2回に分けて、生木道・香園寺道分岐点から、右に折れて進む生木道を進み、生木地蔵にお参りし、中山川を越えて小松の大頭から湯浪の横峰寺登山口に向かう、順路の遍路道をメモした。
今回は生木道・香園寺道分岐点から香園寺道を進み、中山川を越え、第六十一番札所香園寺を打ち、第六十番札所横峰寺に向かう逆打ちルートをメモする。 逆打ち遍路道ではあるが、順打ちで湯浪から横峰寺に上ったお遍路さんの復路でもある。黒瀬湖近くまで下る平野林道を歩くか、シャトルバスを利用するか、ともあれ黒瀬湖近くの横峰登山口バス停まで下り、そこからバスを利用するお遍路さんも多いと思うが、歩き遍路で第六十一番札所横峰寺から第六十一番札所香園寺に向かう復路でもある。
いつだったか第六十一番札所香園寺から第六十一番札所横峰寺に逆打ちで辿ったのだが、そのルートは香園寺奥の院経由の、通称奥の院道と称される道であった。今回香園寺から横峰寺への遍路道をチェックすると、奥の院道は昭和になって開かれた道であり、香園寺から小松川に沿って岡村から横峰寺登山口に進む遍路道があることを知った。この遍路道が往昔の逆打ち遍路道のようにも思え、今回は香園寺からは岡村を経由して横峰寺に上る遍路道をトレースする。
順打ちで湯浪から横峰寺に上り、復路も同じルートを戻るもよし、奥の院道、または岡村経由で六十一番札所香園寺に下るもよし、また、逆打ちのふたつの遍路道のどちらかで横峰寺に上り、逆打ちルートを戻るもよし、順打ちルートを逆に下るもよし、と幾つもの選択しからルートを選び歩き遍路旅を続けることができるかと思う。
本日のルート;
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川まで■
生木道・香園道分岐点の茂兵衛道標>喜多台の道標>円海寺橋>壬生川公民館の道標>貝田の道祖神>闇岡神社傍の道標>石田の道標
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川から香園寺まで■
中山川右岸の道標>清楽寺>JR予讃線新宮踏切南側の道標>国道11号線脇の道標>三嶋神社前の道標2基>三嶋神社東に茂兵衛道標>三嶋神社>香園寺参道入り口に3基の道標>六十一番札所香園寺
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:香園寺から横峰寺登山口まで■
香園寺参道南東の茂兵衛道標>小松橋東の茂兵衛道標>仏心寺>T字路の道標>T字路の茂兵衛道標>地蔵堂南・二差路の道標>車道を右折し三差路に>砕石場手前の2基の道標>採石場の先で舗装が切れる>横峰寺への登山口
生木道・香園道分岐点
大明神橋川南詰、生木道・香園道分岐点に立つ道標から、左に道を取り、香園道を進む。
県道159号を進むこの道は、通常、六十一番札所香園寺に向かい、逆打ちで六十番札所横峰寺を目指すルートである。
県道159号はかつての旧街道(西条道)。旧街道は、その後東予市内の壬生川(にゅうがわ)の街中・三津屋・北条を経て小松町、西条市へと至る。
喜多台の道標
今治自動車道の高架下を進み、藤森荒魂神社を越えた先で遍路道は県道159号から分かれ右折する。「えひめの記憶」には、かつてこの角に道標や摂待所があったとのこと。
右折し喜多台の公園を越えた先、T字路に道標が立つ。古い道標がいつのまにか無くなってしまったため、昭和30年代に地元の方が元の場所に道標を立てたとのことである(「えひめの記憶」)。南を指す手印と共に「右 へんろ道」と刻まれる。
円海寺橋
遍路道は新川に架かる円海寺橋を渡る。「えひめの記憶」には「円海寺橋から北東に約800m離れた壬生川公民館(壬生川200)には道標がある。小松藩の両替商和田屋利平の建てたものだが、刻字から推察すると東予市円海寺あたりの遍路道上にあったものと思われる」とある。ちょっと立ち寄り。建物脇の植え込みの中にある道標を確認し元に戻る。
壬生川公民館の道標
「えひめの記憶」には「円海寺橋から北東に約800m離れた壬生川公民館(壬生川200)には道標(72)がある。小松藩の両替商和田屋利平の建てたものだが、刻字から推察すると東予市円海寺あたりの遍路道上にあったものと思われる」とある。遍路道からは少し外れるがちょっと寄り道。植え込みの中に道標があった。
とりあえずはこの道標を見つけ、道を繋げようとおもうのだが、なにせ情報不足。遍路道が通るであろう清楽寺から逆トレースすると、予讃線の少し東に道が中山川へと続く。この道筋だろうと推測し道を進むと、道が予讃線とクロスする踏切の少し手前に道標があった。
「四国第六十番前札所清楽寺 大峰寺 第六十一番香園寺」「明治三十三年」 また、北向きの手印には「西山」らしき文字も読める。
清楽寺
道標の指示に従い田園の中を南東方向に進み、JR新宮踏切手前約100mの四つ角を左折。四つ角には祠に坐る地蔵、また六地蔵の他、石碑らしきものも見える。当初、この石碑のひとつが上述道標かと思っていた。道なりに進み清楽寺に。
●遥拝石と円柱道標
「えひめの記憶」には「清楽寺境内には、明治前半期の横峰寺との関係をしのばせる「横峯遥拝石」と「四國六十番札所大峰寺道 四國六十番前札清楽寺道 仝(どう)寺ヨリ六十一番ヱ四丁 仝寺ヨリ六十二番ヱ八丁 ホカ二六十番前札ナシ」と刻まれた円柱道標がある。(中略)この道標は30年ほど前までは、国道11号大頭交差点に立っていたようで、「ホ力二六十番前札ナシ」と特にことわっているのは、大頭にある妙雲寺との関係を意識したものであるとのことである」とある。
境内の西隅に「横峯遥拝石」が立つ。また、円柱道標は明治廿年と刻まれているようである。
●「ホ力二六十番前札ナシ」とは
「「ホ力二六十番前札ナシ」と特にことわっているのは、大頭にある妙雲寺との関係を意識したものである」とするが、この意味合いは清楽寺の他には六十番前札所はない、とかつて六十番前札所であった大頭の妙雲寺のことを意識しての記述である。
なんどかメモしたが、この間の経緯を再掲する;
経緯は明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。 六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
ここに六十番前札所極楽山妙雲寺であった登場する。本来であれば六十番前札所となった清楽寺とともに、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。
JR予讃線新宮踏切南側の道標
JR予讃線新宮踏切南側に2基の石碑が並ぶ。その左側の石碑には正面に「左へんろ道」、右に「南無大師遍照金剛」と刻まれる。「えひめの記憶」には踏切北側とあったが、南にもうひとつの石碑とともに移したのだろうか。「この道標は、このあたりの農道が主な清楽寺への道であったことを示しているが、ルートの確定は困難である(えひめの記憶)」ともあった。
国道11号線脇の道標
清楽寺から予讃線の高架を潜り、11号線に。新宮踏切からの道筋が合流する箇所に円柱の道標。手印と共に「四国六十番前札所 清楽寺」と清楽寺を案内する。
三嶋神社前の道標2基
参道鳥居の右手に2基の道標が並ぶ。円柱の道標は利平道標。左を示す手印と「こうおんじ」、「今治街道 こくぶんじ」、「文久四年」といった文字が読める。もう一方の角柱には「こんぴら大門」と刻まれ、金比羅街道であることを示す。
●金比羅道
いつだったか松山から桜三里を越えて、金比羅街道が中山川を渡る史跡 釜之口井堰へと辿ったことがある。大雑把に言って、そこから中山川を渡り国道11号の旧道を進むのが金比羅街道である。
三嶋神社東に茂兵衛道標
三嶋神社の道を隔てた東側に茂兵衛道標が立つ。正面には「六十一番 香園寺」左面には「六十二番一の宮宝寿寺」とともに、「旅う禮し 太だ一寿じ尓 法の道」と刻まれる(旅うれし ただひたすらに法の道)。
三嶋神社
三嶋神社にお参り。県道11号を松山方面から桜三里の山地を抜け、周桑平野を東に進むとき、四国山地から平野部に突き出した尾根筋が眼前に現れ、しばらくその尾根筋を右に見ながら走ることになる。
この尾根筋は、平野のどこに落ちるのだろうと結構気になっていたのだが、それがこの三嶋神社のある丘陵であった。正確には、その手前で尾根筋は切れ、三嶋神社のある丘陵は独立丘陵となっているのだが、ともあれ丘陵が周桑の平野に落ちる突端部に三嶋神社がある。
石段に上り拝殿にお参り。拝殿左手に一柳直徳と刻まれ、注連縄も張られた奉納石柱があり、小松藩の殿さまの奉納かとも思ったのだが、一柳系譜には見当たらなかった。ご子孫の奉納だろうか。
●三嶋神社由緒
三嶋神社由緒には、「元明天皇の和銅5年(712 年)8 月23 日、勅詔によって国司河野伊予守越智宿禰玉興、玉澄が井出郷の総鎮守として大山祇神社より勧請された古社で(一書に曰く聖武天皇の御宇天平年中河野益雄御勧請とも云)国司領主の崇敬厚く、河野家より境内八町四面の永代赦免状と寄附状の朱印があった。
後に井河神を開発の守護神として合祀し、その後、寛永15 年(1638年)小松藩主一柳直頼公が入封して本殿再建し、歴代の藩主も社殿修覆、領内主席神社として、参勤交代の節は道中安全祈願を行った。嘉永7年(1854年)にこの船山に遷座され、頂上に祀られし船山八幡宮を本社に合祀し、明治5年村社となり、明治28年1月31日郷社に列格した。
花陵神社は嘉永7年に本社をこの船山の地に遷宮の時、古墳を開掘して石棺の人骨、副葬品を多数に出土し、一部を帝室博物館に、残りを花陵神社に奉斎しその霊を神として祀っている。この当時の様は舟山騒動の芝居の起因として世に知られている。
10月17日の秋祭には、だんじり10数台が、五穀豊穣と家内安全の祈りを込めて、境内で絢爛豪華な練りが奉納されている」とある。
花陵神社は神社境内社のひとつである。また、遷座は新宮原から移されたとされるが、その場所は清楽寺の東辺りかと思われる。
●指定文化財
三嶋神社由緒の案内の脇にある平成二十五年 西条市教育委員会作成の指定文化財の案内には。
○「愛媛県指定 史跡 船山古墳群 昭和37年指定」
県指定史跡 船山古墳群は、小松川の西岸に位置する東西三百メートル、南北百メートル、高さ十五メートルの偏平な丘陵に築造された古墳時代後期の群集古墳である。丘陵は中央部がくびれ、形が舟に似ていることから舟山の名がある。
丘陵東部には三嶋神社が鎮座しており、西部の古墳群全体がその境内地となっている。嘉永七年(1854)、三嶋神社が遷座した際、武器や勾玉、須恵器などが発掘されたことが、『小松邑誌』に記録されている。かつて古墳は二十基ほどあったとされるが、現在確認できるのは十基ほどである。
○「西条市指定 工芸品 一柳直卿の扁額「三島宮」一柳直卿石碑
「三島新宮」の案内には、三嶋神社は、歴代の小松藩主一柳家(越智氏)の産土神として庇護を受けてきた神社であり、船山に遷座したのは八代藩主一柳頼紹(よりつぐ)の時である。また、神社には能書家として知られる三代目一柳直卿(なおあきら)が寄進した「三嶋新宮」の石碑や「三島宮」の扁額も残されており、両方とも市の指定文化財となっている」とあった。一柳直卿石碑「三島新宮」は石段手前左手にある。
香園寺参道入り口に3基の道標
三嶋神社東の道路を南西に進み、最初の大きな四つ角を右折すると香園寺参道入り口に至る。「えひめの記憶」には、かつての遍路道は「清楽寺から三嶋神社前の三差路を経て、三嶋神社左手の田んぼの小道を通って、香園寺へと進んでいたようであるが、現在その道は残っていない」とある。
参道へと左折するT字路、東西に走る道路の北側左手に3基の道標が並ぶ。手印と共に清楽寺への道を示した円柱の利平道標、「右へんろ」と刻まれた小さな道標、手印と共に「六十一番香園寺 六十二番寶壽寺」が刻まれた面と、矢印のようなマークと共に「六十番横峯寺」と刻まれた道標が、「61番香園寺 0,2km」「62番宝寿寺1.2km」と書書かれた「四国のみち」の木標脇に並ぶ。
六十一番札所香園寺
参道を進み六十一番札所香園寺に。このお寺さまは「子安大師」として知られ、我が家の子供たちも、そのおかげをもって健やかに育ってくれた。境内には近代的な大聖堂。2階が本堂と大師堂を兼ねる。
Wikipediaをもとにまとめると:香園寺(こうおんじ)は、真言宗系の単立寺院(元御室派の寺院)。山号は栴檀山(せんだんさん)。院号は教王院(きょうおういん)。本尊は大日如来。
寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を賜ったとされる。天平年間(729年 - 749年)には行基が巡錫。大同年間には、空海が巡錫中、当寺の門前で身重で苦しむ婦人に、栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な男の子が無事に出産。また、栴檀の香を焚いて、安産・子育て・身代り・女人成仏を祈る四誓願の護摩修法をした。以来、安産・子育ての信仰の寺となったと。
天正年間(1573年 - 1592年)兵火に遭って焼失したが、江戸時代に入り小松藩主一柳氏の帰依を得て寛永年間(1624年 - 1644年)に再興されている。また古くは、高鴨神社の別当寺であったとされる。
1903年(明治36年)住職になった山岡瑞園大和尚により、1914年(大正3年)に本堂を再興、大正7年に「子安講」を創始し、全国はおろか海外にまで講員を拡大し隆盛に尽力した。 1976年(昭和51年)本堂は妙雲寺に移築され、その跡地に、高さ16m座席数620余の鉄筋コンクリート造りの大聖堂が建立された。
2階本堂には金色に輝く大日如来と大師像。この大日如来像は前立本尊でり、本尊は秘仏として後ろの厨子におわす、とのことである。境内の子安大師堂にお参りし、孫の健やかな成長を願う。因みに、子安講は往時10万人を越えたと言う。
●山頭火・紫苑荘の歌碑
境内を大聖堂に進む途中、左手に2基の山頭火の歌碑があった。自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。「南無観世音おん手したたる水の一すぢ」、「秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり」と刻まれる。
この句は山頭火の2回目の四国遍路の途中、この地で詠んだもの。1回目の四国遍路は昭和2年から3年にかけてのもので、中国・四国・九州と七年に及ぶ旅のひとこまであったが、2回目は昭和14年10月5日に松山を出て、10月8日香園寺に着き、10月14日に出立した。旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断し、松山に戻り「一草庵」に住まうことになる。
また、森 紫苑荘の川柳、「偉い子はいぬがどのこも親思い」と刻まれた歌碑もあった。刑務官として全国を転勤した方とのことだが、香園寺との関わりはわからない。
●境内入り口右手の道標2基
矢印と共に「六十二番 へんろ」と刻まれた幅広の道標の横に徳右衛門道標。地蔵像が刻まれた面には「是より 一ノ宮*八丁」とあるが、手印は奥の院方面を示しているように思える。文字は潰れて読めない。
◆香園寺奥の院への道
逆打ちで香園寺奥の院から横峰寺へと辿ったときは、直接香園寺奥の院に向かい横峰へと向かったのだが、香園寺から奥の院までの道筋の概略をメモする。 香園寺からは、神仏分離令以前は香園寺が別当寺となっていた高鴨神社へと上り、丘陵を越えて大谷池の東の舗装道に出る。そこからは大谷池の東を道なりに進み、松山道の高架下を抜け、南へと進めば奥の院に至る。「えひめの記憶」には「横峰寺から続いていた舟形地蔵丁石がおこやから岡村への道に続いていることや、香園寺奥の院白滝が昭和8年(1933)に香園寺住職山岡瑞圓によって新たに作られたということなどを考慮すると、おこやから岡村を経て香園寺に至る道よりは新しい遍路道であると思われる」とあった。
いつだったか、香園寺奥の院から横峯へ逆打ちで上り、先回生木道でメモした湯浪に下りたのだが、上述の如く奥の院からの道は昭和に入ってからの遍路道のようであり、今回は香園寺から岡村を抜けて横峯への登山口までという、オーソドックスなルートを繋ごうと思う。
香園寺参道南東の茂兵衛道標
上述徳右衛門道標のある反対側、境内と駐車場の間を南に進み、境内を離れるあたりでT字路を左に折れ、集落の中の小川に架かる橋を渡りT字路を左折して少し先に進むと、道端に徳右衛門道標がある。えひめの記憶」には植え込みに中と記されていたが、現在は植え込みはなくなり、道端にポツンと立つ。 正面進行方向は「六十二番 寶寿寺」、右折方向の面には向い合せの手印と共に「六十一番 香園寺 六十番 大峰寺」と刻まれる。
進行方向を真っ直ぐに進めば香園寺参道入口の3基の道標の所に出るが、横峰を目指す遍路道は、ここを右に折れ、田圃の畦道を進むことになる。
小松橋東の茂兵衛道標
畦道を進み、松山自動車道のサービスエリア「石鎚山ハイウェイオアシス」に至る広い道を横切り、民家の軒先の狭い道を進み、前述香園寺の山岡瑞園大和尚がつくった学校がその前進と言う小松高校への通学路の道を横切り、先に進むと小松川にあたる。
道を左折し、小松橋を渡ると、直ぐ右に分岐する路地の角に茂兵衛道標が立つ。右折方向の面には「大峯寺」、小松橋に向かう方向には「香園寺」と刻まれる。
仏心寺
小松川に沿って南東に道を進み、四つ角に出る。遍路道は更に直進するが、右折し小松川左岸にある仏心寺にちょっと立ち寄り。
小松川を渡り山門に向かう。なんとなく武家屋敷の趣が残る。山門前にある案内によると「仏心寺は、小松藩の二代藩主の一柳直冶(ナオハル)により、その父、初代藩主の直頼(ナオヨリ)の七回忌にあたる慶安3年(1650)に一柳家代々の菩提寺として、臨済宗妙心寺派の南明禅師を開山に迎え建立されました。 江戸時代(1596~1867)を通じ境内の拡充が図られ、明治以降も、小松藩ゆかりの建物が移築され、現在に至っています。
山門(東向き)・御霊屋門(ミタマヤモン;南向き)・桜門(境内西)・庫裏(クリ)などが代表的なもので、珍しい遺構として、鐘楼東側に、供待(トモマチ;お供の家臣の待機場所)が残されており、藩主菩提寺の格式を示しています。 仏心寺は、藩主や小松藩にとって重要なお寺でしたから、藩政時代の古記録や古文書、歴代藩主の書跡、住職の墨跡など貴重な資料も多く残され、小松文化の宝庫と云われています。なかでも大名屈指の書の達人と云われた、三代藩主の直卿(ナオアキラ)の書と扁額は西条市文化財に指定されています。
また、天然記念物として、中国原産の広葉杉(コウヨウザン;中庭 藩主寄進と伝わる)と明石連(北庭、紅色の椿)があり、特に椿は、数百種と数多く、椿寺としても知られています。 西条市教育委員会」とある。
●山門
山門を潜り境内に。山門の案内は「藩政時代の建造物、二軒(二重)繁垂木、切妻造り、本瓦葺きで堂々たる四脚門です。四脚門は主柱の前後に二本ずつの控柱左右合わせて四本の柱を立ててある門です。需要文化財として残る日本の門の建築様式に多い門で格式の高い門とされています。
山門正面の『圓覚山』の扁額は、一柳直卿公(なおあきら;頼徳)御真筆の奉納額です。西条市の文化財(工芸品)の指定を受けています」とある。
本堂の右手に鐘楼と供待がある。それぞれの案内は
●鐘楼
「この近辺で最も古く、よい音を出す鐘といわれています。江戸時代の作で宝暦8年(1758)戌寅二年吉日の銘があります。藤原政治の作です。平瓦葺、一軒(一重)疎垂木、入母屋造りの屋根です。この鐘は西山興隆寺・長福寺の鐘と共に供出を免れた郡内の三鐘のひとつです」
●供待(ともまち)
「供待は大名家の菩提寺にある独特のもので、藩主が参拝・法事を勤める間、供の者たちが待っている待合所です。供待が現在残っているものは大変少なく珍しいものです」
本堂にお参りし、左手の御霊屋門(みたまやもん)に
●御霊屋門(みたまやもん)
「元藩主墓所へ通ずる参道(御霊屋道)の山にかかるあたり(御霊屋口)に建てられていたのが、明治になって佛心寺へ移されました。一軒(一重)疎垂木の切妻造りの屋根をかけています。用側に袖がなく支柱で支えられています。 鴨居には小松藩主の御紋「丸之中二十釘抜紋」がはめ込まれており、屋根の両端にはちいさいながらも鯱瓦がすつられています」との案内があった。
◆一柳家と小松陣屋
Wikipediaには「『寛政重修諸家譜』が記すところによれば、河野通直(弾正少弼)の子宣高が美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市)に移り、土岐氏の家臣になって一柳氏を称したという。「一柳」の家名は、土岐氏が宣高を招いた蹴鞠の場で鞠庭の柳がひときわ鮮やかであったことが由来とされる。しかしながら、系譜上の世代数の不自然さなどから、河野通直の子孫であることには疑問が呈されている。
宣高の孫の一柳直末・一柳直盛兄弟が豊臣秀吉に仕え、兄の直末は美濃国の軽海西城主となったが天正18年(1590年)小田原征伐のときに、緒戦の山中城攻めで戦死した。弟の直盛は尾張国(今の愛知県西部)黒田城3万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢国(三重県)神戸藩5万石に加増転封された。更に寛永13年(1636年)には伊予国西条藩6万8600石に移転したが同年死没した。彼の遺領は直重・直家・直頼の3人の息子たちによって分割された。
長男の直重が西条藩3万石を相続して2代藩主となったが、その子直興の代に勤仕怠慢の理由により除封された。
次男直家は播磨国(兵庫県)加東郡及び伊予宇摩郡・周布郡に2万8600石を領し、小野藩初代藩主となった。しかし直家の死後は末期養子が認められず1万石に減封され、幕末に至った。歴代藩主は対馬守や土佐守などに叙任され、明治17年(1884年)一柳末徳が子爵となった。
3男直頼は伊予国周布郡・新居郡に1万石を領し、小松藩初代藩主となりそのまま幕末に至った。歴代藩主は兵部少輔や美濃守などに叙任され、明治17年(1884年)に一柳紹念が子爵となった」とあった。
小松藩の陣屋は、仏心寺から東へ抜ける道を少し進んだところにあった。
T字路の道標
遍路道に戻り、民家の間を南に進むとT字路に。正面の民家ブロック塀の前に道標がある。手印は北を指すが、文字は摩耗して読めない。
T字路の茂兵衛道標
T字路を左折するとすぐ南に折れるT字路があり、その角の駐車場脇に道標がある。「えひめの記憶」には、「仏心寺を西に見ながら直進し、約200m進んで三差路を左折するとすぐ、(なんか)公民館西の三差路に至り、三差路東の民家のブロック塀に隣接して、大峯寺と香園寺への道を示した茂兵衛道標がある。このあたりが岡村の北端である」とある。公民館もブロック塀も無いようだが、この駐車場脇の道標が記事にある茂兵衛道標かと思う。摩耗し文字は読めないが、手印と共に「大峯寺」と「香園寺」の文字が刻まれる、と。
地蔵堂南・二差路の道標
茂兵衛道標から南に進むと、小松川の支流手前に地蔵堂があり、小川を渡った先の石垣で道が左右に分かれる。その石垣下の分岐点にほとんどアスファルトに埋もれた状態で正面に手印、右側に「文政四」(1821)と刻まれた道標がある。
車道を右折し三差路に
遍路道は左手。田圃の中の道をしばらく歩くと舗装された大きな道にでる。
車道に出た遍路道は、右に折れ車道を進み松山道の高架下を抜けしばらく進むと三差路に出る。右に曲がると、地蔵堂南・二差路の道標に戻り、直進すると石鎚山サービスエリア南、小松オアシス道の駅。遍路道は左に折れて山に向う。 「えひめの記憶」には、「この付近には道標もなく、高速自動車道路工事により新道ができており、遍路道の特定は困難である」とある。
砕石場手前の2基の道標
道を進むと採石場手前の建物(地図には石鎚総合研究所とある。自然食品販売の会社のようだ)の入り口、生垣に埋もれた2基の道標がある。
「えひめの記憶」には「右は「世話人西條寿し駒事日野駒吉」と刻まれた板状の道標であり、左は「六十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石である。(中略)湯浪地区では昔から、横峰寺への登り道の舟形地蔵丁石のほとんどは、「寿し駒」によって建てられたと語り伝えられてきたという。
「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951) (写真3-3-9)は、「西條人物列伝」(『西條史談』)によると、周桑郡玉之江(東予市)に生まれ、西條吉原(西条市吉原東)ですし屋を営むかたわら大師信仰に生涯をかけたことで知られる人物である。
先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる。西条市の六十四番前神寺境内には、大正5年(1916)、日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進した弘法大師修行の石像が立っている。
その右には、大正15年(1926)に建立された五輪塔の日野駒吉頌徳碑(しょうとくひ)が立っている」とある。
「寿し駒」の道標には「横峰寺六十丁 西條市大師蓮花講 信者一同世話人日野駒吉」といった文字が読める。左手の地蔵丁石は下半分が土に埋もれていた。
採石場の先で舗装が切れる
採石場のトラックの出入り口の右手の道に遍路道の案内がある。採石場の方が、敷地内に入らないようにと案内したものだろう。
右の道を、左手に削り取られた採石場の山肌を見遣りながら進むとほどなく舗装が切れ、簡易舗装となり、それも切れると割と広い林道(本谷林道)を進む。「えひめの記憶」には舗装された道、と記されているが、簡易舗装も土砂で荒れたのか、小石の多い林道となってちる。
横峰寺への登山口
本谷林道をしばらく進むと沢を越えて南東に曲がる辺りに、直進する道がある。この分岐点が「おこや」を経て横峰寺に向かう登山口である。予定では、とりあえず、逆打で横峰寺から湯浪に下りた道に合流する「おこや」までは行ってみようかと思ってはいたのだが、当日、直進方向の沢沿いの道は完全に崩壊していた。時間も夕暮れが近づいていたこともあり、今回はここで終了とする。
3回に分けてメモした五十九番札所から六十番札所横峰寺を繋ぐ遍路道では、今治の国分寺から西条市に入り大明神川を越えた先の生木道と香園道の分岐まで、そこから生木道を経て小松の大頭から湯浪から横峰に上る順打ちのルート、また香園道を経て六十一番札所・香園寺から岡村を抜けて横峰に上る逆打ちルートをメモした。
最近では県道12号を黒瀬湖近くの横峰登山口までバスを利用し、そこから平野林道を横峰に向かうシャトルバスに乗り換えてお参りすることもできる。
、
何回かにわけて、第五十九番札所国分寺から六十番札所横峰寺を繋ぐふたつの遍路道、生木道を経由して湯浪の登山口から横峰寺に上る順打ちの遍路道、香園寺道を経由して第六十一番札所香寺を打ち、岡村から横峰寺登山口を上る逆打ち遍路道をメモした。
登山口から先の横峰寺への遍路道は、いつだったか辿った香園寺奥の院から横峰寺を逆打ちで辿り、湯浪へと下った遍路歩きのメモを参考にしていただければと思う。
今回は生木道・香園寺道分岐点から香園寺道を進み、中山川を越え、第六十一番札所香園寺を打ち、第六十番札所横峰寺に向かう逆打ちルートをメモする。 逆打ち遍路道ではあるが、順打ちで湯浪から横峰寺に上ったお遍路さんの復路でもある。黒瀬湖近くまで下る平野林道を歩くか、シャトルバスを利用するか、ともあれ黒瀬湖近くの横峰登山口バス停まで下り、そこからバスを利用するお遍路さんも多いと思うが、歩き遍路で第六十一番札所横峰寺から第六十一番札所香園寺に向かう復路でもある。
いつだったか第六十一番札所香園寺から第六十一番札所横峰寺に逆打ちで辿ったのだが、そのルートは香園寺奥の院経由の、通称奥の院道と称される道であった。今回香園寺から横峰寺への遍路道をチェックすると、奥の院道は昭和になって開かれた道であり、香園寺から小松川に沿って岡村から横峰寺登山口に進む遍路道があることを知った。この遍路道が往昔の逆打ち遍路道のようにも思え、今回は香園寺からは岡村を経由して横峰寺に上る遍路道をトレースする。
順打ちで湯浪から横峰寺に上り、復路も同じルートを戻るもよし、奥の院道、または岡村経由で六十一番札所香園寺に下るもよし、また、逆打ちのふたつの遍路道のどちらかで横峰寺に上り、逆打ちルートを戻るもよし、順打ちルートを逆に下るもよし、と幾つもの選択しからルートを選び歩き遍路旅を続けることができるかと思う。
本日のルート;
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川まで■
生木道・香園道分岐点の茂兵衛道標>喜多台の道標>円海寺橋>壬生川公民館の道標>貝田の道祖神>闇岡神社傍の道標>石田の道標
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川から香園寺まで■
中山川右岸の道標>清楽寺>JR予讃線新宮踏切南側の道標>国道11号線脇の道標>三嶋神社前の道標2基>三嶋神社東に茂兵衛道標>三嶋神社>香園寺参道入り口に3基の道標>六十一番札所香園寺
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:香園寺から横峰寺登山口まで■
香園寺参道南東の茂兵衛道標>小松橋東の茂兵衛道標>仏心寺>T字路の道標>T字路の茂兵衛道標>地蔵堂南・二差路の道標>車道を右折し三差路に>砕石場手前の2基の道標>採石場の先で舗装が切れる>横峰寺への登山口
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川まで■
生木道・香園道分岐点
大明神橋川南詰、生木道・香園道分岐点に立つ道標から、左に道を取り、香園道を進む。
県道159号を進むこの道は、通常、六十一番札所香園寺に向かい、逆打ちで六十番札所横峰寺を目指すルートである。
県道159号はかつての旧街道(西条道)。旧街道は、その後東予市内の壬生川(にゅうがわ)の街中・三津屋・北条を経て小松町、西条市へと至る。
喜多台の道標
今治自動車道の高架下を進み、藤森荒魂神社を越えた先で遍路道は県道159号から分かれ右折する。「えひめの記憶」には、かつてこの角に道標や摂待所があったとのこと。
右折し喜多台の公園を越えた先、T字路に道標が立つ。古い道標がいつのまにか無くなってしまったため、昭和30年代に地元の方が元の場所に道標を立てたとのことである(「えひめの記憶」)。南を指す手印と共に「右 へんろ道」と刻まれる。
円海寺橋
遍路道は新川に架かる円海寺橋を渡る。「えひめの記憶」には「円海寺橋から北東に約800m離れた壬生川公民館(壬生川200)には道標がある。小松藩の両替商和田屋利平の建てたものだが、刻字から推察すると東予市円海寺あたりの遍路道上にあったものと思われる」とある。ちょっと立ち寄り。建物脇の植え込みの中にある道標を確認し元に戻る。
壬生川公民館の道標
「えひめの記憶」には「円海寺橋から北東に約800m離れた壬生川公民館(壬生川200)には道標(72)がある。小松藩の両替商和田屋利平の建てたものだが、刻字から推察すると東予市円海寺あたりの遍路道上にあったものと思われる」とある。遍路道からは少し外れるがちょっと寄り道。植え込みの中に道標があった。
貝田の道祖神
「えひめの記憶」には「県道壬生川丹原線(48号)を越えて南東に300mほど進み、下貝田244-1の四つ角に至る。そこには壬生川公民館にあったものと全く同じ刻字の和田屋利平の道標がある」とあるが、見つけることはできなかった。
更に「そこから南東に進み向口川を越えると、すぐ右手に一つの石に彫られた2体の地蔵があり」とする。その場所には貝田の道祖神との石碑があった。
「えひめの記憶」には「県道壬生川丹原線(48号)を越えて南東に300mほど進み、下貝田244-1の四つ角に至る。そこには壬生川公民館にあったものと全く同じ刻字の和田屋利平の道標がある」とあるが、見つけることはできなかった。
更に「そこから南東に進み向口川を越えると、すぐ右手に一つの石に彫られた2体の地蔵があり」とする。その場所には貝田の道祖神との石碑があった。
闇岡(くらみ)神社傍の道標
道祖神から500mほど進むと、右に少し細くなった道が分かれる。遍路道はこの右に入る道を進む。途中、地蔵堂などを見遣りながら進むと{闇岡(くらみ)神社前(石田本郷601-2)の道路沿いに道標がある(えひめの記憶)」とする。当日は、どうしたことか見つけることができなかったのだが、Google Street Viewには民家ブロック塀の前に道標が立っている。どうして見つけられなかったのか、ちょっと混乱。
●闇岡(くらみ)神社
闇岡(くらみ)の名称が気になりチェックするが、見つからない。 音からすれば、水の神である闇淤加美神(くらおかみのかみ)に近く、音の転化か何か、両社に関係ありそうにも思うのだが、エビデンスはない。
石田の道標
闇岡(くらみ)神社から100mほど進んだ四つ角に道標がある。摩耗し文字は読めない。「えひめの記憶」には「遍路道は、ここからさらに進んで中山川に至り、現在のJR予讃線の中山川鉄橋の少し上手(西側)で川を渡っていたというが、この間の道は定かでない」とある。
□バリエーションルート□
「えひめの記憶」には「香園寺道と大分離れたところにある東予市周布公民館のすぐ北西の酒店前(周布本郷1290)に、道標がある。この道標は、『東予市誌』によると、生木道の途中、東予市桑村または同新町で左折をし、丹原町願連寺を経て東予市周布を通り、同吉田辺りから中山川に出る別の遍路道沿いにあったもののようである」とする。
生木道でメモした新町あたりで左折し、今治道路丹原ICあたりの連願寺を経て、この周布から吉田をぬけたようだ。県道44号が中山川を渡る橋が吉田橋と呼ばれるので、その辺りにでたのだろうか。目安は道標ひとつであり、詳細は不明である。
中山川右岸の道標
中山川を越えた遍路道は清楽寺を目指す。JR予讃線の中山川鉄橋の少し上手(西側)で川を渡っていた、と言われる遍路道は、「田んぼのあぜ道を400mほど南東方向に進む。このあぜ道が北西から進んできた丹原町に至る道と交差する地点に、清楽寺・香園寺・大峰寺への道を示した道標が立っている(えひめの記憶)」と記される。
Google Street Viewで作成 |
道祖神から500mほど進むと、右に少し細くなった道が分かれる。遍路道はこの右に入る道を進む。途中、地蔵堂などを見遣りながら進むと{闇岡(くらみ)神社前(石田本郷601-2)の道路沿いに道標がある(えひめの記憶)」とする。当日は、どうしたことか見つけることができなかったのだが、Google Street Viewには民家ブロック塀の前に道標が立っている。どうして見つけられなかったのか、ちょっと混乱。
●闇岡(くらみ)神社
闇岡(くらみ)の名称が気になりチェックするが、見つからない。 音からすれば、水の神である闇淤加美神(くらおかみのかみ)に近く、音の転化か何か、両社に関係ありそうにも思うのだが、エビデンスはない。
石田の道標
闇岡(くらみ)神社から100mほど進んだ四つ角に道標がある。摩耗し文字は読めない。「えひめの記憶」には「遍路道は、ここからさらに進んで中山川に至り、現在のJR予讃線の中山川鉄橋の少し上手(西側)で川を渡っていたというが、この間の道は定かでない」とある。
□バリエーションルート□
「えひめの記憶」には「香園寺道と大分離れたところにある東予市周布公民館のすぐ北西の酒店前(周布本郷1290)に、道標がある。この道標は、『東予市誌』によると、生木道の途中、東予市桑村または同新町で左折をし、丹原町願連寺を経て東予市周布を通り、同吉田辺りから中山川に出る別の遍路道沿いにあったもののようである」とする。
生木道でメモした新町あたりで左折し、今治道路丹原ICあたりの連願寺を経て、この周布から吉田をぬけたようだ。県道44号が中山川を渡る橋が吉田橋と呼ばれるので、その辺りにでたのだろうか。目安は道標ひとつであり、詳細は不明である。
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川から香園寺まで■
中山川右岸の道標
中山川を越えた遍路道は清楽寺を目指す。JR予讃線の中山川鉄橋の少し上手(西側)で川を渡っていた、と言われる遍路道は、「田んぼのあぜ道を400mほど南東方向に進む。このあぜ道が北西から進んできた丹原町に至る道と交差する地点に、清楽寺・香園寺・大峰寺への道を示した道標が立っている(えひめの記憶)」と記される。
とりあえずはこの道標を見つけ、道を繋げようとおもうのだが、なにせ情報不足。遍路道が通るであろう清楽寺から逆トレースすると、予讃線の少し東に道が中山川へと続く。この道筋だろうと推測し道を進むと、道が予讃線とクロスする踏切の少し手前に道標があった。
「四国第六十番前札所清楽寺 大峰寺 第六十一番香園寺」「明治三十三年」 また、北向きの手印には「西山」らしき文字も読める。
清楽寺
道標の指示に従い田園の中を南東方向に進み、JR新宮踏切手前約100mの四つ角を左折。四つ角には祠に坐る地蔵、また六地蔵の他、石碑らしきものも見える。当初、この石碑のひとつが上述道標かと思っていた。道なりに進み清楽寺に。
●遥拝石と円柱道標
「えひめの記憶」には「清楽寺境内には、明治前半期の横峰寺との関係をしのばせる「横峯遥拝石」と「四國六十番札所大峰寺道 四國六十番前札清楽寺道 仝(どう)寺ヨリ六十一番ヱ四丁 仝寺ヨリ六十二番ヱ八丁 ホカ二六十番前札ナシ」と刻まれた円柱道標がある。(中略)この道標は30年ほど前までは、国道11号大頭交差点に立っていたようで、「ホ力二六十番前札ナシ」と特にことわっているのは、大頭にある妙雲寺との関係を意識したものであるとのことである」とある。
境内の西隅に「横峯遥拝石」が立つ。また、円柱道標は明治廿年と刻まれているようである。
●「ホ力二六十番前札ナシ」とは
「「ホ力二六十番前札ナシ」と特にことわっているのは、大頭にある妙雲寺との関係を意識したものである」とするが、この意味合いは清楽寺の他には六十番前札所はない、とかつて六十番前札所であった大頭の妙雲寺のことを意識しての記述である。
なんどかメモしたが、この間の経緯を再掲する;
経緯は明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。 六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
ここに六十番前札所極楽山妙雲寺であった登場する。本来であれば六十番前札所となった清楽寺とともに、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。
JR予讃線新宮踏切南側の道標
JR予讃線新宮踏切南側に2基の石碑が並ぶ。その左側の石碑には正面に「左へんろ道」、右に「南無大師遍照金剛」と刻まれる。「えひめの記憶」には踏切北側とあったが、南にもうひとつの石碑とともに移したのだろうか。「この道標は、このあたりの農道が主な清楽寺への道であったことを示しているが、ルートの確定は困難である(えひめの記憶)」ともあった。
国道11号線脇の道標
清楽寺から予讃線の高架を潜り、11号線に。新宮踏切からの道筋が合流する箇所に円柱の道標。手印と共に「四国六十番前札所 清楽寺」と清楽寺を案内する。
三嶋神社前の道標2基
参道鳥居の右手に2基の道標が並ぶ。円柱の道標は利平道標。左を示す手印と「こうおんじ」、「今治街道 こくぶんじ」、「文久四年」といった文字が読める。もう一方の角柱には「こんぴら大門」と刻まれ、金比羅街道であることを示す。
●金比羅道
いつだったか松山から桜三里を越えて、金比羅街道が中山川を渡る史跡 釜之口井堰へと辿ったことがある。大雑把に言って、そこから中山川を渡り国道11号の旧道を進むのが金比羅街道である。
三嶋神社東に茂兵衛道標
三嶋神社の道を隔てた東側に茂兵衛道標が立つ。正面には「六十一番 香園寺」左面には「六十二番一の宮宝寿寺」とともに、「旅う禮し 太だ一寿じ尓 法の道」と刻まれる(旅うれし ただひたすらに法の道)。
三嶋神社
三嶋神社にお参り。県道11号を松山方面から桜三里の山地を抜け、周桑平野を東に進むとき、四国山地から平野部に突き出した尾根筋が眼前に現れ、しばらくその尾根筋を右に見ながら走ることになる。
この尾根筋は、平野のどこに落ちるのだろうと結構気になっていたのだが、それがこの三嶋神社のある丘陵であった。正確には、その手前で尾根筋は切れ、三嶋神社のある丘陵は独立丘陵となっているのだが、ともあれ丘陵が周桑の平野に落ちる突端部に三嶋神社がある。
石段に上り拝殿にお参り。拝殿左手に一柳直徳と刻まれ、注連縄も張られた奉納石柱があり、小松藩の殿さまの奉納かとも思ったのだが、一柳系譜には見当たらなかった。ご子孫の奉納だろうか。
●三嶋神社由緒
三嶋神社由緒には、「元明天皇の和銅5年(712 年)8 月23 日、勅詔によって国司河野伊予守越智宿禰玉興、玉澄が井出郷の総鎮守として大山祇神社より勧請された古社で(一書に曰く聖武天皇の御宇天平年中河野益雄御勧請とも云)国司領主の崇敬厚く、河野家より境内八町四面の永代赦免状と寄附状の朱印があった。
後に井河神を開発の守護神として合祀し、その後、寛永15 年(1638年)小松藩主一柳直頼公が入封して本殿再建し、歴代の藩主も社殿修覆、領内主席神社として、参勤交代の節は道中安全祈願を行った。嘉永7年(1854年)にこの船山に遷座され、頂上に祀られし船山八幡宮を本社に合祀し、明治5年村社となり、明治28年1月31日郷社に列格した。
花陵神社は嘉永7年に本社をこの船山の地に遷宮の時、古墳を開掘して石棺の人骨、副葬品を多数に出土し、一部を帝室博物館に、残りを花陵神社に奉斎しその霊を神として祀っている。この当時の様は舟山騒動の芝居の起因として世に知られている。
10月17日の秋祭には、だんじり10数台が、五穀豊穣と家内安全の祈りを込めて、境内で絢爛豪華な練りが奉納されている」とある。
花陵神社は神社境内社のひとつである。また、遷座は新宮原から移されたとされるが、その場所は清楽寺の東辺りかと思われる。
●指定文化財
三嶋神社由緒の案内の脇にある平成二十五年 西条市教育委員会作成の指定文化財の案内には。
○「愛媛県指定 史跡 船山古墳群 昭和37年指定」
県指定史跡 船山古墳群は、小松川の西岸に位置する東西三百メートル、南北百メートル、高さ十五メートルの偏平な丘陵に築造された古墳時代後期の群集古墳である。丘陵は中央部がくびれ、形が舟に似ていることから舟山の名がある。
丘陵東部には三嶋神社が鎮座しており、西部の古墳群全体がその境内地となっている。嘉永七年(1854)、三嶋神社が遷座した際、武器や勾玉、須恵器などが発掘されたことが、『小松邑誌』に記録されている。かつて古墳は二十基ほどあったとされるが、現在確認できるのは十基ほどである。
○「西条市指定 工芸品 一柳直卿の扁額「三島宮」一柳直卿石碑
「三島新宮」の案内には、三嶋神社は、歴代の小松藩主一柳家(越智氏)の産土神として庇護を受けてきた神社であり、船山に遷座したのは八代藩主一柳頼紹(よりつぐ)の時である。また、神社には能書家として知られる三代目一柳直卿(なおあきら)が寄進した「三嶋新宮」の石碑や「三島宮」の扁額も残されており、両方とも市の指定文化財となっている」とあった。一柳直卿石碑「三島新宮」は石段手前左手にある。
香園寺参道入り口に3基の道標
三嶋神社東の道路を南西に進み、最初の大きな四つ角を右折すると香園寺参道入り口に至る。「えひめの記憶」には、かつての遍路道は「清楽寺から三嶋神社前の三差路を経て、三嶋神社左手の田んぼの小道を通って、香園寺へと進んでいたようであるが、現在その道は残っていない」とある。
参道へと左折するT字路、東西に走る道路の北側左手に3基の道標が並ぶ。手印と共に清楽寺への道を示した円柱の利平道標、「右へんろ」と刻まれた小さな道標、手印と共に「六十一番香園寺 六十二番寶壽寺」が刻まれた面と、矢印のようなマークと共に「六十番横峯寺」と刻まれた道標が、「61番香園寺 0,2km」「62番宝寿寺1.2km」と書書かれた「四国のみち」の木標脇に並ぶ。
六十一番札所香園寺
参道を進み六十一番札所香園寺に。このお寺さまは「子安大師」として知られ、我が家の子供たちも、そのおかげをもって健やかに育ってくれた。境内には近代的な大聖堂。2階が本堂と大師堂を兼ねる。
Wikipediaをもとにまとめると:香園寺(こうおんじ)は、真言宗系の単立寺院(元御室派の寺院)。山号は栴檀山(せんだんさん)。院号は教王院(きょうおういん)。本尊は大日如来。
寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を賜ったとされる。天平年間(729年 - 749年)には行基が巡錫。大同年間には、空海が巡錫中、当寺の門前で身重で苦しむ婦人に、栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な男の子が無事に出産。また、栴檀の香を焚いて、安産・子育て・身代り・女人成仏を祈る四誓願の護摩修法をした。以来、安産・子育ての信仰の寺となったと。
天正年間(1573年 - 1592年)兵火に遭って焼失したが、江戸時代に入り小松藩主一柳氏の帰依を得て寛永年間(1624年 - 1644年)に再興されている。また古くは、高鴨神社の別当寺であったとされる。
1903年(明治36年)住職になった山岡瑞園大和尚により、1914年(大正3年)に本堂を再興、大正7年に「子安講」を創始し、全国はおろか海外にまで講員を拡大し隆盛に尽力した。 1976年(昭和51年)本堂は妙雲寺に移築され、その跡地に、高さ16m座席数620余の鉄筋コンクリート造りの大聖堂が建立された。
2階本堂には金色に輝く大日如来と大師像。この大日如来像は前立本尊でり、本尊は秘仏として後ろの厨子におわす、とのことである。境内の子安大師堂にお参りし、孫の健やかな成長を願う。因みに、子安講は往時10万人を越えたと言う。
●山頭火・紫苑荘の歌碑
境内を大聖堂に進む途中、左手に2基の山頭火の歌碑があった。自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。「南無観世音おん手したたる水の一すぢ」、「秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり」と刻まれる。
この句は山頭火の2回目の四国遍路の途中、この地で詠んだもの。1回目の四国遍路は昭和2年から3年にかけてのもので、中国・四国・九州と七年に及ぶ旅のひとこまであったが、2回目は昭和14年10月5日に松山を出て、10月8日香園寺に着き、10月14日に出立した。旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断し、松山に戻り「一草庵」に住まうことになる。
また、森 紫苑荘の川柳、「偉い子はいぬがどのこも親思い」と刻まれた歌碑もあった。刑務官として全国を転勤した方とのことだが、香園寺との関わりはわからない。
●境内入り口右手の道標2基
矢印と共に「六十二番 へんろ」と刻まれた幅広の道標の横に徳右衛門道標。地蔵像が刻まれた面には「是より 一ノ宮*八丁」とあるが、手印は奥の院方面を示しているように思える。文字は潰れて読めない。
◆香園寺奥の院への道
逆打ちで香園寺奥の院から横峰寺へと辿ったときは、直接香園寺奥の院に向かい横峰へと向かったのだが、香園寺から奥の院までの道筋の概略をメモする。 香園寺からは、神仏分離令以前は香園寺が別当寺となっていた高鴨神社へと上り、丘陵を越えて大谷池の東の舗装道に出る。そこからは大谷池の東を道なりに進み、松山道の高架下を抜け、南へと進めば奥の院に至る。「えひめの記憶」には「横峰寺から続いていた舟形地蔵丁石がおこやから岡村への道に続いていることや、香園寺奥の院白滝が昭和8年(1933)に香園寺住職山岡瑞圓によって新たに作られたということなどを考慮すると、おこやから岡村を経て香園寺に至る道よりは新しい遍路道であると思われる」とあった。
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:香園寺から横峯寺登山口まで■
いつだったか、香園寺奥の院から横峯へ逆打ちで上り、先回生木道でメモした湯浪に下りたのだが、上述の如く奥の院からの道は昭和に入ってからの遍路道のようであり、今回は香園寺から岡村を抜けて横峯への登山口までという、オーソドックスなルートを繋ごうと思う。
香園寺参道南東の茂兵衛道標
上述徳右衛門道標のある反対側、境内と駐車場の間を南に進み、境内を離れるあたりでT字路を左に折れ、集落の中の小川に架かる橋を渡りT字路を左折して少し先に進むと、道端に徳右衛門道標がある。えひめの記憶」には植え込みに中と記されていたが、現在は植え込みはなくなり、道端にポツンと立つ。 正面進行方向は「六十二番 寶寿寺」、右折方向の面には向い合せの手印と共に「六十一番 香園寺 六十番 大峰寺」と刻まれる。
進行方向を真っ直ぐに進めば香園寺参道入口の3基の道標の所に出るが、横峰を目指す遍路道は、ここを右に折れ、田圃の畦道を進むことになる。
小松橋東の茂兵衛道標
畦道を進み、松山自動車道のサービスエリア「石鎚山ハイウェイオアシス」に至る広い道を横切り、民家の軒先の狭い道を進み、前述香園寺の山岡瑞園大和尚がつくった学校がその前進と言う小松高校への通学路の道を横切り、先に進むと小松川にあたる。
道を左折し、小松橋を渡ると、直ぐ右に分岐する路地の角に茂兵衛道標が立つ。右折方向の面には「大峯寺」、小松橋に向かう方向には「香園寺」と刻まれる。
仏心寺
小松川に沿って南東に道を進み、四つ角に出る。遍路道は更に直進するが、右折し小松川左岸にある仏心寺にちょっと立ち寄り。
小松川を渡り山門に向かう。なんとなく武家屋敷の趣が残る。山門前にある案内によると「仏心寺は、小松藩の二代藩主の一柳直冶(ナオハル)により、その父、初代藩主の直頼(ナオヨリ)の七回忌にあたる慶安3年(1650)に一柳家代々の菩提寺として、臨済宗妙心寺派の南明禅師を開山に迎え建立されました。 江戸時代(1596~1867)を通じ境内の拡充が図られ、明治以降も、小松藩ゆかりの建物が移築され、現在に至っています。
山門(東向き)・御霊屋門(ミタマヤモン;南向き)・桜門(境内西)・庫裏(クリ)などが代表的なもので、珍しい遺構として、鐘楼東側に、供待(トモマチ;お供の家臣の待機場所)が残されており、藩主菩提寺の格式を示しています。 仏心寺は、藩主や小松藩にとって重要なお寺でしたから、藩政時代の古記録や古文書、歴代藩主の書跡、住職の墨跡など貴重な資料も多く残され、小松文化の宝庫と云われています。なかでも大名屈指の書の達人と云われた、三代藩主の直卿(ナオアキラ)の書と扁額は西条市文化財に指定されています。
また、天然記念物として、中国原産の広葉杉(コウヨウザン;中庭 藩主寄進と伝わる)と明石連(北庭、紅色の椿)があり、特に椿は、数百種と数多く、椿寺としても知られています。 西条市教育委員会」とある。
●山門
山門を潜り境内に。山門の案内は「藩政時代の建造物、二軒(二重)繁垂木、切妻造り、本瓦葺きで堂々たる四脚門です。四脚門は主柱の前後に二本ずつの控柱左右合わせて四本の柱を立ててある門です。需要文化財として残る日本の門の建築様式に多い門で格式の高い門とされています。
山門正面の『圓覚山』の扁額は、一柳直卿公(なおあきら;頼徳)御真筆の奉納額です。西条市の文化財(工芸品)の指定を受けています」とある。
本堂の右手に鐘楼と供待がある。それぞれの案内は
●鐘楼
「この近辺で最も古く、よい音を出す鐘といわれています。江戸時代の作で宝暦8年(1758)戌寅二年吉日の銘があります。藤原政治の作です。平瓦葺、一軒(一重)疎垂木、入母屋造りの屋根です。この鐘は西山興隆寺・長福寺の鐘と共に供出を免れた郡内の三鐘のひとつです」
●供待(ともまち)
「供待は大名家の菩提寺にある独特のもので、藩主が参拝・法事を勤める間、供の者たちが待っている待合所です。供待が現在残っているものは大変少なく珍しいものです」
本堂にお参りし、左手の御霊屋門(みたまやもん)に
●御霊屋門(みたまやもん)
「元藩主墓所へ通ずる参道(御霊屋道)の山にかかるあたり(御霊屋口)に建てられていたのが、明治になって佛心寺へ移されました。一軒(一重)疎垂木の切妻造りの屋根をかけています。用側に袖がなく支柱で支えられています。 鴨居には小松藩主の御紋「丸之中二十釘抜紋」がはめ込まれており、屋根の両端にはちいさいながらも鯱瓦がすつられています」との案内があった。
◆一柳家と小松陣屋
Wikipediaには「『寛政重修諸家譜』が記すところによれば、河野通直(弾正少弼)の子宣高が美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市)に移り、土岐氏の家臣になって一柳氏を称したという。「一柳」の家名は、土岐氏が宣高を招いた蹴鞠の場で鞠庭の柳がひときわ鮮やかであったことが由来とされる。しかしながら、系譜上の世代数の不自然さなどから、河野通直の子孫であることには疑問が呈されている。
宣高の孫の一柳直末・一柳直盛兄弟が豊臣秀吉に仕え、兄の直末は美濃国の軽海西城主となったが天正18年(1590年)小田原征伐のときに、緒戦の山中城攻めで戦死した。弟の直盛は尾張国(今の愛知県西部)黒田城3万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢国(三重県)神戸藩5万石に加増転封された。更に寛永13年(1636年)には伊予国西条藩6万8600石に移転したが同年死没した。彼の遺領は直重・直家・直頼の3人の息子たちによって分割された。
長男の直重が西条藩3万石を相続して2代藩主となったが、その子直興の代に勤仕怠慢の理由により除封された。
次男直家は播磨国(兵庫県)加東郡及び伊予宇摩郡・周布郡に2万8600石を領し、小野藩初代藩主となった。しかし直家の死後は末期養子が認められず1万石に減封され、幕末に至った。歴代藩主は対馬守や土佐守などに叙任され、明治17年(1884年)一柳末徳が子爵となった。
3男直頼は伊予国周布郡・新居郡に1万石を領し、小松藩初代藩主となりそのまま幕末に至った。歴代藩主は兵部少輔や美濃守などに叙任され、明治17年(1884年)に一柳紹念が子爵となった」とあった。
小松藩の陣屋は、仏心寺から東へ抜ける道を少し進んだところにあった。
T字路の道標
遍路道に戻り、民家の間を南に進むとT字路に。正面の民家ブロック塀の前に道標がある。手印は北を指すが、文字は摩耗して読めない。
T字路の茂兵衛道標
T字路を左折するとすぐ南に折れるT字路があり、その角の駐車場脇に道標がある。「えひめの記憶」には、「仏心寺を西に見ながら直進し、約200m進んで三差路を左折するとすぐ、(なんか)公民館西の三差路に至り、三差路東の民家のブロック塀に隣接して、大峯寺と香園寺への道を示した茂兵衛道標がある。このあたりが岡村の北端である」とある。公民館もブロック塀も無いようだが、この駐車場脇の道標が記事にある茂兵衛道標かと思う。摩耗し文字は読めないが、手印と共に「大峯寺」と「香園寺」の文字が刻まれる、と。
地蔵堂南・二差路の道標
茂兵衛道標から南に進むと、小松川の支流手前に地蔵堂があり、小川を渡った先の石垣で道が左右に分かれる。その石垣下の分岐点にほとんどアスファルトに埋もれた状態で正面に手印、右側に「文政四」(1821)と刻まれた道標がある。
車道を右折し三差路に
遍路道は左手。田圃の中の道をしばらく歩くと舗装された大きな道にでる。
車道に出た遍路道は、右に折れ車道を進み松山道の高架下を抜けしばらく進むと三差路に出る。右に曲がると、地蔵堂南・二差路の道標に戻り、直進すると石鎚山サービスエリア南、小松オアシス道の駅。遍路道は左に折れて山に向う。 「えひめの記憶」には、「この付近には道標もなく、高速自動車道路工事により新道ができており、遍路道の特定は困難である」とある。
砕石場手前の2基の道標
道を進むと採石場手前の建物(地図には石鎚総合研究所とある。自然食品販売の会社のようだ)の入り口、生垣に埋もれた2基の道標がある。
「えひめの記憶」には「右は「世話人西條寿し駒事日野駒吉」と刻まれた板状の道標であり、左は「六十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石である。(中略)湯浪地区では昔から、横峰寺への登り道の舟形地蔵丁石のほとんどは、「寿し駒」によって建てられたと語り伝えられてきたという。
「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951) (写真3-3-9)は、「西條人物列伝」(『西條史談』)によると、周桑郡玉之江(東予市)に生まれ、西條吉原(西条市吉原東)ですし屋を営むかたわら大師信仰に生涯をかけたことで知られる人物である。
先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる。西条市の六十四番前神寺境内には、大正5年(1916)、日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進した弘法大師修行の石像が立っている。
その右には、大正15年(1926)に建立された五輪塔の日野駒吉頌徳碑(しょうとくひ)が立っている」とある。
「寿し駒」の道標には「横峰寺六十丁 西條市大師蓮花講 信者一同世話人日野駒吉」といった文字が読める。左手の地蔵丁石は下半分が土に埋もれていた。
採石場の先で舗装が切れる
採石場のトラックの出入り口の右手の道に遍路道の案内がある。採石場の方が、敷地内に入らないようにと案内したものだろう。
右の道を、左手に削り取られた採石場の山肌を見遣りながら進むとほどなく舗装が切れ、簡易舗装となり、それも切れると割と広い林道(本谷林道)を進む。「えひめの記憶」には舗装された道、と記されているが、簡易舗装も土砂で荒れたのか、小石の多い林道となってちる。
横峰寺への登山口
本谷林道をしばらく進むと沢を越えて南東に曲がる辺りに、直進する道がある。この分岐点が「おこや」を経て横峰寺に向かう登山口である。予定では、とりあえず、逆打で横峰寺から湯浪に下りた道に合流する「おこや」までは行ってみようかと思ってはいたのだが、当日、直進方向の沢沿いの道は完全に崩壊していた。時間も夕暮れが近づいていたこともあり、今回はここで終了とする。
3回に分けてメモした五十九番札所から六十番札所横峰寺を繋ぐ遍路道では、今治の国分寺から西条市に入り大明神川を越えた先の生木道と香園道の分岐まで、そこから生木道を経て小松の大頭から湯浪から横峰に上る順打ちのルート、また香園道を経て六十一番札所・香園寺から岡村を抜けて横峰に上る逆打ちルートをメモした。
最近では県道12号を黒瀬湖近くの横峰登山口までバスを利用し、そこから平野林道を横峰に向かうシャトルバスに乗り換えてお参りすることもできる。
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何回かにわけて、第五十九番札所国分寺から六十番札所横峰寺を繋ぐふたつの遍路道、生木道を経由して湯浪の登山口から横峰寺に上る順打ちの遍路道、香園寺道を経由して第六十一番札所香寺を打ち、岡村から横峰寺登山口を上る逆打ち遍路道をメモした。
登山口から先の横峰寺への遍路道は、いつだったか辿った香園寺奥の院から横峰寺を逆打ちで辿り、湯浪へと下った遍路歩きのメモを参考にしていただければと思う。
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