先回の散歩では、黒目川合流点で行き止まり。気持ちの張りも失せ、当初の計画であった和光市・新倉河岸行きを、あきらめた。もっとも、散歩続行を諦め、朝霞台の駅に向かう頃は日もとっぷり暮れ、とてものこと、あれ以上進むことはできなかった、とも思う。
予定未完となった距離はごくわずか。黒目川合流点から終点・新倉河岸までは3キロ弱、といったところ。電車に乗ってわざわざ行く距離としては、少々物足りない。はてさて。で、如何なる思考回路のなせる業か、自転車で行ってみよう、と「発心」した。
片道30キロ弱。行って行けない、ことはない。川崎市鶴見まで自転車で、饅頭を買いに行った、こともある。その時も片道30キロ程度。お江戸日本橋の歌にでてくる、「六郷渡れば川崎の、萬年屋 鶴と亀とのよね饅頭」と歌われる、そのお饅頭を買い求めるためである。が、祝日というのに、お店は休み。暗い多摩川の堤防を、心の中で泣きながら、帰ってきた。その、苦行再び、となることは、日を見るよりも明らかだったのだが。。。(水曜日, 1月 31,2007のブログを修正)
本日のルート;杉並区・和泉>方南通り・大宮八幡>青梅街道・阿佐ヶ谷> 早稲田通り・本天沼2丁目>西武新宿線・下井草>新青梅街道>千川通り・環八>旧早稲田通り>石神井公園駅>西武池袋線・石神井公園駅>目白通り・三軒寺>笹目通り・土支田交差点>笹目通り>和光陸橋・川越街道>白子・吹上観音>妙典寺>金泉倉新河岸川>外環道交差>越戸川>(朝霞市)>台・黒目川合流点>田島・花の木>岡・城山公園>朝霞市博物館>浜崎3丁目・武蔵野線交差>朝霞浄水場>宮戸・宮戸橋>柳瀬川合流・志木市役所>いろは橋>中宗岡・志木市郷土資料館>逆コースを家路に
自転車で成増・白子を目指す
大体のルーティングは、ともかくひたすら北に向かい、まずは成増・白子を目 指す。最初のランドマークは、先日の白子宿散歩のとき行きそびれた吹上観音。素白先生こと、岩本素白氏の「白子の宿」に、それらしき観音さまの記述があり、行かずば成るまい、と思っていたところ。その後は、新河岸川に沿って、黒目川との合流点を目指す。そして、ついで、といっては何だが、朝霞市岡にある朝霞市博物館と、志木市中宗岡にある志木市郷土資料館を訪ねることに、する。
杉並区和泉の自宅を午前10時過ぎに出発。ひたすら北に進む。最初のランドマークは土支田。光が丘団地の西、笹目通りと交差するあたり。土支田は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が住んでいたところである、と。白子川流域には土師(はじ)器を焼いていた遺跡が多いとか。どのようなところがちょっと見ておきたかった。
杉並区・和泉を出発。方南通り・大宮八幡を北に青梅街道・阿佐ヶ谷に。成行きに北に進み早稲田通り・本天沼2丁目を経て西武新宿線・下井草、新青梅街道を越え、千川通り・環八に交差。環八を越え旧早稲田通りから石神井公園を経て西武池袋線・石神井公園駅に。成り行きで北に進み目白通り・三軒寺をへて、土支田地区を進み最初のランドマーク笹目通り・土支田交差点あたりに。当然のこと、「土師器」をつくっていた場所、といった趣きがあるわけもない。笹目通りを更に北に進み、和光陸橋で川越街道を越え、最初の目的地、吹上観音に着く。
おおよそ2時間程度、ひたすらに自転車のペダルをこぐ。カシミール3Dでつくった地形図でもわかるように、結構なアップダウン。特に最終地点、川越街道を越え、白子川に向かって下る道筋は急勾配。武蔵野台地の端、洪積台地から沖積低地に下る坂道である。
吹上観音
坂道を下り終えたあたりに吹上観音交差点。台地上の寺域の下を東に進み、吹上観音に。正式には東明禅寺。臨済宗の古刹である。東明寺の創立は室町期。観音堂は、天平年間(729~49)に、行基菩薩が東北巡行のおり、ここに立ち寄って観音様の像を刻んだ、とか。江戸時代から、秩父観音霊場などにもひけをとらない観音霊場として盛んに信仰された、と。
どこだったか、古本屋でみつけた江戸時代の散歩エッセー、『江戸近郊ウォーク(原題;江戸近郊道しるべ;村尾嘉陵);小学館)』にも「吹上観音道くさ」という記述があった。今からおよそ200年前、暇をみては江戸近郊を歩いて廻ることを唯一の楽しみにしていた、という清水徳川家老臣・村尾嘉陵の日帰り散歩のエッセーである。
が、「吹上観音道くさ」もさることながら、この観音様が気になっていたのは、岩本素白さんの散歩エッセー『素白先生の散歩』にある、「白子の宿 独り行く(2)」での白子の観音堂のくだり。いかにも吹上観音と思える観音堂の記述に惹かれていら。
『素白先生の散歩』での「白子の宿 独り行く(2)」;「この丘陵一帯の景色は面白い。はじめてこの観音堂に登った時には、丁度前の青田に白鷺の一群が降りたところであった。田圃を隔ててこの北の丘と相対している南の丘陵を眺める景色は更に面白い。その南の丘陵というものは実に複雑な高低起伏を持っているところで、上赤塚から下赤塚に連なり、仔細に歩いて見ると、地図や案内図に無い浅い谷間、狭い坂道、まるで隠れ里にでも行くような細い村道、木曽路でも歩くような眺めの所があり、山里めいた家々も残っている」。この描写に惹かれ、この観音さまに着てみたいと想っていた。当時ほど見晴らしはよくない、にしても、台地からの眺めはなかなかのものでありました。
本堂裏手の小高い場所に並ぶ百庚申、134基の庚申塚の間をゆったり歩き、吹上観音を離れ、妙典寺に向かう。
妙典寺
妙典寺行きのきっかけは、吹上観音の入口にあった和光市の名所案内。「子安の池」がある寺として紹介されていた。名前に惹かれ、行かずばなるまい、と。で、笹目通りに戻り、少し川越街道方面に進み、北に入ると妙典寺。
「子安の池」は本堂裏手にある湧水池。鎌倉期、佐渡に向かう途中の日蓮上人が、新倉の領主であった墨田氏の妻の安産祈願をおこない、無事男子を出産。その霊力ゆえに、この湧水池を「子安の池」と呼ぶようになった、とか。
午王山(ごぼうやま)遺跡
妙典寺を離れ、道なりに進み「午王山(ごぼうやま)遺跡」に。これも、妙典寺と同じく、吹上観音前の和光市名所案内に紹介されていた。新羅からの渡来人が都から移り来て、居住したところ、とか。畠というか、住宅街というか、ともあれ平地に取り残されたような20m程度の台地。弥生から室町にかけての各時代の遺跡が発掘されている。かつての、新座(にいくら)郡志木郷の中心地、郡役所があったところではなかったか、という説もある。新羅王が居を構えたといった伝説も残る。
予定未完となった距離はごくわずか。黒目川合流点から終点・新倉河岸までは3キロ弱、といったところ。電車に乗ってわざわざ行く距離としては、少々物足りない。はてさて。で、如何なる思考回路のなせる業か、自転車で行ってみよう、と「発心」した。
片道30キロ弱。行って行けない、ことはない。川崎市鶴見まで自転車で、饅頭を買いに行った、こともある。その時も片道30キロ程度。お江戸日本橋の歌にでてくる、「六郷渡れば川崎の、萬年屋 鶴と亀とのよね饅頭」と歌われる、そのお饅頭を買い求めるためである。が、祝日というのに、お店は休み。暗い多摩川の堤防を、心の中で泣きながら、帰ってきた。その、苦行再び、となることは、日を見るよりも明らかだったのだが。。。(水曜日, 1月 31,2007のブログを修正)
本日のルート;杉並区・和泉>方南通り・大宮八幡>青梅街道・阿佐ヶ谷> 早稲田通り・本天沼2丁目>西武新宿線・下井草>新青梅街道>千川通り・環八>旧早稲田通り>石神井公園駅>西武池袋線・石神井公園駅>目白通り・三軒寺>笹目通り・土支田交差点>笹目通り>和光陸橋・川越街道>白子・吹上観音>妙典寺>金泉倉新河岸川>外環道交差>越戸川>(朝霞市)>台・黒目川合流点>田島・花の木>岡・城山公園>朝霞市博物館>浜崎3丁目・武蔵野線交差>朝霞浄水場>宮戸・宮戸橋>柳瀬川合流・志木市役所>いろは橋>中宗岡・志木市郷土資料館>逆コースを家路に
自転車で成増・白子を目指す
大体のルーティングは、ともかくひたすら北に向かい、まずは成増・白子を目 指す。最初のランドマークは、先日の白子宿散歩のとき行きそびれた吹上観音。素白先生こと、岩本素白氏の「白子の宿」に、それらしき観音さまの記述があり、行かずば成るまい、と思っていたところ。その後は、新河岸川に沿って、黒目川との合流点を目指す。そして、ついで、といっては何だが、朝霞市岡にある朝霞市博物館と、志木市中宗岡にある志木市郷土資料館を訪ねることに、する。
杉並区和泉の自宅を午前10時過ぎに出発。ひたすら北に進む。最初のランドマークは土支田。光が丘団地の西、笹目通りと交差するあたり。土支田は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が住んでいたところである、と。白子川流域には土師(はじ)器を焼いていた遺跡が多いとか。どのようなところがちょっと見ておきたかった。
杉並区・和泉を出発。方南通り・大宮八幡を北に青梅街道・阿佐ヶ谷に。成行きに北に進み早稲田通り・本天沼2丁目を経て西武新宿線・下井草、新青梅街道を越え、千川通り・環八に交差。環八を越え旧早稲田通りから石神井公園を経て西武池袋線・石神井公園駅に。成り行きで北に進み目白通り・三軒寺をへて、土支田地区を進み最初のランドマーク笹目通り・土支田交差点あたりに。当然のこと、「土師器」をつくっていた場所、といった趣きがあるわけもない。笹目通りを更に北に進み、和光陸橋で川越街道を越え、最初の目的地、吹上観音に着く。
おおよそ2時間程度、ひたすらに自転車のペダルをこぐ。カシミール3Dでつくった地形図でもわかるように、結構なアップダウン。特に最終地点、川越街道を越え、白子川に向かって下る道筋は急勾配。武蔵野台地の端、洪積台地から沖積低地に下る坂道である。
吹上観音
坂道を下り終えたあたりに吹上観音交差点。台地上の寺域の下を東に進み、吹上観音に。正式には東明禅寺。臨済宗の古刹である。東明寺の創立は室町期。観音堂は、天平年間(729~49)に、行基菩薩が東北巡行のおり、ここに立ち寄って観音様の像を刻んだ、とか。江戸時代から、秩父観音霊場などにもひけをとらない観音霊場として盛んに信仰された、と。
どこだったか、古本屋でみつけた江戸時代の散歩エッセー、『江戸近郊ウォーク(原題;江戸近郊道しるべ;村尾嘉陵);小学館)』にも「吹上観音道くさ」という記述があった。今からおよそ200年前、暇をみては江戸近郊を歩いて廻ることを唯一の楽しみにしていた、という清水徳川家老臣・村尾嘉陵の日帰り散歩のエッセーである。
が、「吹上観音道くさ」もさることながら、この観音様が気になっていたのは、岩本素白さんの散歩エッセー『素白先生の散歩』にある、「白子の宿 独り行く(2)」での白子の観音堂のくだり。いかにも吹上観音と思える観音堂の記述に惹かれていら。
『素白先生の散歩』での「白子の宿 独り行く(2)」;「この丘陵一帯の景色は面白い。はじめてこの観音堂に登った時には、丁度前の青田に白鷺の一群が降りたところであった。田圃を隔ててこの北の丘と相対している南の丘陵を眺める景色は更に面白い。その南の丘陵というものは実に複雑な高低起伏を持っているところで、上赤塚から下赤塚に連なり、仔細に歩いて見ると、地図や案内図に無い浅い谷間、狭い坂道、まるで隠れ里にでも行くような細い村道、木曽路でも歩くような眺めの所があり、山里めいた家々も残っている」。この描写に惹かれ、この観音さまに着てみたいと想っていた。当時ほど見晴らしはよくない、にしても、台地からの眺めはなかなかのものでありました。
本堂裏手の小高い場所に並ぶ百庚申、134基の庚申塚の間をゆったり歩き、吹上観音を離れ、妙典寺に向かう。
妙典寺
妙典寺行きのきっかけは、吹上観音の入口にあった和光市の名所案内。「子安の池」がある寺として紹介されていた。名前に惹かれ、行かずばなるまい、と。で、笹目通りに戻り、少し川越街道方面に進み、北に入ると妙典寺。
「子安の池」は本堂裏手にある湧水池。鎌倉期、佐渡に向かう途中の日蓮上人が、新倉の領主であった墨田氏の妻の安産祈願をおこない、無事男子を出産。その霊力ゆえに、この湧水池を「子安の池」と呼ぶようになった、とか。
午王山(ごぼうやま)遺跡
妙典寺を離れ、道なりに進み「午王山(ごぼうやま)遺跡」に。これも、妙典寺と同じく、吹上観音前の和光市名所案内に紹介されていた。新羅からの渡来人が都から移り来て、居住したところ、とか。畠というか、住宅街というか、ともあれ平地に取り残されたような20m程度の台地。弥生から室町にかけての各時代の遺跡が発掘されている。かつての、新座(にいくら)郡志木郷の中心地、郡役所があったところではなかったか、という説もある。新羅王が居を構えたといった伝説も残る。
志木(しき)は新羅(しらぎ)が転化したものでる、ということは何度かメモした。シラギを志楽・志羅木・志楽木などと音写し、それが転じて志木になった、とか。この志木郷があったのが、和光市白子・新倉あたりではなかろうか、というわけだ。白子も新倉も、シラコはシラギの訛りであるとされるし、新倉(にいくら)はかつての新座(にいくら)の音を残している。ちなみに和光のお隣に志木市がある。が、この志木市は明治になってできた名前。舘村と引又町が合併して志木宿としたことがはじまりであり、歴史上の志木郷とは関係がない。
新座(にいくら)郡のメモ;武蔵国には新座(にいくら)郡を含めて21の郡があった。郡の厳密な設置年代は不明だが、およそのところ、天武天皇(在位673-686)のころではなかろうか、と推測されている。ここ新座郡は、はじめ新羅(しらぎ)郡として、758年に置かれた、と。 帰化した新羅(しらぎ)僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移住させ、新羅(しらぎ)郡としたわけだ。これがのちに名を改められて、新座(にいくら)郡となった。「午王山(ごぼうやま)遺跡」のある台地の裾に金泉禅寺。臨済宗建長寺派。入口から山門まで100mもあるような結構な構えのお寺である。
新河岸川
金泉禅寺を離れ、新河岸川に向かう。和光高校の東を北に進むと和光市清掃センターと特養老人歩ホーム和光苑。和光苑の西のちょっとした公園を抜けると新河岸川。ここからが、本来の新河岸川散歩のクロージングのはじまり。
新倉河岸
川 に沿って上流に向かって進む。逆風がきつい。新河岸川の北の堤防の向こうは荒川が流れている。荒川河川敷公園の川向こう、「彩湖」が荒川に合流するあたりに「新倉河岸」があった、よう。明治43年の大洪水被害への対策として大正期に荒川下流、新河岸川の河川改修工事が行われたため、往古の川筋は変わってしまっている。彩湖は荒川下流部の洪水予防と荒川が水不足の時に首都圏に水道用水を供給するためにつくられた貯水池・遊水地。
新倉河岸。新座郡上新倉村(現和光市)にあった。成立の年代ははっきりしない。新河岸川が荒川に注ぐ河岸場であり、曳き船の開始点でもあった、とか。荷船の上流に向かって曳くわけだが、その曳き子「のっつけ」が泊まる船宿「のっつけ宿」に駄賃稼ぎの「のっつけ」が集まっていた、と。
油槽所と川筋の間の「踏み分け道」を少し進む。が、水路が合流し行き止まり。少しもどり、下水処理施設・新河岸川水循環センター脇を進むと外環道と交差。生コン工場などがある、ひどく殺風景なところ。ダンプカーを気にしながら北に折れ、再び新河岸川堤防に。いよいよの、「踏み分け道」。なんとなく嫌な予感におびえながら、逆風に抗ってペダルをこぐ。さすがに少々きつい。で、案の定、行き止まり。越戸川が合流する。
井口河岸(江口河岸)・越戸川
新河岸川と越戸川の合流点にあったのが井口河岸(江口河岸)。河川改修によりふたつの川の合流点が変わっているので、実際の場所は不明。成立の年代も不明。周囲は砂利や廃材などの置き場、下水処理場など、これといった情緒なし。越戸川は本町3丁目の和光市市立図書館ちかくの池(広沢の池)から湧水から発し、和光市と朝霞市の境を下る5キロ弱の一級河川。
黒目川
越戸川との合流点から引き返し、新河岸川水循環センターに沿って南に下り、東和橋で越戸川をわたる。朝霞九小前を通り、しばらく行くと東橋。黒目川と交差する。先回、行き止まりとなった黒目川と新河岸川の合流点あたりを眺める。
台河岸
で、合流点の少々下流にあったのが、「台河岸」。新座郡台村(現朝霞市)。別名「大河岸」とも。ここは東橋の少し上流にある笹橋近くにあった根岸河岸への荷の積み替えをおこなった河岸。根岸河岸へ通じる黒目川が浅いため、ここで小船に荷を移し変えた、とか。根岸河岸(黒目河岸)は笹橋より少し下流の黒目川右岸、現在の積水化学の運動場のあたりにあった、のではなかろうか。新座郡根岸村(現朝霞市)。成立の時期は不詳。が、宝暦(1750年から)当時すでに盛んに利用されていた、とか。根岸河岸へは、田無、保谷あたりから「河岸街道」と呼ばれる道が通じていた。
はてさて、先回の散歩断念のところまでやってきた。自転車で、3時間弱かかった。が、なんとなく、襷がつながった。少々の達成感あり。後は、朝霞市岡の朝霞博物館と、志木市中宗岡の志木市郷土資料館を訪れ、その後、一路自宅に向かって南に下る。帰り道の辛さは、語るも涙、となってしまいそう。本当にきつかった、とだけのコメントに留める
新河岸川散歩のメモもこれで終わりとする。メモしながら気がついたことは、新河岸川って、武蔵野台地の「崖線」に沿って下っている、ということ。カシミール3Dで地形図をつくって、あらためて気づかされた。
散歩するまでは川越市は平地のど真ん中、と思っていた。が、武蔵野台地の東北端にあり、周囲を荒川・入間川・不老川といった川に、囲まれている。川を越えなければ辿りつけない、とか、川で豊か(肥)になった土質、といった地名の由来も大いに納得できる。
新河岸川舟運についてきづいたこと;はじまりは川越藩御用ではあったが、次第に商人の手に移っていった。舟運が盛んになるにつれてあれこれトラブルも起きたようだ。ひとつには舟問屋と川越商人とのトラブル。舟問屋・運送業者と商人のトラブルであり、説明するまでもないだろう。もうひとつは、舟運と川越街道・江戸街道の旅籠・運送業者との争い。これは舟運業者と陸運業者のお客の取り合い。江戸街道の旅籠・運送業者があれこれ新河岸舟運にクレームを入れている。が、安全・便利でしかも安い舟運に利があったようだ。
新座(にいくら)郡のメモ;武蔵国には新座(にいくら)郡を含めて21の郡があった。郡の厳密な設置年代は不明だが、およそのところ、天武天皇(在位673-686)のころではなかろうか、と推測されている。ここ新座郡は、はじめ新羅(しらぎ)郡として、758年に置かれた、と。 帰化した新羅(しらぎ)僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移住させ、新羅(しらぎ)郡としたわけだ。これがのちに名を改められて、新座(にいくら)郡となった。「午王山(ごぼうやま)遺跡」のある台地の裾に金泉禅寺。臨済宗建長寺派。入口から山門まで100mもあるような結構な構えのお寺である。
新河岸川
金泉禅寺を離れ、新河岸川に向かう。和光高校の東を北に進むと和光市清掃センターと特養老人歩ホーム和光苑。和光苑の西のちょっとした公園を抜けると新河岸川。ここからが、本来の新河岸川散歩のクロージングのはじまり。
新倉河岸
川 に沿って上流に向かって進む。逆風がきつい。新河岸川の北の堤防の向こうは荒川が流れている。荒川河川敷公園の川向こう、「彩湖」が荒川に合流するあたりに「新倉河岸」があった、よう。明治43年の大洪水被害への対策として大正期に荒川下流、新河岸川の河川改修工事が行われたため、往古の川筋は変わってしまっている。彩湖は荒川下流部の洪水予防と荒川が水不足の時に首都圏に水道用水を供給するためにつくられた貯水池・遊水地。
新倉河岸。新座郡上新倉村(現和光市)にあった。成立の年代ははっきりしない。新河岸川が荒川に注ぐ河岸場であり、曳き船の開始点でもあった、とか。荷船の上流に向かって曳くわけだが、その曳き子「のっつけ」が泊まる船宿「のっつけ宿」に駄賃稼ぎの「のっつけ」が集まっていた、と。
油槽所と川筋の間の「踏み分け道」を少し進む。が、水路が合流し行き止まり。少しもどり、下水処理施設・新河岸川水循環センター脇を進むと外環道と交差。生コン工場などがある、ひどく殺風景なところ。ダンプカーを気にしながら北に折れ、再び新河岸川堤防に。いよいよの、「踏み分け道」。なんとなく嫌な予感におびえながら、逆風に抗ってペダルをこぐ。さすがに少々きつい。で、案の定、行き止まり。越戸川が合流する。
井口河岸(江口河岸)・越戸川
新河岸川と越戸川の合流点にあったのが井口河岸(江口河岸)。河川改修によりふたつの川の合流点が変わっているので、実際の場所は不明。成立の年代も不明。周囲は砂利や廃材などの置き場、下水処理場など、これといった情緒なし。越戸川は本町3丁目の和光市市立図書館ちかくの池(広沢の池)から湧水から発し、和光市と朝霞市の境を下る5キロ弱の一級河川。
黒目川
越戸川との合流点から引き返し、新河岸川水循環センターに沿って南に下り、東和橋で越戸川をわたる。朝霞九小前を通り、しばらく行くと東橋。黒目川と交差する。先回、行き止まりとなった黒目川と新河岸川の合流点あたりを眺める。
台河岸
で、合流点の少々下流にあったのが、「台河岸」。新座郡台村(現朝霞市)。別名「大河岸」とも。ここは東橋の少し上流にある笹橋近くにあった根岸河岸への荷の積み替えをおこなった河岸。根岸河岸へ通じる黒目川が浅いため、ここで小船に荷を移し変えた、とか。根岸河岸(黒目河岸)は笹橋より少し下流の黒目川右岸、現在の積水化学の運動場のあたりにあった、のではなかろうか。新座郡根岸村(現朝霞市)。成立の時期は不詳。が、宝暦(1750年から)当時すでに盛んに利用されていた、とか。根岸河岸へは、田無、保谷あたりから「河岸街道」と呼ばれる道が通じていた。
はてさて、先回の散歩断念のところまでやってきた。自転車で、3時間弱かかった。が、なんとなく、襷がつながった。少々の達成感あり。後は、朝霞市岡の朝霞博物館と、志木市中宗岡の志木市郷土資料館を訪れ、その後、一路自宅に向かって南に下る。帰り道の辛さは、語るも涙、となってしまいそう。本当にきつかった、とだけのコメントに留める
新河岸川散歩のメモもこれで終わりとする。メモしながら気がついたことは、新河岸川って、武蔵野台地の「崖線」に沿って下っている、ということ。カシミール3Dで地形図をつくって、あらためて気づかされた。
散歩するまでは川越市は平地のど真ん中、と思っていた。が、武蔵野台地の東北端にあり、周囲を荒川・入間川・不老川といった川に、囲まれている。川を越えなければ辿りつけない、とか、川で豊か(肥)になった土質、といった地名の由来も大いに納得できる。
新河岸川舟運についてきづいたこと;はじまりは川越藩御用ではあったが、次第に商人の手に移っていった。舟運が盛んになるにつれてあれこれトラブルも起きたようだ。ひとつには舟問屋と川越商人とのトラブル。舟問屋・運送業者と商人のトラブルであり、説明するまでもないだろう。もうひとつは、舟運と川越街道・江戸街道の旅籠・運送業者との争い。これは舟運業者と陸運業者のお客の取り合い。江戸街道の旅籠・運送業者があれこれ新河岸舟運にクレームを入れている。が、安全・便利でしかも安い舟運に利があったようだ。
舟には、並舟・早舟・急舟・飛切といったタイプがあったようだが、人を乗せるのは早舟。1日1回、夕方に新河岸を船出し、翌朝8時頃千住に到着。お昼には終点の浅草・花川戸に着いた、という。こんなに便利なら、舟を利用するだろう。ちなみに、並舟は不定期の貨物舟。河岸を巡りながらすすむので、7日から、20日もかかることもあった、とか。急舟は急ぎの荷物舟。2,3日での運行。飛切舟は今日下って明日戻る、といった超特急便。鮮魚の運搬に使われた、と。
新河岸川の終焉;江戸期をとおして、物流の幹線として機能した新河岸川舟運も明治になって、かげりがでてくる。鉄道輸送の開始がそのはじまり。明治23年には川越鉄道敷設運動が開始される。が、発起人には川越の商人は誰も入っていない。新河岸川舟運による利益を手放すことへの恐れが、あったのであろう。結局、明治28年川越・国分寺間の鉄道開通。翌29年には川越・大宮間に乗合馬車、39年には電車開通。明治17年に開設していた上野から高崎間の鉄道路線、明治22年に開通していた甲武鉄道開通(八王子>新宿)、と、いったように、鉄道による物流ネットワークが生まれる。大正3年には川越・池袋間に東武線が開通。これにより舟運から鉄道輸送の本格シフトがはじまることになる。
新河岸川の終焉;江戸期をとおして、物流の幹線として機能した新河岸川舟運も明治になって、かげりがでてくる。鉄道輸送の開始がそのはじまり。明治23年には川越鉄道敷設運動が開始される。が、発起人には川越の商人は誰も入っていない。新河岸川舟運による利益を手放すことへの恐れが、あったのであろう。結局、明治28年川越・国分寺間の鉄道開通。翌29年には川越・大宮間に乗合馬車、39年には電車開通。明治17年に開設していた上野から高崎間の鉄道路線、明治22年に開通していた甲武鉄道開通(八王子>新宿)、と、いったように、鉄道による物流ネットワークが生まれる。大正3年には川越・池袋間に東武線が開通。これにより舟運から鉄道輸送の本格シフトがはじまることになる。
新河岸川舟運終焉の決定的要因は、新河岸川そのものの変化。明治43年の大洪水被害対策のため、九十九曲がりといった川筋をまっすぐにし排水をよくする河川改修工事。大正7年荒川の下流、大正9年には新河岸川の改修工事がスタート。通舟が難しくなる。大正12年に関東大震災。舟を失った東京湾沿岸の舟運業者の求めに応じ、新河岸川の舟主はほと
んどの舟を手放す。新河岸川舟運に見切りをつけていたのだろう。で、昭和6年には改修工事のため全流域にわたり通舟不可能となり、300年近く続いた新河岸川舟運が終わりを告げた。
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