杉並 善福寺川筋の窪地・水路跡散歩 Ⅳ;成田西の善福寺川南を進む旧流路・揚堀を辿り、上荻の暗渠跡、そして西荻北の窪地・水路跡を歩く①

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善福寺川の谷筋から青梅街道の台地に上る途中、偶々出合った窪地を辿ると、そこには往昔の小沢川跡であった。そのメモの過程で作成した数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図には、小沢川跡が善福寺川筋から台地に切れ込む窪地としてくっきりと表れていた。
地形陰影段彩図には、その小沢川跡の窪地だけでなく、川筋から台地に切れ上がる窪地が見える。その窪地には小沢川跡と同じく、往昔の水路跡が残っているだろうとはじめた善福寺川筋の窪地散歩も、これで何回目になるだろうか。 最初は窪地だけ、と思っていたのだが、それぞれのメモの際、ちょっと昔の善福寺川の流れをチェックすると、その流れは現在のように河川工事の結果一本化された河川ではなく、幾つもの流れが複雑に田圃の中を流れていたのが見えてきた。
で、結局窪地だけでなく、善福寺川の旧流路も歩くことになったのだが、結果的にそれは河川改修された善福寺川の旧流路を活用したであろう揚堀・田用水跡でもあり、「旧流路・揚堀」と併記した散歩ラインアップも加わることになった。 今回の散歩も、地形陰影段彩図にかすかに見える西荻窪駅の北、善福寺川から切れ込む窪地を歩く散歩とともに、窪地散歩スタート地点へ行く途中で、成田西、善福寺川の南を進む旧流路・揚堀も辿る、といった窪地と旧水路・揚堀のコンビネーションとなった。
ルートは成田西1丁目の杉並児童公園辺りから善福寺川の旧流路・揚堀を進み、成田西3丁目と荻窪1丁目の境辺りの取水口辺りまで進み、そこからは善福寺川を環八、中央線を越え上荻に残る水路跡を歩き、西荻西の窪地に残るであろう水路跡散歩で締めくくることにする。


本日のルート;
成田西の旧流路・揚堀を辿る
和田堀公園>成園橋>旧流路・揚堀に入る>尾崎橋に>尾崎橋>宝昌寺>天王橋>屋倉橋>善福寺緑地公園に入る>成田西いこい緑地>成田西切通し公園>神通橋へ>善福寺川と合わさる
善福寺川を上流に
神通橋>松庵川合流点>西田端橋>大谷戸橋>松渓橋>松見橋>春日橋 >忍川下橋>忍川橋>忍川上橋>「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」の碑>荻窪橋>荻窪上橋>界橋>荻野橋>東吾橋>本村橋>置田橋>神明橋 ■上荻の暗渠①
コンクリート蓋の暗渠>出山橋
■上荻の暗渠②
鍛冶橋>西荻北の窪地>中田橋>右岸に排水口と細路>城山橋
上荻の暗渠③
コンクリート蓋の暗渠

荻窪北の窪地と暗渠を辿る
コンクリート蓋の暗渠>切り込んだ等高線の窪地に向かう>窪地南端手前で西に折れる>窪地南端に向かう>窪地最南端を西に曲がり窪地の谷頭に>窪地最奥部



成田西の旧流路・揚堀を辿る

「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
善福寺川の南側の谷筋、成田西1丁目の成園橋に向かう。先日、成田東支流から、善福寺川の北側、成田東を流れる旧流路・揚堀を辿った時、「今昔マップ 1896-1909」に現在の成園橋の少し上流で二つの川筋が合流していた。
河川改修が実施される以前、善福寺川はいくつかの流路に分かれ田圃の間を流れていたと既に(一連の「杉並の窪地・水路散歩」のどこかで)メモしたが、現在の成園橋の少し上流で合流するふたつの流路のうち、ひとつは現在の善福寺川の川筋とほほ同じ。仮に「本流」と呼んでおく。
もうひとつ、左手と言うか、南から合わさる旧流路は上流の荻窪1丁目と成田西3丁目の境辺りから、はっきりとした水路跡を示し、「本流」に沿って流れ、成園橋の少し上流で合わさる。
本流に沿って流れた川筋には現在水路は残っていない。しかし、如何にも水路跡らしき道が続いている。現在の善福寺川の南側、成田西を通る如何にも水路跡らしき道筋を辿り、善福寺川の旧流路・揚堀の痕跡でもあれば、といった気持で旧流路合流点の成園橋の少し上流に向かったわけである。

和田堀公園
杉並区和泉の自宅を出て、大宮神社の参道手前の坂を下り、善福寺川に架かる宮下橋に。そこから和田堀公園を川沿いに八幡橋、御供米橋、大成橋、白山前橋と進む。
川の南側は台地が迫り崖面となっているが、北側は広く開析されている。川筋の北側の台地には弥生末期の松ノ木遺跡が残るわけで、古代、台地南に広がるこの開析された湿地では水稲耕作が行われていたのだろう。
往昔田圃であったこの開析地は先回散歩の折にメモした善福寺川公園と同じく、昭和39年(1964)に都市計画公園として整備され和田堀公園となった。川に架かる橋も農耕作用の「作場橋」の他、昭和39年(1964)以前には何もなかったとのことである。

成園橋
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
川の北側の平坦地、南の善福寺川手前まで台地が迫る崖面を見遣りながら進む。大成橋を過ぎ、白山前橋辺りで崖面が少し南に後退し、成園橋辺りまで進むと、その崖地も南に後退し宅地も建ち平地が開ける。「今昔マップ 1896-1909」で、成園橋の上流辺りで複数の旧流路が合わさるのはこの地形故の自然の成り行きではあろう。
往昔の広く開析された川筋は、一般的に開析された谷筋の中央、そして左右の崖下を流れる三つの流れからなるパターンが多いとされるが、まさにその通りの絵柄である。中央の川筋は河川改修された後の現在の善福寺川に近く、北の崖下には先日散歩した成田東を進む旧流路・揚堀、そして南の崖下は今から辿る成田西を進む旧流路・揚堀となっているようだ。

旧流路・揚堀に入る
成園橋を過ぎると、進行方向斜めに入る道筋がある。「今昔マップ 1896-1909」で確認する限りでは、その道が旧流路と重なる。当時の本流(仮称)は、現在の善福寺川の流路とこの辺りでは、ほぼ同じであるので、この地が本流と支流からなる善福寺川が合わさる箇所であったのかと思う。
道を進み、比較的広い道を上流に進む。道にはこれといった水路跡の痕跡はないが、杉並児童交通公園の南端を善福寺川から折れてくる道には暗渠らしき道、車止めがある。根拠は無いが、河川改修に際し、旧流路とは別に田用水・揚堀が整備されたのかとも思える。

尾崎橋に
子供が幼い頃、よく利用されて頂きた杉並児童交通公園、それに続く善福寺川緑地運動場の西端を南北に通る道を進む。道は車道と歩道に分かれており、歩道部分が水路跡を示すようにペイントされている(思い込み過ぎ?)。 道を進むと尾崎橋西で五日市街道と交差する。その時は、何事もなく通り過ぎたのだが、メモの段階で『杉並の川と橋』をチェックしていると、この五日市街道とクロスする南北に揚堀に架かっていたふたつの橋の記事があった。歩いている時に、特に水路跡といった痕跡は何もなかったように思う。 痕跡は無かったのは少々残念ではあるが、今まで辿った道が、旧流路を利用したであろう揚堀であったことが確認でき、一安心。
道角橋
『杉並の川と橋』の概略図に拠れば、道角橋は五日市街道・成田西児童館前交差点の少し尾崎橋寄りのところから善福寺川に向かって右に折れる道が、いま歩いてきた道とT字路であたる箇所のようだ。
三(捻)年橋
五日市街道の北、道に沿って宝昌寺があるが、そのお寺さまと杉並第二小学校の間の坂を「三年坂」と称する。「急坂で転倒して怪我をすると三年でなくなる」というのが名前の由来、とか。それはともあれ、その坂を下り切ったところから昔の尾崎橋へと向う道と揚堀が交差する箇所に架かっていたようだ。
尾崎の七曲り
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。他の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述もが尾崎橋の案内板に記してあったが、この「つつらおりめいたる」とは、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。往来の盛んな五日市街道が武蔵野台地から善福寺川の谷筋に下り、川を渡るわけだが、坂の勾配を緩やかにすべく道を九十九折>七曲りとして荷駄の往来をの負担を減らしたのだろう。道角橋や三年橋の架かっていた箇所は現在の五日市街道と「カクカク」と交わる。往昔の七曲りの名残のように見える。
なお、橋を越えた先、現在の五日市街道の北に弧を描いて進み、更にその先で南へ弧を描いて進む道が残るが、それが直線化される以前の旧五日市街道である。 先日、成田東・成田西を進む揚堀を辿るとき、尾崎橋の先でスタート地点を探すため土木事務所裏手の坂道で「民間信仰石塔」に出合ったが、その坂は白幡坂と称される旧五日市街道であった。

尾崎橋
五日市街道に架かる。上記「馬橋村のなかばより(中略)これを尾崎橋」との記録は享和3年(1803)の記録。戦前まで木造の橋であったようで、架橋箇所も現在より少し南に見える。鉄筋コンクリート橋となったのは昭和33年(1968)。この時川筋も改修され直線化され、現在の状況に近くなった。装飾が施された現在の橋は平成3年(1991)のことである(『杉並の川と橋』)。
尾崎の由来は「おさき」>突き出した台地の突端を意味する古称との説、上記白幡坂の由来でもある、源頼義に拠るとの説もある。源頼が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えた辺りを白幡、尾のあたりを尾崎と名付けた(大宮八幡宮縁起)」との伝説である。誠に地名の由来は諸説、定まることなし。

宝昌寺
五日市街道を渡ると宝昌寺。参道入口には石仏が建つ。案内には「白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像です。
当寺は、文禄三年(一五九四)頃、中野成願寺五世葉山宗朔によって開創されました。曹洞宗となるまえは、真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しています。
江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころであり、また村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもありました。 安政三年(一八五六)火災のため本堂を焼失、現在の本堂は大正十年に建立したものです。この火災により伝来の古記録類はほとんど失われましたが、寺内にはなお多数の板碑のほか、区内でも最古といわれる舟型地蔵尊や庚申塔などの文化財が所蔵されています。
境内に奉安する豊川稲荷社は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊穣を祈願して、愛知県豊川閣から移し祀ったもので、その利益はいちぢるしく、大正時代から近在諸村に豊川稲荷信仰がひろまったといわれます、杉並区教育委員会」とあった。
尾崎熊野神社
善福寺川低地を望む、北に突き出した舌状台地に鎮座する成宗村字尾崎の鎮守さま。いつだったか、前述の三年坂を上り台地上を進み、大宮八幡や村内の白山神社とほぼ同年代の創建(正和元年(1312)頃とも)でなないか、とも伝わる古社を訪れたことがある。
境内から縄文前期の住居跡が発見され、縄文・弥生・古墳時代の石器・土器などが多く出土した。ために、「尾崎熊野遺跡」と名づけられた。 また、その時は見逃したのだが、この社には上記、揚堀に架かっていた「道角橋」の欄干が残るとのこと。その長さ3m戸いうから、揚堀の規模が想像できる。この欄干は河川改修・埋め立て工事の際に不明になっていたが、欄干の片側だけが善福寺川緑地で見つかった。

天王橋
尾崎橋を越え、北に突き出した舌状台地の崖下に沿って進む。「今昔マップ 1896-1909」にも、現在の善福寺川の流路とほほ同じである本流(仮称)とともに、舌状台地の崖下を進む水路跡がはっきりと描かれている。
道を進むと台地北端部には善福寺川を渡る天王橋がある。天王は「牛頭天王」のことであろうから、橋を渡った北にある須賀神社が橋名の由来、かと。素戔嗚尊を祀る須賀神社は、元は「牛頭天王社」と称されていた。明治の御代、天王=天皇を想起させるのは不敬にあたると改名。素戔嗚尊ゆかりの出雲の須賀神社としたのだろう。因みに「**神社」という呼称は明治以降のものである。

と、由来はわかったものの、由緒ありそうなこの橋は何時ごろ架けられたものだろう。河川改修工事以前の善福寺川に架かる橋は誠に少ない。先回の散歩のメモで、善福寺川緑地公園、和田堀公園一帯でも昔からに橋は作事橋と古道に架かる橋以外では相生橋だけ、といった記事があり(『杉並の川と橋』)、そのリストには屋倉橋、天王橋、尾崎橋が外されていた。思うに、この3つの橋は古道に架かっていた橋ではあったのだろう。
『杉並の川と橋』には、「通称鎌倉街道(注;鎌倉道は今よりもう少し北西を斜めに通っていたようである)にかかる橋で、尾崎の丘(翁山)を北に下ったところに架けられている。橋表示はないが、(中略)明治26年頃の大王橋は板が一枚置いてある橋であった。投渡橋は架けられていたのであろう。(中略)大正5年には橋が表示され・・・」とある。橋とはいうものの、かくの如き「橋」ではあったようである。
鎌倉街道
先回のメモを再掲;甲州街道が首都高速4号線と重なる京王線上北沢駅入口交差点近くに「鎌倉橋」交差点がある。ここは小田急線祖師谷駅北の千歳通り十字路から右に折れ、芦花公園、この鎌倉橋交差点、大宮神社、中野の鍋谷横丁をへて板橋へと向かう鎌倉街道中ツ道の道筋(「東ルート」と仮に呼ぶ)である。 また、杉並を通る鎌倉街道には、千歳通り十字路から北に南荻窪の天祖神明宮、四面道へと向かうルートもある(「北ルート」と仮に呼ぶ)。
このふたつのルートが所謂鎌倉街道と称される道であるが、そもそも、鎌倉街道は、「いざ鎌倉へ」のため新たに開削された道ではなく、旧来からあった道を繋ぎ鎌倉への道路網を造り上げたものとも言われる。上記ふたつのルートが関幹線とすれば、幹線を繋ぐ幾多の支線がある。田端神社脇の「鎌倉街道」も、そういった支線のひとつではないだろうか。
具体的な資料がないので想像ではあるが、「東ルート」、「北ルート」というふたつの幹線を繋ぐとすれば、「東ルート」からは大宮八幡から左に分かれ砦のあった田端神社の台地に向かい、「北ルート」からは五日市街道、人見街道あたりから田端神社方面へと向かい、二つの幹線を繋いだのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

素戔嗚と牛頭天王
素戔嗚が牛頭天王と同一視されるようになったのは神仏習合の賜物。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とされていた。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。
泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなった、との説もある。

屋倉橋
尾崎の台地先端部を廻り込み崖下の道を児童橋、屋倉橋へと進む。道脇の段差のある石段が水路跡の名残を伝える。屋倉は対岸の矢倉台より。屋倉とも表記される。先回もメモしたとおり、矢倉は本来は矢を備える倉の意味だが、物見・見張り台も矢倉>櫓と称するようになった。阿佐ヶ谷へ抜ける鎌倉道に面し、太田道灌が物見台を建てたとも伝わる。なお、この矢倉台には成宗の開発者である野口成宗の館があった、とも伝わる。
この橋も上記天王橋と同じく、昭和39年(1964)の善福寺川緑地事業以前には、古道に架かるささやかな橋ではあったのだろう。なにか情報がないものかと『杉並の川と橋』をチェックすると、屋倉橋の説明はなかったのだが、「橋の手前には善福寺川から引いた揚堀(田用水路)に権現橋が架っていた」との記事があった。旧水路跡の道筋にはそれといった橋の痕跡は見つからなかった。

善福寺緑地公園に入る
屋倉橋からの道筋は南に進むが、旧流路・揚堀跡は善福寺緑地公園に入る。水路跡はほどなく公園と宅地が建つ崖面の境を進む。公園と水路跡の間にはコンクリートの柱が立ち並び境を画する。
公園との境を進む水路跡は川筋から次第に離れてゆく。地形図を見ると屋倉橋の東辺りで等高線41m(だろう)が川筋から南に向かって離れてゆく。
善福寺川の旧流路
「今昔マップ 1896-1909」
現在は善福寺川緑地の中央を流れる善福寺川であるが、「今昔マップ 1896-1909」にはその流れは、ない。旧流路は屋倉橋の少し東で南北からの流れが合流し尾崎橋へと下っている。地図を辿ると、南から合流する流れは、現在辿っている成田西の旧流路、そして北からの流れは、これも先回の散歩で辿った成田東から成田西を流れる揚堀と重なり、また離れながら合流点に下る。旧流路を揚堀として活用したはず、といった思いで「旧流路・揚堀」と表記しているのだが、あがなち間違いでもなさそうである。

成田西いこい緑地
水路跡定番の民家への石段からのアプローチ、崖面の高い壁面、マンホール、車止めなどを見遣りながら、コンクリート柱で公園と区切られた水路跡を進む。水路跡の道も善福寺川から南を進んでいる。地形図を見ると善福寺川の谷筋に沿って続いた40m等高線(だろう)の南に41m、さらに42m等高線が台地に向かって南に広がっている。42m等高線が半円を描き南に突き出した辺りに成田いこい緑地があった。この辺りが川の南北に広がる善福寺川緑地の南側部分敷地が一番広くなっている箇所である。41m等高線と42m等高線の間の半円の箇所が緑地と見える。
因みに善福寺川緑地公園は、地下鉄丸の内線の開削で生じた土砂で湿地を埋め立て整備したとのことである。


成田西切通し公園
成田西いこい緑地の先にはコンクリート蓋の暗渠が続く。今回の揚堀散歩で初めての、如何にも水路跡といった風情である。その道を先に進むと左手が開け車道が見える。五日市街道である。
地図を見ると、水路跡と台地を区切る崖面上に「成田西切通し公園」の表示がある。特に尾根筋もないのだが、切り通しって、どういうこと?


「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
地形図をチェックすると、切り通し公園辺りで等高線42mが五日市街道を囲い、更に43mラインが五日市街道を囲い南へと切り込んでいる。
地形図を見る限りではこの1mほどの段差を開削しているのが「切り通し」と呼ばれる所以であろうかと思える。特に資料もないので、地形図だけからの妄想ではある。









神通橋へ
五日市街道に最接近した後は、宅地が崖面に迫る一帯を進む。宅地から水路跡に落ちる排水ダクト、民家への木造のアプローチ階段、5段からなる民家への石段といった水路跡の雰囲気が残る道を進む。成田西3丁目から荻窪1丁目に入る境に神通橋。



神通橋
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通は、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。
「この道は鎌倉道とも言われる古道で・・・」云々は上記天王橋の箇所でメモしたので、ここでは省略。

善福寺川と合わさる
神通橋の西詰から少し橋を離れた辺りに車止めが見え、その先に道がある。民家の間の道を進むと石段となって善福寺川脇の遊歩道に下りる。ここで成田西を進んだ揚堀は善福寺川に合わさる。往昔、この地に取水口でもあったのだろか。現在は特にその痕跡はない。
「今昔マップ 1896-1909」に拠れば、現在の善福寺川の南を進んだ旧流路・揚堀は神通橋の少し上流で本流から分かれる。上で屋倉橋の東で合流した南北の流れの内、北を進む流れは矢倉台の先端部を迂回した先辺りからは現在の善福寺川の流れとほの同じルートを流れている。往昔はこの地で南北に分かれ、屋倉橋手前で合わさって尾崎橋へとくだっていったのだろう。 当日は、ここから更に善福寺川を遡り上荻の水路跡、そして西荻北の窪地に残る水路跡を辿ったのだが、そのメモは次回に廻す。

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