岩井散歩:平将門ゆかりの地を歩く

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岩井を歩く
平将門のゆかりの地を訪ねる散歩メモの第二回。古河を離れ次の目的地、平将門ゆかりの地、坂東市・岩井に向かう。途中どこか見どころがないかと地図をチェック。東仁連川、飯沼川、西仁連川といった川筋が集まる逆井の地に、逆井城跡公園。どういった由来のお城かわからない。それよりも、この城跡の北を流れる
飯沼川が気になった。これって、昔の飯沼の跡地ではなかろうか、と。
将門ツアーをいい機会と、いくつか将門に関する本を読んだ。どこかの古本屋で求めた『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)』と『全一冊 小説平将門;童門冬二(集英社文庫)』などである。ちなみに、赤城宗徳さんは農林大臣などを歴任した政治家。最近、こういった、「格好のいい」政治家がいなくなった、なあ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ともあれ、本の中に飯沼が登場していた。将門の妻子がこの沼地東岸に隠れていたのだが、敵である伯父の良兼の軍が去ったと勘違いし出て行ったところを見つけられ、惨殺された場所である、とか。古河から17キロ程度であり、岩井への道筋からそれほどはなれてもいない。携帯カーナビ・EZ助手ナビをセットし、逆井に向かう。カーナビのガイドゆえに、経路わからず。(土曜日, 5月 12, 2007のブログを修正)


より大きな地図で 将門ゆかりの地 を表示 

本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

逆井城跡公園
逆井城跡公園に。周囲を低地で囲まれた台地上にある。戦国期の城郭が再現されている、と。どうせのこと、おもちゃのような、味もそっけもない城郭もどきのコンクリート建築であろう、と思っていた。が、予想に反し、時代考証をきちんとした城郭がつくられている。近づくにつれ、台地上に城を囲む土塀と井楼(井桁状に骨組みを組み合わせた高層の櫓)と望楼が見える。当時、井楼があったのかどうか、はっきりしないようだが、ともあれ戦国の雰囲気を感じることができる。
大手門でもある西二ノ曲輪にかかる木の橋を渡り城内に。大手門下には入江。飯沼からの荷を運ぶ舟入跡であろう。大手門横に二層の望楼が。城郭内部から見た土塀もなかなかリアル。城内には関宿城から移した門や戦国期の本丸殿社をもとにした御殿、観音堂などもある。一ノ曲輪のあたりには櫓門と木の橋。櫓門の周囲には土塁も残っている。木橋下の空掘りも結構深い。
この城は、逆井氏の築城と言われる。逆井氏は、豪族・小山氏の係累。逆井の地を領したため逆井氏、と。その後、小田原北条氏によって落城。ちなみに、城内にある「鐘掘り池」は落城時、城主の息女か妻女か、どちらか定かはないようだが、ともあれ先祖代々伝わる鐘をかぶって身を投げた池、と言われている。
この城を落とした小田原・北条氏はこの城を、佐竹氏、多賀谷氏といった常陸勢力、また越後の上杉謙信に対する拠点として整備。現在残っている城の構えになったのも北条氏による大規模な縄張りの結果誕生したものであろう。

飯沼
城の端から飯沼方面を眺める。いかにも沼であったかのような、低地が広がる。台地下に西仁連川が流れる。不自然なほど直線の川筋。こういった川筋はほぼ、人工的に開削されたもの、と考えてもいいだろう。実際、この川は江戸期に飯沼の水を抜き、新田とするための水路であった。地形大好き人間としては、この飯沼の変遷が気になった。ちょっと調べる。
現在この地には東仁連川、飯沼川、西仁連川がそろって流れている。そしてこれらの河川は下流でひとつになって、利根川に注ぐ。西仁連川は栃木県南部が源流。三和町で東仁連川と別れる。飯沼川はその少し下で東仁連川から分かれている。西仁連川と飯沼川は坂東市幸田新田で合流。東仁連川は水街道市を経て、飯沼下流部で飯沼川と合流。そしてこの飯沼川は野田市で利根川に合流することになる。
はてさて、これらの河川は飯沼の水を抜き、新田を開発するために工事がなされた。最初の工事は飯沼の水を利根川に逃がすため、飯沼下流部から利根川まで川筋を開削。これが飯沼川のはじまり。
次におこなわれた工事は、更に飯沼の水を落とすため、沼の中央に水路を通し、下流部の飯沼川と繋ぐ。その次の工事は、飯沼に流れ込んでいた川筋を東西に分岐。ふたつの川筋とした。西が西仁連川、東が東仁連川。これは、新田に灌漑用水を供給するための川である。このとき、西仁連川は飯沼の南端まで掘り進め、飯沼川と合流させた。東仁連川は現在とは異なり、鬼怒川に流れるようにしていたようである。このように、飯沼の水を利根川や鬼怒川に流すことにより、新たな新田を開発していった、ということである。

飯沼は将門の妻子が殺されたところ
この飯沼であるが、将門の関連としては、上にメモしたように、将門の妻子が殺されたところである。このときの将門は勇猛なる武将とは程遠い行動をとっている。京において、庇護者とも頼む太政大臣・藤原忠平より、「もう少々おとなしくしなさい」などと諭されていたことも一因かもしれない。その遠因となったのが、「野本合戦」。前常陸大掾源護の息子が将門を討つべく待ち伏せ。が、逆に返り討ちとなる。将門はこの「野本合戦」で息子をうしなった源護の訴えにより京都に召還される。結局無罪ではあったのだが、その際に忠平に自重を求められていた、ということだ。ちなみに、野本合戦のおこなわれたのは下妻市の東、明野町赤浜である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

この赤浜からすこし西に小貝川にかかる子飼渡(小貝大橋のあたりか)がある。この渡での「奇計」も将門の戦う気力を削いだといわれる。その奇計とは、良兼(伯父)と貞盛(伯父である国香の息子)が、子飼渡の渡河に際し軍の先頭に「高望王と将門の父・良将の像」を押し立てて進んできた、ということ。将門は尊敬するふたりに弓矢を向けることができなかった、などとも言われる。当時将門は子飼渡から南西に降りた鬼怒川沿いの千代川村鎌庭に館を構えていたようだが、戦う意欲のない将門を見て、良兼軍は更に第二波の攻撃をおこない、鎌庭の対岸・仁江戸のあたりまで攻め込んだ。で、件(くだん)の飯沼の芦原へ逃れ、結局妻子を失うことに、なるわけである。
飯沼と将門の関係をもうひとつ。正確には将門というより父の良将と菅原道真の三男景行の関係。景行が常陸介として羽鳥の地、現在の真壁町というか、筑波山の西の麓ってところに館を構えた。が、飯沼の開拓に励むため大生郷に移る。現在の坂東市の東、鬼怒川沿いの場所にある。当時の大生郷は飯沼に臨んだ高台であった、よう。飯沼は周囲十数理におよぶ大湖水。大小17の入江があり、まわりは鬱蒼たる森林に囲まれていた。南北22キロ。東西1.5キロ。景行と良将のコンビで下総の開拓につとめた、という。

逆井は将門終焉への闘いの舞台
飯沼というかこの逆井と将門の関連を更にひとつ。先ほどの子飼渡のエピソードの時期からは少し下るが、この地は、将門終焉への闘いの舞台でもある。関八州の国府を制圧した将門は宿敵貞盛・為憲を求め常陸北部の掃討作戦を進める。が、貞盛、為憲の所在つかめず。一時軍を解散。そのとき、秀郷4000の兵を集め将門討伐に立ち上がる。将門にとっては予想外のことであった、よう。仲間とも、よき理解者とも思っていたようだ。老獪なる秀郷ならではの行動、か。とまれ、その報に接した将門は1000人の兵を率いて秀郷の本拠・田沼(佐野市)に進軍。敵軍見つからず。後続部隊が岩舟町(佐野市の東側)の北西の小野寺盆地に敵軍発見。全軍一致の軍令に背き、個別攻撃。戦上手の秀郷軍に包囲され敗れる。
岩船で敗れた将門軍、東に逃れ結城から本拠地岩井へと逃れる。将門軍は水口村(八千代町・猿島町の北)に陣を張る。ここは結城から岩井に通じる要衝の地。戦闘。緒戦は将門軍有利も、次第に貞盛・秀郷軍優勢に。将門軍、猿島の広江(飯沼)に退却。沼地に常陸軍をおびきよせ、討ち破る計画。が、貞盛はその手にのらず、猿島郡と結城軍の境、いまの逆井に到着。将門をおびき出すため村落を焼く。そうして、最後の決戦地、将門が討ち取られた地、国王神社あたりに続くことになる。

さしま郷土館ミューズ
逆井、飯沼でちょっと寄り道が過ぎた。岩井の国王神社に向かうことにしよう。県道135号線を南東に下る。途中坂東市市山にある「さしま郷土館ミューズ」に立ち寄り、猿島資料館で猿島の歴史などをちょいと眺め、沓掛あたりで県道20号・結城岩井線を南に折れる。江川を越えると国王神社。江川は猿島町から菅生沼までの14キロ程度の川。飯沼川とか仁連川といった江戸時代に新田開発のためつくられた川ではなく、昔からの水路を改修してできたもの。で、やっと当初の目的地・国王神社に到着。

国王神社
茅葺の国王神社拝殿。道路脇にあり、神さびた、という社ではなかった。読みは「くにおう」と。説明文のメモ;「祭神は平将門である。 将門は平安時代の中期、この地を本拠として関東一円と平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(九四〇)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。その後長い間叛臣の汚名をきせされたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている」と。
ここは将門が陣没したところと伝えられる。将門の二女が出家し如蔵尼と称し、この地に庵を結び父の冥福を祈る。この庵が後にこの国王神社となった、とも。上で将門終焉の地へのエピローグともいう合戦を逆井まで下った。将門は飯沼の地に隠れ、戦いの時期を待っていた。援軍を待っていた、とも。援軍は伯父の良文の軍である。良文は他の伯父とは異なり、常に将門の理解者であった、よう。が、良文の援軍が来ることはなかった。
願い叶わず。飯沼の隠れ家を出て、菅生沼を渡り、岩井の北山に陣を張る。貞盛・秀郷軍と矢合わせ。緒戦将門軍勝利するも、将門軍400対貞盛・秀郷軍3000の勢力差はいかんともしがたく、国王神社の地で矢にあたりあえなく討ち死に、となる。

平将門のあれこれ
平将門って、名前はよく聞くのだが、実のところあまり詳しく知らない。関東に独立国をつくろうとした、とか、所詮は伯父と甥の身内の勢力争いである、といった程度のことしか知らない。いい機会なので概要を整理した。参考にしたのは、赤城宗徳さんが書いた『将門地誌』である;

平将門について; 桓武天皇の第四子に葛原親王という人がいた。東国に荘園をもち、9世紀には常陸の太守にもなっている。といっても任地に赴任することはなく、いわゆる遙任として京に留まっていた。この葛原親王の子が高見王であり、その子が高望王。この高望王が「平」姓を賜り上総介として東国に下ることになる。朝敵を"平らげたる"ゆえに、「平」ということだ。
当時の上総の地は、騒然としていた。大和朝廷に征服され、帰順した「えぞ」・俘囚が反乱を起こしていたわけだ。ということで、高望王の仕事は国内の治安維持ということであった、よう。ということもあり、高望王は息子を国内要衝に配置。長男・国香は下総国境の市原・菊間。鎮守府将軍の任にあたる。二男の良兼は上総東北隅の横芝。三男の良将は下総の佐倉。この人が将門の父。四男は上総の東南隅の天羽。この四男はあまり登場しないので、名前は省略。上総の四周の要衝を息子で占める。五男の良文は京都に留まっていた。
高望は地元の有力者との婚姻政策も進める。 良兼と国香の子である貞盛には常陸大掾源護源護の女、良将には下総相馬の犬養氏の女、といった具合である。良兼は源護から婿引出として常陸国真壁郡羽鳥(筑波山西麓)の荘園をもらっている。良将は事実上の下総介、鎮守府将軍として一族の中で重きをなしていた。こういった中、高望の死。朝廷は藤原利仁を上総介・鎮守府将軍に。平一族の勢威を快く思っていなかった朝廷の平氏牽制の政策、か。国香の不満大いに高まった、とか。
といったところでの良将の死。一族のバランスが一挙に崩れる。良兼が良将の遺領の切り崩しをはじめたわけだ。そのころ、将門は京にあり太政大臣藤原忠平のもとに仕える。滝口の武士、といった武勇にすぐれた衛士として認められていたよう。忠平の覚えもめでたかった、とも。
将門帰国。相馬御厨の下司として戻る。場所は取手市上高井のあたり。将門の居館は「守谷」にあった。後に、本拠を豊田郡鎌輪に移した、と。その当時の父良将の旧領の状況は、成田以東の利根川沿いは良兼に、千葉から東は国香、千葉以西、利根川以南は印旛沼周辺を覗いて良文の領地となっていた。
ここで登場した良文は高望王の五男。38歳まで京に留まる。下総に下ったのは高望が死んで12年。良将が死んで5年。将門が京に出て3,4年のこと。相模の村岡郷(現在の大船付近)や、秩父にも領地をもつ。ために、村岡五郎と呼ばれた、と。良将がなくなり、将門が上京したあと、国香や良兼が、良将の旧領を侵蝕。波瀾含みの遺領を安泰ならしめる対策として、良文に内命が下り、東国に差し遣わされた、と。で、下総は安泰。帰国した将門は利根川以北の下総経営に専念できることになる。この良文は国香とも争っている。国香を上総から常陸に移したのはこのため、とも言われる。この良文は他の伯父とはことなり将門の味方であった。

野本合戦
京より戻った将門は相馬御厨の下司として、また、北総の地の開拓をおこない国土経営につとめるが、争いが突然やってくる。荘園拡張を計画する源護の息子が将門を待ち伏せ。殺すつもりななく、単に脅しのためだけであった、とも言われるが、結果的に将門の反撃により源護の息子3人戦死。源護を助けた国香も傷がもとでなくなる。これが先にメモした「野本合戦」である。場所は明野町赤浜である。国香の館は明野町東石田。赤浜の直ぐ近くにあり、源護は息子貞盛の義理の親でもあり、国香自身も源護の後をつぎ常陸大掾となっていたり、といった関係もあり、援軍に出向いたのであろう。
平良正(扶らの姉・妹婿)が将門への復讐戦をはじめる。が、力不足のため良兼に助け求める。戦は将門有利。下野国分寺(栃木県下野市;小金井駅の近く)まで良兼を追い詰める。最後は見逃す。ここからが一族が相い争う「天慶の乱」のはじまりとなる。

天慶の乱
源護が将門に非ありと、京に訴える。が、非は己にあり、ということで将門は無罪。帰国となる。途中、近江・甲賀での貞盛の待ち伏せの噂。争いをさけるため、海路をとる。京都より大阪に下り、海路紀州灘より伊勢湾にはいり、名古屋に上陸。そのあとは、中山道が危険ということで、東海道に沿って、道なき道を進むことに。当時宿などもなく、まして食べ物なども自給自足しかない、艱難辛苦であった、よう。

青梅の将門伝説
東海道を東に進み、富士山麓をとおり、大月に。その後、佐野峠をへて青梅渓谷にはいる。青梅では二俣尾の海禅寺にはいった、との伝説がある。それから、秩父にでるか青梅にでるかということだが、当時青梅には国府の大目(だいさかん)にあたるものが派遣されており、土着し、大目(おおめ)という名で里正(さとおさ)をつとめていた。この大目氏は将門を快く受け入れた。ために、青梅に入る。高峯寺を宿所とした、と。
高峯寺に留まり、下総か武蔵の状況を偵察。武蔵の郡司・武蔵武芝が将門に敵対しないこと、そしてその人となりを知り、武蔵を無事通れることを確信。後年、この武蔵武芝が窮地に陥ったとき、頼まれもしないのに調停に赴いたのは、このときの恩義、か。また、有名な青梅伝説ができたのも、このとき。大目氏の邸宅に梅の老木。将門、この梅の枝を杖とし、金剛寺に。寺の境内に枝をさし曰く「梅 樹となり、東風を得て花を咲かせよ、わが運命もかくのごとく開けん」。開花結実するも、霜雪の候にいたって、なお実青く枝に残る。 以降、大目氏は青梅と名を改めた、と。

子飼渡
ともあれ、京都から4カ月をかけて故郷にもどる。故郷に戻った将門は忠平の訓戒を守り、自重。それに乗じた良兼が仕掛けたのが、上でメモした「子飼渡」からはじまる闘い。武力放棄していた、といった将門であるが、妻子を殺戮され、しかも財宝すべて奪い取られ、怒りの報復戦をおこなうことになる。良兼が羽鳥に来ているのを知り、攻撃。略奪の限りをつくす。が、良兼をとらえることなく引き揚げる。将門が朝廷に告訴状。良兼追討の官符。次いで、良兼から将門への告訴状。将門追討の官符。朝廷の無定見このうえなし。
羽鳥を破壊尽くされた良兼の報復戦がはじまる。当時の将門の本拠地は鎌輪の地。鎌輪は羽鳥にあまりに近く、危険ということで、猿島の石井(岩井)に移る。岩井への良兼の夜襲計画。未然にこれを防ぎ、良兼負け戦。この戦を機に良兼は闘争心を失い、翌年にはこの世を去る。
貞盛、将門謀反を唱える。朝廷にその旨訴えるべく、京に向かう。その貞盛を追って千曲川まで駒を進めたのもこのころ。将門謀反を唱えるものがもうひとり現れる。武蔵介・源経基である。このきっかけは武蔵国・郡司との紛争。武蔵権守興世王、介である源経基と武蔵郡司・武蔵武芝との紛争。頼まれもしないのに将門が調停を買って出る。将門・興世王・武芝の交渉。調停不調と勘違いした武芝の軍勢が源経基を包囲。経基、京都に逃げ帰り、「興世王、将門謀反」と虚言を呈す。おめおめ逃げ帰った己の保身のため、といわれている。

常陸国府石岡の攻撃
こういった、将門謀反の噂の中で起きたのが、常陸国府石岡の攻撃。将門の生涯での一大転機となる。それまでは一族間の、いわば内輪揉めであったものから、国府という国の機関、その関係者との戦いになった、ということ。
常陸国府石岡の攻撃にいたる経緯はこういうこと。常陸介・藤原維幾は国香の妹婿。その息子・為憲が将門の領土を得んものとして、伯父の平貞盛と共謀。国司である父の力を利用し、国の兵器・軍備を使って将門戦の準備をしたわけである。
この報に接した将門は先手を打って国府を攻撃した。自衛手段として、といっても国府の攻撃。叛乱とみなされても仕方なし。で、将門の結論は、「一国をとるも誅せられ八国をとるも誅せられる。誅は一なり。如かず八国をとらんには」、ということで下野(栃木)、上野(群馬)、武蔵(埼玉・東京)、相模(神奈川)の国府を攻撃。国司を追放。「新皇」を称する。
京都にショック。天位を覆す企てと。全国に檄をとばし、大規模な征討軍の派遣決。が、征討軍が到着する前に、貞盛と藤原秀郷の連合軍のため、石井(岩井)で戦死。この間の経緯は上にメモしたとおり。

岩井営所
なんとなく平将門、およびその騒乱についてわかってきた。散歩を続ける。国王神社を離れ、岩井営所に。国王神社のすぐ近く。ショートカットで畑の畦道を進む。直ぐに島広山の岩井営所跡に。「昭和のはじめまでは老杉亭々として空にそびえ、けやきの大木と友に水天宮の祠をおおい、清水を湧出して、一ひろの清水をたたえていた」、と『将門地誌』に書いてあったが、現在は民家の庭先といったところ。実際、見過ごして歩いてしまった、ほどである。ここが将門の政治・経済・軍事の中心地であった、といわれても、現在は、のんびりとした田園風景が広がるのみ、であった。

延命寺
島広山の台地を下り、道なりに進み延命寺に。ここは、国王神社の別当寺。将門の守り本尊であった薬師如来をまつり、別名、「島の薬師」とも呼ばれる。寺の由来書によれば、石井営所の鬼門除けとして設立。貞盛・秀郷により石井営所一帯が焼かれたとき、薬師如来は移し隠され、世が落ち着いてから現在の低湿地に移された、と。カシミール3Dでつくった地形図をみると、なるほど、江川によって開析された谷戸が深く切り込まれている。昔は、東に菅生沼、西に鵠戸沼、南は小さな沼が点在した低湿地であったのであろう。。
散歩の距離の割りに予想通り、メモに結構手間取った。これで将門巡りは終了。次の目的地、関宿へと向かう。

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