の切れている箇所から坑水路に入り込み、流れに身を任せて遊んでいた記憶が蘇る。汚染水の水も相当飲んだことではあろうかと思う。

坑水路会所跡;8時20分(標高470m)
石垣の組まれた道を経て先に進むと、道の山際に水路跡があり、その先の角には誠に立派な坑水路会所跡が残る。先ほどの水路施設が坑水路会所跡かどうかは定かではないが、この重厚な煉瓦造りの遺構は坑水路会所跡に間違いないだろう。
急斜面を流れ落ちる箇所も煉瓦造り、その下の坑水路会所も大きく堅牢な造りになっている。会所はこの内部に水を貯め、変更した流路方向へと水を吐き出す。その水路が会所手前で見た水路跡であろうか(会所から谷筋へと水路は無かったように思うのだが)。因みに、坑水路のほとんどは木樋を使っていたとのことではある。

索道施設跡;8時26分(標高482m)
坑水路会所の直ぐ先、左手下に煉瓦の廃墟が見える。東平から端出場までの索道を方向転換する為の中継所とのことである。
別子銅山の索道施設
日本最初の山岳鉱山鉄道である上部鉄道の終点、石ヶ山丈駅のすぐ傍に深い溝をもった遺構がある。索道施設跡である。上部鉄道により角石原より運ばれた粗銅は石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した「下部鉄道」により市内へと運ばれた。 石ヶ山丈の索道基地は明治24年(1891)に完成している。
上部鉄道の建設が開始されたのは翌明治25年(1892)であるから、上部鉄道開通までは明治13年(1880)に開通した第一通洞の銅山峰北嶺・角石原から石ヶ山丈までは牛車道で粗銅が運ばれ、ここから延長1,585メートルの索道で端出場まで下ろされたのであろう。
なお、明治24年(1891)に完成した索道は「複式高架索道」とのこと。明治30年(1897)には単式高架索道となっている。単式(高架)索道は、端出場火力発電所の電力を使った「電力」で動く索道とのこと。ということは、「複式」とは「上りと下り」の索道の動力モーメントで動かしたものではあろう。 当初、角石原から端出場に下ろした索道であるが、明治35年(1902)に銅山峰を掘り抜き嶺南の採鉱地と東平を繋いだ「第三通洞」の完成により、明治38年(1905)からは東平に索道基地がつくられ、下部鉄道の黒石原駅(端出場のひとつ市内よりの駅)に下ろされた。
東平索道基地
索道とは、採鉱された鉱石を搬器(バケット)と呼ばれる専用のカゴに入れ、山間の空中に張り巡らされたラインを伝って運搬するロープウェイのような施設です。こうした索道の拠点となっていた索道基地では、索道の操作や点検を行いました。東平索道基地では貯鉱庫から運び出された鉱石を搬器にのせ麓の端出場へ運んだり、逆に端出場から食料や日用品、坑内で使用される木材が引き上げられるなど、昭和43年の閉坑までの間、東平における物資輸送に欠かせない施設として広く利用されていました。
索道の長さは全長3,575メートル、搬器のスピードは時速約2.5メートル、一日の鉱石の搬出量は900トンもありました。索道にはモーターなどの動力がついておらず、搬器内の鉱石の重みを利用して動かしていました。点検の際には給油士と呼ばれる作業員が搬器の上に乗って索道のロープを支える鉄塔へ赴き、高いところでは地上30メートルにもなる鉄塔の上で滑車の給油などの点検作業を行っていました。現在でも、レンガ造りの索道基地の跡地を見学することができます(「マイントピア別子公式HP」より)

坑水路会所跡;8時29分(標高496m)
索道施設を見遣り、道を進むと道脇の木の根元に埋もれたような煉瓦造りの水路施設らしきものがある。坑水路会所跡のように思えるのだが、先ほどの堅牢な造りの坑水路会所跡との比高差は10m余り。先ほどの坑水路会所跡には上から急な斜面を水路が下っていた。その斜面を下る水路とどこかで繋がっているのだろうか。その内に確認に歩いてみようと思う。




軽い土砂崩れ箇所;8時40分(標高567m)
道を進むと沢の土砂が道を覆う。沢部分は石組みに補強され、水抜き口あるのだが、そのうちに崩壊しても不思議ではない沢の相ではあった。で、その沢を越え、西に突き出た支尾根の手前、土砂崩れ予防のために組まれたのであろう石垣の手前にも煉瓦造りの水路施設がある。会所跡なのか、石組みの水抜き施設なのか不明ではあるが、なんとなく気になる。これも、もう一度訪れ、じっくり見てみようかと思う。



支尾根に索道鉄塔基部跡;8時44分(標高554m)
「左 登山口 右 銅山峰」の標識の立つ箇所から中持ち道を離れ、小女郎川の谷筋にグンと突き出した細尾根に向かって弟が進む。何事があるわけでもなかろう、とは思いながら後を追うと。索道の支持鉄塔基部の様なものが2基残っていた。とり敢えず、行ってはみるものである。









鉄管;8時48分(標高572m)
仲持ち道に戻り、先に進むと道路を細い鉄管が横切る。何なんだろう?道を少し進んだところに数段の石垣があった。辺りは少し平坦になっており、防災のため、と言うより人が住んでいたような風情である。それに関連した排水鉄管だろうか?気にはなるのだが、チェックの手掛かりは、ない。





切り通しにお地蔵さん;8時54分(標高605m)
しばらく切り通しの箇所には、岩壁にお地蔵さんが祀られていた。左手は深い沢に滝が落ち込んでいる。小女郎川の沢遡上はどうおyhう?などと弟に尋ねたことがあるのだが、冗談でしょう、とのこと。ハーケンを打ち、10m近い懸垂下降を繰り返す、上級者でも難儀する沢のようだ。この沢相を見ただけで結構納得。






中の橋(ペルトン橋);9時3分(標高648m)
その先で沢に架かる鉄橋を渡る。鉄橋を渡らず小女郎川の左岸そのまま進むと東平へ出る。この橋は「中の橋」と呼ぶ。メモの段階でわかったのだが、この橋は別名「ペルトン橋」と呼ばれ、橋を渡った北東にペルトン水車施設跡の石垣が残っていたようである。
このペルトン水車の事は先回の端出場発電所水路散歩の折りはじめて知り、その跡地にいつか訪ねたいと思っていたのだが、知らず通り過ぎていた。場所はほぼ把握したので、再訪「MUST」である。
東平ペルトン水車
Wikipediaによれば「ペルトン水車は、水流の衝撃を利用した衝動水車、タービンの一種である」とある。通常は水の落差を利用しタービンを回し発電するわけであるが、明治28年(1895)に設置されたこの「東平ペルトン水車」の主たる目的は、圧縮空気をつくり、その圧縮空気を活用し削岩機を動かすこと。その削岩機は第三通洞の開削に使った。削岩機を使うことにより、それまで手掘りであった隧道開削のスピードが6倍になった、と言う。別子採鉱課で石油発動機によって電灯が灯されたのが明治34年(1901)のこと。 東平ペルトン水車は電気が別子銅山に最初の電燈が灯る6年も前に稼働したことになる。
取水口は第三通洞近く、「柳谷川・寛永谷」の合流点辺りで取水し、木樋で等高線750mに沿って、おおよそ500mの距離を1mから2m程度下る緩やかな、ほとんど平坦地といってもいいほどの横水路を進み、住友共同電力の「高藪西線」48 番鉄塔辺り(橋の東、750m等高線が西に突き出た尾根尖端)にあった「会所(水槽)」から鉄管で100m下の「東平ペルトン水車」に落としていた。

ところで、この「東平ペルトン水車」の導水路は、端出場発電所導水路が貫通するまでの間、端出場発電所の発電運転のテスト用の水としても使われたようである。明治27年(1894)から35年(1902)にかけて「東平ペルトン水車」の圧縮空気を使った削岩機は第三通洞開削に使われたわけだが、銅山峰南嶺の日浦からの通洞が繋がり、水が流れはじめたのは明治44年(1911)の2月のこと。端出場発電所の試験運転がはじまったのは明治43年(1910)の12月というから、3ヶ月ほど「東平ペルトン水車」導水路の水を端出場発電所まで延ばし試験運転に使ったのだろうか?それとも端出場発電所が正式稼働するのが明治45年(1912)というから、もう少し長い期間この「東平ペルトン水車」の導水路の水をつかったのだろうか?詳しいことはわからない。
それはともあれ、実際、第三通洞から少し上った柳谷川には堰が築かれ、端出場発電所(東平ペルトン水車系)への取水口が残るとのことである。

東平遠望;9時9分(標高673m)
ペルトン橋を渡ると深く切れ込んでいた沢が道傍に近づく。沢を見遣りながら進むとガレ場、そして竹藪なども現れる。右手には、沢の向こうに東平の貯蔵庫や石垣が眼に入る。
東平
元々は銅山峰の南嶺において採掘・精錬を行っていた別子銅山であるが、明治32年(1899)8月、台風による山津波で大被害を被ったことを契機に別子村での精錬を中止し精錬設備を新居浜市内の惣開にまとめることになる。
明治35年(1902)には、銅山峰の嶺北の東平より開削し東延斜坑と結ばれた「第三通洞(標高765m)」、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺南の日浦の間、3880mが直結し、嶺南の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれることになる。そして、東平からは、明治38年(1905)に架設された索道によって、明治26年(1893)開通の下部鉄道の黒石駅(端出場のひとつ市内よりの駅;現在草むしたプラットフォームだけが残る)に下ろし、そこから惣開へと送られた。
この鉱石搬出ルートの変化にともない東平の重要性が高まり、大正5年(1916)には、標高750mほどの東平に東延から採鉱本部が移され、採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場などが並ぶ山麓の町となった。その人口は4000とも5,000人とも言われる。 別子銅山は昭和48年(1973)に閉山。東平はその産業遺構を以て「東洋のマチュピチ」として観光資源として活用されている。

滝が見える;9時20分(標高712m)
小女郎川に注ぐ沢に架かる木橋を渡り先に進むと、木々の間から対岸に結構大きな滝が見える。場所は喜三谷を埋め立てたのであろう平坦地の先、車道が終わり、道が大きく回りこみ小女郎川と山地に挟まれた渓流散策路となる地点の真下辺り。谷まで比高差が100mほどもあるため、幾度となくその散策路を歩いたが、滝に気付くことはなかった。




辷坂地区(すべり坂)社宅跡地;9時23分(標高748m)
先に進むと煉瓦造りの水路施設らしきものがある。そしてその先には幾段にも組まれた石垣が残る。東平には東平(上・下)、辷坂(すべりざか)、喜三谷(きぞうだに)、第三の各集落(社宅)、西側の呉木(くれぎ)(上・中・下)、尾端(おばな)の集落(社宅)があったとのことだが、場所からすれば、この辺りは辷坂集落跡ではあろう。辷坂の住宅地には、かつては郵便局や浴場・旅館などもあった、とのことである。で。先ほどの煉瓦造りの水路施設、それが坑水路会所なのか、社宅の水路施設なのか、どちらだろう。
東平の銅山集落
「えひめの記憶」によれば、「昭和三四年における鉱山集落は総戸数七四四戸であった。このうち東平地区の四三〇戸は昭和四三年に(別子銅山閉山四三年三月)、端出場地区の打除、鹿森は四五年にすべて撤去され、跡地には住友林業によってヒノキの植林が施されている。
明治三五年(一九〇二)に第三通洞が完成し、東平に選鉱場が設置され、さらに大正五年(一九一六)に旧別子銅山が廃止されて、採鉱本部が東平に移されると(昭和五年まで、後端出場へ移転)、銅山峰嶺北斜面に多くの鉱山集落が形成されるようになった。それらの中には、第三坑道入口付近に建設された一本松一八五戸、柳谷六七戸、唐谷一五戸(元別子銅山記念館加重館長)のように、昭和四年ころに撤去されたものもあり、鉱山集落の戸数にも建設当時とはかなりの変動があるが、いずれも明治三八年から四四年ころに多くの社宅が建設されていった。それらは、山の斜面に石垣を積んで階段状に建てられた長屋形式の社宅群であり、各戸の平均建坪は五坪から一四坪、ほとんどが二間から三間、タタミ数六枚から一三・五枚程度の住居であった」とある。

第三広場;9時30分(標高750m)
石垣の組まれた箇所を過ぎると、踏み跡がはっきりしなくなる。直ぐ先に第三広場が見えており、力ずくで直進し広場に這い上がる。広場の左手、石組みの段上には第三変電所跡の建物が残る。「第三」は地名であり、第一、第二変電所があるわけではない。
第三変電所
第三広場の採鉱本部跡のあった埋め立て広場の東、二段の石垣上に煉瓦造りの建物が見える。第三変電所である。案内によれば、「第三変電所は、第三通洞がある集落に明治37年(1904)9月に建設されました。そして、東平坑閉坑になる少し前の昭和40年(1965)まで、61年間使用されていました。
第三というのは三番目というのではなく、第三という地名からついたものです。 赤煉瓦造りの建物は、現在も外観をとどめながら残されています。 また、東平で当時のままの建物が残されているのは、この第三変電所と採鉱本部(現在はマイン工房として利用されています)だけですが、内部までそのままで残されているのはここだけです(後略)」とある。

この第三変電所は「落シ水力発電所」から送電されてきた電力を変圧し、第三通洞内を走行する坑内電車の動力源や、社宅の電気としても使用されていた。 建物内部は宿直室や炊事場はそのままの姿が残っている。
「落シ水力発電所」は明治37年(1904)完成の別子銅山で初の水力発電所。90kwの発電能力があった。端出場水力発電所ができるまでは、東平への送電の要であった。場所は鹿森ダム脇の遠登志橋近くの山の中腹にあった、と言う。

ここで、第一のパートである「仲持ち道」散歩は終了。途中思いもかけず、坑水路跡に出合ったり、知らずペルトン水車遺構前を通り過ぎたりと、常の如く、成り行き任かせ故のイベントも多くあった。この道なら迷うこともなさそうである。幾つかの疑問点をクリアにすべく、再び歩き直してみようと思う。

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