伊予 歩き遍路;六十一番札所 香園寺から六十五番札所 三角寺へ ②六十三番札所・吉祥寺から六十四番札所・前神寺まで

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六十三番札所・吉祥寺を離れ六十四番札所・前神寺までの遍路道をメモする。この道筋には秀吉の四国征伐に抗し土佐の長宗我部氏に与した伊予の軍勢と秀吉方の毛利・小早川勢との戦いである天正の陣の旧跡、また四国遍路の札所ではないのだが、明治の神仏分離令に伴い、札所六十番・横峰寺そして札所六十四番・前神寺と浅からぬ因縁のもと設立された石鎚神社、更にはこれまた四国遍路道ではないのだけれど、札所六十番・横峰寺と札所六十四番・前神寺と言えば石鎚のお山信仰でありその登拝道など、本筋の遍路道以外でもあれこれ気になるトピックが登場する。
天正の陣の旧跡を辿るのも面白そうだが、遍路道メモのコンテキストからいえば、石鎚のお山信仰の巡礼道である石鎚山登拝道が親和性・関係性がより深く・高いだろう。いつだったか、石鎚登拝道として知られる石鎚三十六王子社登拝道(, )を黒瀬峠の第一王子社から始め、河口から今宮道を第二十稚児宮鈴之巫子王子社のある成就社まで上り、そこから横峰寺からの登拝礼道である黒川道を河口まで下ったことがある。今は通る人とて無く、今宮道はまだしも黒川道は荒れてはいたが、それでも巡礼道としては趣の残るお勧めの道である。歩き遍路もいいのだが、時間に余裕があれば、石鎚のお山へと上ってみては如何と石鎚のお山への登拝道も案内する。



本日のルート;
吉祥寺から前神寺へ
柴の井のお加持水>金比羅街道合流点の道標>新御堂児童公園の前の道標>大久保四郎兵衛の祠>野々市原古戦場跡・千人塚跡>阿弥陀寺>丹民部神社>石鎚神社>六十四番札所・前神寺



六十三番札所・吉祥寺から六十四番札所・前神寺へ

柴の井のお加持水
吉祥寺の境内にあったお寺様の案内の中に、「ここから南に約200mのところに「柴の井のお加持水」と呼ばれる泉があり、昔弘法大師が持っていた杖で加持すると、そこから清水が湧き出たと言われ、今なお湧水をたたえています」との記述があった。湧水フリークとしては、即寄り道決定。
地図でチェックし、国道11号の南の「柴の井大師堂」に。路地といった通りの新しく建てられたような大師堂の下に、水が湧き出ていた。
「えひめの記憶」には「『四国?礼霊場記』を見ると「柴井と号し名泉あり。大師加持し玉ひ清華沸溢(わきあふ)る。とあり、『四国遍礼名所図会』(寛政12年〔1800〕にも「柴井水大師加持の名水也」とある。この泉には、遠い所から苦労して運んできた水を与えてくれた老婆(ろうば)に報いるために弘法大師が清水を湧き出させたという、典型的な弘法清水伝説が伝わっている。そして現在でも、「大師のお加持(かじ)水」あるいは「長寿水」と呼ばれて地元の人々によって世話されている」とある。
弘法大師のお加持水の伝説は全国各地にあるが、雨の少ない瀬戸内に面する土地柄か、先般出合った「御来迎臼井(ごらいごううすい)水」など各地にお加持水伝説の泉が残る。
●加持
仏教用語で、本来の意味は仏あるいは菩薩が不可思議な力によって衆生を護ることを指す(Wikipedia)

金比羅街道合流点の道標
次いで、お加持水から少し北に戻った金比羅街道沿いに円柱の道標が立つ。手印と共に「逆へんろ」「左 へんろ道」と刻まれる。「逆へんろ」は吉祥寺方向 を指しているのだろう。上で「柴の井のお加持水」にちょっと立ち寄りとメモしたが、吉祥寺からの遍路道は「柴の井のお加持水」方向へと進み、この地で国道11号の南を進んできた金比羅道に合わさるわけで、結果的にオンコースであった。ここで金比羅道と合流した遍路道は、四国中央市の「遍路わかれ」まで金比羅道を進むことになる。

新御堂児童公園前の道標
金比羅道を東に進み猪狩川の手前、道の左手に道標がある。「右 へんろ道」「左 西條道」と刻まれる。猪狩川の左岸を北東に進む道を西條道と称したのだろうか。西條道とは徳川御三家のひとつ、紀州松平家の城下町西條への道。

大久保四郎兵衛の祠
道脇に小祠があり「大久保四郎兵衛は、天正の陣の際、この地の防衛に当たったが、敵の軍勢を防ぎ切れず、高尾城まで後退した。城では石や材木を集めて攻め登る敵に投げ落とし、少数の兵で大軍を防いだ知勇の将である」。たごり(咳)の神さまとして地元の信仰を集めている」との案内がある。
高尾城
野々市の西、黒瀬峠に通じる県道142号を南に進み、松山自動車道を越えた城之谷ダムの南、標高240mの山にある。





野々市原古戦場跡・千人塚跡
道を東に進むと、右手に「史跡 千人塚入り口」の案内。遍路道を離れ右に折れ、道なりに南西方向に向かと道脇に千人塚史跡公園、野々市原古戦場の石柱がある。
野々市原古戦場は、天正13年(1585)小早川隆景の率いる豊臣方の四国征伐軍と新居浜市の金子城主・金子元宅率いる長宗我部方の軍勢が激戦を繰り広げた古戦場。
2万とも3万とも言われる四国征討軍に対し伊予の軍勢は2千余。主将金子元宅は高峠城に、弟金子元春は金子城、高橋美濃守が高尾城に入り守りを固めるが、衆寡敵せず金子城、高尾城が落城するにおよび、この野々市原で両軍が戦うことになる。
金子元宅はじめ、名だたる伊予方の武将は討死。小早川隆景は首実験し、これを弔ったのが千人塚である。
高峠城
高峠城は野々市の東、松山自動車道が加茂川を渡る手前、松山自動車道の北、標高230mの高峠に築かれた。天正の陣以前にも、四国を手中にせんとする讃岐の細川氏、また信長の天下布武より前、事実上の天下人となった三好長慶の伊予侵攻を防ぐ伊予・河野勢の拠点としても登場する城である。
金子城
新居浜市の滝宮公園のある丘陵・金子山に城がある。いつだったか東青梅からはじめ霞丘陵、金子丘陵へと歩いたことがある。この地が武蔵金子氏の本貫地。伊予金子氏も、この地から移ってきたのかと思うと感慨深い。

阿弥陀寺
金比羅道・遍路道に戻り、野々市地区を越え西泉地区にはいると、道の右手にお堂がある。阿弥陀寺とある。境内西端、金比羅道脇に「こんぴら大門予十九里」と刻まれた金比羅標石が立つ。
境内には「阿弥陀堂ののだふじ」と刻まれた石柱が立つ。天然記念物とある。また「新西国廿五番清水寺」の案内もあった。この場合の「新西国(札所)」とは西国霊場の写し霊場であるこの地方のミニ霊場、この場合は西條新西国霊場のことだろう。観音水で知られる西条市喜多川の禎祥寺が西条新四国観音霊場31番札所であることからの推測ではある。
西国霊場廿五番は、播州清水寺であり、西条新四国霊場ではこの阿弥陀寺が播州清水寺に相当する、ということだろうか。

丹民部神社
東に少し進むと、道の右手に小さな神社がある。丹民部神社である。「足の神様・吃音(きつおん)の神様」として信仰されている。境内には昭和31年(1956)に建てられた丹民部の墓がある。
神社境内にある石碑に書かれた内容をまとめると、「丹氏は河野家より出る。四十三代の頃、土佐一条氏より丹姓を賜り、以降丹姓を名乗る。代々久万郷笠松城主であった。丹民部守は天正の陣において、高尾・高峠城に味方し、楢木に土居館を構え、手兵三百余を率いて出陣。天正13年7月14日に敵将穴吹六郎と差し違えで戦死した」とある。主将金子元宅を支える副将であった、との記事も目にした。
で、「足の神様・吃音(きつおん)の神様」との絡みであるが、足の神様との関わりは不明。吃音に関しては、敵将・穴吹六郎を組み伏せた時、「殿は上下どちら」との家来の誰何に吃音故に応えることができず、穴吹六郎が「下」と応えたため、家来に誤って槍で刺し殺されてしまった。といった話が残る。この悲運の武将を祀ったとのことである。
笠松城
久万高原町東明神、久万カントリークラブの北東、標高850m辺りに築かれる。長曽我部氏の伊予侵攻に備えた河野氏の防衛拠点であった。

石鎚神社
道なりに進むと、金比羅道の左手に石鎚神社の鳥居が見える。鳥居を潜り参道を進むと、これも重厚な随身門。かつては仁王門であっただろう随身門には仁王様にかわり随身像が立つ。








参道を進み石鎚神社本社にお参り。瀬戸の眺めを楽しむ。傍に「石鎚前神社」と刻まれた石柱が立つ。神仏分離令以前は、この神社の敷地は六十四番札所・前神寺であったわけで、その関わりではあろうと思うが、それにしても「前神社」の表記は見慣れない。





石鎚神社会館を越え、祖霊殿に。ここはかつて前神寺の本堂であった。祖霊殿を離れ湧き出る神水を巡り、下って元の禊ぎ場に。そこには役行者の像が祀られていた。



石鎚神社
石鎚神社は現在、石鎚山頂(弥山)の頂上社(奥之宮)、石鎚山中腹の成就社(中之宮)、里の本社(口之宮)の三社をもって石土毘古神(石鎚大神)を祀る。が、石鎚神社が誕生したの、それほど昔ではない。明治3年(1870)、明治新政府の神仏分離令により、石鉄神社(後に石鎚神社に改称)が誕生して以来のことである。
それまでの石鎚山信仰の経緯であるが、『山と信仰 石鎚山;森正史(佼成出版社)』には「役小角の開山と伝えられ、以来、前神寺・横峯寺を別当寺とし、石鎚大神を石鎚蔵王大権現と称して、1300年あまりにわたって神仏習合の信仰(石鎚修験道)を伝えてきたが、明治3年(1870)、神仏分離によって権現号を廃し、石鉄神社(のちに石鎚神社)と改めて、新たな出発をすることになった。
明治6年(1873)、別当の横峯寺を廃して西遥拝所と改め、明治8年(1875)には別当前神寺を廃して東遥拝所とするとともに、前神寺所管の土地建物など一切を神社の所有とした。さらにその後、明治41年(1908)には東遥拝所を改めて石鎚口之宮(本社)とし、西遥拝所を口之宮に合併して神社の新たな基盤を確立した」とある。
明治2年(1869)に始まった神仏分離の取り調べに関しては横峯寺のある小松藩からは、石鎚山に祀られる像(蔵王大権現のことだろう)を「神」と復名、前神寺のある西条藩からは「仏体」であるとして譲ることなく主張するなどの経緯はあったようだが、結局は1300年にわたって石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、その地は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあった「常住・奥前神寺」も前神寺から石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となり、また、横峯寺は西遥拝所横峯社となった。
石鎚神社は、前神寺の講中(後述する)を引継ぎ、それと同時に新たな講中を組織し昭和21年(1946)には「石鎚教教派総本山」を設立、昭和24年(1949)には、「石鎚本教」と改称し、神社本庁属し神仏習合の伝統に基づく教化活動を行っている。昭和61年(1986)のデータでは、先達は、約7万人、信者は約399万人にのぼると言われる。
前神寺・横峯寺のその後
寺領をすべて没収された前神寺は一時廃寺となるも、その処分を不服とし訴訟を起こすといったことを経て、のちに前上寺として現在地に再興され、明治21年(1889)には旧称前神寺に復した。同じく横峯寺も明治42年(1909)、再び横峰寺として旧に復した。明治新政府の性急なる神仏分離令への反省の状況も踏まえての処置ではあろうか。
石鎚登拝道
祖霊殿の鳥居から石鎚信仰の人たちが登った石鎚登拝道がある。少々荒れてはいるが、黒瀬峠近くの二並山へと尾根道を上ることになるとのこと。いつだったか、黒瀬峠から始まる石鎚三十六王子社登拝道()を河口を経て今宮道を第二十稚児宮鈴之巫子王子社のある成就社まで上り、横峰寺からの登拝礼道である黒川道を河口まで下ったことがある。
二十一王子社から石鎚山頂の三十六王子社までは季節が冬となり、未だ歩き残してはいるが、石鎚といえばお山信仰であり、その登拝道は欠かせないであろうし、なにより個人的にこの参詣道が好き、ということもあり、遍路道からはちょっと逸れるが、三十六王子社を辿ったときのメモをコピー&ペーストしておく。

石鎚登拝道●

『山と信仰 石鎚(森正史)』に拠れば、江戸時代のお山への巡拝道は石鎚三十六王子登拝道だけでなく、いくつもある。石鎚の北、瀬戸内側からの表参道、南からの裏参道、脇参道などに分かれるが、表参道だけをみても、 ■小松起点のルートとして
◇小松>岡村>綱付山>横峰寺>郷>モエ坂>虎杖橋>(黒川道)>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>湯浪>古坊>横峰寺>(黒川道)>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>途中之川>横峰寺>(黒川道)>成就社>頂上


西条の氷見起点として;
◇中国地方から舟で西条市氷見の新兵衛埠頭>小松>岡村>おこや>横峰寺>(黒川道)>成就社
◇氷見>長谷>黒瀬峠>上の原>上山>大檜>堅原>土居>細野>河口>(今宮道)>成就社>山頂
◇西条>加茂川沿い>兔之山>黒瀬山>大保木>河口>(今宮道)>成就社>山頂
などがある。
また、『石鎚 旧跡三十六社』では、昭和36年(1961)の王子社調査隊は、里の本社(口之宮)から直接峰入りし、尾根道登り、遥拝所としての二並山(標高418m)を経て黒瀬峠へとトラバースするルートをお山信仰の古道として踏査している。これが祖霊殿から黒瀬峠までの登拝礼道だろう。
表参道だけとっても結構なバリエーションルートがあるが、大雑把に言ってどのルートを取ろうとも、最終的には河口集落へと収斂し、そこからは西条藩領である尾根を登る今宮道・三十六王子社道(前神寺・極楽寺信徒)、そして小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)を辿り常住(現在の成就社)に向かったようである。



講中・先達の制度
『山と信仰 石鎚(森正史)』によれば、頂上を目指した「お山講」・「石鎚講」を指導したと先達は修験道から出た言葉で、霊山の登拝にあたり、同行者の先頭に立って案内・指導する、修行を積んだ経験豊かな修験者のことであり、石鎚の先達制度は前神寺によって創設されたとされる。
江戸時代中期、前神寺は道前・道後の真言寺院を先達所に指名し、先達(先達所の寺僧は大先達)と講頭(民間有力者)を中心に講中を制度化していった。明和6年(1769)に幕府に提出した資料には道前、道後の60の寺院・堂庵が記されている(明確なものは39寺院)。39のうち道前が7寺、道後が32と道後が多い。道後平野を主要拠点としている。
前神寺は文化10年(1813)から登拝の許可証といった先達会符の発行はじめる。先達と一般信徒(後達、平山)を識別し、先達に権威を与えるものである、この先達会符は現在でも形を変えて石鎚神社に踏襲されている。

以上のようにお山には多くの登拝道がある。また登拝者の数は、講中を組織した別当寺・前神寺より、もうひとつの別当寺である横峰寺経由の道のほうが多いようだ。『石鎚信仰の歩み』には、「安政の頃の参詣人は10,250人、慶応2年は9,249人、これらの人が別当寺である東の前神寺、西の横峯寺を経て登山していたとあり、また、西登山口の大頭に立つ寛政4年(1792)建立の常夜灯などからして、昔は西の横峰寺を経ての登山者が相当多かったと思われる」とある。

今宮道を上る前神寺・極楽寺信徒の参詣人も、成就社までは三十六王子参詣道とほぼ同じであるが、成就社から先は比高差1000mほどを再び谷筋まで下り第二十一王子社から第三十四王子社まで行ったり来たりのルートをお山に向かって登り返すことになる。このルートは、修験者ならまだしも、庶民の参詣者には少々辛いものではないかと思える。
三十六王子社参詣道に惹かれる我が身ではあるが、「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」の唱えことばをかけながら三十六王子社参詣道のお山巡拝したのは、登拝者全体の一部と考えたほうがよさそうに思えてきた。

六十四番札所・前神寺
参道の鳥居まで戻り、金比羅道を東に緩やかに下って行くと六十四番札所・前神寺西口山門がある。
西口山門傍の道標
山門脇に「是ヨリ次ノ六十五番三角寺迄汽車ノ便アリ 石鎚山駅ヨリ三島駅行使利」と刻まれた昭和8年(1933)建立の道標がある。「えひめの記憶」に拠れば、「石鎚神社と前神寺への参拝者の便を図って、石鎚山のお山開きの期間中のみ石鎚山駅が仮設されたのは昭和4年のことであり、地元の要望もあって昭和7年からは常設駅となった。道標の建立はその翌年で、訪れる遍路たちに広く石鎚山駅からの鉄道利用を勧めるために建てられたのだろう」とある。
修行大師
山門を進み薬師谷川を渡ると左手に鐘楼、庫裏、納経所。右に折れると左手に大師堂、右手に金毘羅堂と修行大師像。大師像は日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進したものと言う。


お滝不動
浄土橋を渡り「お滝不動」にお参りしながら石段を上り薬師堂、護摩堂の奥に本堂。両翼を備えた入母屋造りとなっている。








石鉄権現堂
本堂手前に鳥居があり、石段を上ると「石鉄山大権現」を祀る石鉄権現堂が建つ。








東門の道標
「えひめの記憶」には「境内東側の駐車場の隅に徳右衛門道標、前神寺東入り口には中務茂兵衛の道標が立っている。そのほか境内には3基の地蔵丁石が散在しているが、これら地蔵丁石と徳右衛門道標は、いずれも現在の石鎚神社本社の敷地及びその周辺から移設されたものと考えられる」とある。
いまひとつ「境内東側の駐車場」の場所がよくわからない。本殿社務所で東側駐車場の場所をお聞きすると、本殿社務所から東に抜ける道を進み、庫裏の東側を進めば東側の駐車場、東口に出る、と。昔は西口に駐車場はなく、東口がメーンの入り口であったようだが、西口に広い駐車場が出来たため、人の流れが西口に移ったと教えて頂いた。
徳右衛門道標と地蔵丁石
落ち着いた道を下り、こじんまりした駐車場傍の道脇に「是よ里 三角寺迄十里」と刻まれた徳右衛門道標があり、その右手に坐像と台石が同じ石に彫られ、一体となった地蔵丁石がある。「五丁」の文字が読める。頭部が欠けているのは、廃物稀釈の余波を受けてのものだろう。



茂兵衛道標と地蔵丁石
さらに下り、東門を入ったところに「左 札所」「三角寺十里 吉祥寺二十丁」「前上寺伽藍」と刻まれた明治37年(1904)建立の茂兵衛道標が立つ。明治21年(1888)には既に前神寺と復しているのだが、旧称の前上寺となっている。 また、茂兵衛道標の左手には3体の石仏が並ぶが、そのうちの1体、茂兵衛道標側にあるのが地蔵丁石。徳右衛門道標脇の丁石と同じく、像と台石が同じ石に彫られ、「弐丁」の文字が読める。頭部が欠けているのも同じである。丁石と寺までの距離が合わないので、旧前神寺参道にあったものを移したのだろう。 地蔵潮丁石は3体とのことだが、徳右衛門道標の少し上に舟形地蔵丁石はあったものの、3基の丁石は同形との記事もあり違うようだ。1体は見つけることができなかった。
前神寺
六十四番札所・前神寺の御詠歌は「前は神 後ろは仏 極楽の よろずの罪をくだく 石鎚」。神仏習合のお寺さまの性格をよく表している。前神寺については明治の神仏分離に伴う石鎚神社の設立もあり、説明の関係上石鎚神社のところでメモしたのだが、「えひめの記憶」にある記述を再掲する。

「前神寺は、江戸時代には石鎚山上に蔵王権現を祀り、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心的役割を担ってきた。かつての寺地は現在の石鎚神社本社の場所にあたり、奥の院である奥前神寺も石鎚登山ロープウェイ山頂駅上の現在地ではなく、成就社の建つ場所にあった。ところが明治時代の神仏分離の進展の中で、政府の神祇官によって仏体である蔵王権現が否定され、明治8年(1875)の教部省指令に基づく県の通達によって寺は廃寺と決定されたのである。
その後、明治12年(1879)に檀家(だんか)などが県に出した復旧願いによって、末寺の医王院があった現在地にようやく前上寺の名称で再建が認められ、後年、前神寺の名称に復帰できたという歴史を経てきた。現在では前神寺は再び石鎚山修験道の中心地となり、南北に長い境内地の中に多くの伽藍(がらん)が建ち並んでいる。そして、前神寺・石鎚神社ともに、毎年、夏のお山開きの時期には大勢の信者・参拝者でにぎわいを見せている(「えひめの記憶)」。
明治22年(1889)「前神寺」に復して以降、石鎚信仰のかつての講中の組織再編の熱心に取り組み、昭和28年(1953)には、真言宗御室派からも分離独立し、真言宗石鉄派・石鉄山修験道の総本山として活動し、昭和61年のデータでは、寺院・教会89、教師340人、信者30万人をかかえ、石鎚神社とともに石鎚信仰の大きな役割を担っている。
山号石鉄山
前神寺は「石鉄山 金色院 前神寺」と言う。六十番札所・横峰寺も現在では「石鉄山 福地院 横峰寺」と言う。石鎚信仰の正当性を表すとされるこの山号「石鉄山」を巡って、共に別当寺であった前神寺と横峰寺との間での紛争が起きている。石鎚のお山信仰について、修験者だけのときであれば特に紛争が起こるとも思わないが、一般庶民がお山に登拝するようになる江戸の頃,お山に鎮座する別当寺の前神寺と横峰寺での争いが起こったようだ。『石鎚信仰の歩み』に拠れば、「基本は「石鉄山」という山号と、それにともなう「石鉄山」の別当寺の正当性を巡る争いのように思える。
その経緯は以下の通り;享保14年(1729)横峰寺が「石鉄山横峯寺」の札を発行したことに前神寺が抗議し、京都の御室御所(仁和寺門跡)に訴える。その結果、「石鉄山之神社は領地が入り組んでいるが、新居郡石鉄山、西条領であり、前神寺が別当である、とし
予州新居郡氷見村 石鉄山 前神寺
予州周布郡千足村 仏光山 横峯寺」
との裁定がでた。
横峯寺は仏光山に限るべし。仏光山石鉄社別当横峯寺とせよ、ということであるが、この調停を不服とした横峰寺は享和元年(1801)御所の調停を離れ、江戸表・寺社奉行に「石鉄山別当職」を出願する。結果は,別当は前神寺として却下される。
お山では小松藩領・千足山村の者による奥前神寺打ちこわし事件が起こっている。現在石鎚神社中宮・成就社のあるこの地は小松藩と西条藩の境界であり、千足山村の言い分は、常住(奥前神寺)は小松領であるとして打ちこわしを行ったようだ。これにより、別当争いに境界争い、小松藩と西条藩の境界論争が加わることになる。
文政8年(1825)に出た幕府の裁定では、成就社の地所は千足村、別当職は前神寺となったが、幕府からどのように言われようと、横峰寺は「石鉄の文字と別当の肩書」に執着している。なにがしかの「伝統」が根底にあったのだろう、と同書は記す。
明和5年(1768)の「道後先達通告書」には、「石鉄山別当は前神寺に限る。先達初参者に御守授与のこと。石鉄山号は女人結界の地以外へは通ぜざること。横峯山号は仏光山にして石鉄山にあらざること。先達寺院権現を勧請祭祀せるは古来よりのことなり、その故をもって石鉄山号を唱うることなし。石鉄山参詣東西両道勝手たること」とある。
石鉄山別当は前神寺。横峯寺は仏光山の別当であり、石鉄山にあらず。参詣道については特段の規制はなし、ということであろう。このような石鉄山の別当としての正当性は前神寺優位ではあるが、前述の如く参詣者は横峰寺経由のほうが多かったというのは、誠に面白い。

なお、「石鉄山 福地院 横峰寺」と復したのは、明治の神仏分離令により、廃寺となった横峰寺が明治42年(1909)、再び横峰寺と復した頃だろうか。

石鎚神社、前神寺、横峰寺の入り繰り、石鎚信仰の核となる石鎚神社、前神寺、横峰寺故の石鎚登拝道など、あれこれ寄り道し、メモがちょっと長くなった。 今回はここまでとし、前神寺から六十五番札所・三角寺へのメモは次回に廻す。


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