二回目は北鎌倉から大仏様へと向かう尾根道のハイキングコースを歩く。大仏さまからは、再び東に戻り、佐助稲荷から源氏山を越えて、寿福寺脇に下る。本来であれば、葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコース、そして江ノ島あたりでひとつ。葛原岡ハイキングコースから寿福寺、そして鎌倉市内がひとつ、といったものだが。今回は足に任せた欲張りなコースとなった、よう。ともあれ今回のコースは、野趣豊かなハイキングコースである。
本日のコース:
JR 北鎌倉駅 > 葛原岡神社 > 日野俊基の墓 > 化粧坂 > 銭洗い弁天 > 大仏切通 > 鎌倉大仏 > 佐助稲荷 > 源氏山公園 > 寿福寺 > JR 鎌倉駅
葛原岡ハイキングコース
JR北鎌倉駅で下車。道を進み、浄智寺への入口に葛原岡ハイキングコース・大仏ハイキングコース入口の案内が。浄智寺脇>葛原岡公園>源氏山公園>大仏へと 続くよう。源氏山公園から化粧坂に戻ればいいと方針変更、このルートから源氏山に向かう。
浄智寺脇の坂をゆっくり上る。次第に山道。アップダウンも激しい。木の根っこに足を掛けながら登り下り。1キロ、20分か30分程度の尾根道だと思うのだが、結構な山道である。途中下り坂っぽい分岐もあるが、案内は見当たらない。ルートを外れたのかと不安になりながら進む。
葛原岡ハイキングコース
JR北鎌倉駅で下車。道を進み、浄智寺への入口に葛原岡ハイキングコース・大仏ハイキングコース入口の案内が。浄智寺脇>葛原岡公園>源氏山公園>大仏へと 続くよう。源氏山公園から化粧坂に戻ればいいと方針変更、このルートから源氏山に向かう。
浄智寺脇の坂をゆっくり上る。次第に山道。アップダウンも激しい。木の根っこに足を掛けながら登り下り。1キロ、20分か30分程度の尾根道だと思うのだが、結構な山道である。途中下り坂っぽい分岐もあるが、案内は見当たらない。ルートを外れたのかと不安になりながら進む。
葛原岡神社・日野俊基の墓
開けた場所に。「文章博士の日野俊基の神社はこちら」の案内。葛原岡公園に着く。文章博士とは、作文が上手な人っていうわけではない。律令制の大学で詩文、歴史等を教える大先生ってわけ。
開けた場所に。「文章博士の日野俊基の神社はこちら」の案内。葛原岡公園に着く。文章博士とは、作文が上手な人っていうわけではない。律令制の大学で詩文、歴史等を教える大先生ってわけ。
太平記第二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」に、 「落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でた まう、心の中(うち)ぞ哀れなる」。
後醍醐天皇の意を受け、倒幕を計画。露見し逮捕され鎌倉送り。天皇の弁明もあり釈放。これが正中の変。これにめげず再 度倒幕計画。またまた発覚。元弘の変。再度鎌倉送り。上の文章はその折の作。きらびやかで、道行文の傑作とのことだが、内心はいかばかりか。重犯であり、 さすがに今回は助かるはずもなく、いつ殺されるかといった恐怖の中での文章。実際、この葛原で斬殺される。
化粧坂
葛原岡神社、日野俊基の墓をまわり、源氏山公園に向かう。道の途中に化粧坂。「化粧坂」の由来は、討ち取った平家の武将の首実検のため、化粧を施した、とか、坂の麓に遊女がいた、とかあれこれ。それよりも、ここは鎌倉七口のひとつであり、攻防戦の重要拠点。新田義貞の鎌倉攻めの場合も、この地で合戦があった。が、結局ここを破ることはできず、有名な稲村ヶ崎の渡り、鎌倉攻略と相成る。
源氏山公園
源氏山公園は白旗山、 旗立山とも。頼朝の祖先である源頼義、(八幡太郎)義家親子が後三年の役で奥州に向かう際、源氏の白旗を立て、勝利を祈願したことに由来する。頼朝も平家追討に際し、この地で戦勝を祈願したとか。頼朝の像もあった。
後醍醐天皇の意を受け、倒幕を計画。露見し逮捕され鎌倉送り。天皇の弁明もあり釈放。これが正中の変。これにめげず再 度倒幕計画。またまた発覚。元弘の変。再度鎌倉送り。上の文章はその折の作。きらびやかで、道行文の傑作とのことだが、内心はいかばかりか。重犯であり、 さすがに今回は助かるはずもなく、いつ殺されるかといった恐怖の中での文章。実際、この葛原で斬殺される。
化粧坂
葛原岡神社、日野俊基の墓をまわり、源氏山公園に向かう。道の途中に化粧坂。「化粧坂」の由来は、討ち取った平家の武将の首実検のため、化粧を施した、とか、坂の麓に遊女がいた、とかあれこれ。それよりも、ここは鎌倉七口のひとつであり、攻防戦の重要拠点。新田義貞の鎌倉攻めの場合も、この地で合戦があった。が、結局ここを破ることはできず、有名な稲村ヶ崎の渡り、鎌倉攻略と相成る。
源氏山公園
源氏山公園は白旗山、 旗立山とも。頼朝の祖先である源頼義、(八幡太郎)義家親子が後三年の役で奥州に向かう際、源氏の白旗を立て、勝利を祈願したことに由来する。頼朝も平家追討に際し、この地で戦勝を祈願したとか。頼朝の像もあった。
源氏山公園からハイキングコースはいくつか選択肢がある。化粧坂から海蔵寺へのルート、英勝寺に下りるルート(通れないとの案内があったよう)、寿福寺へ下りるルート、銭洗弁天へのルート、佐助稲荷へのルート、大仏ハイキングルート、など。今回は大仏ハイキングコースを歩くことにする。先回の天園コースに続き、鎌倉の尾根道を楽しむことになる。
銭洗弁天
大仏ハイキングコースに向かうとすぐ、「銭洗弁天へ、150メートル」の案内。ちょっと寄り道を。坂を下り、洞穴をくぐり弁才天に。頼朝が夢に現れた老人のお告げで岩から湧き出る霊水を発見。社を建てて宇賀福神=弁天さまを祀ったという言い伝え。この霊水、鎌倉五名水のひとつ。この水でお金を洗うとお金がたまるというが、ザルで小銭を洗うこともなく上之水神社に。脇からあふれ出る湧水が。また崖の中腹から滝のごとく水が流れ落ちる。素敵な眺め。コースに戻る。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
大仏ハイキングコース
大仏ハイキングコース。公園からしばらくは民家ある眺め。道幅も広い。が、次第に本格的ハイキングコースに入っていく。葛原岡ハイキングコース同様、急な上り・下り、木の根に足を掛けての山道が続く。途中で道が二手に分かれる。標識がなかったのでなんともいえないが、佐助稲荷へ降りて行く道だったのだろう。ともあれ、道なり、と思しき踏み分け道を歩く。きつい下り坂を乗り越え平地に。大仏トンネルの脇に出た。
大仏坂切通しはこのあたりの、はず。残念ながら案内がなく切通し跡を訪ねることはできなかった。あとから調べると、このトンネルの北から切り通し跡の道が続いているようだが、トンネルの出口あたりで道は切れていた。次のお楽しみ、と。2キロ弱の山道ハイキングであった。
鎌倉大仏・高徳院
600メートルほどで大仏さんのある高徳院に。あまりの人の多さに圧倒され、大仏さんは頭だけ外から眺め、スキップ。みやげ物屋が並ぶ長谷通りを下り、長谷観音前を左折。由比ガ浜大通りを東へと。次は平地を少し東に戻り佐助稲荷へと。
佐助稲荷
由比ガ浜大通を歩く。道脇に平盛久の碑が。戦に破れた平盛久は捕らえられて鎌倉へ。処刑の日を迎えたが盛久を斬ろうとした刀が何故か折れてしまう。日頃から清水の観世音を深く信仰していた故か。頼朝に許された盛久は、これも観音のおかげと喜びの舞を舞ったとか。
笹目の交差点あたりで左折し北に向かう。佐助1丁目から法務局前交差へ。銭洗弁天、佐助稲荷への案内掲示。銭洗弁天、佐助稲荷は結構近かった。佐助2丁目で左折し、佐助稲荷へ。
鬱蒼とした森を奥へと。赤い鳥居をくぐり社殿に。神社の縁起によると、伊豆配流 となっていた頼朝の夢枕に鎌倉鎮座の稲荷神と名乗る翁現れ、頼朝の平氏追討、天下統一を告げる。鎌倉幕府を開いた頼朝はこの地に稲荷社があることを知り社殿を立てたとか。よくある話。ちなみに佐助とは頼朝が右兵衛佐(うひょうえのすけ)の官職にあったため「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。で、佐助稲荷、「佐殿を助けた」の意味でこの名がつけられたと言われている。
佐助稲荷から、源氏山公園は近い。ということで、源氏山公園に戻り、そこから寿福寺へ下りるコースに向かう。銭洗弁天横の坂を再び登り、源氏山公園に。寿福寺への下り口を探す。結構わかりにくい。あれこれ大回りし、なんとか下り口に。すこぶる険阻なる山道。整地されてなどいないし、すごい坂道。ブッシュもあるし、人ひとりかろうじて通れるような岩場の裂け目を下りるわけだし、途中には寿福寺の墓地に紛れ込みそうになるし、いかにも不気味な「やぐら」はあるし、いやはやな山道走破を求める方にはお勧め。
寿福寺
臨済宗建長寺派の寺。鎌倉五山第三位。源頼朝没後、北条政子の発願で伽藍を建立。明庵栄西が開山。 頼朝の父義朝の館のあった所、とも。また、裏手の源氏山は源頼義・義家(八万太郎)が戦勝祈願をしたところ。源氏ゆかりの地である。ために、頼朝は当初ここに幕府を構えようとした、とか。境内には源実朝、北条政子の墓。そのほか、高浜虚子、大仏次郎さんなどが眠る。栄西の『喫茶養生記』や地蔵菩薩は国の重要文化財(「鎌倉国宝館」にある)。『喫茶養生記』はお茶の製造法、効用などが書かれている。栄西禅師が喫茶の習慣を日本にもたらした、という所以である。
寿福寺前からJRの踏み切りを渡り、雪ノ下地区を歩いていると、お屋敷。外国映画の輸入・配給でよくお名前を聞いていた川喜多かしこさんの邸宅だった。後は一路鎌倉駅に向かう。
銭洗弁天
大仏ハイキングコースに向かうとすぐ、「銭洗弁天へ、150メートル」の案内。ちょっと寄り道を。坂を下り、洞穴をくぐり弁才天に。頼朝が夢に現れた老人のお告げで岩から湧き出る霊水を発見。社を建てて宇賀福神=弁天さまを祀ったという言い伝え。この霊水、鎌倉五名水のひとつ。この水でお金を洗うとお金がたまるというが、ザルで小銭を洗うこともなく上之水神社に。脇からあふれ出る湧水が。また崖の中腹から滝のごとく水が流れ落ちる。素敵な眺め。コースに戻る。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
大仏ハイキングコース
大仏ハイキングコース。公園からしばらくは民家ある眺め。道幅も広い。が、次第に本格的ハイキングコースに入っていく。葛原岡ハイキングコース同様、急な上り・下り、木の根に足を掛けての山道が続く。途中で道が二手に分かれる。標識がなかったのでなんともいえないが、佐助稲荷へ降りて行く道だったのだろう。ともあれ、道なり、と思しき踏み分け道を歩く。きつい下り坂を乗り越え平地に。大仏トンネルの脇に出た。
大仏坂切通しはこのあたりの、はず。残念ながら案内がなく切通し跡を訪ねることはできなかった。あとから調べると、このトンネルの北から切り通し跡の道が続いているようだが、トンネルの出口あたりで道は切れていた。次のお楽しみ、と。2キロ弱の山道ハイキングであった。
photo by Koichi Suzuki
鎌倉大仏・高徳院
600メートルほどで大仏さんのある高徳院に。あまりの人の多さに圧倒され、大仏さんは頭だけ外から眺め、スキップ。みやげ物屋が並ぶ長谷通りを下り、長谷観音前を左折。由比ガ浜大通りを東へと。次は平地を少し東に戻り佐助稲荷へと。
佐助稲荷
由比ガ浜大通を歩く。道脇に平盛久の碑が。戦に破れた平盛久は捕らえられて鎌倉へ。処刑の日を迎えたが盛久を斬ろうとした刀が何故か折れてしまう。日頃から清水の観世音を深く信仰していた故か。頼朝に許された盛久は、これも観音のおかげと喜びの舞を舞ったとか。
笹目の交差点あたりで左折し北に向かう。佐助1丁目から法務局前交差へ。銭洗弁天、佐助稲荷への案内掲示。銭洗弁天、佐助稲荷は結構近かった。佐助2丁目で左折し、佐助稲荷へ。
鬱蒼とした森を奥へと。赤い鳥居をくぐり社殿に。神社の縁起によると、伊豆配流 となっていた頼朝の夢枕に鎌倉鎮座の稲荷神と名乗る翁現れ、頼朝の平氏追討、天下統一を告げる。鎌倉幕府を開いた頼朝はこの地に稲荷社があることを知り社殿を立てたとか。よくある話。ちなみに佐助とは頼朝が右兵衛佐(うひょうえのすけ)の官職にあったため「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。で、佐助稲荷、「佐殿を助けた」の意味でこの名がつけられたと言われている。
photo by Sig.
源氏山公園から寿福寺佐助稲荷から、源氏山公園は近い。ということで、源氏山公園に戻り、そこから寿福寺へ下りるコースに向かう。銭洗弁天横の坂を再び登り、源氏山公園に。寿福寺への下り口を探す。結構わかりにくい。あれこれ大回りし、なんとか下り口に。すこぶる険阻なる山道。整地されてなどいないし、すごい坂道。ブッシュもあるし、人ひとりかろうじて通れるような岩場の裂け目を下りるわけだし、途中には寿福寺の墓地に紛れ込みそうになるし、いかにも不気味な「やぐら」はあるし、いやはやな山道走破を求める方にはお勧め。
寿福寺
臨済宗建長寺派の寺。鎌倉五山第三位。源頼朝没後、北条政子の発願で伽藍を建立。明庵栄西が開山。 頼朝の父義朝の館のあった所、とも。また、裏手の源氏山は源頼義・義家(八万太郎)が戦勝祈願をしたところ。源氏ゆかりの地である。ために、頼朝は当初ここに幕府を構えようとした、とか。境内には源実朝、北条政子の墓。そのほか、高浜虚子、大仏次郎さんなどが眠る。栄西の『喫茶養生記』や地蔵菩薩は国の重要文化財(「鎌倉国宝館」にある)。『喫茶養生記』はお茶の製造法、効用などが書かれている。栄西禅師が喫茶の習慣を日本にもたらした、という所以である。
photo by jmsmytaste
JR 鎌倉駅寿福寺前からJRの踏み切りを渡り、雪ノ下地区を歩いていると、お屋敷。外国映画の輸入・配給でよくお名前を聞いていた川喜多かしこさんの邸宅だった。後は一路鎌倉駅に向かう。
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