神田川散歩 そのⅠ;源流点から環八・佃橋まで

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我が家のある杉並区和泉の小高い丘の下を、丘に沿って巻くように進む川がある。神田川である。春の桜の頃に限らず、折に触れ川沿いの遊歩道を歩いている。玉川上水散歩と同じく、あまりに幾度も歩いており、あまりに身近であるために、未だ散歩のメモをすることがなかったのだが、先日、家の近くを環七の先まで歩いた時、釜寺などと言うお寺さまに出合った。また、そのとき家の近くに弁天橋があり、それでは弁天さま、弁天池って、どこにあるのだろうなどと、辺りを彷徨った。あらためて思うに、神田川流域のあれこれについては、知っているようで、あまり知らなかったようである。それではと、神田川流域を、気分も新たに歩き直し、水源から隅田川に注ぐまでメモをまとめることにした。
 
神田川は吉祥寺の井の頭公園の池をその源とし台東区、中央区、墨田区の境となる両国橋辺りで隅田川に注ぐ。江戸の頃は、上水路として大江戸の人々に潤いをもたらした流路ではあるが、もとより現在はその機能はあるはずもなく、洪水対策の護岸工事の施された一級河川として、武蔵野台地に開析された谷筋を、1キロ1.9mといった緩やかな勾配で下ってゆく。流路を見るに、杉並区を南東に下り、杉並区永福町でその方向を北東に向けて大きく切り返し、中野区富士見町で善福寺川を合わせる。河川流域としては神田川より広い善福寺川の水を集めた神田川は、更に新宿区に向かって北東に進み、新宿区落合で妙正寺川の水を合わせ、目白台の崖線に沿って東に進み、文京区関口の江戸川橋交差点へと向かう。関口はかつて上水として使われた神田川・神田上水が満潮時に遡上する海水を防ぐため造られた大洗堰のあったところである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

神田川が上水として使われていた江戸の頃は、流路はここから二手に分かれ、一手は上水路として小日向台地の崖下に沿って水戸藩江戸屋敷のあった現在の小石川後楽園へと向かい、そこから江戸市中、とくに神田・日本橋辺りへと上水路が整備されていった。もう一方の流路は、上水余水として現在の神田川の流路を南東へ下り、大曲交差点で流路を南に変えて千代田区飯田橋に進む。江戸城外濠に続く飯田橋で流路を直角に変え、水道橋、そしてお茶の水の切り通しの谷を越え、神田を経て隅田川に注ぐ。
隅田川へと向かう神田川の流れは、途中、水道橋の辺りから南に水路を分ける。現在、日本橋川と呼ばれるこの川筋が往昔、平川とも古川とも呼ばれた神田川の旧路である。現在は神田橋、呉服橋、江戸橋などを経て永代橋あたりで隅田川に注ぐが、この流路も人工的に開削された水路であり、更に古くは浅瀬の入り江であった日比谷へと注いでいた、と言う。因みに、日比谷の「ヒビ」とは、海苔を付着させて生育させるもの。古くは竹や木を浅瀬の海中に差し込んで使っていた、とか。
古川とも平川とも呼ばれ、飯田橋辺りから南へと流れていた流路を、東へとその流れを変え、お茶の水から神田へと流した理由は、洪水から江戸城を守るため、とのこと。本郷台地を切り崩し、お茶の水に切り通し・人工の谷をつくり、流路を神田へと変へる普請が仙台・伊達藩の掛かりで行われた。
江戸の上水として使われた神田上水は、武蔵野台地の尾根道を人工的に開削した玉川上水とは異なり、井の頭から流れ出す自然の流路に途中の支流を合わせ整備したもの、と言う。杉並区立郷土博物館で手に入れた『杉並の川と橋』の湧水マップを見るに、神田川の杉並区域にはそれぞれ十数カ所の遊水池と宙水地が記載されている。井の頭池を開析谷の谷頭とし流れ出した流路に、開析谷にそって点在する幾多の湧水地や宙水地か流れ出す支流を集めた自然の流れを、上水路として整備していったのではあろう。
通常武蔵野台地に降った雨はローム層とその下の砂礫層に浸透し、その下にある堅い粘土層に遮られ地下水の帯水層をつくり、その帯水層が崖線の谷頭などで地表にあらわれる。これが湧水池を形成するのだが、時として地下水がローム層と礫層の間にできた粘土層に帯水することがある。これを本格的な地下帯水層と区別して、ちょっと「宙ぶらりん」な帯水層ということで、「宙水」と呼ぶようだ。
今回の散歩は、完全護岸工事が施された神田川の谷筋を進みながらも、地形図の等高線の変化などを見比べ往昔の湧水池・宙水地などに寄り道をしながら、かつて自然流路であった神田川の痕跡を辿りつつ、水源より隅田川までの散歩を始めることとする。

本日のルート;井の頭公園・井の頭池>水門橋>井の頭線の高架を潜る>夕やけ橋>井の頭付近の支流らしき水路>井の頭線・三鷹台駅>三鷹台付近の支流らしき水路>久我山稲荷神社>井の頭線・久我山駅>清水橋付近の崖面上>井の頭線・富士見ヶ丘駅>高井戸駅付近・左岸の水路跡>浴風会>環八・佃橋

井の頭公園・井の頭池
神田川は井の頭池をその主水源とする。その昔は、武蔵野台地を伏流してきた地下水が湧水となり池に水を湛えていたが、現在は周辺のマンション建設などで、その地下水路が断たれ、井戸を掘りポンプアップによる地下水汲み上げを行っている、とのことである。池の西端の崖下に「お茶の水」と呼ばれる水の湧き出る石組みの一隅がある。家康がこの地を訪れたとき、ここの湧水でお茶を点てたのがその名の由来とのことであるが、この湧き出る水も、井戸を掘ったポンプアップの水である。
七井の池とも、七井の湖とも称され、7カ所からの豊かな湧水点を有し、現在、池の中央に架かる七井橋にのみ往昔の湧水の名残を残す井の頭池の湧水であるが、その標高はおおよそ50mと言う。この井の頭池に限らず、善福寺川の水源ともなる善福寺池、妙正寺川の源流点ともなる妙正寺池、石神井川の主水源ともなる三宝寺池、そして池ではないが清冽な水を湛える落合川の水源となる南沢湧水群(東久留米市)など、武蔵野台地の標高50mの地点には湧水点が多い。武蔵野台地を形成している洪積層中のローム層や砂礫を浸透してきた地下水は、堅い粘土層にぶつかると帯水層をつくり、その帯水層が露出したところが標高50mの辺りであり、そこに湧水池・湧水点を形づくる、ということであろう。
杉並区立郷土博物館で手に入れた『杉並の川と橋』によると、往昔の井の頭池からの流出量は1日当たり2万トンから3万トンとあったのこと。現在、深井戸から井の頭池に汲み上げる地下水は3千トンから4千トン、その1日の流出量は千トン、と言うから、往昔のその豊かな湧水量が偲ばれる。
井の頭池の崖の上には御殿山遺跡が残る。御殿山の由来は三代将軍・家光の鷹狩りの際の休憩所から、とのことであるが、それはともあれ、縄文時代の中期から後期の竪穴住居、敷石住居、土器や石器の発掘されたこの遺跡も、井の頭池の豊かな湧水があってこその集落ではあったのだろう。

水門橋

井の頭池の最東端に水門橋が架かる。このコンクリート造りの小橋が神田川の始点であり、ここから全長24.6キロの神田川がはじまる。始点付近の水路には多数の岩が配されてはいるが、水路の周囲、特に南に続く公園に趣を添えるためのものではあろう。家族連れの姿を見やりながら進み「よしきり橋」を越えると井の頭線の高架を潜ることになる。

井の頭線
井の頭線は渋谷と吉祥寺の間、12.8キロを結ぶ。線路の軌道幅は1067mmと標準狭軌サイズで京王本線の1372mmと異なる。これは、元々資本の異なるふたつの会社、旧京王電気軌道(京王本線の系統)と旧帝都電鉄(井の頭線の系統)が京王電鉄の前身、京王帝都電鉄として発足したためである。
京王本線の軌道が1372mmとなっているのは、旧京王電気軌道時代、当時の東京市の市電と繋ぐためにその軌道幅に合わせた、とのことであるが、それはそれとして、ここでは井の頭線の系統である旧帝都電鉄の変遷をまとめておく。
旧帝都電鉄は1926年(大正15年;昭和元年)申請し、翌年免許が交付された東京山手電鉄にまでその歴史を遡る。当時、第二山手線構想のもと、現在の山手線の外周を繋ぐ路線建設の計画が持ち上がった。大井町から自由が丘、梅ヶ丘、明大前を経て、中野、江古田、下板橋、田端、北千住、砂町から須崎を結ぶこの構想は、不況の影響などで計画は停滞し、結局、東京山手電鉄は小田急鉄道(小田急電鉄)の傘下に入る。また、1928年(昭和3年)には、渋谷・吉祥寺間の免許をもつ城西電気鉄道(後の、渋谷電気鉄道)も小田急鉄道の傘下に入る。
しかしながら、その小田急鉄道も第二山手線構想を実現する余力もなく、結局は、収益性の高い渋谷・吉祥寺間の路線建設を優先することとし、東京山手鉄道を改称した東京郊外鉄道が渋谷鉄道を合併。社名を帝都電鉄と改称し、渋谷・吉祥寺間を順次開設していった。井の頭線の軌道が京王本線と異なり、小田急の軌道と同じくするのはこういった経緯が背景にある。帝都電鉄は昭和8年(1933)には渋谷から井の頭公園駅まで開通。翌9年(1934)には吉祥寺まで繋がった。井の頭公園駅と吉祥寺駅までの開通に1年を有した要因は水道道路(現在の井の頭道路)を高架で越える必要があったため、とのこと。
以前、玉川上水散歩でメモしたが、井の頭線の明大前駅の手前に跨線橋がある。上下2つの複線にもかかわらず、橋桁は4路線分となっている。これは第二山手線構想の準備として用意した遺構、とのこと。因みに、境浄水場から和田堀給水所へと導水管を埋めた水道道路を井の頭街道と命名したのは首相の近衛文麿。荻窪の私邸から官邸へのルートとして水道道路を利用していたため、と言う。井の頭通りと甲州街道が合流する手前に石碑が建つ。

夕やけ橋

井の頭線を越えると井の頭公園駅。上でメモしたように、昭和8年(1933)、帝都電鉄として開業。その帝都電鉄は昭和15年(1940)、小田急鉄道と合併し同社の帝都線となるも、昭和17年(1942)には、小田急電鉄が東京急行電鉄(大東急、とも)に併合される。その東京急行電鉄から分離し、京王帝都電鉄となったのは昭和23年(1948)のことである。京王井の頭線が誕生するまでには、戦時体制下とは言いながら、小田急や東急とも関係があった、ということである。
駅の北を流れる神田川の周囲は親水公園となっている。少し進んだところにある橋の名前も「夕やけ橋」。昭和60年代の都による河川改修の計画では、当初このあたりも周辺の樹木を伐採し、コンクリートで護岸工事される計画であったようだが、周辺住民の努力により、計画を変更し、せせらぎと親しむ公園となった。この親水公園も次の神田上水公園辺りからはコンクリート護岸の川筋となる。

井の頭付近の支流らしき水路

「神田上水橋」を越え、「あしはら橋」へと進む。と、「あしはら橋」の少し上流に神田川に注ぐ大きな排水口が見える。カシミール3Dでつくった地形図で見るに、50mの標高線が神田川の谷筋から西に向かって井の頭公園駅前通の先まで大きく食い込んでいる。『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』の湧水点分布図にも、食い込んだ谷頭辺りに宙水点のマークがある。ということで、水路跡の痕跡でもないものかと、ちょっと寄り道。



排水口のあたりからの道筋を進むと、すぐに井の頭線に当たる。踏切を渡り痕跡を探すと、線路脇に水路を塞いだ溝らしき箇所があり、その先にカラー舗装された、いかにも水路跡、といった緩やかなカーブの道が続く。カラー舗装の道、所々に車止め、それに少々の段差という、水路跡によく見られる三点セットもあり、往昔の水路ではあったのではなかろう、か。水路跡らしき道は井の頭公園通りを越えて、玉川上水の近くまで続いていた。この水路は神田川の谷筋から切れ込んだ小さな開析谷の谷頭の宙水からの湧水だけでなく、玉川上水からの助水を受けていたのかもしれない。単なる妄想。根拠なし。

井の頭線・三鷹台駅
元に戻り、「あしはら橋」を越え、「丸山橋」まで進むと井の頭線・三鷹台駅。三鷹台?武蔵野市ではないの?と地図をチェック。神田川を境に南が三鷹市、北が武蔵野市。その武蔵野市も三鷹台駅の川を隔てた北にある立教女学院の西側まで。立教女学院から東側は杉並区久我山となっている。三鷹台駅は三鷹市の東端であった。ちなみに、井の頭の池も三鷹市にあった。作家・小沼丹はその作品「三鷹台附近」に、「三鷹台駅に改札口の附いたのは多分昭和十二、三年頃だったらう。その頃は、駅に降りると線路を横切る道が一本左右に伸びてゐるばかりで、辺り一帯は葦の茂つた湿地であつた。線路沿ひに、井の頭池から出た小川(神田上水)が流れてゐて、釣師の姿をよく見掛けたりした。尤もこの湿地も三鷹台から先は田圃に変つて、菅笠を被つた女が田植ゑをするのを見たことがある。小川に架つた土橋を渡つて左に行くと東京市で、立教女学校があり、人家もある」と描く。
ここには、辺り一帯は葦の茂った湿地であった、とある。丸山橋の手前に「あしはら(葦原)橋」があった所以である。現在の姿からはその由来など想像もできなかったのだが、昭和初期までは橋の名前の通りの情景が広がっていたのだろう。また、小川に架かった土橋というのが「丸山橋」の前身ではあろう。因みに、立教女学院は関東大震災後の大正13年、中央区から移転した。

三鷹台付近の支流らしき水路

三鷹台駅を越えると、少しの間、川沿いの遊歩道が切れる。一旦、立教女学院の方に向かい、最初の角を右に曲がり道を進む。道筋は杉並区久我山と三鷹市の境を歩くことになる。ほどなく踏切があり、井の頭線を越えて川添いの遊歩道に戻る。「神田橋」を見やり、「みすぎ橋」まで進む。ここが三鷹市最東端の橋。「みすぎ」は「みたか」と「すぎなみく」の頭の文字を合わせたもの。

この「みすぎ橋」の少し上流にも四角のおおきな排水口がある。地形図を見るに、「みすぎ橋」あたりから三鷹台駅前通りのあたりまで、50mの等高線が大きく切れ込んでいる。ここでも、水路跡の痕跡でもないものか、と川筋から離れる。排水口辺りから、これまた、カラー舗装の道、車止めといった水路跡の「目印」を辿り、三鷹台駅前通りまで進む。これといった湧水点の痕跡は見あたらなかったが、台地と神田川のから切れ込んだ谷筋の標高差は5m以上もあるわけで、分水界から神田川へ注ぐ流路はあったのかとは思う。

因みに杉並区の地名の由来は杉並木、から。江戸の初期に成宗と田端村を領した岡部氏が領地の境を示すために植えた、と言う。江戸を通じてこの杉並木は名を知られ、明治になって高円寺・馬橋・阿佐ヶ谷・天沼・田端・成宗の6つの村が合併し、新しい村名となったときその名を「杉並村」とした。その後、「村」から「町」になった杉並は、昭和7年10月井荻町・和田掘町・高井戸町と合併し区が誕生するとき、最も知られる杉並をその区の名称にした、とのことである。また、三鷹は徳川将軍家や徳川御三家の鷹場の村が集まっていたこと、そして世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来するとも言われるが、定まった説は、ない。

久我山稲荷神社
杉並区に入って最初の橋「緑橋」を越えると「宮下橋」。橋の北にある久我山稲荷神社に由来する名前ではあろう。久我山稲荷はこの地の鎮守さま。幕末に板橋にて刑に処せられた新撰組局長・近藤勇のなきがらを密かに掘り起こし、三鷹の龍源寺に埋葬すべく夜道を急いだ係累・門弟が一休みしたところ、との話しが伝わる。

いつだったか、久我山稲荷を訪れたことがある。久我山駅北口に下り、崖線に沿って東に進むと崖面に社があった。鳥居の横にある久我山稲荷の石柱を見るに、氏子代表としてふたりの秦さんの名前があった。また、正面の鳥居に続く少々古き趣の二番目の鳥居には寄進者として江戸の文政期は秦野姓、大正期にはその後継者として秦姓が名を連ねる。
この久我山には秦姓が多い、と言われる。元は秦野姓であったものが、明治の戸籍法の制定にともなう戸籍提出に際し、あまりに秦野姓が多いので、手間を省くために「秦」とした、といった話も伝わる。あまりにできすぎた話ではあり、また、そもそもが、この地の秦野氏は相模の秦野氏ではなく、別系統の「秦」氏の出自とする説もあるようで、真偽のほどは定かではない。それはともあれ、神社を訪れたときは、寄進者を書き示した石柱などを見るのが楽しみでもある。そこに多く現れる名前が、その地を開いた人々の末裔であろう、との思いからではあるが、いつだったか奥多摩より仙元峠を越えて下った秩父山中の浦山にあった浦山大日堂に浅見姓が多かったのが印象に残っている。浅見姓は現在でも秩父に多い姓である、と言う。

井の頭線・久我山駅
「宮下橋」の辺りから神田川の両岸にカラー舗装や車止めといった水路跡らしき道筋はあるのだが、地形図で見るに、特に等高線の切れ込んだ谷頭もない。護岸工事をする前の、旧神田川の流路かとも思う。「宮下人道橋」、「都橋」を過ぎると井の頭線・久我山駅。駅の吉祥寺側は45mと50mの等高線が迫っており、急坂となっている。久我山という名前からは公家の久我家が連想される。とはいうものの、久我山の久我の由来は、「陸(くが=りく)」、から。「くぼ(窪)」の逆と考えてもいいだろう。つまりは、川などの近くの盛り上がった山のようなところ。久我山の「山」は、雑木林などを山と呼ぶことも多いので、久我山とは「川のそばの雑木林の茂る台地」といった地形を差すのだろう。
ちなみに、公家の久我家の名前の由来も、元々は源の姓であったものが、京都の伏見区・桂川ちかくにつくった別邸の「久我水閣」、から。その別邸があったところも、桂川近くの少し小高い地にある、と言う。

人見街道
久我山駅前を東西に走る道を人見街道と呼ぶ。「井の頭通り」の京王井の頭線「浜田山駅入口」交差点から分岐して、久我山駅東側の踏切を渡り三鷹市の牟礼に入り、新川、野崎、大沢を経て、府中市若松町まで続く12キロの道である。そもそもの人見街道は甲州街道の烏山付近から北へ何本かの道筋が通り、その道筋は今の下本宿通りにつながり、市役所前から野崎、大沢を経て、府中市の八幡宿へ通じていた、とのこと。人見山のふもとを通り人見山(現在の浅間山)が見えたということなどから、「人見道」とか「人見街道」と呼んでいたそうではある。また、この道は、甲州街道の烏山から府中方面へ抜ける近道でもあったので、「甲州裏道」とも「府中裏道」とも呼ばれていた。人見の地名は武蔵七党の猪俣党の人見氏一族が住んでいたことに由来する、とか。
この道は古道のひとつで、武蔵国府府中から大宮(埼玉)に行く大宮街道、下総の国府(市川市)に通じる下総街道の道筋であったと言われ、近世以前は東西を結ぶ重要な道路であった、よう。江戸に入り甲州街道ができると、脇街道的な性格を強めることになった。近くの久我山五の九の辻にある石塔には「これよりみぎ いのがしらみち」とあり、井の頭への道としても利用されていたようである。
昭和初年に久我山駅前の直線化や拡幅がおこなわれるなどの経緯をへて、正式に通称名が人見街道となったのは昭和59年。その際、旧来の人見街道の道筋変更がはかられ、杉並区内を含む上の部分が新しく人見街道に組み込まれた、とのこと。新たに組み込まれた箇所は久我山から浜田山区間。ために、久我山道とも呼ばれたようである。

清水橋付近の崖面上

久我山駅前の人見街道に架かる久我山橋を渡り、神田川左岸を進む。右岸は段丘崖が迫り川沿いの道は清水橋の先でなくなる。左岸は駅を越えると谷幅は少し広くなるが、その敷地は京王線の車庫(富士見ヶ丘検車区)となっている。車庫はかつて永福町駅にあったようだが、昭和45年に、この地に移ってきた。

右岸の遊歩道を清水橋まで進み、崖線上がどのようになっているのが、ちょっと寄り道。急な石段を上ると東京都太田記念館があった。中国と縁の深かった太田宇之助氏が東京都に寄贈した土地に都が建設したアジアからの留学生の宿舎、とか。

建物前に案内板がある。太田記念館の説明かと足を止めると、その説明は向ノ原遺跡の説明であった。案内をメモ;向ノ原遺跡B地点は、武蔵野市にある井之頭池を水源とする、神田川南岸に形成された急崖な台地上に位置しています。当遺跡は、杉並区久我山二丁目16番を中心とした、先土器時代(約16,000年前)から縄文時代早期後半(約8,000年前)にかけての集落跡で、当遺跡の東側に隣接する向ノ原遺跡(大蔵省印刷局運動場内)と同一遺跡で、その西端をなすものと思われます。
東京都太田記念館建設に先立ち、昭和62年から63年にかけて実施された発掘調査では、先土器時代のナイフ形石器をはじめとする石器類、バーベキュー跡と考えられる拳大の石を数10個集めた礫群が7箇所発見されています。
縄文時代では、草創期(約10,000年前)の隆起線文土器と爪形文土器約30点が出土して注目されました。最古の縄文土器であるこれらの土器群は今のところ、区内はもとより武蔵野台地における当該期の資料として最大の質と量を誇っています。
また、この他にも早期前半(約9,000年前)の住居跡も6基発見されており、神田川流域の当遺跡を中心とした一帯が、区内における最古の縄文文化発祥の地点である可能性を提供した重要な遺跡であると言えます。(なお、出土した考古遺物は、すべて杉並区立郷土博物館に展示してありますので、当記念館では見学することはできません。)」、とあった。

久我山運動場
崖面上を彷徨うに、グランドが広がる、のみ。この久我山運動場(元大蔵相印刷局)のグランドには戦時中は高射砲の陣地があったとのこと。中島飛行機の荻窪工場や武蔵工場(武蔵野市)を防衛するためのもの。最新鋭の15センチ砲据えられ、B29二機が被弾し、一機は久我山4丁目に墜落した、と言う(『荻窪風土記;森泰樹』)。
久我山運動場の南には富士見ヶ丘運動場。この元NHKのグランドの南には玉川上水が流れる。道なりに進み、成り行きで王子製紙の社宅に沿って坂を下ると富士見ヶ丘検車区の入口に続く橋に出る。神田川左岸には線路などもあり、右岸から車庫への車両の出入りのために造られた、車庫専用の橋にようであり、特に橋に名前はない。

井の頭線・富士見ヶ丘駅
車庫を見やりながら進み、京王線の車庫が切れる先に井の頭線・富士見ヶ丘駅。駅前の南の神田川には「月見橋」がかかる。『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』によれば、通称「清水山」とよばれる地域がこの富士見ヶ丘駅の近くにあり、辺りの神田川両岸は雑木林が続き、崖のあちこちから湧水が見られた、と言う。
地形図を見るに、少し南に切り込んだ地形が富士見駅の南東にある。そのあたりが湧水点なのか、はたまた、先ほど歩いてきた遊歩道に清水橋があったが、橋の南の現在、久我山運動場となっている一帯の崖面から湧水・清水が流れ出していたが故の橋名であろうか。いずれにしても現在はどちらにも湧水跡の痕跡はみつからなかった。

高井戸駅付近・左岸の水路跡

「月見橋」を離れ、「高砂橋」、そして「あかね橋」へと。「たかさご橋」、「あかね橋」の南北に通る道筋は緩やかな曲線を描き、如何にも水路跡らしき雰囲気。地形図を見るに、45mの等高線が北西に切れ込んでいる。神田川左岸の崖線の切れ込んだところへと寄り道。「たかさご橋」を越えたところからカラーブロックの道があり、先に進み井の頭線を越え、高井戸児童館辺りを進む。道は農園でその先を阻まれるが、農園の先には雑木林が残り、周囲も小高くなっており、この水路跡は台地からの水を集めた流路であったのか、とも思う。

浴風会

左岸を彷徨った後、今度は、神田川の右岸に続くカーブの道を辿る。地形図で見た地形の切り込んだところ、清水山の住所は高井戸西1-16辺りとあるので、丁度端から南に蛇行するその先端あたり。なんらかの痕跡でもないものかと彷徨うも、特段それらしき名残は見あたらない。清水山と呼ばれた辺りの東には結構立派な建物が見える。浴風会の施設である。ぱっと見には、昨今登場した高級ケアハウスかと思ったのだが、はじまりは大正12年(1923)の関東大震災に罹災した老廃疾者や扶養者を失った人々の救護のため、御下賜金や一般義援金をもとに設立されたもの。現在は社会福祉法人浴風会として老人保健・福祉・医療の総合福祉施設となっている、と。建物は平成に成って建て直したものが多いが、本館は安田講堂の設計を手がけた内田祥三の手になるもの。都の歴世的建造物の指定を受けたこの建物は、その趣き故、テレビや映画の舞台として数多く使用されている。とか。

環八・佃橋
「むつみ橋」、人道橋である「錦橋」、「やなぎ橋」、そして「あづま橋」を越え環八に架かる「佃橋」に。先日、玉川上水を散歩したときに、江戸の頃、環八、といっても、環八が出来たのは昭和になってからであり、江戸の頃にはなんらかの道筋ではあったのだろうが、それはともあれ、その道筋とクロスするところに「佃橋」が架かっていたと『上水記(寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂)』にある。
この佃橋がいつの頃架けられたものか定かではないが、佃の語源には。「作り田」が転化したとの説があり、「作田、突田、築田」などが当てられる、とか。つまりは、突き固めた田、低地に土を盛り上げた田、河川沿いに湿地を開墾した田、といった意味がある。地名の起こりは、庄園などの領主の直営田のことであり、新たに開墾した「作り田」にはじまるようである。
佃の由来はともあれ、「佃橋」の下にある排水口から割と勢いのある水が流れ出ている。この水は玉川上水の境橋から地下の導水管を通り此の地に導かれ、神田川の浄化に活用されている。この玉川上水の水は、昭和61年(1986)、東京都の「玉川・千川上水清流復活事業」により小平監視所より下流に流されることになったものである。
昭和40年(1965)、新宿の淀橋浄水場を廃止し、その機能を東村山浄水場に統合・移転することになる。この施策にともない、羽村で取水された多摩川の水は小平監視所より、東村山浄水場に送られることになった。このため、小平監視所より下流には玉川上水の水は一部維持水を除いて流れることがなくなったわけだが、上記事業施策により、小平監視所から世田谷・浅間橋までの18キロの間、水流が復活した。水源は都多摩川上流処理場で高度処理水された西多摩地区の下水を日量23,200トン流している、と。で、「浅間橋」(先ほど歩いた清水橋の崖上にあったグランドの南東端)から地下を環八まで進み、環八に沿って佃橋下まで下っている。
散歩をしてわかったことだが、水源の湧水を失った東京の河川は、高度処理された下水にその水流を任すことが結構多い。目黒川も西落合の水再生センターで高度処理された下水を烏山川と北沢川の合流点に送り、それが下って目黒川となる。そういえば呑川も大岡山の東京工大辺りで西落合の高度処理水によって助水されていた。

環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった。昭和22年、38年のGOOの航空写真を持ても、高井戸の近辺に環八の道筋らしき跡が見えるが、道は途切れたままである。が、その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。が、幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか(「ウィキペディア」より)。
今日の散歩メモはここまで。京王線・高井戸駅から見慣れた風景の中を家路へと。

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