熊野散歩 Ⅲ:新宮へ

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本日の計画は補陀洛山寺>新宮>本宮>中辺路の最終部分をちょっと歩く、と言う段取り。(金曜日, 11月 25, 2005のブログを修正)

2日目;くまのじ>補陀洛山寺>熊野速玉大社>熊野本宮大社>発心門王子>水呑王子>伏拝王子>三軒茶屋跡>祓戸王子>熊野本宮大社>渡瀬温泉 熊野瀬

補陀洛山寺
宿を出て補陀洛山寺に向う。平安時代からおよそ千年に渡って、海の彼方に観音浄土・補陀落浄土を求め、死を賭して漕ぎ出す「補陀落渡海」信仰で知られた寺院である。釘付けされた船の中に座り補陀洛渡海に出発した渡海上人達をおまつりしている。補陀落=梵語・サンスクリット語でpotalaka、とは観音(観世音菩薩)が住む聖地のこと。
観音菩薩ってどんな神さま;調べてみた;観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍。観音菩薩は慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は知恵をあらわす化身とされる。
観音菩薩は33の姿に変身して衆生の苦悩を救済してくれる。京都の三十三間堂、西国三十三観音霊場の由来はここにあった、とはじめて分かった。
長い仏教の歴史の中で、観音の出現は結構画期的だった、とのこと。衆生済度を本願とする、というか衆生それぞれの魂の救済が観音さまの最大のミッションである。天下・国家の鎮護は他の菩薩にお任せし、「観音さま、助けてください」と念じれば観音様は現れ、魂の救済の手段を考えてくれる、っていうありがたい仏様である。
熊野三山が仏教の理論的裏打ちにより、本宮=阿弥陀仏=極楽浄土の中心にある仏であるので西方浄土。新宮=薬師如来=東方瑠璃浄土。そして那智=千手観音=観世音菩薩の住む補陀落浄土、というように熊野全体が広義の「浄土」とみなされたが、特にこの那智の地は昨日メモした樋口忠彦さんの『日本の景観(ちくま学術文庫)』の描写でわかるように、那智の大滝=本地仏は千手観音>那智権現の主神・牟須美神(ふすみのかみ)の本地仏も千手観音=西国三十三観音、第一札所前の観音様>補陀落山寺=観音浄土を求める補陀落渡海、といった山>滝>海が一体となった観音信仰のトータルセットとなっている。
ちなみに、この補陀落渡海、信仰上の渡海もあったが、水葬の変形であったものもある。また、この儀式自体が興行化され、イベント同行ツアーなどもあったとか、なかったとか、途中で死ぬのが怖くなって逃げ出そうとした渡海上人さまを興行主が撲殺したとか、しなかったとか、それが契機となりこの渡海が禁止されたとか。

新宮
補陀洛山寺を離れ新宮に。車で30分程度。新宮・「熊野速玉大社」を参拝。再び車で40分程度だったろうか、「熊野本宮大社」に向う。で、ふたつまとめて、というか那智も含めて三つまとめて熊野の神さまの整理をしておく;
熊野三山とは、紀伊山地の南東部、相互に20~40キロメートルの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二寺からなる。三山は「熊野参詣道中辺路」によって相互に結ばれている。熊野詣が盛んになる平安時代後期に本宮・新宮・那智が一体化し熊野三山と呼ばれるようになるが、以前は別々の神。三つの神社は、ともに自然崇拝に起源を持ち、それぞれが独自の神として生まれる。
先にもメモしたが、平安時代中期の延喜式に、本宮;熊野坐神社(います)、新宮;熊野早玉神社との記述がある。神社の格から言えば、9世紀半ば頃は本宮も新宮の同格。863年頃には新宮のほうが本宮より格が高かった。940年頃に同格に戻る、とある。ただ、この延喜式には那智の記述はない。神社ではなく、修験道の「権現」さんとしてうまれたのだろう、とは先に述べたとおり。
熊野三所権現が成立したのは11世紀末。熊野坐神社=本宮。速玉神=新宮、という名称が一般化し同時に那智も世に知られるようになる。そして、熊野三山が一体化し相互に祀りあう現象の象徴>熊野三所権現として信仰されるようになる。
もとより、仏教の影響・理論的教義付け>神仏習合の影響を受けて「熊野三所権現」として信仰されるようになったということは言うまでもない。また、「権現」なるがゆえに、仏が衆生を救済するための仮の姿を現したのが神だとする「本地垂迹説」により、主祭神がそれぞれ阿弥陀如来(本宮=家津御子神(けつみこ))、薬師如来(新宮=速玉神)、千手観音(那智=熊野牟須美神)とみなされた。熊野の神々が本地垂迹思想によって説明されるようになったわけだ。結果、熊野は阿弥陀の浄土の地として信仰を集め、これらを巡礼する「蟻の熊野詣」でにぎわうことになる。
ちなみに新宮は本宮に対するものではない。もと神倉山に鎮座していた神を現在の社地に遷したために「新宮」と呼ばれる、と言われる。神社の格が新宮のほうが本宮より高い時期があった、と上にメモした。何故?って疑問があったわけだが、この「新宮説」であれば明解。
熊野三山の社殿は他の神社建築に類例をみない独特の形式を持ち、全国各地に勧請された熊野神社における社殿の規範となっている。十二所権現(三所権現+五所王子+四所明神=十二)という構成で、三山それぞれの主神をともにまつる、って構成だ。先日散歩した鎌倉に十二所権現があった。また、新宿に十二社が熊野神社のすぐ近くにある。
熊野神社は全国で3800ほどあるとも言われる。1042の熊野神社の勧請時期を調査した資料によれば;奈良時代以前 112社(11%) / 平安時代248社(24%) / 鎌倉時代102社(10%) /南北朝時代45社(4%)/室町-戦国時代239社(23%) /江戸時代270社(26%) /明治以降26社(2%)、となっている。
室町から江戸にかけての勧請がほぼ五割。熊野信仰の発展に伴って、というか、熊野神社の全国展開と相まって、というか、互いの相乗効果というか、ともあれ熊野神社フランチャイズが全国に ひろまったわけだ。東京には47の熊野神社。神社以外にも王子、とか八王子とか、音無川(石神井川)とか、飛鳥山(熊野新宮の飛鳥社をこの地に勧請)といった地名が残る。
全国でもっとも多いのは千葉県。268の熊野の社がある。で、先日、まったく別の機会に読んだ『幻の江戸百年(鈴木理生;筑摩書房)』に熊野信仰の全国展開に関する非常に納得感のある記事があった。メモする;
1.熊野信仰は、全国的に海岸地帯に多くの末寺が分布するという形で普及した。
2.それは源平、南北、戦国時代まで、勇名を馳せた熊野衆と呼ばれる強力な水軍の存在と表裏一体。
3.普及の方式は;熊野側は御師・先達制度を形成し、各地の信者と結びつくとともに、熊野に中心をもつ修験道の山伏姿での海陸両面からの伝道活動。御師とは御祈祷師のこと。全国各地に檀那(信者)を作って教導。檀那が参拝の折には拝礼、祈願の仲立ちのほか、宿泊などの世話もする。先達とは参詣の道先案内人、といったところ。
4.御師は地方相互間のコミュニケーション伝達者であり、商業活動の要素を併せ持つ存在。市庭(>市場)の多くは、社寺境内に成立>市場>中世都市
5.熊野信仰に関する最も古い資料;九条兼実『玉葉』1164-12005年11月15日に現れている。つまり、源平争乱の時代>広範囲に移動できる時代。
6.熊野を中心に日本列島の沿岸は、非常に広範囲に熊野信仰の拠点がつくられ、それを中心に伝道と商行為が継続的に行われる社会的成熟が見られた。
つまりは熊野信仰の拡大=熊野神社の拡大は、単に宗教的活動だけではなく、経済行為・活動と不即不離の形でおこなわれた。また同時に大交通時代の始まりの時期でもあり、人・物の交流が活発になった時代背景も大きく影響している。

で、この熊野神社の全国展開に力を発揮したのが鈴木さん。熊野三党として鈴木氏、榎本氏、宇井氏の三氏があるが、もっとも商売上手だったのが鈴木さん、だったのではなかろうか。全国に熊野商法(神社&商行為&イベント請負=熊野詣の団体参拝)といったことで商圏を拡げ、全国の熊野神社関係の「有力者」に。
これは私の勝手な推測であるが、鈴木姓が多い理由も、この熊野神社の有力者と大いに関係あるのではないだろうか。つまりは、明治になって国民すべてが姓を使 うようになったとき、「地元有力者=鈴木」って刷り込みがあり、「おらは鈴木にする」ってことになったのではなかろうか。ちなみに新宿の十二社というか熊野神社は室町時代に鈴木九郎さんが故郷の紀州熊野三山から、十二所権現を移して、お祀りしたもの。中野長者とも呼ばれる。いろいろな説はあるけれど、熊野神社を核とした商売で財を成した、と思う。
また、熊野神社の神官として豊島・王子の地にすんだのも鈴木さん(鈴木権頭光景)。東京ではないけれど、有名どころとしては鉄砲を駆使し信長を苦しめた雑賀孫一も本名は鈴木である。
いやはや熊野の時空浴は結構大変だ。挫けず、旅を進める。

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