土佐 歩き遍路:第二十七番札所 神峯寺から第二十八番札所大日寺へ

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神峯寺から次の第二十八番札所大日寺へ向かう。遍路道は神峯寺の建つ安芸郡安田町の山麓より神峯寺道を折り返し、麓の神峯神社の鳥居が建つ地点まで戻る。大日寺への遍路道はそこから海岸線を西に向かい、安芸市域を抜け、飛び地のように残る安芸郡芸西村を歩き手結坂越えの取り付き口に向かう。
手結坂越えは安芸郡芸西村と香南市の境。手結越えを下った遍路道は香南市の海岸線を西に進み、赤岡の町から道を北西に変え野市の大日寺へ向かう。
神峯寺から山裾へと下った後は、ほぼフラットな道であり、唯一の山越えといった手結越えも時間は40分強ほど歩くが、比高差は20mから30mといったもので、どうということはないだろう。とはいえ距離は38キロほど。ちょっと長い。



本日のルート;第二十宇七番札所神峯寺から山裾へ下る>神峯神社の石の鳥居>龍円尼の記念碑>安田明神の標石>大山岬>浜千鳥公園>波切不動>伊尾木洞>寅さん地蔵>安芸市街>八流(やながれ)>安芸市から安芸郡芸西村へ>山頭火歌碑>手結(てい)坂越>旧路入口>土径へ>旧国道に出る>琴風亭跡>再び旧国道に出る>国道55号に合流>安芸郡芸西村から香南市域に>江見の馬車立場跡>絵金蔵と弁天座>赤岡橋の船着場跡>一本松と標石>野市の標石>大谷の標石>旧遍路道に標石>参道に標石>第二十八番札所 大日寺

神峯寺から山裾へ下る
神峰寺から大日寺への遍路道は、一旦山麓より神峯寺道を折り返し、麓の神峯神社の鳥居が建つ地点まで戻る。途次のメモは先回の散歩で既に記した。参考のためルート図とポイントのみを記す。





神峯神社の石の鳥居
神峯道を折り返し、土佐くろしお鉄道の高架傍の神峯神社の鳥居前に戻る。鳥居前に並ぶ標石を見遣り鳥居前を西に向かう。
くろしお鉄道高架脇の案内板
神峯神社の鳥居前は広場となっており、からそのまま西へと進めるのだが、一応道筋に従いくろしお鉄道高架を潜り西へと向かう道に載ると、高架下にふたつの案内板。
高知県蔬菜園芸発祥の地「唐ノ浜」
「詩人 野口雨情の民謡に「促成栽培 安田が本場 遠く関東、満州まで。とあるように、蔬菜園芸は郷土の誇る特産物として、古くから園芸安田の名は全国に響いた。その陰には郷土先輩の苦痛の歴史が秘められている。
大正二年(一九一三年) 郡役所の指導を得て主に「お多福豆」の栽培を始めたが販売方法 で失敗し、同七年には唐浜園芸組合が販売を引き受けるとともに「絹莢豌豆(きぬさやえんどう)」の栽培をも始め、高知市の市場に出荷した。これが高知県蔬菜園芸の始まりである。 大正十一年(一九二二年)には高知県園芸組合連合会が組織され生産から流通までの基礎 が作られ、現在に至っている」
よさこい秘話
「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた
ヨサコイヨサコイ
よさこい節に登場する坊さんかんざし騒動の主人公お馬さんが、ここ安田、東谷の旅籠「坂本屋」で働いていた。幕末の土佐に、恋の自由を求めて奔放した 「よさこい、かんざし騒動」は、維新の志士達より早く自由精神を実践した。
由来
五台山、竹林寺の学僧、百余名を預る指導僧の純信と五台山麓、鋳掛屋の娘、お馬との恋の「かけおち」のため純信がお馬に花かんざしを買い求めたもので、安政元年(一八五四)の大地震の直後の翌二年、五月十九日の夕刻、純信、お馬と土佐山田出身の道先案内として安右衛門の三人で、物部村から国抜けし、讃岐の金比羅、百段目の旅籠「高知屋」で捕えられ、高知の山田町奉行所で取調べられた。
この時の奉行は、ここ安田に生まれ育った儒学者、岡本寧浦の門下生である松岡毅軒であった。 この取調べの際、松岡奉行が「なぜ年が二〇も違う親の様な人と好きで逃げたのか」との問いに、お馬は平然として「好きになったら、年の差などどうでもよい。」と答えたと毅軒は後世に書き残している。
やがて裁きが終り、お馬は安芸川以東へ追放、この安田・東谷の神峯登り口、旅籠「坂本屋」で奉公をする身になった。
一方、純信は仁淀川以西へ追放となったが、自らの意志で国外追放を願い、伊予国、川之江の 塩屋の三軒屋炒娚石の亀吉の世話により、学問一筋の家柄、井川家の私塾の教授となって、子弟の教育に専念する。
一方、お馬は、ここ坂本屋で奉公中、突然、追放先の変更を受けた。理由は、純信がお馬を連れもどしに来たとのことであった。
事実不明のままお馬は、今度は高岡郡、須崎池ノ内の百姓に、預けられ、のちに土地の大工と 世帯を持ち、二男二女をもうけた。
当時の坂本屋
安田の神峯は、よさこい節の一節にも登場している。
思うてかなわにや 願かけなはれ 流行る安田の神峯」
当時、安田の神峯は「流行る安田の神峯」と歌われたように、近郷近在の信仰と遊びの中心であった。神峯寺の前札所の発心庵(現在廃寺)がここ東谷集落の岡にあり参拝客相手の大きな料亭旅館がひしめき、繁華な場所であった。美人のお馬は大人気であっただろうと、想像される。
その後の「お馬」
お馬の子供達もそれぞれ成長し、明治一八年(一八八五)お馬夫婦は、長男の住む東京小石川に引越し、更に明治二一年(一八八八)に「二男の家で余生を送り、お馬は煙草屋の店先で店番をしていたという。東京都北区豊島で明治六年(一九〇三)六五歳で病没し、北区の西福寺で出かに眠っている。(お馬さんの眠る西福寺の写真)」

「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた」のフレーズはペギー葉山さんの歌でよく知られた(我々団塊の世代には?)歌だが、その物語はこの案内ではじめて知った。フィクションかと思ってたのだが、実際の話であった。

龍円尼の記念碑
道に従い少し西に進み鉄道の高架を潜り山裾の道に向かう。遍路道が山裾を西に向かう角に石造物がある。
大きな石碑には「龍円尼記念碑」と刻まれる。神峯寺山門でメモした神峯寺再建に尽力した尼僧。山門を寄進したとあった。
石碑脇に標石。摩耗が激しくも文字は読めないが「従是神峰寺へ三拾丁」と刻まれているとのことである。



安田明神の標石
山裾の道を進み国道55号への合流点手前に安田明神。その鳥居下に標石。「左 神峯道 是ヨリ本堂迄三十*」といった文字が刻まれる。
安田明神から国道55号に出るとすぐ、安芸郡安田町から安芸市域に入る。
安田
平安時代の和名抄に安芸郡安田郷と記録。良田のあ る土地は全国に。"痩せ田"の逆の説も(『土佐地名往来』より)

大山岬
国55号を西に進み、くろしお鉄道下山駅を越えると遍路道は大山トンネルに入る国道を逸れ海岸線を走る旧道に入る。その突端が大山岬。岩礁部が広がる。
国土地理院の地質図を見ると、海生層 砂岩泥岩互層の堆積が海岸線まで突き出る。海岸部近くには大きくはないが海岸段丘の段丘堆積岩も見られる。海岸部に突き出した砂岩泥岩互層岩が海食により形成された奇岩が眼前に広がる。

浜千鳥公園
岬を抜けるとすぐ、道の左手に「浜千鳥公園」。四阿の傍に歌碑。「弘田龍太郎は明十五年安芸市土居に生る父正郎は高知中(現追手前高)校長でのち第九代県会議長で母総野は土佐一絃琴の名手であった、
龍太郎は年東京音楽学校(現東京芸大)ピアノ科及び作曲科に学び大正三年母校の助手助教授となり昭和三年ドイツ留学後放後教授となる
大正六年宮城道雄らの新日本音楽運動に参加、琴三味線を主体とした当時の日本舞踊に洋風の伴奏を組み入れ新分野を開拓す。
更に北原白秋らと童謡運動をおこしつぎつぎの名曲を生み大正から昭和にかけての童謡界一時代を画した。
その作品集をのぞいてみよう 。「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」「お山のお猿」「春よ来い」「金魚の昼寝」「千曲川旅情のうた」等実に千数百曲、更に全国の数多くの民謡を握りおこし「木曽節」や「よさこい節」も採譜した。
彼の曲は島崎藤村、北原白秋、葛原しげる、野口雨情らの美しい詩と相まって日本全国に歌いづがれ語りつがれ永造に消えることはない 昭和三十六年没 六十才」とある。 公園から岩礁部の眺めが、いい。

波切不動
国道を少し進むと国道が上下二分され、その真ん中に大樹が立つ。その国道山裾にお堂がある。波切不動である。大樹は「なぎの木」であり、神木とされる。国道整備の折にも神木故に関係者の尽力によりこの一画だけが残された、と言う。
神木の由来は;漁師が沖で難破。波間に見付けた木にしがみ着き、彼ひとり無事に助かる。その木は漁師が普段信仰していた波切不動の「なぎの木」であったとのこと。
波切不動
不動明王はインド,中国には遺品が少ないが,日本では空海が密教の経典と共に日本に伝えて以来、密教の盛行とともに,種々の異形をも生じながら尊像が数多く作られた。大日如来の命を受け種々の煩悩を焼き尽くし,悪魔を降伏し,行者を擁護して菩提を得させる明王として信仰された。代表的な尊像として三不動(黄不動,赤不動,青不動)のほかに,弘法大師(空海)の持仏と伝えられる教王護国寺(東寺)西院御影堂安置の秘仏などがあるが,波切不動は弘法大師が唐からの帰路顕現したお不動さんとされる。
唐からの帰途、遣唐船が嵐に襲われた時、「空海」は自分が彫った「不動明王」を掲げて「不動真言」を唱えると、大波が剣で切り分けられたように別れ、無事に日本までたどり着くことができた、と。この霊験故に「空海」の彫った「不動明王」を「波切不動明王」とされ、高野山の「南院」に本尊として祀られているとのことである。全国各地の波切不動はこの南院よりの分祀ということだろか。

伊尾木洞
少し国道を進むと右に逸れる旧道。遍路道は旧道に入る。ほどなく、道の右手に「伊尾木洞のシダ群落」と地図にある。
旧道から少し北に入り伊尾木の洞に。道を進むとすぐ洞窟。高さ5m、幅は3m、長さは40mほどだろうか。洞窟を出ると崖にシダが茂る。
Wikipediaには「約300万年前に海の中で堆積した地層が隆起して、水成岩が渓谷からの水で浸食されてできた天然の洞窟である。年間を通して約20度の温度に保たれている。
洞窟を通り抜けると崖に囲まれ、シダ群落による神秘的な光景が見られる。
1926年10月20日、日本列島の温暖な地帯に広く分布するシダが1か所に生息していることは珍しいため、国の天然記念物に指定された。
洞窟の温度、湿度、明るさ、岩石の多い地形等がシダの生育条件に適しているため、約40種類もの多くのシダが共生している」とある。
水成岩
水成岩?火成岩はよく聞くけど水成岩はあまりなじみがない。 Wikipediaには「堆積岩(たいせきがん、英: sedimentary rock)は、既存の岩石が風化・侵食されてできた礫・砂・泥、また火山灰や生物遺骸などの粒(堆積物)が、海底・湖底などの水底または地表に堆積し、続成作用を受けてできた岩石。
かつては、火成岩に対し、水成岩(すいせいがん、英: aqueous rock)とよばれていたこともある。地球の陸の多くを覆い、地層をなすのが普通である。堆積岩のことであった。
伊尾木
由来は不明であるが、「イオ、イヨは魚の転訛したものであることが推察されるため、魚を獲るためのある種の仕掛けに適したところの意味ではないか」との記事があった(「土佐風物考」(桂井和雄))。

寅さん地蔵
伊尾木の洞から遍路道に戻り西に向かうと、ほどなく道の左手に石像が立つ。「寅さん地蔵」とのこと。『男はつらいよ』の寅さんの像が刻まれる。寅さんシリーズではじめてロケ地と決まった当地ではあるが、主演の渥美清さんがむなしくなったため撮影は中止。地元の方が菩提を弔い地蔵尊を建てたとのことである。


安芸市街

旧道は伊尾木川手前で国道55号に合流。その先、安芸川に架かる安芸大橋を渡ると遍路道は国道から逸れ市街地へと直進する。
右手に妙山寺を見遣ると、その先の大きな南北の道の交差点を左折、本町商店街筋まで南下し右折、西進し国道55号に再び合流する。
安芸
安芸氏は、壬申の乱(672年)で土佐へ追放になった蘇我赤兄の子孫として伝えられ、在地豪族として郡司から荘官、地頭となって安芸庄を支配し、繁栄の基礎をつくった。 延慶元年(1308)安芸親氏により安芸城(市街北の土居小学校裏に城山が残る)が築城され、この城を拠点に安芸郡の西半分と香美郡の一部を領し、土佐七豪族のひとりとして土佐の東部に覇を唱えた。
戦国時代に入ると土佐統一を進めていた長宗我部元親と対立し、激しい抗争を繰り返す。永禄12年(1569)7月には、7200人の長曾我部勢に対し、5300の安芸勢は海に面した自然の要害の地である八流(安芸市)で対峙するも、長曾我部勢の奇策で撤退し城に籠城。が、味方の内通により城を明け渡し当主は自刃した。
安芸氏を滅ぼした長宗我部氏は、「安芸」を「安喜」と改め、明治になるまで「安喜」が使わた。
安芸郡
安芸郡は現在室戸岬東岸の東洋町、西岸の奈半利町、田野町、安田町、北川村、馬路村、芸西村からなるが、明治期には現在の室戸市、安田町の西の安芸市を含めた地域が安芸郡であったが、その中から室戸市、安芸市が誕生し現在の安芸郡域となった。安芸市の西に芸西村が飛び地のように安芸郡として残る。

八流(やながれ
安芸市の市街を離れ海岸線に沿って西進する。くろしお鉄道の穴内駅を過ぎると「八流(やながれ)」に。岬の突端部への坂を上り切ったところ、往昔の峠辺り、国道左側にレストランがあり、その駐車場に「矢流古戦場跡 昭和四十八年」などと刻まれた石碑が立ち、その脇には新しい歌碑が立つ。歌碑には「矢流の古戦場なる碑に倚りて ここに敗れしみ祖を思う」とあり、黒崎越前守の末裔の手によるもの。
安芸市街で簡単にメモしたが、この地で土佐統一を図る長曾我部勢と安芸国虎勢が対峙。八流崩れ(やながれくずれ)と称されるほどの大敗を喫した安芸勢は退却し、城に籠城するも嫡子を阿波に、妻を里方の一条家に戻した後、国虎は自刃した。 ●八流
八流と矢流の地名由来。集落に八つの谷があった地形説、大雨で千束の矢を流した合戦説(『土佐地名往来』より)
極楽寺
「矢流古戦場跡」より海側に大正の頃開かれた極楽寺がある。往昔、弘法大師が修行した千丈岩の霊地に建つ。

安芸市から安芸郡芸西村へ

八流の峠を下り、途中国道を逸れて旧道に入り、直ぐ先で国道をクロスした遍路道はくろしお鉄道赤野駅の手前で国道合流する。国道を西に進むと安芸市から未だ安芸郡として残る芸西村に入る。
赤野
赤色珪岩礫の鮮紅色の地質によって命名された地 名。まさに赤く染まった原野「赤野」(『土佐地名往来』より)

山頭火歌碑
芸西村に入るとすぐ「和食(わじき)」駅。既述『土佐地名往来』には「和名類聚抄にも和食とある古名。葦の茂った沼地 「あしき」の転訛か、アシキ地名は全国に残る」といった地名由来があった。 和食駅を越え旧路を西進すると、道の左手に山頭火の歌碑が立つ。「高知に日に日に 近うなる 松原つづく 山頭火」と自由律俳句が刻まれ、台座には「山頭火遍路日誌抄 昭和十四年十一月九日
和食松原 恵比寿屋
七時前出発 橋を二つ渡るとすぐ安芸町 雨中を三里余り歩いて和食村松原の中のゑびすやにおちつく  ほんによい宿であった。きれいでしんせつでしずかでそしてまじめで 名勝和食の松原    名産和食笠 夕方はだしで五丁も十丁も出かけて 一杯ひっかけて 何んといふ うまさ ずぶぬれになった御苦労々々々
七時出立 松原がよろしい お弁当のおもいのも うれしかった 平成五年秋芸西文化推進協議会建立」とあった。
山頭火
自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。山頭火は2度四国遍路の旅に出ているが、この句は2度目のもの。昭和14年(1939)10月5日に松山を出て遍路するも、旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断。松山に戻り松山在住の句人高橋一洵の奔走でみつけた「一草庵」を終の住処とした。「落ち着いて死ねさうな草枯れる」は一草庵で詠んだもの。 「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」などの句が、なんだか刺さる。
名勝 琴ヶ浜
既述『土佐地名往来』には、「文献では「和食浜松」。松風を琴の音に擬して命名。藩は八流から手結まで三万本の松を留林として保護した」とある。


●手結(てい)坂越●


山頭火の歌碑の先で国道に合流。西進し夜須町手結山に至る。現在国道は手結峠に突き出た丘陵をトンネルで抜けるが、旧遍路道は手結坂越えの旧路に入る。



旧路入口
手結越え遍路道のアプローチ地点は、峠近く、国道左側に建つ大きなリゾートホテルが目安。そのホテル対面の法面東端に細い坂道がある。そこが手結坂越え道の入り口。
舗装された坂を少し上ると道の左手に石碑。「琴風亭と江藤新平 この上」とあり、「佐賀の乱(1814)に敗れ土佐に潜入した江藤新平が耕地から脱出の途中琴風亭に立ち寄った」と刻まれる。 室戸東岸の甲浦には江藤新平が捕縛された地を示す石碑があった。
手結
「てい」と読む。「出っぱっている所"出居"を清音で呼んだとの説がある。海に出っぱっている、ということだろう。また、沖から見た岬の形が「手を結んだようにみえる」から、との記事もあった。
江藤新平
甲浦小学校の対面の平和塔敷地内に大きな石碑が立つ。傍の案内には「江藤新平・甲浦遭厄の碑。「明治5年司法郷や参議に就任。明治6年政変後に参議を辞し野に下る。明治7年、板垣退助・後藤象二郎らと民撰議院設立運動を起こす。これが後に自由民権運動となる。新平は、日本の近代的政治制度づくりに参画し、司法制度の確立、民権的法律の整備に貢献した。娼妓制度廃止など国民の基本的人権の礎を築いた。
佐賀の乱(明治7年)により政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日ここ甲浦の地で捕縛された。大正6年、「江藤新平君遭厄之地」石碑が甲浦青年団により建立されている」と記される。
明治政府に対する不平士族の乱に与し逆賊となった江藤新平であるが、大正5年(1916)には西郷隆盛らとともに名誉が回復され、正四位が贈位されている。記念碑建立はその状況を踏まえてのものだろう。江藤新平のあれこれは司馬遼太郎さんの『歳月』に詳しい。

土径へ
坂道を上り切ったところは平坦な地となる。が、周囲はブッシュで覆われ道は見えない。なんとなく道筋らしきブッシュを掻き分け進むとその先鬱蒼とした木々に覆われた土径があった。 道なりに進むと民家が現れる。民家の先は再び土径。ほどなく舗装道に出る。道脇には「琴風亭跡南へ二百メートル」とある。

旧国道に出る
道なりに進むと広い車道に出る。旧国道の道筋のようだ。旧国道の反対側に「茶屋跡 この上」と刻まれた石碑があり、その先に坂道が見える。旧道を交差し坂を上る。



琴風亭跡
舗装された民家脇の坂道を道なりに進むと生垣の前に石碑。「琴風亭跡」とあった。「琴風亭跡」から先は再び土径となる。途中「お茶屋跡」の石碑も立つ。
お茶屋跡
幕府巡検使接待のため建てられ、のち藩主の参勤交代や遠出の際の休憩所となった、とのこと。

再び旧国道に出る
道なりに進むと再び舗装された道に出る。旧国道だ。地図でチェックすると、旧国道は峠へと向かい、二つに分かれる、ひとつは先ほど出合った山側を抜ける道筋。もうひとつは海側を廻り手結岬から東進していた。






国道55号に合流
旧国道を道なりに進むと帝王地蔵菩薩の祠。この辺りから手結の港が見えてくる。道を下ると旧国道は手結港を越えた辺りで国道55号と合流する。




花取歩道トンネル
現国道55号を抜けるトンネルの山側に花取歩道トンネルがあった。現在の国道55号を抜ける手結山トンネルは歩道もないようで危険であり、旧手結山隧道を歩行者・自転車専用トンネルとしたようである。
花取歩道トンネルの手前には険路であった手結坂の峠の茶屋で売られていた「手結餅」を売る 和菓子店があった。
手結港
藩政時代野中兼山が開いた港。高知と室戸の中間にあり、漁港と共に風待ち港・避難港であったようである。

安芸郡芸西村から香南市域に

手結坂の峠を境に芸西村を離れ香南市域に入る。夜須町とある。地名に惹かれチェックするも、はっきりしない。鎌倉期に夜須市が領した夜須荘がこの辺りとのことだが、その由来は記されていない。
国道を西進すると右手、海岸に丘陵が迫る。月見山と呼ばれるこの山は土御門上皇ゆかりの地とされる。
承久の乱に敗れた父である後鳥羽上皇は隠岐に、兄の順徳上皇は佐渡に配流。討幕計画に加わることなく挙兵を諫めたといったスタンづであった土御門上皇も自ら配流を申し出、土佐に。行在所ははっきりしないが、後に阿波の守護である小笠原氏に迎えられ阿波に移る途次、この月見山にて、「かがみのや たがいつはりの 名のみして こふるみやこの かげもうつらず(鏡野や たが偽りのなのみして 恋うる都の影も うつさず)」。「鏡野」と称する所で月を仰ぎ海を眺めて、都を偲ばれた歌ではあろう。「かがみ」は今の香南市香我美町の由来のとのことである。
香南市
2006年(平成18年)3月1日 ? 香美郡赤岡町・香我美町、野市町、夜須町、吉川村が対等合併して誕生。市名の由来は市域が旧香美郡南部を占めていることによる(Wikipedia)。

香曽我部氏
往昔、香美(こうみ、かがみ)郡宗我郷を中心に覇をとなえた一族に香曾我部氏がいた。甲斐源氏武田氏の一族一条次郎忠頼に発する清和源氏の流れであるが、源平争乱記に活躍し、それゆえ頼朝に疎まれ一族は滅ぼされる。
香宗我部氏の祖は一条家当主の遺児。一条家の家臣であった中臣(中原)秋家が一命を助けられ頼朝に仕え、建久四年(1193)、香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職に補任され、土佐へ入部した。
貞応二年(1223)、秋家は主の遺児でありみずからが後見する一条秋通に香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職を譲り、秋通は香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職となり、子孫は土佐の有力国人に成長していくことになる。
香宗我部と名乗るきっかけは、秋家・秋通が土佐に下向したころ、秦能俊が長岡郡宗我部郷に入部した。香美郡宗我部郷、長岡郡宗我部郷にはいった両氏はそれぞれ宗我部を名字としたが、のちに、区別するため郡名を冠して香宗我部、長宗我部を名乗るようになったとのことである。 香宗我部氏は後に長曾我部一門に下った。

江見の馬車立場跡
月見山越えると遍路道は国道から離れ、月見山を廻り込むように国道の一筋北の道筋に入る。香我美町岸本の道を西進し香宗川に架かる明神橋を渡ると赤岡の町に入る。
少し進むと道の右手に馬車立場跡の案内。「江見町の馬車立場跡と馬車会社 明治から大正にかけて、和食行の馬車の発着所がこの地にあり、一日三往復であった。
この発着書から道を挟んで、南側に馬車会社があった」とあった。
この辺りは香南市赤岡町。そこに江見町?チェックすると香南市赤岡町江見町とあった。町がダブルで続く地名って他にあるのだろうか。また、どういった経緯でそうなった?チェックしてもわからなかった。

絵金蔵と弁天座

道を少し西に進むと、道の右手、少し狭い道を北に入ると絵金蔵とその前に弁天座がある。絵金は絵師金蔵の略。江戸末期。もとは土佐藩家老桐間家の御用を勤める狩野派の絵師であったが、贋作事件に巻き込まれ、城下追放となり野に下った絵金は叔母を頼りにこの赤岡の町に定住し、酒蔵をアトリエに芝居絵を描いた。

絵金(赤岡町資料より)
芝居は、江戸時代、庶民の身近な娯楽。絵金は二曲屏風の大画面に独特の芝居絵を描いた。絵金蔵には、町内に残された23枚の屏風絵が収蔵、保存されているとのことである。
絵金蔵の対面に趣のある芝居小屋。弁天小屋とある。「絵師・金蔵の芝居絵屏風の世界が「絵金歌舞伎」として演じられている。明治期に住民が建て(私注;大正の終わり赤岡の旦那衆が建てたとの記事もあった)1970年に閉館していたものを、文化活動拠点として2007年に復活。花道もあり、枡席や桟敷席などを構えた本格的な造りとなっている」との案内記事があった。

赤岡橋の船着場跡
少し西に進み、国道55号一筋手前の道を右折、北進すると赤岡大橋。橋の南詰に「赤岡大橋と船着場跡と横町 江戸時代、香宗川に架かる唯一の橋で、幅二軒、長さ十六間で欄干と手摺のついた木橋であった。
赤岡には港が無く、満潮を待って三十石船が香宗川を遡り、船着場に着いた。水深四尺であったという。
船着場周辺には茶屋が点在し、横町は栗皮石を敷いた坂道で、車馬は通れず、与楽寺三門を中心に栄えた門前町である」とあった。

横町は赤岡大橋の南側一帯。与楽寺は国道55号脇、香南市赤岡支所辺りにあったお寺さま。赤岡で最初のできた大きなお寺であり本陣として使われたと言う。

栗皮石
「横町は栗皮石を敷いた坂道で、車馬は通れず」とあるが、栗皮石ってどんな石?あれこれチェックすると蔵の石垣に残る、と。こんな栗のような尖がった石を大通りの真ん中に並べられていたようだ。馬車が通れるはずもなく、人も通りにくそうだ。ゆっくりと商店街を歩き商品を買ってもらおうとの心根であったようである。







一本松と標石
赤岡大橋を渡り北進するとY字路があり、分岐点に「一本松と遍路の腰掛石」の案内があり、「昔、宿場町入り口に遠くから望めるように松がそびえていて、それが地名になった。 松は「待つ」につながり、宿場のある意味を持つという。戦後は大きい松だったが、松喰虫の被害にあい、これは数代目の松である。
また、この松から道を挟んで大日寺への道標があり、横に腰掛石が置いてある」とある。道標には手印と共に、「へんろみち 大日寺江四十丁 香宗村六久保忠兵衛」と刻まれる。その裏にある平たい石が腰掛岩ということだろうか。
香宗村はかつての香美郡にあった村。現在の香南市野市町中ノ村・土居にあたる。

野市の標石
三差路を左に進んだ遍路道はその先で国道55号に合流。旧香郡赤岡を離れ旧香美郡野市に入る。しばらく国道北西に進み、高知東部自動車道香南ICを越えた先、国道55号が西へ方向を変えるところで遍路道は国道を逸れそのまま北西へ進む県道22号に入る。 烏川を渡ると道の右手、植え込みに隠れるように標石。手印と供に「右遍んろ路 是より大日寺二十丁」、側面に「天保十二年」といった文字が刻まれる。

大谷の標石
遍路道は次の四つ角で右折、この道は県道22号のまま。野市の中心部を北に進む。烏川の右岸から左岸に移り,鍾乳洞で知られる龍河洞への右折道をやり過ごし少し先に進むと大谷の集落、道右手の民家前に丁石。手印と供に「八丁」と刻まれる。
野市
『土佐地名往来』に、「野中兼山らの開発により"野原のなかに新しい市町 ができた。土佐の"三野地"の最初が野一、その 転訛野市」とある。
野中兼山が荒れ地であったのこの地を、香宗我部の遺臣を郷士にとりたて新田を開発。物部川から水を引き水路を流し700町もの新田を開いたとのことである。

旧遍路道に標石
八丁石からほどなく、県道22号を右に逸れる舗装道があり、歩き遍路道案内の木の標識や遍路タグが立つ。
道を進むと舗装も消え土径となるがほどなく集落に出る。そこに標石2基。1基は手印と共に「右へんろ道」と刻まれる。もうひとつは自然石の標石。線彫りの手印が刻まれるようだが横倒しになっており、手印は確認できなかった。

参道に標石
道を進むと参道石段にT字であたる。その合流点に標石。「右邊路道 これより国分寺** 寛政九」といった文字が刻まれている、と。
参道を進むと土産物屋の手前、右手に小さな自然石の標石があり、「左大日寺」と刻まれていた。






第二十八番札所 大日寺


土産物屋を越えると左手に石段があり、中程に山門があり、斜面にそのまま建てられている。 左側に鐘楼。
境内正面に南面した本堂。本堂前に伊藤萬蔵寄進の香台。本堂左には東面した大師堂。本堂右手は六角の地蔵堂が西面して建つ。
地蔵堂手前を東に150mほど歩くと奥の院。「爪彫り薬師」が祀られる。弘法大師が薬師如来を刻んだ楠の木が霊木として祀られていたが、明治の台風宇で倒れ、現在はお堂荷安置されると言う。 お堂の前には大師お加持水がパイプから湧き出ていた。




Wikipediaには、「大日寺(だいにちじ)は、高知県香南市にある真言宗智山派の寺院。法界山(ほうかいさん)、高照院(こうしょういん)と号す。本尊は金剛界大日如来。
寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基が大日如来像を刻んで堂宇を建立して開創したという。弘仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興したとされる。
慶長年間(1592年 - 1615年)から土佐藩の祈願所となり栄えたが、明治に入って神仏分離令によって廃寺となったが、大日堂と改称した本堂に本尊を安置していたので助かった。その後、明治17年(1884年)再興された。
奥の院の爪彫薬師は首から上の病に霊験ありとされ、平癒を祈る参拝者が跡を絶たない。願いが叶うと穴の開いた石に氏名、年齢、快癒した身体の部位を書き奉納する習わしとなっている」とあった。
続いて、当寺の重要文化財として「木造大日如来坐像 - 平安時代後期、檜の寄木造、古色、144.5cm。行基作の伝承があるが、技法等から平安時代後期の作と考えられる。非公開。本堂に接続した背後の収蔵庫に安置され、2014年に下記の木造聖観音立像と共に開帳された。明治44年8月9日指定。
木造聖観音立像 ? 平安時代後期、檜の一木造、素地、170.5cm。かつて存在した観音堂の本尊。明治44年8月9日指定」とある。
大日如来は像高 144.5cm、県下第一の巨像とのことである。



本日のメモはここまで、次回は第二十九番札所である国分寺へと向かう。

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