伊予 歩き遍路;五十九番札所 国分寺から六十番札所 横峰寺を繋ぐ ①生木道・香園道分岐点まで

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昨年、五十九番札所・国分寺を打った後、歩き残していた予土国境から四十三番札所・明石寺を繋ごうと南予に出向いたため、少し間が開いたのだが、再び東予に戻り国分寺から横峰寺へと向かうことにする。
横峰寺を繋ぐ、とは書いてはいるが、いつだったか六十一番札所・香園寺の奥の院から逆打ちで六十番札所・横峰寺へ歩いており、実際は国分寺から香園寺を繋ぐことにする。
国分寺から横峰寺へのルートは今治市域を抜け、西条市に入り大明神川を渡ると遍路道は大きく二つに分かれる。ひとつは生木(いきき)地蔵経由の生木道。このルートは生木地蔵から中山川を渡り、旧小松町(現西条市小松町)の大頭から湯浪に進み横峰寺へと向かう。
もうひとつのルーは香園寺道。大明神川を渡るとすぐ生木道と別れ、中山川を越えて直接六十一番札所・香園寺を目指す。このルートは基本逆打ルートとなるわけだが、このルートもふたつに分かれ、ひとつは香園寺から岡村を経て横峰寺へと向かうものであり、もうひとつは香園寺から香園寺奥の院経由で横峰寺へと向かうことになる。

昔歩いた逆打ちルートは香園寺奥の院経由で横峰寺へ上り、横峰寺からは生木道ルートの上り口である湯浪へと遍路道を下るものであったが、順打ちとして湯浪から上り香園寺奥の院へと下りるもよし、岡村へと下りるもよし、逆打ちも香園寺から岡村を経て横峰寺へ上り、奥の院へと下るもよし、湯浪に下るもよしと、国分寺から横峰寺に向かうは幾つもバリエーションがある。
今回のメモは大明神川を越えた後。生木道を進み大頭を経て湯浪への順打ちルートと、大明神川を越えて生木道と別れ香園寺に進み、岡村から横峰を目指す逆打ちルートの分岐点までをメモする。



本日のルート;
国分寺から孫兵衛作へ
国分寺>駐車場脇の道標>路地突き当たりの道標>県道156号出口の道標>県道156号の茂兵衛道標>今治最大の地蔵道標>桜井中学校傍の茂兵衛道標>法華寺T字路の道標と標石>法華寺>T字路の道標と標石>綱敷天満宮>網敷天満宮の道標>細い三差路の道標>猿子橋>徳右衛門道標>舟形地蔵>孫兵衛作交差点
孫兵衛作から生木道・香園道分岐点へ
県道159号に入る>世田薬師傍三差路の茂兵衛道標>六軒屋の道標>自安橋>道安寺>臼井大師堂の徳右衛門道標>出張橋>大明神川>金比羅道標と道標>生木道と香園寺道の分岐点の茂兵衛道標


国分寺から孫兵衛作へ

国分寺を離れる
国分寺の駐車場脇に道標が立つ。そこから南に民家脇を進む細い路地があり、手印とともに「横峰寺 六里廿八丁」の文字が刻まれる。 手印に従い路地を進むと突き当たりに「右 へんろ」と刻まれた道標が、道に半分埋もれて見える。






県道156号に道標と茂兵衛道標
道標に従い路地を右に折れると県道156号に出る。県道との合流点の民家生垣に南を示す手印と「遍ろみち 弘化」といった文字が読める道標がある。「み」の文字の辺りに折れていたものを修理したような痕跡がある。
また、県道を挟んだ向かい側には茂兵衛道標が立つ。手印と供に国分寺と刻まれる面と、南を示す手印とともに「六十番」と刻まれる、と言う。



今治最大の地蔵道標
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター(以下略)」には「県道を渡って100mほど南西に行った四つ角の右手に今治市内で最大の地蔵の道標がある。旧国分村の人たちが浄財を出し合って、天保15年(1844)に建立したものである」と記す。
道を進むと小川に架かる橋の手前に地蔵道標が立つ。「左 遍ろみち」と刻まれている。「えひめの記憶」には「遍路道は、地蔵道標で左折しJR予讃線と並行する小道を小川(用水路)に沿って南東へ進む」の記述とともに、「県道156号ができるのは昭和33年だが、それ以前のもう一つの遍路道は、県道に沿って南東に約300m進み、商店で右折して100mほど西に行くと、JR予讃線と並行して南東へ進む遍路道と合流した」とある。
ここで言うもうひとつの遍路道とは、上述の県道156号脇に立っていた茂兵衛道標が示す道筋のことかとも推測する。

桜井中学校傍・県道T字路の茂兵衛道標
「えひめの記憶」には「やがて遍路道は、桜井中学校前に出て左折し再び県道156号に出る。その三差路の突き当たりの県道の左側に茂兵衛道標がある。この道標は、長らく現位置の西側に放置されていたが、道路整備のとき元の位置にもどされたという」とする。
小川なのか用水路なのか、ともあれJR予讃線に沿って進んだ遍路道は、桜井中学の運動場手前で左折し県道156号筋に合流したようだ。生垣に埋もれたような茂兵衛道標には「大峰寺へ五里余 / 國分寺へ十五丁」と刻まれる。
大峰寺
ここにある大峰寺とは六十番札所・横峰寺が明治4年(1971)の神仏分離令により廃寺となり、明治42年(1909)に元に復すまで一時期称した寺名である。経緯は明治4年(1871)、神仏分離令への対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。
六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
上記茂兵衛道標の建立は明治37年(1904)であるから、六十番大峰寺と称していた時期である。清楽寺は逆打ち香園寺道のメモで取り上げる。

桜井小学校前の道標?
Google Street Viewで作成
T字路を右折し、県道を少し進むと桜井小学校前の三差路に当たる。「えひめの記憶」には「歩道脇に、二つに折れた道標が放置されている」とあるのだが、現在それらしきものは見当たらない。
試しにGoogle Street Viewでチェックすると、2015年3月の日付で折れた道標らしきものが見える。この時期以降、なんらかの理由で移されたのだろうか。


法華寺T字路の道標と標石
道を進み、桜井小学校の校庭の切れるところから右手に入る道がある。T字路の県道左手の生垣に道標が立つ。「えひめの記憶」に拠れば、信州出身の尼僧が願主とのことである。
道標の右手、桜井小学校の校庭に沿って西に入る道の入り口に「法華寺 国分尼寺」と刻まれた大きな寺号石が立つ。





法華(ほっけい)寺
線路を渡った高台に法華寺が建つ。奈良時代の天平13年(741)、伊予国の国分尼寺として建立された当時は、桜井小学校から予讃線桜井駅に達する広大な敷地であったようだが、幾度かの戦火で焼失、江戸時代に現在の高台に移った、と(Wikipedia)。
法華寺から予讃線に沿って南に進み、次の踏切の西側に国分尼寺塔跡が残るとのことである。



T字路の道標と標石
県道を更に進むと、広い三差路の少し手前に左に入る細い道があり、その角に道標が立つ。手印は左右を示すが、文字は「右 へんろみち」「明治四十五年」とある。「えひめの記憶」に拠れば、「この道標の願主は郷廻船中とあり、特産の桜井漆器を全国に行商していた椀船(わんぶね)船主たちが建てたものと思われる。
桜井漆器は、明治30年以後は生産業者の組織化が行われ、大正期後半に最盛期となった。したがってこの道標が建立されたのは最盛期に至る時期であり、椀船船主たちが航海の安全を祈願して建立したと考えられる」とする。
また、道標の逆側、県道右手には「綱敷(つなしき)天満宮 五丁」と刻まれた道標が立つ。
遍路道を離れ、菅原道真ゆかりの綱敷天満宮にちょっと立ち寄り。

綱敷天満宮
広い境内には風呂神社、荒神社、須賀神社などいくつかの境内社も見える。絵馬堂が印象に残る。案内に拠れば、「国指定 名勝 志島ケ原
「こち深ば 匂いおこせよ梅の花 あるじかしとて春な忘れそ」
藤原氏が全盛をきわめ、平安文化が最盛に達したころ、右大臣菅原道真は天皇の信用を受けながら、藤原氏の告げ口によって、遠い九州の大宰府に流されることになった。都を出発して、途中桜井の沖にさしかかった時、海がにわかに荒れてやっと志島ケ原にたどりついた。里人たちは菅公の身に何事もなかったのをよろこび、船の舳綱(ともづな)を巻いて敷物にしてお迎えしたので、綱敷天満神社の名が付けられたと言われている。
境内の広さは約11万平方メートル、約2000本の黒松の巨木と白砂青松の景勝地である。海岸近くには菅公ゆかりの衣干岩や筆塚、記念碑などがある。海岸側には幕末の黒船に備えた台場跡があり、文政二年巳卯六月戌の碑が残っている。
また、桜井名物として名高い、えびかにの料理がある。近年梅林などが育てられて県境が整備されて、夏の海水浴客も多く、前に燧灘、後ろに世田山などの史跡地を控えて、四季折々の眺めは又格別である。 昭和16年 文部省指定」とある。

網敷神社はこの今治以外に。大阪、神戸、福岡と道真が大宰府へと流されるルート上に建つ。如何なるプロセスで同様の縁起を持った社が建立されるのか、興味を惹かれる。

網敷天満宮の道標
網敷天満宮から遍路道に戻り、先に進むと予讃線桜井駅へと入るT字路の県道左側に「網敷天満宮道」と刻まれた道標が立つ。








細い三差路の道標
城下町でもないところで、如何なる事情か、桜井駅の先で鈎型に曲がる県道を進み、大きな三差路の手前、地蔵堂が建つ箇所から右斜めに入る細い三差路角の電柱下に道標が立つ。
「えひめの記憶」に拠れば、「遍路道はここで二手に分かれる。主な遍路道はこの道標に従い、県道156号を進み、国道196号を斜めに渡り細い道を菜切谷池の下や、猿子川沿いの土手道へと進むことになる。この土手道が江戸時代の幹線道路である西条道(旧街道)で、昔は道沿いに松並木があったが、今は堤に松はなく昔の面影を見い出すことはできない。この遍路道はやがて猿子橋近くで国道196号を横切り、国道の西にある細い道を南進する
。 一方、道標のある三差路を右に行く細い道がもう1本の旧街道であったらしい。この道も遍路道であったようであるが、この地は長沢という地名が示すように、しばしば水があふれて道が通れなくなったという。途中左手に弘化2年(1845)に建立された常夜灯がある。しかしそれ以南は、昔の猿子川の流路がはっきりせず、遍路道の経路もわからない」とある。

猿子橋
県道156号を進み、左手からくる県道38号と合わさり、上記菜切谷の池、左手に接近する猿子川に沿って進むと長沢交差点で国道196号・今治バイパスと合流する。
国道に沿って流れる猿子川の土手道を進むと、川筋は二手に分かれるが直進し高速今治小松自動車道のインターチェンジへの、少々狭いアプローチ道下を潜り、更に湯ノ裏温泉へのアプローチ道を越え、大きく弧を描く今治小松自動車道アプローチの高架下を進むと猿子川は国道196号と交差する。そこが猿子橋である。

道の駅今治湯ノ浦温泉裏手の徳右衛門道標
国道196号を渡り、猿子川の右岸の道に入る。右手には予讃線が走る。道を少し進み、猿子川の左岸に道の駅今治湯ノ浦温泉の建物が見える辺り、道の右手に徳右衛門道標が立つ。「是より横峯*五里」と刻まれるとのことである。 道を進み、遍路道が国道196号に合流する手前に舟形地蔵が佇んでいた。

孫兵衛作交差点
国道196号を渡り、孫兵衛作交差点の国道右手に、長井孫平の頌功(しょうこう)碑が立つ。この辺りの地名ともなっている旧孫兵衛作村(今治市孫兵衛作)の発展に貢献した人物とのこと。
桜井の石風呂
この交差点から左に入ると桜井の石風呂がある。「えひめの記憶」には「ここで左折し約700mほど行くと海岸へ出る。そこに、『今治の文学』に「往古(むかし)弘法大師此ノ二名島修行シ玉シ頃 当浜二遊ヒ温石窟(イシフロ)ノ功能(コウノウ)広大ナル事ヲ御覧シテ除病延寿ノ勝計(ケイ)此温窟(フロ)ニ過タルハナシ」と記された「桜井の石風呂」がある。
この石風呂を有名にしたのは、天和元年(1681)に入浴して難病を治した南明(なんめい)禅師の事績であると同所の碑文に記されている。現在もシダなどを蒸し焼きにした、サウナのような石風呂に、大勢の人が健康を願ってやってくる」とある。
子供の頃、祖母と訪れたような気もするのだが、現在は休業中とのことである。 ●南明禅師(一六一八~八四) 「元和三年四月八日、越智郡龍岡村(現、玉川町)元幸門城主正岡盛元の子として芸州(広島県)で生まれた。九歳のとき東予市の長福寺に入り、一七歳で奥州瑞巌寺雲居和尚(土佐出身)に師事。慶安三年、小松藩主のため仏心寺を開設、寛文一二年に京都妙心寺の第二一五世となる。貞享元年一〇月一五日入寂、六七歳。(えひめの記憶))」

孫兵衛作から生木道・香園道分岐点へ

県道159号に入る
長井孫平頌功碑から300m進み、左手に医王池が見える辺りから国道196号を離れ県道159号に入る。予讃線の踏切を渡りそれほど急ではない医王山の峠道を上ると、市域は今治市から西条市に変わる。
道の左手は谷として開かれた道筋を進む。今は快適な車道ではあるが、県道が整備される以前は鬱蒼とした山道であり、長坂とも若い百姓の男女の心中事件故に「心中坂」とも称された、と。
坂を上り、右手の世田山の丘陵から、古代山城跡で知られる永納山と続く丘陵部を抜いた切り通しの峠を越え、少し進むと世田薬師に至る。
医王池
この池は、蛇越(じゃこし)池とも呼ばれ、現在はサギソウの群生地として知られる。蛇越(じゃこし)池とも称されるように、この池には大蛇伝説が残る。その昔、日照りが続き、仕方なく大蛇が棲むというこの池の水を抜くことにした。心優しき大蛇は村人の願いを聞き、飛び去り、村人はその徳を龍神様としてお祀りした、とのことである。
なお、医王山は、もとは「猪追山」と称されたようだ。猪多きが故ではあろう。

世田薬師傍三差路の茂兵衛道標
厄除けで知られる世田薬師は、いつだったか辿った散歩のメモをご覧頂くことにして、遍路道を辿ることにする。
世田薬師前に三差路がある。三差路とは言いながら、一つは永納山の登山口に向かう土径ではあるが、それはともあれ、県道から道が分かれる角に茂兵衛道標が立つ。正面に「國分寺 大峰寺」、県道から分岐する側に「左 ちか道」、その逆面には「明治四十四年」の文字が刻まれる。また、年号の刻まれた面には「迷ふ身を教へて通寸(私注;とおす)法の道」の和歌も刻まれるとのことである。
道標の指示からすれば、県道も遍路道ではあるが、今回は左に折れて近道を進むことにする。
永納山城跡
三差路のうちのひとつは「国指定史跡永納山城」へのアプローチ道。すぐ先に立つ案内には「国指定史跡 永納山城跡
平成17年7月14日 指定
平成19年7月26日 追加指定
史跡面積 406,427.54㎡
永納山城は、全国的にも貴重な古代山城のひとつです。
〈古代山城とは〉
古代山城は、西暦663年に朝鮮半島で起こった「白村江はくすきのえの会戦」前後の国際的緊張の高まりの中で築造されました。『日本書紀』には古代山城に関する記載が見られ、百済くだらの亡命貴族の指揮のもと築造された、とあります。永納山城は文献には登場しませんが、各地の山城との類似性から、古代山城であることが明らかにされています。
〈永納山城跡の立地〉
永納山城は、道前平野と今治平野との中間に位置しています。また、すぐ東には燧灘が広がっており、極めて海に接近している点が立地上の特徴。
標高132.4mの永納山と、北西に位置する医王山いおうさんの二つの独立山塊を取り囲むように城壁が築かれていて、城壁の全長は約2.5㎞になります。
〈調査の変遷〉
永納山城跡は、昭和52年に発見され、その直後から昭和54年度、及び平成14~16年度に城壁の確認調査を実施しました。これらの調査によって遺跡の範囲、列石や土塁からなる城壁構造などが明らかになりました。 平成20年3月 西条市教育委員会」とある。

六軒屋の道標
県道を離れ予讃線の踏切を越え、六軒屋集落が切れ田圃の中を進む道に入ると直ぐ、道の左手に道標が立つ。脇に神社の幟立てもある。「えひめの記憶」には「右 こんぴら道へんろみち 左 河原津」と刻まれるとのこと。左に道はないのだが、海岸線にある河原津に抜ける道のある場所から、この地に移されたとのことである。

自安橋
田圃の中の道を進むと北川に架かる自安橋に出る。ここで世田薬師で直進した旧県道159号が合流する(現在は地図には県道159号は、世田薬師の先で分かれ、西を二車線の道として走る道となっているため、この道筋を仮に旧県道159 号としておく)。
自安橋は、暴れ川の北川に石橋を架けた楠村の豊田源左衛門が隠居し還俗した法名自安に因る。この道筋は小松から今治へと進む古代官道筋であり、重要な街道筋に橋がないのは不便と自費で普請した。自安没後、地元民はその徳を称え自安橋と名付けた、と言う。
時代が下り、昭和39年(1964)、コンクリート橋となるに際し、地区名をとり、「楠木橋」とされたが、地元民の願いにより自安橋に復された。

道安寺
道を進むと、道の左手に道安寺。幸徳天皇の勅願を受け、伊予国主・小千(越智)氏により建立されたという道安寺を道の左に見遣り進む。往時は五重の大塔をもつ大伽藍であったようだが、火災や戦火(源平合戦の平氏方西寂入道の河野氏・高縄城攻め、南北朝期の細川氏の世田山攻め、秀吉の四国征伐)などにより、今日の姿として宝灯を伝える。

御来迎臼井(うすい)水
予讃線の踏切を渡ると直ぐ、道の左手下にお堂と遊水地が見える。路から3mほど下り、湧水に囲まれた大師堂にお参り。湧水は弘法大師の御加持水とされる。水不足に苦しむ老婆の話を聞き、杖で地を突くと、あら不思議、水が滾々と湧き出た、と伝わる。 お堂脇に「御来迎臼井(うすい)水」とある。澄んだ湧水を一心に祈れは、七色の輝きの中に諸仏(薬師如来、日光・月光菩薩、十二神像、弘法大師)が現れる故とのことである。誠に美しい水ではあった。
なお、かつては三井村(御井村;舒明天皇行幸の折、御意村)と称された如く、村内には、この臼井の他、岸井、曾良田井の三つの弘法大師由来の湧水がある、という(私注;岸井、曾良田井は未確認)。
徳右衛門道標
「えひめの記憶」に「御来迎臼井水」の向かいの道端に徳右衛門道標がある。風化が激しくて読み取りにくいが、「是より横峯迄四里」と刻まれているようである」とする。「向かいの道端」の指す意味合いが分からず少々迷ったが、大師堂から旧県道に上る階段手前、生垣に囲まれて立っていた。






出張橋
小川の傍、道の右手に案内があり、「出張橋」とある。説明には「この川はお大師さん川、または"真手川"という。ここに架かっていた真手川橋を古くより出張橋と呼んでいた。
慶長六年(今から三百九十年前、1601年)、三芳村(中村東・中村西・黒本村)は大洲藩の領地であった。そのため、毎年年貢の検知・収納・運搬などで代官派遣が行われた。大洲藩としては遠隔地のため色々と不便を来していた。 寛永十一年(1634)松山二十四万石に蒲生忠知が封じられた。しかし、忠知は参勤交代の途中、急病に罹り死亡した。
忠知には後継がなく、お家は撮り潰し、領地は没収とされた。その後1年間は大洲藩領預かりとなった。大洲藩としてはこの際不便な飛び地問題を解決したく幕府に願い出た。それは松山藩と大洲藩の領地交換である。松山藩に一万三千二百八石、大洲藩に一万三千四百七十二石の領地交換であるが、幕府は検討の末判断し許可を与えた。
この年を最後に三芳村の大洲藩代官所時代の出張は終わった。その名残として出張橋の名が今に伝わっている。翌、寛永十二年(1635)伊勢桑名城主松平定行が松山十二万石の城主となった。(三芳村が天領になったのは、明和二年(1765)である)。
藤堂高虎
この地に限らず、北条の辺りにも大洲藩の飛地があった。その因は江戸初期、大洲藩は今治藩主であった藤堂高虎の預り地であったことにあるかと思う。秀吉の時代、朝鮮の役の武功に寄り宇和島七万石、更に大洲一万石を領し、関ヶ原の後、家康の時代に入ると今治城主として十二万石を加増され、宇和島には係累を城代として置いたとのこと。
このような経緯により、東予の風早郡桑村郡57箇村を有していた大洲藩と松山藩領伊予郡、浮穴郡37箇村(約1万3千石)の替地がおこなわれた、ということであろう。

日切地蔵
道の右手に酒造会社を見遣り、道を進むと大明神川の手前、道の左手に河野家第38代当主・野通宣ゆかりの寺との光明寺。
ぱっと見た目には特段通宣との関わりを示す史跡が残るわけでもないのだが、それはともあれ、その道を隔てた逆側、細い路地の先に日切誓願の日切地蔵がある。
路地を進み、如何にも庶民信仰の風情の残る大師堂にお参り。その横には一段高いところに地蔵堂。境内には鳥居のような石造りの門が立つ。その門を潜ると同じ鳥居が堂宇軒下に立ち、その奥に石仏。阿弥陀堂とも言われているようだ。傍に金比羅さまも祀られる。
寺伝によると天平13年(741)行基により開基。大同2年(807)には空海が訪れ、日切の誓願(日を限って事の成就を願うと、その願いが叶う)を立てたのが「日切」の由来。正式には日切山大性院弘福寺と称す。

大明神川
日切地蔵を離れ大明神川を渡る。大明神川は天井川として知られる。中山川やこの大明神川、その支流の関屋川などにより運ばれた土砂が堆積して形成された周桑平野は典型的な扇状地となっている。
扇状地を流れる河川は一般に暴れ川が多く、人々は洪水から護るため土手を築くことになるが、土手に挟まれた川床には砂礫が堆積し、川床が上昇し、天井川が形成されることになる。この周桑平野では大明神川の天井川化が特に著しく、ここから少し下流では予讃線が川床下を抜けている。

大明神川橋南詰の金比羅道標と道標
川を渡ると橋傍に金比羅道標と道標が並ぶ。背の高い金比羅道標には「こんぴら大門へ二十一里 天保十三年」、道標には手印とともに、「前札ヨリ 四国六十番前札所清楽寺 同六十一番札所香園寺 同六十二番札所一ノ宮」「新田西山久妙寺生木地蔵大峰寺道 明治四十亥」とある。
遍路道標は上述した六十番札所横峰寺の神仏分離帝に伴う歴史が反映されて面白い。六十番札所・横峰寺は、明治4年(1871)、神仏分離令への対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺となり、そして明治42年(1909)に横峰寺に復した。道標の建立時期である明治四十年は未だ六十番札所大峰寺と称した時期。「大峰寺道」とあるのがそのエビデンス。
明治4年(1871)から明治18年(1885)まで、六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となっていたが、明治四十年には道標に刻まれるとおり、清楽寺は六十番前札所に戻った。 六十二番札所一ノ宮とは一ノ宮の別当寺であった宝寿寺のこと。西山は古刹・西山興隆寺のことである。
金比羅道
いつだったか松山から桜三里を越えて、金比羅街道が中山川を渡る史跡 釜之口井堰へと辿ったことがある。大雑把に言って、そこから国道11号の旧道を金比羅さんに向かうのが金比羅道ではあろうが、今辿っている遍路道、昔の西條道は今治と西條を結ぶメーンルートであろうから、この道も金比羅さんに向かう金比羅道とも言うのか、それとも桜三里を越えて来た金比羅道に通じる、という意味合いなのか、現在のところ未確認である。

生木道と香園寺道の分岐点に茂兵衛道標
その先道が左右に分岐する箇所に茂兵衛道標が立つ。「四国六十番霊場 横峯山 是より百六十八*」「国分寺二里余」と刻まれる。この茂兵衛道標は「中務」ではなく「中司」と刻まれる、とある。
この道標に従い右に進むと、生木地蔵経由の生木道を進み順路で六十番札所・横峰寺へ向かう遍路道であり、左は六十一番札所・香園寺から逆打ちで横峰寺に上る香園道となる。

今回のメモはここまで。次回は生木道、そして香園寺道を辿ることにする。

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