昭和の森公園を分水界とする三つの川を辿る そのⅠ;村田川を東京湾に向かって下る
いつだったか、佐倉の散歩を楽しんだ時、鹿島川に出合った。特に鹿島川に思い入れがあるわけではないのだが、源流点を地図でチェックすると千葉市緑区の土気地区あたりまで続いていた。土気と言われても、全くその景観が想像できない。山間の集落なのかなどと思いGoogle mapで見るに、予想に反し結構開けており規模の大きなニュータウンらしき宅地も広がる。
鹿島川の流路は丘陵地に挟まれた低地を佐倉まで流れる。源流点最寄りの駅であるJR外房線・土気駅から佐倉までは結構距離があり、1回では終わりそうにない。また、途中で切り上げようにも、適当な電鉄駅まで20キロ以上はありそうだ。どうなることやら、などと思いながらも、常の如く事前準備をすることもなく、源流点はJR外房線・土気駅傍の「昭和の森公園」であり、土気駅北東辺りから開渠となって佐倉に向かう、といった程度の情報だけで散歩に出かける。
が、今回の散歩は結局、鹿島川ではなく村田川を下ることになった。後で分かったことなのだが、「昭和の森公園」は外房、東京湾、印旛沼方面の3方向の分水界となっていた。地形図を見るに、大雑把に言って、南北に連なる丘陵と東西に連なる丘陵が、土気と大網の間の少し南でクロスし逆L字形の丘陵を形成し、更にその逆L字形の内側に丘陵が見て取れる。逆L字形の東の河川は外房に、逆L字の外側と内側の南北の丘陵に挟まれた水路は印旛沼に、そして内側を東西に連なる丘陵に挟まれた水路は東京湾へとその流れを注ぐ。
そのような複雑な地形を知らないままに、如何にも源流点といった谷頭部から谷戸を辿ったのだが、それは鹿島川ではなく市川で東京湾に注ぐ村田川であった。いくら歩いても谷戸を挟む丘陵が北へ向かう気配がないため地図で確認すると村田川を下っていることがわかったのだが、川を挟む谷戸の景観の美しさもあり、鹿島川散歩を村田川散歩に切り替えた。この川筋も途中切り上げる電鉄駅が京成千原線・ちはら台までないため、結局20キロほど歩くことになる。予定外の散歩とはなったが、誠に美しい谷戸の景観を楽しめる一日となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
本日のルート;JR外房線・土気駅>天照神社>村田川源流部>湿性植物園>下夕田(しもんた)池>あずみが丘水辺の郷公園>大沢源流からの水路が合流>調整池からの養水?>「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」>長柄ふる里源流からの水路合流点>法行寺>天満天神宮>長興寺>大椎八幡>新大椎橋>八幡池>大木戸八幡>「土気小学校第一分校」の石碑>常円寺>天満神社>大橋>千葉外環有料道路>川崎橋>押沼神社>山王大権現>新橋>大宮神社>京成千原線・ちはら台駅
JR外房線・土気駅;午前10時55分
自宅を出てJRで外房線を進む。千葉市街を離れ、曽我、鎌取、誉田と進む。誉田(ほんだ)辺りから緑が豊かな一帯となる。土気駅で下車。鄙びた駅舎との予想に反し、駅前は再開発され、駅の南側は「あすみが丘ニュータウン」と呼ばれる新しく開発された宅地・商業私設が広がっていた。宅地開発が開始されたのは昭和57(1982)年から。それ以前は農地・森林の広がる一帯であった。ビバリー・ヒルズならぬ、チバリーヒリズと称された高級住宅地もこのニュータウンの一隅にある、と言う。「あすみが丘」の元の地名は大椎町、小食土町(やさしど)。この地名は(千葉市緑区)あすみが丘1?9丁目に、土気町、小食土町の一部が、(千葉市緑区)あすみが丘東1?5丁目となった。
「あすみが丘」は如何にもニュータウンらしき地名であるが、元の土気町、小食土町、大椎町の地名は面白い。土気の由来は諸説。土気城跡が天然要害の地故に「峠ノ庄」と呼ばれた「峠」>とけ、との説。鴇(とき)が多かったからとの説、険しい坂道=嶝嶮(とうけん)の説などなど。中世以来の由緒ある地名ではあるものの、戦国時代に酒井氏が土気城を再建したときには既にその由来は不明となっている。「土家」は音に漢字をあてたものであり、「戸気」「度解」などと表記されることもあった。土気町は現在、外房線・土気駅を含めた外房線の北側に千葉市緑区土気町として残る。
小食土(やさしど)も「矢指土」「矢指渡」などと表記されたこともあるようだ。その表記であえばそれほど悩むこともないのだが、「小食土」が「やさしど」となった経緯はさっぱりわからない。同じように表記する地名と区別するため「小食」の者は「心やさしい」から、と言うことで「小食土」」とした、との説があるがいまひとつ理解できない。
御霊神社の碑文にある、日本武尊が橘神社(本納)に弟橘媛を祀り、東国に向かう途中、当地に立寄り間食(ちょっとした食事;小食)を食べたからとの説は。漢字表記の点からは説得力はあるのだが、依然「音」の「やさしど」との関連はこの説明ではわからない。もう少し深堀してみる。「やさしい」という言葉は「やせる」から出来たとの説がある。そのことから、「立派な人を目の前に、気が引けて、身が痩せるような思いをする」というのが「やさしい」の元々の意味である、とか。日本武尊といった貴人を前に「気が引けた、身が痩せる」思いから、やさしい=身が痩せる、に「小食」という文字をあてたのだろう、か。単なる妄想。根拠はないが、自分だけは結構いい線いっているようにも思う。小食土町は現在千葉市緑区小食土町として昭和の森公園とその東に残る。大椎は後ほどメモする。
天照神社;午前11時30分
土気駅から「あすみが丘」の住宅街を「昭和の森」に向かい南に進む。地図を見ると昭和の森の南西端辺りに池が見えるので、それが源流点なのだろうかとの思い。結構歩いても森の緑は見えてこない。30分以上も歩き、千葉市立大椎中学校辺りを左に折れるとやっと昭和の森の緑が見えてきた。
と、昭和の森と宅地との境目に神社がある。ちょっと立ち寄り。天照神社とあった。2003年 頃の写真には昼なお暗きといった、鬱蒼とした森に囲まれているが、現在周囲は丸裸。宅地開発がここまで進んでいるのだろう。鳥居も平成20年(2008)に新設されたようで、誠にあっさりした境内には天保年間の水盤だけが往昔の歴史を残す。
村田川源流部;午前11時40分
天照神社を離れ、昭和の森公園の入り口を探す。道路を少し南に下ると「昭和の森キャンプ場」とか「千葉ユースホステル」の入口。入口を入ると道が上りと下りのふたつに分かれる。道を下りにとり谷筋に向かう。下るにつれて、道脇に細いながらも、如何にも湧水らしき湿地が見えてきた。この辺りが源流点で、谷筋に沿って水が集まってくるのだろうか、などと思いながら先に進むと「通行止め」のサイン。左手に小径があり谷を上ると天照神社の東に出た。
谷に沿って道があるのかと思っていたので、宅地開発の端に出てしまい少々途方に暮れる。とりあえず道に沿って東へと進むと道路から直角に谷方向に下る小径。草に覆われた小径を進むと眼下に谷頭といった景観が現れる。ここから湧水が湧き出るのか、それとも先ほどの谷筋からの湧水が集まる一帯なのか、宅地開発のために人工的に造られたものなのか不明ではあるが、ともあれ鹿島川(実際は村田川なのだが、このときは鹿島川と思い込んでいた)の源流点はこの辺りだろうと一安心。後は、この谷頭部から谷筋をひたすら下ればいい、と。
湿性植物園;午前11時55分
小径を渡り切り階段を上がると再び宅地開発地が現れる。宅地を避け、谷縁に沿って少し南に進むと、少しわかりにくいのだが、草に蔽われた一隅に右に入る道がある。この道を谷の緑の中を進み、谷底に下りると花菖蒲なのだろうか水生植物が群生する一帯が現れる。湿性植物園と称される。園といっても特段の施設があるわけではなく、美しい谷津を利用した誠に魅力的な景観。左右を丘陵・台地でU字形挟まれ、U字形の最奥部の谷頭には湧水が湧く、といった「谷津・谷戸」の定義そのままの景観を呈する。今一つ情感に乏しいわが身も、しばし佇む。
下夕田(しもんた)池;午後12時6分
湿性植物園から細い水路が先に続く。湿地の上には木橋が遊歩道として続く。この水路の水は大半が谷津田を模した体験水田を流れ「下夕田(しもんた)池」に注ぐ。一部は丘陵の東にある「小中池」にも流れるようである。小中池からの水路は外房・太平洋に注ぐ。
下夕田池は地形から見て周囲の丘陵からの湧水を集めた池ではあったのだろうが、現在は水底に石を敷き詰めているし、形が如何にも人工的。自然にできた溜まりに人の手を加えたものであろう。
「下夕田」という美しい地名の由来は地名の小食土町字下夕田、より。とは言うものの、その「下夕田」の由来の説明にはなっていない。この地の「下夕田」の由来は定かではないが、全国にある「夕田」の由来には、「水が湧き出るところ」とか、「結田」が語源で「協力して田作りをする」といった意味、また、「伊勢(神宮)の朝田、熱田(神宮)の夕田、高田(会津・伊佐須美神社)の昼田」と称される田植祭りが知られる。この地の夕田とは関係ないかとも思うが、あれこれ想うのは楽しい。
あずみが丘水辺の郷公園;午後12時19分
水は茂原へと続く車道下を通り「あずみが丘水辺の郷公園」に続く。車道を越えた辺りからしばし暗渠となるが、公園が近づくにつれ、それらしき整備された水路が現れ公園内の調整池に続く。
調整池からの水は暗渠となりしばらく進む。それはともあれ、もうそろそろ水路が北に向かないことには鹿島川が開渠となって佐倉に下る川筋に合流できない。先を見ても谷津田を挟む丘陵は重層的に重なり合いながら東に連なる。これはどうも不自然と地図を見ると、この水路の先にある川筋は村田川とあり、曲がりくねりながら市川で東京湾に注いでいた。
はてさて、ここで軌道修正し当初の予定通りに鹿島川に戻るか、と一瞬悩むも、この美しい谷津田の景観を離れるのはもったいないと、予定を変更し、鹿島川散歩をここで村田川散歩に切り替える。
大沢源流からの水路が合流;午後12時40分
道脇の小祠を見やり、北の丘陵には三峰神社、南の丘陵には日枝神社が鎮座し谷津田がぎゅっと狭まる小山町辺りで水路は細いながらも開渠としてその姿を現す。とは言うものの、道は北の丘陵の裾を通るので時々川を跨ぐ農道があるたびに確認するだけではある。
開渠となった村田川に小山町集会所辺りで南の広い谷津田からの水路が合流する。この水路は村田川の源流のひとつ。源流点は南の外房有料道路を越えた茂原市大沢地区にある真名カントリーの山裾辺りである。
○土気酒井氏
村田川の北側を続く丘陵の裾を進む。丘陵上はあずみが丘9丁目。あずみが丘9丁目には土気酒井氏の支城である小山城があった、と。酒井氏は戦国時代に東金を拠点に上総北部を支配した地方領主。小田原の後北条に抗するも敗れ、小田原北条が滅亡した後は徳川の旗本として仕えた。この城は茂原方面の備えの城であった、とか。また、この小山城辺りは縄文時代の遺跡も残る。水の豊かな谷津田の丘陵上の快適な集落でもあったのだろう。
調整池からの養水?;午後12時45分
道を進むと道脇の水路から豊かな水が流れ来る。どこから流れてきたのだろう?丘陵上に調整池らしき池が見えるのだが、そこから流れ下った水であろうか。ともあれ、村田川の水は大沢源流からの水や、この調整池からの適宜な養水により豊かな流れとなってゆく。
「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」
先に進むと県道132号にあたる。このあたりは千葉市緑区板倉町。古くは竹河原と呼ばれていたようだが、戦国期に土気城主の酒井氏が備蓄用の板倉を建てたことから板倉と称されるようになった、とか。
道脇に「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」の石碑。説明を要約すると、「水田ほ(圃)整備;板倉大椎地区は千葉市の東南、千葉市・市原市・茂原市の接する村田川の源流に位置し、緑区の三町にまたがり南北に伸びる水田地帯。農業を取り巻く厳しい環境にもかかわらず、この改良事業で安定した農業経営ができるようになった」との謝辞を刻む。思うに、谷津(戸)の広がるこの一帯の湿地を、農業に適するように土地改良・整備をおこなっていたのであろう。眼前に広がる谷津田(谷津の田圃)も自然そのままのものではなく、元々の谷津を改良し造られたものであった。
長柄ふる里源流からの水路合流点;午後12時55分
村田川の川筋を眺めるべく県道を少し南に下る。川に架かる橋の辺りに「長柄ふる里源流」からの水路が合流する。橋から下流を眺めるに、ちょっとした渓谷の姿を呈する。先ほどの土地改良区の記念碑ではないけれども、これだけの水が加われば改良前は自然そのまま、ぐじゃぐじゃの湿地帯であったのだろう。実際近年になっても大雨でこの合流点の少し下流の大椎橋が流れ、越智地区の護岸が崩れたとの記事を目にした、とのことである。
で、長柄ふる里源流であるが、長生郡長柄町にある「長柄ふる里村」辺りを源流点とし、市原市金剛地を下りこの地で村田川に合流する。但し、村田川の本流はこの「長柄ふる里源流」からの水路であるとも言われるので、今まで辿ってきた昭和の森源流が合流する、というのが正確な表現かとも思う。
法行寺;午後12時58分
村田川は「長柄ふる里源流」との合流点から流路を北に向ける。依然左右を丘陵に挟まれた谷津田が広がる。右の丘に法行寺。お寺さまと言うより地域集会所といった風情。道から寺に上る石段脇の石塔が唯一寺の趣を残す。
天満天神宮:午後1時10分
さらに北に進むと天満天神宮。法行寺は千葉市板倉町であるが、ここは千葉市大椎町。「おおじ」と読む。古くは「大志井郷(おおじい)」と称されていたが、「大椎」の由来は不詳とのこと。 赤く塗られた小祠が境内に佇む。天満宮は菅原道真を祀る神社。天満宮は天神さま、天神さんとも称されるので「重複表現」とも思うが、天神祭で知られる大阪の天満宮も「天満天神」とも「天満の天神さん」と称するわけであるから、いいとしよう、か。それにしても地図で見るに、ニュータウンの宅地が天神さんのすぐ脇まで迫ってきている。谷筋を歩いているから谷津田の美しさだけが目に入るが、一歩丘を上れば宅地開発地となってしまっているようだ。
長興寺;午後1時15分
天神様から少し北に進むと、道脇に風格のある山門。長興寺である。広い境内には鐘楼。本堂は享保年間(1716-1735)に建てられたとの記録が残る。元は真言宗の寺院でこの地の東南にあったようだが、土気城主酒井氏の命により法華宗に改宗し、その折にこの地に移った、と。
○大椎城跡
村田川は長興寺の辺りで丘陵に沿って右へと迂回しる。丘陵は「あすみが丘第八緑地」として残るが、往昔この丘陵には「大椎城」があったとのこと。大椎(おおじ)城は平安時代中期、上総・下総に覇を唱えた平忠常が築城し、その曾孫・下総権介千葉常兼が修復。この忠常は平将門の叔父であった良文の孫にあたり、平将門以降の最大の反乱とも称される長元の乱(1027~1031) を起こし、当時不当な貢税を課した受領(国司) の暴政や貴族権力に反抗した。大椎城はその本拠地であった。
この乱の後、忠常の子・常将が初めて「千葉氏」を名乗り、常長・常兼と続き、その子・常重は大治元年(1126)、 この城から千葉城 (猪鼻城・湯の花城)に移り廃城になったと考えられている(異説もある)。
大椎城を築城したと伝わる平忠常の祖父である良文は平将門の良き理解者であった。将門や良文と菅原一門の友好な関係を想うに、先ほどの天満天神宮も、そのコンテキストで考えればこの地に鎮座する意味合いも納得しやすい。
大椎城は戦国期には、土気城主酒井氏が村田川流域を押さえる支城として大規模な改修をしたと伝わる。丘陵上にこの大椎城、土気城、小山城、そして神社仏閣が並ぶこの辺り一帯は平安の昔より、上総の中核の地であったのだろう。因みに、「あすみが丘第八緑地」の北には「チバリー・ヒルズ」がその趣を残す。
大椎八幡;午後1時30分
丘陵裾を北に向かう村田川を離れ、谷津田を通り抜け村田川を挟む逆側の丘陵に佇む大椎八幡に向かう。折から地域の方の清掃奉仕の邪魔をしないようお参り。社殿も新しくなっていたが、由来によれば、千葉氏が大椎城を本拠とするに際し、鶴岡八幡より勧請したとのことである。頼朝の挙兵に与力した千葉氏であればこの流れは大いに納得。
新大椎橋;午後1時34分
大椎八幡を離れ先に進む。右手を流れる村田川傍に近づくと川を跨ぐ橋が見える。橋桁も結構高くバイパスのような雰囲気の道である。川の傍に沿って橋を潜ろうとするも、道が切れ川脇には畑地だけ。通り抜けようにも農作業をしている方がおり躊躇。
仕方なく丘陵中腹を走るバイパスに上るルートを探すがそれらしき道はない。結局道なき崖面を力任せに上りバイパスに。川に架かる新大椎橋から下流の村田川筋を眺めるに、川の右岸には畑地となっており道はなく、左岸に道が通るだけであった。どうしたところで右岸は進むことができなかったようである。
ちなみに、この橋を通る道は宅地開発された「あすみが丘」から千葉外環有料道路の大木戸インターを結び、その先で道が切れる。宅地開発地と外環を結ぶバイパスとして造られたものだろう。バイパスにより削られたこの丘陵にも、村田川筋に連なる城郭群のひとつである立山城があった、とか。
八幡池;午後1時45分
新大椎橋の北詰めを左に折れ、道なりに村田川筋に進む。右手は宅地開発が進んだ「あすみが丘5丁目」、川傍には「大椎ポンプ場」。大椎ポンプ場は下水処理施設のようである。宅地を離れ谷津田へと下ると、右手に結構大きな池がある。村田川の水源のひとつかとも思い、川筋を離れ池に向かい、バイパスらしき高い橋桁を潜り池に。八幡池とある。谷津の一部を堰止め雨水や湧水を貯めた池のようである。元禄11年(1698)には記録に残るので歴史は古い。昭和10年頃までは「八幡堰」と呼ばれていたようである。
八幡池の由来は、近くにある大木戸八幡からだろう。この辺りは千葉市緑区大木戸町となる。大木戸の地名の由来は、この地は立山城、大椎城、土気城などへの要衝であり、立山城への木戸(城戸)であったことによる、と。秀吉による天正19年(1591)の人掃令(戸口調査)の折り、この地が木戸跡ということで大木戸との地名がついたと伝わる。この八幡池の地名も大木戸町木戸脇とのこと。その他、大門といった地名も残る、とか。
大木戸八幡;午後2時3分
池脇の階段を上ると立派なバイパスが通るが、すぐ先の農道で道が切れている。この道も大木戸とその西の越智町に開かれたニュータウンを結ぼうとしているのだろ、か。バイパスの端を止めている農道を左に進むと道脇に「大木戸八幡」の案内。
参道入口には文化12年(1815)に建てられた鳥居。参道を進み石段を上ると社殿前に御神木。人の参拝を遮るように社殿の目の前に杉の大木が聳えていた。社伝によれば、この社は大椎城の内宮であった、とも。ために、明治後期まではこの地の大木戸村ではなく、大椎村の管理下にあったようである。
「土気小学校第一分校」の石碑;午後2時15分
丘陵を先に進み、趣のある山門の残る日蓮宗の善徳寺にお参りし丘陵から低地へと下ると、道脇に「土気小学校第一分校」の石碑。改称や統合を繰り返し、仔細をメモすることはパスするが、善徳寺や先に訪れた長興寺、これから訪れる常円寺などで開校した土気地区のいくつかの小学校の本校や分校であるが、昭和44年(1969)の土気町の千葉市への合併に伴い、この地にあり廃校になった分校跡である。
常円寺;午後2時20分
丘陵に挟まれた谷津田を蛇行する村田川に沿って進む。しばらく進むと道脇に常円寺と天満神社の石塔が並んで迎える。神仏混淆の名残ではあろう。
参道を進み階段を上る。手前に誠に素朴な社とその奥にこれもトタン屋根の素朴な本堂。本堂にお参り。創建年代は不詳。もとは土気の真言宗極楽法寺(現在の善勝寺)の末寺であった、とか。場所もこの地ではなかったようだ。その後長享2年(1488)に法華宗に。昭和16年(1941)には日蓮宗となっている。本堂は享保16年(1731)に建立され、そのときこの地に移った、と。
○佐々木道誉
寺の裏手に五輪塔があるとのことだが、それは佐々木道誉ゆかりのもの。婆娑羅大名として知られ、足利尊氏の室町幕府設立の立役者として名高い道誉がこの地に名残を残すのは、出羽配流の途中、この地に留まったことによる、とか。比叡の山門に打撃を与えるべく門跡御所を焼き討ち。朝廷からの出羽国配流の命に対し幕府は拒否し、この地に留めた、と。とはいうものの、上総って道誉が守護の地。であれば、自領に一時謹慎しただけというのが正確、かも。実際、配流とは程遠い派手な行列で上総まで入り、翌年にはあっさり幕政に復帰している。
天満神社;午後2時30分
本堂にお参りし、石段を上がったところにある社に。天満神社と思っていたのだが、この社は子安神社であった。天満神社はその脇の参道というか山道を結構上ったところにあった。歴史は古く、菅原道真の御真筆の巻物が伝わる、とか。300有余年の歴史をもつ社であるが、江戸の頃には山津波で流失、再建された社も明治に焼失。現在の本殿は昭和31年(1956)に建て替えられたものである。
大橋;午後2時42分
丘陵西南端で丘陵に接近村田川に架かる大橋を見やり、丘陵裾を蛇行する村田川に沿って進む。地区は緑区越智町に入っている。越智の由来は伊予から越智氏が移住し土着したとの説などがあるも不詳。依然左右に丘陵が連なる道筋に、一瞬右手が開け水路が村田川に合わさる。地図を見ると大藪池という池があった。越智はなみずき台団地の調整池とのこと。調整池の北には湧水地があり、大釜・小釜と呼ばれる自噴湧水は2mほどの水深がある、とか。湧水と大藪池は水路で結ばれているようである。
千葉外環有料道路;午後3時5分
大藪池からの水路との合流点を越え、道脇の越智ポンプを見やり先に進むと「高本渓橋」を渡る。村田川をクロスするのは久しぶり。丘陵裾を進むと先に高い橋桁が見えてきた。千葉外環有料道路である。宅地開発で削られた台地も、この辺りではしばしその開発の波から逃れ、左右の丘陵周辺も自然が残る。外環を越えた先は一直線の谷津田。誠に美しい景観が広がる。谷津の中を突き切る農道を進むと道は丘陵へと上る。
川崎橋;午後3時52分
坂を上り森の中のヘアピンカーブといった道を進むと前方が開け、畑地の間に農家が点在する丘陵地帯を辿り、丘陵地帯を抜け車道に下りる。車道を北に向かい村田川筋に。この辺りまで来ると村田川も都市河川の趣を呈する。村田川に架かる川崎橋に。下流は川幅も広く、両岸には遊歩道を兼ねたような段丘面が整備されている。川崎橋で少し休憩し、瀬又交差点を北に新瀬又橋に。橋の辺りに瀬又川が南から合流する。
押沼神社(以下記録取れず)
遊歩道に沿って村田川を進む。長かった「ちはら台駅」もやっと近づいてきた。川に沿って進みながら地図を見ると、川から少し離れた県道130号に沿っていくつかの社がある。どういったものか不明であるが、押沼神社とか山王大権現という社名に惹かれてちょっと寄り道。川筋から離れ、成り行きで県道130号の少し南にある押沼神社に。
道から石段を上りお参り。祭神は日本武尊。社自体はささやかなものではあるが、往昔、この辺りに押沼城と呼ばれる土気城酒井氏の出城があったようである。社名は社のある市原市押沼から。既に市原市に入っていた。
山王大権現
県道130号を西に進み、道の北側に山王大権現。鳥居をくぐり、参道を進み石段の上にある社殿は一風変わった構え。鳥居の扁額は「山王大権現」であるが、鳥居奉賛碑には「番場神社」とある。番場神社はこの辺りの地名市原市番場から。
山王大権現は神仏習合を明確に示す命名。伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、山王祠の仏さまが神々という仮 の姿で現れ、衆生済度するということ。
新橋
山王大権現を離れ地図を見ると、県道130号を少し南に下ったところに永久寺というお寺さまが見える。赤く塗られた六脚門をもつ日蓮宗のこのお寺さまにお参りし、再び村田川筋へと向かう。お寺の先から村田川筋まで水田が広がる。田圃の畦道といった小径を成り行きで進み川傍に。対岸は予想と異なり豊かな自然が広がる。「まきぞの自然公園」と呼ばれ、上総国分寺の創建瓦を焼いた「川焼瓦窯跡」が残る、と言う。また、自噴水のあるホタルの里と称されるエリアもあるようだ。その先には大きなショッピングモールが見えてきた。京成千原線へとモールの先の新橋を渡る。
大宮神社
ちはら台駅に行く道の途中、行光寺が地図にある。境内も広いので、ちょっと寄り道。ちはら台駅手前の大通りを左に折れ、入り口を探す。が、どうしてもみつからず、あれこれしているうちに大宮神社の境内に入ってしまった。
社殿はニュータウン開発の近くによくある社と同じく社殿が新しくなっている。また、このニュータウン開発のときに旧石器時代の遺跡や古墳時代の古墳が神社周辺から数多く発掘されている。その数竪穴住居跡はおよそ4000、古墳も170基に及ぶと言う。その後もヤマト朝廷の勢力が村田川を遡り、古墳時代より栄えたこの地にまで及び、奈良時代にはさきほどメモした川焼瓦窯跡や押沼遺跡群における製鉄などが行われていたとのことである。
京成千原線・ちはら台駅
大宮神社を離れ行光寺の入口を探す。と、大宮神社の東の台地下に寺院の屋根が見えた。再び下の道まで戻る元気はなく、ブッシュの中を寺の屋根を目安に台地を下ると境内へと続く細路に出合い、崖を下って境内に。結構大きな本堂にお参りし、再び崖を上り返しちはら台駅に。長かった散歩を終えて一路家路へと。距離24キロ弱、時間6時間強といった散歩となった。
上総の国府が市原にあった、といったことは文言では知っているものの、いまひとつリアリティがなかったの。偶然ではあるが村田川を歩くことになり、川沿いに築かれたいくつもの城郭、千葉氏の発祥の地でもあった大椎・土気、更には古墳群や瓦窯跡、たたら製造の跡地などのことを知り、この辺りが古くより開けていたということが少し実感をもってとらえられるようになってきた。もう少し村田川流域のことを歩き、往昔のこの地の姿を想えるようにしたいと思う。
が、今回の散歩は結局、鹿島川ではなく村田川を下ることになった。後で分かったことなのだが、「昭和の森公園」は外房、東京湾、印旛沼方面の3方向の分水界となっていた。地形図を見るに、大雑把に言って、南北に連なる丘陵と東西に連なる丘陵が、土気と大網の間の少し南でクロスし逆L字形の丘陵を形成し、更にその逆L字形の内側に丘陵が見て取れる。逆L字形の東の河川は外房に、逆L字の外側と内側の南北の丘陵に挟まれた水路は印旛沼に、そして内側を東西に連なる丘陵に挟まれた水路は東京湾へとその流れを注ぐ。
そのような複雑な地形を知らないままに、如何にも源流点といった谷頭部から谷戸を辿ったのだが、それは鹿島川ではなく市川で東京湾に注ぐ村田川であった。いくら歩いても谷戸を挟む丘陵が北へ向かう気配がないため地図で確認すると村田川を下っていることがわかったのだが、川を挟む谷戸の景観の美しさもあり、鹿島川散歩を村田川散歩に切り替えた。この川筋も途中切り上げる電鉄駅が京成千原線・ちはら台までないため、結局20キロほど歩くことになる。予定外の散歩とはなったが、誠に美しい谷戸の景観を楽しめる一日となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
本日のルート;JR外房線・土気駅>天照神社>村田川源流部>湿性植物園>下夕田(しもんた)池>あずみが丘水辺の郷公園>大沢源流からの水路が合流>調整池からの養水?>「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」>長柄ふる里源流からの水路合流点>法行寺>天満天神宮>長興寺>大椎八幡>新大椎橋>八幡池>大木戸八幡>「土気小学校第一分校」の石碑>常円寺>天満神社>大橋>千葉外環有料道路>川崎橋>押沼神社>山王大権現>新橋>大宮神社>京成千原線・ちはら台駅
JR外房線・土気駅;午前10時55分
自宅を出てJRで外房線を進む。千葉市街を離れ、曽我、鎌取、誉田と進む。誉田(ほんだ)辺りから緑が豊かな一帯となる。土気駅で下車。鄙びた駅舎との予想に反し、駅前は再開発され、駅の南側は「あすみが丘ニュータウン」と呼ばれる新しく開発された宅地・商業私設が広がっていた。宅地開発が開始されたのは昭和57(1982)年から。それ以前は農地・森林の広がる一帯であった。ビバリー・ヒルズならぬ、チバリーヒリズと称された高級住宅地もこのニュータウンの一隅にある、と言う。「あすみが丘」の元の地名は大椎町、小食土町(やさしど)。この地名は(千葉市緑区)あすみが丘1?9丁目に、土気町、小食土町の一部が、(千葉市緑区)あすみが丘東1?5丁目となった。
「あすみが丘」は如何にもニュータウンらしき地名であるが、元の土気町、小食土町、大椎町の地名は面白い。土気の由来は諸説。土気城跡が天然要害の地故に「峠ノ庄」と呼ばれた「峠」>とけ、との説。鴇(とき)が多かったからとの説、険しい坂道=嶝嶮(とうけん)の説などなど。中世以来の由緒ある地名ではあるものの、戦国時代に酒井氏が土気城を再建したときには既にその由来は不明となっている。「土家」は音に漢字をあてたものであり、「戸気」「度解」などと表記されることもあった。土気町は現在、外房線・土気駅を含めた外房線の北側に千葉市緑区土気町として残る。
小食土(やさしど)も「矢指土」「矢指渡」などと表記されたこともあるようだ。その表記であえばそれほど悩むこともないのだが、「小食土」が「やさしど」となった経緯はさっぱりわからない。同じように表記する地名と区別するため「小食」の者は「心やさしい」から、と言うことで「小食土」」とした、との説があるがいまひとつ理解できない。
御霊神社の碑文にある、日本武尊が橘神社(本納)に弟橘媛を祀り、東国に向かう途中、当地に立寄り間食(ちょっとした食事;小食)を食べたからとの説は。漢字表記の点からは説得力はあるのだが、依然「音」の「やさしど」との関連はこの説明ではわからない。もう少し深堀してみる。「やさしい」という言葉は「やせる」から出来たとの説がある。そのことから、「立派な人を目の前に、気が引けて、身が痩せるような思いをする」というのが「やさしい」の元々の意味である、とか。日本武尊といった貴人を前に「気が引けた、身が痩せる」思いから、やさしい=身が痩せる、に「小食」という文字をあてたのだろう、か。単なる妄想。根拠はないが、自分だけは結構いい線いっているようにも思う。小食土町は現在千葉市緑区小食土町として昭和の森公園とその東に残る。大椎は後ほどメモする。
天照神社;午前11時30分
土気駅から「あすみが丘」の住宅街を「昭和の森」に向かい南に進む。地図を見ると昭和の森の南西端辺りに池が見えるので、それが源流点なのだろうかとの思い。結構歩いても森の緑は見えてこない。30分以上も歩き、千葉市立大椎中学校辺りを左に折れるとやっと昭和の森の緑が見えてきた。
と、昭和の森と宅地との境目に神社がある。ちょっと立ち寄り。天照神社とあった。2003年 頃の写真には昼なお暗きといった、鬱蒼とした森に囲まれているが、現在周囲は丸裸。宅地開発がここまで進んでいるのだろう。鳥居も平成20年(2008)に新設されたようで、誠にあっさりした境内には天保年間の水盤だけが往昔の歴史を残す。
村田川源流部;午前11時40分
天照神社を離れ、昭和の森公園の入り口を探す。道路を少し南に下ると「昭和の森キャンプ場」とか「千葉ユースホステル」の入口。入口を入ると道が上りと下りのふたつに分かれる。道を下りにとり谷筋に向かう。下るにつれて、道脇に細いながらも、如何にも湧水らしき湿地が見えてきた。この辺りが源流点で、谷筋に沿って水が集まってくるのだろうか、などと思いながら先に進むと「通行止め」のサイン。左手に小径があり谷を上ると天照神社の東に出た。
谷に沿って道があるのかと思っていたので、宅地開発の端に出てしまい少々途方に暮れる。とりあえず道に沿って東へと進むと道路から直角に谷方向に下る小径。草に覆われた小径を進むと眼下に谷頭といった景観が現れる。ここから湧水が湧き出るのか、それとも先ほどの谷筋からの湧水が集まる一帯なのか、宅地開発のために人工的に造られたものなのか不明ではあるが、ともあれ鹿島川(実際は村田川なのだが、このときは鹿島川と思い込んでいた)の源流点はこの辺りだろうと一安心。後は、この谷頭部から谷筋をひたすら下ればいい、と。
湿性植物園;午前11時55分
小径を渡り切り階段を上がると再び宅地開発地が現れる。宅地を避け、谷縁に沿って少し南に進むと、少しわかりにくいのだが、草に蔽われた一隅に右に入る道がある。この道を谷の緑の中を進み、谷底に下りると花菖蒲なのだろうか水生植物が群生する一帯が現れる。湿性植物園と称される。園といっても特段の施設があるわけではなく、美しい谷津を利用した誠に魅力的な景観。左右を丘陵・台地でU字形挟まれ、U字形の最奥部の谷頭には湧水が湧く、といった「谷津・谷戸」の定義そのままの景観を呈する。今一つ情感に乏しいわが身も、しばし佇む。
下夕田(しもんた)池;午後12時6分
湿性植物園から細い水路が先に続く。湿地の上には木橋が遊歩道として続く。この水路の水は大半が谷津田を模した体験水田を流れ「下夕田(しもんた)池」に注ぐ。一部は丘陵の東にある「小中池」にも流れるようである。小中池からの水路は外房・太平洋に注ぐ。
下夕田池は地形から見て周囲の丘陵からの湧水を集めた池ではあったのだろうが、現在は水底に石を敷き詰めているし、形が如何にも人工的。自然にできた溜まりに人の手を加えたものであろう。
「下夕田」という美しい地名の由来は地名の小食土町字下夕田、より。とは言うものの、その「下夕田」の由来の説明にはなっていない。この地の「下夕田」の由来は定かではないが、全国にある「夕田」の由来には、「水が湧き出るところ」とか、「結田」が語源で「協力して田作りをする」といった意味、また、「伊勢(神宮)の朝田、熱田(神宮)の夕田、高田(会津・伊佐須美神社)の昼田」と称される田植祭りが知られる。この地の夕田とは関係ないかとも思うが、あれこれ想うのは楽しい。
あずみが丘水辺の郷公園;午後12時19分
水は茂原へと続く車道下を通り「あずみが丘水辺の郷公園」に続く。車道を越えた辺りからしばし暗渠となるが、公園が近づくにつれ、それらしき整備された水路が現れ公園内の調整池に続く。
調整池からの水は暗渠となりしばらく進む。それはともあれ、もうそろそろ水路が北に向かないことには鹿島川が開渠となって佐倉に下る川筋に合流できない。先を見ても谷津田を挟む丘陵は重層的に重なり合いながら東に連なる。これはどうも不自然と地図を見ると、この水路の先にある川筋は村田川とあり、曲がりくねりながら市川で東京湾に注いでいた。
はてさて、ここで軌道修正し当初の予定通りに鹿島川に戻るか、と一瞬悩むも、この美しい谷津田の景観を離れるのはもったいないと、予定を変更し、鹿島川散歩をここで村田川散歩に切り替える。
大沢源流からの水路が合流;午後12時40分
道脇の小祠を見やり、北の丘陵には三峰神社、南の丘陵には日枝神社が鎮座し谷津田がぎゅっと狭まる小山町辺りで水路は細いながらも開渠としてその姿を現す。とは言うものの、道は北の丘陵の裾を通るので時々川を跨ぐ農道があるたびに確認するだけではある。
開渠となった村田川に小山町集会所辺りで南の広い谷津田からの水路が合流する。この水路は村田川の源流のひとつ。源流点は南の外房有料道路を越えた茂原市大沢地区にある真名カントリーの山裾辺りである。
○土気酒井氏
村田川の北側を続く丘陵の裾を進む。丘陵上はあずみが丘9丁目。あずみが丘9丁目には土気酒井氏の支城である小山城があった、と。酒井氏は戦国時代に東金を拠点に上総北部を支配した地方領主。小田原の後北条に抗するも敗れ、小田原北条が滅亡した後は徳川の旗本として仕えた。この城は茂原方面の備えの城であった、とか。また、この小山城辺りは縄文時代の遺跡も残る。水の豊かな谷津田の丘陵上の快適な集落でもあったのだろう。
調整池からの養水?;午後12時45分
道を進むと道脇の水路から豊かな水が流れ来る。どこから流れてきたのだろう?丘陵上に調整池らしき池が見えるのだが、そこから流れ下った水であろうか。ともあれ、村田川の水は大沢源流からの水や、この調整池からの適宜な養水により豊かな流れとなってゆく。
「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」
先に進むと県道132号にあたる。このあたりは千葉市緑区板倉町。古くは竹河原と呼ばれていたようだが、戦国期に土気城主の酒井氏が備蓄用の板倉を建てたことから板倉と称されるようになった、とか。
道脇に「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」の石碑。説明を要約すると、「水田ほ(圃)整備;板倉大椎地区は千葉市の東南、千葉市・市原市・茂原市の接する村田川の源流に位置し、緑区の三町にまたがり南北に伸びる水田地帯。農業を取り巻く厳しい環境にもかかわらず、この改良事業で安定した農業経営ができるようになった」との謝辞を刻む。思うに、谷津(戸)の広がるこの一帯の湿地を、農業に適するように土地改良・整備をおこなっていたのであろう。眼前に広がる谷津田(谷津の田圃)も自然そのままのものではなく、元々の谷津を改良し造られたものであった。
長柄ふる里源流からの水路合流点;午後12時55分
村田川の川筋を眺めるべく県道を少し南に下る。川に架かる橋の辺りに「長柄ふる里源流」からの水路が合流する。橋から下流を眺めるに、ちょっとした渓谷の姿を呈する。先ほどの土地改良区の記念碑ではないけれども、これだけの水が加われば改良前は自然そのまま、ぐじゃぐじゃの湿地帯であったのだろう。実際近年になっても大雨でこの合流点の少し下流の大椎橋が流れ、越智地区の護岸が崩れたとの記事を目にした、とのことである。
で、長柄ふる里源流であるが、長生郡長柄町にある「長柄ふる里村」辺りを源流点とし、市原市金剛地を下りこの地で村田川に合流する。但し、村田川の本流はこの「長柄ふる里源流」からの水路であるとも言われるので、今まで辿ってきた昭和の森源流が合流する、というのが正確な表現かとも思う。
法行寺;午後12時58分
村田川は「長柄ふる里源流」との合流点から流路を北に向ける。依然左右を丘陵に挟まれた谷津田が広がる。右の丘に法行寺。お寺さまと言うより地域集会所といった風情。道から寺に上る石段脇の石塔が唯一寺の趣を残す。
天満天神宮:午後1時10分
さらに北に進むと天満天神宮。法行寺は千葉市板倉町であるが、ここは千葉市大椎町。「おおじ」と読む。古くは「大志井郷(おおじい)」と称されていたが、「大椎」の由来は不詳とのこと。 赤く塗られた小祠が境内に佇む。天満宮は菅原道真を祀る神社。天満宮は天神さま、天神さんとも称されるので「重複表現」とも思うが、天神祭で知られる大阪の天満宮も「天満天神」とも「天満の天神さん」と称するわけであるから、いいとしよう、か。それにしても地図で見るに、ニュータウンの宅地が天神さんのすぐ脇まで迫ってきている。谷筋を歩いているから谷津田の美しさだけが目に入るが、一歩丘を上れば宅地開発地となってしまっているようだ。
長興寺;午後1時15分
天神様から少し北に進むと、道脇に風格のある山門。長興寺である。広い境内には鐘楼。本堂は享保年間(1716-1735)に建てられたとの記録が残る。元は真言宗の寺院でこの地の東南にあったようだが、土気城主酒井氏の命により法華宗に改宗し、その折にこの地に移った、と。
○大椎城跡
村田川は長興寺の辺りで丘陵に沿って右へと迂回しる。丘陵は「あすみが丘第八緑地」として残るが、往昔この丘陵には「大椎城」があったとのこと。大椎(おおじ)城は平安時代中期、上総・下総に覇を唱えた平忠常が築城し、その曾孫・下総権介千葉常兼が修復。この忠常は平将門の叔父であった良文の孫にあたり、平将門以降の最大の反乱とも称される長元の乱(1027~1031) を起こし、当時不当な貢税を課した受領(国司) の暴政や貴族権力に反抗した。大椎城はその本拠地であった。
この乱の後、忠常の子・常将が初めて「千葉氏」を名乗り、常長・常兼と続き、その子・常重は大治元年(1126)、 この城から千葉城 (猪鼻城・湯の花城)に移り廃城になったと考えられている(異説もある)。
大椎城を築城したと伝わる平忠常の祖父である良文は平将門の良き理解者であった。将門や良文と菅原一門の友好な関係を想うに、先ほどの天満天神宮も、そのコンテキストで考えればこの地に鎮座する意味合いも納得しやすい。
大椎城は戦国期には、土気城主酒井氏が村田川流域を押さえる支城として大規模な改修をしたと伝わる。丘陵上にこの大椎城、土気城、小山城、そして神社仏閣が並ぶこの辺り一帯は平安の昔より、上総の中核の地であったのだろう。因みに、「あすみが丘第八緑地」の北には「チバリー・ヒルズ」がその趣を残す。
大椎八幡;午後1時30分
丘陵裾を北に向かう村田川を離れ、谷津田を通り抜け村田川を挟む逆側の丘陵に佇む大椎八幡に向かう。折から地域の方の清掃奉仕の邪魔をしないようお参り。社殿も新しくなっていたが、由来によれば、千葉氏が大椎城を本拠とするに際し、鶴岡八幡より勧請したとのことである。頼朝の挙兵に与力した千葉氏であればこの流れは大いに納得。
新大椎橋;午後1時34分
大椎八幡を離れ先に進む。右手を流れる村田川傍に近づくと川を跨ぐ橋が見える。橋桁も結構高くバイパスのような雰囲気の道である。川の傍に沿って橋を潜ろうとするも、道が切れ川脇には畑地だけ。通り抜けようにも農作業をしている方がおり躊躇。
仕方なく丘陵中腹を走るバイパスに上るルートを探すがそれらしき道はない。結局道なき崖面を力任せに上りバイパスに。川に架かる新大椎橋から下流の村田川筋を眺めるに、川の右岸には畑地となっており道はなく、左岸に道が通るだけであった。どうしたところで右岸は進むことができなかったようである。
ちなみに、この橋を通る道は宅地開発された「あすみが丘」から千葉外環有料道路の大木戸インターを結び、その先で道が切れる。宅地開発地と外環を結ぶバイパスとして造られたものだろう。バイパスにより削られたこの丘陵にも、村田川筋に連なる城郭群のひとつである立山城があった、とか。
八幡池;午後1時45分
新大椎橋の北詰めを左に折れ、道なりに村田川筋に進む。右手は宅地開発が進んだ「あすみが丘5丁目」、川傍には「大椎ポンプ場」。大椎ポンプ場は下水処理施設のようである。宅地を離れ谷津田へと下ると、右手に結構大きな池がある。村田川の水源のひとつかとも思い、川筋を離れ池に向かい、バイパスらしき高い橋桁を潜り池に。八幡池とある。谷津の一部を堰止め雨水や湧水を貯めた池のようである。元禄11年(1698)には記録に残るので歴史は古い。昭和10年頃までは「八幡堰」と呼ばれていたようである。
八幡池の由来は、近くにある大木戸八幡からだろう。この辺りは千葉市緑区大木戸町となる。大木戸の地名の由来は、この地は立山城、大椎城、土気城などへの要衝であり、立山城への木戸(城戸)であったことによる、と。秀吉による天正19年(1591)の人掃令(戸口調査)の折り、この地が木戸跡ということで大木戸との地名がついたと伝わる。この八幡池の地名も大木戸町木戸脇とのこと。その他、大門といった地名も残る、とか。
大木戸八幡;午後2時3分
池脇の階段を上ると立派なバイパスが通るが、すぐ先の農道で道が切れている。この道も大木戸とその西の越智町に開かれたニュータウンを結ぼうとしているのだろ、か。バイパスの端を止めている農道を左に進むと道脇に「大木戸八幡」の案内。
参道入口には文化12年(1815)に建てられた鳥居。参道を進み石段を上ると社殿前に御神木。人の参拝を遮るように社殿の目の前に杉の大木が聳えていた。社伝によれば、この社は大椎城の内宮であった、とも。ために、明治後期まではこの地の大木戸村ではなく、大椎村の管理下にあったようである。
「土気小学校第一分校」の石碑;午後2時15分
丘陵を先に進み、趣のある山門の残る日蓮宗の善徳寺にお参りし丘陵から低地へと下ると、道脇に「土気小学校第一分校」の石碑。改称や統合を繰り返し、仔細をメモすることはパスするが、善徳寺や先に訪れた長興寺、これから訪れる常円寺などで開校した土気地区のいくつかの小学校の本校や分校であるが、昭和44年(1969)の土気町の千葉市への合併に伴い、この地にあり廃校になった分校跡である。
常円寺;午後2時20分
丘陵に挟まれた谷津田を蛇行する村田川に沿って進む。しばらく進むと道脇に常円寺と天満神社の石塔が並んで迎える。神仏混淆の名残ではあろう。
参道を進み階段を上る。手前に誠に素朴な社とその奥にこれもトタン屋根の素朴な本堂。本堂にお参り。創建年代は不詳。もとは土気の真言宗極楽法寺(現在の善勝寺)の末寺であった、とか。場所もこの地ではなかったようだ。その後長享2年(1488)に法華宗に。昭和16年(1941)には日蓮宗となっている。本堂は享保16年(1731)に建立され、そのときこの地に移った、と。
○佐々木道誉
寺の裏手に五輪塔があるとのことだが、それは佐々木道誉ゆかりのもの。婆娑羅大名として知られ、足利尊氏の室町幕府設立の立役者として名高い道誉がこの地に名残を残すのは、出羽配流の途中、この地に留まったことによる、とか。比叡の山門に打撃を与えるべく門跡御所を焼き討ち。朝廷からの出羽国配流の命に対し幕府は拒否し、この地に留めた、と。とはいうものの、上総って道誉が守護の地。であれば、自領に一時謹慎しただけというのが正確、かも。実際、配流とは程遠い派手な行列で上総まで入り、翌年にはあっさり幕政に復帰している。
天満神社;午後2時30分
本堂にお参りし、石段を上がったところにある社に。天満神社と思っていたのだが、この社は子安神社であった。天満神社はその脇の参道というか山道を結構上ったところにあった。歴史は古く、菅原道真の御真筆の巻物が伝わる、とか。300有余年の歴史をもつ社であるが、江戸の頃には山津波で流失、再建された社も明治に焼失。現在の本殿は昭和31年(1956)に建て替えられたものである。
大橋;午後2時42分
丘陵西南端で丘陵に接近村田川に架かる大橋を見やり、丘陵裾を蛇行する村田川に沿って進む。地区は緑区越智町に入っている。越智の由来は伊予から越智氏が移住し土着したとの説などがあるも不詳。依然左右に丘陵が連なる道筋に、一瞬右手が開け水路が村田川に合わさる。地図を見ると大藪池という池があった。越智はなみずき台団地の調整池とのこと。調整池の北には湧水地があり、大釜・小釜と呼ばれる自噴湧水は2mほどの水深がある、とか。湧水と大藪池は水路で結ばれているようである。
千葉外環有料道路;午後3時5分
大藪池からの水路との合流点を越え、道脇の越智ポンプを見やり先に進むと「高本渓橋」を渡る。村田川をクロスするのは久しぶり。丘陵裾を進むと先に高い橋桁が見えてきた。千葉外環有料道路である。宅地開発で削られた台地も、この辺りではしばしその開発の波から逃れ、左右の丘陵周辺も自然が残る。外環を越えた先は一直線の谷津田。誠に美しい景観が広がる。谷津の中を突き切る農道を進むと道は丘陵へと上る。
川崎橋;午後3時52分
坂を上り森の中のヘアピンカーブといった道を進むと前方が開け、畑地の間に農家が点在する丘陵地帯を辿り、丘陵地帯を抜け車道に下りる。車道を北に向かい村田川筋に。この辺りまで来ると村田川も都市河川の趣を呈する。村田川に架かる川崎橋に。下流は川幅も広く、両岸には遊歩道を兼ねたような段丘面が整備されている。川崎橋で少し休憩し、瀬又交差点を北に新瀬又橋に。橋の辺りに瀬又川が南から合流する。
押沼神社(以下記録取れず)
遊歩道に沿って村田川を進む。長かった「ちはら台駅」もやっと近づいてきた。川に沿って進みながら地図を見ると、川から少し離れた県道130号に沿っていくつかの社がある。どういったものか不明であるが、押沼神社とか山王大権現という社名に惹かれてちょっと寄り道。川筋から離れ、成り行きで県道130号の少し南にある押沼神社に。
道から石段を上りお参り。祭神は日本武尊。社自体はささやかなものではあるが、往昔、この辺りに押沼城と呼ばれる土気城酒井氏の出城があったようである。社名は社のある市原市押沼から。既に市原市に入っていた。
山王大権現
県道130号を西に進み、道の北側に山王大権現。鳥居をくぐり、参道を進み石段の上にある社殿は一風変わった構え。鳥居の扁額は「山王大権現」であるが、鳥居奉賛碑には「番場神社」とある。番場神社はこの辺りの地名市原市番場から。
山王大権現は神仏習合を明確に示す命名。伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、山王祠の仏さまが神々という仮 の姿で現れ、衆生済度するということ。
新橋
山王大権現を離れ地図を見ると、県道130号を少し南に下ったところに永久寺というお寺さまが見える。赤く塗られた六脚門をもつ日蓮宗のこのお寺さまにお参りし、再び村田川筋へと向かう。お寺の先から村田川筋まで水田が広がる。田圃の畦道といった小径を成り行きで進み川傍に。対岸は予想と異なり豊かな自然が広がる。「まきぞの自然公園」と呼ばれ、上総国分寺の創建瓦を焼いた「川焼瓦窯跡」が残る、と言う。また、自噴水のあるホタルの里と称されるエリアもあるようだ。その先には大きなショッピングモールが見えてきた。京成千原線へとモールの先の新橋を渡る。
大宮神社
ちはら台駅に行く道の途中、行光寺が地図にある。境内も広いので、ちょっと寄り道。ちはら台駅手前の大通りを左に折れ、入り口を探す。が、どうしてもみつからず、あれこれしているうちに大宮神社の境内に入ってしまった。
社殿はニュータウン開発の近くによくある社と同じく社殿が新しくなっている。また、このニュータウン開発のときに旧石器時代の遺跡や古墳時代の古墳が神社周辺から数多く発掘されている。その数竪穴住居跡はおよそ4000、古墳も170基に及ぶと言う。その後もヤマト朝廷の勢力が村田川を遡り、古墳時代より栄えたこの地にまで及び、奈良時代にはさきほどメモした川焼瓦窯跡や押沼遺跡群における製鉄などが行われていたとのことである。
京成千原線・ちはら台駅
大宮神社を離れ行光寺の入口を探す。と、大宮神社の東の台地下に寺院の屋根が見えた。再び下の道まで戻る元気はなく、ブッシュの中を寺の屋根を目安に台地を下ると境内へと続く細路に出合い、崖を下って境内に。結構大きな本堂にお参りし、再び崖を上り返しちはら台駅に。長かった散歩を終えて一路家路へと。距離24キロ弱、時間6時間強といった散歩となった。
上総の国府が市原にあった、といったことは文言では知っているものの、いまひとつリアリティがなかったの。偶然ではあるが村田川を歩くことになり、川沿いに築かれたいくつもの城郭、千葉氏の発祥の地でもあった大椎・土気、更には古墳群や瓦窯跡、たたら製造の跡地などのことを知り、この辺りが古くより開けていたということが少し実感をもってとらえられるようになってきた。もう少し村田川流域のことを歩き、往昔のこの地の姿を想えるようにしたいと思う。
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